戦国時代の南部氏について語り合うスレ
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 00:37:47ID:2CyR2sda0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 00:42:35ID:mpL90nbC|__T_i_
|ミ/●-●l
(6 〈 / Jヽ〉 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| .メ Д|< もみみん、見ろ、>>1がチチのようや
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/ __ /´> )
(___|_( /<ヽ/
| /
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| / ) )
ヒl ( \
\二)
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 01:11:19ID:kbKz+ydQ0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 07:17:13ID:EJ3E/DSbttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1153706393/
ここでいいだろw
0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 21:41:19ID:/vLnNf7e0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 01:28:13ID:t8jfb6Jd山口と福島のお国自慢板住人が日本史板に出張しているスレ
戦国時代でも日本史でもない
0007名無しさん@お腹いっぱい
2006/09/08(金) 23:49:48ID:Tdox+Tsxやっぱり南部は執念深い。未だに…
そういえば子供の時に通った塾、南部。
紋も本物の南部の紋だったし、「世が世ならば」ってよくそこの家の婆様が言っていた。
函館の教育大学の近くにあった。なつかしい。
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 07:45:37ID:NrwtRgtk0009名無しさん@お腹いっぱい
2006/09/12(火) 22:04:41ID:5ZS2HIHX南部の末流
予習塾の南部こうよう先生、今どうしているかな。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 23:07:12ID:eAMtHx1vそのスレのどこが南部家を語っているんだ?
南部の津軽たたきのいかれたスレだろ
0011名無しさん@お腹せっぷく
2006/09/25(月) 21:33:34ID:r+THXtYD誰か南部の面白いカキコしろよ〜〜
0012奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/09/25(月) 21:53:27ID:HT5grWS40013DJ.南部鳥
2006/09/25(月) 22:00:57ID:NaYxC1Hf0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/25(月) 22:13:12ID:wzyHPzO30015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/26(火) 23:55:12ID:ov76MQ1Cよく分かってないことが多いらしいな。南北朝から戦国初期まで、ってことは
室町時代として認識される時期ずっと、か。戦国時代に戦火で記録が消失した
ことと、分家に圧倒されてたことが影響として大きいらしいが。
ってことは、強力なリーダーシップを持った晴政が現れなければ、四分五裂を
起こす危険性があって危なかったな。特に南部は家臣の多くを一門が占めてた
みたいだから、すげー危険な状態だったと思う
0016名無しさん@お腹いっぱい
2006/09/27(水) 10:44:05ID:tsC8p0S9あそこが宗家ではなかったかという話を聞いたことあるが、
どうなんだろう。
後に遠野に移らされた南部だけど。
0017名無しさん@お腹いっぱい
2006/09/27(水) 10:49:35ID:o+/dKYI10018名無しさん@お腹いっぱい
2006/09/27(水) 10:55:54ID:tsC8p0S9ゴマがいっぱいのやつが好き!
今や青森名物の一つで、津軽衆がいろいろ売ってるけどさ。
やっぱ津軽衆はちゃっかりしてるね
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/27(水) 18:35:39ID:HILOTz7Jおいしいよ ちょっとビンボくさいけど
0020名無しさん@お腹いっぱい
2006/09/27(水) 21:21:33ID:tsC8p0S9う〜〜んと昔、神社とかの夜店で売ってたな〜〜(スマソ年食ってて)
青森名物のねぶたの絵の付いた缶に入ってる水飴を割り箸でくるくるして
それを南部せんべいに載せるというか付けて食べるんだよ。
おいしよ。
南部と津軽の合体か? 南部気分わるいかな。
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 01:21:18ID:hDaAHKfU津軽はねぷたです。
江戸時代、弘前藩領土だったのでよく勘違いされるが
青森は津軽の一部ではありません。
古代から陸奥湾沿岸(現在の青森市周辺)は
外ヶ浜と呼ばれており津軽とは区別されていました。
ちなみに津軽は現在の青森県西側の岩木山を中心とした平野、
日本海側の部分、簡単に言うと津軽半島のあたりを指していました。
0022名無しさん@お腹いっぱい
2006/10/02(月) 11:44:18ID:jeb9CNTm「ねぶた」「ねぷた」はもともと同じなのです。
眠たいという言葉をその地方で発音すると
「ねむた」→「ねぷた」です。BUともPUともつかない微妙な発音です。
それを50音表記で表すのはむずかしく、
弘前ではねぷた 青森ではねぶたと表記されたのが、
いつも間にか違うことのように思われるようになりました。
元の津軽地方は21さんの言われるとおりかもしれませんが、
「ねぶた」と「ねぷた」の差はそもそもはありません。
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 20:42:19ID:M5EMCBsG>八戸根城の根は根本の根で、
糠部に根を張る拠点に…、だから根城。
>あそこが宗家ではなかったかという話を聞いたことあるが、
どうなんだろう。
三戸南部晴政が台頭するまでは間違いなく根城南部家が宗家でした。
最近の郷土史研究では、南部家の本家は根城南部家との説が有力かも。
0024名無しさん@お腹いっぱい
2006/10/02(月) 21:23:18ID:jeb9CNTm16を書いたものです。やはりそうですか。
ありがとうございました。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 17:39:09ID:uURbkzSO戦闘政治は叔父の高信にまかせきり
晴政は自分では何もしていない
0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 23:54:51ID:4rhDcjo2一門の頭領なんて統率力が有れば、人材を適材適所に置けば治まる。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 01:45:28ID:e5RzKstw0029奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/10/09(月) 08:41:58ID:TVS8gEgc0030名無しさん@お腹いっぱい
2006/10/26(木) 17:32:32ID:yOodx3VR全国制覇をめざしているそうな。
うふふふふ。がんばれ
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 17:41:56ID:r6hE/yrp0032名無しさん@お腹いっぱい
2006/11/11(土) 19:34:47ID:r/9AR5cCつまらんよ〜〜〜〜
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 21:56:54ID:Wb89OtnCやはり奥州の中心は奥州南部だったんでしょうね。
あ、奥州南部の南部は"southern part"の意味で"Nanbu"ではありませんから。
0034名無しさん@お腹いっぱい
2006/11/11(土) 22:39:52ID:r/9AR5cC農作物を収穫するのにあまりよい土地ではなかったということよね。
戦前まで東北でも太平洋側はたいへんだった。
放牧には適していたんだろうけど。
0035奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/11/11(土) 23:02:10ID:fi9cLe590036名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/08(金) 21:51:40ID:UYfda/RI未だに満足に米を作付けできているわけでないからなあ。県北はタバコ畑がずいぶんある。
商品作物の発想は江戸期にもあまり南部には入らなかったっぽいので
大変だったろうな。
ゲームでの南部エースといえばやはり北(南部)信愛かな。
彼一人居るおかげで進行がどれほど楽になっているか。
寿命が長いのも見逃せない好ポイント。
0037名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/08(金) 21:58:43ID:UYfda/RI紫波から花巻を入手したときは嬉しかったろうな。
南部領で満足に米作れるのはあの辺くらいだろう。
当時の盛岡は治水の抜本的解決がまだまだで
なかなか安定した取り入れが出来ない土地だったからね。
0038名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/20(水) 09:39:52ID:hazsS6av0039名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 11:34:58ID:w2ECuJl/0040名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 15:05:16ID:84AP6I+30041名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 00:02:11ID:q8g0hD1Hゴマ以外はいらない
0042名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 00:04:53ID:w2ECuJl/立派過ぎるとなかなか後が続かないのね
0043名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 03:29:11ID:G1ugRUn1やっぱり南部せんべいはピーナッツがうまい件。
0044名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/23(土) 20:40:22ID:9cj4YL070045名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 02:04:40ID:JmYbE5S1一日経ったのにID変わってないね・・
0046名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 13:12:55ID:ECcRPA/w0047名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/24(日) 22:41:49ID:a3WLc6AW実は私も変なことだと思ったよ。
0048名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/28(木) 13:35:50ID:Wi1QXLhfもしそうだったら嬉しいんだが・・
0049名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/01(月) 01:51:38ID:jWq/jIgE0050名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/07(日) 00:34:31ID:KOHx+23t0051名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/07(日) 13:28:39ID:qBu9KuL+0052名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 00:24:05ID:lVv5k5nY0053名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 00:38:04ID:LfVHdnhuttp://www6.tok2.com/home/bego/akimoto.html
ここでは高信の留守中に城が襲われたとある
0054名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 10:26:44ID:d6XB5bif0055奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/01/11(木) 23:10:15ID:75GaMVin0056名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/13(土) 17:27:55ID:Pjx9xP1Q0057名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/05(月) 15:09:11ID:/OC53Nwz0058名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/05(月) 20:42:16ID:HEhe4ZST0059名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 18:35:42ID:cjpK3C3s0060名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/10(土) 01:37:49ID:1K+CgGOe0061名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/10(土) 21:46:25ID:uecRNbWz0062名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/11(日) 00:25:58ID:59M5Y/xy0063人間七七四年
2007/02/12(月) 17:22:24ID:PzaeqrOq0064人間七七四年
2007/02/23(金) 01:23:31ID:L2Eplbt80065人間七七四年
2007/03/01(木) 23:28:47ID:dndB831V0066人間七七四年
2007/03/02(金) 08:36:24ID:1G4DlGiX0067人間七七四年
2007/03/02(金) 23:04:49ID:5E16JVyuクソ南部にふさわしい結末ですね。
0068人間七七四年
2007/03/02(金) 23:53:12ID:UVcZ5+Soその寺に白虎隊?番隊々士の墓があった。南部と何か関係あるのか?
0069南部美濃守利敬
2007/03/03(土) 00:29:21ID:LLSd55GN0070人間七七四年
2007/03/04(日) 06:53:01ID:8hYwKRRC0071人間七七四年
2007/03/04(日) 14:56:51ID:qxuoaOSTそんなの関係ないだろ
0072人間七七四年
2007/03/04(日) 16:32:59ID:8hYwKRRC0073人間七七四年
2007/03/04(日) 22:28:16ID:i9b7M+4d斗南藩ですよ。後のむつ、三沢、田子(三戸一部)は。
0074人間七七四年
2007/03/10(土) 00:00:59ID:cVhxCG4T豆知識な
…って、このスレにくるぐらいの人はみんな知ってるか。
偉そうにしてすまん(つД`)
0075人間七七四年
2007/03/13(火) 12:16:52ID:PDGJzUSe0076仙台藩百姓
2007/03/13(火) 15:14:20ID:rms9JIhu旧中央工業創始者・南部麒次郎は陸奥南部氏
とは多分関係ないお( ^ω^)
0078人間七七四年
2007/03/15(木) 18:46:42ID:3jreOnUV信愛の子の中では一番無能であったらしく、『参考諸家系図』には「信直公の時父の功を持って(中略)二千五十石を給う」とある。また、異母兄北愛清と家督を巡って争っていたが、父信愛は、当初から
愛清を後継者に定めていたので、定愛の一人相撲であった。大館城代の時安東氏との戦いの最中に異母兄愛清を罠にはめ安東氏の捕虜にさせるなどの行いをしたために信愛に勘当される事態となった。異母
兄愛清の嫡子三戸清乗が信愛の後継者に正式に定められた後は、南部利直の娘を自分の子北直愛の嫁に迎え南部氏の閨閥として、清乗と北氏の家督を争ったが、北家譜代家臣の支持を得られず北家の家督を
あきらめる事態となった。その後、定愛の家系は、主流になれず、直継の家系が南氏系北氏の主流になっていく。
うぃき抜粋
0079人間七七四年
2007/03/18(日) 10:20:29ID:TuXTHoq00080人間七七四年
2007/03/19(月) 16:58:00ID:Z+Jkd/Zxそれはともかく定愛は人望がないだけで、
かなりの謀略野心の武将という感じがする。
0081人間七七四年
2007/03/29(木) 22:29:45ID:dRuJxOPm光り武者なのに
0082人間七七四年
2007/04/05(木) 14:46:50ID:lMvITN0G南部視点のドラマとかやらないかなぁ
0083人間七七四年
2007/04/05(木) 23:43:49ID:rGiWprh30084人間七七四年
2007/04/06(金) 11:30:55ID:3uav03y80085人間七七四年
2007/05/06(日) 18:45:34ID:ASY6ZRTh0086人間七七四年
2007/05/06(日) 18:46:50ID:ASY6ZRTh0087人間七七四年
2007/05/25(金) 15:28:36ID:gtK/5ywi宮司利昭氏の親父殿利英氏は、一条公爵家から養子に入ってるんだね
と、現代の話題申し訳ない
0088人間七七四年
2007/06/03(日) 00:46:17ID:3E+I4Gl7あの城には小規模な水堀があったんですね。
小さな側溝になってたが。
0089人間七七四年
2007/06/05(火) 10:44:43ID:Z5sot9Ey0090人間七七四年
2007/06/05(火) 10:52:51ID:wd+qLQzn九戸は滅亡せずに済んだかも知らんが。
0091人間七七四年
2007/06/05(火) 10:58:41ID:Z5sot9Ey本人幼少すぎて参陣不可かな
0092人間七七四年
2007/06/06(水) 18:31:34ID:BnYtRTXGもともと津軽の豪族は独立しているんだよ。
三戸の傘下に入っていたわけじゃない。
南部家は豪族の連合体。
それと津軽家は津軽だけじゃなく
糠部の豪族を滅ぼして領土にしている(堤、七戸)
0093人間七七四年
2007/06/06(水) 18:42:36ID:BnYtRTXG三戸の主張が認められたどうかということだよ
三戸の主張は糠部五郡の南部領は三戸のものであり
九戸、七戸、大浦は家臣であり大浦は謀反を起こした。というもの
009493
2007/06/06(水) 22:20:35ID:WwIMmVIL93はアニメイトから書き込んだだけど
もしかして同じ店?
0095人間七七四年
2007/06/07(木) 16:56:24ID:gEeLqoP40096人間七七四年
2007/06/07(木) 17:58:50ID:dzy807uQ仕事忙しいけどいつか行ってみたいな。
しっかし蔵王まで行ったんかいな、やるなぁ
0097人間七七四年
2007/06/09(土) 04:33:01ID:hPv2VUwMこの人は北家の家督を継いだわけじゃなかったのか。
0098人間七七四年
2007/06/09(土) 12:21:22ID:IT7r3ga0わかるよね?(地名)
0099人間七七四年
2007/06/09(土) 14:40:41ID:aenfthB80100右馬助
2007/06/27(水) 18:38:23ID:yvHt2t4G意味ないけど
0101人間七七四年
2007/06/28(木) 02:39:56ID:Y6teJcuy0102人間七七四年
2007/06/30(土) 18:20:02ID:+ZTSHxBq平成南部藩があるんだから、
平成南部軍作って南部藩領をまもろうよ。
軍旗は南部鶴、割菱、花菱、八幡大菩薩の旗!
一の備は陸上自衛隊を吸収して
二の備は海上自衛隊を(ry
三の備は航空j(ry
0103人間七七四年
2007/06/30(土) 19:02:59ID:oL5yQ1v50104人間七七四年
2007/07/05(木) 18:25:52ID:jjtwJPl80105人間七七四年
2007/08/06(月) 13:39:58ID:6tIwT/eZ家系の古さがすごいよ。奇跡だね。
0106人間七七四年
2007/08/06(月) 13:41:16ID:6tIwT/eZ0107人間七七四年
2007/08/08(水) 22:38:30ID:iGhFs7OJ0108人間七七四年
2007/08/09(木) 06:24:11ID:UEvO3CIj0109人間七七四年
2007/08/09(木) 06:56:37ID:ckGlYC9a0110人間七七四年
2007/08/09(木) 07:48:16ID:FoapRIgl0111人間七七四年
2007/08/09(木) 11:07:12ID:ckGlYC9a0112人間七七四年
2007/08/09(木) 11:28:04ID:sBqd7XUN著名な武将である晴政の三戸南部氏さえ分かっていない
信直の権力奪取の過程もなお不明だ
0113人間七七四年
2007/08/10(金) 10:10:23ID:PoY+Q2HW佐藤兄弟の本拠地を叩いた功績で
源頼朝から伊達郡、信夫郡を拝領したというのは捏造とか?
