【縁の下の】西海の虎 島津義久6【力持ち】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 19:29:32ID:AVbkK7Ww1号スレ http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1042467527/
2号スレ http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1071844610/
3号スレ http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1111659035/
4号スレ http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1136370377/
5号スレ http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1158450025/
掟
其の一、御屋形様の遺徳を偲び、 sageモード にて進行申し候w ←これ禿しく重要
其の二、下から10スレ以内まで落ちたら、酸素を吸わせるためにage候
其の三、煽りはスルーor煽り専用スレに誘導にて相務め候
其の四、空age禁止にて候
其の五、「西海の虎とは何ぞや?」とはくれぐれも聞くまじく候w
関連スレなど>>2以降で
0625人間七七四年
2009/04/01(水) 17:18:37ID:ZYeFH4EJ鹿児島県史料で戦国島津と関わりのあるものを買おうと思ったのですが、
巻数が多くて、旧記雑禄の戦国島津が何巻の部分に当たるのか判りません。
本藩人物誌と共に何巻を購入すればよいのかお教え願えませんでしょうか?
ちなみに鹿児島県資料集の方は、上に書いてあったように鹿児島県立図書館様に問い合わせたところ今は個人販売はしていないみたいです(T_T)
0626シベリアよりのお手紙
2009/04/01(水) 17:40:31ID:0/K632dX・旧記雑録前編2(の後ろのほんの一部)
・旧記雑録後編1〜5
dqn関連、義久公の玄孫である光久公や曾孫になる久章についても知りたければ後編6も必要
鹿児島県史料集買えなくなったとはすごく悪い知らせ・・・
地元の図書館には元々収蔵がないしil||li(つω-`。)il||li
0627人間七七四年
2009/04/01(水) 21:05:32ID:ZYeFH4EJ鹿児島県立図書館では、地方の図書館配布にしか刷らないみたいです。
薩摩の若者の為に刷ってください!と、もう一回言ってみようかしらん(>_<)
0628人間七七四年
2009/04/02(木) 06:58:05ID:rzSlV/b7大友宗麟と敵対?してるけど造形が若いころの四兄弟だからかな?
三州で( −_−)が無双してて
(´・ω・`)がそろそろ後継か?という頃だと
壮年期から頭角を現す(`Д´)は分が悪いのかも
読者視点だと目立たないことをネタにして出まくるキャラなんだけどw
(`・ω・´)は子供でマスコットみたいな扱いだがそれでキャラが立ってるw
(´・ω・`)のセリフに「将来的には義弘の方が俺より有名になるのは本当か!?」
っていうのがあったりするw
結構面白いので、興味があったら手に取ってみるのもいいかも
島津兄弟のビジュアルが出る漫画は少ないし・・・
(´Д`)まで出てくるからなぁw ある意味貴重
0629人間七七四年
2009/04/03(金) 02:51:35ID:T8qq+Dizニコですまんが歳ぼんを扱った動画があった
ビジュアルは殿といっしょのやつだが史実をなぞってる
御屋形様や歳ぼんももっと知名度上がってくれたらいいなあ
0630人間七七四年
2009/04/03(金) 11:59:57ID:DH1CZpUw「よんなーん」
が可愛かったなw
またニコニコネタになってしまうが
大百科記事の島津家の充実ぶりがすごい
御屋形様の関連商品には笑ったww
0631人間七七四年
2009/04/04(土) 09:14:38ID:FOn2J3gt負け知らずだったらしいじゃん
貴久と忠将の関係とか義久義弘は間近で学んだんだろーね
0633632
2009/04/05(日) 13:28:46ID:V3uWaAJ1これも御屋形様のご威光のおかげですな(嘘)
>>620
御屋形様は身内の女性にしか興味ないんですっ!
一の台って菊亭晴季の娘で関白秀次の正室でしょ?
