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【武田】2万5千で上洛【信玄】その46

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/20(月) 22:53:31ID:ArMmJZ7P
前スレ
【武田】2万5千で上洛【信玄】その45
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157793068/

ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。

テンプレ
>>2-30ぐらい?
0038名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/27(月) 02:32:44ID:6n9w2IB/
戦国関連の書籍でも、武田は信玄死なずとも簡単に上洛できる状況ではないと言われてるしね
0039名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/27(月) 04:49:16ID:B0/kdvlu
>>37
マジレスしていい?

殲滅=損耗10割=皆殺し
0040名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/27(月) 10:38:02ID:s5uuSOzj
マジレスって言うか、あげ足取りだな。
0041名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/27(月) 12:55:07ID:pfOOJrvY
4月某日
尾張の平野にて、武田軍2万5千vs織田軍3万で激突
訓練度:武田95p、織田95p、、ほぼ互角
士気:武田80p、織田98p、、、祖国防衛の織田が上
疲労度:武田70p、織田30p
装備(鉄砲):武田300p、織田3000p
民衆の協力度:武田10p、織田100p
地の利、城の利用など:武田10p、織田80p
主将の能力:武田80p、織田95p
部将の能力:武田60p、織田80p
激闘5時間
武田軍1万5千で敗走
織田軍2万5千で追撃
三河某所にて、徳川軍5千待ち伏せ
激闘3時間
武田軍5千で敗走
追撃する織徳軍2万5千
4月某日
武田軍300、甲府に帰還
と、思ったら、上杉軍1万が待っていた・・・
0042名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/27(月) 15:08:45ID:tZf7H3O7
揚げ足取りというか言葉遊びというか
軍としては敵中で雲散霧消してしまえば殲滅と大差ないし
0043名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/27(月) 17:32:17ID:B0/kdvlu
日本語としても、軍事用語としても誤ってるのを指摘しただけ
多分、誰かに指摘されるまで使い続けるだろうからな
真面目に書いたレスであればある程説得力に欠ける



適当な書き捨てレスだったらヌルーしたが
0044名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/27(月) 21:49:40ID:0lTTMIuF
軍事用語だと
部隊の2割の死亡か死傷で壊滅じゃなかった?
0045名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/27(月) 23:05:17ID:JCjVfeWn
すると歴史小説なんかで使われる殲滅戦もダウトなのか
言葉狩りジャマイカ
0046名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/28(火) 00:14:41ID:Hgzxiksk
単に43の殲滅の使い方が日本語としても軍事用語としても
間違ってるだけでしょ
それよりもう少し建設的な話をしよう
といっても話題が尽きているかもしれんが
0047名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/28(火) 01:02:12ID:05r2+0Sd
>>34
>4月6日

信玄が野田城を包囲しているころだと思うけど、
家康は、
>近江国横山周辺への出陣
するつもりだったのかなー?

信長は義昭の挙兵に対応するために上洛したみたいだけど、
尾張方面への危機感、ないみたいだねー。
0048名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/29(水) 12:28:11ID:D8L4Jqr0
>>47
たしかに、信長と家康は
遠江・三河国境の武田信玄はそのままにして、
家康が近江へ出陣するかどうかを相談しているようですね。
信長の信玄への危機感の薄さと、
家康の信長への気を使ってるのが感じれます。
0049名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/30(木) 01:59:40ID:BUUlZeBi
前年飛騨に参陣した遠山から信玄の病状を聞いて死んだと確信してたとか?
0050名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/30(木) 05:25:34ID:EwsueILj
そう簡単に徳川領を侵食できないとふんだんじゃまいか。
実際信玄の侵攻速度は遅かったわけだし。
0051名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/30(木) 14:36:57ID:Sh1Reb9s
信玄が浅井なんかに今度岐阜に出陣する積りだよ
って言ってるのと同様
家康の近江出陣も社交辞令みたいなものじゃないか
0052名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/30(木) 20:27:24ID:B1AKwq/o
>>48
ていうか信長は言われるほど危機感持ってなかったらしい。
来たら困るなぁ程度だった。
むしろ信玄の方が直接対決して負けたらどうしようと上洛を渋っていた感がある。
0053名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/30(木) 22:40:51ID:beDTTVQe
>>52
信長がそれほど危機的状況じゃないというのは理解できるし
テンプレ見てもそのように思えるけど

>ていうか信長は言われるほど危機感持ってなかったらしい。
>来たら困るなぁ程度だった。
>むしろ信玄の方が直接対決して負けたらどうしようと上洛を渋っていた感がある。
これに関しては何かソースとか根拠はあるの?
0054名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/30(木) 23:07:53ID:ByHGmJd7
想像だろう。しかし両者の国力差を考えると仮にそんな感想を持ってたとしても納得できる範囲ではある
0055名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/30(木) 23:12:14ID:beDTTVQe
>>47
信濃美濃三河国境付近から信濃に入ったころだと思う。
野田城は2月に落としていると思う。

