何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか? 2
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 10:48:33ID:R6vu/Xof何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152118867/
0154名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/01(水) 20:20:30ID:kNOrTL/Yいきなり核心をついちゃったよ、そう、このスレは家康叩きが目的であり
屁理屈をならべて秀吉が将軍になれたことにしようとする所です。
0155名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/01(水) 20:33:45ID:VaEyHv0W0156中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/01(水) 20:45:02ID:fRGyndTnそうか
へえ
0157名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 01:09:47ID:yJ1RMaE10158名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 01:29:48ID:WA44RHoGあけ渡さなかったから秀吉は将軍になれなかったでいいではないか、これだ
けでも十分理由になってると思うが。
0159名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 02:50:57ID:6lR4vVie1・秀吉が将軍職を望んだという史実
これだけあればOKだが、それがないのなら
2・秀吉が将軍になる必要性
3・秀吉が将軍になれない理由
これをキチンと説明する責任があるのだが
「将軍になれなかった」と主張しているヤツは
この説明責任から逃れ、相手の人格を否定する事だけに奔走し、
ほとぼりが冷めた頃に同じ事を繰り返し主張するという無限ループに陥っている。
前スレからずっとこれ。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 02:54:39ID:bDL3wTJWそれが史実でないから問題なんだよ。
0161名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 02:57:18ID:WA44RHoG0162中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/02(木) 10:58:38ID:8Umd1Xv8京を追われたときに将軍職がなくなったと考えるのなら
義稙以下歴代将軍はどうなるんだよwwwww
0163名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 12:36:44ID:WA44RHoGこのように思っている人は少なくない、実際1573年に解任されたとする本を
目にすることがあるし、公卿補任に義昭の名がずっと記載されていたことを
意外と述べている人は多い、
公卿補任のことが取り沙汰されるようになったのは比較的新しい話ではないか?
0164中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/02(木) 13:19:36ID:8Umd1Xv8将軍辞職後に准三后とは、ここの経歴だけみれば足利義満と同じか
0165名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 18:57:04ID:iRUWhup4のもうかかがわれるけど、それらの事実と林羅山の書いた猶子拒否の話の信憑性はまったく別問題と考えるほうが
いいと思うんだけど。
0166名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 20:34:04ID:WA44RHoGか無視されていたのではないか、それ故、専門家は秀吉が将軍にならなかったこ
とを不思議に感じ関白になったことから逆算して色々な説を生み出したのではな
いか、
0167中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/06(月) 13:59:38ID:MmuBu0B9京子ちゃんだけでお腹いっぱいです
0168名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 15:12:56ID:v75xD+QF家柄コンプレックスだからさ
0169中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/06(月) 16:05:00ID:MmuBu0B9ただ任官時期を改竄して累進を急いだのは確かだ
0170名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 21:14:52ID:c3ffLvcYそれを秀吉は断ったという話があるがどうなの?
後代の林羅山のはなしより同時代の多聞院日記のほうがよほど信憑性高いと言えないか?
0171中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/06(月) 21:50:42ID:MmuBu0B9秀吉に有利な計らいなら、英俊に先んじて権大納言晴豊・右大臣晴季・神祗大副兼見ら秀吉に平身低頭な
彼ら昵近公家衆らが耳にし、或いは記録に残すはずだ
他でもない秀吉の関白任官に関する情報は、まず任官に先だって晴豊が受け、兼見が記録している
(天正十三年七月九日・秀吉の関白就任二日前)
要するに秀吉に近い公家衆より先に情報を得ることはアリエナイ。単なる風聞じゃね?
0172名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/06(月) 23:04:12ID:c3ffLvcY断ったなんて話にはならなかったと思う。英俊だって義昭の動向は気になっているはずだし
0173中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/07(火) 10:05:43ID:BuVe1UKvこの官位運動に対する理由付けを当時の人間が色々と噂していただけかも知れない
目的語を将軍職においた風聞とは言いきれないと思うぞよ?
