【武田】2万5千で上洛【信玄】その46
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 22:53:31ID:ArMmJZ7P【武田】2万5千で上洛【信玄】その45
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157793068/
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
テンプレ
>>2-30ぐらい?
0067名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 19:19:26ID:dNdf6xZB0068名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 21:44:56ID:eZAQb002つーかそういう書き込み見るたびに思うんだが5年や10年で50万石の斎藤氏を滅ぼしたことって相当凄いと思う
早すぎだろ 信玄とか一生かけて80万石程度だぞ それを家督次いで20年足らずで・・
0069名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 21:58:44ID:2iEFTTye勢力拡大は織田より遥かに難しい
0070名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 22:38:34ID:sBsicL6v勢力拡大だって、信長以前に濃尾や畿内の統一支配を成し遂げたものがいないことを
考えれば、信長だからこそできたといえるものだろ?
信長の相手は分裂した弱小相手だからというのなら、信玄が相手にした信濃の豪族は?
となる。
0071名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/08(金) 08:20:23ID:u91Y0Ko0信長の美濃併合以降の西の敵対国との国力比と信玄の信濃攻略時のそれとは全く違う
信玄は信濃納めたところで東西南は同盟国で自分以上若しくは同等の石高、北も同等以上の国力
0072名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/08(金) 08:20:31ID:gVucPJbY0073名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/08(金) 11:32:55ID:AGDK0ZF7比類ない勢力だから勝手当たり前って言うのは、突っ込みどころがおかしいだろう。
0074名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 10:54:46ID:fcZvNQc5おそらく大して変わらないはずなんだよ、信玄は甲斐一国、
対して信長は尾張半分以下だが、尾張の総石高は甲斐の倍以上あるので。
だから両者の勢力拡大を比べる上では、まず信玄の信濃侵攻と、
信長の尾張統一戦を比較すべきで、それぞれに要した期間は両者ともあまり変わらない。
問題はその後で、信長はその後斉藤家を比較的短期間に併合したが、
信玄はとうとう上杉を滅ぼせなかった。この段階で両者に大きな差が出来てしまった。
この点には異論はないが、両者の地理的な条件の違いや、
義龍が若死にしたって事情も考慮しなければならないから、
安易な優劣論にはならないと思う。
0075名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 16:26:54ID:QPc27xBZ信長は散々過去スレで出たように父の遺領を丸ごと継がず、弟に分割したりしていた
それでも甲斐22万石と同等ならば、信長の動員兵力は最初から千単位も可能だったはずだ
0076名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 17:03:44ID:aLyKkFP1家督相続の時点では、信長の方が分が悪い。
独自の動員兵力は1000を切っていた。
尾張国内戦では、兵力劣勢の戦いが多いよ。
0077名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 19:59:36ID:Rm/17PiOしてない。
0078名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 20:47:00ID:fcZvNQc5確かにそうかもね、大して変わらないはずだと言ったのは早計だった。
0079名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 11:00:01ID:vQsJD2z5それでも百万石の勢力圏を作り上げたのが信玄の本当の凄さ。本質は民政家であり戦略家だから流布してる虚像と大分違うね
川中島でも不用意に兵力を分散させて危機に陥った話が本当なら、やっぱり戦術家として問題あり。もっとも相手方の謙信も戦う前に不用意に兵力を分散させて結局負けてるからどっこいどっこいだが(本当は上杉軍のほうが一千ほど数が多かったが後方に5千残したため劣勢に)
あと川中島で義信がポカしたといわれて、信玄贔屓だと後の廃嫡の正当化の理由の一つになってるが。上杉方から見ると義信は不利な状況から謙信の本陣を脅かすほど果敢に反撃した猛将と見えていた(謙信も後に述懐しているとか)
0080名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 11:46:36ID:2bV4EmdZ志賀攻めでも川中島でも信長だったら違う面を見せただろうと思う。
信長は戦闘よりも、むしろ調略を基本戦術としていた
また提携や同盟を重んじ、できるだけ無駄な戦は避けていた。
そのための徳川との同盟であり、浅井や斉藤との婚姻政策だった。
また戦争で下したとはいえ、神戸や北畠にも子供を送り込み
相手の家名を残して実質的に乗っ取る形で地盤を固めた。
もし、信長だったら早期から謙信の天才を見抜き忍耐して婚姻政策や
贈り物外交をした事は想像に難くない。
また、北信越の豪族・武将達の調略を基本戦略とし
「天下布武」か何か全武将を一つにまとめるでかいスローガンを掲げ
戦力を拡散せずに甲斐・信濃の戦力を一点集中主義で美濃に向かわせるか
関東制圧に向かわせるか軸のぶれない戦略を敷いたであろう。
0081名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 11:49:52ID:Z54yTPlJ0082名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 12:03:18ID:2bV4EmdZ凄い勢いで越中、越前、信濃、奥羽まで勢力圏が広まってても不思議じゃないはず。
0083名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 12:12:51ID:vcw0ROPfその場合は北条・今川同盟と抗争する事になるだけ、
地理的に遠い上杉との連携は難しいし、
甲斐は北条・今川に挟まれているから、
多分武田家は滅ぼされた可能性が高いと思うよ。