0634人間七七四年
2009/04/05(日) 14:35:15ID:RrPSw5Be>>633
一の台違いでしてよ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%8B%E8%87%BA_(%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6%E6%B0%8F)
0635人間七七四年
2009/04/05(日) 22:08:55ID:V3uWaAJ1うん、お察しの通りネタだったんだが。
最後に「w」つけとくべきだったな・・・
御屋形様の周辺には何人か一の台(一之臺)という人が出てくるようだが
同一人物かどうかもはっきりしないみたい。
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/ku/kunikami-tokimichi-musume.htm
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/i/ichidai.htm
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/shi/shimadzu-yoshihisa-tuma3.htm
ウィキで紹介されたのは一番上の人かな。
0636人間七七四年
2009/04/06(月) 12:42:09ID:MRQ41ojE誰か長編小説書いてくれよ
0637人間七七四年
2009/04/07(火) 04:15:17ID:aw89VYZm戦国島津伝 でググると当たると思う
0638人間七七四年
2009/04/07(火) 16:36:14ID:u7bJgHg6読んでみた。
そのサイトの冒頭に
※この物語に登場する一部の人物、合戦の詳細は事実とは異なる場合があります。
て書いてあるけど本当だった。
いやむしろ「異なる場合がある」というより異なる場合の方が多いのね。
偉そうなこと言える立場にはないけど、個人的には せっかくここまで
書かれてるのに勿体ないと思う。
0639人間七七四年
2009/04/08(水) 14:46:43ID:iJklVAjR0640人間七七四年
2009/04/09(木) 03:21:53ID:Qp2f12PR0641人間七七四年
2009/04/09(木) 09:07:17ID:V3AxZWN60642人間七七四年
2009/04/09(木) 13:22:19ID:wssCExZ9出水が地元ってことで実久vs忠良・貴久あたりの小説書いて欲しいけど〜
0643人間七七四年
2009/04/10(金) 09:51:04ID:0wq5yqFvお屋形様のご立腹ですかな 何に対して怒っているかはノーコメント
被害に遭われた方にはお見舞い申し上げます
0644人間七七四年
2009/04/10(金) 17:53:47ID:GGJ2XfBrないと厳しい日が結構あったし、一年に一回は火山岩が何処かに降って
何か壊したっていうニュースがあって、確か市庁舎の入口の扉を破壊したこともあった。
だから小学生とかはヘルメット&マスクで通学してた。
0645人間七七四年
2009/04/10(金) 19:04:50ID:C/UEIxvyこれでも依然と比べればマシなんだから凄い。
夏に窓開けられなくなったらやだな…。
床がザラザラして掃除が大変なんだよなぁ。
0646人間七七四年
2009/04/12(日) 00:59:25ID:yyorpwYF義弘→アムロ 戦功天下無二の最強戦士。現在、ハロという猫を飼っていて、子孫を十数匹にまで増やしたらしい・・
歳久→カミーユ 最高のNT。九州征伐時にも誰よりも早く上方からの悪い気を即座に察知するほど。でも、結局関白に修正しちゃうお茶目さん☆
家久→ジョドー 正妻じゃない側室から生まれたNT少年。天正の木せ・・上方留学後、戦国隋一の戦上手に成長した!
0647人間七七四年
2009/04/12(日) 01:54:53ID:trvlZEMP風向きの情報がない天気予報には違和感を未だに感じるよ。
ところで、遅レスにも程があるけど
>>577
始祖忠久が生まれるとき、
お稲荷様が母親の出産の手助けをしたのが由来だとか。
明かりを灯して安全な場所まで案内し、
雨を降らせてお産時の血やらを洗い流したことから
各地に氏神として稲荷神社が建立され、
吉事に降る雨を『島津雨』と呼んで吉瑞と喜ぶようになったんだとか。
0649人間七七四年
2009/04/12(日) 12:38:46ID:F7zzC3xb0650646
2009/04/12(日) 19:17:26ID:yyorpwYFところで、南無阿弥陀仏を歳久が挽歌にしてるのは日新公の教え的にセーフなのかな?
念仏じゃなくて、一向宗の政治的力を批難してるだけなのかなあ?
0652人間七七四年
2009/04/12(日) 20:38:46ID:yyorpwYF浄土宗は島津は基本セーフなの?
