上杉謙信とその周辺の国の確執
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0001akira!
2006/10/07(土) 18:54:55ID:JvNi4Ael手取川で織田信長をも撃破した最強の武将と言われています。
軍神と言われ、義に生きた上杉謙信について、悪いことを聞く
事が余り無いように思います。
上杉謙信に攻められた国の人(特に石川県の人に聞きたい!)
にとって上杉謙信とはどのようなイメージなのでしょうか。
それぞれの立場で意見を聞かせてください!
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2007/02/02(金) 11:19:44ID:yQuE41+E身代金は他に比べ格安だったとか
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2007/02/02(金) 11:37:20ID:FTIoVzuOそれは小田城攻略の時の話
>>132は小田原包囲陣の時の事
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2007/02/03(土) 00:09:35ID:2yuHyG+m0136名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/03(土) 07:50:45ID:XgrXlBkW0137名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/03(土) 19:04:59ID:2yuHyG+m0138名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/03(土) 22:38:39ID:IcaoudeY上杉謙信は関東に12回出兵していて、その内の10回は、
晩秋に出かけて年を超し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。
明らかに戦いには季節性がある。
冬場の働き口などどこにもなく、まして飢饉・凶作の続いた戦国の村々に
とって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場。
農閑期になると、謙信は戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を
超えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても
何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。
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2007/02/03(土) 22:45:50ID:tWbOCgGo北条w
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2007/02/04(日) 09:32:53ID:hl4iNRwR0142名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/05(月) 02:54:18ID:ePcYffh20143名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/05(月) 14:01:14ID:f+aYbP4j他に7万とか9万とか諸説はあるけど
いずれにしても雑役夫とかの一時雇いの非戦闘員を入れたと仮定したとしても途方も無い数
せいぜい1万程度しか本隊兵力がいない謙信じゃあ統制不能なのも当然
0144名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 19:18:37ID:o7nznIQvそういう文献ってどこにあるんですかね?
謙信のことを調べようとすればするほど謙信マンセーのものばかり出てくるので
教えて頂ければ幸いです
0145名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/19(月) 02:16:39ID:mk6oH8sUことだ。川中島の戦いもそうだよ。
手取り川の戦いは、信長、秀吉ではなく柴田勝家と戦闘があったと思われる。
秀吉が勝手に戦線離脱したから、柴田軍は混乱して謙信との戦闘どころ
ではなかったのでは。
0146人間七七四年
2007/02/19(月) 08:49:52ID://xZLte6「別本和光院和漢合運」(「越佐史料」収録)
藤木久志「雑兵たちの戦場」にも解説が載っている。
武田信玄(「勝山記」「軍鑑」に高値で奴隷売買した例が満載)よりマシだと思うがね。
0148人間七七四年
2007/03/03(土) 03:05:27ID:1o5rbpm00149人間七七四年
2007/03/03(土) 15:03:06ID:VYpHoDh2織田勢が撤退したのは事実だろ
0150人間七七四年
2007/03/03(土) 18:18:14ID:lej04zKJ0151人間七七四年
2007/03/03(土) 20:13:52ID:wTSEVXaeやってることは同じなのに
これが贔屓を通り越した厨というものかw
0152人間七七四年
2007/03/03(土) 20:20:26ID:mcf419ec0153人間七七四年
2007/03/04(日) 15:17:44ID:YnkHweJUところで後北条氏は関東管領上杉氏、里見氏、佐竹氏・・・の支配地域に
侵攻しおびただしい死傷者を出していることは不問なの。
時は400年以上も前の戦国時代、虐殺あり、謀略あり、寺院の焼き討ち
あり、何でもありだよ。
0154人間七七四年
2007/03/04(日) 15:46:02ID:qxuoaOST略奪を非難しているわけではない
もしかして現在の価値観で人狩りや侵略は
悪いことだと思っている?
昔はそれが普通なんだよ
朝起きたらご飯食べる
これと同じぐらいありふれた事だった
0156人間七七四年
2007/03/04(日) 15:58:11ID:4PSstL7yどこの土地の話しだよ
国に帰れ
0157人間七七四年
2007/03/04(日) 16:50:31ID:6pgAs2YS一応氏照が越後に出兵している
追い返されたが
そして武田も金塊を納めてお引取り願った
あれは景勝の作戦がちだろう
0158人間七七四年
2007/03/04(日) 18:41:52ID:D7MrSMDk略奪と無縁だった大名っていないんじゃない?
当時の価値観を考えると、やらなかったら清廉を通り越して異常
0159人間七七四年
2007/03/04(日) 19:22:50ID:hh8GjlM00160人間七七四年
2007/03/04(日) 19:31:38ID:D7MrSMDk何で?