>>54
やっぱしそうか?
0056名無しさん@お腹いっぱい。2006/12/01(金) 01:55:44ID:j2bO43gf
信長包囲網全勢力合わせてやっとこさ互角に戦える状態だからな。
それぞれの勢力は「信長なんかとむやみに戦って消耗したら背後からやられる可能性が高い、
それなら牽制だけして戦いは本願寺とかに任せるのが得策」
と考えちゃうのも無理はない
0057名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/02(土) 01:53:50ID:rBKeXq+Y
>>55
そうだね。勘違いしてた。
信玄は2月頃から撤退を始めている。
そして、もちろん信長はそれを知っていた。
0058名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/02(土) 10:09:46ID:j1NDmXj9
まぁ、反信長側も呑気といえば呑気
本願寺は越中の一揆を助けるために信濃へ兵を出してくれって西進中の信玄にお願いしてるし
越中の一揆は謙信への餌のために信玄が扇動した捨て石というのが通説なんだけどね
当時の情報伝達速度からくるタイムラグも考慮にいれないといけないかな?
0059名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/02(土) 23:53:43ID:5Xumw7Tb
信長の勢力拡大のスピードは凄まじかったからこのまま放置しておけば余計に立場が不利になる。
信玄としては玉砕覚悟で織田とぶつかるつもりだったのでは。
0060名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/03(日) 11:44:15ID:7Xa7tmZX
バカのループは恐い
0061名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/03(日) 12:21:47ID:5B8EXYIB
ループが怖いのにこのスレに来るなんて、
怖いもの見たさってやつ?
0062名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/03(日) 23:35:28ID:0pBoOb2x
中公新書の「信玄の戦略」で原昌胤が虎胤の子ということになってるんだが、そういう説があるの?
0063名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/04(月) 22:15:58ID:XcjlrEOq
>>58
まあ信玄にすれば上洛という大義名分をもった南下政策でもあるわけで。
畿内政権ってのは案外脆いんだよな、四方に敵を抱える恐れが大きいから。
実は信玄上洛、信長との主力決戦なんて信玄自身考えていたかどうか怪しい。
今回の作戦は謙信が動けない状態で短期に東海地方に今後の勢力拡大の橋頭堡を
築きたかっただけかもしれない。東濃や尾張国境を武田が実効支配すれば
信長も主力を率いた各個撃破が史実どおりのスピードでは進まないだろうからねえ。
問題は案外公方―朝廷ラインかな。義昭の行動だけは首尾一貫していないから読めん。
0064名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/06(水) 08:35:32ID:f3owucSt
この時期の信長の本貫地は尾張美濃寄りだから畿内政権とはいえないだろう
ってか信長は後年の安土移動の際でさえ距離をとっていたよ。大坂城築城と本拠地移転が信長の案を秀吉が使ったんだというのは俗説だし
0065名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/07(木) 14:31:52ID:4Q+CK/+1
畿内政権ってのは確かに言い過ぎかもしれなかったな。
であるなら濃尾に本貫地を置く信長政権にとってやはり東濃や尾張国境に
信玄が実効支配できる橋頭堡を築かれれば厄介にならんかね。
実際武田が信玄没後長篠合戦まで徳川と三河戦線の一進一退を繰り返したから
まあ信長政権にとっては大した影響はなく反信長勢力を各個撃破できたけど
それでも75年までは東濃に築かれた武田勢は木曽路の最前線として機能していたわけでしょう。
三河にも同じようにより強力な前線を構築できるまで信玄が生きていたら信長の武田攻略は
長引いたと思うがなあ。
さすがに信長が各個撃破のペースが落ちこそすれ失敗したとは思えないし
同時に信玄があのまま上洛コースを邁進して濃尾平野で主力決戦したとも思えない。
信玄の「上洛」の目的は後背の安全をようやく確保できた上での織田・徳川領侵略でしょう、というのが
自分の考え。

