結局向こうは荒らされて終わっちゃいましたね。
コピペにレスするのも阿呆らしいのですが、ネタ投下も含めて突っ込み。
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関ヶ原後に島津家が減封されなかったのは敵中突破が最大の原因ではなく、
秀吉没前よりの、義久の家康との友好的交流が関与しているのではないかと
個人的には思われ。

(参照:西本誠司氏の論文「関ヶ原合戦前の島津氏と家康」
1997.08『戦国史研究』34)

ダイジェスト:
(過去に家康に匿われるという恩義を受けており、秀吉にいいように利用され捨てられて
恨み骨髄(?))の近衛前久からの強力な勧めにより、義久公と家康との面会。
あの御屋形様が外出するくらいだからおおかた前久から良い同人誌でも貰ったのでしょうw
→太閤の遺命に背くものとして、石田三成から詰問され、一応かしこまってみせる義久公。
家康から薩摩領内の秀吉蔵入地返却(殊に目の上のたんこぶだった薩州家領の返還は
悲願だった模様。一時期は義弘が出水に出向くという話もあったよう)・三成領返還に
関する三成の嫌がらせと義久公の困惑そして島津家と石田三成の関係冷却化・伊集院
幸侃誅殺および庄内の乱における一連の流れは、島津家・家康双方にとってプラスとなり、
関ヶ原直前まで島津家と家康の関係は極めて良好だった。
西軍につかざるをえなかった最大の理由は亀寿姫が大阪に人質に取られていた
のも要因の一つでは?と西本氏は仮説している。

そろそろ、お抱え学者史観(義弘マンセー義久は政治に疎い)も風化して欲しいものですね・・・
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おまけ:
史料を見る限り武田も上杉も人身売買はやっていた。その時代の観念としては
異常ではない。そもそもフロイスをはじめとする南蛮人も奴隷売買やっている
あたりに当時の欧米人&キリスト教の欺瞞を感じちゃうぜ。