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上杉謙信とその周辺の国の確執

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0001akira!2006/10/07(土) 18:54:55ID:JvNi4Ael
上杉謙信は関東に何度も出兵し、信玄と戦い、七尾城を攻略し、
手取川で織田信長をも撃破した最強の武将と言われています。
軍神と言われ、義に生きた上杉謙信について、悪いことを聞く
事が余り無いように思います。
上杉謙信に攻められた国の人(特に石川県の人に聞きたい!)
にとって上杉謙信とはどのようなイメージなのでしょうか。
それぞれの立場で意見を聞かせてください!
0110名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 12:41:09ID:usEZgM36
>>109
だけど豊臣本隊は戦ったじゃん
箱根攻めでは一柳直末などの大身の直臣が戦死しているほど
豊臣家ですらそれなのに、俄か管領が豪族を酷使したらそりゃ見放されるって
0111名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 14:21:31ID:XKIWlL1D
>豊臣家ですら

どこの馬の骨でつか?
俄か関白ではないと?
0112名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 14:32:57ID:noYJiRvP
>>111俄かだから、主君とその直轄軍が苦労をしてみせないといけないということだ
11万も集めて北条氏を倒せなかった上、他人に戦争やらせてばかり
おまけに成田氏が源氏の棟梁に対しても馬上礼を許された名家であることを知らず、勝手に怒って無礼を働いた
実力的にも成果を示せず、諸侯の面子を軽視する姿勢を見せればそりゃ離散しないほうがおかしい
0113名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 17:33:02ID:sx5Lafdx
>>112
成田は失敗だと思うが、上野平井城・武蔵松山城を攻め落として小田原城に達したので戦果はあると思うよ。
越後軍8千で烏合の衆11万人を統率するから、越後軍が打撃を蒙ると味方が勝手に総崩れする場合がある。
または裏切りで、前面の北条軍と挟み撃ちに遭う

0114名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 17:34:07ID:sx5Lafdx
だから最前線には立ちにくいかと
0115名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 19:58:25ID:FAfjfdrH
成田って…そんなの信じてるの?
0116名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 20:27:33ID:6lc5DYPm
>>113
>>越後軍8千で烏合の衆11万人を統率するから、越後軍が打撃を蒙ると味方が勝手に総崩れする場合がある。
または裏切りで、前面の北条軍と挟み撃ちに遭う

損害をこうむったからまさにその通りになったんじゃないの?

後10万以上の兵力で謙信自身が廃城にしてしまった捨て城の平井城と、
松山城主はもともと扇谷上杉家の上田家の城、それを取って喜ばれても・・・、
その辺は上野の緩衝地で初めからまだ北条領とは言えない場所。
0117名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 21:12:44ID:sx5Lafdx
>>116
>上野の緩衝地

謙信が関東へ出陣する前は、三国峠まで北条領でしたよ。
0118名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 21:15:33ID:6lc5DYPm
>>117
勢力優勢だった北条家に上野の豪族がなびいてただけ。
まだまだ安定には程遠い。直接支配なんて無論まだまだ。
0119名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 21:20:44ID:sx5Lafdx
>>117
だったら緩衝地帯という表現は変だろ
0120名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 21:43:51ID:6lc5DYPm
>>119
北条家がこの辺りに入って来たの自体1550年代からだし、
長尾家も当然、その後も行動を示している。
とは言えどちらも主力が来るには至ってない時期なので、
結局その地の豪族が日和見決め込んでる状況=緩衝地帯ということ。
0121名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 23:08:48ID:sx5Lafdx
>>120
つまり謙信が関東へ出兵したから、上野国が緩衝地帯になったと
北条に一定の歯止めをかけたという意味では、謙信の成果になるのでは
0122名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 23:30:40ID:Bo2b5CV6
どうでもいいが
11万5000なんて集まるとは思えない
実際は5、6万ぐらいだろ
0123名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/29(月) 23:40:44ID:gI5j5yh6
>>122
関東幕注文(上杉文書記載の250将)をもとに、各大名小名家の史料を検証するといいよ。
永禄7〜8年の「関東味方衆」(上杉輝虎文書)で、関東25将・概算4千騎(兵は2万〜3万)らしい。