0653人間七七四年
2009/04/12(日) 21:23:27ID:U0Sla5tOとはいっても
後でなし崩しに茶道と日蓮宗はおkになったが
一向宗とキリシタンは最後までだめだったな。
0654仙台藩百姓
2009/04/12(日) 21:34:41ID:fMqQWGbaポルポトまがいの愚民化政策で民衆はただ芋食って米作らせるのみだったから
近代日本の中で未開の蛮族として取り残される羽目になったのだお( ^ω^)ピッ
0655人間七七四年
2009/04/12(日) 21:48:49ID:tfFpp4ID『神のお導きだ!』
と勝手にとか勘違いしたらしいけど
期待はずれもいいとこだったろうな〜。
まあ思ったほど南蛮貿易が儲からなかったから
島津の側でもキリスト教の布教は期待はずれだったようだし。
ところで、島津の家紋、最初はただの十字だったんだけど
これをおなじみの丸に十字に変更したのはお屋形様の代らしいよ。
0656人間七七四年
2009/04/12(日) 22:26:34ID:yyorpwYF支配者として当たり前だけど、政治勢力になるものは嫌いなんだろうね。
>>654
いつも思うが俺、なんとなくあんた好きだわw
その独特の語呂がいいのか見るとほのぼのとする。
>>655
宣教師は松浦と龍造寺の隆信にも勝手に期待して最後は悪魔呼ばわりするぐらい失望するからなあ・・
0657人間七七四年
2009/04/13(月) 00:01:45ID:OI+7y2xL何年かに一度やってくる程度のものだったらしい。
期待していたほどじゃなくて、ガックリといったところか。
0658人間七七四年
2009/04/13(月) 00:20:42ID:VFart/PM貴久 『いや、あれは頼朝公がうちのご先祖に家紋だし。勝手な解釈スンナ』
と、こんな感じだったのかも。
0659人間七七四年
2009/04/13(月) 00:21:40ID:VFart/PM誤)頼朝公がうちのご先祖に家紋だし
正)頼朝公がうちのご先祖にくれた家紋だし
です…
0660人間七七四年
2009/04/13(月) 14:10:10ID:7OVItxOu0661人間七七四年
2009/04/13(月) 21:01:58ID:YRxT2yDe親方様に由来するお祭りは残念ながらないんだよなぁ…
0662人間七七四年
2009/04/14(火) 00:57:51ID:9cdVvJyZ神社(元菩提寺)があるのは知ってるけど。
0663人間七七四年
2009/04/14(火) 19:16:53ID:C9Evyp0k「鈴懸馬」という行事の事かな?
( ´Д`)の夢に馬頭権現が出てきたのがお祭の由来だとか。
貴久パパンはペルシャ馬を輸入して飼ってたとかいう話も聞くし、
馬好きだったのかしら
0664人間七七四年
2009/04/14(火) 20:06:17ID:mJJnXbbF>>661です。
いちき串木野出身の自分が知る限り書いてみるとこんな感じです。
(廃仏毀釈に伴いなくなったものもありますが)
他にも地元の方が知ってるものがあったら教えてくれると嬉しいです。
おじいちゃんとパパ
・加世田詣り(日新寺(竹田神社)⇒南林寺(松原神社))
南林寺はパパ、日新寺はおじいちゃんの菩提寺。
領内に間諜が紛れ込んでいないか確認するため
おじいちゃんが領民を集めて踊りを躍らせたのが始まり。
江戸時代になると、軍事教練の意味もかねて
日新寺での踊りが終わると同時に、南林寺までマラソンをやるようになった。
一着の人は南林寺の灯篭に火をつけるという栄誉に預かる事が出来る。
有名どころでは西郷従道や奈良原繁がこの栄誉を担っている。
パパ
・鈴懸馬(国分八幡宮他)
馬が好きで好きでしょうがないパパの夢に
馬頭観音が現れた事がきっかけ。
この夢について知り合いの神主やお坊さんに相談したところ
皆も同じ夢を見たということなのでそれはめでたい、と
馬に鈴を懸けて踊りを奉納させたのが始まり
次男
沢山あるのでメジャーなものは省略(妙円寺とか)
・太鼓踊(県下全域)
当時、都でコレラが流行っていたが
駿河のお坊さんの念仏踊りのおかげで下火になった。
これをたまたま上洛中に見た次男がたいそう感激して
配下の池田と牧之瀬に覚えさせ、薩摩風にアレンジしたのが始まり。
・七夕踊(市来)
次男が朝鮮の役から無事に帰ってきたことを喜んだ
市来郷の者達が嬉しさのあまり踊ったのが始まり。
・蜘蛛合戦
朝鮮の陣中で無聊を慰めるために蜘蛛同士を戦わせて遊んでたのがはじまり
(祭りといっていいのか…?)
