【武田】2万5千で上洛【信玄】その46
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 22:53:31ID:ArMmJZ7P【武田】2万5千で上洛【信玄】その45
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157793068/
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
テンプレ
>>2-30ぐらい?
0031ダイジェスト野郎は中立なのだ
2006/11/26(日) 22:57:17ID:EbHC4Tnc元亀四年/天正元年(1573)年
○織田包囲網消滅 ダイジェスト
2月23日 織田信長、遠三周辺の件で武田信玄は2月17日
に野田表を撤収したことを通達。──『細川家文書』
2月26日 浅井長政、某へ足利義昭の屋敷落成、足利義昭
御内書が武田信玄に下されたこと、東美濃へ武田信玄が出
撃し加治田城・つぼ城を攻略したこと、朝倉義景も間もなく
出陣する旨を通知。──『小島明氏氏所蔵文書』
0032ダイジェスト野郎は中立なのだ
2006/11/26(日) 22:58:36ID:EbHC4Tnc○足利義昭の苛立ちつのる
2月26日 柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆、
足利義昭与党の籠もる近江国石山城を攻略、破却す。
──『信長公記』
3月6日 足利義昭、織田信長へ人質を返還し、戦の
ために、二条城の堀を掘る。──『兼見卿記』
3月25日 織田信長、上洛のために美濃国岐阜城を
出陣。──『信長公記』
0033ダイジェスト野郎は中立なのだ
2006/11/26(日) 22:59:42ID:EbHC4Tnc○将軍義昭挙兵す
4月2日 織田信長、足利義昭の挙兵に対して洛外を悉く
放火。──『京都市小石暢太郎氏所蔵文書』
4月3日 織田信長、洛外の堂塔寺庵を除外して放火す。
──『信長公記』
4月3日 織田信長、山城国賀茂から嵯峨に至る在所
を悉く焼き払う。──『兼見卿記』
4月4日 織田信長、足利義昭の挙兵に対して上京を
悉く放火。──『京都市小石暢太郎氏所蔵文書』
4月5日 正親町天皇、織田信長へ二条晴良・三条西
実枝・庭田重保を勅使として派遣、足利義昭との和議
を講じさせる。──『兼見卿記』
4月5日 柴田勝家、山城国天龍寺惣寺中へ、織田信長
の厳命により焼き打ち免除を安堵。──『天龍寺文書』
0034ダイジェスト野郎は中立なのだ
2006/11/26(日) 23:02:18ID:EbHC4Tnc○信長、家康へ信玄の備え怠らぬよう通達す
4月6日 織田信長、上洛にあたり小栗大六を派遣してきた
徳川家康へ足利義昭の挙兵については織田信長の身に
覚えの無いことであり、「君臣御間」ということで従来の忠節
が無駄としないために種々の道理を講じたが足利義昭の
承諾が得られなかったため、去る4月2日・3日の両日に
洛外を、4日には上京を悉く焼き払ったので足利義昭と
講和が成立したことを通達。
また徳川家康の近江国横山周辺への出陣は無用であること、
遠江・三河国境の武田信玄動向の件は油断無きように備え
ることを通知。──『京都市小石暢太郎氏所蔵文書』
4月7日 織田信広・佐久間信盛・細川藤孝、和議に際し
織田信長名代として幕府御所を訪問し、足利義昭と会見。
──『兼見卿記』『信長公記』
4月8日 織田信長、美濃国岐阜城へ向けて京都を発す。
──『兼見卿記』
4月11日 織田信長、近江国百済寺を灰燼にし、美
濃国岐阜城に帰還。──『信長公記』
0035ダイジェスト野郎は中立なのだ
2006/11/26(日) 23:03:54ID:EbHC4Tnc○信玄没す
4月12日 武田信玄、信濃国駒場に於いて病没。
──『兼見卿記』『信長公記』『本願寺文書』
○義昭足掻くも徒労に帰す
7月2日 足利義昭、京都を「御退座」。
──『本願寺文書』
7月3日 足利義昭、京都二条城を退き山城国槙島城
へ移る。──『兼見卿記』
7月7日 織田信長、入洛して京都二条妙覚寺に布陣。
二条城を攻囲する。──『信長公記』
7月12日 三淵藤英、柴田勝家の勧降により京都二条
城を退城し、伏見城へ移る。──『兼見卿記』
0036ダイジェスト野郎は中立なのだ
2006/11/26(日) 23:04:48ID:EbHC4Tnc○信長、信玄の病死を伝え、義昭を毛利領へ追放す。
7月13日 織田信長、毛利輝元へ武田信玄は既に病死しており、
朝倉義景は大した行動は出来そうに無いこと、三好氏以下は
取るに足らず、足利義昭が自発的に軍事行動に及ぶ様子は
おそらく無いこと、足利義昭が「天下被棄置」てしまったので織田
信長が上洛して鎮定している状況であること、足利将軍家の件は
「諸事遂議定可随其」としたので毛利輝元へ相も変わらずの
入魂を希望すること、毛利氏分国中に別儀が無いことは結構
であることを通知。──『太田荘之進氏所蔵文書』
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 23:24:10ID:sdDInOWO3万弱じゃまいか?