まぁ織田軍の場合礼銭突っ返して町を焼いたこともあるから、そういう方向でも特殊っちゃあ特殊だが……
0161人間七七四年
2007/03/05(月) 13:39:22ID:NP4JQFqN兵士の士気を維持するためにも敵地でのご褒美は必須だった
0162人間七七四年
2007/03/05(月) 21:01:25ID:B+f7iMOY藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)を要約すると、
上杉謙信は関東に12回出兵していて、その内の10回は、
晩秋に出かけて年を超し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。
明らかに戦いには季節性がある。
冬場の働き口などどこにもなく、まして飢饉・凶作の続いた戦国の村々に
とって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場。
農閑期になると、謙信は戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を
超えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても
何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。
0163人間七七四年
2007/03/05(月) 21:36:02ID:opIsQPXm0164人間七七四年
2007/03/05(月) 23:34:23ID:G44Nt1X/信長、秀吉のスレへ遊びにいって来ようか。
0165人間七七四年
2007/03/06(火) 00:29:11ID:O0EHJMjpなんかいろいろ誤認してるな
兵を出したのは氏邦(上州方面担当は氏照ではない)、
越後から追い返されたのは、武田が上杉に靡いて、景虎を滅ぼされた後
0166人間七七四年
2007/03/06(火) 00:42:20ID:2Ob9BpYO氏邦も出陣してるけど氏照はそんな一部分に限った存在じゃなく、
伊豆方面の合戦以外ではかなりの広範囲で行動していてかつ水軍も統括していて
重要な外交もたびたび担当していたところを見る限り、総合司令官的な存在だった節があるので、
上州でも普通に行動が記録されてるよ、このときもそう。
特に上杉に関係する事だと多く動いている様子もある。
で確かに景虎が討ち取られる数ヶ月前に行動してたはず、それは>>157に聞いて欲しいところだが。
0167人間七七四年
2007/03/06(火) 02:42:27ID:Eq5/jFMS氏照が司令官的存在だったことは否定しないし、
外交では織田・上杉・伊達と方々の窓口になってるのも認める
しかし御館の時、氏照が具体的に何してるかわからないんだが
上野の景虎派諸将を北条に引き込んで、彼らを率いて越後に攻め入ったのは氏邦であって氏照ではない
そもそも、この頃は氏政と共に絹川在陣中だし
俺が知らないだけかも知れないので、氏照が動いているという根拠を教えて欲しい
0168人間七七四年
2007/03/06(火) 21:10:17ID:ppTEY8gw0169人間七七四年
2007/03/08(木) 21:23:21ID:ZMXK4VwP0170人間七七四年
2007/03/08(木) 22:53:03ID:KnR03LxA越後樺沢城や坂戸城で調べれば色々出てくるよ、
ちなみに佐竹を攻めてたのはその年の夏、越後への出兵は9月〜10月
忙しい人ではあるが・・・。ちなみに春ごろは常陸を攻めてる、本当に忙しい人だw
上杉年譜にもあった気がしたし、北条方の記録でも残ってた気がする。
0171人間七七四年
2007/03/09(金) 20:52:54ID:KlciBV79あれっ、小学生?
織田信長、豊臣秀吉、毛利元就って名前くらいは聞いたことがあるだろ。
この人たちがどうやって勢力を拡大したか、ちょっと調べてみ。
0172人間七七四年
2007/03/10(土) 15:22:07ID:RNuhvvDm0173人間七七四年
2007/03/10(土) 17:35:16ID:DIYd5Dlx0174人間七七四年
2007/04/06(金) 05:48:13ID:VMbDBYde良い事も悪い事も当然、偽造は少なからずあるさ。
0175人間七七四年
2007/04/06(金) 06:57:32ID:VWvWrHtt当代屈指の名将であった武田信玄と北条氏康の2人を同時に相手して、
負けなかった(なお余裕があった)という点に尽きる
こんなことは謙信以外では不可能だ
0176人間七七四年
2007/04/06(金) 16:17:46ID:dXJfv4CL0177人間七七四年
2007/04/07(土) 08:37:37ID:T/GVmoTV間抜けといえば間抜け
しかもその名将二人ならともかく、一向宗にすら勝てずに裏切り連発だし
0178人間七七四年
2007/04/07(土) 09:07:48ID:ctafUhYb敵に有利な相手の領内に遠征して、殺しまくり
