何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか? 2
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 10:48:33ID:R6vu/Xof何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152118867/
0604人間七七四年
2008/01/11(金) 17:44:31ID:duwOCYV4ぶっちゃけ征夷大将軍なんて朝廷の都合で任命してるだけだから資格なんて語っても仕方ないんじゃ?
0605人間七七四年
2008/01/11(金) 21:26:39ID:o5FcyLBd4代5代は源氏として将軍になりました
藤原氏として武士の棟梁になったわけではないです
>>599さんは博識
摂家として迎えられたわけでなく清和源氏宗家の継承者として迎えられました
0606中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2008/01/11(金) 22:00:48ID:quac3uqx>>605
吾妻鏡嫁
寛元二年甲辰 征夷大將軍從三位行左近衞權中將藤原朝臣頼嗣
0608人間七七四年
2008/01/15(火) 15:27:14ID:MBh7MvLtたしかに甲信地方は関東の範疇なわけだ
0609人間七七四年
2008/01/15(火) 22:28:01ID:2P9niP+s南関東が徳川の領地になったのは北条家滅亡後
しかも秀吉の配下として南関東に領地替えになった
つまり、南関東が徳川家の領地になった時点で
関東は秀吉が支配している事になる
0610九條前関白太政大臣従一位准三后藤原朝臣具経 ◆1Ixlm5F0XU
2008/01/15(火) 23:37:08ID:06K0BNHP>>220あたりで昔回答した気がする
つかループしてんなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0611九條前関白太政大臣従一位准三后藤原朝臣具経 ◆1Ixlm5F0XU
2008/01/15(火) 23:38:30ID:06K0BNHP>>608
>>220>>239な
0612人間七七四年
2008/01/21(月) 14:54:55ID:upE5arVh代々安定した政権を運営したという歴史を知ってるからこそ出てくる疑問。
そもそも信長や秀吉に幕府を開くという意思があったのかどうかすら疑問。
0613人間七七四年
2008/01/21(月) 22:47:16ID:wyRSaD+20614人間七七四年
2008/01/22(火) 04:27:52ID:aQls1zoq幕府は存在していなかったよハゲ
0615人間七七四年
2008/01/22(火) 05:44:18ID:lxtp24R1義昭が京にいないだけで幕府の官僚機構は存続している。
0617人間七七四年
2008/01/22(火) 11:14:28ID:1gkkLGgB0618人間七七四年
2008/01/22(火) 21:41:50ID:bYyZkHwPいや、確かに名目上幕府は存続していたが、
官僚機構なんて呼べるものはもはや存在しないでしょう。
義昭存命、幕府存続中にもかかわらず、信長に三職推任がいったということは、
朝廷もその頃には、既に室町将軍や幕府の存在など気にしていなかったということ。
0620人間七七四年
2008/01/24(木) 01:37:22ID:wQ72//Vy官僚機構の存続とまで言えるかどうか。
0622人間七七四年
2008/01/25(金) 16:26:35ID:P5Ef+fqh質問するが
・幕府の定義は?
・室町幕府が消滅したというならば、それはいつ?何を根拠として?
0623人間七七四年
2008/01/25(金) 16:49:25ID:P5Ef+fqh619〇
0624中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2008/01/25(金) 17:18:59ID:2a6jVjyLその質問はこの論争に似てるな
つか幕府の定義を質問する時点で何かおかしいことに早く気付くんだ!!!!11!!1!
0625人間七七四年
2008/01/25(金) 22:26:35ID:P5Ef+fqh奴が気にくわなかっただげだよ
0626中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2008/01/25(金) 23:11:03ID:2a6jVjyL奉公衆がどんだけ義昭に付いてったかってことも
義昭がいつ将軍を辞めたかってこともよ
ただ釣り針がでかすぎるわおまえw
0628人間七七四年
2008/01/28(月) 13:19:22ID:m0tpmHSz0629人間七七四年
2008/01/28(月) 13:41:24ID:kfGmQgvv>>622の後者の質問は別だが、前者の質問は大事なことでは
詳しくは読んでないから知らないけど、鞆幕府だっけ、毛利に逃れた義昭が組織してたという体制
あれが幕府残存の機構としていけるんじゃないのか
0630人間七七四年
2008/01/28(月) 14:00:07ID:JJl5Z31B0631人間七七四年
2008/01/28(月) 18:50:45ID:kfGmQgvv>>625
何でコテ付けてるか、考えてみ
またコテをつけることによって、こちらにも対応する術が発生するということも考えてみ
バカは基本的にスルーしたほうがいいと思うよ
どうせレスしたところで反応は目に見えてるんだから
0633人間七七四年
2008/01/28(月) 21:41:36ID:kfGmQgvv「詳しくは読んでないから知らないけど」
それ以前に、いわゆる義昭追放以前から献上米は途絶し始めてるんじゃないのか?
