上杉謙信とその周辺の国の確執
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0001akira!
2006/10/07(土) 18:54:55ID:JvNi4Ael手取川で織田信長をも撃破した最強の武将と言われています。
軍神と言われ、義に生きた上杉謙信について、悪いことを聞く
事が余り無いように思います。
上杉謙信に攻められた国の人(特に石川県の人に聞きたい!)
にとって上杉謙信とはどのようなイメージなのでしょうか。
それぞれの立場で意見を聞かせてください!
0179人間七七四年
2007/04/07(土) 14:32:20ID:rVn2tMuB関東にも元々勢力圏はあったわけだが。
謙信が領土を拡げないなんて与太話信じてるアホはもういないだろうけど。
0180人間七七四年
2007/04/07(土) 21:52:47ID:orK5dsaW名将信玄・氏康と戦い、一向宗とも戦い、さらに裏切り連発。雪国で米も獲れない。(佐渡金山は景勝の時代)
越後をよく守りきったなと思う。
0183人間七七四年
2007/05/20(日) 23:35:32ID:Egm9ISYh話を聞くと、「信濃を治めてたんですが、武田信玄 に攻められて国を取られました。 たすけて〜」 と言います。
信義に厚かった景虎は、「それなら助けてあげましょう」と返答し、こうして甲斐・信濃を制圧していた武田家と、「川中島」という場所で何度も戦いを繰り広げる事となります。
有名な 「川中島の合戦」 ですね。
しかしその一方で、これだけ戦いながらも上杉家の領土はぜんぜん増えていませんでした。
上杉家は軍を進攻させて一時的に周囲を制圧しても、兵を引いた後にまた取り戻される、というのを繰り返していたからです。
これは、謙信の領土戦略の欠如と同時に、領土支配欲の無さもあったと言われています。
彼の戦争は信義や大義名分に沿ったものであり、領土を広げるためのものではなかったからだ、と伝えられています。
上杉 謙信は「義」に生きた武将として後世に知られています。
今川家が武田家に対し、「塩止め(塩の輸出禁止)」 を行いそれを周辺諸国に要請したときも、
「それで一番困るのは甲斐の国の民である。そんな事は出来ない」と言い、逆に甲斐への塩の輸出を推奨したと言います。
敵を援助する事を 「敵に塩を送る」 と言うのは、これが元になっています。
武田信玄 は死の床で、跡継ぎの勝頼に、「あんな勇猛な男と戦ってはならん。 謙信は、頼むと言えば嫌とは言わぬ。 謙信を頼み、甲斐の国を存続させよ」と遺言し、また北条氏康 も、
「謙信は請け負えば、骨になっても義理を通す。 若い大将の手本にさせたいものだ」と語っていたといいます
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/uesugi.htm
0184人間七七四年
2007/05/21(月) 15:33:26ID:FMgK6Aj/キミ色んな上杉関連のスレageまくって頑張ってるねw
0185人間七七四年
2007/05/25(金) 04:06:39ID:AYzVyTVn今さらだが、謙信から先に北条にしかけたわけじゃないだろ
0186人間七七四年
2007/05/25(金) 05:00:07ID:cqvcyNiP謙信から先に北条に手を出してないか?