0179人間七七四年
2007/04/07(土) 14:32:20ID:rVn2tMuB関東にも元々勢力圏はあったわけだが。
謙信が領土を拡げないなんて与太話信じてるアホはもういないだろうけど。
0180人間七七四年
2007/04/07(土) 21:52:47ID:orK5dsaW名将信玄・氏康と戦い、一向宗とも戦い、さらに裏切り連発。雪国で米も獲れない。(佐渡金山は景勝の時代)
越後をよく守りきったなと思う。
0183人間七七四年
2007/05/20(日) 23:35:32ID:Egm9ISYh話を聞くと、「信濃を治めてたんですが、武田信玄 に攻められて国を取られました。 たすけて〜」 と言います。
信義に厚かった景虎は、「それなら助けてあげましょう」と返答し、こうして甲斐・信濃を制圧していた武田家と、「川中島」という場所で何度も戦いを繰り広げる事となります。
有名な 「川中島の合戦」 ですね。
しかしその一方で、これだけ戦いながらも上杉家の領土はぜんぜん増えていませんでした。
上杉家は軍を進攻させて一時的に周囲を制圧しても、兵を引いた後にまた取り戻される、というのを繰り返していたからです。
これは、謙信の領土戦略の欠如と同時に、領土支配欲の無さもあったと言われています。
彼の戦争は信義や大義名分に沿ったものであり、領土を広げるためのものではなかったからだ、と伝えられています。
上杉 謙信は「義」に生きた武将として後世に知られています。
今川家が武田家に対し、「塩止め(塩の輸出禁止)」 を行いそれを周辺諸国に要請したときも、
「それで一番困るのは甲斐の国の民である。そんな事は出来ない」と言い、逆に甲斐への塩の輸出を推奨したと言います。
敵を援助する事を 「敵に塩を送る」 と言うのは、これが元になっています。
武田信玄 は死の床で、跡継ぎの勝頼に、「あんな勇猛な男と戦ってはならん。 謙信は、頼むと言えば嫌とは言わぬ。 謙信を頼み、甲斐の国を存続させよ」と遺言し、また北条氏康 も、
「謙信は請け負えば、骨になっても義理を通す。 若い大将の手本にさせたいものだ」と語っていたといいます
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/uesugi.htm
0184人間七七四年
2007/05/21(月) 15:33:26ID:FMgK6Aj/キミ色んな上杉関連のスレageまくって頑張ってるねw
0185人間七七四年
2007/05/25(金) 04:06:39ID:AYzVyTVn今さらだが、謙信から先に北条にしかけたわけじゃないだろ
0186人間七七四年
2007/05/25(金) 05:00:07ID:cqvcyNiP謙信から先に北条に手を出してないか?
0187人間七七四年
2007/05/25(金) 06:49:45ID:RQXn7HCK0189人間七七四年
2007/05/25(金) 11:20:53ID:s/rM6FXO安土桃山時代
0190人間七七四年
2007/05/27(日) 00:35:59ID:BFqZDK7R北条と上杉は対立していて、先に仕掛けたのは北条だが
その前から長尾と上杉も対立していた、いわば北条と長尾は共通の敵を持っていた関係に過ぎない。
それを自分から上杉を取り込んで敵に回したのは長尾だし、以後北条が長尾に敵対した訳でも無いのに
関東のもめごとに首突っ込んできたのも長尾。
0191人間七七四年
2007/05/27(日) 02:29:32ID:n61bDKUo米軍と日本軍、どっちが先に手出ししたと言うのと一緒。答えは各自で違ってる。
0192人間七七四年
2007/05/27(日) 03:30:36ID:C3D5keu/単純に距離と時間の問題。
謙信との直接対決は武田北条ともなるべく避けていたから
上杉軍の戦闘能力は相当なものだったんだろう。
0193人間七七四年
2007/05/27(日) 04:35:21ID:BFqZDK7R目に見えてなびいていってるので別に距離の問題とかではなく、単純に北条の勢力が優勢になったからだろう。
そもそも距離と時間の問題に20年以上経ってから気付くって関東勢は揃ってどんなアホの子ですかw
0194人間七七四年
2007/05/27(日) 06:05:04ID:pfV6+vipまるで一方的に長尾が北条を敵に回したみたいなこと書いてるがそうとは言い切れないだろ。
天正11年に北条氏政の弟氏邦が元上野国衆の赤見山城守について
『先年越国へ越し候時分、御忠信申し上げ候、大聖院殿(北条氏康)御証文以下にも所持致し』と述べている。
つまり上野一国を勢力下に収めた北条氏が越後にも侵入していたことがうかがえる。
となれば謙信の関東侵攻は上杉憲政を関東に復帰させることを目的に行われたというのではなく、迫り来る北条氏の脅威に対抗するためのものであったと考えることができる。
0195人間七七四年
2007/05/27(日) 06:27:34ID:BFqZDK7Rなんかいまいち言いたいことがわからんのだが、
天正11年?謙信が小田原に来た20年以上後の話って事?