後背の安全というなら謙信を越中や越後揚北の撹乱で牽制したのは信玄いつもの策だが
後北条の外交や対武田戦線があそこまで機能しなかったのは不可思議だわ。
まあその帰結が氏政の再同盟だろうけど北条の武蔵・相模・駿東の防衛ラインってあそこまで
脆いもんかね。まあ上杉相手の季節限定戦争とは勝手が違うんだろうけど余りに…
国境の小豪族を篭絡して懐柔することと大勢力同士の激突との違いといえばその通りだが。
0066名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/07(木) 15:55:47ID:PhEtHozg
信長は5年ほどかけて地道に斎藤氏を撃破した
時間を浪費したように見えてこれが信長の短期間の雄飛の原動力となった。美濃衆の戦力もさることながら、本拠地周辺に機動的な兵力を持った敵対大名が消滅したから
信玄は何度も謙信の部下を離反させてるんだから、信長のようにしぶとく越後を屈服させるための攻勢を続ければ、障害上杉の動静に戦力を注がなきゃならない非効率な戦略から脱却できたのでは?
0067名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/07(木) 19:19:26ID:dNdf6xZB
できたならやってるだろ
0068名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/07(木) 21:44:56ID:eZAQb002
>>66
つーかそういう書き込み見るたびに思うんだが5年や10年で50万石の斎藤氏を滅ぼしたことって相当凄いと思う
早すぎだろ 信玄とか一生かけて80万石程度だぞ それを家督次いで20年足らずで・・
0069名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/07(木) 21:58:44ID:2iEFTTye
信玄の場合信濃併呑したところで有力勢力のひとつにしかならないからな
勢力拡大は織田より遥かに難しい
0070名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/07(木) 22:38:34ID:sBsicL6v
信長だって美濃併呑した時点では有力勢力のひとつだ。
勢力拡大だって、信長以前に濃尾や畿内の統一支配を成し遂げたものがいないことを
考えれば、信長だからこそできたといえるものだろ?
信長の相手は分裂した弱小相手だからというのなら、信玄が相手にした信濃の豪族は?
となる。
0071名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/08(金) 08:20:23ID:u91Y0Ko0
美濃併合時に百万石以上を領する大名が全国でもどれだけいたというのか
信長の美濃併合以降の西の敵対国との国力比と信玄の信濃攻略時のそれとは全く違う
信玄は信濃納めたところで東西南は同盟国で自分以上若しくは同等の石高、北も同等以上の国力
0072名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/08(金) 08:20:31ID:gVucPJbY
謀反起こしまくりの家臣団に悩まされ、一揆衆の撃破すらできなかった謙信程度に対処できなかったのが信玄の器の限界
0073名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/08(金) 11:32:55ID:AGDK0ZF7
半国の守護代の家老の地位から比類ない勢力まで成長したことが凄いのに、
比類ない勢力だから勝手当たり前って言うのは、突っ込みどころがおかしいだろう。
0074名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/09(土) 10:54:46ID:fcZvNQc5
信長と信玄が親の後を継いだ段階で石高を比べれば、
おそらく大して変わらないはずなんだよ、信玄は甲斐一国、
対して信長は尾張半分以下だが、尾張の総石高は甲斐の倍以上あるので。

だから両者の勢力拡大を比べる上では、まず信玄の信濃侵攻と、
信長の尾張統一戦を比較すべきで、それぞれに要した期間は両者ともあまり変わらない。
問題はその後で、信長はその後斉藤家を比較的短期間に併合したが、
信玄はとうとう上杉を滅ぼせなかった。この段階で両者に大きな差が出来てしまった。