0124名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/30(火) 01:17:37ID:QiCLSa7h
>>121
そうじゃない、小田原城攻めの前から既にそういう状況だったので小田原攻めの成果とするにはちょっと微妙すぎる。
しかも小田原攻めが終われば普通に北条にいってるだけにますます微妙。

結局この辺は、武田も混ざってくるので、落ち着いてた試しなんかないし、
要所である厩橋城でさえあっちいったりこっち行ったりしてる。
0125名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/30(火) 08:10:22ID:+ofapNwT
篭城戦は攻撃側が3倍の兵がいるといわれている
北条軍が最大で3万だったわけだから、9万あれば落とせる計算
百歩譲ってそれは無理だったとしても、北条軍の反撃を阻止できず占領地ほとんど奪い返されてるって言うのはちょっとなぁ……
0126名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/30(火) 12:40:07ID:OQ2ebVSx
謙信の目的は略奪・人攫いを領民にやらせて食わせること
味方からは略奪できないから、この意味では敵は多ければ多いほうが良い
だから戦略目的の一貫性もなくあちこちに喧嘩吹っかけてまわったんだろうW
0127名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/31(水) 14:23:01ID:49NrW9z7
>>126
略奪のための遠征説はここ一年ぐらいネットでよく聞く説だけれど、
一般の兵卒はそれでいいかも知れないが、
(それにしても略奪は、「出来たら役得」ぐらいなもので、
 実際には略奪を目的にした侵攻なんて難しそう)
それを率いる国人衆は何の利益にもならないのでは。
0128名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/01(木) 13:28:58ID:o6HK/e9e
>>127
だから国人層から反乱や離反が多発したんじゃないの?
川中島合戦の恩賞不足を愚痴った武将が殺されたり、その愚痴相手だった本庄が謀反したり
逆に謙信の戦略が安定して、北陸制圧一本槍に絞られる傾向が見えてからはこういった問題は目に見えて減少してるでしょ
0129名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/02(金) 02:32:30ID:yExKsNzd
神奈川県民的には上杉謙信(笑)って感じ。
小田原なめんな!!
0130名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/02(金) 07:54:16ID:/xBBN9LW
新潟出身神奈川在住の俺
0131名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/02(金) 09:34:52ID:M/4RXW43
上杉家はもともと神奈川出身だし、謙信の祖先の長尾家も
神奈川の長尾台が拠点だったんだろ?
0132名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/02(金) 11:14:36ID:FTIoVzuO
謙信軍が「相州亡国」といわれるほど略奪したからなぁ
地元出身なら尚更腹立つだろ
一応、弁護すると謙信も略奪を統制しようと制札を出してるが
11万の軍勢、しかも寄せ集めじゃあ明らかに謙信の能力を超えてる罠
0133名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/02(金) 11:19:44ID:yQuE41+E
え、謙信自ら奴隷市場を切り盛りしていたと文献にあるが
身代金は他に比べ格安だったとか
0134名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/02(金) 11:37:20ID:FTIoVzuO
>>133
それは小田城攻略の時の話
>>132は小田原包囲陣の時の事
0135名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/03(土) 00:09:35ID:2yuHyG+m
新潟(長尾)、茨城(佐竹)、千葉(里美)、群馬(長野)VS神奈川(北条)
0136名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/03(土) 07:50:45ID:XgrXlBkW
里『見』だ。二度と間違えんなよ
0137名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/03(土) 19:04:59ID:2yuHyG+m
北条「すまんね里三君」
0138名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/03(土) 22:38:39ID:IcaoudeY
藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)を要約すると、

上杉謙信は関東に12回出兵していて、その内の10回は、
晩秋に出かけて年を超し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。

明らかに戦いには季節性がある。

冬場の働き口などどこにもなく、まして飢饉・凶作の続いた戦国の村々に
とって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場。

農閑期になると、謙信は戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を
超えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても
何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。