三男
・心岳寺詣り(心岳寺(平松神社))
あまりにも可哀想な最期を遂げた三男の壮烈な最期と遺徳を偲んで行われたのが始まり。
安産の神様として有名な三男ですが、地元では武勇に商売繁盛の神様としても祭られています。
0665人間七七四年
2009/04/14(火) 20:08:11ID:mJJnXbbF・強張踊(ごちょおどい、と読みます)
由来は二つ
1.関ヶ原での敗戦が薩摩に次々と届いた。
親方様は弟の身を案じながらも
総大将として動揺を見せる様なことはしなかったが
(おじいちゃんの教育が行き届いてます)
さすがに連日連夜の憂慮のあまり、ついには心痛が表に出るようになった。
これを心配した側近達が物々しい武装で身を固め
『親方様!我々がこうして付いております。関ヶ原の者達もきっと無事に戻ってきます!
元気出してください!』と励ましたのが始まり。
2.関ヶ原の合戦の後、薩摩に訪れた徳川方の使者を饗応するため
親方様が考えたのが始まり。
とはいえ、饗応というよりも脅迫のよう印象を使者は受けたようで…
体格の頑丈な武士達がわざと非常に重い鉄棒や柱と見紛うほどの角材を
引っさげて現れ、勇ましい掛け声とともに地面に叩きつけ、あるいは互いに打ち合う、
といったこの豪壮なお祭りは、徳川方の使者に『薩摩の士気未だ衰えず』といった印象を与え
ろくな交渉も出来ないまますごすご帰る破目になったとか。
どちらの由来でも親方様らしいけど1番目の理由のほうが
・弟君が心配で仕方ない親方様
・そんな親方様が心配で仕方ない家臣たち
という光景が浮かんで、個人的には好きです。
末弟のお祭りも探せばありそうだけどな〜。
0667人間七七四年
2009/04/15(水) 12:10:18ID:u+Krc86W精力的調査乙でしたー
お屋形様由来の祭りも一応あったことに感動した
>貴久パパと馬
だがしかし島津流の合戦といえば・・・
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1428.html
0668人間七七四年
2009/04/15(水) 17:49:38ID:j0fNiXUh加世田は確か20数年前ぐらいまでは市民参加の夜通し遠行みたいなのが
あったような気がするが今でもあんのかな。あれは何に由来してたんだっけか。
どこが終点だか忘れたけど。あ、加世田高校の35km遠行じゃないよ。
0669人間七七四年
2009/04/15(水) 23:42:53ID:H7SnDpWO663ですがお気になさらず
それよりお屋形様が由来のお祭りも有ったんですな…感無量。調査乙です!
>>667
島津家には騎馬組がなくて、おじいちゃんの代からずっと
「所々の戦いに馬入、騎戦を用いたる事」がない と
何かの本に書いてあった覚えがあるので
あんまり馬は重視してなかったのかな
貴久パパは馬好きのようですが、それとこれとは話が別と言う事か
0670人間七七四年
2009/04/16(木) 00:49:04ID:+qud6yJ9加世田参りはなくなっちゃったらすぃ・・・
ソースはどこかのHP。
今残っているのは妙円寺参りだけになったみたい。
>>669
牧場も作ってるんだけどねぇ。
ちなみに地理で茶産地としてでてくる牧ノ原はその一つ
牧場開設者はお屋形様だったと思う(うろ覚え)。
0671人間七七四年
2009/04/16(木) 13:34:39ID:mLcikPLL0672人間七七四年
2009/04/16(木) 20:58:30ID:zzNhCUC7アラビア馬=ペルシャ馬なのかな?