あと奈良の田舎ぼうずが中央の政局や備前の貧乏公方の情報を正確に受け取れたのかどうかも疑問だな
0174名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/07(火) 12:51:59ID:+JK9ba5d確実なのは当時「そういう噂」があったということだけかな
ただしその噂に対して特に疑問を呈することなくそのまま書き記しているということは、
当時の人間は秀吉の血筋やら小牧・長久手の敗戦やらは
将軍就任に対して大して問題だと考えてなかった、と逆説的に言えるかもしれない
0175中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/07(火) 13:44:01ID:BuVe1UKv信長=平姓、秀吉=平姓だし単純に等号でつなげば
「平姓信長が将軍になれるなら、平姓秀吉も将軍になれる」でいんじゃね?
あと>>173の補足だが、公家の日記に将軍を望んだことも将軍を辞退したことも書いてないから
秀吉は最初から将軍を望んでなかったと考えていいかもね
結論
1.秀吉が将軍になることに障害はなかった
2.秀吉は将軍になるための運動を起こしてないからなる気はなかったと考えられる
0176名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/07(火) 23:53:50ID:kq88H0hr相変わらずキチガイ炸裂ですなw
結論は正しいが
1・晴豊は「信長が将軍になるだろう」とは書いていない。
村井に「信長を関白か大臣か将軍に推任したらどうか」と勧められた事を朝廷に報告しただけ。
2・秀吉は平氏も源氏も関係ないほどの低い身分の出身。
忘れないようになw
0177名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 01:21:02ID:qDk35lAo>村井に「信長を関白か大臣か将軍に推任したらどうか」と勧められた事を朝廷に報告しただけ。
それ京子説やん
0178名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 06:32:27ID:XVPENUjc摂家や皇族など血筋の良い者を選んでトップとして担いでいた、それにより
武士が政治を行なう正当性を主張していた、それなのに他の大名と比べても
出自のわるい秀吉を将軍に担いでどうするの?
0179名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 07:11:22ID:Q3QUvzXU0180名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 08:36:27ID:B9f8Wj5Y摂家や皇族など血筋の良い者を選んでトップとして担いでいた、それにより
武士が政治を行なう正当性を主張していた、それなのに他の大名と比べても
出自のわるい偽源氏を将軍に担いでどうするの?
0181このスレのまとめ
2006/11/08(水) 11:11:10ID:iQcrmmZ8A1、秀吉が将軍を断念したソースは林羅山の「豐臣秀吉譜」のみなので今のところ否定も肯定も出来ない
Q2、秀吉は農民だから将軍になれなかったんじゃないの?
A2、秀吉は平姓として筑前守になり藤原姓として関白になり豊臣姓として太政大臣になってる
どれも立派な姓であり、秀吉の出自が官位就任に影響をおよぼしたことはない
Q3、源氏しか政権担当者としての将軍にはなれないんだよ。おまえ馬鹿?
A3、「天正十年夏記」によると勧修寺晴豊は信長が将軍になるだろうと感想を洩らし
誠仁親王も信長をどのような官にでも推挙すべしと言っている
そして信長は平姓。もうわかったね?
Q4、はあ?意味不明
A4、だから信長が平姓で将軍になることに問題はないから
平姓秀吉も将軍になることに問題はないと考えられるの
Q5、だったら将軍になればいいじゃん。ならなかったのはやっぱ秀吉じゃ無理なんだよ
A5、小牧・長久手合戦の直後に権大納言や内大臣つまり将軍が兼任した官位を獲得したが
すぐに関白になっているため秀吉は将軍職を望んでなかったようだ
小牧・長久手の敗戦により将軍職を諦めたという論説もあるが
秀吉が将軍職獲得のために運動した形跡はないため憶測にすぎない。
Q6、だから何?