0187人間七七四年
2007/05/25(金) 06:49:45ID:RQXn7HCK0189人間七七四年
2007/05/25(金) 11:20:53ID:s/rM6FXO安土桃山時代
0190人間七七四年
2007/05/27(日) 00:35:59ID:BFqZDK7R北条と上杉は対立していて、先に仕掛けたのは北条だが
その前から長尾と上杉も対立していた、いわば北条と長尾は共通の敵を持っていた関係に過ぎない。
それを自分から上杉を取り込んで敵に回したのは長尾だし、以後北条が長尾に敵対した訳でも無いのに
関東のもめごとに首突っ込んできたのも長尾。
0191人間七七四年
2007/05/27(日) 02:29:32ID:n61bDKUo米軍と日本軍、どっちが先に手出ししたと言うのと一緒。答えは各自で違ってる。
0192人間七七四年
2007/05/27(日) 03:30:36ID:C3D5keu/単純に距離と時間の問題。
謙信との直接対決は武田北条ともなるべく避けていたから
上杉軍の戦闘能力は相当なものだったんだろう。
0193人間七七四年
2007/05/27(日) 04:35:21ID:BFqZDK7R目に見えてなびいていってるので別に距離の問題とかではなく、単純に北条の勢力が優勢になったからだろう。
そもそも距離と時間の問題に20年以上経ってから気付くって関東勢は揃ってどんなアホの子ですかw
0194人間七七四年
2007/05/27(日) 06:05:04ID:pfV6+vipまるで一方的に長尾が北条を敵に回したみたいなこと書いてるがそうとは言い切れないだろ。
天正11年に北条氏政の弟氏邦が元上野国衆の赤見山城守について
『先年越国へ越し候時分、御忠信申し上げ候、大聖院殿(北条氏康)御証文以下にも所持致し』と述べている。
つまり上野一国を勢力下に収めた北条氏が越後にも侵入していたことがうかがえる。
となれば謙信の関東侵攻は上杉憲政を関東に復帰させることを目的に行われたというのではなく、迫り来る北条氏の脅威に対抗するためのものであったと考えることができる。
0195人間七七四年
2007/05/27(日) 06:27:34ID:BFqZDK7Rなんかいまいち言いたいことがわからんのだが、
天正11年?謙信が小田原に来た20年以上後の話って事?
0196人間七七四年
2007/05/27(日) 06:34:55ID:WEUm1UFW0197人間七七四年
2007/05/27(日) 06:35:39ID:BFqZDK7R0198人間七七四年
2007/05/27(日) 11:47:48ID:pfV6+vip『先年越国へ越し候時分、…』は「小室開弘氏所蔵赤見文書」。文中に氏康のことを指す名前があり、氏康の代で越後へ侵攻が行われる状況は天文末〜永禄初頭における上野経略の過程だと思われる。
上野国内では最北の国衆沼田氏などのように各国衆で北条氏派と上杉氏派の対立があったようであり、上杉氏派は自然と憲政を庇護する越後の長尾氏と結び付いたのだろう。
そしてその延長から北条氏の越後への侵入があったと考えられる。
0199人間七七四年
2007/05/27(日) 18:33:08ID:BFqZDK7R前半は別に文句ないが最後の一行に対する返答が結局
「だからそれは謙信が憲政をかくまったから」
としか言いようが無いのだが。>>190の反論に全くなってない。
謙信が上杉を取り込んだのは1552年、その話は1550年代末でしょ。
もう敵対してて当たり前の時期。
憲政を取り込まなかった場合にどうなるかはこれはなってみないとわからない部分もあるが、
少なくとも取り込んだ史実の後は既に敵対国である以上攻められても文句は言えない。
その敵対した原因はそもそも憲政を取り込んだことにある
というのが>>190のレスの意図。その後の話をいくら書こうと少なくとも俺のレスの反証にはならんでしょうに。
1540年代くらいから越後に攻めようと言う話があったのなら別だけど。
憲政と北条氏の争いなんざ1530年代からずっと続いてる事だよ、
謙信なんか生まれてもいない。その憲政を取り込んだら北条氏が敵になるのは当たり前だ。
0200人間七七四年
2007/05/28(月) 01:49:21ID:KLapbleR領土は取れなかったけど管領お疲れさん!
0201人間七七四年
2007/05/28(月) 16:37:22ID:NP5GF6PCもともと長尾と北条の関係ってどうだったの?