ttp://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666/_29636.html#4
0673人間七七四年
2009/04/17(金) 18:51:16ID:qxOh2Izg北海道にしかないと思ってたので意外
>>672
ぐぐーる先生に聞いてもよくわからないねぇ。
馬種で「ペルシャ」というのはないようだけど・・・アラブ種と同じなのかな。
0674人間七七四年
2009/04/19(日) 12:45:21ID:TkAVTwTh小松家って、日置に何の縁があるのかしらん?
0675人間七七四年
2009/04/20(月) 13:50:22ID:ReY2Kfid0676人間七七四年
2009/04/20(月) 21:53:08ID:MeRtnQc/0677人間七七四年
2009/04/21(火) 22:07:13ID:DRMXRB++亀寿の石像に化粧直しをするんだけど
去年は誰かに悪戯されたというニュースが…
アンサイクロペディアの忠恒の件といい、
平成の世になっても薄幸な亀寿… ・゚・(つД`)・゚・
ttp://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=13411
0678人間七七四年
2009/04/22(水) 13:26:47ID:S4hX41uO0679人間七七四年
2009/04/26(日) 00:24:24ID:otqW7hjxやっぱり毒殺だと思いますか?
0680シベリアよりのお手紙
2009/04/26(日) 10:00:23ID:wscJyN3l細かいところよく気がついたなぁw
確かに「本藩人物誌」みたら
・伊地知重興:天正8年2月13日没 享年53歳
・禰寝重長:天正8年3月16日没 享年45歳
になってる。
伊地知に関しては当時の50代はいつ死んでもおかしくない歳だし
何ともいえず。
禰寝重長に関しては、没後「鬼丸大明神」としてまつられた様子を見ると
不審死だった可能性もなきにしもあらず。
島津氏の接待中だったかどうかは上記文献によれば明記無く不明。
>>679のソースplz。
0681人間七七四年
2009/04/26(日) 11:02:01ID:otqW7hjx情報有難うございます。
それを見たのは数年前の事ですが、垂水市史と資料集だったと思います。
地元の口伝の類だったと記憶してます。
ソースが郷土史ですみませんm(_ _)m
丁度、肝付さんちの粛正も進んでいるのでもしやと思ったしだいです。
0682人間七七四年
2009/04/26(日) 12:24:31ID:1WTDq8ycそんなに維新公に思い入れあったんかいな
0683人間七七四年
2009/04/26(日) 13:44:28ID:otqW7hjxその子は泗川のあとすぐに死んじゃったみたいで・・
約束はなくとも没落していた肝付さんの息子さんも、何かしら戦功を挙げたかったのではないでしょうか?
そういえば、関ヶ原では伊集院さんちの家臣団は全滅でしたね。
0684人間七七四年
2009/04/26(日) 22:29:08ID:otqW7hjx菱刈合戦が思った以上に複雑で興味津々ですが、1569年に祁答院の長野城を襲った島津軍が誰と誰なのか、
なぜ相良は和平を一度破棄したのか?とか謎が一杯です。
0685シベリアからのお手紙
2009/04/27(月) 11:17:17ID:AzciIhVV>>686
回答ありがとうございます。
コピーを持ってたからまた読んでみます。
コピーしてある箇所に該当の分があるかどうかが問題だがw
>蓑輪伊賀入道自記
全文活字化or翻刻されてなかったような・・・
抜粋が「旧記雑録」(『鹿児島県史料』収録済)にはあったような記憶があるが。
>>683
頴娃氏ですね。義弘に娘を婚約者とするとまで言われたようだが・・・
その記述が頴娃氏側の史料にだけ見え、島津氏側の史料にはないところをみると
島津氏にとっては後ろめたい話だったというか、頴娃氏がつられたような気がしてなりません。
ちなみに婚約者になるはずだった娘というのが、後に伊集院忠真の嫁になった悲運の姫。
>そういえば、関ヶ原では伊集院さんちの家臣団は全滅でしたね。
kwsk。伊集院とはいっても分家多数なので。どこの伊集院さん?