0114人間七七四年
2007/08/10(金) 11:23:03ID:4YbafOxh伊達氏初代とされているのが中村(伊佐)朝宗
元は常陸の豪族であり、また外祖父に源為義がいるとされている
伊達氏の家伝では、朝宗とその子たちが奥州征伐の際に軍功を上げて
陸奥伊達郡を賜ったとされている
しかし吾妻鏡の記録に中村(伊佐)朝宗なる人物ではなく、
代わりに常陸入道念西という名が見られる
しかしこの常陸入道なる人物が、伊達氏と系譜上どのように繋がるのかがイマイチ不明
0115人間七七四年
2007/08/10(金) 11:41:45ID:qOzgnHTi0116人間七七四年
2007/08/10(金) 18:39:29ID:PoY+Q2HW0117人間七七四年
2007/08/10(金) 19:34:15ID:fucJrD5v伊達と違うのは一族がまとまっていないことだが
0118人間七七四年
2007/08/11(土) 16:37:43ID:TBIjIKK6地元では愛されているんだね。
つまり南部は統治者として津軽地方では懐かしがられていないということ。
やっぱり南部はクソなんだよ。
0119人間七七四年
2007/08/11(土) 17:18:47ID:SJ8eprPt0120人間七七四年
2007/08/11(土) 19:11:00ID:VOEkeNgC0121人間七七四年
2007/08/12(日) 19:59:36ID:sZAf2jN+そもそも南北朝期の伊達行朝自体、その前後とちゃんと繋がっているかが定かではない。
南北朝以降の伊達は、偽藤原氏だという説もあったりなかったり。
0122人間七七四年
2007/08/13(月) 07:23:35ID:r3cYZ6aI0124人間七七四年
2007/08/22(水) 18:09:04ID:VJ0/qhXd0126人間七七四年
2007/08/25(土) 21:25:15ID:vOvHGdvt津軽事態も南部の一族なんだがね
大浦のあれはよくある一族同士の争いに過ぎない
0127人間七七四年
2007/08/25(土) 21:27:20ID:vOvHGdvt大光寺→大浦によって滅亡
七戸→九戸の乱で滅亡
八戸→晴政にクーデターをおこされ属国化
九戸→九戸の乱で滅亡
千徳→大浦によって滅亡
堤→大浦によって滅亡
久慈→九戸の乱で滅亡
三戸→数多くある南部系の家の一つに過ぎなかったが秀吉に大名として認められる
大浦→数多くある南部系の家の一つに過ぎなかったが同じ南部系の家や北畠をつぶしていき秀吉に大名として認められる。なお直径は断絶する。
0128人間七七四年
2007/08/25(土) 21:35:36ID:vOvHGdvt南部晴政が自由に動かすことが出来たのは三戸だけで
他の南部の家々は自由に好き勝手してたんだろうな
信玄や謙信のように他の豪族に干渉したり指示したりなんて出来るほど
影響力はなかったんだろう
三戸南部が上に建てるようになるのは太閤検地からか
0129奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/08/26(日) 00:13:44ID:ozNcH+iL0130人間七七四年
2007/08/26(日) 18:10:32ID:eHP7BixAこいついなかったら、南部は芦名みたいに零落してたかもしれないし
関が原で稗貫・和賀を落とされていたかもしれないし
評価的にはどのくらいなんだろ?
0131人間七七四年
2007/08/29(水) 12:01:52ID:v4vMmaFG細川の吉兆と長岡のように
分家と宗家の関係にあったけど
主従関係にはなかったんでしょ
0132奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/08/29(水) 23:51:09ID:cjicM87P0133人間七七四年
2007/08/30(木) 09:59:09ID:G+YGAbes0134人間七七四年
2007/09/07(金) 17:24:10ID:1E++tAk10135人間七七四年
2007/09/09(日) 06:47:47ID:GBgF43j20136人間七七四年
2007/09/28(金) 14:59:13ID:JzvaUG9B0137人間七七四年
2007/10/05(金) 05:02:46ID:h1d1YOr2いるの?信長の野望で急速な領土拡大に成功した割に人材がいない
から登録で作ろうと思っているんだけど、散々探してもろくなのがいない・・・
0138人間七七四年
2007/10/05(金) 09:09:51ID:tgFJPzty0139人間七七四年
2007/10/06(土) 08:21:27ID:UK2kIuf/南・石亀・毛馬内・楢山・野沢・奥瀬・櫻庭とか
0141人間七七四年
2007/10/06(土) 14:58:48ID:ks0GvAzP三戸(と大浦)だけなんだから。
0142人間七七四年
2007/10/06(土) 16:02:02ID:T9yCLkOe0143人間七七四年
2007/10/08(月) 10:03:15ID:OulwkyMk0144人間七七四年
2007/10/26(金) 14:27:09ID:Hbwhsq3A0145人間七七四年
2007/10/30(火) 02:55:29ID:Rsko1xuuこういう理解で良いのか?
南北朝から戦国時代まで
宗家・八戸(根城)南部
↓
戦国時代後期
三戸南部晴政
宗家を倒し宗家化
(八戸の分家?)
↓
田子南部信直
(三戸の分家?というかそもそも南部一族なのか?
一族だとしても家中の主導権をとりたかった北にまつりあげられた傀儡?
でもって
津軽為信
(南部の分家の出、三戸の?八戸の?
三戸の晴政には従ってたようなので南部家中の反信直派?)
九戸政実
(南部一族では無いが南部家を筆頭とした豪族連合の中で力をつけた豪族?
晴政には従ってた(協力していた?)みたいなので反信直派か?)
0146人間七七四年
2007/10/30(火) 15:32:46ID:R1BhFWYB>宗家・八戸(根城)南部
三戸南部は晴政の時の三戸城放火及び寛永年間の盛岡城炎上で、中世史料が殆ど失われ、動向が判然としないようだ
対して八戸南部には多くの中世文書が残された
それはそれとして、
鎌倉期…鎌倉にいた後の三戸が宗家、後の八戸は甲州にいた庶子家
南北朝期・・・八戸が南朝方として活躍、三戸は鎌倉方→南朝方→北朝方に転向、八戸が主導権
応永年間・・・三戸が安東氏との合戦の折、八戸に出兵を命令、三戸が主、八戸が従の関係に・・・以後略
以下血筋のみについて
>田子南部信直
石川高信の子(高信は三戸晴政の父安信の弟)
>津軽為信
南部の分家説(三戸守行の子孫)説もあるが?、他に平泉藤原氏説、大浦光信以前不明、などがある
>九戸政実
始祖南部光行の子行連の子孫(手持ちの本に系図は載っていないが)、一族の大身
0147人間七七四年
2007/11/08(木) 07:52:31ID:pe49JqfL鎌倉か六波羅に在地してたのか?
0148人間七七四年
2007/11/10(土) 00:24:17ID:5QFbysus0149人間七七四年
2007/11/10(土) 03:33:42ID:sPEgTZ3k糠部郡に居住し、一戸・四戸・七戸・九戸の祖になってるわけで
嫡家(八戸)は代々北条執権に出仕してたけど
大体、南北朝時代の時点で、師行の弟の政長は在地してたし
しっかし、顕家と一緒に下向した割りには
式定評衆に名前を連ねて無くて謎(一緒に下向してきた伊達・結城・二階堂・冷泉は首脳格なのに)
安藤氏も含めて、この頃の北奥はまったく不透明だ
南部氏はなんであそこまで南朝一筋だったんだろう
0150人間七七四年
2007/11/10(土) 11:10:16ID:5QFbysus0151人間七七四年
2007/11/10(土) 18:43:48ID:sPEgTZ3k0152人間七七四年
2007/11/10(土) 19:44:19ID:tWa0DtY50153人間七七四年
2007/11/10(土) 21:22:06ID:ngy6LW+N土着しているという主張の論拠を提示するのが先なのは当たり前なので、
>>150の質問(何が論拠?)に対し、>>151が「南部家文書」を挙げているわけ。
肯定側の論拠を崩せば「否定」が確定されるため、
否定側が「史料価値の高い資料」を明示する必要は無い。
悪魔の証明論争を惹起させるのはバカバカしいので、くだらないレスは自重しろ。
0154人間七七四年
2007/11/10(土) 21:35:20ID:tWa0DtY5>>150が主張の論拠を提示するのが当たり前と考えてるなら
なんで俺のレスをくだらないというのかわからんな
有耶無耶にしたいだけですか?
0155人間七七四年
2007/11/11(日) 01:47:25ID:rF3tPIUwよく読め。
提示するのが当たり前なのは150じゃなく149。で、「南部家文書」を151で提示している。
史料が明示されている以上、悪魔の証明論争を呼びかねない152のレスは不要。
151側を指示するならそれはそれで構わないんだが、余計なことを言うなってこと。
有耶無耶も何も、「南部家文書」が南部氏の南北朝以前の土着化の論拠になれば肯定、
論拠になりえないなら否定になるだけなんだしさ。
重ねて言うが、否定側が「史料価値の高い資料を当然持」つ必要は無い。
否定側に論拠を求める気持ちはわかるんだが、論争で152のようなことを言ってはダメだ。
0156人間七七四年
2007/11/11(日) 02:43:25ID:2ej59lKeこの日本語で差してるのが>>149ってのは無いだろ。>>154が勘違いするのは当たり前だ。
よく読めっていうより先に、>>155は自分の文章の推敲をすべきだと思う。
そもそもID:sPEgTZ3kは>>149の時点で南部系図っていうソースだしてるし、
ID:5QFbysusが資料明示しない限り、適当な事言ったのは ID:5QFbysusというシンプルな構図。
真面目な話をすると
南部家文書は鎌倉時代の文献を元に編纂されてるから史料価値は高い。
0157人間七七四年
2007/11/11(日) 04:21:22ID:CDN/qYoX0158人間七七四年
2007/11/11(日) 06:43:44ID:KuuBQbwl為信は久慈の出身。
晴政にしたがっていた七戸南部の領土を奪い取っているから
反信直どころか、織田信長のように他の同族の領土を
全部自分のものにしようとしていたと思われる
秀吉によってタイムオーバーになってしまったが
0159人間七七四年
2007/11/11(日) 06:48:55ID:12xi+4V9大光寺→滅亡
七戸→滅亡
八戸→新田行政にのっとられ滅亡
九戸→滅亡
千徳→滅亡
櫛引→滅亡
堤→滅亡
三戸→晴政が死んだ時点で滅亡
大浦→久慈からやってきた為信に家をのっとられて滅亡
生き残った南部
信直の家系だけ
0160人間七七四年
2007/11/11(日) 15:02:51ID:Hz58W1ad秀吉が小田原に来援しなかった場合、安東や蛎崎、九戸や北、戸沢などとの戦いが拡大していくと思いますが勢いがあったしドコまで拡大できたかな?
八戸や三戸あたりは久慈と近いし土地勘もあったろうから南部を併呑できたんじゃないかな?九戸の抵抗は激しいだろうけど…。
安東あたりも破って秋田まで進出し角館あたりで戸沢と戦ったり。
最上義光とは馬が合いそうな気がするからw小野寺や由利本荘は一時的にプレゼントw
0161人間七七四年
2007/11/11(日) 17:40:04ID:zhx18iol>>最上義光とは馬が合いそうな気がするから
策略の熟練者の義光と「普通の策略」しかやっていない為信と
それに為信は最上と敵対していた大宝寺と同盟していたのでなおさら最上と組むことはない
>>安東あたりも破って秋田まで進出し
比内には野心を持っていたかもしれないが
秋田まで行く気はあったのかな?大宝寺につきあって出兵する可能性はあるが
>>上野国出身の軍師?の沼田氏
それと有力武将の板垣将兼、小笠原信清もおそらく甲信あたりから流れてきた武将
0163人間七七四年
2007/11/12(月) 01:10:23ID:AnlhZ9ZF0165人間七七四年
2007/11/14(水) 02:11:30ID:ZB/U3JH90166人間七七四年
2007/11/14(水) 16:51:22ID:dzU7s3eIこの「津軽の南部氏」って大浦のことだよな
0167人間七七四年
2007/11/16(金) 09:21:05ID:ynSGS36q0168人間七七四年
2007/11/20(火) 20:40:08ID:/YFBXwG50169人間七七四年
2007/11/21(水) 16:04:11ID:ynMHCPsh晴政、信直説も
0170人間七七四年
2007/11/22(木) 10:49:15ID:dnpe3Np/0171人間七七四年
2007/11/22(木) 11:51:08ID:hcSHOUzd石川高信の死は1571年説が有力だってよ
>>南部を圧迫し
為信も南部の一族なんだから「圧迫」とは言わない
織田弾状忠家が織田大和守家を滅ぼしたことを
「織田を圧迫」と言うか?
檜山安東家が港安東家を併合したことを
「安東を圧迫」と言うか?
0172人間七七四年
2007/11/23(金) 11:47:50ID:oZphKrRI0173人間七七四年
2007/12/10(月) 13:57:25ID:GwoOzmVF安東に鹿角郡を奪われるも奪回
津軽地方の反乱を平定
九戸政実の反乱騒動を平定 ぐらいかな。
石川高信・信直 八戸政栄 九戸政実の功績が大きいといえば それまでですが。
0174人間七七四年
2007/12/12(水) 16:27:29ID:ZrPYDRi8津軽地方の反乱を平定
九戸政実の反乱騒動を平定
九戸は晴政死後でしょ
三戸南部は津軽に領土などもっていない
津軽に領土を持っていたのは大光寺とか千徳である
反乱を鎮圧したのは大光寺でしょ
0175人間七七四年
2007/12/13(木) 03:37:57ID:LPZK34Kh晴政の家系は滅んでいるから
それと大火事で記録が燃えてしまったから
残っているものと言えば晴政と仲が悪かった
家系が記した書類だけ。
まあ南部だけではないが
そういった文献あ割り引いて考えた方がいい
例えば本当は晴政が行った業績なのに別な人の手柄にされているかも
0176人間七七四年
2007/12/14(金) 13:13:56ID:/Ikop7r3実際何があったのか永久に闇の中
0177人間七七四年
2007/12/21(金) 12:44:21ID:h5jUf+Pz同族同士の仲は扇谷上杉と山内上杉のように良好であり
分家の統制は大崎・最上間のように強力であり
豪族、国人の統制力は政豊時代の山名のように強力である
0178人間七七四年
2007/12/21(金) 21:50:22ID:HbPK0PQU0179人間七七四年
2007/12/24(月) 18:25:39ID:f2qteM5p0181人間七七四年
2008/01/16(水) 16:10:32ID:tPJvcOJW0182人間七七四年
2008/02/04(月) 14:23:59ID:A78NQdMv0183人間七七四年
2008/02/15(金) 15:44:36ID:xk7PH7JT0184人間七七四年
2008/02/15(金) 20:13:10ID:xk7PH7JT0185人間七七四年
2008/02/18(月) 16:57:03ID:JkN6UL6G北信愛90歳。
三好長慶と同じ歳に生まれ北信愛の死の2年後に豊臣秀頼が死亡。
なにげに戦国の一番おいしい時期をガッツリ生き抜いている辞典みたいな男。
0186人間七七四年
2008/02/18(月) 17:36:29ID:ATxGLWAt0187人間七七四年
2008/02/19(火) 14:56:44ID:148Dauh6やい南部ども何か書き込みしてスレを活性化させろ。
0188人間七七四年
2008/02/19(火) 15:27:43ID:Rso73I7S確かに東北では強かった部類の大名なのはわかるが信長の野望で優遇されすぎじゃね?