A6、つまりこのスレの結論は「将軍職に興味を示した資料は無いが、秀吉はなろうと思えば将軍にも関白にもなれた」
「むしろ朝廷をも支配出来る関白になるほうが都合が良かった」ということ
Q7、秀吉厨キモすぎwwwww必死だなwwwwww
A7、・・・反論に窮してその態度かよ
0182名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 11:41:22ID:Z47/GgFD0183名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 12:27:00ID:GjYGjGmoそういうのがかえって説得力をなくすんだけど
0184名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 13:19:34ID:Z47/GgFDただ単に煽りたいだけの人が常駐してるのがわかる
それに対する牽制のつもりなんでしょ
自分もそんな煽りまがいのことは不要だと思うが
0185名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 18:41:42ID:32X879pdお前原文も読んでないのかよw
0186名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/09(木) 00:52:24ID:xMIdNc/j豊臣姓つくってギャフンと言わせてやりましたわ。
0187名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/09(木) 13:24:08ID:l209gQoIお前こそ原文嫁
というか原文の解釈で2通りの説が出てるだけなんだがな
0188名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/09(木) 23:43:48ID:xvK8Ygcn(原文)
村井所へ参り候。安土へ女房衆御下し候て、太政大臣か関白か将軍か、
御推任候て然るべく候よし、申され候、その由、申し入れ候。
(一般的な解釈)
私(晴豊)は村井の所へ参りました。そこで私(晴豊)は村井に
「朝廷は安土へ女房衆を派遣して信長様を太政大臣か関白か将軍に
御推任するのが当然ではないか」と言われた。
私(晴豊)はこの事を朝廷に知らせた。
(キチガイの解釈)
私(晴豊)は信長様が将軍か何かになるだろう。
0189名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/10(金) 00:11:11ID:kBcTxlXF立花京子儲とでもいうのか。
信長と十字架読んで納得しちゃうお馬鹿。
0190名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/10(金) 01:45:52ID:TjhiiUb3古文の知識があって素直に読んだらそうなるはずだし
「解釈が分かれている」というのは
推任の件を持ち出したのが村井か晴豊かで分かれているのであって
キチガイの解釈は論外なわけです
0191名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/10(金) 02:09:20ID:TjhiiUb3戦前の天皇陛下万歳時代に行なわれた「歴史上の人物は勤皇派かどうか」という意味不明の分別で
「信長は勤皇派」という誤った解釈をしたために生まれた発想
「天皇陛下と信長の関係はうまく行っていたはずだ」という誤解があったために
「村井から切り出すはずがない」とされた
0192中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/10(金) 07:05:16ID:3glb3EsN>>176
>2・秀吉は平氏も源氏も関係ないほどの低い身分の出身。
秀吉の身分のことを言ってるんじゃない。秀吉の身分が彼の官位累進に影響をおよぼしたことがないのは
史実で秀吉が就任した官位を見れば明らかだろ?それとも秀吉は「非貴」だから関白就任は嘘でした
とか言いだすのかw
>>188
それ4/25日の記述だな。それには二通りの解釈が存在し、村井主体説をとってるのは
京子ちゃんと今谷らしかおらんよ。4/25を受けて5/4の勅使派遣につながるが
それまでの朝廷側の準備が左大臣推挙のときと同じく朝廷(というより誠仁親王)主体で行なわれていた
ことに着目し今回のも朝廷から信長側に伝えられたと結論付けている。
「信長権力と朝廷」における京子ちゃんの解釈は、岩沢がご丁寧に原文の訳をして反論してるから
読んでみるといい
>>191
>しかも「晴豊のほうから切り出した説」のほうは
>戦前の天皇陛下万歳時代に行なわれた「歴史上の人物は勤皇派かどうか」という意味不明の分別で
>「信長は勤皇派」という誤った解釈をしたために生まれた発想
日々記が晴豊のものだと証明され、信長への三職推任があったのが報告されたのは戦後なんだが
0193名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/10(金) 09:42:33ID:KuXRRtqw御推任候て然るべく候よし、申され候、その由、申し入れ候。
立花京子氏の解釈
私(晴豊)は、村井貞勝から「朝廷は安土へ女官を派遣され、信長様を三職に推任するべきである」という
申し入れを受けた。このことを私はすぐに(朝廷に)報告した。
東大史料編纂所の岩沢としひこ氏の解釈
私(晴豊)が村井貞勝のもとへ行き、正親町天皇が安土へ女官をつかわし、
信長を三職に推任したいと望んでいる、と申し入れした。
ここで立花氏が「申され候」のれ(被)に関して、自分自身を表現する文ではないって根拠なんだが、
岩沢氏が「(正親町天皇)が申され候」と反論しとる。
というか立花説は今谷氏以外支持してる歴史学者なんぞ居らんわけだが。
まぁ三職推任に関しては以下のスレでも話題になってるから見てみ。
ttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160252794/
0194中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/10(金) 10:18:31ID:3glb3EsN全然盛り上がってないな。向こうのスレ
三職を最初に推挙したのが誰か解釈上の違いはあるが、5/4にはそれが朝廷の推挙になり
晴豊自身も、信長が将軍になる儀って言ってんだからいいんじゃね
それより秀吉の将軍に関する件はもう最終結論か?
0195名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/10(金) 12:44:57ID:33+BHz8N何で晴豊の述懐が、村井貞勝との会談の話になるんだよ
0196名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/10(金) 13:08:24ID:KuXRRtqwキチガイとか言っちゃうくらいだからなぁ
それに
>古文の知識があって素直に読んだらそうなるはずだし
素直に読んだら岩沢説の読み方になるんだけどな。
然るべく候よし、申され候、
(安土へ〜と(正親町天皇が)申された)
その由、
(事を、)
申し入れ候。
((貞勝に)申し入れた)
0197名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 02:00:32ID:+NBtQNjS0198名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 10:04:12ID:Z1i6b+6kあるのでは?で、朝廷権威も動員しなきゃならなくなって関白を望んだとか?
0199名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 10:08:41ID:kzAtzkrcそれは関係ないだろう。結果的に家康は秀吉に従ったのだから。
それを言ったら真田や島津を叩きのめせなかった家康は
どうなんだと言うことになる。
0200名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 15:41:40ID:rNRgrYWa小牧長久手で「家康は秀吉に勝った」あるいはそこまでいかなくても「秀吉は家康に勝てなかった」とか言うのは
「真珠湾で日本が勝ったから太平洋戦争は日本がアメリカに勝った」とか言ってるようなもの。
0201名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 15:55:48ID:1Dm9uQp5緒戦で激しく犠牲をだしながら、最後は政治決着をはかったから
このあと、既成事実を積み重ねながら
日本も秀吉も社会的地位を上げていくことになるw
0202名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 16:06:13ID:+NBtQNjS0203名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 16:16:06ID:eJa3lfCN東夷説の側はそんなスパンで勝った負けたを言ってるんじゃないでしょうよ
小牧長久手の敗戦は1584年
家康の上洛は1586年
秀吉の関白宣下はその間の1585年で
その時点では家康がまだ臣従してないどころか四国征伐すら済んでない
旧織田家内部の後継者争いをほぼ収め終えただけで
まだ対外的な軍事的勝利を収めていない1584-85年の時点では
征夷大将軍になるための「関東打ハタサレ」が欠けていたので
先に関白になってから朝廷の名の下で対外的に優位に立つ戦略を選んだ、
というふうに「何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか」の
経緯を説明するのが東夷説+武家関白説なんだから
秀吉がその後天下人になったことをいくら叫んだって反論にはならないよ
0204名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 16:18:00ID:eJa3lfCN0205名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 19:38:29ID:VKC0zhjJだったら北条征伐後に将軍になればいいじゃんでループ
まあこれは関白就任天下統一後には将軍になる必要が無いことの
証明にはなっても、1584年の時点で秀吉が将軍になれたとか
将軍になる必要が無かったという証明には間接的かもしれんが。
0206名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 02:13:35ID:SNM49w3tだから、小牧の役という戦争は秀吉の勝利だって。これは動かしようがない。
その中の、長久手合戦という一局面で土をつけただけ。
0207名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 02:39:02ID:61M8LXzD秀吉は将軍に成りたかったけど成れなかった、何故だ?
って前提で論説を出してるだけじゃん。
秀吉が将軍位を望めばそれなりの猟官運動の書簡やら
史料に記述が見つかってもおかしくないのにそれが無いんだもん。
0208名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 11:15:29ID:res8XzyL>>203の言っていることを理解していないみたいだね、要は東国を支配下に置い
ていないということ、
0209名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 13:07:21ID:fbZ9QgbHそれではやはり駄目なんだろうか
0210名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 16:00:02ID:SNM49w3tそもそも東国支配が将軍の条件というのなら、木曾義仲とか護良親王とかどうするんだ?
足利将軍だって、関東はその支配から離脱していた時期がかなりあるのだが。
信長の三職推任だって、話が出たのはまだ武田征伐がなされていない、東国支配が出来て
いない時期だろ?
0211名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 18:12:32ID:0xHD4nKY義仲や尊氏と比較してもあまり意味はない。
秀吉当時の朝廷や武家自身が「東夷」や「源氏」を条件として
どこまで意識していたかどうかが問題。
0212名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 19:21:24ID:SNM49w3tじゃあなんの問題もないね。
朝廷自身が源氏でない、東国支配もしていない信長に将軍就任を認めていたのだから。
そもそも東国がどうこうとは肯定派が言い出したことなんだがな。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 19:36:49ID:f9/kygzYそれじゃあ
「慣例として関東の支配がどのこうの」
という妄想と矛盾するのだが
0214名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 19:42:14ID:res8XzyL0215名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 19:46:28ID:f9/kygzY0216名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 19:46:53ID:61M8LXzD0217211
2006/11/12(日) 20:22:47ID:0xHD4nKYすべて後世の創作か思い込みだろう。
0218中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/12(日) 20:43:33ID:3hyvUvQ0じゃ珍説と折衝してやろうか。勝頼父子の首が京都で晒されたのが天正十年三月二十二日
甲信が広義での関東とみるなら関東制覇がその時点で成ったと考えられ
それを受けた朝廷が三職推任を諮問して五月四日の勅使晴豊による信長への三職打診と相成
0219名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 06:28:34ID:8jx9ZUqdつまり>>210,>>212は前提が間違っておると?
0220中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/13(月) 11:15:27ID:2J8Csm3m>>218はまず第一に、三職推任までの時系列誤認を指摘
第二に、将軍就任のために東国支配が必要条件と仮定した場合に
では東国の示す範囲はどこなのかを信長の将軍推任の事例にあてはめて仮定すると
甲信であることが浮かび上がってくる。すはわち天正十二年の小牧・長久手合戦で
秀吉は家康から甲信を得ることが出来なかったから将軍を断念。そして武家関白になった
もっとも第二に上げた意見は、仮説を立証するために仮説を引用してる点で
半分妄想みたいになってることに留意してくれ。
現実には(上の方でも指摘してたが)上杉・佐竹・結城・蘆名ら東国の有力な大名が
早くから秀吉に恭順しており、信長の時には甲信獲得だけで将軍を推挙してることから
朝廷が将軍推挙の条件に「東国制覇」を掲げていたとは到底考えられないというのが俺様の持論
0221名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 12:43:10ID:8jx9ZUqdそだね。俺も>>210,>>212は変だとは思ったんだが、
俺の思っているのと何か別のことを言っているのかと
怪しんでいた。ただの誤認ということでいいのかな?
> 第二に、将軍就任のために東国支配が必要条件と仮定した場合に
・・・
> 甲信であることが浮かび上がってくる。
まあ東国を無理に甲信に限らずともいいと思うよ。
というかそもそも東国に限らず大戦に勝ちさえすれば
たぶんどこでもよかったと思うけど。
0222名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 16:41:40ID:Oj0eGDIg北陸も京からみたら「東国」、条件は一応満たしてると言えるかも
0223名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 17:00:22ID:ztglA7kxを納得させるのなんて無理に決まっている、短期間て織田家の実権を握ったこ
とだって信じられないほどのスピードだと言うのに。
0224名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 17:04:49ID:Oj0eGDIg別に自分は秀吉が賤ヶ岳の戦いで征夷大将軍になる条件を全て満たした、
と言う積もりはないが(あくまで叩き台の積もり)、
根拠も提示されずに否定されるのは納得できないぞ
0225名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 17:37:58ID:464Mol/30226名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 03:31:34ID:0OEGrJ4/しかし恭順でいいのなら、信長には甲信獲得以前から北条や佐竹伊達最上なども
恭順していたといえるから、武田滅亡時点で東国を制覇した、と言えなくも無い。
おや肯定派を証明してしまった(あくまで仮だけど)。
だたそれでも、秀吉の場合になれなかった理由にはならんけど。
北条征伐、奥州遠征で東国制覇した時点で要求すればいいだけの話。
0227名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 06:45:02ID:IhNVglul0228名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 13:44:42ID:yqdHEkGZ→既出の源氏説や東夷説、百姓説むしかえされる
→ならなかった派となれなかった派で議論煮詰まる
→結論を誰かがまとめる→新規書き込み
これで1000まですすむスレ
0229名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 17:01:53ID:IhNVglulどちらにも証拠がないから仕方ないけど
0230名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 17:04:15ID:33U1YByQログを全部読んだ上でその感想を述べているのですか?