0084名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 12:43:00ID:LkUlvxBpそもそも対立も協調もしてなかった武田・長尾が抗争始めたのは北信濃支配圏を巡る争いが原因だし
謙信が退くにしろ信玄が譲歩するにしろ、火種は残りそうだ
0085名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 13:18:20ID:TRikGj0Qあいつらじゃ無理、北条か今川にやられるのがオチだろう。
どっちかが劣勢になったところで同盟破棄されて滅びる、たぶん武田が
0086名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 14:10:38ID:l0Y2LUzN上杉は敵にすれば季節限定で面倒だが味方にすれば季節限定でしか役に立たない。
まあ無理して謙信本陣と衝突したくないんだから越相同盟のときの武田の行動のように
適当に敵勢力に翻弄されて終りだろう。あてにならんよ軍神様は。
>>77
>>79も指摘しているけど信玄の戦略は甲斐を中心とした勢力の拡大。
継続した勢力の拡大が戦略目標なら民力=兵力の損耗を避けるのは当然で
同等の勢力と主力部隊で激突する方が浅薄な戦国大名だろう。乱戦時の戦術面に劣っても
仕方ないしそういう事態で戦いに挑まないのが慎重な信玄らしい戦いだと思うが。
信濃北進、川中島(第四次決戦は最近異論多いが)、西上野、駿河南進も幾度か失敗しても
結局武田の掌中に入っているのは事実、その間に拙速な合戦があったのも事実。
まあ氏康や信長みたいに劣勢における派手な合戦がないっていうのは裏返しに言えば
そういう事態に追い込まれない信虎期の甲斐一国の掌握、名門としての大義名分てのが大きいのだろう。
個々の戦術面に優れていたというのは近世の築いた「虚像」だろうね。
0087名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 17:11:56ID:XkZf2r13いや、信玄にも、
塩尻峠の戦い、北条領劫略、三増峠の戦い
っていう神速の機動力を見せた華々しい戦歴があるよ
0088名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 18:20:36ID:qeGIpZeP最後脱出できたからよかったものの、あの状況は全滅しててもおかしくないよ。
浅利は死んでるし、計画が甘すぎたんじゃないか?
0089名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 20:58:29ID:TRikGj0Qこれだから甲陽軍艦に毒された奴は
0090名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 22:46:20ID:vcw0ROPf駿河領有を確保したという点で非常に有益な軍事行動だったと思うけど。
0091名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 00:37:50ID:JJ83t/Ml0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/11(月) 04:59:59ID:rPGpoPmu0093名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 05:43:07ID:1zKAcDHQ何が義だよw
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/11(月) 05:48:53ID:rPGpoPmuここでは誰も義の話なんかしてないだろ。
0095名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 05:50:26ID:mD8s6isH三増峠後に北条の国力が下がった訳じゃないし、結局運がよかっただけ
0096名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 06:20:43ID:5BGL/rfL別に三増峠のあとに、駿河の北条軍が引揚げて駿河が手薄になったなんて記録はないのだが。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/11(月) 06:23:21ID:rPGpoPmu氏康がいなくても戦果は戦果。
それにその運を生かせたことも評価できる。
駿河確保の戦略的にも成功した作戦だと思う。
>>87
ただ、別に北条方が打撃を受けた様子はないので
華々しいと言えるかは争う余地があるだろうな。
普通に三方が原を上げておけば良かったのではないかな。
それと北条領劫略って何のことかよく分からないんだけど何?
0098名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 07:07:28ID:k4asoIQT1569年の10月に三増峠の戦い、
同じ年の11月に駿河に再侵攻、翌年1月にはほぼ占領って時系列で、
関係がないってことはないでしょう。
本拠地への直接攻撃と野戦での勝利により、
北条が防御構想の練り直しをしているうちに、
まんまと駿河占領という戦略目標を達成したというべきかと。
0099名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 07:37:23ID:k4asoIQTちなみに、北条氏康が死亡したのは1571年10月で、
病を得たのもその年になってからだったはず。
0100名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 12:56:19ID:mD8s6isHその後、やや持ちなおすが息子の区別すら難しい有様だった。
んで、最後に一気に重体になったのが1571年。
0101名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 13:27:43ID:mb6C4odG信玄は幸運だったな
しかし、謙信って敵に回すと厄介だが味方になると頼りにならない……
0102名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 14:58:16ID:SfTNwzlS0103名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 15:29:41ID:3PS732lB完全に占領したのは氏康死後です。富士川以降を手に入れたのは。
というか、駿河の城奪われてなかったか。三増峠の後。
0104名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 19:37:30ID:k4asoIQTそれはそうだが、少なくとも今川館は1569年の12月に落しているでしょう。
同じ年の4月には北条軍に阻まれ駿河からすごすご撤退しているのに、
9月に北条領に攻め込み、10月に小田原城包囲して帰途に三増峠の戦い、
そして11月に駿河に再出兵して12月に今川館攻略。
この流れで北条領への侵攻が陽動としての用を成していないって事はないと思うが?