特に天翔記、気付いたら東日本一円南部領ってどんだけwwwwwww
三日月が五回は丸くなるまで南部領って感じじゃんか
0190人間七七四年
2008/02/21(木) 01:04:48ID:XtZ+GKWl0191人間七七四年
2008/02/23(土) 11:08:47ID:qhBKto3a0192人間七七四年
2008/02/24(日) 22:07:23ID:0A8cSgmW南部と田村はまだ対立感情があるとか。なぜなんだろうか?
0193人間七七四年
2008/02/24(日) 22:22:39ID:/QNKYXUl南部と田村の対立感情?
んなもん最初からねーよwwww
仮にあったとしても、まあどーせ田村側からの一方的な嫉妬でしょ
南部は端から田村なんて眼中にねーしwwwww
岩手日報でも県南の歴史関連だと平泉しか特集組まないし
南部の特集はよくやるけどなwwwww
0194人間七七四年
2008/02/26(火) 19:34:19ID:mMfljrSM南部の品位を貶めるのが目的かw?
0195人間七七四年
2008/03/04(火) 08:28:49ID:HqVNKJGC0196人間七七四年
2008/03/04(火) 10:13:41ID:QpaBEaQI0197人間七七四年
2008/03/04(火) 15:44:33ID:XssmdBeJ斯波進攻戦
鹿角奪取戦
晴政、信直の確執
九戸平定戦位しかないから@年持たないな。大阪の陣では南部の軍は大砲の音にびびって逃げまどっただけだし。
それよりは北東北戦国時代の武将それぞれを短編でやってほしいな。
津軽、南部、安東、戸沢、九戸、大宝寺、葛西などなど...。
0198人間七七四年
2008/03/04(火) 17:27:18ID:xNdSRdbQ江戸時代ではなく戦国時代。
0199人間七七四年
2008/03/04(火) 17:56:40ID:QpaBEaQI戦国末期までは接点無しじゃないの?
それぞれ北の英雄・南の覇者って感じで好き勝手やってたでしょ
でも政宗以降は領国も接する事になったし、関が原の時なんか和賀を煽動されてるし
あまり良好な関係じゃなかったのでは?
0202奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM
2008/03/22(土) 13:35:19ID:t5g+NELF0204奇矯屋onぷらっと@FreeTibet ◆SRGKIKYOUM
2008/04/09(水) 00:57:07ID:cOYNYGCo0206人間七七四年
2008/04/26(土) 15:41:54ID:qgnEx3Tm0207人間七七四年
2008/05/13(火) 13:52:23ID:GJVUuoHt0208人間七七四年
2008/05/27(火) 15:20:34ID:ZsjkE3tI0209人間七七四年
2008/06/12(木) 14:50:53ID:U8ayXMtm0210人間七七四年
2008/06/27(金) 14:20:32ID:6ym4BiaB0211人間七七四年
2008/06/30(月) 06:39:52ID:So7fdM0Q0212人間七七四年
2008/07/01(火) 23:10:10ID:0kyuDXCA領民にも支持されていたが、軍事部門的な要員だったと思う。
九戸家の祖先が小笠原を系統としても南部家と祖先で繋がりがあったという、
恐らくは遠戚同士の軍団が南部の基礎で、次いで信直や北信愛のような武将が
南部宗家を乗っ取ったと言える。九戸政実が室町幕府で晴政と同格に扱われていたとすると、
幕府の方で彼の系図がなんらかの形で明確にされていたのだろう。
年齢についても若干の諸説があるらしい。当時の政実元服が15歳でなく12・13歳でされていた場合は
生年が少し遡る事になるからだ。
0213奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/07/02(水) 00:36:09ID:x9m6zLvr0214人間七七四年
2008/07/02(水) 03:04:37ID:9xMeYvovこの一族ほど謎に満ちた大名家も珍しいな
0215人間七七四年
2008/07/02(水) 16:05:24ID:sMRNi0Fj南部抗争には10年のズレがあると言われているが、大浦為信の独立化も南部信直・北信愛に対して
敢行したものであれば、九戸政実と遠戚でもある大浦為信はそれによる呼応であったと思われる。
九戸政実自身は元来晴政の嫡男晴継の後見人であった為、晴政・晴継を暗殺する必要はそもそも無い。
晴政と戦を交えた信直・北信愛側は九戸政実の着々と進む縁戚化を恐れて和解後晴政・晴継を暗殺したと言えるだろう。
また、九戸乱後各地に散った九戸側の一部武士は津軽家に仕官したのではないかと思われる。
その後津軽家でお家騒動が何度か起るが、津軽のそうした彼らが熊千代側に付いたりして、
津軽藩が一時瓦解する状況に陥ったのではないかと私は推測する。
信牧の後継騒動(三成娘の子・満天姫の子)はまさに秀吉側の血縁者に対する
一部津軽・九戸側の猛烈な反発があったのではないか、
熊千代時もそうだがそれらのお家騒動のいきさつ等を経て現在まで至っていると考える。
黒石藩の流れもまさにそうだろう。
0216人間七七四年
2008/07/02(水) 17:21:36ID:sMRNi0Fj南部家は信直よりも利直の方が器としてあると感じる。
北信愛の長寿は皮肉すぎる。
秀吉軍の北条氏攻めでの八王子城撫で切りも凄まじいが、
九戸城の撫で切り(二の丸大量焼殺)もひどすぎるな。
0217人間七七四年
2008/07/02(水) 17:38:01ID:u6t01X23八王子城なんかも利家が攻めてる。一向宗殺戮とかやってるし。
あいつ撫で斬り大好きな極悪人だよなw
0219人間七七四年
2008/07/16(水) 13:42:41ID:SrRUqr/N0220人間七七四年
2008/08/02(土) 15:44:25ID:QVheD1Ss0221人間七七四年
2008/08/18(月) 14:38:58ID:RmecyQaY0222人間七七四年
2008/08/29(金) 19:40:02ID:Tu0lRg6C0223人間七七四年
2008/08/29(金) 19:41:57ID:bhFSpqX30224人間七七四年
2008/09/02(火) 16:24:01ID:+OzNsvBc0225人間七七四年
2008/09/03(水) 10:26:59ID:YeLpHn2D0226人間七七四年
2008/09/03(水) 11:15:36ID:0+LV7f57斯波だって和賀だってたいして強くなかった。
鹿角一帯だって津軽、安東と睨み合いに近いし。最終的には安東だけど。
津軽が南部家臣だったら九戸と組んで葛西領、鹿角一帯くらいまでは南部領地だったと思う。
軍事部門では石川、九戸はかなり優秀なのでは??
ただ南部には政治部門で人がいなかったなぁと感じる。
0227人間七七四年
2008/09/03(水) 13:01:36ID:RGznkm6T葛西とは大昔からやりあったりしてたが、
結局南部の影響力が低下して、葛西と戦うこともなくなっていった
葛西や大崎なんてgdgdの代表格だが、外の敵には比較的団結して戦うしね
0228人間七七四年
2008/09/03(水) 14:50:32ID:22smPN7g0229人間七七四年
2008/09/03(水) 14:57:51ID:0+LV7f57余程の人材不足。北信愛は普通レベルだな。
せめて明智光秀クラスの統治ができる将が居ればなぁ。
0231人間七七四年
2008/09/03(水) 16:11:13ID:0+LV7f57蒲生氏郷とか。
0232人間七七四年
2008/09/03(水) 19:04:05ID:YDKcF8iA九戸政実・南部晴政VS北信愛・石川信直
大浦為信VS石川信直(石川家の仇)
七戸家国・櫛引清長VS八戸政栄
八戸政栄は当初晴政を支持していたが最終的に北信愛の調略に乗る
晴政と信直の戦後信直は田子家に蟄居、その後石川家を大浦為信が攻める
七戸家は大浦為信と揉めていたが九戸政実の下では協力を一致させたが八戸家はそれを拒んだのだろう
0233人間七七四年
2008/09/03(水) 19:10:35ID:YDKcF8iA撫で切りのような事は回避できただろう。
蒲生氏郷では秀吉に意見する力としては年齢差的にも不足だったろう。
蒲生・秀次が望んで大量虐殺をするとは思えにくいが責任は重大である。
蒲生自身秀吉に謁見するよう前後して要請を受けていたからな。自身の保身も胃癌の病の他にかなり危ぶまれていた筈だ。
0234人間七七四年
2008/09/04(木) 03:03:06ID:MNp38drMというか南部家は人材登用システムがダメでしょ。
0235人間七七四年
2008/09/04(木) 07:24:36ID:8h+jVzm4北の大地で有力なのは安東と津軽くらいしかいない。どっちも大名だしよ。
0236人間七七四年
2008/09/04(木) 14:12:47ID:dR3z1e1z徳川家から警戒されずにすんだ、ってのは怪我の巧妙か?
0238人間七七四年
2008/09/05(金) 16:04:17ID:kdzb1HqM外部からの意見を取り込めないようにしていたとも言える。
津軽家も諸問題を抱える事になる。大本を辿ると、津軽為信の嫡男信建は早逝し、三男信牧と信建の嫡男で若年の熊千代を擁立した津軽建広との家督争いから津軽のお家騒動は始まっている。
その後、幕府により建広は津軽追放を命じられ信牧が当主となったが、更に信牧の正室側室絡みのお家騒動が勃発する。
黒石藩の起源は、度重なる藩内のお家騒動による弱体化に対する強化と、分藩する事で騒動を和らげ人材の編成を試みたというのが幕府の狙いだったろう。
0239人間七七四年
2008/09/05(金) 19:12:50ID:8+K4/hTe雰囲気的にイヤだったろうな。
0240人間七七四年
2008/09/06(土) 15:14:39ID:HZJA6gh00241人間七七四年
2008/09/16(火) 07:38:26ID:V54vr9en自分は八戸氏と久慈氏、大槌氏しかわからないです。
0242人間七七四年
2008/09/16(火) 15:08:04ID:pL2QXcvA0243人間七七四年
2008/09/18(木) 09:51:20ID:OplkBAX20245人間七七四年
2008/10/18(土) 14:22:07ID:pJgkJfZ00246名無し
2008/10/24(金) 20:05:06ID:8eeh/8xU津軽にも一部残ったの?どんな生活だったんだろう
0248人間七七四年
2008/11/07(金) 15:24:41ID:Cr87+TTr0249人間七七四年
2008/11/20(木) 15:38:30ID:LAaqX+q70250人間七七四年
2009/01/04(日) 10:44:17ID:PzCpxsI00251人間七七四年
2009/01/08(木) 11:40:23ID:oZ2cuiAM0252人間七七四年
2009/01/17(土) 15:11:54ID:CT/X5pZC0253人間七七四年
2009/02/02(月) 16:02:13ID:aSTfFZOf0254人間七七四年
2009/02/16(月) 16:22:11ID:qds5xXRW0255人間七七四年
2009/03/02(月) 15:37:06ID:AZfEEJhD0256人間七七四年
2009/03/16(月) 15:34:53ID:Kfzj+SlZ0257人間七七四年
2009/04/01(水) 14:35:49ID:gMWKzyjV0258人間七七四年
2009/04/04(土) 10:06:46ID:0iljDe5T0259人間七七四年
2009/04/15(水) 15:28:03ID:Gp4qlMot0260人間七七四年
2009/04/25(土) 09:02:14ID:y3T2X5fv当主、南部利昭氏の「お別れの会」が行われ、達増拓也岩手県知事、谷藤裕明盛岡市長を
はじめ、約700人の市民らが参列した。
南部氏は元広告マンで、平成16年から靖国神社宮司を務めた“異色の殿様”。昭和55年に
当主となり、盛岡に居を移した。穏やかな人柄が愛され、旧南部藩士の子孫や盛岡ロータリー
クラブ会員らと深く交流した。
「しぐさや立ち居振る舞いに気品があった。興に乗ると謡(うたい)や都々逸(どどいつ)も飛び
出した」と懐かしむのは、南部家ゆかりの桜山神社の坂本広行宮司。「例大祭で扇を手に馬に
またがる姿は殿様そのもの。どんな暴れ馬もこなし、神社の象徴でした」
もう一つ、出席者の話題になったのが、盛岡と靖国神社の関係だ。靖国神社の前身は、幕末期の
戊辰(ぼしん)戦争で朝廷側に付いた薩摩、長州などの戦死者を慰霊する「東京招魂社」。南部藩は
幕府側に付いて敗れただけに、南部氏の宮司就任に多くの盛岡市民が驚いたという。
廃藩置県で得た土地を共同管理する「旧盛岡藩士桑田(そうでん)」の下山寛理事長も涙を浮かべ、
このことに触れた。「殿様は“南部の領民”への気づかいから、就任するかどうか、長く悩まれていた」
と。
靖国神社は国に殉じたすべての人をまつる場所。南部氏もA級戦犯の分祀(ぶんし)を明確に
否定していた。
南部氏の宮司就任をきっかけに、長年のわだかまりも消えたようだ。「靖国神社を訪れる人が増え、
殿様は温かく迎えてくれた」(盛岡ロータリークラブの長野隆行会長)。出席者は春遅い盛岡から、
生前の南部氏と、すでに散った靖国の桜に思いをはせていた。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090425/acd0904250835003-n1.htm
【地域/岩手】"殿様そのもの" 南部家45代当主・靖国神社9代宮司、南部利昭氏の「お別れの会」…森岡
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1240617429/
0261人間七七四年
2009/04/25(土) 10:09:53ID:iuSNw2Kk0262人間七七四年
2009/05/09(土) 00:57:59ID:X7ogvsm/0263人間七七四年
2009/05/13(水) 10:19:13ID:QBRoJ8k60264人間七七四年
2009/05/13(水) 15:12:04ID:s1uvxho+0265人間七七四年
2009/05/14(木) 21:19:00ID:UYfb50X1あと、東系や南系、北系そして、西系もあった。
0266人間七七四年
2009/05/26(火) 15:20:38ID:xA2XVwDe0267人間七七四年
2009/05/29(金) 23:08:13ID:IRsz9UBNバスク大佐→北信愛
0268もろ初心者だが
2009/06/01(月) 22:37:53ID:AUUxd3eI二戸系は確かあります。ただし「にのへ」とは読まずに「にこ」と読むはずです。
0269人間七七四年
2009/06/01(月) 22:53:39ID:2fT67ik80270人間七七四年
2009/06/05(金) 00:03:43ID:POq7wdP/0271人間七七四年
2009/06/22(月) 16:46:58ID:S+ACvaEc0272人間七七四年
2009/06/30(火) 20:21:00ID:Avqq87Xn必然的に騎馬隊も良馬で構成される。
強くて当たり前。
0273人間七七四年
2009/07/01(水) 08:11:47ID:KOv9L9RC村丸ごと隣国仙台藩に逃亡。南部の圧政を直訴しているが幕府が放置。
領民の事思えば、無能な殿様より津軽氏に乗っ取られた方が良かったと
思う。
0274人間七七四年
2009/07/01(水) 11:53:41ID:bHVB6tOW信直→知将
しかし自分が考えるに、北信愛が居たから成り立つ戦国時代の南部。
信愛が居なきゃ江戸時代の腐れ南部になる。
0275人間七七四年
2009/07/02(木) 19:19:06ID:xkUHL0Dz0276人間七七四年
2009/07/07(火) 14:47:08ID:k960LZDN0277人間七七四年
2009/07/07(火) 21:35:04ID:PbnHsqyW0278人間七七四年
2009/07/17(金) 15:57:30ID:kPdgPhmo0279人間七七四年
2009/07/30(木) 16:01:42ID:z0oYOCC40280人間七七四年
2009/08/07(金) 23:40:56ID:4mYjgltZ0281人間七七四年
2009/08/08(土) 00:38:35ID:S64ivuT40282人間七七四年
2009/08/21(金) 14:58:24ID:5yrZEQOI0283人間七七四年
2009/09/03(木) 15:08:20ID:+U1DoT060284人間七七四年
2009/09/03(木) 16:32:43ID:OaZYNpeg0285人間七七四年
2009/09/03(木) 19:48:50ID:zmdDi2tr仮名じゃ可哀想だからもっともらしい晴継って名前をつけただけじゃないか?