0196人間七七四年
2007/05/27(日) 06:34:55ID:WEUm1UFW0197人間七七四年
2007/05/27(日) 06:35:39ID:BFqZDK7R0198人間七七四年
2007/05/27(日) 11:47:48ID:pfV6+vip『先年越国へ越し候時分、…』は「小室開弘氏所蔵赤見文書」。文中に氏康のことを指す名前があり、氏康の代で越後へ侵攻が行われる状況は天文末〜永禄初頭における上野経略の過程だと思われる。
上野国内では最北の国衆沼田氏などのように各国衆で北条氏派と上杉氏派の対立があったようであり、上杉氏派は自然と憲政を庇護する越後の長尾氏と結び付いたのだろう。
そしてその延長から北条氏の越後への侵入があったと考えられる。
0199人間七七四年
2007/05/27(日) 18:33:08ID:BFqZDK7R前半は別に文句ないが最後の一行に対する返答が結局
「だからそれは謙信が憲政をかくまったから」
としか言いようが無いのだが。>>190の反論に全くなってない。
謙信が上杉を取り込んだのは1552年、その話は1550年代末でしょ。
もう敵対してて当たり前の時期。
憲政を取り込まなかった場合にどうなるかはこれはなってみないとわからない部分もあるが、
少なくとも取り込んだ史実の後は既に敵対国である以上攻められても文句は言えない。
その敵対した原因はそもそも憲政を取り込んだことにある
というのが>>190のレスの意図。その後の話をいくら書こうと少なくとも俺のレスの反証にはならんでしょうに。
1540年代くらいから越後に攻めようと言う話があったのなら別だけど。
憲政と北条氏の争いなんざ1530年代からずっと続いてる事だよ、
謙信なんか生まれてもいない。その憲政を取り込んだら北条氏が敵になるのは当たり前だ。
0200人間七七四年
2007/05/28(月) 01:49:21ID:KLapbleR領土は取れなかったけど管領お疲れさん!
0201人間七七四年
2007/05/28(月) 16:37:22ID:NP5GF6PCもともと長尾と北条の関係ってどうだったの?
0202人間七七四年
2007/05/28(月) 22:59:59ID:ImOeLulU0203人間七七四年
2007/05/29(火) 00:29:16ID:qg8B6U3J0204人間七七四年
2007/05/29(火) 22:11:22ID:6D5kY3V6敵になったり味方になったり。
河越夜戦で越後長尾家も兵を出しているから、
憲正取り込み以前から北条と謙信が敵対していたとも言える。
0205人間七七四年
2007/05/29(火) 22:15:34ID:eW7yhz1r上杉憲政亡命までは長尾と上杉は仲悪かったとばかり。
0206人間七七四年
2007/05/30(水) 02:58:21ID:suWCLsNXそうなんだ。じゃあ別に長尾は上杉憲政を「取り込んだ」からそこで初めて北条を敵に回したとは言えないのかな
0207人間七七四年
2007/05/30(水) 07:12:00ID:JeuVHEMSだけど上田長尾氏などはその頃から管領よりだったので、為景とはぶつかり続けていた。
そのため為景が死に病弱な晴景が継いで以降は管領よりの勢力に押されているため
この時期は管領の影響を受けている時期になる、河越夜戦の時期もそう、謙信はまだ子供。
しかし為景の頃の勢力によって謙信が祭り上げられた以上、謙信はどちらを選ぶ事もできたと言える。
0208たこ
2007/06/02(土) 20:22:29ID:CqrLEuu+禿げちげえよ!晩年は越中・能登・加賀を属国化したし
(魚津・七尾・石動山・松任の城には城代や目付け役を置いた。)
かつての不倶戴天の敵とことごとく手を結んで頼ってきた信濃や関東大名から呆れられた。
(北条、武田、一向宗など)
0209人間七七四年
2007/06/02(土) 22:19:17ID:/bUac4JE0210人間七七四年
2007/06/02(土) 22:29:25ID:KrRdKcwTあまり戦略には興味がなかったんじゃないの?
何にせよ、奇異な武将だ
0211人間七七四年
2007/06/03(日) 07:03:51ID:jmOCg9tg越相同盟が締結されたのは関東諸候の大半が謙信から離反した後。呆れたのは謙信の方なんじゃね?