0139名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/03(土) 22:45:50ID:tWbOCgGo
>>137
北条w
0140名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/03(土) 22:48:46ID:MiZrmQGF
寒いところは大変だね
0141名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/04(日) 09:32:53ID:hl4iNRwR
なんで11万(笑)の軍勢が本当に集まったみたいな論調の奴が多いんだ?
0142名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/05(月) 02:54:18ID:ePcYffh2
手取川でも戦い起こってないし
0143名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/05(月) 14:01:14ID:f+aYbP4j
鎌倉九代記・関八州古戦録で11万3000と書いてあるからじゃないの?
他に7万とか9万とか諸説はあるけど
いずれにしても雑役夫とかの一時雇いの非戦闘員を入れたと仮定したとしても途方も無い数
せいぜい1万程度しか本隊兵力がいない謙信じゃあ統制不能なのも当然
0144名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/06(火) 19:18:37ID:o7nznIQv
>>133
そういう文献ってどこにあるんですかね?
謙信のことを調べようとすればするほど謙信マンセーのものばかり出てくるので
教えて頂ければ幸いです
0145名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/19(月) 02:16:39ID:mk6oH8sU
謙信の戦いには季節性があるっていうけど、それは昔から言われている
ことだ。川中島の戦いもそうだよ。

手取り川の戦いは、信長、秀吉ではなく柴田勝家と戦闘があったと思われる。
秀吉が勝手に戦線離脱したから、柴田軍は混乱して謙信との戦闘どころ
ではなかったのでは。
0146人間七七四年2007/02/19(月) 08:49:52ID://xZLte6
>>144
「別本和光院和漢合運」(「越佐史料」収録)
藤木久志「雑兵たちの戦場」にも解説が載っている。
武田信玄(「勝山記」「軍鑑」に高値で奴隷売買した例が満載)よりマシだと思うがね。
0147人間七七四年2007/02/19(月) 10:30:28ID:F6+CLbt1
>>145
信長公記に記述がない
北陸の寺社にもまったく記録がない
手取川では戦闘がなかったんだろ
0148人間七七四年2007/03/03(土) 03:05:27ID:1o5rbpm0
そうそう、兎ぶ長公記を見ないとwww
0149人間七七四年2007/03/03(土) 15:03:06ID:VYpHoDh2
手取川合戦じたいの存在は怪しくても、
織田勢が撤退したのは事実だろ
0150人間七七四年2007/03/03(土) 18:18:14ID:lej04zKJ
いずれにせよスレ違いだから、「手取川合戦」のスレへ移って論争したら。
0151人間七七四年2007/03/03(土) 20:13:52ID:wTSEVXae
なんで奴隷の値段の高下でマシとかマシじゃないとかいえるんだ
やってることは同じなのに
これが贔屓を通り越した厨というものかw
0152人間七七四年2007/03/03(土) 20:20:26ID:mcf419ec
五十歩百歩ほどの違いはある
0153人間七七四年2007/03/04(日) 15:17:44ID:YnkHweJU
藤木久志氏は黒田基樹氏と「定本・北条氏康」を著している人だよね。
ところで後北条氏は関東管領上杉氏、里見氏、佐竹氏・・・の支配地域に
侵攻しおびただしい死傷者を出していることは不問なの。