この点には異論はないが、両者の地理的な条件の違いや、
義龍が若死にしたって事情も考慮しなければならないから、
安易な優劣論にはならないと思う。
0075名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/09(土) 16:26:54ID:QPc27xBZ
大してかわらないという根拠がまず曖昧
信長は散々過去スレで出たように父の遺領を丸ごと継がず、弟に分割したりしていた
それでも甲斐22万石と同等ならば、信長の動員兵力は最初から千単位も可能だったはずだ
0076名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/09(土) 17:03:44ID:aLyKkFP1
>>74
家督相続の時点では、信長の方が分が悪い。
独自の動員兵力は1000を切っていた。
尾張国内戦では、兵力劣勢の戦いが多いよ。
0077名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/09(土) 19:59:36ID:Rm/17PiO
大きな要因は信玄の戦闘の下手さにある、同等の勢力相手には負けるか引き分けるかしか
してない。
0078名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/09(土) 20:47:00ID:fcZvNQc5
>>75-76
確かにそうかもね、大して変わらないはずだと言ったのは早計だった。
0079名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 11:00:01ID:vQsJD2z5
>>77
それでも百万石の勢力圏を作り上げたのが信玄の本当の凄さ。本質は民政家であり戦略家だから流布してる虚像と大分違うね
川中島でも不用意に兵力を分散させて危機に陥った話が本当なら、やっぱり戦術家として問題あり。もっとも相手方の謙信も戦う前に不用意に兵力を分散させて結局負けてるからどっこいどっこいだが(本当は上杉軍のほうが一千ほど数が多かったが後方に5千残したため劣勢に)
あと川中島で義信がポカしたといわれて、信玄贔屓だと後の廃嫡の正当化の理由の一つになってるが。上杉方から見ると義信は不利な状況から謙信の本陣を脅かすほど果敢に反撃した猛将と見えていた(謙信も後に述懐しているとか)
0080名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 11:46:36ID:2bV4EmdZ
若い頃の信玄は信長より短気だったのではなかろうか?
志賀攻めでも川中島でも信長だったら違う面を見せただろうと思う。
信長は戦闘よりも、むしろ調略を基本戦術としていた
また提携や同盟を重んじ、できるだけ無駄な戦は避けていた。
そのための徳川との同盟であり、浅井や斉藤との婚姻政策だった。
また戦争で下したとはいえ、神戸や北畠にも子供を送り込み
相手の家名を残して実質的に乗っ取る形で地盤を固めた。
もし、信長だったら早期から謙信の天才を見抜き忍耐して婚姻政策や
贈り物外交をした事は想像に難くない。
また、北信越の豪族・武将達の調略を基本戦略とし
「天下布武」か何か全武将を一つにまとめるでかいスローガンを掲げ
戦力を拡散せずに甲斐・信濃の戦力を一点集中主義で美濃に向かわせるか
関東制圧に向かわせるか軸のぶれない戦略を敷いたであろう。
0081名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 11:49:52ID:Z54yTPlJ
てきとうに読んだだけだけど二束三文の小説にでてきそうな発想だな
0082名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 12:03:18ID:2bV4EmdZ
信長-家康同盟と比べて、信玄-謙信同盟が出来てれば前者の比じゃない。
凄い勢いで越中、越前、信濃、奥羽まで勢力圏が広まってても不思議じゃないはず。
0083名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 12:12:51ID:vcw0ROPf
>>82
その場合は北条・今川同盟と抗争する事になるだけ、
地理的に遠い上杉との連携は難しいし、
甲斐は北条・今川に挟まれているから、
多分武田家は滅ぼされた可能性が高いと思うよ。
0084名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 12:43:00ID:LkUlvxBp
信玄・謙信同盟成立となると、謙信を頼った信濃豪族達が完全に邪魔者になるな
そもそも対立も協調もしてなかった武田・長尾が抗争始めたのは北信濃支配圏を巡る争いが原因だし
謙信が退くにしろ信玄が譲歩するにしろ、火種は残りそうだ
0085名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 13:18:20ID:TRikGj0Q
>>82
あいつらじゃ無理、北条か今川にやられるのがオチだろう。
どっちかが劣勢になったところで同盟破棄されて滅びる、たぶん武田が
0086名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 14:10:38ID:l0Y2LUzN
>>82
上杉は敵にすれば季節限定で面倒だが味方にすれば季節限定でしか役に立たない。
まあ無理して謙信本陣と衝突したくないんだから越相同盟のときの武田の行動のように
適当に敵勢力に翻弄されて終りだろう。あてにならんよ軍神様は。
>>77
>>79も指摘しているけど信玄の戦略は甲斐を中心とした勢力の拡大。
継続した勢力の拡大が戦略目標なら民力=兵力の損耗を避けるのは当然で
同等の勢力と主力部隊で激突する方が浅薄な戦国大名だろう。乱戦時の戦術面に劣っても
仕方ないしそういう事態で戦いに挑まないのが慎重な信玄らしい戦いだと思うが。
信濃北進、川中島(第四次決戦は最近異論多いが)、西上野、駿河南進も幾度か失敗しても
結局武田の掌中に入っているのは事実、その間に拙速な合戦があったのも事実。
まあ氏康や信長みたいに劣勢における派手な合戦がないっていうのは裏返しに言えば
そういう事態に追い込まれない信虎期の甲斐一国の掌握、名門としての大義名分てのが大きいのだろう。
個々の戦術面に優れていたというのは近世の築いた「虚像」だろうね。
0087名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 17:11:56ID:XkZf2r13
>>86
いや、信玄にも、
塩尻峠の戦い、北条領劫略、三増峠の戦い
っていう神速の機動力を見せた華々しい戦歴があるよ
0088名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 18:20:36ID:qeGIpZeP
でも三増峠はかなり危なかったんじゃないの?
最後脱出できたからよかったものの、あの状況は全滅しててもおかしくないよ。
浅利は死んでるし、計画が甘すぎたんじゃないか?
0089名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 20:58:29ID:TRikGj0Q
ていうか三増峠って意味の無い撤退戦だし、結局のところ小田原にまで行って何も出来ずに帰ったという話。
これだから甲陽軍艦に毒された奴は
0090名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/10(日) 22:46:20ID:vcw0ROPf
本拠地を攻めることで北条の目をそっちに向け、
駿河領有を確保したという点で非常に有益な軍事行動だったと思うけど。
0091名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 00:37:50ID:JJ83t/Ml
信玄が駿河を領有できたことってあったっけ
0092名無しさん@お腹いっぱい。2006/12/11(月) 04:59:59ID:rPGpoPmu
1568年から死ぬまで領有してるじゃん
0093名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 05:43:07ID:1zKAcDHQ
上杉って北条と結んでても何もやってないじゃん
何が義だよw
0094名無しさん@お腹いっぱい。2006/12/11(月) 05:48:53ID:rPGpoPmu
お前が何だよw
ここでは誰も義の話なんかしてないだろ。
0095名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 05:50:26ID:mD8s6isH
武田が駿河獲れたのは氏康が体調崩して軍を指揮できなくなったからじゃないの?
三増峠後に北条の国力が下がった訳じゃないし、結局運がよかっただけ
0096名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 06:20:43ID:5BGL/rfL
>>90
別に三増峠のあとに、駿河の北条軍が引揚げて駿河が手薄になったなんて記録はないのだが。
0097名無しさん@お腹いっぱい。2006/12/11(月) 06:23:21ID:rPGpoPmu
>>95
氏康がいなくても戦果は戦果。
それにその運を生かせたことも評価できる。
駿河確保の戦略的にも成功した作戦だと思う。

>>87
ただ、別に北条方が打撃を受けた様子はないので
華々しいと言えるかは争う余地があるだろうな。
普通に三方が原を上げておけば良かったのではないかな。
それと北条領劫略って何のことかよく分からないんだけど何?