その時北条家の実質的指揮を取っていたのが氏康であろうと氏政であろうと、
まともに駿河でやり合って奪えなかったので、
根拠地攻撃という陽動をして、その隙に駿河の主要部を奪取という流れに変わりはないのでは。
0105名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/12(火) 00:54:59ID:OW2HkBnFだから、北条領への侵攻の後に、駿河の北条軍に異動がなければ「陽動の役を果した」とは言えないのですよ。
その記録はあるの?という質問です。
三増峠をどうみるかにもよりますが、結果からすれば侵攻してきた武田軍を撃退した、とも言えるわけです。
その結果北条で人事異動が生じて駿河の北条軍が減ったというのならともかく。逆に十月に三増峠、十一月
駿河出兵の流れをみると、仮に北条に駿河の軍を異動するつもりがあったとしても間に合わないような。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/12(火) 01:06:02ID:OgMEadPO相模からの後詰が減るからやり易くなるということでは?
0107名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/12(火) 07:25:32ID:CohYJO84まあ、>>106さんのとおり。
直接駿河から兵力を削減しなくとも本拠地を別方向から攻めれれれば、
自然と目はそちらに向くでしょう。
しかも主力軍ではないとしても野戦で敗れたのだから、
ごく一時的なものであれ戦力や戦意の低下は避けられない、
迅速に駿河方面へ救援を向けるのは難しくなると。
逆に本拠地を攻められているのに、駿河方面への警戒態勢が全く変わらないというの変だし、
まして警戒態勢が変わらなかったとすれば、にもかかわらず数ヶ月前には撃退できた武田軍に、
今度は今川館まで落されてしまったというのもあまりにも不自然だ。
結局三増峠の戦いと、その二ヵ月後の今川館攻略が無関係ってことはないと思うよ。
0108名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/12(火) 20:20:46ID:bIRwPCJJ今川も相模侵攻の後、このタイミングで駿河侵攻をするとは思わなかったのだろう。
不意をつき調略した今川の武将の手引きもあり迅速に制圧、さしたる損害を受けずに駿河を手に入れた。
その背景には上杉家臣への調略や越中の一向宗を利用して、謙信を越後に釘付けに成功させた戦略がある。
0109名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 07:03:58ID:5MYhvrni世間で 信長>>>>信玄なんて言う奴いないよ、いたら笑われるよ
見事な兵卒の揃え方や様々な戦の仕方、外交や工作などを頻繁に利用する信玄
に信長がどうやって勝てるの??1572年の時点では鉄砲数千艇も揃えられない
んだよ、どうやって勝てるの??
信玄が上洛遅すぎた理由は上杉や北条などの警戒だったが、それだけ列強が周
りに多かったってこと、信長の周りってどんなのがいたの?ひたすら弱敵ばか
り、おまけに自らドジって信長包囲網??小競り合いで武田軍にボロボロにされ
てるよねえアハハハ!!
0110名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 07:23:38ID:aaU9/hwP0111名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 07:47:16ID:H6Kip/X2よっぽど悔しかったのか
こっちのスレでは5回連続書き込み
結局信玄と謙信どっちが最強なの?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1162723293/109-113
0112名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 19:58:18ID:ZAV8yKAEそれじゃあ、たかが2万5千で、どうやって信長を撃破できるか、論証してみろよ
0113名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 21:01:12ID:aaU9/hwP0114名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 00:19:05ID:wTUkc2W1家宝買い漁る→家臣の忠誠と能力の底上げ
騎馬Sで騎突→怖いのは謙信だけ
0115名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 00:34:13ID:uKNDIN0p0116名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 01:41:05ID:9D/lRpD1上杉を滅ぼすべきだったな。北条との不毛な戦いも無かったし、
嫡子の粛清も無かったし、徳川の台頭も無かった。
武田の対上杉の調略はかなり進んでいたから、集中戦略をとれば
あと4〜5年で上杉を滅ぼせた可能性はある。
越中は飛騨の江間氏を侵入させて5万石ばかり掠めとったし、
他の豪族にも一通り調略がかかってる。元亀三年の西上のときは
一斉に日が吹いて上杉の越中支配は壊滅状態。
上野も西側をジワジワ掠め取って、そのまま北条との同盟が健在なら
北条高広を完全に駆逐するのも可能だったろう。
越中・上野の手足をぶった切って締め上げていけば、そのうち越後でも
謙信の権力基盤が瓦解する。上杉を始末してから、天正三年ごろから
木曽路と日本海ルートから西進しても、十分に信長に対抗できたと思うね。
0117名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 13:41:31ID:tGk02a3Mやっぱり越後領有に魅力が無かったからなんだろうか?