でも尾張まできたら危機を感じてもっと動員するかも。
徳川軍も6千程度はやってくるだろうが。
つうか敵領のど真ん中で孤立した上狭撃されたら確実に殲滅されると思われ。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 02:32:44ID:6n9w2IB/0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 04:49:16ID:B0/kdvluマジレスしていい?
殲滅=損耗10割=皆殺し
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 10:38:02ID:s5uuSOzj0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 12:55:07ID:pfOOJrvY尾張の平野にて、武田軍2万5千vs織田軍3万で激突
訓練度:武田95p、織田95p、、ほぼ互角
士気:武田80p、織田98p、、、祖国防衛の織田が上
疲労度:武田70p、織田30p
装備(鉄砲):武田300p、織田3000p
民衆の協力度:武田10p、織田100p
地の利、城の利用など:武田10p、織田80p
主将の能力:武田80p、織田95p
部将の能力:武田60p、織田80p
激闘5時間
武田軍1万5千で敗走
織田軍2万5千で追撃
三河某所にて、徳川軍5千待ち伏せ
激闘3時間
武田軍5千で敗走
追撃する織徳軍2万5千
4月某日
武田軍300、甲府に帰還
と、思ったら、上杉軍1万が待っていた・・・
0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 15:08:45ID:tZf7H3O7軍としては敵中で雲散霧消してしまえば殲滅と大差ないし
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 17:32:17ID:B0/kdvlu多分、誰かに指摘されるまで使い続けるだろうからな
真面目に書いたレスであればある程説得力に欠ける
適当な書き捨てレスだったらヌルーしたが
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 21:49:40ID:0lTTMIuF部隊の2割の死亡か死傷で壊滅じゃなかった?
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 23:05:17ID:JCjVfeWn言葉狩りジャマイカ
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 00:14:41ID:Hgzxiksk間違ってるだけでしょ
それよりもう少し建設的な話をしよう
といっても話題が尽きているかもしれんが
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 01:02:12ID:05r2+0Sd>4月6日
信玄が野田城を包囲しているころだと思うけど、
家康は、
>近江国横山周辺への出陣
するつもりだったのかなー?
信長は義昭の挙兵に対応するために上洛したみたいだけど、
尾張方面への危機感、ないみたいだねー。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 12:28:11ID:D8L4Jqr0たしかに、信長と家康は
遠江・三河国境の武田信玄はそのままにして、
家康が近江へ出陣するかどうかを相談しているようですね。
信長の信玄への危機感の薄さと、
家康の信長への気を使ってるのが感じれます。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 01:59:40ID:BUUlZeBi0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 05:25:34ID:EwsueILj実際信玄の侵攻速度は遅かったわけだし。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 14:36:57ID:Sh1Reb9sって言ってるのと同様
家康の近江出陣も社交辞令みたいなものじゃないか
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 20:27:24ID:B1AKwq/oていうか信長は言われるほど危機感持ってなかったらしい。
来たら困るなぁ程度だった。
むしろ信玄の方が直接対決して負けたらどうしようと上洛を渋っていた感がある。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 22:40:51ID:beDTTVQe信長がそれほど危機的状況じゃないというのは理解できるし
テンプレ見てもそのように思えるけど
>ていうか信長は言われるほど危機感持ってなかったらしい。
>来たら困るなぁ程度だった。
>むしろ信玄の方が直接対決して負けたらどうしようと上洛を渋っていた感がある。
これに関しては何かソースとか根拠はあるの?