晴継発給や晴継宛の文書なんてあるのだろうか?
家督を継いで数日後に死亡したし、文書を発給する暇なんてなかったように思うなぁ
0286人間七七四年
2009/09/10(木) 15:22:20ID:QpPSqde5誰がつけたんだろうね。
0288人間七七四年
2009/09/12(土) 03:27:45ID:1ryt40gF0289人間七七四年
2009/09/23(水) 13:35:59ID:BLfWaOEf0290人間七七四年
2009/09/29(火) 15:30:42ID:ospG5cP10291人間七七四年
2009/09/29(火) 17:27:47ID:APahVQ+1あのへん全部安東の土地だが・・・
0292人間七七四年
2009/10/01(木) 00:54:21ID:SeF4aZEwあまり知られていない
0293人間七七四年
2009/10/01(木) 13:23:42ID:HSQViEQO0294人間七七四年
2009/10/01(木) 14:27:19ID:IWu8R3AO困った人たちだ。
0295人間七七四年
2009/10/03(土) 05:17:59ID:AmWqBl9l0296人間七七四年
2009/10/03(土) 05:30:38ID:T992ypz90297人間七七四年
2009/10/13(火) 16:07:49ID:yysOJHjl0298人間七七四年
2009/10/22(木) 14:25:17ID:OAM7/ti60299人間七七四年
2009/11/04(水) 15:20:59ID:Fe9uds5u0300人間七七四年
2009/11/05(木) 11:16:48ID:pQHqt1+30301人間七七四年
2009/11/06(金) 11:37:00ID:POYfWwF0こまひめをひでつぐにさしだしたとかいたなんぶはきちがいうそつきあほしね
0302人間七七四年
2009/11/07(土) 10:24:55ID:DG+YIne40303人間七七四年
2009/11/07(土) 22:36:46ID:WPT/pgFF一応南下もしてたけど、険悪だったのは東だからあんまり変わらんのじゃないか?
北の津軽も騒動は東が元だから、南は放置せざるをえない。
斯波・阿曽沼・和賀とかとはそこまで敵対関係じゃないし。
味方とは言わんけど。
0304人間七七四年
2009/11/08(日) 10:18:15ID:pKsUlZaY0305人間七七四年
2009/11/08(日) 18:42:22ID:i2PV+Esl葛西家臣でも柏山や江刺は和賀・阿曽沼とも関連があるから
南部の南下戦では共同して対応とかもしてる
0306人間七七四年
2009/11/18(水) 15:16:23ID:hIVxQgMI0307人間七七四年
2009/12/09(水) 13:59:22ID:Oy+qE2wQ0308人間七七四年
2009/12/16(水) 00:21:41ID:9DnUkQu/・http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091214-00001158-yom-soci
0309人間七七四年
2009/12/16(水) 01:31:37ID:Wewgb++t津軽と南部の抗争とは青森対岩手じゃなくて、
青森内部の津軽地方(弘前)対南部地方(八戸)のことだろ。
0310人間七七四年
2010/01/04(月) 12:13:54ID:RervCUF00311人間七七四年
2010/02/20(土) 11:32:55ID:GQ2iF42v二戸、九戸、久慈あたりは八戸と仲良いよ。
気になるんだが、南部信直と九戸の戦あるじゃんね。
信直が弱かったの??
九戸が強かったの??
0312人間七七四年
2010/05/15(土) 15:12:15ID:g5Ennv010313人間七七四年
2010/05/16(日) 04:13:30ID:3DZ+YGbg八戸藩の津軽コンプなんてどーでもいいらしい
0314人間七七四年
2010/05/20(木) 21:03:33ID:JtjYN2CB盛岡市中央公民館&岩手県立博物館?
0315人間七七四年
2010/05/21(金) 11:37:26ID:ykjLUffV0316人間七七四年
2010/06/10(木) 12:44:10ID:QqcRK30d0317人間七七四年
2010/06/11(金) 03:53:42ID:fvx/V8XS日本で一番だよ
0318人間七七四年
2010/08/19(木) 08:16:16ID:Wi0omXJp0319人間七七四年
2010/10/31(日) 07:14:54ID:PefAkVTo0320人間七七四年
2010/11/06(土) 21:54:32ID:I+VkDJrI294は盛岡藩の文書は近隣大名家の記録と、事柄や時間が噛み合わないが多いって事言ってんだよ
0321人間七七四年
2010/11/08(月) 14:39:06ID:eXvsV0pc桜見の季節は賑やかだからオススメだな。
ちょっと遠いが駅へ歩いて帰ることも可能な距離。
0322人間七七四年
2010/11/10(水) 00:00:10ID:BV6CCOZ8来年「もりおか歴史文化館」てのがオープンして、そっちで展示公開するらしい
0323人間七七四年
2010/11/14(日) 21:55:00ID:ilr1z30F0324人間七七四年
2010/11/15(月) 09:26:15ID:uWnlfVr9そのココロはどちらも長くは無いということで
0325人間七七四年
2010/11/19(金) 00:50:21ID:EKlCsWYP0326人間七七四年
2010/12/23(木) 20:19:52ID:K2w1qzy6第壱話 晴政、誕生
第弐話 見知らぬ、工藤(八戸氏)
第参話 消えない、火事
第四話 赤沼、逃げ出した後
第伍話 三戸城、西のむこうに
第六話 決戦、長牛城
第七話 晴政の遺したもの
第八話 晴継、惨殺
第九話 合議、心、重ならず
第拾話 クーデター
第拾壱話 騒がしい合議の中で
第拾弐話 詮直の価値は
第拾参話 小田原、参陣
第拾四話 関白、魂の座
第拾伍話 所領安堵と憤怒
第拾六話 葛西大崎一揆、そして
第拾七話 二人の兄弟
第拾八話 籠城の選択を
第拾九話 兼信の戰い
第弐拾話 蝦夷のかたち 源氏のかたち
第弐拾壱話 奥州武者、見参
第弐拾弐話 せめて、天を衝き
第弐拾参話 企
第弐拾四話 和議と薩天
第弐拾伍話 終わる大戦
最終話 京儀の中心で人の道を叫んだけもの
0327人間七七四年
2011/01/15(土) 21:58:23ID:5UQa4dhB東北地方の城跡とか見るのが趣味だけど、
あそこほど天然の要害って城は初めて見た。
湧き水もあるらしいし野望での評価はちと低い気がする(三戸城だけ)
0328人間七七四年
2011/01/16(日) 03:22:38ID:ZcY+V041良い場所に目をつけたね。
0329人間七七四年
2011/01/17(月) 22:20:05ID:tsrVrHL7実際は政治家としての功績の方が大きい。
政治は南部晴政、軍事は九戸政実の両輪がうまく稼働してた時が南部の絶頂期だった。
0330人間七七四年
2011/01/17(月) 22:40:26ID:hyXHDSTAノブヤボ(笑)
0331人間七七四年
2011/01/18(火) 13:23:41ID:jp7Nsj8rなにげに良い情報だ。
0332人間七七四年
2011/01/18(火) 20:45:12ID:pU2bKXNS津軽斬り取り次第って命令出したのって本当なんですかね?
0333人間七七四年
2011/01/20(木) 19:49:19ID:a4KTHkJr九戸政実を通じ指示したと見るべきかと。
結果的に信直の最有力支援者を潰し
廃嫡に成功してる。
0334人間七七四年
2011/01/28(金) 22:41:36ID:+9dktsB/南部信直は政治よりは戦闘の能力が高い武将。
鉄砲の名手って話もあるけど何度も南部晴政と九戸政実に命を狙われたにも関わらず
生き永らえるのが出来たのは運もあると思うけど
それ以上に武芸に長けていたからだろうね。
0335人間七七四年
2011/02/02(水) 11:00:51ID:G1o4ELr00336人間七七四年
2011/02/02(水) 11:03:59ID:G1o4ELr0同じく安東家と戸沢家の最盛期石高もご存じのかたよろしくお願いします
0337人間七七四年
2011/02/02(水) 16:16:28ID:aMn5J9yl実際の石高は夏場の天候(気温とか)でかなり上下変動したはず。
0338人間七七四年
2011/02/02(水) 18:58:57ID:umi4djU/岩手の3分の2+青森全土で、30〜35万石くらいじゃないの?
0339人間七七四年
2011/02/02(水) 22:02:48ID:Ajh1OPkA当時は小氷期だったし。
0340人間七七四年
2011/02/02(水) 22:23:26ID:TCEMtv3b最盛期でも10数万石でしょ。
津軽地方には浪岡北畠氏もいたし津軽での南部の石高は
多く見積もっても2万石くらい。
それに太閤検地での石高を合わせたのが最盛期。
ただ北奥羽に関しては石高だけじゃ語れないものがあるのも事実。
九戸の乱で動員した兵の数は南部側が5千に対し九戸側が6千。
石高の割には兵の数が多いのが南部の特徴。
0341人間七七四年
2011/02/03(木) 00:42:57ID:dxCj1zvDttp://homepage3.nifty.com/ksatake/fjitu60.html
ついでにいうと、江戸初期のころの南部藩は、金山・銅山などの鉱山収入や
馬や紫根などの特産物で「諸侯に冠たり」といわれるほど裕福だったとか。
ビンボーになったのは、鉱山が枯れてから。
0342人間七七四年
2011/02/03(木) 05:28:27ID:JNdiSfAc戦国時代は領土関係もふくめて10万石格だね
0344人間七七四年
2011/02/03(木) 19:58:26ID:e8X70dtl0345人間七七四年
2011/02/03(木) 22:37:40ID:2Uzl+fV/岩手の民謡南部牛追い唄でも、
「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と高らかに歌われているほどだしねぇ。
当時はそうとう潤っていたんだろう。
0346人間七七四年
2011/02/03(木) 23:12:24ID:Lgpfv6gC石高という測定では米が最も高くカウントされ
南部氏の領内での主食の
粟、稗、麦、芋類は石高のカウントが低いからだよ。
太閤検地でも畑類は低いランクに区分されるからね。
0347人間七七四年
2011/02/05(土) 17:45:34ID:ig8oj6XC江戸時代通じて一揆最多藩は伊達じゃない
0348人間七七四年
2011/02/06(日) 07:59:58ID:mwNdP+lH北東北くらいは支配出来てたかもな。
島津と同じように地の利もあるし。
ただなんかしていけばいいだけだから。
0349人間七七四年
2011/02/06(日) 09:11:48ID:LTmMDtfP0350人間七七四年
2011/02/06(日) 09:50:15ID:LTmMDtfP家督継いでからは比内調略(後に安東に奪還されてるが)とか
斯波氏滅ぼしたりしてるけど津軽とは目立った合戦はしてない。それが不可解。
0352人間七七四年
2011/02/06(日) 12:34:02ID:ZCv+8thzなにかと多忙で余力がなかった。
津軽は小規模戦闘がうまいから、本気で戦争するとやっかい。
0354人間七七四年
2011/02/06(日) 18:59:38ID:mwNdP+lH>ゲームじゃないんだからww
身も蓋もないこと言うね。アンタ。
あと津軽に進行しなかったのは羽後と陸中中央の方が
石高というか魅力的な土地だったからでしょ。
0355人間七七四年
2011/02/06(日) 22:16:25ID:FsPf/BR4誰と戦うの?
0356人間七七四年
2011/02/06(日) 22:51:19ID:LTmMDtfP確かに津軽為信は戦上手ですからね。
>>354
答えてくれたお礼に俺も答えてあげる。
岩手に関しては今の花巻辺りまでが限界。その南の葛西氏大崎氏は無理。
秋田は比内と北秋田郡の一部まで。桧山城は北東北でもトップクラスの堅城なので、
そう簡単には落とせない。農繁期と冬場は大規模な
進攻は難しいから。
0357人間七七四年
2011/02/06(日) 23:12:38ID:iQLVvmMd東北北部の堅城というと、他にどの城があるの?
0358人間七七四年
2011/02/06(日) 23:30:39ID:ehL4rqL8南北朝の趨勢が決まったあとも南朝勢力として力を保持してきたのが南部氏
三戸南部と交代するのは室町中期でもっと後になる
0359人間七七四年
2011/02/07(月) 00:24:02ID:4VtwxZYxまったく同じことを考えてた。
信直自身、斯波と比内には出陣しているけど、
津軽には行っていなかったはず。
南部の主張どおりなら実の父と弟の仇のはずなのになぁ。
為信に領地を侵犯された七戸が結局九戸に付いてしまったのも気になる。
0360人間七七四年
2011/02/07(月) 18:37:38ID:Rm4ZMl83不来方(今の盛岡)一帯と比内(今の大舘)一帯に比べると、
津軽は不毛の土地だからじゃないかな。それに遠いし。
心情としては進攻したかったかもね。
0361人間七七四年
2011/02/07(月) 20:05:38ID:s/KrxZ8V北信愛の後押しが大きかったわけだから、北をはじめ重臣達の意見が大きいの
ではないでしょうか。
0362人間七七四年
2011/02/07(月) 20:42:37ID:EQFM3BYT上の方で書いてる人もいるけど
南部が支配してた地域は津軽の半分もなかった。
メリットが希薄な合戦なんてそりゃ北も八戸、九戸も
乗り気はしない。
0363人間七七四年
2011/02/08(火) 17:52:29ID:B4Igiyb7南部晴政は斯波を屈服させて以降は目立った戦はしてない。
三戸城を本拠地にしてる限りそれ以上領土を拡げるのは難しいかと。
0364人間七七四年
2011/02/11(金) 21:03:42ID:06Msq8N9上杉謙信も武田信玄も大体そんなもの。
0365人間七七四年
2011/02/11(金) 21:49:38ID:BFWaq57F0366人間七七四年
2011/02/11(金) 21:54:47ID:xomDMGMO0367人間七七四年
2011/02/11(金) 23:06:18ID:BFWaq57F毛利ファンと島津ファンに怒られちゃうよ。
0368人間七七四年
2011/02/11(金) 23:25:30ID:06Msq8N9それらは当主の力量のお陰だよ。
0369人間七七四年
2011/02/12(土) 00:55:09ID:6Nr3DM0/家臣団による当主追放と擁立の輪廻を克服した強い支配を目指す大名を嫌い離散して集まってきたやつらの集まりみたいなもん。
0370人間七七四年
2011/02/13(日) 08:04:55ID:xDmtDD/j大して増えないでFA?