0098名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 07:07:28ID:k4asoIQT
>>96
1569年の10月に三増峠の戦い、
同じ年の11月に駿河に再侵攻、翌年1月にはほぼ占領って時系列で、
関係がないってことはないでしょう。

本拠地への直接攻撃と野戦での勝利により、
北条が防御構想の練り直しをしているうちに、
まんまと駿河占領という戦略目標を達成したというべきかと。
0099名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 07:37:23ID:k4asoIQT
>>95
ちなみに、北条氏康が死亡したのは1571年10月で、
病を得たのもその年になってからだったはず。
0100名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 12:56:19ID:mD8s6isH
いや、1569年の時点でかなり深刻な病状だったよ。一時は書状も書けなくなったほど。
その後、やや持ちなおすが息子の区別すら難しい有様だった。
んで、最後に一気に重体になったのが1571年。
0101名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 13:27:43ID:mb6C4odG
氏康の健康不安に助けられたわけか
信玄は幸運だったな
しかし、謙信って敵に回すと厄介だが味方になると頼りにならない……
0102名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 14:58:16ID:SfTNwzlS
まるでにちゃんねらーだな
0103名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 15:29:41ID:3PS732lB
北条とはその後二年くらい駿河で戦っています。
完全に占領したのは氏康死後です。富士川以降を手に入れたのは。

というか、駿河の城奪われてなかったか。三増峠の後。
0104名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/11(月) 19:37:30ID:k4asoIQT
>>103
それはそうだが、少なくとも今川館は1569年の12月に落しているでしょう。
同じ年の4月には北条軍に阻まれ駿河からすごすご撤退しているのに、
9月に北条領に攻め込み、10月に小田原城包囲して帰途に三増峠の戦い、
そして11月に駿河に再出兵して12月に今川館攻略。

この流れで北条領への侵攻が陽動としての用を成していないって事はないと思うが?
その時北条家の実質的指揮を取っていたのが氏康であろうと氏政であろうと、
まともに駿河でやり合って奪えなかったので、
根拠地攻撃という陽動をして、その隙に駿河の主要部を奪取という流れに変わりはないのでは。
0105名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/12(火) 00:54:59ID:OW2HkBnF
>>104
だから、北条領への侵攻の後に、駿河の北条軍に異動がなければ「陽動の役を果した」とは言えないのですよ。
その記録はあるの?という質問です。
三増峠をどうみるかにもよりますが、結果からすれば侵攻してきた武田軍を撃退した、とも言えるわけです。
その結果北条で人事異動が生じて駿河の北条軍が減ったというのならともかく。逆に十月に三増峠、十一月
駿河出兵の流れをみると、仮に北条に駿河の軍を異動するつもりがあったとしても間に合わないような。
0106名無しさん@お腹いっぱい。2006/12/12(火) 01:06:02ID:OgMEadPO
104が言いたいのは、駿河防衛軍のことではなく
相模からの後詰が減るからやり易くなるということでは?
0107名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/12(火) 07:25:32ID:CohYJO84
>>105
まあ、>>106さんのとおり。
直接駿河から兵力を削減しなくとも本拠地を別方向から攻めれれれば、
自然と目はそちらに向くでしょう。
しかも主力軍ではないとしても野戦で敗れたのだから、
ごく一時的なものであれ戦力や戦意の低下は避けられない、
迅速に駿河方面へ救援を向けるのは難しくなると。

逆に本拠地を攻められているのに、駿河方面への警戒態勢が全く変わらないというの変だし、
まして警戒態勢が変わらなかったとすれば、にもかかわらず数ヶ月前には撃退できた武田軍に、
今度は今川館まで落されてしまったというのもあまりにも不自然だ。

結局三増峠の戦いと、その二ヵ月後の今川館攻略が無関係ってことはないと思うよ。
0108名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/12(火) 20:20:46ID:bIRwPCJJ
相模侵攻は陽動より牽制が適切。それと同時に今川勢への示威も目的だろう。
今川も相模侵攻の後、このタイミングで駿河侵攻をするとは思わなかったのだろう。
不意をつき調略した今川の武将の手引きもあり迅速に制圧、さしたる損害を受けずに駿河を手に入れた。
その背景には上杉家臣への調略や越中の一向宗を利用して、謙信を越後に釘付けに成功させた戦略がある。
0109名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/13(水) 07:03:58ID:5MYhvrni
>>1まあああああああああああだこんなスレが立ってたの????

世間で  信長>>>>信玄なんて言う奴いないよ、いたら笑われるよ

見事な兵卒の揃え方や様々な戦の仕方、外交や工作などを頻繁に利用する信玄
に信長がどうやって勝てるの??1572年の時点では鉄砲数千艇も揃えられない
んだよ、どうやって勝てるの??

信玄が上洛遅すぎた理由は上杉や北条などの警戒だったが、それだけ列強が周
りに多かったってこと、信長の周りってどんなのがいたの?ひたすら弱敵ばか
り、おまけに自らドジって信長包囲網??小競り合いで武田軍にボロボロにされ
てるよねえアハハハ!!
0110名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/13(水) 07:23:38ID:aaU9/hwP
このスレの釣りレベルも落ちたものだ。
0111名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/13(水) 07:47:16ID:H6Kip/X2
ID:5MYhvrni
よっぽど悔しかったのか
こっちのスレでは5回連続書き込み

結局信玄と謙信どっちが最強なの?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1162723293/109-113