0118名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 18:40:22ID:/C6miocr上杉家臣の内応なんて何度も何度も成功しているのに、
各局ここ一番の合戦で勝てずに終わっているでしょう。
その後続けていても同じことだったと思うよ。
信玄もそう思ったからこそ、方針を転換したのだろうし。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/14(木) 18:44:37ID:DFeoJ4oI加賀には本願寺という強力な味方もいるから戦略的価値もある。
ただ、駿河も魅力的ではあるし、より落としやすいのは駿河。
少しずつ土地を掠め取っていくようなやりかたでも
塵も積もれば山となり、やがて上杉打倒につながる。
漸進的ではあるがそれが信玄の得意な打倒戦略だと思う。
川中島を通じて、同程度の勢力である上杉に合戦で勝利し
急進的に勢力を拡大するのは困難だと踏んだんだろう。
しかしそのために北条と決裂してしまったのは痛かったなあ。
あそこで躊躇せず武田と袂を別った北条がすごいというべきか。
北条は武田とともに駿河に侵攻する手もあったのに。
まあ武田が駿河を攻めたのはそう間違いではなかったと思う。
0120名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 21:23:31ID:U7+9+0H2流れを切って申し訳ないが山梨県人としての感想。(ただし歴史認識は素人レベル)
上洛は「あの瞬間(朝倉が引き上げる前)のみ運がよければ」可能だったかもくらいかな。
ちょうど来年大河が風林火山で本がいろいろでていて読んでみているが
啄木鳥の戦法はウソ(霧中の遭遇戦?)
武田「騎馬隊」はウソ
長篠の鉄砲3000丁3段撃ちはウソ
山本勘助は実在したとしても軍師ではない
数冊買って読んだがこういうのが多いけど実際はどうなのかな。
買った本の中では洋泉社の真説・川中島合戦というのが結構面白い。
本の中でも触れているが実際に川中島合戦(4次)の詳しい記録ってほとんどないんだね。
川中島から越後の海まで直線でたった50キロ。こいつは魅力だったろうね。
0121名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 23:21:34ID:Gsf0eoDZ>武田「騎馬隊」はウソ
武田軍団は、騎兵だけで構成されていたわけじゃないが、
馬上の巧者が多かったことは確かだから、騎馬軍団の範疇に入ると思うよ
ましてや隊程度の規模なら、存在したことは間違いない
0122120
2006/12/15(金) 00:57:35ID:c6u3etE/レスどうもです。
山梨県人の自分がいうのもなんですが一応、読んだ本では
「隊」と銘打つからには騎馬武者の集団を意識させるが
当時、騎馬武者(騎馬に乗った侍)はいくらでもいた。
太向義明氏によると武田騎馬隊を打ち出す主張はいくつもあるが抽象的なものばかりで
具体的な根拠を示したものはほとんどないそうです。
一方、戦国時代、戦国大名、戦国武将を扱った書物では騎馬隊に触れているものはないそうです。
武田騎馬隊肯定論者が取り上げるのは長篠の合戦のみだそうです。
例外は川中島合戦図屏風(岩国美術館蔵)ですがこの屏風は永禄4年の合戦の状況を描いたもので
飯富昌景の部隊が描かれていますがその箇所には騎馬兵などまったくなくあるのは馬丁の付いた
空馬だけの列だけだそうです。それでは乗り手はというととっくに下馬して前方に進んで待機しているそうです。
三方ヶ原も騎馬隊で蹂躙したようなものではなく服部半蔵の覚書に当初は双方とも下馬して戦い
武田騎馬武者が出て行ったのは徳川が乱れて追撃戦にはいってからのようです。
とまあ、本の受け売りですが本では騎馬は戦闘力ではなく馬は輸送力と追撃と退却に有効だったと
いいたいようです。
後は武田家武将の名前が昔と変わっているのに驚きました。
秋山信友→秋山虎繁
高坂昌信→香坂(春日)虎綱
内藤昌豊→内藤昌秀
とか地元なのにねえ(涙)これって正式に認知されているのかな?
0123名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 07:15:14ID:BVyqqTQMそんな事言ったなら織田だって北条だって上杉だって、
みんな騎馬軍団になってしまう。
基本的に騎兵のみの編成を持たずに騎馬軍団の名乗るのは詐称ってものだよ。
0124名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 08:05:58ID:VpedR7as0125名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 08:19:39ID:p0BN+U42謙信の財力が戦略に役立った事例なんてあるの?誰かをカネで買収したとか
0126名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 09:27:40ID:pmNN+od5財力のお陰かもね。
0127名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 10:55:42ID:dowz1IBtただ、騎馬隊がいないっぽいってだけでしょ。
なんらかの根拠はあったんだと思うよ。
てか、過去スレで解決してなかったっけ?
