【縁の下の】西海の虎 島津義久6【力持ち】
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0106人間七七四年
2007/05/17(木) 18:47:39ID:rf6/9a2bそれらは俗説。
実際は義久は中立派、忠恒は徳川派、義弘は豊臣派
島津義弘と三成は懇意であり所内の乱でも
義弘は娘婿の伊集院を庇った。
関が原で西軍についたのも義弘の意思で
伏見城うんぬんは死人に口なしの捏造。
島津義久は関が原戦後に中立主義を主張し徳川の船を焼いたり、
養子の忠恒の親徳川工作の妨害をしたりした。
シビレを切らして忠恒が独断で上洛して家康と対面したのを義久は
「親不孝の極み」と罵った。
「関が原戦後処理で義久が巧みな政治力を発揮して本領安堵に導いた」
は俗説である。
もっとも、世間知らずな強硬姿勢がたまたま効を制したといえないこともないが。
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