各地荘園も渋り始めてるし、朝廷すらも衰微していってる状況で、幕府が安穏と受け取ってるというのは考えにくいが
そりゃ多少はあるだろうが、それは三好らの権力と結びついた結果じゃないの?
0634人間七七四年
2008/01/29(火) 11:43:04ID:VVI481gq毛利からもらえるから別にいいじゃない?
実際輝元が副将軍になってたし。
0635人間七七四年
2008/01/29(火) 12:34:12ID:AKvmP9920636人間七七四年
2008/01/29(火) 14:10:47ID:jROk0z+Jすでに実力で権威を付与する立場にのしあがってきた信長秀吉が
その幕府の後を襲う形にこだわる必要はまったくなかった。
義昭が将軍位にながくとどまっていたのは結果論にすぎない。
0637人間七七四年
2008/01/29(火) 15:38:39ID:dJiIyK520638人間七七四年
2008/01/29(火) 18:15:30ID:A8YyDqFFその権利の切り売りがあったからこそ信長は義昭を将軍のままにしておいた
のではないのか、だから結果論ではないと思う。
0639人間七七四年
2008/01/29(火) 18:41:08ID:DL/iaobW将軍職を解任する権限を持っているのは朝廷なんだけど
朝廷もわざわざ解任する必要もないという判断であえて解任しなかっただけで
実質的には他国に亡命した時点で何の将軍としては終了してる
0640人間七七四年
2008/01/29(火) 19:10:00ID:+qcodhdK前は追い出した方が新しい将軍立てたり、追い出された将軍を引き取った方が
その亡命将軍推したてて上洛したりしてた。将軍位にまだ権威や利用価値が
あったからね
0641人間七七四年
2008/01/29(火) 21:41:29ID:jROk0z+Jそのとおり。信長が室町幕府の権威をまだ必要としていたなら、
足利氏の別の誰かを再び擁立すればよいので、義昭をとどめておく必要はない。
義昭の存在が将軍就任の障害になるなら、そもそも「三職推任」問題はおこらなかった。
0642人間七七四年
2008/01/29(火) 22:39:13ID:0uoRheSDまあ、その通りでしょうね。
室町将軍の権威が未だに必要だったなら、今までどおり新しい将軍を擁立すればいい。
それをしなかったのは、既に信長はそんなものは必要ないと判断していたからといえる。
そして、その後も拡大を続けたことを考えれば、その判断は正しかった。
また、将軍位を与える側の朝廷も、三職推任を行っているということは、
義昭の存在などあまり気にしていなかったということ。
0643人間七七四年
2008/01/29(火) 23:06:20ID:uq09WYOJ必要ないなら、処分するなり、追放するなり手段はあるが、実際はしてない
はてさて、641、642の理解だとどうなるの?
0644人間七七四年
2008/01/29(火) 23:58:47ID:UUq3K+i01572年に将軍家の嗣子として誕生するが、翌年に父・義昭が織田信長により追放され、
義尋は人質として信長の監視下に置かれていた。
義昭が豊臣秀吉に帰京を許された時に義尋も大乗院の法嗣として入室する。
義尋は大僧正に任じられるが、やがて還俗して足利高山と称した。
高山は二人の男子をもうけ34歳で没した。
http://www.johokan.net/history/Rekishi/blood/contents/ashikaga.html
0645人間七七四年
2008/01/30(水) 02:16:37ID:n5EHfKtg>処分するなり、追放するなり
処分や追放する価値(必要)さえ無いというほど無価値だったという可能性と
何らかの利用価値があったから手元に留めておいたという真逆の可能性があるな
0647人間七七四年
2008/01/30(水) 06:24:01ID:RAT9lT0W不要だと言う人は彼が畿内を支配するための大義名分は何だったと
いうんだ?