0128名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 11:00:16ID:p0BN+U42甲陽軍鑑でさえ騎馬突撃を否定して下馬戦闘するってかかれているぞとか
否定論ばっかじゃなかったか?
0129名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 13:06:01ID:NXSm1suf騎馬突撃が可能かどうかについても、サラブレットを使った実験では話にならないし。
暴れ馬だったから、突撃は無理、というのはわからないでもないが
それほどの暴れ馬なら、鎧武者を乗せるだけの馬力はあるし
兵器としてはかなりの脅威になるので、無いとは言い切れない。
追撃の時に、騎馬武者が自然と突出して
あたかも騎馬突撃のように見えた可能性はある。
追われる側としては、これだけでも相当な恐怖だろう。
>本では騎馬は戦闘力ではなく馬は輸送力と追撃と退却に有効だったと
この辺がいいところだとは思うけどね。
特に、山地は部隊の移動が遅いのが普通なのに、それなりのスピードで来られたら
どれほど恐怖を感じるか。
移動速度の遅いはずの小荷駄隊が速くなるだけでも、とんでもない脅威になる。
あくまで、黒澤明的な騎馬軍団が否定されたに過ぎないんだよ。
0130名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 13:43:40ID:VpedR7as〜の可能性はある。
某新聞社の社説みたいだな
暴れ馬ならなおさら槍持った足軽の中に突っ込ませて、暴れられたら落馬して首とられるぞ
追撃にしても何十キロもある鎧着た武者の乗ったポニーがマトモなスピード出るわけ無い
ちゃんと整備されてない石ころだらけの道を全力疾走でもしようもんならポキポキ馬の脚が折れる
しかも騎馬武者ともなれば、その首討ち取れば相当のご褒美がでるぐらいの身分のもの
雑兵に狙い撃ちされる
それから物資輸送隊の速度が上がってもそれ自体に脅威は無い
それに伴って軍全体の速度があがることに意味があるわけで、戦場ではもはや輸送部隊速度うpの恩恵はもうない
そして荷駄部隊が騎馬軍団とやらの任務なら「武田騎馬軍団」じゃなくて「武田輸送軍団」だな
0131名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 13:54:11ID:jbcXKaBHいわゆる「北進」か「南進」かなんて議論はやっぱり信玄の限界の一部になってしまうんだよな。
まず信玄中期までの戦略がいわゆる「北進」であったことは否定できないだろう。
一、信虎から家督相続時点で甲斐は完全支配(河内・郡内も服属)。
二、諏訪盆地、佐久盆地への進出は信虎時代から始まっておりかつ甲府との距離が近く勢力も弱い
三、諏訪、佐久を拠点とすれば松本、伊那、上田、さらに善光寺平への進出も容易。これらは
甲府からの実質的な距離も近い。いわば甲府を中心とした同心円的支配。
四、木曾は松本の、西上野は佐久盆地の重要な後背地。まあ西上野攻略は手間取った上に
北条の北武蔵進出に対する上杉牽制の役目も大きかったから単なる「北進」とは言えないかも知れんが。
五、そもそも「北進」の目標は日本海にあったのか?現実に謙信が、またその父や関東管領顕定がそうで
あったように越後は「ゆるやかな統一と分裂」にあり支配困難な大国。更に冬季は国境が封鎖されるために
迅速な軍事行動が不可能で「甲府を拠点とする限り」支配は不可能である。
六、いわゆる「三国同盟」のうち特に義元−信虎・信玄ラインは緊密な関係。一方、信虎−氏綱ラインは
信虎と扇谷上杉との関係から険悪。もっとも信玄−氏康時代からは好転してかなり相互に戦略的に
協力している(西上野攻略、越中一揆煽動、松山合戦など。まあ利害が一致していたわけだが)。
七、信玄の領国支配において「甲府を拠点とする」限り駿河は強力かつ野心的でなく友好的な同盟者が
支配していることが望ましい。それがなければ甲斐本国や伊那盆地の国境は不安である。
八、ということで三河に脅かされ家臣団を掌握しきれていなく、混乱した駿河を放置することは危険である。
氏康−氏真ラインも氏綱−義元ラインが簡単に破綻したように駿相関係が安泰とは言えない。特に河東は
氏康時代に喪失した「小田原を拠点とした」北条にとっての重要な後背地。
というわけで「北進」から「南進」への戦略転換は前者の行き詰まりではなく甲斐や分国の安全保障の側面が
大きいと思うが如何?偶然「北進」が信越国境で滞った時期と駿河侵攻時期が重なっただけで実際駿河領有は
東に北条という大勢力を抱える以上、氏真がまともでない形で相続したのだから止むを得ないことだと思う。
北条に野心なしか?と言われれば氏直を庇護した氏真の養子にしたりと結構えげつないことしているからなあ。
その意味では氏真との侵攻前の敵対や駿河侵攻と北条手切れも仕方ない出来事だった。
0132名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 14:56:21ID:EgzF2qbK数百人規模の備ええに十数人の騎馬隊で突撃かける戦の話が
つたわって、万単位の軍になったときもその印象が残ってたって
話じゃないの?