0371人間七七四年
2011/02/13(日) 08:18:28ID:EepnQeYm寒村や荒地ならなんとかなっただろうが。
0372人間七七四年
2011/02/13(日) 09:18:01ID:FlB1rfjX唯一それが可能なのは九戸くらいしかいない。
九戸政実がもっと早く乱を起こし、
中世大名から近世大名になれていたら違ってただろうがね。
0373人間七七四年
2011/02/13(日) 10:02:23ID:EepnQeYm九戸政実は戦闘指揮官としては有能だったかもしれないが
それ以上は無理。
0374人間七七四年
2011/02/13(日) 10:18:13ID:qkZnt2S20375人間七七四年
2011/02/13(日) 10:19:07ID:EepnQeYm0376人間七七四年
2011/02/13(日) 10:44:23ID:FlB1rfjX近世大名に脱皮できるとしたら九戸しかいないってこと。
九戸政実の資質とかは置いておいて、
強力な中央集権型の権力構造を作れた可能性があったのは九戸だけ。
0377人間七七四年
2011/02/13(日) 13:50:22ID:QUkCQxSz近世っていうなら、むしろいち早く中央(信長秀吉)に近づくか、南部家内部に
味方作ってから跡継ぎ名乗るなり、謀反するなりしないと。
北信愛に主導権とられて、単に駄々っ子のように謀反しただけの人が近世大名とか
無理だと思う
0378人間七七四年
2011/02/13(日) 14:06:24ID:PO9YqGnH強権専制的な、いわゆる戦国大名としての近世大名の事を言いたいんでしょ
0379人間七七四年
2011/02/13(日) 14:35:06ID:QUkCQxSz根拠が何も書かれてないので、私の個人的意見を書いたまでです。
跡継ぎ名乗るにあたり何もしていない九戸に、武勇一辺倒というイメージしか。。。
徳川幕府になって武辺頼みの大名が次々粛清される中で九戸が残れるとは思えません。
0380人間七七四年
2011/02/13(日) 16:23:23ID:EepnQeYm> 徳川幕府になって武辺頼みの大名が次々粛清される中で九戸が残れるとは思えません。
同意。軍事的能力はあっても政治・外交・経済の能力はなかったと思う。
0381人間七七四年
2011/02/13(日) 16:26:34ID:EepnQeYm供回りの者だけ連れて急いで関西にやってきて家康に挨拶したというしな。
(大部隊はあとから来た)
中央政権にペコペコする外交ができた。
九戸は武勇があるぶん自尊心が高いから、中央政権とトラブッタと思う。
0382人間七七四年
2011/02/14(月) 00:40:11ID:t8pHaKN5南部信直は大阪冬の陣の時には死んでるよ
0383人間七七四年
2011/02/14(月) 11:06:15ID:t8pHaKN5大阪冬の陣・・・1614年
0384人間七七四年
2011/02/14(月) 20:27:54ID:KlzSMF8B国人領主を土地から引き離し、妻子ともども大名の城下に住まわせることだからな。
武田信玄も上杉謙信はもちろん毛利元就も出来なかったことをやれるわけがない。
0385人間七七四年
2011/02/15(火) 13:02:47ID:elF/7lq1大館にあった正札竹村…
0386人間七七四年
2011/02/16(水) 19:39:00ID:IS1/JGad上手いこと手綱を握ってくれる人が居て
はじめて力量を発揮するタイプだろうね。
滝川一益と同じような人かもしれない。
0387人間七七四年
2011/02/17(木) 16:06:49ID:IjAstY3X三戸が五戸や鹿角・岩手郡方面へ勢力を扶植したのに対して、
九戸は久慈や四戸(櫛引)なんかの国人を婚姻で取り込んで大きくなったわけで
その他にも独自勢力の一戸・七戸・八戸なんかがいるわけだから
集権的な権力構造を確立するのは(政実でも信直でも)難しい事だったと思う
0389人間七七四年
2011/02/17(木) 17:03:44ID:dqJbxvZ4奥州仕置が無くてもう一世代くらい戦国時代が続いていたら
三戸か九戸のどっちが主導権握るにしろ、南部もそうなっていたかもね
0390人間七七四年
2011/02/17(木) 20:10:58ID:dlODZRnL南部は北畠に対しては進攻もせず保護していたのに、
同じような室町時代の名家である斯波とはどうして
良好な関係を保たなかったのでしょうか?
0391人間七七四年
2011/02/17(木) 21:49:45ID:OGFlFSUQ南北朝時代の南部氏の宗家は八戸の南部師行
彼は土着していた訳でなくて幕府に出仕していた人物
北畠顕家が奥州下向するに伴い、師行も下向
土着していた弟の南部政長と一緒に顕家を支えることになる。
尤も、顕家時代の南部氏の役割は北部の鎮圧で
顕家の第一次西征には南部氏は参加していない
第二次西征には随行、顕家と共に師行は戦死している
南部氏は師行の弟である政長が掌握して、一貫して南朝、というより北畠氏を支える姿勢を見せた。
これ以降の奥州に於ける北畠氏の後ろ盾は結城→伊達→南部と変遷していった
つまり北畠顕信は北に追いやられていったわけで、最終的には出羽に行ったとか色々言われている。
その過程で奥州に土着したのが浪岡北畠氏であり、顕家の血とも顕信の血ともされている
話は戻るが、この南北朝初期における奥州戦線で顕家と対峙していたのが斯波家長であり
奥州総大将および関東執事として鎌倉で足利義詮を擁して顕家と睨み合った。
この家長は顕家に討ち取られたが、その後石津の戦いで顕家が戦死するに及び
南朝は顕家の代役に顕信とその父・親房を奥州に送り込もうとする。
しかし親房と、顕家の片腕だった結城宗広は船が難破したために奥州に渡れず(宗広はこの時に病没)
そのタイムラグが関東、奥州における南朝勢力の衰退を決定づけたといっていい。
関東は高師冬が、奥州は石塔義房が送り込まれて、南朝勢力を打ち破っていった。
ただし石塔義房の奥州攻略は北畠顕家のそれを踏襲していたもので
顕家が独自に用いていた郡検断権を旗下の大名に与えるというシステムをそのまま用いている。
だからこの時期の和賀氏なんかへの恩賞の沙汰は南部政長が行ってるのが史料に残っている。
北畠顕信と南部政長は稗貫氏、葛西氏らを合わせて南下する構えをとり
石塔義房は周囲に泣きつく程、追いつめられたけど、援軍を得て勝利
そのまま里屋城や八幡城を攻略して南部氏攻略を行ったけど、そこは挫折した。
ために、南部氏は一定の勢力を奥州の北部で維持することができた。
石塔氏は解任されて、吉良(直義派)、畠山(尊氏派)が奥州に派遣される。
概ね、畠山氏が有利にすすみ、その間隙を縫って顕信が国府を奪回したりするが
斯波氏が奥州で台頭するのはさらに後になる。家長(高経の子)ではなく家兼(高経の弟)
その頃、斯波氏は尊氏方に帰参し、尊氏死後は執事として幕府の全権を握った為に
吉良、畠山、石塔らとの奥州管領を巡る戦いに勝利することができた
0392人間七七四年
2011/02/17(木) 22:07:26ID:CTPAU3W1あと羽後や北奥羽の大名、国人にとっては上方との重要なパイプであり
北東北では最も高家だった。
一方の斯波は元から仲が悪い上にちょくちょく
岩手郡にチョッカイを出していたので南部にとっては
例え高家でも滅ぼすのに何の躊躇いもなかった。
0394人間七七四年
2011/02/18(金) 23:12:25ID:1Duq9Amq安東と蠣崎の津軽侵入の理由になったからな。
その際、国人も蜂起した。
浪岡北畠という存在はある意味北奥羽や羽後にとって
不可侵な存在だった。
0395人間七七四年
2011/02/18(金) 23:24:32ID:IvLuPtd0南部と安東は昔からいがみ合ってたにも関わらず、
共に北畠を保護し続けてた。
北畠の滅亡は、結果として南部と安東の歴史的な和睦につながる。(一瞬だけど)
0396人間七七四年
2011/02/18(金) 23:40:47ID:2vzHrM25津軽、九戸、飢饉。
0397人間七七四年
2011/02/19(土) 01:44:47ID:OlwNMvyuそれでも挽回するあたり、為信は本当にしぶとい武将だと思うわ
>>396
南部の栄華はむしろ南北朝。北畠から検断権もらってブイブイ言わせてた
飢饉は金山尽きて重税課すようになった江戸時代中期以降が本番ね
0398人間七七四年
2011/02/19(土) 01:58:47ID:ZSOVsefm滴石近辺での恩賞沙汰はごたついてるのが見て取れるし、比内から青森にかけては
曽我氏や成田氏などが健在で影響力を及ぼせなかったわけだし
南部氏の最盛期はやはり八戸南部時代ではなく三戸南部氏
ただし戦国時代ではなく、室町時代
つまり安藤氏を津軽から駆逐した時期が一番輝いていたと思う
でも、安藤氏の持ってた制海権は得られなかったんだよな
0399人間七七四年
2011/02/19(土) 02:15:28ID:OlwNMvyuあとその頃にちょうど八戸が田名部を領土にしてんだよな
0400人間七七四年
2011/02/19(土) 12:58:16ID:cTXtJoor> でも、安藤氏の持ってた制海権は得られなかったんだよな
安東水軍を吸収合併すればよかったのだが
それができなかったのは水軍にかかる経費を惜しんだんだろうな。
水軍はカネがかかるからな。
0401人間七七四年
2011/02/19(土) 13:58:43ID:PMjwchsUhttp://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2011/20110213140726.asp?fsn=eb33f76037153e93cde084f7e7644d6f
写しみたいだけど、津軽で見つかったのは初めてらしい。
0402人間七七四年
2011/02/19(土) 14:55:58ID:VWrb8Ije吸収合併したかったから師季を傀儡立てたんだけど、逃げられた訳で
やり方が下手くそだったった感は否めないが
0404人間七七四年
2011/02/19(土) 16:04:46ID:QzXiFFR8安東師季は元々後潟安東氏の人で、
本家の下国安東氏が津軽から追い出された頃南部氏の捕虜となった。
その後南部氏に仕えて田名部に所領を与えられている
安東太政季の名乗りは南部氏の配下として田名部に知行した際に名乗った名前
その後下国安東氏の直系が絶えた後、下国安東氏を再興して南部から離反、
後の蠣崎氏の先祖となる武田信広らと共に蝦夷地へ出奔するわけ
0406人間七七四年
2011/02/19(土) 18:03:06ID:BrL3TNOeそれってだいたい年代はどのくらいと思われるの?
0407人間七七四年
2011/02/19(土) 18:54:56ID:lgtcD5m8【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288120313/93
93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/19(土) 14:50:15 ID:BrL3TNOe
北条厨無知過ぎて参加できずw
【どちらが】織田信長 vs 北条氏康 【民政家?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/316
316 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/19(土) 14:53:56 ID:BrL3TNOe
北条すげー悪政ワロタ
【武田完勝☆】三増峠の戦い【北条涙目wwww】
624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/19(土) 14:56:03 ID:BrL3TNOe
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1194134285/624
小田原フルボッコされたのに涙目で勝利宣言してたら駿河まで失いましたw
0408人間七七四年
2011/02/19(土) 19:02:52ID:hesS1z3n領土で言えば南部晴政の頃が最盛期だろ。
今の青森県全域と傘下に収めた斯波も入れれば、
岩手は盛岡から上だし、鹿角郡も領有してた。
0409人間七七四年
2011/02/19(土) 19:20:21ID:FTW6DiQN0411人間七七四年
2011/02/20(日) 16:09:30.32ID:DsTbaEQ4引き上げたとも言われてますが実際のところはどうだったんでしょうか?
0412人間七七四年
2011/02/20(日) 20:32:22.19ID:gcWdXMzw威力偵察だったかも。
0413人間七七四年
2011/02/20(日) 20:33:46.81ID:vSD8RyRB実際には無かったんじゃないかって説もある。
あの時代に大軍を八甲田越えさせるのは
難しいんじゃないかと考えられている。
秋田へ行くんなら途中に村もあるし手引きの者も容易に得られるけど、
津軽はそうもいかない。何てったって途中大軍が宿営可能な
村なんてないし。
0414人間七七四年
2011/02/20(日) 20:56:17.50ID:xafK5dXp津軽の史書が正しいなら、当時の浅瀬石は敵中のど真ん中じゃない
実際敗走は敵中突破になったみたいだし
そんなリスキーな作戦せず、
順当に街道通って七戸方面から外ヶ浜奪還したほうが補給的にも楽だろうに
0415人間七七四年
2011/02/20(日) 22:20:57.52ID:DsTbaEQ4北から進攻するにしても外ヶ浜を通らないとならないですし、
南から進攻しても石川城を通らないとならない。
あり得ないですね。これ。
0416人間七七四年
2011/02/20(日) 23:33:48.26ID:vSD8RyRB補給的な事を考えるなら外ヶ浜よりも
鹿角を通っていった方が楽。
当時の街道としては安代→鹿角→碇ヶ関→弘前
のルートが最もメジャーと考えられる。
>>415
恐らく何らかの合戦はあったと思われる。
それを面白く脚色したのが宇杭野の合戦だろうね。
戦国時代では馬頭楽しくもない。
0417人間七七四年
2011/02/20(日) 23:34:54.30ID:vSD8RyRB0418414
2011/02/21(月) 00:14:04.33ID:0IqifH0R石川城落ちた時も八戸の軍勢が鹿角から大鰐通って進軍してるしね。引き返したけど
ただ、攻撃されたのは外ヶ浜の油川なわけで
(横内については津軽側に史料の作為があって、この時は落ちてないらしい)
奪還するなら当然外ヶ浜に向かうのが自然なわけで
その意味で七戸方面〜って書いた。浅瀬石を目標に選んだ南部の作戦意図がわからんなぁと
0420人間七七四年
2011/02/22(火) 00:30:52.97ID:hQcjFMMD戦国時代でも雫石仙北間はちゃんと軍が通ってたんだから。
0421人間七七四年
2011/02/22(火) 08:47:32.16ID:ElQybVkF不可能ではないのかもしれないが、でも難しいのではないだろうか?
0422人間七七四年
2011/02/22(火) 22:58:49.31ID:/e+xMSDCこの当時の八甲田山はマタギか修験者くらいしかいないだろ。
古くからある秋田街道と同等に語るのは間違ってるから。
0423人間七七四年
2011/02/22(火) 23:53:20.63ID:hQcjFMMD酸ヶ湯や蔦温泉は戦国期前から知られてるので、
それなりに道があってもおかしくはない。
0424人間七七四年
2011/02/23(水) 14:03:49.22ID:F+ouE4Rz0425人間七七四年
2011/02/23(水) 16:58:54.05ID:cPmdIvZ60426人間七七四年
2011/02/23(水) 17:04:16.61ID:C2tI/n2c0427人間七七四年
2011/02/23(水) 19:47:10.91ID:pcFD85Bm無理っぽい気がする。というか途中で遭難する。
0428人間七七四年
2011/02/24(木) 07:26:46.17ID:4UrHwTE2それだと伝法寺から西へ月日山の南を通り、十和田湖の手前で北へ転じて
焼山から石倉岳の南を通り再び西へ向かい、酸湯へ出て中野川渓谷沿いにそって山を降り
大河原・黒森山麓を抜けて宇杭野に着く――ってルートみたいね
地元民じゃないからどのくらい険しいから分からんけど
今は道路通っているくらいだから、通れないことはなかったんじゃなかろうか
ただ三千人の軍となるとわからんな
0429人間七七四年
2011/02/24(木) 20:26:59.24ID:JouZUxOX補給と撤退の概念が最初から全くないwww
0430人間七七四年
2011/02/24(木) 20:35:15.00ID:RMlYz0kn0431人間七七四年
2011/02/24(木) 22:07:56.19ID:x3zDeszz0432人間七七四年
2011/02/24(木) 22:43:25.81ID:KvGtyP+C八戸
九戸
中野
喜多
大浦
津軽
松前
蠣崎
0433人間七七四年
2011/02/24(木) 23:22:03.53ID:uMpqpVhC当時は八甲田に街道はないし道無き道を鎧着て刀と槍を抱えながらの
行軍は流石にあり得ないかと。
0434人間七七四年
2011/02/25(金) 10:02:54.90ID:/Q7mBjdB0435人間七七四年
2011/02/26(土) 22:44:11.96ID:5VrzS94V楽だし早いんじゃないかな?