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 23:07:53ID:ByHGmJd70055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 23:12:14ID:beDTTVQe信濃美濃三河国境付近から信濃に入ったころだと思う。
野田城は2月に落としていると思う。
>>54
やっぱしそうか?
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 01:55:44ID:j2bO43gfそれぞれの勢力は「信長なんかとむやみに戦って消耗したら背後からやられる可能性が高い、
それなら牽制だけして戦いは本願寺とかに任せるのが得策」
と考えちゃうのも無理はない
0057名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/02(土) 01:53:50ID:rBKeXq+Yそうだね。勘違いしてた。
信玄は2月頃から撤退を始めている。
そして、もちろん信長はそれを知っていた。
0058名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/02(土) 10:09:46ID:j1NDmXj9本願寺は越中の一揆を助けるために信濃へ兵を出してくれって西進中の信玄にお願いしてるし
越中の一揆は謙信への餌のために信玄が扇動した捨て石というのが通説なんだけどね
当時の情報伝達速度からくるタイムラグも考慮にいれないといけないかな?
0059名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/02(土) 23:53:43ID:5Xumw7Tb信玄としては玉砕覚悟で織田とぶつかるつもりだったのでは。
0060名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/03(日) 11:44:15ID:7Xa7tmZX0061名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/03(日) 12:21:47ID:5B8EXYIB怖いもの見たさってやつ?
0062名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/03(日) 23:35:28ID:0pBoOb2x0063名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/04(月) 22:15:58ID:XcjlrEOqまあ信玄にすれば上洛という大義名分をもった南下政策でもあるわけで。
畿内政権ってのは案外脆いんだよな、四方に敵を抱える恐れが大きいから。
実は信玄上洛、信長との主力決戦なんて信玄自身考えていたかどうか怪しい。
今回の作戦は謙信が動けない状態で短期に東海地方に今後の勢力拡大の橋頭堡を
築きたかっただけかもしれない。東濃や尾張国境を武田が実効支配すれば
信長も主力を率いた各個撃破が史実どおりのスピードでは進まないだろうからねえ。
問題は案外公方―朝廷ラインかな。義昭の行動だけは首尾一貫していないから読めん。
0064名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/06(水) 08:35:32ID:f3owucStってか信長は後年の安土移動の際でさえ距離をとっていたよ。大坂城築城と本拠地移転が信長の案を秀吉が使ったんだというのは俗説だし
0065名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 14:31:52ID:4Q+CK/+1であるなら濃尾に本貫地を置く信長政権にとってやはり東濃や尾張国境に
信玄が実効支配できる橋頭堡を築かれれば厄介にならんかね。
実際武田が信玄没後長篠合戦まで徳川と三河戦線の一進一退を繰り返したから
まあ信長政権にとっては大した影響はなく反信長勢力を各個撃破できたけど
それでも75年までは東濃に築かれた武田勢は木曽路の最前線として機能していたわけでしょう。
三河にも同じようにより強力な前線を構築できるまで信玄が生きていたら信長の武田攻略は
長引いたと思うがなあ。
さすがに信長が各個撃破のペースが落ちこそすれ失敗したとは思えないし
同時に信玄があのまま上洛コースを邁進して濃尾平野で主力決戦したとも思えない。
信玄の「上洛」の目的は後背の安全をようやく確保できた上での織田・徳川領侵略でしょう、というのが
自分の考え。
後背の安全というなら謙信を越中や越後揚北の撹乱で牽制したのは信玄いつもの策だが
後北条の外交や対武田戦線があそこまで機能しなかったのは不可思議だわ。
まあその帰結が氏政の再同盟だろうけど北条の武蔵・相模・駿東の防衛ラインってあそこまで
脆いもんかね。まあ上杉相手の季節限定戦争とは勝手が違うんだろうけど余りに…
国境の小豪族を篭絡して懐柔することと大勢力同士の激突との違いといえばその通りだが。
0066名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 15:55:47ID:PhEtHozg時間を浪費したように見えてこれが信長の短期間の雄飛の原動力となった。美濃衆の戦力もさることながら、本拠地周辺に機動的な兵力を持った敵対大名が消滅したから
信玄は何度も謙信の部下を離反させてるんだから、信長のようにしぶとく越後を屈服させるための攻勢を続ければ、障害上杉の動静に戦力を注がなきゃならない非効率な戦略から脱却できたのでは?