0133名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 17:19:26ID:AVGFougA>〜の可能性はある。
>某新聞社の社説みたいだな
そっちはどうなんだ?
否定できる絶対的な根拠があるのか?
根拠が無いのに断定してるだけじゃないか。
0134名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 17:35:37ID:AVGFougA部隊の中で移動が遅いは、小荷駄隊ではないか?
山岳部において、小荷駄隊が部隊全体のスピードを落としていることは無いのか?
小荷駄だけはぐれさせるわけにはいかないんだから。
部隊全体の機動力が上がれば、それだけ布陣するスピードが上がる。
まだ布陣していまい、と思うような時に
すでに敵が布陣していたらどうだ?
騎馬武者達がすでに陣取っていたらどうだ?
>暴れ馬ならなおさら槍持った足軽の中に突っ込ませて、暴れられたら落馬して首とられるぞ
そんなことが本当にできると思うか?
武者を乗せた超重量の物体が突撃してきて、そんなことができるのか?
恐怖のあまりまともに戦う事はできないんじゃないのか?逃げないで戦うほどの士気があるのか?
まして、追撃戦に使うのだからやられる側のその士気の低さは明らかだと思うが。
あと、これも参考になるかも
ttp://blog.livedoor.jp/taka0219j/archives/50727297.html
しかも、日本の馬は欧州のと違って短足だったので、重さに強かった可能性は十分にある。
0135名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 18:06:52ID:BVyqqTQM>>128とかは?
というか、>>129こそが典型的な騎馬軍団否定論なんだけどね。
普通は当時の軍隊の騎馬の運用はそういう状況だから、
とても騎馬軍団とは言えない、って結論になる。
ところが、発想の逆転というか何というか、
なぜかそういう状況でも「騎馬軍団」といえるって話になってしまっているが。
0136名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 18:24:48ID:AVGFougA129は128に対する答えでもある。
「騎馬突撃」をあまり重視しすぎるのは問題だと思ってる。
でも、それは世界規模で考えて初めて
敵陣に「騎馬突撃」しないとダメって話になりうるのであって、
当時の日本人にとっては、「騎馬突撃」が無くても「騎馬軍団」ではない、と思わないはず。
要は、当時の人間が武田軍団を騎馬に強い軍団として特別視したかどうかが大切で、
だから「恐怖」「脅威」という言葉を使っている。
つまり、当時の日本において、
最も騎馬の恐ろしい軍団であれば、
それは日本にとって間違いなく「騎馬軍団」なんだ。
日本の「色黒」は、アフリカでは全然「色黒」じゃないでしょ?
そういうこと。
0137名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 18:29:33ID:mTF+YJBU騎馬部隊程度ならイメージ的に合いそうだけど
でもそれは武田に限らず他の大名にも存在していることだからな
0138名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 18:30:27ID:AVGFougA現在、白米は別にご馳走でもないよね?
でも、戦国時代に白米は間違いなくご馳走だったよね。
でも、現在白米がご馳走で無いからといって
戦国時代にはやっぱり白米はご馳走だった。
当時の人間、その地域の人間にとってどうだったのかが、一番大事でしょ。
0139名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 18:36:21ID:AVGFougA>でもそれは武田に限らず他の大名にも存在していることだからな
だから、他の大名とは違う「騎馬軍団」と言わしめる何かがあるんじゃないかと。
>騎馬軍団というから違和感を感じる
当時、武田と戦った人間は
ヨーロッパもモンゴルも知らないわけだから。同じ視点で見ないといけない。
0140名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 19:06:28ID:VpedR7asアホクサ
0141名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 19:08:27ID:BVyqqTQMいや、ちょっと待ってくれ。
あなた根本的に間違えてはいませんか?
当時の人は誰も「武田騎馬軍団」なんて言っていませんよ?