0648人間七七四年
2008/01/30(水) 07:55:20ID:7ZpY3YIr前者に関してきっぱりと否定する
信長の近畿平定の障害になって、今後も騒乱の旗印になりかねない将軍の遺児を無価値って
北条でも義氏を飼い殺していたぐらいで
0650人間七七四年
2008/01/30(水) 21:59:05ID:cpmCfntJまぁ、これで義昭黒幕説は否定出来るけどな。
0651人間七七四年
2008/01/30(水) 23:01:46ID:MEqRFkPs「騒乱の旗印になりかねない」というのなら、何故そもそも現役の将軍を放置したのか?
将軍の息子よりも、現将軍の方がはるかに名分としては上だろう?
信長の名分については、朝廷を握り足利に変わる武家政権の執行者と認定されている。
0652人間七七四年
2008/01/30(水) 23:16:57ID:RAT9lT0W権威の裏付けが必要になるということ、
最高位は右大臣しかもすぐに辞しているということをお忘れか?
0653人間七七四年
2008/01/31(木) 00:24:59ID:05Q3eNOx何も問題にもなりませんよ。
もし、信長にとって室町将軍の権威がまだ必要だったなら、
その子供なり他の足利氏一族なりを新たに将軍にすればいい。
ところが、信長は確保しておいただけで、新たな将軍を擁立しようとはしなかった。
それは、むしろもはや室町将軍という権威を必要としていなかったという根拠といえる。
>>652
必要も何も信長は普通にその立場で勢力を拡大しているわけですが?
もちろん、将来についてはいろいろ考えていたでしょうがね、
朝廷からも三職推任なんてのが来ていた訳だし。
どっちみち、少なくとも義昭が京を出た時点では、
もはや信長は室町将軍という権威は必要としていなかった。
権威が必要なら直接朝廷を使えばいいのだから。
0654人間七七四年
2008/01/31(木) 01:00:43ID:GS+zNRUfんだろう? 朝廷の役職だったっけ?
0655人間七七四年
2008/01/31(木) 01:04:13ID:TRy/30G6就任してない(幕府もないし)のに?
0656人間七七四年
2008/01/31(木) 02:55:20ID:05Q3eNOxその話がどこまで本当か知らないが、もし本当にそう名乗ったなら、
単純に相応しい官職名が特になかったからというだけなのでは?
何しろ室町幕府の正式な任命ではないのは明らかなのだし。
もしも、室町幕府の権威を必要としていたのなら、勝手に自称するのではなく、
新たな将軍を擁立して、その下で正式に関東管領でも何でも就任すればよいのだから。
0657人間七七四年
2008/01/31(木) 05:38:45ID:ULesrGrbそれは国家の省庁とは全然別物でオウム真理教の内部の組織名
ってのと同じで
「関東管領」というのも幕府の役職とは全く別物の
織田軍団の中の「関東管領」って事なんじゃない?
0658人間七七四年
2008/01/31(木) 09:48:37ID:Aq99d8Jp国司も名乗り放題
0660人間七七四年
2008/01/31(木) 13:39:55ID:GS+zNRUfふさわしい役職名がなかったからといって幕府のそれを名乗るというのか?
あなたが言うには信長は朝廷の人間なんだろ?おかしくないか?
それに幕府はもうないんだろ?
0661人間七七四年
2008/01/31(木) 13:59:54ID:kU2aRNU8その様に署名された文書なりが残っているの?
信長が彼を正式に管領に任ずるなんて言った文書なりの記録があるの?
彼が上野に派遣されたのを見て、「彼は室町における関東管領みたいなもの」と
言われたようなものなのでは?
そもそも正式な室町幕府の管領職なら上杉が保持しているのだし。
0662人間七七四年
2008/01/31(木) 14:01:20ID:GLp/awg4他の地方で幕府職を名乗るのは意味ないけど、関東で関東管領名乗るのは
結構影響力あるので関東管領名乗らせただけでしょ
0663中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2008/01/31(木) 14:10:13ID:LeY5RPXy天正十年十月三日従五位下左少将が位記の初見
ただし吉田兼見などは早くから秀吉に対して「羽筑」の語を使っている
自称官としては通じていたようだが追認された形跡はない
>>660
「信長公記」には関八州の御警固
「伊達治家記録」には東国奉行
「信長記」には関東管領
同時代史料には管領の「か」の字もねえよ
0664中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2008/01/31(木) 14:19:22ID:LeY5RPXyつか何で鞆幕府や滝川に話が行くのだwwwwwwwww
このスレも末期よのうwwwwwwwwwwwwwww
0665人間七七四年
2008/01/31(木) 16:24:05ID:My07F9Um0667人間七七四年
2008/02/01(金) 21:36:43ID:U8xT394b長いだけで特に何も言ってないのな、それに話が矛盾してて何が何だか?
