>>199-200
東夷説の側はそんなスパンで勝った負けたを言ってるんじゃないでしょうよ
小牧長久手の敗戦は1584年
家康の上洛は1586年
秀吉の関白宣下はその間の1585年で
その時点では家康がまだ臣従してないどころか四国征伐すら済んでない

旧織田家内部の後継者争いをほぼ収め終えただけで
まだ対外的な軍事的勝利を収めていない1584-85年の時点では
征夷大将軍になるための「関東打ハタサレ」が欠けていたので
先に関白になってから朝廷の名の下で対外的に優位に立つ戦略を選んだ、
というふうに「何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか」の
経緯を説明するのが東夷説+武家関白説なんだから
秀吉がその後天下人になったことをいくら叫んだって反論にはならないよ