0112名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/13(水) 19:58:18ID:ZAV8yKAE
>>109
それじゃあ、たかが2万5千で、どうやって信長を撃破できるか、論証してみろよ
0113名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/13(水) 21:01:12ID:aaU9/hwP
スルーしとけば良いのに。
0114名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/14(木) 00:19:05ID:wTUkc2W1
>>112
家宝買い漁る→家臣の忠誠と能力の底上げ
騎馬Sで騎突→怖いのは謙信だけ
0115名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/14(木) 00:34:13ID:uKNDIN0p
烈風伝は良いよなぁw
0116名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/14(木) 01:41:05ID:9D/lRpD1
無理に同盟破棄して今川に攻め込むよりも、当初の戦略を貫徹して
上杉を滅ぼすべきだったな。北条との不毛な戦いも無かったし、
嫡子の粛清も無かったし、徳川の台頭も無かった。

武田の対上杉の調略はかなり進んでいたから、集中戦略をとれば
あと4〜5年で上杉を滅ぼせた可能性はある。

越中は飛騨の江間氏を侵入させて5万石ばかり掠めとったし、
他の豪族にも一通り調略がかかってる。元亀三年の西上のときは
一斉に日が吹いて上杉の越中支配は壊滅状態。

上野も西側をジワジワ掠め取って、そのまま北条との同盟が健在なら
北条高広を完全に駆逐するのも可能だったろう。

越中・上野の手足をぶった切って締め上げていけば、そのうち越後でも
謙信の権力基盤が瓦解する。上杉を始末してから、天正三年ごろから
木曽路と日本海ルートから西進しても、十分に信長に対抗できたと思うね。
0117名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/14(木) 13:41:31ID:tGk02a3M
折角謙信を謀略や外交で奔走させても、結局信玄がやったのはその隙に土地を掠め取る程度で打倒戦略ではなかったからなぁ
やっぱり越後領有に魅力が無かったからなんだろうか?
0118名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/14(木) 18:40:22ID:/C6miocr
>>116
上杉家臣の内応なんて何度も何度も成功しているのに、
各局ここ一番の合戦で勝てずに終わっているでしょう。
その後続けていても同じことだったと思うよ。
信玄もそう思ったからこそ、方針を転換したのだろうし。
0119名無しさん@お腹いっぱい。2006/12/14(木) 18:44:37ID:DFeoJ4oI
謙信が莫大な遺産を残していたというし越後は魅力あったと思う。
加賀には本願寺という強力な味方もいるから戦略的価値もある。
ただ、駿河も魅力的ではあるし、より落としやすいのは駿河。

少しずつ土地を掠め取っていくようなやりかたでも
塵も積もれば山となり、やがて上杉打倒につながる。
漸進的ではあるがそれが信玄の得意な打倒戦略だと思う。
川中島を通じて、同程度の勢力である上杉に合戦で勝利し
急進的に勢力を拡大するのは困難だと踏んだんだろう。

しかしそのために北条と決裂してしまったのは痛かったなあ。
あそこで躊躇せず武田と袂を別った北条がすごいというべきか。
北条は武田とともに駿河に侵攻する手もあったのに。
まあ武田が駿河を攻めたのはそう間違いではなかったと思う。
0120名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/14(木) 21:23:31ID:U7+9+0H2
おっとこんなスレあったんだ。
流れを切って申し訳ないが山梨県人としての感想。(ただし歴史認識は素人レベル)
上洛は「あの瞬間(朝倉が引き上げる前)のみ運がよければ」可能だったかもくらいかな。
ちょうど来年大河が風林火山で本がいろいろでていて読んでみているが
啄木鳥の戦法はウソ(霧中の遭遇戦?)
武田「騎馬隊」はウソ
長篠の鉄砲3000丁3段撃ちはウソ
山本勘助は実在したとしても軍師ではない
数冊買って読んだがこういうのが多いけど実際はどうなのかな。
買った本の中では洋泉社の真説・川中島合戦というのが結構面白い。
本の中でも触れているが実際に川中島合戦(4次)の詳しい記録ってほとんどないんだね。
川中島から越後の海まで直線でたった50キロ。こいつは魅力だったろうね。
0121名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/14(木) 23:21:34ID:Gsf0eoDZ
>>120
>武田「騎馬隊」はウソ

武田軍団は、騎兵だけで構成されていたわけじゃないが、
馬上の巧者が多かったことは確かだから、騎馬軍団の範疇に入ると思うよ
ましてや隊程度の規模なら、存在したことは間違いない
01221202006/12/15(金) 00:57:35ID:c6u3etE/
>>121
レスどうもです。
山梨県人の自分がいうのもなんですが一応、読んだ本では
「隊」と銘打つからには騎馬武者の集団を意識させるが
当時、騎馬武者(騎馬に乗った侍)はいくらでもいた。
太向義明氏によると武田騎馬隊を打ち出す主張はいくつもあるが抽象的なものばかりで
具体的な根拠を示したものはほとんどないそうです。
一方、戦国時代、戦国大名、戦国武将を扱った書物では騎馬隊に触れているものはないそうです。

