大光寺合戦についてですが、津軽側では天正3年にやった事になってます。wikipediaの『大光寺城』の項目では大光寺城に北信愛が入っていたことになっていて、
さらに信愛の子が大光寺光愛であるとか、光愛が死んだため滝本播磨が入ったとか、言っていることがおかしいです。南部側の記録でも、大浦為信の讒言を聞き入れた浪岡城に居た石川政信のせいで、大光寺光愛は鹿角に落ちたとか言われてます。
これを天正10年のこととしていますが、浪岡御所はこの時点では既に為信に落とされているので、石川政信がこの時点で浪岡に居て云々というのは合点がいきません。
『岩手県史』では大宝寺義氏の書状を挙げて、大光寺攻めは天正10年の事だと言っていて、大光寺城が落ちた時期だけは一致しています。
大光寺攻め及び大光寺光愛の真実は実際はどうだったんでしょうか?