示威行為と言っても鹿や熊に見せつけても何の意味もない。
0436人間七七四年
2011/03/15(火) 21:32:04.54ID:rhKAqTbZ古い町ってのは意外と被害が無いもんだね。
0437人間七七四年
2011/03/16(水) 06:21:47.61ID:77ei1Sxd0438人間七七四年
2011/03/16(水) 07:12:01.16ID:NAarcNw6漁業施設とか工場が多い割には
人的被害が宮城、岩手、福島より小さいのが驚いた。
0439人間七七四年
2011/03/16(水) 08:30:09.35ID:NG4UmFhz0440人間七七四年
2011/03/17(木) 07:16:32.35ID:HjrQbRCI離れてるって訳じゃないのに被害が少ない理由が分りました。
0441人間七七四年
2011/03/17(木) 22:06:25.46ID:ggj78Bu3上北郡、三戸郡、二戸郡、岩手郡といった昔の有力者が住んでた郡は災害に強いよ。
建築技術が今より圧倒的に低いからだけどな。
0442人間七七四年
2011/03/17(木) 22:24:03.37ID:XYxLA4b5弘前〜青森〜八戸〜三戸〜九戸〜盛岡〜花巻遠野あたりを
ひたすら城をめぐりニヤニヤしつつ
変な土産買ってせんべい汁食べて
弘前城と小岩井農場の桜を見て新幹線乗って帰ってくる
そういう旅行がしたい
0443人間七七四年
2011/03/18(金) 12:40:36.42ID:ASY2sVx00444人間七七四年
2011/03/18(金) 20:06:18.43ID:bYJY+sNd0445人間七七四年
2011/03/18(金) 20:48:23.75ID:mjb15I+H0446人間七七四年
2011/03/19(土) 00:20:38.87ID:eqfPC1BH高信の長男なのに、晴政婿養子の話が出るまで
母方の実家に放置プレイの信直
南部一族じゃない新参者だから?それとも勢力が小さかった?
0447人間七七四年
2011/03/19(土) 01:18:47.68ID:3+hH/sJw有力だけど大きいってほどではないね。
高信の時代に取り込まれた新参だし、元は安東系っていうのも影響あったのかも。
0448人間七七四年
2011/03/19(土) 12:44:08.49ID:xNPACls2本当かは疑わしいけどな。
0449人間七七四年
2011/03/19(土) 15:19:12.46ID:RVeITx5Sでなきゃ信直生まれねえw
0450人間七七四年
2011/03/19(土) 16:23:22.63ID:8AnKTHi5今のところ分かってるのは田子城が本拠地で石川城には群代と入ってたことくらい。
0451人間七七四年
2011/03/20(日) 08:56:35.95ID:OE2Feb5J治めてたのはせいぜい南津軽郡くらいなんで
郡代と呼べるほどではないかと。
0452人間七七四年
2011/03/20(日) 15:01:02.71ID:J8iRBhc+クワシク。
0453人間七七四年
2011/03/20(日) 16:23:18.63ID:pzPFboIsそうか? 確かに当時の津軽はご存じ、北畠に大光寺・大浦その他豪族が割拠する地域で、
高信個人の所領はせいぜいそれと同等程度で相対的にはそれほど大きくない。
ただ高信が津軽方面の南部勢力の元締め(つうか豪族達の頭を押える要石)であったことは確かで
その役割の重要性って意味で、個人的には郡代って呼ぶのもあながち間違いじゃないと思うが。
南部で郡代が置かれんのって統治の危うい占領地だし(北信愛の和稗地域とかな)
0454人間七七四年
2011/03/20(日) 19:44:11.73ID:OE2Feb5J郡代ってのは1カ国かそれ相応の石高を有する
領域を支配する役職の名称だと思うんだが。
当時北津軽は朝日氏、外ヶ浜を含む青森市は浪岡北畠氏がいて
彼らは南部の支配下にあったわけじゃない。
あと郡代を名乗るには大浦氏や千徳氏と比べても
直轄で支配してた地域が大差ないのもどうかと思う。
0455人間七七四年
2011/03/20(日) 21:18:17.70ID:RnQvBNte直接支配している領地だけでなく、大浦や大光寺なんかは(もちろん名目上でしかねえけど)
南部の旗下にあり、北畠なんかもある程度南部の介入を受けている立場にある(朝日は知らね)
どの諸氏も南部の出先機関である石川の支配にある程度は服しているわけで、
その意味で郡代と言っても問題ないと思うんだがな。もちろん内実はアレでも。
0458人間七七四年
2011/03/21(月) 04:14:17.71ID:nItLbXAn北畠氏にしろ千徳氏も大浦氏も真っ先に小田原参陣しそうだし。
0459人間七七四年
2011/03/21(月) 08:41:59.55ID:hDEitM41岩手県立博物館が一番無難ですか?
0461人間七七四年
2011/03/21(月) 09:18:36.18ID:hDEitM41広範囲ですが、南部家の総合的な資料館みたいなものは無いのでしょうか?
青森の管轄になるのかな?
余談ですが、僕は秋田なんですけど今の今まで南部屋敷って名前の歴史資料館が岩手にはあると思ってました。
でもあれはただのウドン屋なんですね。
0462人間七七四年
2011/03/21(月) 09:47:08.00ID:lzvfAJ27和賀稗貫のように小田原不参加っていうのも意外とありそうだけどなー。
為信・信直は危機感があったからこそあれだけ素早く動けたわけだし。
北畠は予想がつかん。
0463人間七七四年
2011/03/21(月) 12:19:33.82ID:mMxAcoGS北畠は安東家のからみもあるし、案外あっさり独立するかもね
千徳はどうだろう? 自身は為信の同盟者のつもりだったみたいだけど
小田原参陣の時は何も行動起こしてなかったっぽいし、
当時の当主にその器量があったとも思えんが。位置も内陸だし
>>461
南部家単独の総合的資料館ってのはないと思う
青森は八戸市博物館が比較的南部氏の展示物があるって聞いたことはある
0464人間七七四年
2011/03/21(月) 14:24:18.53ID:hDEitM41サンクスです。
南部ほどの大名ならそういうのあっていいのにな・・・。
中規模だけど、佐竹ですら専用の資料館が秋田にはあるのに・・。
0465人間七七四年
2011/03/21(月) 17:36:39.76ID:2TbT7HSB八戸南部みたいに上手いこと言いくるめられたんじゃない?
「俺の留守を任せれるのはお前だけだ」とかなんとか。
単に想像だけど。
0466人間七七四年
2011/03/22(火) 22:33:01.76ID:Tr7jMuin岩手なら岩手県立博物館がある。夏くらいに「もりおか歴史文化館」てのも開館するそう
>>464
佐竹ですらって、結構でかい家だしょ
0467人間七七四年
2011/03/22(火) 22:51:42.96ID:ljIti5Rz『南部氏』ってくくりの博物館は作りにくいんじゃない?
0468人間七七四年
2011/03/23(水) 18:13:59.87ID:3BOrzQ8P博物館開けるほど物がないんじゃないか。
0469人間七七四年
2011/03/23(水) 19:46:04.14ID:7cSY+cYz和賀稗貫阿曽沼は行きたくても行けなかったのが実情だろう。
当時は東回り航路はまだ無かったんで
小田原行くには陸路を南下するしかない。
南部信直が陸路で向かう時に1000騎率いたというのも
それくらいの軍勢がいなくては陸路で向かうのは難しいから。
国元に守りの為の兵力を残しつつ1000騎近い
軍装の兵を連れ陸路で小田原に向かうのは和賀稗貫には無理。
0470人間七七四年
2011/03/24(木) 12:25:05.28ID:I/9G97Ou南部は絶対無理だから仕方ないけど。
0471人間七七四年
2011/03/24(木) 14:55:39.04ID:gEd3IRp/地域を制圧したというより、要地を占領したということかも。
0472人間七七四年
2011/03/25(金) 19:11:42.53ID:YMkjx09J一揆数が最多だったのに不思議な感じがする。
幕府のお手伝いでそれすらままならない藩が多いのにね。
0473人間七七四年
2011/03/25(金) 21:38:27.67ID:dcjD8KUg徳川幕府は草創期から島津や毛利や伊達を警戒していたが
南部は警戒されていないかったみたいだな。
0474人間七七四年
2011/03/25(金) 22:37:41.33ID:EmoM5w+j九戸の乱でリストラが自然と行われたからな。
あと和賀郡・稗貫郡・閉伊郡に関しても元々そこにいた
有力者やそれに準じる勢力を抱えず直轄で支配出来たことも大きい。
その逆が伊達や毛利。伊達藩は譜代の数が多すぎた為
藩の石高は高かったけど藩そのものにはそれ程収入が入らなかった。
毛利はそれ以上に悲惨。100万石から20万石に減封されたんで
少々のリストラじゃ間に合わず領内に重税を課した為に
山代慶長一揆まで起きてしまった。
0475人間七七四年
2011/03/25(金) 23:11:42.01ID:V24GJ6peあと江戸初期の南部藩は超がつく金満藩だからね。
特に白根金山が見つかってからは、後に『富貴諸侯に冠たり』なんて語られるほどの金を持っていた。
飢饉の時金で米買いまくって殆ど死者出さずにおさめた、なんて後の南部藩士が聞いたら泣いて羨むようなことまでしてるし。
あと南部藩の一揆が急増したのは寛政以後。江戸初期の南部藩をそれ以降と一緒にしちゃだめだよ。
0476人間七七四年
2011/03/25(金) 23:20:00.41ID:HjXwUhn9伝統技術の南部銅のやかん欲しいわ。
いい仕事してるわ
0477人間七七四年
2011/03/25(金) 23:36:25.20ID:BBnWNt3Pttp://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201009060087.html
時の流れは残酷である。津軽、南部両藩がロシア相手に大友宗麟の「国崩し」で戦う(文化露寇)が戦意喪失で逃走。
0478人間七七四年
2011/03/26(土) 06:20:30.09ID:B03ELx3bまあそれでもリストラし足りなくて、利直が浄法寺を改易したり
阿曽沼を家臣の謀反で追放したり、八戸南部を遠野に移封したり
息子の重直が家臣召し放ちしたりしてさらなる権力の確立を目指すんだよな
0479人間七七四年
2011/03/26(土) 17:05:09.95ID:mI3m+CB7利直は北氏すらおさえてるからねー。
戦国末期の南部は内紛で地獄見ただけに、利直もだいぶ厳しくやったね。
0480人間七七四年
2011/03/26(土) 18:56:19.78ID:I8k67ZDW初期の南部藩もキツキツの財政だったかもな。
九戸氏、七戸氏は応分の知行を与えないとならないだろうし
それ以外にも九戸についた家の所領も没収出来ないだろうから。
0482人間七七四年
2011/03/27(日) 06:58:26.11ID:xbBpZODM新しい領土手に入れたと言っても、和賀稗貫の旧臣(あと葛西系も)雇ったりしてたし
直轄領も増えたけど重臣の領土も増えたわけで
相対的には大名権力が強くなったわけじゃないからねえ
信直は領内の安定を優先したのかその辺手つかずで残したから
利直が粛清を行うのはある意味必然だったんじゃないかな
0483人間七七四年
2011/03/27(日) 08:47:01.93ID:YxlyQmnh> 利直が粛清を行うのはある意味必然だったんじゃないかな
それで揉めると幕府が介入してくるリスクはあったのではないか?
0484人間七七四年
2011/03/27(日) 09:07:51.40ID:xbBpZODMうん、だから浄法寺のように戦場離脱という正当そうな口実で改易したり
阿曽沼みたいに最上領に置いといて、留守の隙にすみやかに占拠させてるわけだし
潰す時はかなりタイミング見計らっていると思う
信直の時は九戸戦後の平和な時だったから、潰すきっかけやミスがなかっただけかもね
0485人間七七四年
2011/03/27(日) 09:16:57.84ID:k6K+1pMCでもやり過ぎじゃね?
そこまで家臣のリストラをする必要あったのかは疑問だと思うが。
0486人間七七四年
2011/03/27(日) 09:55:44.26ID:xbBpZODM関ヶ原の時点で南部には千石以上の大身が29人いたとされていて
しかもそいつらだけで七万石以上の領土をもっていたそうだ
それら大身を押さえて大名としての独裁権を確立するには
自分の自由になる領地をどうしても捻出しなければならなかったんじゃないかな
そんで削るとなれば外様からしかないわけで
外様という不安要素を取り除くという面から見ても
リストラは不可欠だったんじゃないかな
0487人間七七四年
2011/03/27(日) 15:10:57.72ID:xwoLZStd開拓の費用を捻出するためにもリストラは必要不可欠だったろうな。
0488人間七七四年
2011/03/27(日) 22:21:44.70ID:k6K+1pMCそれにしてもやり方が酷い気がする。
特に八戸南部に関しては当時の藩港を抱えてた
地域を召し上げたり加増もなしで遠野に移封したりと
信直時代あれだけ世話になったのにそれはないんじゃないかと思うんだが。
0489人間七七四年
2011/03/28(月) 07:37:25.33ID:nLK4p1vrただ、当時の遠野は城代政治の失敗で治安が極度に悪化していた
伊達との国境にあり、領内有数の産金地帯でもあった地域が不安定だったわけで
そういった重要な地域を立て直すからには誰でもよいわけではなく
利直は八戸をある程度信用していたからこそ遠野に移封したんでしょう
彼としては小友金山などもある、価値ある土地を替え地としたつもりだったかもしれないよ
もちろん八戸を、盛岡の完全な統制下に置く意図がなかった、とは思わないし
元は同格の意識がある八戸側からすればたまったもんじゃないと思うだろうけどね
0490人間七七四年
2011/03/28(月) 19:34:18.05ID:5Nk8yVfG0491人間七七四年
2011/03/29(火) 10:29:37.75ID:VyluLWy7田名部は対外交易用の重要港だし、藩港と言おうと思えば言えるんじゃない?
0492人間七七四年
2011/03/29(火) 14:26:44.52ID:lE8NuzYH家康の上杉征伐のために山形に南部軍に従ってやってきていたが
ひそかに政宗&和賀に内通していた為に
和賀一揆で南部軍が山形から急ぎ帰る時に
「はぁ?和賀が反乱?俺にはまったく関係ねーしw」と言い放つが
自分の留守中に居城を任せてた家臣が裏切り南部へ降伏したので伊達領に逃走。
0493人間七七四年
2011/03/29(火) 18:32:28.22ID:6Zd+3lSm南部藩は南北に長いから特定の藩お抱えの港はなかったんだと思う。
八戸藩が成立するまでは八戸港がその役割を果たしてたけど
別藩になったもんだから自前でなんとかする必要に迫られ各港を増強したんだと。
0494人間七七四年
2011/03/29(火) 21:22:43.98ID:pEFaANH7宮古は藩港というよりは秋田、津軽、蝦夷から江戸に
物資を運ぶ経路にある中継港として栄えていた。
0495人間七七四年
2011/03/29(火) 22:04:07.38ID:dRKmjxWy0496人間七七四年
2011/03/30(水) 00:10:57.37ID:X59qXwgq今回だって出来るよ、他の街もね。
0497人間七七四年
2011/03/30(水) 04:28:51.73ID:6KWdQtvA昭和歌謡ファン 乙
0498人間七七四年
2011/03/30(水) 23:41:38.22ID:kO+mdgFvもう少し捕捉しておくと大阪などの上方から
物資を輸入するとき使用されていたのが
野辺地をはじめとした北郡の港と宮古。
0499人間七七四年
2011/04/01(金) 20:22:23.65ID:pjRwt4L6よく分らんが石巻港だって伊達藩なんだから
八戸港だって普通に使ってたんじゃない?