時は400年以上も前の戦国時代、虐殺あり、謀略あり、寺院の焼き討ち
あり、何でもありだよ。
0154人間七七四年2007/03/04(日) 15:46:02ID:qxuoaOST
藤木久志氏は略奪があったと言っているだけで
略奪を非難しているわけではない
もしかして現在の価値観で人狩りや侵略は
悪いことだと思っている?
昔はそれが普通なんだよ
朝起きたらご飯食べる
これと同じぐらいありふれた事だった
0155人間七七四年2007/03/04(日) 15:57:21ID:knx6oqya
>>153
ナイーブな人だねって言われない?
それとも上杉や武田だけが悪く言われるのが我慢ならない?
0156人間七七四年2007/03/04(日) 15:58:11ID:4PSstL7y
んなわけねーだろw
どこの土地の話しだよ
国に帰れ
0157人間七七四年2007/03/04(日) 16:50:31ID:6pgAs2YS
>>91
一応氏照が越後に出兵している
追い返されたが
そして武田も金塊を納めてお引取り願った
あれは景勝の作戦がちだろう
0158人間七七四年2007/03/04(日) 18:41:52ID:D7MrSMDk
信長が初上洛した時、礼銭とか無しで京洛から略奪しなかっただけで評判になるような御時世だからなぁ(それ以外では結構好き勝手やってたが)
略奪と無縁だった大名っていないんじゃない?
当時の価値観を考えると、やらなかったら清廉を通り越して異常
0159人間七七四年2007/03/04(日) 19:22:50ID:hh8GjlM0
いや京の場合はちょっと特殊すぎるんで同列で考えるべきじゃないと思う。
0160人間七七四年2007/03/04(日) 19:31:38ID:D7MrSMDk
>>159
何で?
まぁ織田軍の場合礼銭突っ返して町を焼いたこともあるから、そういう方向でも特殊っちゃあ特殊だが……
0161人間七七四年2007/03/05(月) 13:39:22ID:NP4JQFqN
第四次川中島でも謙信は当初禁じてた略奪を途中から解禁している
兵士の士気を維持するためにも敵地でのご褒美は必須だった
0162人間七七四年2007/03/05(月) 21:01:25ID:B+f7iMOY
上杉謙信は関東地方に略奪が目的でやって来る。義で行動しているわけではない。

藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)を要約すると、

上杉謙信は関東に12回出兵していて、その内の10回は、
晩秋に出かけて年を超し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。

明らかに戦いには季節性がある。

冬場の働き口などどこにもなく、まして飢饉・凶作の続いた戦国の村々に
とって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場。

農閑期になると、謙信は戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を
超えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても
何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。
0163人間七七四年2007/03/05(月) 21:36:02ID:opIsQPXm
なによくあることだ
0164人間七七四年2007/03/05(月) 23:34:23ID:G44Nt1X/
ここも>>1の趣旨とズレ、つまらないスレになっちまったな。
信長、秀吉のスレへ遊びにいって来ようか。
0165人間七七四年2007/03/06(火) 00:29:11ID:O0EHJMjp
>>157
なんかいろいろ誤認してるな
兵を出したのは氏邦(上州方面担当は氏照ではない)、
越後から追い返されたのは、武田が上杉に靡いて、景虎を滅ぼされた後
0166人間七七四年2007/03/06(火) 00:42:20ID:2Ob9BpYO
>165
氏邦も出陣してるけど氏照はそんな一部分に限った存在じゃなく、
伊豆方面の合戦以外ではかなりの広範囲で行動していてかつ水軍も統括していて
重要な外交もたびたび担当していたところを見る限り、総合司令官的な存在だった節があるので、
上州でも普通に行動が記録されてるよ、このときもそう。
特に上杉に関係する事だと多く動いている様子もある。

で確かに景虎が討ち取られる数ヶ月前に行動してたはず、それは>>157に聞いて欲しいところだが。
0167人間七七四年2007/03/06(火) 02:42:27ID:Eq5/jFMS
>>166
氏照が司令官的存在だったことは否定しないし、
外交では織田・上杉・伊達と方々の窓口になってるのも認める
しかし御館の時、氏照が具体的に何してるかわからないんだが

上野の景虎派諸将を北条に引き込んで、彼らを率いて越後に攻め入ったのは氏邦であって氏照ではない
そもそも、この頃は氏政と共に絹川在陣中だし
俺が知らないだけかも知れないので、氏照が動いているという根拠を教えて欲しい
0168人間七七四年2007/03/06(火) 21:10:17ID:ppTEY8gw
まあ謙信とは無関係なわけだが
0169人間七七四年2007/03/08(木) 21:23:21ID:ZMXK4VwP
http://page.freett.com/usagiana/kasugayama/list-2.html
0170人間七七四年2007/03/08(木) 22:53:03ID:KnR03LxA
>>167
越後樺沢城や坂戸城で調べれば色々出てくるよ、
ちなみに佐竹を攻めてたのはその年の夏、越後への出兵は9月〜10月
忙しい人ではあるが・・・。ちなみに春ごろは常陸を攻めてる、本当に忙しい人だw