0202人間七七四年
2007/05/28(月) 22:59:59ID:ImOeLulU0203人間七七四年
2007/05/29(火) 00:29:16ID:qg8B6U3J0204人間七七四年
2007/05/29(火) 22:11:22ID:6D5kY3V6敵になったり味方になったり。
河越夜戦で越後長尾家も兵を出しているから、
憲正取り込み以前から北条と謙信が敵対していたとも言える。
0205人間七七四年
2007/05/29(火) 22:15:34ID:eW7yhz1r上杉憲政亡命までは長尾と上杉は仲悪かったとばかり。
0206人間七七四年
2007/05/30(水) 02:58:21ID:suWCLsNXそうなんだ。じゃあ別に長尾は上杉憲政を「取り込んだ」からそこで初めて北条を敵に回したとは言えないのかな
0207人間七七四年
2007/05/30(水) 07:12:00ID:JeuVHEMSだけど上田長尾氏などはその頃から管領よりだったので、為景とはぶつかり続けていた。
そのため為景が死に病弱な晴景が継いで以降は管領よりの勢力に押されているため
この時期は管領の影響を受けている時期になる、河越夜戦の時期もそう、謙信はまだ子供。
しかし為景の頃の勢力によって謙信が祭り上げられた以上、謙信はどちらを選ぶ事もできたと言える。
0208たこ
2007/06/02(土) 20:22:29ID:CqrLEuu+禿げちげえよ!晩年は越中・能登・加賀を属国化したし
(魚津・七尾・石動山・松任の城には城代や目付け役を置いた。)
かつての不倶戴天の敵とことごとく手を結んで頼ってきた信濃や関東大名から呆れられた。
(北条、武田、一向宗など)
0209人間七七四年
2007/06/02(土) 22:19:17ID:/bUac4JE0210人間七七四年
2007/06/02(土) 22:29:25ID:KrRdKcwTあまり戦略には興味がなかったんじゃないの?
何にせよ、奇異な武将だ
0211人間七七四年
2007/06/03(日) 07:03:51ID:jmOCg9tg越相同盟が締結されたのは関東諸候の大半が謙信から離反した後。呆れたのは謙信の方なんじゃね?
0212人間七七四年
2007/06/03(日) 10:17:31ID:Oh2sDo5bだからこそ、北条の一族を後継者として認めたほど。
このまま負けるぐらいなら北条・武田の後ろ盾を得て
関東管領職の名を優先した。
0213人間七七四年
2007/06/03(日) 11:21:38ID:k01Oa65lそして里見は北条のために徳川と信濃まで出張って戦わされる属国同然に……
自主防衛をなんとかできた佐竹や結城はマシな部類
0214人間七七四年
2007/06/03(日) 17:31:16ID:BW/bZt420215人間七七四年
2007/06/03(日) 17:58:25ID:xCgk90/H成田の離反は他の誰でもない謙信の所為だろ。
あと、効果的な援軍が全く出来なかったのも痛い。
そら、見切り付けられても仕方ない。
0216人間七七四年
2007/06/03(日) 22:43:23ID:oMAoZvMe効果的な援軍なんて無理だろ・・常識的に考えて
0217人間七七四年
2007/06/04(月) 00:41:24ID:4UtyW2ZD成田って鶴岡八幡宮での一件のあれか?あれで謙信が短気な性格だってのがわかるな。
小金、臼井両城攻略に従属するほぼすべての関東の国衆を動員しておきながら攻略できなかったのが痛かったな。
その後、北条高広の北条方への寝返り、
佐竹氏も北条・武田両氏と和睦、
さらに謙信方の古河公方勢力だった簗田氏、野田氏、相馬氏も北条氏に従属…
この時点で謙信の関東支配は頓挫したな。
その後永禄11年には佐竹氏、宇都宮氏、小山氏、簗田氏が再び謙信に従属してきたものの謙信は関東に出陣せず。自身も関東は自分の手に負えないと思い始めてたんじゃないかね。
0218人間七七四年
2007/06/04(月) 01:17:41ID:5C/cP5Cvあのあとすぐ普通に成田と手紙交わしていたはず。
0219人間七七四年
2007/06/04(月) 13:44:15ID:hbwzQ1VT支戦じゃ負けっぱなしだし、肝心の小田原攻めも進捗しない
もっとも謙信に忠実に働いた佐竹や太田さえ「このままでは兵站不足と裏切りで負ける」と撤退を進言したぐらいだ
0220人間七七四年
2007/06/04(月) 13:53:23ID:v4L/HKDa実際に成田が離反したのはもっと後の話