0212人間七七四年
2007/06/03(日) 10:17:31ID:Oh2sDo5bだからこそ、北条の一族を後継者として認めたほど。
このまま負けるぐらいなら北条・武田の後ろ盾を得て
関東管領職の名を優先した。
0213人間七七四年
2007/06/03(日) 11:21:38ID:k01Oa65lそして里見は北条のために徳川と信濃まで出張って戦わされる属国同然に……
自主防衛をなんとかできた佐竹や結城はマシな部類
0214人間七七四年
2007/06/03(日) 17:31:16ID:BW/bZt420215人間七七四年
2007/06/03(日) 17:58:25ID:xCgk90/H成田の離反は他の誰でもない謙信の所為だろ。
あと、効果的な援軍が全く出来なかったのも痛い。
そら、見切り付けられても仕方ない。
0216人間七七四年
2007/06/03(日) 22:43:23ID:oMAoZvMe効果的な援軍なんて無理だろ・・常識的に考えて
0217人間七七四年
2007/06/04(月) 00:41:24ID:4UtyW2ZD成田って鶴岡八幡宮での一件のあれか?あれで謙信が短気な性格だってのがわかるな。
小金、臼井両城攻略に従属するほぼすべての関東の国衆を動員しておきながら攻略できなかったのが痛かったな。
その後、北条高広の北条方への寝返り、
佐竹氏も北条・武田両氏と和睦、
さらに謙信方の古河公方勢力だった簗田氏、野田氏、相馬氏も北条氏に従属…
この時点で謙信の関東支配は頓挫したな。
その後永禄11年には佐竹氏、宇都宮氏、小山氏、簗田氏が再び謙信に従属してきたものの謙信は関東に出陣せず。自身も関東は自分の手に負えないと思い始めてたんじゃないかね。
0218人間七七四年
2007/06/04(月) 01:17:41ID:5C/cP5Cvあのあとすぐ普通に成田と手紙交わしていたはず。
0219人間七七四年
2007/06/04(月) 13:44:15ID:hbwzQ1VT支戦じゃ負けっぱなしだし、肝心の小田原攻めも進捗しない
もっとも謙信に忠実に働いた佐竹や太田さえ「このままでは兵站不足と裏切りで負ける」と撤退を進言したぐらいだ
0220人間七七四年
2007/06/04(月) 13:53:23ID:v4L/HKDa実際に成田が離反したのはもっと後の話
故実に詳しい軍記作者が面白おかしく作った可能性が高い
0222人間七七四年
2007/06/06(水) 03:03:15ID:IvyA7c+f謙信が来た頃はまだ大した規模の城じゃない。
しかも謙信はまともに包囲できずに途中で瓦解してるから城あんま関係ない。
0223人間七七四年
2007/06/06(水) 08:35:44ID:Hcv0rbX5小田原攻めといっても食糧調達とかのために広く分散しないといけないから、封鎖とかができなかったんだとさ
それに支城群を殆ど落とせなかったから、後方は常に不安
0224人間七七四年
2007/06/06(水) 11:03:10ID:SA8yFSUQ0225仙台藩百姓
2007/06/06(水) 13:21:46ID:VcnDk5bo0226人間七七四年
2007/06/06(水) 19:01:00ID:LBq33ltv0227人間七七四年
2007/06/06(水) 20:30:52ID:xsqtZA/wまあその手の数字は誇張されていると考えて然るべき
0228人間七七四年
2007/06/07(木) 13:07:54ID:mo+mujt9武蔵八王子城の攻城軍は前田利家、上杉景勝、真田昌幸と豪華メンバー。
伊達政宗も秀吉の要請でこの中にはいってないといけないのでは。
何か知らないけどもたもたしてたんだよね。
0230人間七七四年
2007/06/08(金) 04:34:47ID:U/zAlVRtワロスw
0231人間七七四年
2007/06/10(日) 17:13:09ID:NrcvvWLC北条が大幅譲歩しているじゃん。北条軍が上野国から撤収し、里見氏にも領土割譲を約している。
もちろん関東での足場を失いつつあった謙信も助かっただろうが。
>>199
越後に隣接する上野沼田まで、北条の大軍が進出している。
「次は越後だ」と思って警戒するのが普通。武田の北信濃進出と同じだな。
「北条は関東以外には領土的野心はない」という奴もいるが、越後・甲斐は関東管領の指揮下であり関東に含まれる。
0232人間七七四年
2007/06/10(日) 17:56:01ID:QbFIA1ka武田に対しても北条に対してもそれなりの外交努力をした上でそれなら
話もわかるし、武田や北条が旧来の敵だと言うならそれもわかるが、
勝手に警戒して疑心暗鬼になって、全部敵に回すのは普通ではない。
隣接した国で戦争あったら勝った国は全部敵ですか。
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