備中連島の住人、三宅国秀と言う人がいた。

永正十三年(1516)、琉球への渡航のため、薩摩国、坊津に備中より出航した
十二艘の船舶を率いて停泊中、島津忠隆の襲撃を受けて、一行もろとも皆殺しにされた。

江戸期に編纂された島津氏の記録によると、国秀は無法にも琉球征服を企んだため、
島津氏が室町幕府の許可を取り、彼を攻め滅ぼしたのだ、と言う。
島津氏は、琉球を守った恩人であったわけだ。


が、ここに天文二年(1533)頃、伊予の今岡通詮が島津氏に事態の説明を求めた記録がある。

通詮の記録によれば、三宅国秀の船団は、幕府の命を受けたものであった。
無法どころか、室町幕府の正規の船団であったのだ。

この問い合わせに島津氏は、このように返答している。

「三宅国秀の船団は、琉球からの襲撃を受け、そのため国秀は殺された。」

しかしそれはありえない。実はこの三宅の船団の襲撃があった時期、薩摩には
琉球王国の使者の僧が滞在しており、この僧によって琉球に、「島津の戦勝」が
伝えられているからだ。

どうも国秀の船団は、琉球征服どころか、幕府から、琉球に正規の交易を求めるための
ものであったらしい。
琉球交易を独占したい島津氏はこれを妨害するため襲撃、その上でその責任を琉球に
なすりつけ、さらに琉球に対しては、あれは琉球征服の船団であったと恩を売った、
と言うのが真相のようなのだ。


大永元年(1521)

薩摩は天領倉敷に酷い事したね。