故実に詳しい軍記作者が面白おかしく作った可能性が高い
0222人間七七四年
2007/06/06(水) 03:03:15ID:IvyA7c+f謙信が来た頃はまだ大した規模の城じゃない。
しかも謙信はまともに包囲できずに途中で瓦解してるから城あんま関係ない。
0223人間七七四年
2007/06/06(水) 08:35:44ID:Hcv0rbX5小田原攻めといっても食糧調達とかのために広く分散しないといけないから、封鎖とかができなかったんだとさ
それに支城群を殆ど落とせなかったから、後方は常に不安
0224人間七七四年
2007/06/06(水) 11:03:10ID:SA8yFSUQ0225仙台藩百姓
2007/06/06(水) 13:21:46ID:VcnDk5bo0226人間七七四年
2007/06/06(水) 19:01:00ID:LBq33ltv0227人間七七四年
2007/06/06(水) 20:30:52ID:xsqtZA/wまあその手の数字は誇張されていると考えて然るべき
0228人間七七四年
2007/06/07(木) 13:07:54ID:mo+mujt9武蔵八王子城の攻城軍は前田利家、上杉景勝、真田昌幸と豪華メンバー。
伊達政宗も秀吉の要請でこの中にはいってないといけないのでは。
何か知らないけどもたもたしてたんだよね。
0230人間七七四年
2007/06/08(金) 04:34:47ID:U/zAlVRtワロスw
0231人間七七四年
2007/06/10(日) 17:13:09ID:NrcvvWLC北条が大幅譲歩しているじゃん。北条軍が上野国から撤収し、里見氏にも領土割譲を約している。
もちろん関東での足場を失いつつあった謙信も助かっただろうが。
>>199
越後に隣接する上野沼田まで、北条の大軍が進出している。
「次は越後だ」と思って警戒するのが普通。武田の北信濃進出と同じだな。
「北条は関東以外には領土的野心はない」という奴もいるが、越後・甲斐は関東管領の指揮下であり関東に含まれる。
0232人間七七四年
2007/06/10(日) 17:56:01ID:QbFIA1ka武田に対しても北条に対してもそれなりの外交努力をした上でそれなら
話もわかるし、武田や北条が旧来の敵だと言うならそれもわかるが、
勝手に警戒して疑心暗鬼になって、全部敵に回すのは普通ではない。
隣接した国で戦争あったら勝った国は全部敵ですか。
0233人間七七四年
2007/06/10(日) 19:58:27ID:9Tu+2tHuもっと内容の有る書き込みしようぜ
0234人間七七四年
2007/06/11(月) 03:16:29ID:UMK7N8X4状況で見てもあの時期では北条家は上杉が予想以上に大敗北をしたので、
上野の方まで一気に勢力は伸びたものの、武蔵東部・上総にかけてまるで安定して無い状況
その不安定な状況から越後に伸びるなんてまともな戦略眼を持ってたら犯すはずが無い愚策。
ひとまず越後長尾にまで喧嘩を売る理由など無い。
そこを考えれば長尾は越後への危機感を考えるならば不可侵を求める程度は大した問題ではない。
にもかかわらず、あっさり力を失った憲政をかくまい自分から敵対した。
そんで結局、関東の勢力を失って、外交をはじめて周り無視して越相同盟ときたもんだ、
でもその時でも北条はだいぶ譲歩してるのは上のレスでも言われてるとおり、
ここから考えても北条が戦略面で北に向かう事をさほど重要視してたようには思えない。
ならばもっと北条が安定して無い時期に外交で動いていれば無駄な戦いもなくすんだのではと思われても仕方ない。
0235人間七七四年
2007/06/12(火) 20:29:18ID:/VFEzdW60236人間七七四年
2007/06/12(火) 20:31:33ID:FRKV+N/m0239人間七七四年
2007/06/12(火) 22:20:27ID:mxLYf7tDhttp://etc6.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1172045056/
0240人間七七四年
2007/06/12(火) 23:36:21ID:Je1DpwK6甘いな。
仮に謙信が憲政をかくまわずに、北条と手を組んだとしよう
そしたら北条は佐竹・里見を潰して、大軍勢で越後に迫るよw
三国同盟で甲斐・信濃には攻めれないから、残りの「関東」は越後だけになる。
0241人間七七四年
2007/06/12(火) 23:46:05ID:SLAkUKa5なんで武田との同盟は尊重するのに長尾は無視すんの?