おまえが言いたいのは信長政権?というのは軍事クーデターみたいな
ものってことか?
0668人間七七四年
2008/02/02(土) 00:08:05ID:HuVCq7xb>>653>>656で言いたいことなら、
少なくとも義昭が京を出た時点では、
もはや信長は室町将軍という権威は必要としていなかった。ってこと。
むしろそれだけ基盤を確立していたということだから、
クーデターみたいなものだということとは、まるで逆の主張なんですが。
0669人間七七四年
2008/02/02(土) 00:18:53ID:7kF5LckW信長個人だけでなく、畿内の豪族や京都町衆さらに公家や朝廷までもが、
足利将軍はもう必要ない、なくてもどうにでもなる、というコンセンサスが
あったということでしょう。
0670人間七七四年
2008/02/02(土) 00:23:21ID:HuVCq7xb現に信長のもとに三職推任なんてのも来ているのに、
秀吉の時代に、足利義昭の存在が将軍職に就くための障害になるなんてことは、
ほとんどありえないだろうと。
0671人間七七四年
2008/02/02(土) 00:55:34ID:iqbWvHcsとして幕政の実権を握ったとする意見が目立つね、ただ彼らとちがうところ
は信長が足利家に取って代わろうとしたところ。
0672人間七七四年
2008/02/02(土) 18:55:29ID:7kF5LckW上洛した時点で、取って代わる気満々だったと思える。副将軍位も管領職も蹴って、
将軍権力を否定・拘束するような条約を突きつけて、さらに朝廷とも深く結びついて。
0673人間七七四年
2008/02/03(日) 01:02:12ID:HEHcSsUX北条も義氏残してる
養子を捩じ込んで、支配するなんて良くやってるのに、公方に対してはしてない
結局なんのために大義名分を求めるかといえば、色んな協力を得るためで、度が過ぎた方法で大義名分を求めたら、そりゃ協力は得られないだろう
なので、手元に子供を残して、傀儡にしようとしたと
>>653
だから、時期将軍のために義尋を囲ってたんだろうと
あと時系列無視しすぎてない?
本能寺とかあのあたりになれば、もう朝廷のほうを重視して、幕府は軽視してるが、少なくとも義昭追放の頃なら重視してるでしょ
>>672
そりゃ幕臣になれば、義昭の統制を受けなければならないからじゃないか
また取って代わるつもりなら、傀儡化する必要は無いんじゃないか?
義昭将軍任官→圧力→信長任官
でやったほうがいいじゃん
0674人間七七四年
2008/02/03(日) 06:46:06ID:dPSw3GPl信長が本当に幕府や将軍が必要だと思っていたとしたら
義昭を追放した時点ですぐに次の将軍を指名してるでしょうに
頭おかしくないか?
0675人間七七四年
2008/02/03(日) 09:00:48ID:9ZXwuqd70676人間七七四年
2008/02/03(日) 09:25:45ID:HEHcSsUX当時義尋は何歳でしょう
そして例えば関東公方の文書発行において、正式なものと認められるのは何歳からだったでしょう
0677人間七七四年
2008/02/03(日) 13:27:46ID:VOfShVba>>674は義尋を将軍にするなんて言っていないわけだが?
もし、将軍が必要なら細川や三好がやったように、
他の足利一門つれてきて代わりの将軍にすれば良いだけ。
0678人間七七四年
2008/02/03(日) 14:01:02ID:ArHNQTO2>時期将軍のために義尋を囲ってたんだろうと
で、実際に信長は義尋を将軍に就任させたんですか?
>>676
七代義勝は九歳
八代義政は八歳で将軍に選出(正式な就任は十四歳だが)
九代義尚は九歳
十三代義輝は十一歳
0679人間七七四年
2008/02/03(日) 15:31:05ID:HEHcSsUXほかにいたのか?
>>678
>>673
>本能寺とかあのあたりになれば、もう朝廷のほうを重視して、幕府は軽視してるが、少なくとも義昭追放の頃なら重視してるでしょ
就任時期は聞いてない
関東公方にも幼くして就任したのはいる
が、その発行文書は管領の名前で発行されてる
つまり、ある程度の年齢にならねば公方としての実質が伴わないということ
0680人間七七四年
2008/02/03(日) 16:06:54ID:VOfShVba足利市の一門がもう誰もいないなんて事はないと思うけどね。
そして何を根拠に「義昭追放の頃なら重視してる」といえるの?
その時に重視していたなら、まさにその時に代わりの将軍を立てるのが当然だろうに。
それから、権威を利用する為なら、公方としての実質など伴わない方がむしろ好都合でしょう。
あなたの言っていることはいろいろと破綻していますよ。
0681人間七七四年
2008/02/03(日) 16:28:22ID:36G1xf9b足利義昭を解任も殺害もしないで追放するような事は考えられない。
解任した上で追放し、すぐに次の将軍を擁立しなければならない。
そうしないで放逐したのは、天下統一を主目的とした織田家の外交に
足利将軍はもはや必要ないと判断したから。
実際に足利義昭追放後に「将軍がいなくて不都合が起きた」という話はない。
0682人間七七四年
2008/02/03(日) 16:42:11ID:9ZXwuqd7嫡流である義昭の息子に勝る候補っているのか?
実質をともなわない将軍が理想的というならば義昭などうってつけなのでは?
人質はとっているし、京にいない、下手に新しい将軍をたてたら厄介、
それなりに敬意を表さなけるばならないし、第二の義昭になりかねない。
0683人間七七四年
2008/02/03(日) 19:45:48ID:ArHNQTO2だからその理想的な義昭を、どうして信長は追放したんだ?
帰洛交渉だって蹴ったしな。もし信長がどうしても義昭の身柄が欲しかったのなら、
義昭の人質要求だって呑んだだろうよ。
0684人間七七四年
2008/02/03(日) 19:49:32ID:HEHcSsUX一門が誰もいないとは思わないぞ
そんな屁理屈もとめてるんじゃない
将軍に据えるにふさわしい血筋の人間が果たしているのかどうかってことだろ
関東公方はおそらく一番の良血だろうが、将軍としてふさわしいかとなると別だろ
義昭が織田と袂をわかって毛利に行こうとしてるときに「帰って濃いよ」と、織田から言ってる
何よりの証
それから文章読んでる?
将軍に据えるにふさわしい人間が見当たらないから嫡子を後生大事に確保してるんだろう
公方をどういう意味で用いるのか→支持を得るため→支持を得るために強引な手法は取れない→実質の伴わない、明らかに傀儡とわかるような存在を無理やりに将軍に据えたら反発が予想される、しかも該当する血筋のものがいない
>>681
重視してるから将軍を殺せないんだろう
北条が関東公方に養子すら送り込めなかったように
0686人間七七四年
2008/02/03(日) 20:55:06ID:Rf65IK+N室町幕府の権威を利用できるタマは握っていたろう。幕府なんか義昭なしでも
いつでも再興できる地位にいたんじゃないの、信長は。
0689人間七七四年
2008/02/03(日) 22:45:04ID:ArHNQTO2現実に、義昭追放後に成立した織田政権は足利の権威をまったく使わずに運営され、
それでまったく障害もなかった。
信長の諸大名の統制、また地方の大名への介入はすべて信長自身の名前で行われている。
足利やら幕府やらの権威はまったく出てこない。そして人質の嫡子はまったく放置。
後北条氏のように政略に名前を使うというような利用もしていない。
これで、信長はまだ足利将軍の権威を必要としたとか、嫡子を大事に抱えていたとか
妄想としか言えないんだが。
0690人間七七四年
2008/02/03(日) 23:10:48ID:VOfShVbaだから、実際義昭をそのままにして新たな将軍なんて立てていないでしょう。
つまり、その時点で信長は、自身と対立した義昭に対抗する権威としての、
新たな将軍の必要性なんて感じてはいなかったということ。
>>684
あのさ、そもそも足利将軍の存在が支持を得るのにそんなに必要なものだったなら、
現将軍と真っ向から対立し戦火を交えた段階で、
信長は多くの支持を失い、もっと大変なことになっていたと思わないかい?
0691人間七七四年
2008/02/03(日) 23:13:47ID:HEHcSsUXだから、使いたくても使えない状況だったでしょ
義昭は手元に無い、嫡子はまだ幼くて将軍には据えられない
これでどうやって幕府の名前を持ち出すのかと
そこで朝廷に切り替えた
しかし、将軍の重要性は認識していたので、人質兼将来の将軍候補は手元においておく
本当に必要としていないなら、追放なりなんなりするよね
>>686で思い出したけど、斯波を尾張統一の過程では利用して、終了したら追放してるように
何回もいってるけど、大義名分を持ち出す最大の理由は、支持を得るため
強引な手法でやったら反感を煽ることはあっても、支持を得ることは無い
別枠で質問なんだけど
1、将軍の権威は残存してた?残存して無いならどの時点で消失した?
2、朝廷の権威は残存してた?残存してないならどの時点で消失した?
0692人間七七四年
2008/02/03(日) 23:23:06ID:HEHcSsUXこっちの質問にも答えてもらいたいものだが
次は答えてね
結論から言うと、思わない
武田は信濃から小笠原を放逐し、今川も遠江から守護を追い、北条は武蔵、上野から守護・管領を追い、長尾は守護と戦い無力化し
と、全国で権威保持者を実力で排除してる
しかし、いずれも(北条は関東公方だけど)守護職を求め、就任し、或いは統治にその権威を利用してる
当時の戦国大名は守護公権を吸収して、統治をしていったというのは普通の理解
翻って織田の場合
きわめて長尾の例と似ているから、暇があれば長尾為影の時代から影虎の越後の領国支配と変遷について調べてみるといい
0693人間七七四年
2008/02/03(日) 23:24:42ID:HEHcSsUXお休み
eoが規制されてなけりゃレスするよ
0694人間七七四年
2008/02/03(日) 23:26:51ID:97WsSrTY平島公方家くらいじゃないかな
関東の足利一門を擁するのは無理ではなかったにしても
現実的ではない品
0695人間七七四年
2008/02/03(日) 23:27:30ID:ArHNQTO2だから、将軍権威が必要なら義昭をどうして追放したのか?帰洛交渉を打ち切ったのか?
>これでどうやって幕府の名前を持ち出すのかと
そう、すでに言っているが、幕府の名前を持ち出さずに織田政権は運営されている。
>将軍の重要性は認識していたので、人質兼将来の将軍候補は手元においておく
本当に必要としていないなら、追放なりなんなりするよね
だから、現将軍の義昭は追放しているだろう。自分で自分の主張を否定することを
言っているって自覚してます?
人質というのは、預かった以上はそれなりに保護する義務があります。自分に逆らったり
しない限りはね。斯波氏の息子も、反乱を企んだという理由で追放している。そして
追放したのは企んだ当人だけで、他の兄弟はそのまま家中にとどめている。
あるいは反乱云々は口実かもしれないが、人質なり客なりを追放するにはそれなりの
正統な理由が必要とされたということだ。
>そこで朝廷に切り替えた
信長が朝廷と結びついたのは、実は義昭を奉じて上洛する以前から。
0696人間七七四年
2008/02/03(日) 23:30:14ID:VOfShVba本当に使いたくても使えない状況だったなら、その状況でも義昭と対立した段階で、
使えなくなっても良いと判断していたってことになると思うが?
もしも、足利将軍の権威がどうしても必要である、
そしてその点で義昭に代わりになるような存在は他にはいない。
ということが前提だったなら、
では、今の段階で義昭と対立することは出来ない。という結論になるのだから。
0697中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2008/02/03(日) 23:37:14ID:YxnoXvcZ義昭の権威を利用して波多野や若狭武田を呼びつけた件は何だったんだ?
志賀・堅田の戦いで義昭の調停を仰いだのは何だったんだ?
義昭の御内書の副状に信長の署名を付けたのは何だったんだ?
冗談も休み休み言え
0698人間七七四年
2008/02/03(日) 23:45:54ID:ArHNQTO2地方大名は、敵対者に対して正当性を保持するために、将軍権威を利用した。
信長は、その将軍権威を否定、乗り越える為に早い時期から朝廷と結びついて、
その権威を利用して(公的政権としての)足利幕府を消滅させた。
>>691
>1、将軍の権威は残存してた?残存して無いならどの時点で消失した?
個人的な見解だが、長慶以前と以後で大きな変化があったと考える。
それまでは、足利将軍が公権力の担い手と認知されていた。どれほど足利家自体が
没落し弱体化しても、実質政権運営を担った実力者たちは自己の正当性を証明する
手段として足利将軍の権威を必要とした。応仁後の細川政権にしろ、大内にしろ、
あくまで将軍の代行として自分が権力を振るうという立場をとった。
ところが長慶の三好政権は、将軍権威を使わずに成立し運営された。それは時期は
短く、最終的には和解して、かつての将軍の下での執行者という体制に戻ったが、
この政権がとにもかくにも現実に誕生したために、
・公権力となるのに足利将軍は必ずしも必要ではなく、なくても当人に実力があれば
なんとかなってしまう。
という事実が確立され、さらに周囲に認識されてしまった。
砕いて言うと、「なくてはならない」から「あれば便利だけどなくてもそれなりに」という
程度に落とされてしまった。これが決定的な契機だったと思う。
その後、義輝が殺されると、義栄が就任するまで三年以上将軍は不在。
0699人間七七四年
2008/02/03(日) 23:46:34ID:VOfShVba義昭が信長と対立して京を離れた時点ではって話。
>>692
一番肝心の、「何を根拠に義昭追放の頃なら足利将軍の権威を重視してるといえるのか」
には全く答えて貰っていないわけだが?
とりあえず、将軍と朝廷の権威なら、どちらも存在していた、
しかし、将軍の権威は追放されたり暗殺されたりで下がり、義昭が京を離れた段階では、
信長にとってもはやどうしても必要なものではなくなっていたってところでしょう。
0700人間七七四年
2008/02/04(月) 00:09:57ID:d3PsvH3K短く、最終的には和解して、かつての将軍の下での執行者という体制に戻ったが、
>この政権がとにもかくにも現実に誕生したために、
>・公権力となるのに足利将軍は必ずしも必要ではなく、なくても当人に実力があれば
なんとかなってしまう。
>という事実が確立され、さらに周囲に認識されてしまった。
これなんて今谷明!
0701人間七七四年
2008/02/04(月) 17:00:56ID:Jvt2dnkR将軍追放したのは対立したからでしょ
同じ文章の中で矛盾起こしてない?
将軍権威が必要じゃないなら、帰って来いという交渉すら必要ないでしょ?
織田政権が幕府の名前持ち出さずに運営されてるから何?
反論してるつもりになってるのかしらないけど、それ以外に方法が無いといってるのよ、こっちは
それ以上の意味を見出そうとしてるのがあんたなの
つまり、織田信長が「意図的」に将軍の名前を持ち出さなかったということを説明しなきゃ反論として不満足じゃないかな?
だから、将軍とは何度も対立してるからさ…
自分の意志に沿わない、しかも統治の障害になるような存在を囲っとくわけ無いでしょ
だから、子供を確保して、次期将軍を傀儡にしようとしたということ
それでも義昭に未練があっての帰って来いよという交渉
ところでさ、斯波は反乱を企てたとして追放したんだよね
将軍もさ、反乱を(こっちは実際に、でも将軍が反乱ってものヘンだが)起こしてるわけで、追放せざるを得ないよね
逆に言えばさ、追放するにたる正統な理由があるのに、追放しなければそれは織田が軽んじられるってことよね
朝廷に切り替えたってのは、権威の保証者としての存在をって事ね
>>696
戦国大名の本質は領土拡大
それを遂行する過程で、権威者と対立するのはよくある話
例に挙げたけど、長尾なんかは守護と対立したけど、その後の統治には守護の名前持ち出してるでしょ
義昭と対立しなけりゃ、そりゃ織田が衰退するだけ
どこの大名もそうだけど、守護公権を吸収して統治に利用してるって書かなかったかな、覚えてないけど
北条も関東公方と対立したけど、結局取り込んでいったでしょ
0702人間七七四年
2008/02/04(月) 17:02:08ID:Jvt2dnkR早い時期っていつよ?
お、こりゃどうも
できれば2についても答え貰いたいんだけど
それからさ、新たに質問追加
3、権威と権力の違いとは
>>699
いや、ちゃんと答えてるでしょ
答えてるというか、反論してるでしょ
不安になって確認しちゃったよ
あんたは将軍を重視してたなら、代わりの公方を立てたとしてる
でも、こっちはその代わりの公方たるべき人間がいないといってる
立てる公方がいなくて、代わりの公方を立てられないのに、公方を擁立しなかったから重視してなかったという論理はズレてるでしょ?
でさ、今度こそ答えてね
まともな議論を望む姿勢とは思えないよ
あえて質問明示しとくと
将軍に据えるにふさわしい血統の人間が存在したのか
これはでも、あんたの質問に対する回答にもなっちゃうのよね
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