日本語が苦手なんですか?
0231名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 17:05:59ID:IhNVglul勝手に勝利宣言する馬鹿が出没してるのは
読んでわかった
0232名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 17:07:26ID:IhNVglulぐだぐだになって人がいったん離れてから
「これで結論出たな」って言う馬鹿、
と言ったほうが正確かな
0233中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/14(火) 20:17:58ID:mj4soAHO前スレ1000レス分+現スレ232レス読んだら結論出てんじゃん・・・
0234名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 20:30:11ID:yqdHEkGZ新規書き込みが現われたらまたお会いしましょうw
0235名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 21:12:45ID:pFx0Zuu2今までの事を全部無視して「なれなかった派」が書き込みます
0236名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/14(火) 21:41:11ID:guw/UTe5IDがアホ
0237名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/15(水) 00:04:58ID:PvDk5eTdと思うが、そういう話聞かないな、
0238名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/15(水) 11:20:09ID:mm9rWoyS0239中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/15(水) 13:36:49ID:u8YVrVE2禿散らかす程に同意
>>226
>信長には甲信獲得以前から北条や佐竹伊達最上なども
>恭順していたといえるから、武田滅亡時点で東国を制覇した、と言えなくも無い。
仮に将軍職の必要条件として東国制覇というものがあったのなら、甲信制覇で完了かもな
しかし東国の範囲を探るのはあまり意味がないことだと思う
将軍職の発端を考えれば東国や奥州を支配するという原則的な意味を喚起するかもしれないが
朝廷が厳密に将軍の定義を持っていたわけでもあるまいし。
さて、何度も書くがこのスレの命題について俺様なりの考え
第一に秀吉が将軍になろうとした形跡はない。これ事実
武家昵近公家衆の日記、天皇周辺の記録、秀吉側近の行動(玄以や大村ら)。あるのは羅山の記録のみ
第二に秀吉の官位累進は将軍を狙った任官というわけではない
>天正12年10月3日・従五位下左近衛権少将
>天正12年11月12日・信雄と講和
>天正12年11月22日・従三位権大納言
>天正13年3月10日・正二位内大臣
>天正13年4月・紀伊平定
>天正13年6月・近衛と二条の関白論争
>天正13年7月11日・従一位関白
>天正13年7〜8月・四国、飛騨、越中平定
>天正13年10月27日・家康降伏
>天正13年12月19日・正一位太政大臣
つまり秀吉は将軍になれなかったのではなく
「将軍になる必要がなかった」あるいは「将軍にならなかった」と結論
>>237
1584年11月に秀吉が三法師の官位を越えるから
仮に三法師にその資格があったとしてもその時点で断たれてるな
0240名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/15(水) 16:11:14ID:0bojs+ho最初の頃は将軍追放後の信長時代の
信長信忠の官位任官の方針を単に受け継いでいるようにも見える
0241名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/16(木) 17:24:19ID:RND81Madそのような史料がないからといってはたして「なれた」と言えるのだろうか?