武田騎馬隊肯定論者が取り上げるのは長篠の合戦のみだそうです。
例外は川中島合戦図屏風(岩国美術館蔵)ですがこの屏風は永禄4年の合戦の状況を描いたもので
飯富昌景の部隊が描かれていますがその箇所には騎馬兵などまったくなくあるのは馬丁の付いた
空馬だけの列だけだそうです。それでは乗り手はというととっくに下馬して前方に進んで待機しているそうです。
三方ヶ原も騎馬隊で蹂躙したようなものではなく服部半蔵の覚書に当初は双方とも下馬して戦い
武田騎馬武者が出て行ったのは徳川が乱れて追撃戦にはいってからのようです。

とまあ、本の受け売りですが本では騎馬は戦闘力ではなく馬は輸送力と追撃と退却に有効だったと
いいたいようです。
後は武田家武将の名前が昔と変わっているのに驚きました。
秋山信友→秋山虎繁
高坂昌信→香坂(春日)虎綱
内藤昌豊→内藤昌秀
とか地元なのにねえ(涙)これって正式に認知されているのかな?
0123名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 07:15:14ID:BVyqqTQM
>>121
そんな事言ったなら織田だって北条だって上杉だって、
みんな騎馬軍団になってしまう。
基本的に騎兵のみの編成を持たずに騎馬軍団の名乗るのは詐称ってものだよ。
0124名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 08:05:58ID:VpedR7as
まだ騎馬軍団がいたなんて遺物がいたんだな
0125名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 08:19:39ID:p0BN+U42
つうか謙信の遺産は家臣や領民が貧しいのをいいことに高利貸しした結果じゃないの?
謙信の財力が戦略に役立った事例なんてあるの?誰かをカネで買収したとか
0126名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 09:27:40ID:pmNN+od5
謙信は、越後の石高に対して多い兵力を動員してるんじゃないか?
財力のお陰かもね。
0127名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 10:55:42ID:dowz1IBt
騎馬軍団と呼べないっていうのはちょっとなぁ

ただ、騎馬隊がいないっぽいってだけでしょ。
なんらかの根拠はあったんだと思うよ。
てか、過去スレで解決してなかったっけ?
0128名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 11:00:16ID:p0BN+U42
いや、過去スレを問題にするのなら騎馬の比率はむしろ上杉や北条のほうが高いぞ、とか
甲陽軍鑑でさえ騎馬突撃を否定して下馬戦闘するってかかれているぞとか
否定論ばっかじゃなかったか?
0129名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 13:06:01ID:NXSm1suf
いや、騎馬突撃をしないからといって、騎馬軍団ではないとはいえないし
騎馬突撃が可能かどうかについても、サラブレットを使った実験では話にならないし。
暴れ馬だったから、突撃は無理、というのはわからないでもないが
それほどの暴れ馬なら、鎧武者を乗せるだけの馬力はあるし
兵器としてはかなりの脅威になるので、無いとは言い切れない。

追撃の時に、騎馬武者が自然と突出して
あたかも騎馬突撃のように見えた可能性はある。
追われる側としては、これだけでも相当な恐怖だろう。

>本では騎馬は戦闘力ではなく馬は輸送力と追撃と退却に有効だったと
この辺がいいところだとは思うけどね。
特に、山地は部隊の移動が遅いのが普通なのに、それなりのスピードで来られたら
どれほど恐怖を感じるか。
移動速度の遅いはずの小荷駄隊が速くなるだけでも、とんでもない脅威になる。


あくまで、黒澤明的な騎馬軍団が否定されたに過ぎないんだよ。
0130名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 13:43:40ID:VpedR7as
〜とは言い切れない。
〜の可能性はある。
某新聞社の社説みたいだな

暴れ馬ならなおさら槍持った足軽の中に突っ込ませて、暴れられたら落馬して首とられるぞ
追撃にしても何十キロもある鎧着た武者の乗ったポニーがマトモなスピード出るわけ無い
ちゃんと整備されてない石ころだらけの道を全力疾走でもしようもんならポキポキ馬の脚が折れる
しかも騎馬武者ともなれば、その首討ち取れば相当のご褒美がでるぐらいの身分のもの
雑兵に狙い撃ちされる

それから物資輸送隊の速度が上がってもそれ自体に脅威は無い
それに伴って軍全体の速度があがることに意味があるわけで、戦場ではもはや輸送部隊速度うpの恩恵はもうない

そして荷駄部隊が騎馬軍団とやらの任務なら「武田騎馬軍団」じゃなくて「武田輸送軍団」だな
0131名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 13:54:11ID:jbcXKaBH
騎馬軍団で盛り上がっているところ越後侵攻問題に戻して悪いが…

いわゆる「北進」か「南進」かなんて議論はやっぱり信玄の限界の一部になってしまうんだよな。
まず信玄中期までの戦略がいわゆる「北進」であったことは否定できないだろう。
一、信虎から家督相続時点で甲斐は完全支配(河内・郡内も服属)。
二、諏訪盆地、佐久盆地への進出は信虎時代から始まっておりかつ甲府との距離が近く勢力も弱い
三、諏訪、佐久を拠点とすれば松本、伊那、上田、さらに善光寺平への進出も容易。これらは
 甲府からの実質的な距離も近い。いわば甲府を中心とした同心円的支配。
四、木曾は松本の、西上野は佐久盆地の重要な後背地。まあ西上野攻略は手間取った上に
 北条の北武蔵進出に対する上杉牽制の役目も大きかったから単なる「北進」とは言えないかも知れんが。
五、そもそも「北進」の目標は日本海にあったのか?現実に謙信が、またその父や関東管領顕定がそうで
 あったように越後は「ゆるやかな統一と分裂」にあり支配困難な大国。更に冬季は国境が封鎖されるために
 迅速な軍事行動が不可能で「甲府を拠点とする限り」支配は不可能である。
六、いわゆる「三国同盟」のうち特に義元−信虎・信玄ラインは緊密な関係。一方、信虎−氏綱ラインは
 信虎と扇谷上杉との関係から険悪。もっとも信玄−氏康時代からは好転してかなり相互に戦略的に
 協力している(西上野攻略、越中一揆煽動、松山合戦など。まあ利害が一致していたわけだが)。
七、信玄の領国支配において「甲府を拠点とする」限り駿河は強力かつ野心的でなく友好的な同盟者が
 支配していることが望ましい。それがなければ甲斐本国や伊那盆地の国境は不安である。
八、ということで三河に脅かされ家臣団を掌握しきれていなく、混乱した駿河を放置することは危険である。
 氏康−氏真ラインも氏綱−義元ラインが簡単に破綻したように駿相関係が安泰とは言えない。特に河東は
 氏康時代に喪失した「小田原を拠点とした」北条にとっての重要な後背地。

というわけで「北進」から「南進」への戦略転換は前者の行き詰まりではなく甲斐や分国の安全保障の側面が
大きいと思うが如何?偶然「北進」が信越国境で滞った時期と駿河侵攻時期が重なっただけで実際駿河領有は
東に北条という大勢力を抱える以上、氏真がまともでない形で相続したのだから止むを得ないことだと思う。
北条に野心なしか?と言われれば氏直を庇護した氏真の養子にしたりと結構えげつないことしているからなあ。
その意味では氏真との侵攻前の敵対や駿河侵攻と北条手切れも仕方ない出来事だった。
0132名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 14:56:21ID:EgzF2qbK
万単位の軍で考えるからおかしなことになるんじゃないの?
数百人規模の備ええに十数人の騎馬隊で突撃かける戦の話が
つたわって、万単位の軍になったときもその印象が残ってたって
話じゃないの?
0133名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 17:19:26ID:AVGFougA
>〜とは言い切れない。
>〜の可能性はある。
>某新聞社の社説みたいだな

そっちはどうなんだ?
否定できる絶対的な根拠があるのか?
根拠が無いのに断定してるだけじゃないか。
0134名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 17:35:37ID:AVGFougA
>それに伴って軍全体の速度があがることに意味があるわけで、戦場ではもはや輸送部隊速度うpの恩恵はもうない
部隊の中で移動が遅いは、小荷駄隊ではないか?
山岳部において、小荷駄隊が部隊全体のスピードを落としていることは無いのか?
小荷駄だけはぐれさせるわけにはいかないんだから。

部隊全体の機動力が上がれば、それだけ布陣するスピードが上がる。
まだ布陣していまい、と思うような時に
すでに敵が布陣していたらどうだ?
騎馬武者達がすでに陣取っていたらどうだ?

>暴れ馬ならなおさら槍持った足軽の中に突っ込ませて、暴れられたら落馬して首とられるぞ
そんなことが本当にできると思うか?
武者を乗せた超重量の物体が突撃してきて、そんなことができるのか?
恐怖のあまりまともに戦う事はできないんじゃないのか?逃げないで戦うほどの士気があるのか?
まして、追撃戦に使うのだからやられる側のその士気の低さは明らかだと思うが。


あと、これも参考になるかも
ttp://blog.livedoor.jp/taka0219j/archives/50727297.html
しかも、日本の馬は欧州のと違って短足だったので、重さに強かった可能性は十分にある。
0135名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 18:06:52ID:BVyqqTQM
>>133
>>128とかは?

というか、>>129こそが典型的な騎馬軍団否定論なんだけどね。
普通は当時の軍隊の騎馬の運用はそういう状況だから、
とても騎馬軍団とは言えない、って結論になる。
ところが、発想の逆転というか何というか、
なぜかそういう状況でも「騎馬軍団」といえるって話になってしまっているが。
0136名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 18:24:48ID:AVGFougA
>>135
129は128に対する答えでもある。
「騎馬突撃」をあまり重視しすぎるのは問題だと思ってる。

でも、それは世界規模で考えて初めて
敵陣に「騎馬突撃」しないとダメって話になりうるのであって、
当時の日本人にとっては、「騎馬突撃」が無くても「騎馬軍団」ではない、と思わないはず。
要は、当時の人間が武田軍団を騎馬に強い軍団として特別視したかどうかが大切で、
だから「恐怖」「脅威」という言葉を使っている。

つまり、当時の日本において、
最も騎馬の恐ろしい軍団であれば、
それは日本にとって間違いなく「騎馬軍団」なんだ。

日本の「色黒」は、アフリカでは全然「色黒」じゃないでしょ?
そういうこと。
0137名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/15(金) 18:29:33ID:mTF+YJBU
騎馬軍団というから違和感を感じる
騎馬部隊程度ならイメージ的に合いそうだけど
でもそれは武田に限らず他の大名にも存在していることだからな
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