0067名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 19:19:26ID:dNdf6xZB0068名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 21:44:56ID:eZAQb002つーかそういう書き込み見るたびに思うんだが5年や10年で50万石の斎藤氏を滅ぼしたことって相当凄いと思う
早すぎだろ 信玄とか一生かけて80万石程度だぞ それを家督次いで20年足らずで・・
0069名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 21:58:44ID:2iEFTTye勢力拡大は織田より遥かに難しい
0070名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 22:38:34ID:sBsicL6v勢力拡大だって、信長以前に濃尾や畿内の統一支配を成し遂げたものがいないことを
考えれば、信長だからこそできたといえるものだろ?
信長の相手は分裂した弱小相手だからというのなら、信玄が相手にした信濃の豪族は?
となる。
0071名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/08(金) 08:20:23ID:u91Y0Ko0信長の美濃併合以降の西の敵対国との国力比と信玄の信濃攻略時のそれとは全く違う
信玄は信濃納めたところで東西南は同盟国で自分以上若しくは同等の石高、北も同等以上の国力
0072名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/08(金) 08:20:31ID:gVucPJbY0073名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/08(金) 11:32:55ID:AGDK0ZF7比類ない勢力だから勝手当たり前って言うのは、突っ込みどころがおかしいだろう。
0074名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 10:54:46ID:fcZvNQc5おそらく大して変わらないはずなんだよ、信玄は甲斐一国、
対して信長は尾張半分以下だが、尾張の総石高は甲斐の倍以上あるので。
だから両者の勢力拡大を比べる上では、まず信玄の信濃侵攻と、
信長の尾張統一戦を比較すべきで、それぞれに要した期間は両者ともあまり変わらない。
問題はその後で、信長はその後斉藤家を比較的短期間に併合したが、
信玄はとうとう上杉を滅ぼせなかった。この段階で両者に大きな差が出来てしまった。
この点には異論はないが、両者の地理的な条件の違いや、
義龍が若死にしたって事情も考慮しなければならないから、
安易な優劣論にはならないと思う。
0075名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 16:26:54ID:QPc27xBZ信長は散々過去スレで出たように父の遺領を丸ごと継がず、弟に分割したりしていた
それでも甲斐22万石と同等ならば、信長の動員兵力は最初から千単位も可能だったはずだ
0076名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 17:03:44ID:aLyKkFP1家督相続の時点では、信長の方が分が悪い。
独自の動員兵力は1000を切っていた。
尾張国内戦では、兵力劣勢の戦いが多いよ。
0077名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 19:59:36ID:Rm/17PiOしてない。
0078名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/09(土) 20:47:00ID:fcZvNQc5確かにそうかもね、大して変わらないはずだと言ったのは早計だった。
0079名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 11:00:01ID:vQsJD2z5それでも百万石の勢力圏を作り上げたのが信玄の本当の凄さ。本質は民政家であり戦略家だから流布してる虚像と大分違うね
川中島でも不用意に兵力を分散させて危機に陥った話が本当なら、やっぱり戦術家として問題あり。もっとも相手方の謙信も戦う前に不用意に兵力を分散させて結局負けてるからどっこいどっこいだが(本当は上杉軍のほうが一千ほど数が多かったが後方に5千残したため劣勢に)
あと川中島で義信がポカしたといわれて、信玄贔屓だと後の廃嫡の正当化の理由の一つになってるが。上杉方から見ると義信は不利な状況から謙信の本陣を脅かすほど果敢に反撃した猛将と見えていた(謙信も後に述懐しているとか)
0080名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 11:46:36ID:2bV4EmdZ志賀攻めでも川中島でも信長だったら違う面を見せただろうと思う。
信長は戦闘よりも、むしろ調略を基本戦術としていた
また提携や同盟を重んじ、できるだけ無駄な戦は避けていた。
そのための徳川との同盟であり、浅井や斉藤との婚姻政策だった。
また戦争で下したとはいえ、神戸や北畠にも子供を送り込み
相手の家名を残して実質的に乗っ取る形で地盤を固めた。
もし、信長だったら早期から謙信の天才を見抜き忍耐して婚姻政策や
贈り物外交をした事は想像に難くない。
また、北信越の豪族・武将達の調略を基本戦略とし
「天下布武」か何か全武将を一つにまとめるでかいスローガンを掲げ
戦力を拡散せずに甲斐・信濃の戦力を一点集中主義で美濃に向かわせるか