上杉年譜にもあった気がしたし、北条方の記録でも残ってた気がする。
0171人間七七四年2007/03/09(金) 20:52:54ID:KlciBV79
>>156
あれっ、小学生?  
織田信長、豊臣秀吉、毛利元就って名前くらいは聞いたことがあるだろ。
この人たちがどうやって勢力を拡大したか、ちょっと調べてみ。
0172人間七七四年2007/03/10(土) 15:22:07ID:RNuhvvDm
氏政は何をする人なんだろう?
0173人間七七四年2007/03/10(土) 17:35:16ID:DIYd5Dlx
湯漬けを食べる係。
0174人間七七四年2007/04/06(金) 05:48:13ID:VMbDBYde
こらこら君達、戦国時代なんだから悪さの一つや二つあるだろう。
良い事も悪い事も当然、偽造は少なからずあるさ。
0175人間七七四年2007/04/06(金) 06:57:32ID:VWvWrHtt
謙信の凄さを最も端的に語るなら、

当代屈指の名将であった武田信玄と北条氏康の2人を同時に相手して、
負けなかった(なお余裕があった)という点に尽きる

こんなことは謙信以外では不可能だ
0176人間七七四年2007/04/06(金) 16:17:46ID:dXJfv4CL
そんなことより俺のチンコしゃぶってくれよ
0177人間七七四年2007/04/07(土) 08:37:37ID:T/GVmoTV
その屈指の名将二人にいずれも自分から喧嘩売りにいったわけだからな
間抜けといえば間抜け
しかもその名将二人ならともかく、一向宗にすら勝てずに裏切り連発だし
0178人間七七四年2007/04/07(土) 09:07:48ID:ctafUhYb
謙信は自分の領地で戦うことはほとんど無かった
敵に有利な相手の領内に遠征して、殺しまくり
0179人間七七四年2007/04/07(土) 14:32:20ID:rVn2tMuB
>>178
関東にも元々勢力圏はあったわけだが。
謙信が領土を拡げないなんて与太話信じてるアホはもういないだろうけど。
0180人間七七四年2007/04/07(土) 21:52:47ID:orK5dsaW
>>177
名将信玄・氏康と戦い、一向宗とも戦い、さらに裏切り連発。雪国で米も獲れない。(佐渡金山は景勝の時代)
越後をよく守りきったなと思う。
0181人間七七四年2007/04/07(土) 22:37:32ID:6BBXTIMg
>>169
三郎景虎ステッカーまだあんのか
ミラヲタつえー
0182人間七七四年2007/04/10(火) 10:45:24ID:HCVCUiUP
>>1
静岡

おにゃのこ♥ 萌え〜
0183人間七七四年2007/05/20(日) 23:35:32ID:Egm9ISYh
そんな頃、隣の「信濃(長野県の辺り)」から 「村上義清」 という人が尋ねてきます。
話を聞くと、「信濃を治めてたんですが、武田信玄 に攻められて国を取られました。 たすけて〜」 と言います。
信義に厚かった景虎は、「それなら助けてあげましょう」と返答し、こうして甲斐・信濃を制圧していた武田家と、「川中島」という場所で何度も戦いを繰り広げる事となります。
有名な 「川中島の合戦」 ですね。

しかしその一方で、これだけ戦いながらも上杉家の領土はぜんぜん増えていませんでした。
上杉家は軍を進攻させて一時的に周囲を制圧しても、兵を引いた後にまた取り戻される、というのを繰り返していたからです。
これは、謙信の領土戦略の欠如と同時に、領土支配欲の無さもあったと言われています。
彼の戦争は信義や大義名分に沿ったものであり、領土を広げるためのものではなかったからだ、と伝えられています。


上杉 謙信は「義」に生きた武将として後世に知られています。
今川家が武田家に対し、「塩止め(塩の輸出禁止)」 を行いそれを周辺諸国に要請したときも、
「それで一番困るのは甲斐の国の民である。そんな事は出来ない」と言い、逆に甲斐への塩の輸出を推奨したと言います。
敵を援助する事を 「敵に塩を送る」 と言うのは、これが元になっています。
武田信玄 は死の床で、跡継ぎの勝頼に、「あんな勇猛な男と戦ってはならん。 謙信は、頼むと言えば嫌とは言わぬ。 謙信を頼み、甲斐の国を存続させよ」と遺言し、また北条氏康 も、
「謙信は請け負えば、骨になっても義理を通す。 若い大将の手本にさせたいものだ」と語っていたといいます

http://kamurai.itspy.com/nobunaga/uesugi.htm


0184人間七七四年2007/05/21(月) 15:33:26ID:FMgK6Aj/
ID:Egm9ISYh
キミ色んな上杉関連のスレageまくって頑張ってるねw
0185人間七七四年2007/05/25(金) 04:06:39ID:AYzVyTVn
>>177
今さらだが、謙信から先に北条にしかけたわけじゃないだろ
0186人間七七四年2007/05/25(金) 05:00:07ID:cqvcyNiP
北条から先に上杉に仕掛けたのは間違いないが、
謙信から先に北条に手を出してないか?
0187人間七七四年2007/05/25(金) 06:49:45ID:RQXn7HCK
まだこのクソスレあったのか
0188人間七七四年2007/05/25(金) 10:41:43ID:oyIbsPSz
>>186
具体的にいつよ
0189人間七七四年2007/05/25(金) 11:20:53ID:s/rM6FXO
>>188
安土桃山時代
0190人間七七四年2007/05/27(日) 00:35:59ID:BFqZDK7R
>>186
北条と上杉は対立していて、先に仕掛けたのは北条だが
その前から長尾と上杉も対立していた、いわば北条と長尾は共通の敵を持っていた関係に過ぎない。

それを自分から上杉を取り込んで敵に回したのは長尾だし、以後北条が長尾に敵対した訳でも無いのに
関東のもめごとに首突っ込んできたのも長尾。
0191人間七七四年2007/05/27(日) 02:29:32ID:n61bDKUo
どっちから仕掛けたとか無意味だよ。
米軍と日本軍、どっちが先に手出ししたと言うのと一緒。答えは各自で違ってる。
0192人間七七四年2007/05/27(日) 03:30:36ID:C3D5keu/
関東が結局北条になびいていったのは謙信の人格の問題ではなく
単純に距離と時間の問題。
謙信との直接対決は武田北条ともなるべく避けていたから
上杉軍の戦闘能力は相当なものだったんだろう。
0193人間七七四年2007/05/27(日) 04:35:21ID:BFqZDK7R
北条方になびいていったのは小田原攻め失敗の後とか国府台合戦の後とかに
目に見えてなびいていってるので別に距離の問題とかではなく、単純に北条の勢力が優勢になったからだろう。

そもそも距離と時間の問題に20年以上経ってから気付くって関東勢は揃ってどんなアホの子ですかw
0194人間七七四年2007/05/27(日) 06:05:04ID:pfV6+vip
>>190
まるで一方的に長尾が北条を敵に回したみたいなこと書いてるがそうとは言い切れないだろ。
天正11年に北条氏政の弟氏邦が元上野国衆の赤見山城守について
『先年越国へ越し候時分、御忠信申し上げ候、大聖院殿(北条氏康)御証文以下にも所持致し』と述べている。
つまり上野一国を勢力下に収めた北条氏が越後にも侵入していたことがうかがえる。
となれば謙信の関東侵攻は上杉憲政を関東に復帰させることを目的に行われたというのではなく、迫り来る北条氏の脅威に対抗するためのものであったと考えることができる。
0195人間七七四年2007/05/27(日) 06:27:34ID:BFqZDK7R
>>194
なんかいまいち言いたいことがわからんのだが、
天正11年?謙信が小田原に来た20年以上後の話って事?
0196人間七七四年2007/05/27(日) 06:34:55ID:WEUm1UFW
日曜の朝っぱらからよくそんな話できるよなw
0197人間七七四年2007/05/27(日) 06:35:39ID:BFqZDK7R
平日の朝っぱらからやってるよりはマシだろw
0198人間七七四年2007/05/27(日) 11:47:48ID:pfV6+vip
>>195
『先年越国へ越し候時分、…』は「小室開弘氏所蔵赤見文書」。文中に氏康のことを指す名前があり、氏康の代で越後へ侵攻が行われる状況は天文末〜永禄初頭における上野経略の過程だと思われる。
上野国内では最北の国衆沼田氏などのように各国衆で北条氏派と上杉氏派の対立があったようであり、上杉氏派は自然と憲政を庇護する越後の長尾氏と結び付いたのだろう。
そしてその延長から北条氏の越後への侵入があったと考えられる。
0199人間七七四年2007/05/27(日) 18:33:08ID:BFqZDK7R
>>198
前半は別に文句ないが最後の一行に対する返答が結局
「だからそれは謙信が憲政をかくまったから」
としか言いようが無いのだが。>>190の反論に全くなってない。