「武田騎馬軍団」というのは、現代の人間が、
それこそモンゴル軍やヨーロッパの騎兵部隊のような騎馬軍団を思い浮かべて、
戦国時代の武田家にもそういうものがあったと思ってしまい、そういう呼び方をしただけ。
しかし、実際にはそのような軍団は存在しなかった。
だから「騎馬軍団はなかった」という話になる。
0142名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 19:15:12ID:BVyqqTQM現代人がそのようなものが武田家にあったと誤解して、現代においてそう名付けてしまっただけ。
確かに当時でも東国の武士は騎馬が巧みだ位のイメージはあっただろうが、
それは武田も北条も上杉も皆同じ。
武田軍だけを特別扱いなんて誰もしていない。
0143名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 19:16:00ID:AVGFougAttp://blogs.dion.ne.jp/eternalbeauty/archives/3471156.html
0144名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 19:21:51ID:AVGFougAなぜ、武田だけ誤解されるの?
そういう話なら、武田以外にも言われるはず。
0145名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 19:22:02ID:BVyqqTQMいや、騎馬軍団なんて信長公記どこにも書いてないし・・・・、
確かに「馬上巧者」とは書いてあるがそれは関東勢の小幡氏に対しての言葉、
正に関東勢は騎馬が巧みだというイメージがあったことを示す例にはなるが、
別に武田軍全体のことでも、武田軍だけ特別にそうだというわけでもないし、
まして騎馬軍団だとも言ってはいない。
0146名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 19:23:12ID:BVyqqTQM武田勢に完膚なきまでにやられてしまった神君家康公の手前、
江戸時代は武田最強ってことにしておかないといけなかったからだよ。
0147名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 19:28:51ID:AVGFougAそう。
このスレを張って、とりあえず篭城する。
肯定派の人間のだれか、後詰出してくれ。
0148OPS
2006/12/15(金) 20:02:26ID:FGAE4kNR武田信玄晩年の西上作戦においてもし信玄に三年の余命があれば天下が取れたか
京を制圧できたか。
信長はどんな行動に出たか。
家康は攻め滅ぼされたか。
みなさんに一つ意見が聞きたいです。
0149名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 20:22:27ID:fRXG78Tr0150名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 21:01:51ID:ENgW5W5c武田の北進が滞った時期をいつごろだと看做してますか?第五回川中島から
第一次駿河侵攻までだって五年は間があいているのだが。
桶狭間で氏真がトップにたってからだって八年は経っている。
偶然、とみるには時間があきすぎていると思われるが?
0151120
2006/12/15(金) 21:27:49ID:c6u3etE/>>148
県人の自分個人の考えでは「運」と「包囲網」があれば上洛は可能だった。しかしその後はもっと大変だったでしょうね。
自分自身はあれが上洛作戦だったかわかりません。ただ上洛するという宣伝をしなければ
包囲網はできなかっただろうし戦いながら運がよければ行けるところまではいくつもりだったのではないでしょうか?
朝倉が引き上げた時点で上洛はほとんど諦めたと思います。
騎馬隊については言いだしっぺなので読んだ本では<以下、引用します>
ようは騎馬隊でも騎馬軍団でも呼び方はどうでもよく組織化されていたかいないかを問うているみたいですね。
たとえ騎馬突撃があったとしてもそれが騎馬隊組織化の存否となんの関係もない。
乗馬の馬格で当時は120〜140センチ程度でこんな小さな馬では重い鎧武者をのせたらよろよろ歩きであったというのが
加茂儀一氏の意見だった。これはいささか極論かもしれないが実験結果や当時は蹄鉄の技術もなかった。
これでは怒涛のような突進など期待できない。
おまけに馬上の働きというのは意外に不自由で槍や薙刀などは使いにくかった。
これは安芸武田流の宗家を継いで流鏑馬(やぶさめ)指導などを行っていた金子有りん氏(りんの漢字が出てこない)が詳しく説明している。
こういう条件下では武田家に限らず騎馬主体の戦法など発達しようがない。
<というのが記載されていました>
ただ武田館址から出土した馬骨の写真も載っていて小柄だが太い骨格を持っていてかなりの重量物を背負って
斜面を登り下りが出来たのが推測されるとも書いてあります。
著者は、すずきまさや という歴史研究家です。
どうも長文すいませんでした。
0152名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 21:33:11ID:c6u3etE/>>151で以下の理由から
馬は輸送力や追撃、退却時に威力を発揮したと結論づけていますね。
0153名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 21:47:50ID:+7Ux1EfO馬防柵を設置。騎馬武者の突撃、威力など馬鹿に出来ないんではと思うんだが。
0154名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 22:35:13ID:BVyqqTQMそれもまた極論かと。
騎馬軍団や騎馬隊というほどの戦闘部隊はなくとも、
少なくとも「馬上巧者」な武者がいて戦力になっていたのもほぼ間違いない。
大体サラブレッドあたりと見比べるから、極めて小さいと思ってしまうのであって、
ユーラシアを席巻したモンゴル軍の馬だって大きさは日本の在来馬と大して変わらない。
0155名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 22:36:52ID:Mzub4yurま た そ の 議 論 か
0156名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/16(土) 00:16:43ID:Q9fVV/L8>騎馬軍団や騎馬隊というほどの戦闘部隊はなくとも
これで結論が出ているでしょう。武田に騎馬隊やら騎馬軍団なんていう、軍事兵科でいう
騎兵部隊は存在しない。そもそも十六世紀の日本の軍制で騎兵隊を編成するなんて不可能。
>少なくとも「馬上巧者」な武者がいて戦力になっていたのもほぼ間違いない
こちらについても、誰も否定してませんよ。しかし、そういった「馬上巧者な武者」がどれ
ほどいても、それは騎馬隊、騎馬軍団なんてものにはならない。
0157名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/16(土) 06:19:17ID:pg8yfKHvそんなのどうでもいいというのが第三者の意見です。
154も156もイメージしてる部隊は一緒でしょう?