0500人間七七四年
2011/04/01(金) 23:29:22.50ID:bHs7S9ho0501人間七七四年
2011/04/21(木) 00:08:53.08ID:x2gHniFJこの行為は惣無事令違反ではないのでしょうか?
0502人間七七四年
2011/04/21(木) 08:13:34.65ID:AP+4sV+T本来惣無事令違反ですが、不問にされています
南部氏は秀吉政権が出来た後、北奥でいち早く臣従を表明した貴重な勢力なので
それに一定の配慮をしたものと思われます
0503人間七七四年
2011/04/21(木) 19:49:40.68ID:ZjOcZ7Sd惣無事令違反はもちろんその後の九戸の乱でもお咎めなし。
佐々成政、村木親子、伊達正宗と比べて破格の処遇。
0504人間七七四年
2011/04/21(木) 23:44:48.15ID:x2gHniFJやっぱり違反だったんですね。
中央政権から多めにみてもらったと。
>>503
確かに挙げられた人たちに比べれば優遇されてますね。
でも太閤蔵入地くらいのペナルティは受けてもよさそうだと思いますが
そういったペナルティすら受けなかったのは何故でしょう?
一応所領が安堵された津軽氏、安東氏は蔵入地という罰則があったのに。
まして九戸の乱を自力で鎮圧出来なかったのに・・・
0505人間七七四年
2011/04/22(金) 01:25:13.09ID:e+sVq9ZU理由として言われるのは
・面従腹背も多い奥羽地域の中で一貫して豊臣政権を支持し、いわば『与党』と思われていた為
・津軽を潰すはずだったのに結果として反故にした秀吉側の遠慮から
・去就がはっきりしない伊達への対抗上
てなところでしょうか
九戸に関しては、和賀稗貫一揆で浅野重吉を救出するなどで得点を稼いでいますし
第一次の奥州仕置以前から『叛徒はちゃんと処理するから』と
既に言質を取っていた様子もうかがえるので
豊臣方は九戸の叛乱をペナルティにする事はあまり考えてなかった
(もしくは出来なかった)んじゃないかと
0506人間七七四年
2011/04/22(金) 06:51:09.58ID:eg5FQ8QS利家は蒲生らとも仲がよく名護屋でも津軽や安東や伊達を虐めてるが南部は安泰。
0507人間七七四年
2011/04/22(金) 07:29:41.53ID:0ANsep/m秀吉に叱られるどころか「よく来たよく来た」と羽織を手づから着せてもらって
「国許が大変なんだろう?」とさっさと帰国させてもらってる
おまけに反乱鎮圧してもらったらいつのまにか領土が増えてる
0508人間七七四年
2011/04/23(土) 00:43:22.28ID:0TT4EGfa中央への接近ということでは安東氏が
北東北で最も先駆けてたはずなのに
いつの間にか南部に追い抜かれていたのが不思議。
奥羽では最も早く侍従の官位を信長を通し受けていたはず。
0509人間七七四年
2011/04/23(土) 01:49:04.23ID:dwDR/2M2懇意にしたからだろうな。恐らくトッシーを選んだのは北信愛。
0510人間七七四年
2011/04/23(土) 02:57:28.30ID:15+74tS+まあけど結局愛季死んで湊合戦起こるから同じことか…
南部はやはり接触のタイミングが良かったんだと思う
0511人間七七四年
2011/04/23(土) 19:40:02.29ID:tf1R27Ck0513人間七七四年
2011/04/29(金) 23:28:45.35ID:meBGA2jnそりゃあ本来なら仙台どまりのはずの新幹線を
盛岡まで引っ張ったり、熊しか乗らないって揶揄された
鉄道を敷いたりしてるからなwww
0514人間七七四年
2011/04/30(土) 08:28:05.45ID:jxxRZULE0515人間七七四年
2011/05/06(金) 23:41:43.94ID:t3WtJ571なぜ救援に行かなかったんでしょう?
郡代が襲撃を受けていたら我先にと駆けつけるのが普通だと思うのですが…
北畠はともかく大光寺、堤、奥瀬といった有力者が動かないのが不自然な気がします。
0516人間七七四年
2011/05/07(土) 02:44:20.77ID:GtTEaisL理由はいろいろ考えられると思うけど
この時期糠部は三戸のお家騒動でぐっちゃんぐっちゃん。高信がどういう態度だったかは知らんが、晴政との関係はかなり微妙になっていたと思われる。
晴政と為信に密約があったとまでは言わないけど、情報が入りにくい小さな家は余計に動きづらかったのでは。
0517人間七七四年
2011/05/07(土) 08:31:26.46ID:lXHxfOHy救援しようにもその余裕すらなかったでしょ
0518人間七七四年
2011/05/07(土) 17:33:49.56ID:cJvMqul4仮に長引いても救援はなかったと思うけどな。
0519人間七七四年
2011/05/07(土) 23:02:50.39ID:qWeJR2Zc確かにすぐそばの大光寺氏が向かわなかったのも
それなら納得です。
>>518
Wikiにもそういう意見がありましたけど
どういった根拠で郡代ではないと言われるのでしょうか?
0520人間七七四年
2011/05/08(日) 00:12:54.24ID:2Hjx6YQv救援がないってことはないでしょ。
郡代云々以前に大光寺は親南部だから、南部派の同盟相手である石川を見捨てることは多分ない。
戦いが長期化すれば、いくら糠部が荒れていても八戸あたりが援軍を出すだろうし(史実でも討伐軍出してるし)
千徳あたりは微妙だけど、あそこはもとは石川の家臣格だったから
石川が潰れなければ為信と対決姿勢を取った可能性は高い。
0521人間七七四年
2011/05/09(月) 20:25:51.32ID:pXnv+ojN津軽地方の南部系有力者の多くが八戸南部なので
三戸南部の石川氏が郡代というのもおかしな話。
あと石川氏が直轄で支配していたのは石川城近郊だけなのも理由の一つ。
>>520
八戸氏が向かったのは大光寺をはじめとした八戸系の
有力者の為でしょ。
0522人間七七四年
2011/05/10(火) 07:36:50.61ID:A5yrqXxNこの頃三戸が津軽で勢力を伸ばしたのは事実
三戸が南部の主導権を握っていく過程で、津軽に勢力を拡大し支配を強化しようとし
その一環として石川高信を郡代に任命してもなにもおかしくないでしょ
あと高信のバックには千徳などの一戸系もついていた。七戸系も津軽には多く、八戸はこの頃の津軽ではむしろ退勢気味
大光寺は八戸系じゃない。系譜的には三戸だし、むしろあれは堤系と言うべき
八戸との関係はそれほど深くない
よしんば八戸が自勢力の為に出兵したのだとしても、石川が生きてても普通に出兵して協力するでしょ
大浦領を奪えばさらなる権益の拡大になるし
0523人間七七四年
2011/05/10(火) 20:07:31.58ID:fPe+weUEあと堤系って何?初めて聞いたんだけど。
0524人間七七四年
2011/05/10(火) 20:58:37.59ID:A5yrqXxN代を経てその一族が大光寺に移ったのが大光寺氏の始まり
そこそこの独立勢力だし、血統的に一緒だから堤氏と大光寺氏あわせて堤系ってことらしい
普通に大光寺系と言ってもいい気もするけど
0525人間七七四年
2011/05/10(火) 21:09:14.68ID:A5yrqXxN× 横内の堤ヶ浦城を領して津軽郡代となり
○ 横内の堤ヶ浦城を領して津軽郡代となり、堤氏を名乗った
0526人間七七四年
2011/05/10(火) 23:54:01.98ID:fPe+weUE0527人間七七四年
2011/05/11(水) 01:31:20.81ID:ocw2qLAH郡代の変遷についてはぶっちゃけよくわかってない
明応7年(1498年)から光康以後、1〜2代位は津軽郡代をやっていたらしいけどさだかじゃない
天文2年(1533年)の津軽の叛乱以降は、その討伐の功で石川高信に変わっている
南部の史料だとこの後石川政信→楢山帯刀・南右兵衛尉と続く
郡代職は必ずしも世襲ってわけでもないっぽい
0528人間七七四年
2011/05/13(金) 21:42:17.83ID:0WobU9Vl戦国時代では系譜はあまり意味をなさないよ。
それと七戸氏は八戸南部の重臣。
大光寺氏に関しても比内へ南部勢を手引きした際には
八戸南部を通して行ってるんで
三戸南部よりは八戸南部に属した家だと思われる。
0529人間七七四年
2011/05/14(土) 07:12:55.14ID:cvi+UtcI大光寺の出自について異説は六説ほどあるそうだけれども、そのどれもが八戸とは関係ない
一族に箔をつけるために系譜上で主家と縁続きに改竄するのはよくやられることだけど
大光寺が元来の本家である八戸との縁を隠す必要性はまったくない
少なくとも大光寺家自身が、自分達は八戸とは縁がないと考えていたってことでしょう
あと七戸は重臣じゃない。いかに分流であっても、この当時は既に独立勢力
九戸の乱の際に七戸の大方が九戸方に付いたように、八戸と足並みが一緒だったわけじゃない
むしろ勢力としては九戸との関係のが深い
大光寺の比内占領が八戸南部を通して行っているってのは初耳なんだけど、何の史料に載っているか教えてくれない?
大光寺は五十目秀兼と共謀して大館占拠したあとは、普通に信直自身に注進して南部軍を誘い入れているはずだけど
0530人間七七四年
2011/05/15(日) 11:29:45.47ID:tL26PFTIあんな遠くまで(車で4時間)かかるとこまで行くくらいなら
閉伊や紫波辺りの方が近いし実入りもいいと思うのに。
0531人間七七四年
2011/05/16(月) 03:24:59.62ID:iQZ0phzMあと津軽は沿岸交易の利益もあったからそれの維持もしくは奪取を狙ったんじゃないかとおも
0532人間七七四年
2011/05/16(月) 20:56:32.69ID:KeO992xe本当に行ったかどうかはわからんけどね。
七戸や浄法寺あと堤といった勢力が動かずに根城南部が
向かうというのも不自然な話だから。
0533人間七七四年
2011/05/17(火) 02:16:50.77ID:Rsa97vtoあと浄法寺は津軽に行くにゃ遠いし、堤は勢力が小さすぎて救援は二の足だったんじゃない?
比較的史料価値があるという永禄日記だと
『8月2日 南部八之戸殿此度石川大膳被打候を無念二被存、宿川原迄3000余騎押寄候処、九戸甲斐殿は八之戸留主を幸に、その城を乗取らんと相催候段聞候、八戸殿当麻より帰り候』
とあって、もちろんこれは伝聞だから完全に信じられるものではないけど、八戸が何らかの動きをしたのは信じていいと思う
もしくは津軽の史料だと討伐軍の主将は鹿角の瀬田石隠岐だから、鹿角勢が要請を受けて動いた、と考えることも出来る。鹿角は峠を挟んで石川とは近いからね
0534人間七七四年
2011/05/17(火) 23:44:54.46ID:uv5jghCk勘違いしてるみたいだけど浄法寺は鹿角のすぐそば。
根城南部より近い。それに浄法寺は
三戸、九戸、八戸に次ぐ大身。
0535人間七七四年
2011/05/18(水) 00:17:55.30ID:8cfBZWB8あと浄法寺領は浄法寺一円だけで他と違って津軽に利権持ってるわけじゃない。利権ないのになんで単独兵隊出さないかんの?
0536人間七七四年
2011/05/18(水) 00:23:25.21ID:8cfBZWB8誤 鹿角から近くても津軽へは鹿角一郡縦に挟んでるから
正 鹿角から近くても、津軽へ行くには縦長の鹿角を南北に横断しなきゃならないから
浄法寺街道って津軽に行くにはかなりの遠回りになる。少なくとも近いとは言えないよ
0537人間七七四年
2011/05/18(水) 00:32:52.22ID:8cfBZWB8それに南部とは別流の外様だから南部への影響力は深くない。津軽の騒動にほっかむりしても別に責められない。
0538人間七七四年
2011/05/18(水) 08:14:39.84ID:XV4xxpSo八戸よりは近いんだから、浄法寺が津軽に出ない理由を距離にしたのでは
説得力がないってことなのでは。他の意見はともかく
>>537
あと七戸もいれといて
為信蜂起の時三戸は分裂中で南部各氏の統率ができず
他の勢力も多くが津軽にかまけられる状態じゃなかった
だから津軽討伐軍は有志で行わざるを得ず、津軽に利権があり
かつ大浦に対抗できる八戸が主力になったってことでしょう
別に派遣先への距離が問題なわけじゃないと思う
0539人間七七四年
2011/05/18(水) 19:42:37.79ID:o8f8SrKx治めてたのは北郡と今の八戸一帯だったと思ったが。
0540人間七七四年
2011/05/19(木) 08:48:12.65ID:m2aiy29k土地というより交易路
西ヶ浜を支配する大浦の離反は、日本海航路へのアクセスを妨げる
田名部他の貿易で稼いでいた八戸にとってはわりと大きな問題
あと西ヶ浜は外ヶ浜の隣だから、外ヶ浜取られでもしたら蝦夷地貿易からも追い出される可能性があるし
海路下北半島に攻められるかもだし
0543人間七七四年
2011/05/19(木) 21:26:57.28ID:m2aiy29k田名部は戦国期当時から既にかなり大きな湊です。朝鮮出兵の時信直が蝦夷船作らせたりもしています
あと地味ですが下北半島のむつ市あたりも蝦夷交易の要所です
0544人間七七四年
2011/05/19(木) 22:47:43.58ID:1pVSjpwE0545人間七七四年
2011/05/19(木) 23:46:16.88ID:tcYk7srJ野辺地が港として発展したのは、油川なんかを津軽に取られて代替港として割り振られてからじゃなかった?
>>544
中泊町から深浦町あたりまでの青森県日本海沿岸と考えておけばいい
0546人間七七四年
2011/05/21(土) 21:25:00.08ID:iDBCDm4R七戸は古い遺跡から各地との交易を伺わせる
様々な調度品が発掘されてる。
それらを手に入れる港として野辺地が使われていたのは想像に難くない。
0547人間七七四年
2011/05/23(月) 23:39:17.02ID:bGCprsgg南部領内での六千石は大身でしょ。
石高で言えば北家以上。
あと比内進出時には浄法寺も参加してたし
実質的には南部家臣。
0548人間七七四年
2011/05/23(月) 23:55:33.59ID:tKdvKYtQ戦国時代で南部家はどのくらい兵力を動員することが出来たんでしょう?
石高のわりには多い気がするですけど。
0549人間七七四年
2011/05/24(火) 01:39:49.15ID:Z2xbiiRG大身であることも南部の風下にいたことも否定はしないよ、けど図抜けて大きいわけじゃなく、外様でもあるので相対的に発言力があったわけではないし
逆に諸勢力が割拠均衡する南部の政治情勢の中にいるのだから独立性が低かったわけでもない。三戸が晴政と信直で分裂中の時期ならなおのこと。規模は違えど九戸と同じだよ
あと比内の時には九戸勢も出ている(九戸を南部家臣とは言わないよね?)ように、三戸以外の諸勢力も相当数が参加しているから、半独立勢力の浄法寺が参加しても別におかしくない。各勢力が三戸の統制なくバラバラだった大浦蜂起の時とは比較にできないよ
0550人間七七四年
2011/05/24(火) 20:22:07.52ID:YZH00S7q安東愛季との鹿角合戦の時に出たのは1万余って聞いたことがあるから
それがひとつの目安になると思う
それでも南部の全兵力が動員された訳じゃないから、もう少し上積みはあるかと
関ヶ原や大坂の時の動員兵力って不可解かな?