謙信が上杉を取り込んだのは1552年、その話は1550年代末でしょ。
もう敵対してて当たり前の時期。
憲政を取り込まなかった場合にどうなるかはこれはなってみないとわからない部分もあるが、
少なくとも取り込んだ史実の後は既に敵対国である以上攻められても文句は言えない。
その敵対した原因はそもそも憲政を取り込んだことにある
というのが>>190のレスの意図。その後の話をいくら書こうと少なくとも俺のレスの反証にはならんでしょうに。
1540年代くらいから越後に攻めようと言う話があったのなら別だけど。

憲政と北条氏の争いなんざ1530年代からずっと続いてる事だよ、
謙信なんか生まれてもいない。その憲政を取り込んだら北条氏が敵になるのは当たり前だ。
0200人間七七四年2007/05/28(月) 01:49:21ID:KLapbleR
戦国の三強、信玄・氏康・信長をよくもまああそこまで苦しめたよ。
領土は取れなかったけど管領お疲れさん!
0201人間七七四年2007/05/28(月) 16:37:22ID:NP5GF6PC
長尾が上杉を取り込んで北条を敵に回した?
もともと長尾と北条の関係ってどうだったの?
0202人間七七四年2007/05/28(月) 22:59:59ID:ImOeLulU
謙信パパと宗瑞は共闘した仲
0203人間七七四年2007/05/29(火) 00:29:16ID:qg8B6U3J
新潟の米うめえwwwwwwwwww
0204人間七七四年2007/05/29(火) 22:11:22ID:6D5kY3V6
>>201
敵になったり味方になったり。
河越夜戦で越後長尾家も兵を出しているから、
憲正取り込み以前から北条と謙信が敵対していたとも言える。
0205人間七七四年2007/05/29(火) 22:15:34ID:eW7yhz1r
マジっすか?それは知らなかった
上杉憲政亡命までは長尾と上杉は仲悪かったとばかり。
0206人間七七四年2007/05/30(水) 02:58:21ID:suWCLsNX
>>204
そうなんだ。じゃあ別に長尾は上杉憲政を「取り込んだ」からそこで初めて北条を敵に回したとは言えないのかな
0207人間七七四年2007/05/30(水) 07:12:00ID:JeuVHEMS
長尾と上杉の関係で言うなら為景の代では間違いなく敵。
だけど上田長尾氏などはその頃から管領よりだったので、為景とはぶつかり続けていた。

そのため為景が死に病弱な晴景が継いで以降は管領よりの勢力に押されているため
この時期は管領の影響を受けている時期になる、河越夜戦の時期もそう、謙信はまだ子供。

しかし為景の頃の勢力によって謙信が祭り上げられた以上、謙信はどちらを選ぶ事もできたと言える。
0208たこ2007/06/02(土) 20:22:29ID:CqrLEuu+
>彼の戦争は信義や大義名分に沿ったものであり、領土を広げるためのものではなかった

禿げちげえよ!晩年は越中・能登・加賀を属国化したし
(魚津・七尾・石動山・松任の城には城代や目付け役を置いた。)
かつての不倶戴天の敵とことごとく手を結んで頼ってきた信濃や関東大名から呆れられた。
(北条、武田、一向宗など)
0209人間七七四年2007/06/02(土) 22:19:17ID:/bUac4JE
計画性の無さは計画的だよな
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