ならそれでいいじゃないかと。
騎馬隊という言葉を近代的な意味に限定する必要はない。
そもそも、誰が騎馬隊の意味をそんな狭く限定したんだ?
北斗七星は星座じゃないそうですよ。
でもあれは星座と言っていいと思う。
誰かが勝手に決めた「星座」の定義なんて知ったこっちゃない。
0158名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/16(土) 06:48:37ID:ED5vbE6U信玄の過大評価につながっている
長い江戸時代で講談などで褒めちぎられ
様々な伝説が生まれたのだろう
武田騎馬軍団のような・・・
0159名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/16(土) 09:52:08ID:uHl8erzVそれはよく承知していますよ。
ただ>>151で紹介されている論を読むと、
あたかも騎馬が戦力になっていなかったと言っているかのような印象だったので、
もしそうなら、それは極論だろうと。
>>157
昨日も書き込んだ事だけど、
少なくとも「騎馬軍団」って言い方は現代人が現代人の感覚で、
そういうものが武田軍にあったと誤って思い込んでしまい名づけたもの。
しかし、実際にはそういうものは存在しなかったのだから、
「武田騎馬軍団」はなかったと結論するしかない。
0160篭城者
2006/12/16(土) 10:20:04ID:tQWlx+xY当時の文献で、武田家だけを特別視したものがない事はわかりました。
その事は、こちらの勘違いでした。すいません。
どうやら、明治政府の陸軍が色々と捏造を行ったようです。
しかし、
騎馬軍団って本当に現代の尺度で考えないといけないんでしょうか。
日本国内で最も騎馬に優れた軍団は
日本において「騎馬軍団」ではないんでしょうか。
日本の野球界において、150kmを投げるピッチャーは、メジャーリーグのレベルを知った現在では、
剛速球投手と呼んではいけないんでしょうか。
0161ツクリテさん ◆nb9SteZRZA
2006/12/16(土) 10:26:58ID:tQWlx+xY織田軍を最強兵力を誇る軍団だ!
と言ったら、
今の兵器の前では何の力もないから
最強兵力とは呼べない
当時の火縄銃を指して
今の兵器に比べたらたいしたことがないから
兵器とは呼べない
と言われているような違和感を覚えます。
0162名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/16(土) 10:45:33ID:uHl8erzVだから、別に武田軍が日本国内で最も騎馬に優れた軍団って訳でもないんだって。
一段落目で自分が言ったことをもう忘れてるの?
>>161
その前に、現代的な概念でしかない騎馬軍団なんて呼び方で、
戦国時代の軍隊を語るほうがおかしいと気がつきませんか?
0163篭城者
2006/12/16(土) 11:09:52ID:tQWlx+xYですから、西国の人間が東国の誰に当たっても
「騎馬軍団」だ!
と思うでしょう。
たまたまその代名詞が武田だったというだけです。
>現代的な概念でしかない騎馬軍団なんて呼び方
言葉は時代によって定義が変わります。呼び方に恒久的に絶対的な定義なんてありません。
0164篭城者
2006/12/16(土) 11:13:51ID:tQWlx+xY平野で当たる以上の衝撃があると思います。
0165名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/16(土) 11:41:35ID:uHl8erzVそもそも騎馬軍団なんて言葉当時はなかったと、何度言えば分かるのか・・・
あなたのやっていることは自分の都合で変えているだけ。
0166名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/16(土) 11:59:43ID:OJO7axwQ格別武田氏において騎馬武者の存在比率が高かったわけでもなく、むしろ北条やらのほうが多い。
にもかかわらず「騎馬軍団」といわれるのは武田氏のみ。
これだけそろえば創られたものと考えるのが普通だと思うが。
ID:tQWlx+xYのいってる事は、当時の概念・人々の意識に「騎馬軍団」がいたのだから、存在するというものなら、
当時の人がいると信じて裁判にかけて殺された魔女も存在したということになるぞ。
一九九〇年代の人々からすればノストラダムスの地球滅亡も真実だったということになるぞ。
人前でこんなこといってたら黄色い救急車呼ばれるぞ。
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