関東制圧に向かわせるか軸のぶれない戦略を敷いたであろう。
0081名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 11:49:52ID:Z54yTPlJ0082名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 12:03:18ID:2bV4EmdZ凄い勢いで越中、越前、信濃、奥羽まで勢力圏が広まってても不思議じゃないはず。
0083名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 12:12:51ID:vcw0ROPfその場合は北条・今川同盟と抗争する事になるだけ、
地理的に遠い上杉との連携は難しいし、
甲斐は北条・今川に挟まれているから、
多分武田家は滅ぼされた可能性が高いと思うよ。
0084名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 12:43:00ID:LkUlvxBpそもそも対立も協調もしてなかった武田・長尾が抗争始めたのは北信濃支配圏を巡る争いが原因だし
謙信が退くにしろ信玄が譲歩するにしろ、火種は残りそうだ
0085名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 13:18:20ID:TRikGj0Qあいつらじゃ無理、北条か今川にやられるのがオチだろう。
どっちかが劣勢になったところで同盟破棄されて滅びる、たぶん武田が
0086名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 14:10:38ID:l0Y2LUzN上杉は敵にすれば季節限定で面倒だが味方にすれば季節限定でしか役に立たない。
まあ無理して謙信本陣と衝突したくないんだから越相同盟のときの武田の行動のように
適当に敵勢力に翻弄されて終りだろう。あてにならんよ軍神様は。
>>77
>>79も指摘しているけど信玄の戦略は甲斐を中心とした勢力の拡大。
継続した勢力の拡大が戦略目標なら民力=兵力の損耗を避けるのは当然で
同等の勢力と主力部隊で激突する方が浅薄な戦国大名だろう。乱戦時の戦術面に劣っても
仕方ないしそういう事態で戦いに挑まないのが慎重な信玄らしい戦いだと思うが。
信濃北進、川中島(第四次決戦は最近異論多いが)、西上野、駿河南進も幾度か失敗しても
結局武田の掌中に入っているのは事実、その間に拙速な合戦があったのも事実。
まあ氏康や信長みたいに劣勢における派手な合戦がないっていうのは裏返しに言えば
そういう事態に追い込まれない信虎期の甲斐一国の掌握、名門としての大義名分てのが大きいのだろう。
個々の戦術面に優れていたというのは近世の築いた「虚像」だろうね。
0087名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 17:11:56ID:XkZf2r13いや、信玄にも、
塩尻峠の戦い、北条領劫略、三増峠の戦い
っていう神速の機動力を見せた華々しい戦歴があるよ
0088名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 18:20:36ID:qeGIpZeP最後脱出できたからよかったものの、あの状況は全滅しててもおかしくないよ。
浅利は死んでるし、計画が甘すぎたんじゃないか?
0089名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 20:58:29ID:TRikGj0Qこれだから甲陽軍艦に毒された奴は
0090名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/10(日) 22:46:20ID:vcw0ROPf駿河領有を確保したという点で非常に有益な軍事行動だったと思うけど。
0091名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 00:37:50ID:JJ83t/Ml0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/11(月) 04:59:59ID:rPGpoPmu0093名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 05:43:07ID:1zKAcDHQ何が義だよw
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/11(月) 05:48:53ID:rPGpoPmuここでは誰も義の話なんかしてないだろ。
0095名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 05:50:26ID:mD8s6isH三増峠後に北条の国力が下がった訳じゃないし、結局運がよかっただけ
0096名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 06:20:43ID:5BGL/rfL別に三増峠のあとに、駿河の北条軍が引揚げて駿河が手薄になったなんて記録はないのだが。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/11(月) 06:23:21ID:rPGpoPmu氏康がいなくても戦果は戦果。
それにその運を生かせたことも評価できる。
駿河確保の戦略的にも成功した作戦だと思う。
>>87
ただ、別に北条方が打撃を受けた様子はないので
華々しいと言えるかは争う余地があるだろうな。
普通に三方が原を上げておけば良かったのではないかな。
それと北条領劫略って何のことかよく分からないんだけど何?
0098名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 07:07:28ID:k4asoIQT1569年の10月に三増峠の戦い、
同じ年の11月に駿河に再侵攻、翌年1月にはほぼ占領って時系列で、
関係がないってことはないでしょう。
本拠地への直接攻撃と野戦での勝利により、
北条が防御構想の練り直しをしているうちに、
まんまと駿河占領という戦略目標を達成したというべきかと。
0099名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 07:37:23ID:k4asoIQTちなみに、北条氏康が死亡したのは1571年10月で、
病を得たのもその年になってからだったはず。
0100名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 12:56:19ID:mD8s6isHその後、やや持ちなおすが息子の区別すら難しい有様だった。
んで、最後に一気に重体になったのが1571年。
0101名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 13:27:43ID:mb6C4odG信玄は幸運だったな
しかし、謙信って敵に回すと厄介だが味方になると頼りにならない……
0102名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 14:58:16ID:SfTNwzlS0103名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 15:29:41ID:3PS732lB完全に占領したのは氏康死後です。富士川以降を手に入れたのは。
というか、駿河の城奪われてなかったか。三増峠の後。
0104名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/11(月) 19:37:30ID:k4asoIQTそれはそうだが、少なくとも今川館は1569年の12月に落しているでしょう。
同じ年の4月には北条軍に阻まれ駿河からすごすご撤退しているのに、
9月に北条領に攻め込み、10月に小田原城包囲して帰途に三増峠の戦い、
そして11月に駿河に再出兵して12月に今川館攻略。
この流れで北条領への侵攻が陽動としての用を成していないって事はないと思うが?
その時北条家の実質的指揮を取っていたのが氏康であろうと氏政であろうと、
まともに駿河でやり合って奪えなかったので、
根拠地攻撃という陽動をして、その隙に駿河の主要部を奪取という流れに変わりはないのでは。
0105名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/12(火) 00:54:59ID:OW2HkBnFだから、北条領への侵攻の後に、駿河の北条軍に異動がなければ「陽動の役を果した」とは言えないのですよ。
その記録はあるの?という質問です。
三増峠をどうみるかにもよりますが、結果からすれば侵攻してきた武田軍を撃退した、とも言えるわけです。
その結果北条で人事異動が生じて駿河の北条軍が減ったというのならともかく。逆に十月に三増峠、十一月
駿河出兵の流れをみると、仮に北条に駿河の軍を異動するつもりがあったとしても間に合わないような。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/12(火) 01:06:02ID:OgMEadPO相模からの後詰が減るからやり易くなるということでは?
0107名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/12(火) 07:25:32ID:CohYJO84まあ、>>106さんのとおり。
直接駿河から兵力を削減しなくとも本拠地を別方向から攻めれれれば、
自然と目はそちらに向くでしょう。
しかも主力軍ではないとしても野戦で敗れたのだから、
ごく一時的なものであれ戦力や戦意の低下は避けられない、
迅速に駿河方面へ救援を向けるのは難しくなると。
逆に本拠地を攻められているのに、駿河方面への警戒態勢が全く変わらないというの変だし、
まして警戒態勢が変わらなかったとすれば、にもかかわらず数ヶ月前には撃退できた武田軍に、
今度は今川館まで落されてしまったというのもあまりにも不自然だ。
結局三増峠の戦いと、その二ヵ月後の今川館攻略が無関係ってことはないと思うよ。
0108名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/12(火) 20:20:46ID:bIRwPCJJ今川も相模侵攻の後、このタイミングで駿河侵攻をするとは思わなかったのだろう。
不意をつき調略した今川の武将の手引きもあり迅速に制圧、さしたる損害を受けずに駿河を手に入れた。
その背景には上杉家臣への調略や越中の一向宗を利用して、謙信を越後に釘付けに成功させた戦略がある。
0109名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 07:03:58ID:5MYhvrni世間で 信長>>>>信玄なんて言う奴いないよ、いたら笑われるよ
見事な兵卒の揃え方や様々な戦の仕方、外交や工作などを頻繁に利用する信玄
に信長がどうやって勝てるの??1572年の時点では鉄砲数千艇も揃えられない
んだよ、どうやって勝てるの??
信玄が上洛遅すぎた理由は上杉や北条などの警戒だったが、それだけ列強が周
りに多かったってこと、信長の周りってどんなのがいたの?ひたすら弱敵ばか
り、おまけに自らドジって信長包囲網??小競り合いで武田軍にボロボロにされ
てるよねえアハハハ!!
0110名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 07:23:38ID:aaU9/hwP0111名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 07:47:16ID:H6Kip/X2よっぽど悔しかったのか
こっちのスレでは5回連続書き込み
結局信玄と謙信どっちが最強なの?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1162723293/109-113
0112名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 19:58:18ID:ZAV8yKAEそれじゃあ、たかが2万5千で、どうやって信長を撃破できるか、論証してみろよ
0113名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/13(水) 21:01:12ID:aaU9/hwP0114名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 00:19:05ID:wTUkc2W1家宝買い漁る→家臣の忠誠と能力の底上げ
騎馬Sで騎突→怖いのは謙信だけ
0115名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 00:34:13ID:uKNDIN0p0116名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 01:41:05ID:9D/lRpD1上杉を滅ぼすべきだったな。北条との不毛な戦いも無かったし、
嫡子の粛清も無かったし、徳川の台頭も無かった。
武田の対上杉の調略はかなり進んでいたから、集中戦略をとれば
あと4〜5年で上杉を滅ぼせた可能性はある。
越中は飛騨の江間氏を侵入させて5万石ばかり掠めとったし、
他の豪族にも一通り調略がかかってる。元亀三年の西上のときは
一斉に日が吹いて上杉の越中支配は壊滅状態。
上野も西側をジワジワ掠め取って、そのまま北条との同盟が健在なら
北条高広を完全に駆逐するのも可能だったろう。
越中・上野の手足をぶった切って締め上げていけば、そのうち越後でも
謙信の権力基盤が瓦解する。上杉を始末してから、天正三年ごろから
木曽路と日本海ルートから西進しても、十分に信長に対抗できたと思うね。
0117名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 13:41:31ID:tGk02a3Mやっぱり越後領有に魅力が無かったからなんだろうか?
0118名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 18:40:22ID:/C6miocr上杉家臣の内応なんて何度も何度も成功しているのに、
各局ここ一番の合戦で勝てずに終わっているでしょう。
その後続けていても同じことだったと思うよ。
信玄もそう思ったからこそ、方針を転換したのだろうし。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/14(木) 18:44:37ID:DFeoJ4oI加賀には本願寺という強力な味方もいるから戦略的価値もある。
ただ、駿河も魅力的ではあるし、より落としやすいのは駿河。
少しずつ土地を掠め取っていくようなやりかたでも
塵も積もれば山となり、やがて上杉打倒につながる。
漸進的ではあるがそれが信玄の得意な打倒戦略だと思う。
川中島を通じて、同程度の勢力である上杉に合戦で勝利し
急進的に勢力を拡大するのは困難だと踏んだんだろう。
しかしそのために北条と決裂してしまったのは痛かったなあ。
あそこで躊躇せず武田と袂を別った北条がすごいというべきか。
北条は武田とともに駿河に侵攻する手もあったのに。
まあ武田が駿河を攻めたのはそう間違いではなかったと思う。
0120名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 21:23:31ID:U7+9+0H2流れを切って申し訳ないが山梨県人としての感想。(ただし歴史認識は素人レベル)
上洛は「あの瞬間(朝倉が引き上げる前)のみ運がよければ」可能だったかもくらいかな。
ちょうど来年大河が風林火山で本がいろいろでていて読んでみているが
啄木鳥の戦法はウソ(霧中の遭遇戦?)
武田「騎馬隊」はウソ
長篠の鉄砲3000丁3段撃ちはウソ
山本勘助は実在したとしても軍師ではない
数冊買って読んだがこういうのが多いけど実際はどうなのかな。
買った本の中では洋泉社の真説・川中島合戦というのが結構面白い。
本の中でも触れているが実際に川中島合戦(4次)の詳しい記録ってほとんどないんだね。
川中島から越後の海まで直線でたった50キロ。こいつは魅力だったろうね。
0121名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/14(木) 23:21:34ID:Gsf0eoDZ>武田「騎馬隊」はウソ
武田軍団は、騎兵だけで構成されていたわけじゃないが、
馬上の巧者が多かったことは確かだから、騎馬軍団の範疇に入ると思うよ
ましてや隊程度の規模なら、存在したことは間違いない
0122120
2006/12/15(金) 00:57:35ID:c6u3etE/レスどうもです。
山梨県人の自分がいうのもなんですが一応、読んだ本では
「隊」と銘打つからには騎馬武者の集団を意識させるが
当時、騎馬武者(騎馬に乗った侍)はいくらでもいた。
太向義明氏によると武田騎馬隊を打ち出す主張はいくつもあるが抽象的なものばかりで
具体的な根拠を示したものはほとんどないそうです。
一方、戦国時代、戦国大名、戦国武将を扱った書物では騎馬隊に触れているものはないそうです。
武田騎馬隊肯定論者が取り上げるのは長篠の合戦のみだそうです。
例外は川中島合戦図屏風(岩国美術館蔵)ですがこの屏風は永禄4年の合戦の状況を描いたもので
飯富昌景の部隊が描かれていますがその箇所には騎馬兵などまったくなくあるのは馬丁の付いた
空馬だけの列だけだそうです。それでは乗り手はというととっくに下馬して前方に進んで待機しているそうです。
三方ヶ原も騎馬隊で蹂躙したようなものではなく服部半蔵の覚書に当初は双方とも下馬して戦い
武田騎馬武者が出て行ったのは徳川が乱れて追撃戦にはいってからのようです。
とまあ、本の受け売りですが本では騎馬は戦闘力ではなく馬は輸送力と追撃と退却に有効だったと
いいたいようです。
後は武田家武将の名前が昔と変わっているのに驚きました。
秋山信友→秋山虎繁
高坂昌信→香坂(春日)虎綱
内藤昌豊→内藤昌秀
とか地元なのにねえ(涙)これって正式に認知されているのかな?
0123名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 07:15:14ID:BVyqqTQMそんな事言ったなら織田だって北条だって上杉だって、
みんな騎馬軍団になってしまう。
基本的に騎兵のみの編成を持たずに騎馬軍団の名乗るのは詐称ってものだよ。
0124名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 08:05:58ID:VpedR7as0125名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 08:19:39ID:p0BN+U42謙信の財力が戦略に役立った事例なんてあるの?誰かをカネで買収したとか
0126名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 09:27:40ID:pmNN+od5財力のお陰かもね。
0127名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 10:55:42ID:dowz1IBtただ、騎馬隊がいないっぽいってだけでしょ。
なんらかの根拠はあったんだと思うよ。
てか、過去スレで解決してなかったっけ?
0128名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 11:00:16ID:p0BN+U42甲陽軍鑑でさえ騎馬突撃を否定して下馬戦闘するってかかれているぞとか
否定論ばっかじゃなかったか?
0129名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 13:06:01ID:NXSm1suf騎馬突撃が可能かどうかについても、サラブレットを使った実験では話にならないし。
暴れ馬だったから、突撃は無理、というのはわからないでもないが
それほどの暴れ馬なら、鎧武者を乗せるだけの馬力はあるし
兵器としてはかなりの脅威になるので、無いとは言い切れない。
追撃の時に、騎馬武者が自然と突出して
あたかも騎馬突撃のように見えた可能性はある。
追われる側としては、これだけでも相当な恐怖だろう。
>本では騎馬は戦闘力ではなく馬は輸送力と追撃と退却に有効だったと
この辺がいいところだとは思うけどね。
特に、山地は部隊の移動が遅いのが普通なのに、それなりのスピードで来られたら
どれほど恐怖を感じるか。
移動速度の遅いはずの小荷駄隊が速くなるだけでも、とんでもない脅威になる。
あくまで、黒澤明的な騎馬軍団が否定されたに過ぎないんだよ。
0130名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/15(金) 13:43:40ID:VpedR7as〜の可能性はある。
某新聞社の社説みたいだな
暴れ馬ならなおさら槍持った足軽の中に突っ込ませて、暴れられたら落馬して首とられるぞ
追撃にしても何十キロもある鎧着た武者の乗ったポニーがマトモなスピード出るわけ無い
ちゃんと整備されてない石ころだらけの道を全力疾走でもしようもんならポキポキ馬の脚が折れる
しかも騎馬武者ともなれば、その首討ち取れば相当のご褒美がでるぐらいの身分のもの
雑兵に狙い撃ちされる
それから物資輸送隊の速度が上がってもそれ自体に脅威は無い
それに伴って軍全体の速度があがることに意味があるわけで、戦場ではもはや輸送部隊速度うpの恩恵はもうない
そして荷駄部隊が騎馬軍団とやらの任務なら「武田騎馬軍団」じゃなくて「武田輸送軍団」だな
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