あと、「禰寝」は”ねじめ”と読みます。
パンチミスかも知れないが念のため。
0686人間七七四年
2009/04/27(月) 12:41:04ID:83lhX5lY忠恒さんは鬼畜やで〜
0687人間七七四年
2009/04/27(月) 17:18:51ID:nL1Jahy+伊集院忠真で、情報元はあの島津に手厳しい台明寺先生の本です。
乱のあと、関ヶ原に義理で150人(だったけな?)くらい送って全滅したのに攻められたって感じの内容でした。
蓑輪伊賀入道自記が完全版が無いのは残念ですね(T_T)
0688人間七七四年
2009/04/29(水) 17:55:12ID:mne7Ytoh親方様が残した兄弟愛、心丘寺参りは自然発生な気がする。
のちに郷中教育に組み込まれたみたいだけど。
親方様って、なんやかんやで薩摩藩の所々に色々とマーキングしてるよねw
0689人間七七四年
2009/05/01(金) 00:53:46ID:k9r8XADZ国分で煙草の生産を奨励したのもお屋形様だしね。
お米よりもはるかに実入りが良いので、
煙草の収入は、米作りに苦労した薩摩藩にとってもかなり助かったらしいです。
0690人間七七四年
2009/05/01(金) 15:13:53ID:g6JTvg1I0691人間七七四年
2009/05/01(金) 17:28:06ID:k9r8XADZ養蜂は義弘が始めたっていうのは知ってるけど…
0692人間七七四年
2009/05/01(金) 17:41:10ID:23AburAo今昔物語にも美濃で犬の鼻から糸が垂れる蚕物語があります。
あと、三河で妻に養蚕させてる話も。
おまけですが、養蚕の神様は馬頭観音様で甲斐地方なのでは今でもさかんに信仰されているようです。
0693人間七七四年
2009/05/02(土) 21:41:41ID:izDY1i+7驚いたのは、冷静な桐野さんが戦国武将の特集本で本邦一の勇武って褒めていたやつ。
桐野さんもいよいよ家久戦術最強説を世間に浸透させる気なのかな?
まあ、数年くらい前からの戦国史界の流れみたいなんだけどね。
対抗馬に立花宗茂が出てるので、戦国史もだいぶ史実寄りになった気がする。
0694人間七七四年
2009/05/02(土) 21:47:35ID:7KnKFtOr親方様の影がまた一段と薄くなりそうだ。
0695人間七七四年
2009/05/03(日) 01:40:50ID:zNIOxBqo偶然今日wikiで見たな
関ヶ原中伊勢甲斐に飛ばされてしまうらしいが
そうなったら義弘どうなるんだwww
0696人間七七四年
2009/05/03(日) 10:15:12ID:O4M/8H/O0697人間七七四年
2009/05/03(日) 11:58:01ID:9ODOO3m+戦後の豊久の姉の話とかすんのかなw
0698人間七七四年
2009/05/03(日) 12:02:51ID:O4M/8H/O0699人間七七四年
2009/05/05(火) 11:14:05ID:2IROh5n50700700
2009/05/05(火) 11:15:59ID:2IROh5n5男系男子は、いないです。
0701人間七七四年
2009/05/06(水) 12:34:44ID:3ZgZu7PP何か大まかな記録とか残ってる?
0702人間七七四年
2009/05/06(水) 13:09:13ID:HOQf1M3h0703人間七七四年
2009/05/10(日) 01:54:29ID:2n5xej6E御屋形様の大鎧は現存してるんじゃなかったけか?
新納武蔵守は武勇に優れていたが結構小柄だったというのは聞いたことがあるな。
0704人間七七四年
2009/05/11(月) 19:36:03ID:Wx1Qqeq4御屋形様の大鎧って島津家伝来で鎌倉からあるやつ?
