【縁の下の】西海の虎 島津義久6【力持ち】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 19:29:32ID:AVbkK7Ww1号スレ http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1042467527/
2号スレ http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1071844610/
3号スレ http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1111659035/
4号スレ http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1136370377/
5号スレ http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1158450025/
掟
其の一、御屋形様の遺徳を偲び、 sageモード にて進行申し候w ←これ禿しく重要
其の二、下から10スレ以内まで落ちたら、酸素を吸わせるためにage候
其の三、煽りはスルーor煽り専用スレに誘導にて相務め候
其の四、空age禁止にて候
其の五、「西海の虎とは何ぞや?」とはくれぐれも聞くまじく候w
関連スレなど>>2以降で
0664人間七七四年
2009/04/14(火) 20:06:17ID:mJJnXbbF>>661です。
いちき串木野出身の自分が知る限り書いてみるとこんな感じです。
(廃仏毀釈に伴いなくなったものもありますが)
他にも地元の方が知ってるものがあったら教えてくれると嬉しいです。
おじいちゃんとパパ
・加世田詣り(日新寺(竹田神社)⇒南林寺(松原神社))
南林寺はパパ、日新寺はおじいちゃんの菩提寺。
領内に間諜が紛れ込んでいないか確認するため
おじいちゃんが領民を集めて踊りを躍らせたのが始まり。
江戸時代になると、軍事教練の意味もかねて
日新寺での踊りが終わると同時に、南林寺までマラソンをやるようになった。
一着の人は南林寺の灯篭に火をつけるという栄誉に預かる事が出来る。
有名どころでは西郷従道や奈良原繁がこの栄誉を担っている。
パパ
・鈴懸馬(国分八幡宮他)
馬が好きで好きでしょうがないパパの夢に
馬頭観音が現れた事がきっかけ。
この夢について知り合いの神主やお坊さんに相談したところ
皆も同じ夢を見たということなのでそれはめでたい、と
馬に鈴を懸けて踊りを奉納させたのが始まり
次男
沢山あるのでメジャーなものは省略(妙円寺とか)
・太鼓踊(県下全域)
当時、都でコレラが流行っていたが
駿河のお坊さんの念仏踊りのおかげで下火になった。
これをたまたま上洛中に見た次男がたいそう感激して
配下の池田と牧之瀬に覚えさせ、薩摩風にアレンジしたのが始まり。
・七夕踊(市来)
次男が朝鮮の役から無事に帰ってきたことを喜んだ
市来郷の者達が嬉しさのあまり踊ったのが始まり。
・蜘蛛合戦
朝鮮の陣中で無聊を慰めるために蜘蛛同士を戦わせて遊んでたのがはじまり
(祭りといっていいのか…?)
三男
・心岳寺詣り(心岳寺(平松神社))
あまりにも可哀想な最期を遂げた三男の壮烈な最期と遺徳を偲んで行われたのが始まり。
安産の神様として有名な三男ですが、地元では武勇に商売繁盛の神様としても祭られています。
0665人間七七四年
2009/04/14(火) 20:08:11ID:mJJnXbbF・強張踊(ごちょおどい、と読みます)
由来は二つ
1.関ヶ原での敗戦が薩摩に次々と届いた。
親方様は弟の身を案じながらも
総大将として動揺を見せる様なことはしなかったが
(おじいちゃんの教育が行き届いてます)
さすがに連日連夜の憂慮のあまり、ついには心痛が表に出るようになった。
これを心配した側近達が物々しい武装で身を固め
『親方様!我々がこうして付いております。関ヶ原の者達もきっと無事に戻ってきます!
元気出してください!』と励ましたのが始まり。
2.関ヶ原の合戦の後、薩摩に訪れた徳川方の使者を饗応するため
親方様が考えたのが始まり。
とはいえ、饗応というよりも脅迫のよう印象を使者は受けたようで…
体格の頑丈な武士達がわざと非常に重い鉄棒や柱と見紛うほどの角材を
引っさげて現れ、勇ましい掛け声とともに地面に叩きつけ、あるいは互いに打ち合う、
といったこの豪壮なお祭りは、徳川方の使者に『薩摩の士気未だ衰えず』といった印象を与え
ろくな交渉も出来ないまますごすご帰る破目になったとか。
どちらの由来でも親方様らしいけど1番目の理由のほうが
・弟君が心配で仕方ない親方様
・そんな親方様が心配で仕方ない家臣たち
という光景が浮かんで、個人的には好きです。
末弟のお祭りも探せばありそうだけどな〜。
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