また長尾もムダに関東や信濃に関わっている時間が省かれるので北陸方面に
一気に伸びている可能性が高い。そこまでして越後を取る価値も無い。
0242人間七七四年
2007/06/12(火) 23:50:26ID:Je1DpwK6北条が武田に宣戦したら、今川がどうする?
今川義元が北条に攻め込むよ
あと信濃を攻め落とした信玄にとっては、次の獲物は越後か越中だろ。
他にどこを攻めるんだ?
0243人間七七四年
2007/06/12(火) 23:59:41ID:SLAkUKa5長尾が上杉取り込もうが取り込まなかろうが
1560年代前に信濃を押さえきるなんてよほど巧くやらないと不可能
まだ上杉関係ない頃だってかなり苦戦してんのに。
0245人間七七四年
2007/06/13(水) 21:06:04ID:CPxjwU0X美濃
0247人間七七四年
2007/08/07(火) 03:25:10ID:Po21PwtQ0248人間七七四年
2007/08/07(火) 10:22:27ID:Y8ctkBxTまぁ結局氏康の方が一枚も二枚も上手だったけど。
0249人間七七四年
2007/08/07(火) 10:38:19ID:jUU4ATRJ特に謙信の戦略に問題があったわけじゃないよ。
0250人間七七四年
2007/08/07(火) 10:42:07ID:JH/N11RZ負けても戦略は達成している
0252人間七七四年
2007/08/07(火) 13:23:51ID:G7cPQyTR0253人間七七四年
2007/08/07(火) 13:37:10ID:/1dvjSif>謙信は越後から略奪ツアーに出かけただけだならな
証拠史料は?
藤木久志が小遣い稼ぎに書いた新書は評価に値せんぞw
0254人間七七四年
2007/08/07(火) 13:38:41ID:rKb4mBT3真面目に制圧しにいって11万対3万でも勝てませんでした、諸侯を裏切りまた裏切られつづけました、じゃあちょっとw
0255人間七七四年
2007/08/07(火) 13:50:59ID:/1dvjSif北条信者は自スレでオナってろ
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152400527/
0256人間七七四年
2007/08/07(火) 13:55:35ID:Zk4VPPXq越後から難所を越えて兵站を維持するのは困難だろうし
そもそも関東に手を出したのが間違い
0257人間七七四年
2007/08/07(火) 14:55:18ID:Y8ctkBxT0258人間七七四年
2007/08/08(水) 01:05:15ID:I/eB+qSa簡単にあしらわれて腹いせに略奪三昧じゃな
なにが軍神なんだかな
0259人間七七四年
2007/08/08(水) 02:18:26ID:kK6uZNbyふ〜ん、略奪ねぇ…
今は北条が墓荒ししてたって話が出てるけど?
0260人間七七四年
2007/08/08(水) 05:42:34ID:UgtpijHR小田原に引き篭もってた氏康は正直泣きたい気持ちだったんじゃないの
0261人間七七四年
2007/08/08(水) 10:30:33ID:o5xCiOxa氏康ピンチには違いないな
それでも耐えて勝っちゃうのが氏康のしぶとさ
謙信は最初から北陸一本槍で経略すべきだったんだよ
北条といい武田といい、越後一国よりは豊かで当主がかなり有能なところばかりとやりあってるから時間浪費
0262人間七七四年
2007/08/08(水) 11:45:55ID:AXq6B1IE謙信が自ら差配して奴隷として売りさばいた話しだが。
0263人間七七四年
2007/08/08(水) 12:57:42ID:kK6uZNby> 有名なのは関東で大量の人間を拉致して
> 謙信が自ら差配して奴隷として売りさばいた話しだが。
どこで売りさばいてたの?誰が言ってたの?
0264Y ◆nzdGjBH722
2007/08/08(水) 13:33:57ID:nwLY7vr+上杉謙信が小田城を落とした後、城はただちに奴隷市場に早変わりし、
謙信自らがその市場を取り締まるなどしていた。このときの奴隷は一人当たり20銭
まあ武田よりかは建設的だな。
0265人間七七四年
2007/08/08(水) 13:55:46ID:qvffCPFPさすが歴史捏造がお得意の上杉様ですねw
0266人間七七四年
2007/08/08(水) 13:59:01ID:kK6uZNby0267人間七七四年
2007/08/08(水) 13:59:50ID:qvffCPFP0268人間七七四年
2007/08/08(水) 14:14:36ID:kK6uZNby0269人間七七四年
2007/08/08(水) 14:21:04ID:qvffCPFP0270人間七七四年
2007/08/08(水) 14:27:12ID:kK6uZNby悪い、俺別に上杉厨じゃないからw第一お前は回答なんか出来ないだろw
0271人間七七四年
2007/08/08(水) 14:37:24ID:HAWShxLxどうせコピペ以上のこと知らないんだから問い詰めても無駄だろう
0272人間七七四年
2007/08/08(水) 15:18:15ID:kK6uZNby0273人間七七四年
2007/08/08(水) 16:10:27ID:7fAt7CQUそんな値段じゃ管理費や食事代やらで大赤字やん。
この議論はすでに謙信批判スレッドでやってるから、そこ見てくれよ。
0274仙台藩百姓
2007/08/08(水) 16:17:01ID:QKH5hXhOその中で藤木氏は一次資料は未読であると注釈を付けているお
記述は一部分だけで状況はさっぱり分からないし
信頼性に欠けるお
アンチも知ってて書いてるんだろうけど( ^ω^)
0275宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/08(水) 16:24:43ID:g77PJmrt「雑兵達の戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」
0276人間七七四年
2007/08/08(水) 17:35:15ID:WsJvkghMはじめは大勢力の上田衆を臣従させる目的だったんだよね
関東管領・上杉憲政が助けを求めてきたのを好機として
反抗していた上田衆に「管領を助けろ」と命じた
この命に従ったら春日山の配下に転落
逆らったら逆賊扱い
景虎を擁立した中越と上杉定実の頚城勢力を完全掌握して魚沼を叩き潰せる
あと景虎の親父が「主殺し」と蔑まれていた様子も有るので
関東出兵は上杉派と長尾派を纏める良い口実だったと思う
越後毛利氏や揚北衆といい、
越後における豪族の多くは鎌倉(関東)に拘りを持ってたし
収拾のつかない大乱が続いた為、春日山から逃げ去った商人達の逃亡先が
主に関東だったとか
景虎時代から隣国から商人を呼び戻し
租税免除、治安強化、道路整備、上洛後の交渉などで城下を復興>発展させている
0277仙台藩百姓
2007/08/08(水) 18:25:47ID:QKH5hXhOうむ、それだ
ちなみに九州では一、二文で奴隷達が売買されていたとあるが
もはや商売とは言えないお(;^ω^)
飢饉で奴隷に食わす飯も惜しくて二束三文で売り払ったそうだが
足元見られすぎだお
と言っても関東にしろ九州にしろ
いくらなんでも誇張じゃないかと思えぬ事もない
0278人間七七四年
2007/08/08(水) 18:44:39ID:6nE5g0Ac外国に売り払ったとかいう話が…
ただし謙信の小田城攻めの場合、小田城での捕虜を
小田城で二束三文で売り払っているので
実際売った相手は捕虜の親類縁者だろうな。
高値を取らなかった分十分に良心的だ。
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