0705人間七七四年
2009/05/11(月) 19:38:38ID:i+8UkPpU0707人間七七四年
2009/05/15(金) 05:52:01ID:FNPw1Tul0708シベリアよりのお手紙
2009/05/15(金) 14:52:05ID:Kba3t0nA御屋形様の鎧は現存してなかったのでは・・・
パパ上貴久公の鎧は現存しているけど(鹿児島神宮蔵、ただし奉納用なので実戦で使ったかどうか不明)
デニーロのニックネーム「親指武蔵」は小柄だったことにも起因しているとか聞いたことがある
ただし、御屋形様が陪臣(北郷氏の家臣の津曲氏)に与えたという鎧は都城市に現存しています。
>>704
いろいろ曰く付きのあの鎧ですねw
>>706
イケメソかどうかは知らないけど、すごい体格の良かった人とか言う話は聞いたことがある
でもその情報をみたのが郷土誌の『宮之城町史』で、ソースがはっきりしてなかったw
イケメソ話だが、日新斎お祖父様も「日新菩薩記」で「すっごいイケメソ!」と書かれていて
残ってる肖像画はこれだから つ http://www.rakuten.co.jp/yoroi/img1059456554.jpeg
余りあてにしない方が・・・
ちなみにDQN忠恒だが、これはむかつくことに結構イケメソかな。
0709人間七七四年
2009/05/16(土) 14:05:26ID:FiaTybty0710人間七七四年
2009/05/16(土) 18:53:56ID:ptJHeact関わらず(編纂者次第とも言えるが)記載する傾向にあるから、その引用元を
調べた上で、引用元そのものが信用できるかどうかで見ないとしょうがない。
ただ引用元が記載されてない場合も多いから事実上調べようがない場合も多いし、
調べたくとも一般人が閲覧できる史料ばかりでもないしさ。
0711人間七七四年
2009/05/19(火) 19:50:46ID:WrtL+gVw肝付とかも似た感じかなあ?
伊東とかは中央のような長柄部隊とかありそうだけど、肝付は島津的なイメージがある。
大友なんかは長柄部隊に騎馬隊がはっきりと多々良合戦なんかで描写があるけどね。
0712人間七七四年
2009/05/27(水) 16:55:24ID:KN71ETN3忠担→歳久 家に愛娘を出す
忠棟→家久 尊敬
豊久→義弘 代理父
島津四兄弟内でぐるぐるする子供達w
0713人間七七四年
2009/05/28(木) 20:52:58ID:sHKlFUhx0715人間七七四年
2009/05/31(日) 21:19:29ID:WTJC5EJe久虎の母君と一味に殺された当主兼有ですが、どうして彼の遺児が事件後に家督を継げず、
不義をおかした側の久虎が頴娃家当主になれたのでしょうか?
しかも事件後、結局の当頴娃主に認めた久虎派の重臣達を義久が粛正した理由も謎です。
0716人間七七四年
2009/06/01(月) 13:19:10ID:LngjhnFs0717人間七七四年
2009/06/02(火) 10:24:41ID:H8eWwI0G0719人間七七四年
2009/06/07(日) 02:01:53ID:k0J5WAO90720人間七七四年
2009/06/07(日) 12:38:41ID:mr09/3RVd楠
『指宿市誌』かな?『指宿郷土誌』というのは検索してもないようなので・・・
『市誌』は一度読んだことがあるけど、
歴史のページが他の鹿児島の市町村史と比べても思いの外充実してなかったような(汗
というかあそこは大きな遺跡があるので、その記事に中世〜近世史が喰われたというか・・・
今和泉島津家の話も余り詳しくなかったのでビックリした。
0721人間七七四年
2009/06/07(日) 14:15:02ID:k0J5WAO9四万七千石余って書いてありました。記載者が太閤検地か何かの数字から割り出したのかもしれませんが(汗)
0722人間七七四年
2009/06/07(日) 14:20:13ID:Og5/elyhやっぱ単純に考えて肝付氏との間に何かあったんでないの
0723人間七七四年
2009/06/07(日) 14:52:48ID:Og5/elyh三州緒家史(氏の研究)・薩州満家院史は
0724人間七七四年
2009/06/07(日) 14:54:52ID:k0J5WAO9■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています