では秀吉が将軍に「なれた」「なれなかった」から少し離れてみよう
秀吉の官位累進を見ると、その一次的な動機は敵対勢力をいかに飲み込むかを想定した
叙官であったかを知ることが出来る
つまり権少将の叙官は10月に始まった織田信雄との和睦交渉にメドがついた10月中に起こり(翌11月和睦)
これにより織田家で生存する男子のうちもっとも高い官位の者と同等の立場に成り上がった。
それ以後、内大臣獲得までの官位累進は紀伊・四国・飛騨・越中など統一過程で順当に獲得した結果であり
関白職に至っては小牧・長久手の敗戦上講じられた処置、つまり家康という最大の敵対勢力を飲み込むための
手段だったとして理解されている(朝尾・永原)
秀吉が天下統一事業や政権構築のために、受けた官位を運用していくのはその後の話で
官位獲得によって生じる職域や権利の行使は、官位累進の動機としては
あくまでも二次的な側面であるといえる

秀吉が将軍に「なれた」「なれなかった」を語る時には上記に上げた一次要因、
つまり秀吉が他者を圧倒するためには果たして本当に将軍職が必要だったのかどうかを検証することが
重要であると思う。
上にある一次要因を克服するために秀吉は他者より優位に立つための場当たり的な官位獲得を行なっており
>>239で上げた官位足跡を見てもかならずしも将軍職に固執した累進でないことがわかる

与えられた状況証拠から類推するかぎりは、やはり秀吉は将軍職を目指してないと結論付けるしか
他に方法はないだろう。新史料でも出れば別だが
恐らくこれが現在の歴史考察における限界ではないのだろうか?