0242中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/16(木) 22:31:39ID:HxbwoPwl0243名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/16(木) 23:25:40ID:tzvEXYwx「なろうとした」という史料がない以上「なれなかった」という珍説の後押しにはなりませんが
0244名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/16(木) 23:52:01ID:RND81Madでは聞くが「なれた」というならばそのなるための手順や方法を具体的に提示し
ていただけないか、たとえばシュミレートしてみるとか、言っておくけど例外を
探してきて都合のよい解釈をしろという意味ではないから。
0245名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/17(金) 00:02:56ID:wT+PE+Wm何度も書かれているはずなので過去ログを読むといいよ
秀吉が関白に就任するために朝廷と秀吉がやった事の滅茶苦茶さを考えれば
将軍になるなどたやすいもんです
0246名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/17(金) 00:13:31ID:/YPuyPLAあなたの説明でよくわかりました、あなたはたいした知識を持ち合わせていない
のに人の意見を珍説呼ばわりする傲慢な人間だということが、
一応目を通したつもりだが具体的な方法は誰も提示していないが。
0247名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/17(金) 00:35:09ID:wT+PE+Wm秀吉が「将軍になりたい」とさえ言えば
朝廷がごにょごにょと手続きをしてくれて将軍にしてもらえます。
具体的な方法もクソもありません。
0248名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/17(金) 09:35:29ID:eYgd2AeY被疑者死亡で有力な物証もなく、情況証拠だけを積み重ねる捜査だよ
「なろうとした」決定的な史料が発掘されないかぎりはね
0249名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/17(金) 10:36:06ID:7XyS6NVhほんとにちゃんと目を通したのか?
「珍説絶叫君はスルー」ってのは
このスレではもう常識なんだが。
0250中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/17(金) 11:07:26ID:mC749uDL秀吉の官位累進を見ると、その一次的な動機は敵対勢力をいかに飲み込むかを想定した
叙官であったかを知ることが出来る
つまり権少将の叙官は10月に始まった織田信雄との和睦交渉にメドがついた10月中に起こり(翌11月和睦)
これにより織田家で生存する男子のうちもっとも高い官位の者と同等の立場に成り上がった。
それ以後、内大臣獲得までの官位累進は紀伊・四国・飛騨・越中など統一過程で順当に獲得した結果であり
関白職に至っては小牧・長久手の敗戦上講じられた処置、つまり家康という最大の敵対勢力を飲み込むための
手段だったとして理解されている(朝尾・永原)
秀吉が天下統一事業や政権構築のために、受けた官位を運用していくのはその後の話で
官位獲得によって生じる職域や権利の行使は、官位累進の動機としては
あくまでも二次的な側面であるといえる
秀吉が将軍に「なれた」「なれなかった」を語る時には上記に上げた一次要因、
つまり秀吉が他者を圧倒するためには果たして本当に将軍職が必要だったのかどうかを検証することが
重要であると思う。
上にある一次要因を克服するために秀吉は他者より優位に立つための場当たり的な官位獲得を行なっており
>>239で上げた官位足跡を見てもかならずしも将軍職に固執した累進でないことがわかる
与えられた状況証拠から類推するかぎりは、やはり秀吉は将軍職を目指してないと結論付けるしか
他に方法はないだろう。新史料でも出れば別だが
恐らくこれが現在の歴史考察における限界ではないのだろうか?
0251名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/17(金) 11:16:34ID:Rkzfa/Xw全国を平定して太政大臣になった後にでも
大臣との兼務でも秀次を使うにしても
自分が将軍職に就くか部下に就かせるかして幕府を開いてただろうに。
それをやっていないという事は
「将軍という地位の必要性も感じていないしなろうともしていなかった」
という客観的な証拠でもあるわな。
これ何回このスレで書かれてるんだ?
もうこれが結論じゃんか。
0252名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/17(金) 11:19:02ID:7XyS6NVhそもそも東夷説自体がそんな次元の話じゃないんだから
0253中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/11/17(金) 11:35:55ID:mC749uDLそういうことだな。原則的な話をすれば、関白も将軍も職に相当する位を持たないのが特徴だ
普通は他の職式と兼帯してその職式に相当する位をもらうのが慣例。統治には必要ではあるが
秀吉がもっとも必要だったのは他者を圧倒するための越官でありそれが秀吉の急務でもあったわけだ
その段階では将軍も関白も差し当たって必要ないわな
やがて自己の政権運営のために関白や将軍が必要になってくるわけで
原則的な解釈を用いてみてもやはり将軍になる必要はなかったといえるんじゃないかな
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