確かに動員兵力については一万石250人とか100石につき3人といったことが言われるけど
関ヶ原の時はどの奥羽諸侯も一万石につき400〜500人を動員しているし
それほど変でもないと思うけど
0551人間七七四年
2011/05/24(火) 21:07:07.94ID:fInYyYfr八戸氏が津軽地方に兵3000を率いたとあるし
三戸氏も宇杭野の合戦で3000を率いたと言われてる。
恐らくどちらも単独での行動。
九戸氏に関しては参照できる資料がないけど三戸八戸を凌ぐ力があったとも
伝えられてるんで兵4000程度とすれば糠部だけで
1万をかき集めてある程度遠方まで行くことが出来た思う。
0552人間七七四年
2011/05/24(火) 23:02:43.00ID:uNjZkVH4あながち誇大広告ではないということですね。
どうして10万石なのに伊達の押さえなんて出来るのかが分からなかったものでして。
0553人間七七四年
2011/05/25(水) 07:33:40.86ID:DBnkB4Np伊達の押さえってのは南部だけでなく、南の蒲生上杉佐竹最上も含めてのことだろうからね
伊達は南進が基本だから、南部は後ろから圧力を掛けてればいいだけの立場
0554人間七七四年
2011/05/26(木) 23:09:05.70ID:wiaklH4cどちらも嘘くさいけどなwww
東氏の残雪が残る八甲田を超えたって話が論外なのはもちろん
根城八戸氏にしたって今でさえ八戸から
弘前行くには高速を使っても3時間くらいかかる。
仮に戦に勝ってその地域を得たとしても
守るにはあまりにも飛び地過ぎる。
0555人間七七四年
2011/05/27(金) 00:23:39.03ID:Ar7/QhS8十和田湖町史の上巻では、宇杭野へ到るルートについて現地調査を含めて検証されていて
それによると南部軍が現れた旧暦4月頃は今の5月頃初旬で、この時期の八甲田山中は残雪が残っているけど、圧雪によって堅雪状になっていて
行軍はむしろ楽であるそうだよ。また、ルートを検証するとどれも街道や古い旧道を通っていたり、現在の国道(103号や394号)とほぼ同じルートを通っていて
難所はあるけど進軍は可能、って結論してたよ。兵力については誇張があるかもだけど、嘘って断じられるものではないと思うよ
大浦攻めに関しても、大浦を潰せば反抗する勢力なんてほぼいないんだから、長期間兵隊を貼り付ける必要性なんてない
潰したら適当な人物を代官にして現地でやりくりすればいいだけ。必要なら大光寺の助けも得ればいい
それに飛び地というなら、糠部や閉伊郡のみならず、岩手郡や鹿角、津軽にまで氏族を広げている一戸氏もいるし、そこまで問題にならないでしょ
0556人間七七四年
2011/05/27(金) 21:36:41.58ID:ry5fyXmt宇杭野で不可解なのはルートだけじゃなく場所でしょ。
なんであんな津軽のど真ん中を狙ったのか・・・
落とせてもすぐに奪還されに来るのが確実なのに
後詰が難しいところを選んだ理由が見当たらない。
あと人選もおかしい。東氏は晴継派の人で
信直とは敵対してた武将。そんな人物に大軍を与えるのは理解に苦しむ。
0557人間七七四年
2011/05/27(金) 21:42:54.83ID:ry5fyXmt当時の大浦氏は北畠・大光寺と同じくらいの勢力だったので
潰すだけで長期間兵を滞在させないとならない。
0558人間七七四年
2011/05/27(金) 22:08:40.86ID:qrniYT1d2chだよ。ここ。
0559人間七七四年
2011/05/28(土) 01:42:22.90ID:WJc1/q53ここ専門板だし
0560人間七七四年
2011/05/28(土) 02:50:28.34ID:Hs8uh2pP晴政との抗争の時期とされていた、南慶儀の書状のひとつが天正十七年に年代比定し直されていて
そこの時期に当てはめると、明らかに横内(城)や浜口(外ヶ浜の通路)が天正十七年時点でも南部の手によって保持されていた様子がうかがえる
県史では天正十三年に陥落したのは油川以北のみで、津軽一統志などはストーリーを劇的にする為に、横内が落ちたのも十三年に押し込めたのでは、と指摘している
で、もしこの時点で横内が落ちていないなら、浅瀬石(黒石)を落とした後浪岡を陥落させれれば、外ヶ浜への道が通じることになる
ならば当時津軽の反南部勢力のひとつである浅瀬石千徳の本拠を、八甲田越えの強襲で叩き潰し、その後浪岡を占領して、いままでの失地を一気に回復する、という作戦も
確かにリスキーだけど、わからないほどの作戦じゃない。当時の浪岡にはそれほどの戦力は置かれていなかったはずだし
東氏は晴政との抗争の時には反信直派だったけど、家督相続の時は最終的に賛成派に回っているし不思議じゃないよ
むしろ東氏自身が忠誠を示す為に志願した可能性だってある
大浦の兵力は為信自身が石川を叩く前に動員したようにだいたい千。三千の大軍で攻めれば、うまくいけば一会戦で倒せる
もちろんそううまくいく可能性は低いとは思うけど、大光寺も巻き込めれば兵力差はもっと広がるし、八戸がそれを狙ってもおかしくはない
0561人間七七四年
2011/05/28(土) 03:03:11.99ID:Hs8uh2pP誤 浪岡を陥落させれば、外ヶ浜への道が通じることになる
正 浪岡を陥落させれば、南部が保持していた外ヶ浜東半地域への道が通じる、という事になる
0562人間七七四年
2011/05/28(土) 18:42:43.71ID:RqXbhkHP普通七戸→青森→浪岡→黒石だと思う。
0563人間七七四年
2011/05/28(土) 21:13:19.12ID:KdVpD1xx常道ならそうだろうね。けど街道から順繰りに進んだら津軽に兵を集める猶予を与えることになる。南部もさすがに同程度の兵力との衝突は自信がなかったんでしょうよ
あと南部の浅瀬石に対する過小評価もあったんでないかと思う。浅瀬石の兵力は千に満たなかったから、すぐ倒せると侮っていたんでしょう
結果は民衆まで動員した予想以上の抵抗で敗北。はっきり言って南部の作戦失敗だわな
0564人間七七四年
2011/05/29(日) 08:59:07.18ID:e0s8W+bdすぐ傍に九戸氏がいるのにあまりにも無謀すぎる。
それに志願したとしてもそれまで敵対してた人物に
三戸氏が動員できるほぼ全ての兵を与えるのは信じがたい。
あと鼻和郡は広いので数か月でましてや
一回の進行で全域を制圧するのは無理。
>>562
七戸家国は九戸政実の妹を正室にするなど
反三戸的な動きが目立つのでそのルートは使えなかったと思われる。
だからこそ無謀な八甲田超えなんて話が語られるようになったかと。
0565人間七七四年
2011/05/29(日) 13:48:16.33ID:iBjJTCdL昔は野望にも出たりしてたようだけど。
0566人間七七四年
2011/05/29(日) 21:03:49.04ID:63QF9JUl九戸の押さえは八戸氏にやらせていたと考えれば無謀ではない。大軍を出す以上留守の手当ても当然してたでしょう
信直が八戸政栄に、三戸に屋敷を構えてほしいと願い、八戸が三戸の準家臣化したのもこの頃だったはず
信直の家督相続後に東氏が冷遇されたという話は全くない。むしろ参考諸家系図の孫(息子?)の東直義の項には「専ら国家の大務を掌る」とも書かれていて、重用された様子すらある
為信の勢力元は大浦周辺と鰺ヶ沢町あたりに集中しているから、そこらへんさえ抑えれば、残りの勢力は調略なりすればいいだけ
為信さえ討ち取れば後はゆっくり進むなり代官に任せればいい。全域を完璧に支配する必要はない
0567人間七七四年
2011/05/29(日) 22:36:54.58ID:iBjJTCdLっていうかあんたら歳幾つ?かなりマニアックなようだが(笑)
0568人間七七四年
2011/05/29(日) 22:42:30.24ID:Gp7h2G+b七戸氏について調べた本だと、平内(小湊)から野辺地・下北半島の横浜に田名部の一部の陸奥湾沿岸部
それから七戸周辺から現十和田市の奥入瀬川北岸におよぶ地域を領していたと考えられる
ただ七戸氏は系図が混乱していて、七戸家国などの本系とは別の系統の存在も見聞されていて
当時の本家が何処まで領有していたかは定かじゃない
0569人間七七四年
2011/05/29(日) 23:49:47.44ID:iBjJTCdL面積だけなら南部家中でかなりの領域なんですね。
0570人間七七四年
2011/05/30(月) 01:19:26.40ID:pmvVaOjNだって南部も津軽も史料が少なすぎる上に捏造や省略が多いから、推測するしかないもの。新史料がどっかから発掘されないか、切実に思うもの
ちなみに俺は566だけど、あなたが思うより多分若いよ
0571人間七七四年
2011/05/30(月) 20:47:58.85ID:4GSRHiVXどこまで他人任せなんだよ。
秀吉の元に参陣したときも連れて行ったのは1000人で
それ以外は地元に残らせてる。
それと九戸も晴政晴継が存命中の頃は三戸に屋敷を構えていた。
あと東氏が冷遇されてたとは言ってない。
ただ寝返って間に無いのに大軍を与えるのは不可解と言ってるだけ。
石川城を奪い大浦城を落とし鰺ヶ沢や深浦まで
進出するのは一回の進攻じゃ無理。
どれだけ離れてると思ってるんだよ。
0572人間七七四年
2011/05/30(月) 23:59:15.07ID:dgtqiMIt0573人間七七四年
2011/05/31(火) 02:04:28.89ID:QUIjFY6m小田原参陣が千人なのはそれしか連れていけんかったからでしょう。三千人連れて小田原まで行く能力は南部にはないし、必要性もない
それに宇杭野なら途中で何かあれば無理すりゃ戻れるけど、小田原じゃ戻れない
冷遇されたわけでもないなら、大将として使っても別におかしくもないでしょう
信直は政実の弟の中野吉兵衛だって対斯波戦で重要な役につけてる。要注意人物だからって重要な役に起用しないわけじゃない
つか津軽の蜂起は為信さえ討ち取ればそこで終わる話。一回大浦を叩いてそこで討ち取れなかったら、進めるだけ進んで、後は岩手郡の高信みたいに地元の豪族味方につけるなり調略して、拠点を作って時間かけて地道に鰺ヶ沢まで進んでいけばいいだけでしょ
一度相手の戦力削ったなら回復に時間がかかるし、豪族を味方につけたなら大軍張り付ける必要もない。そんで最終的に鰺ヶ沢まで行けば為信は無力化するし、弱っているところを再び臣従させてもいい。一回の進攻にこだわる必要はない
0574人間七七四年
2011/05/31(火) 20:35:21.51ID:FSCVKqvGおかしいから。長く信直を支えていた北氏、南氏を
差し置いて寝返ってすぐの東氏が総大将ってのは。
それと中野吉兵衛は斯波氏の娘婿だったんで
対斯波戦において斯波家臣を調略できたから重要な役を与えられた。
東氏に対千徳戦でそういう期待は出来ない。
浄法寺氏や鹿角の国人なら時間かけれるとは思うが、
八戸氏はそうもいかない。国元で何かあってもすぐ戻れる距離じゃないし
短期間で大浦氏の主要な居城を幾つも落とさないとならない。
おまけに鼻和郡は広いと来てるし。
0575人間七七四年
2011/06/01(水) 00:15:11.27ID:gP6fCfdZ0576人間七七四年
2011/06/01(水) 03:08:05.63ID:Vfpaee6/だいたい、過去の経歴を気にして重臣を重要な役から遠ざけるなんてことしてたら、それこそ当主の力量が疑われることにもなりかねない
あと中野吉兵衛に関しては、起用したこと自体がそもそも危険なことでしょう
もし斯波との不仲が計略だったなら、斯波どころか九戸にまで情報流れて変な動きをされかねない
そんなリスクを負ってでも信直が吉兵衛を起用したってことは、彼が危険人物でも起用する意識を持っていたって事でしょう
もちろん吉兵衛の真意の裏取りはしただろうけどね
八戸氏の意図としては時間かける気無かったんでしょう
広いって言っても為信の兵力が千+αであることを勘案すれば、それぽっちの兵力で西ヶ浜や鼻輪郡全体をカバーすることは出来ない
多くの城に少ない兵力を分散して籠城させればそれこそ相手の思う壺。後詰めを期待できない立場である以上、どこかで兵力を集中して決戦を挑まなきゃならない
八戸氏としては大軍でそれを叩いて為信を討ち取ればいいだけ
もし討ち取れなくても、大浦あたりまで奪えた時点で為信の勢力は半減も同然なんだから、為信につく国人も減るだろうし、為信もすぐには動けんだろうから
周囲の豪族への手当てと調略が済んだら、代官に任せて本隊は撤収すればいい。後は代官が、築いた地歩を元に地道に攻めてきゃいい
必要なら次の年位にまた兵を起こしてその時こそ為信をすり潰せばいい。石川高信が岩手郡でやったのと同じやり方だよ
0577人間七七四年
2011/06/01(水) 17:37:59.34ID:gP6fCfdZだからこそ簡単に独立許したんであって
0578人間七七四年
2011/06/01(水) 20:56:46.58ID:sPzqEoGM東氏ってのは晴政派の急先鋒として信直派の重臣北氏や
八戸氏(まだ家臣ではないが)の城を攻めた過去があるわけ。
そういった重臣たちとも確執があったのに
いとも簡単に彼らを押しのけて総大将になるのはどう考えても不自然。
無理だから。大浦氏にしてみれば別に決戦する必要は全然ない。
時期を待てば否応なく引き上げるのが確実なのに
わざわざ短期戦を挑む必要性は全くない。
0579人間七七四年
2011/06/01(水) 22:24:36.47ID:gP6fCfdZ0580人間七七四年
2011/06/02(木) 07:38:44.47ID:sj7Sx5aK『名杭日向というのは東政勝ではなく、名久井日向守兼隆という別人だ
名久井兼隆は宇杭野の敗戦によって南部の史書から存在を抹消されたのだ』
っていう説が乗ってたなぁ。これこそ眉唾もんだけど、面白い話ではあったな
0581人間七七四年
2011/06/02(木) 23:48:29.34ID:cQzpgjUT別に高信みたいな津軽全域を管轄する代官ってわけじゃなくて、大浦から取った占領地の代官って意味だからね
無論押さえの兵力とセットで、大浦以外の勢力と友好的な関係築いてある程度やりくり出来る土地さえあれば普通にやってけるでしょ
>>578
そうだね、けれども見方を変えれば、一番重要な家督相続の時に味方してくれた恩人でもあるわけだ
ただでさえ政権基盤が脆弱な信直が、重要な時に味方してくれた人物の意向を無碍に出来るわけがないでしょ
あと簡単だったかはわからんよ。史料がない以上、この時期の三戸内でどんな権力争いがあったかなんてわかるわけない
大浦にはその時間を稼ぐ兵力が無いのよ
支城に全て兵力を分けると、少ない戦力がさらに細切れになって時間稼ぎにも使えなくなるから、どこかの城にまとまった数を置かなきゃならない
しかし仮に石川あたりに半分の五百置いたとしても、三千対五百じゃ数でもみ潰されて数日で陥落するのが落ち。岩屋城張りの守城が出来る奴がいれば別だけど、そんな都合の良いことはない
もし石川が陥落した場合、残り五百+αでどう八戸の大軍をとめるよ。石川城から大浦城まではそう遠くない、支城もさほど多くない
そんくらい相手が減れば八戸も多少無理してでも相手を潰そうとするわな
大浦城まで取られれば為信についてた国人は確実に動揺するし、下手すりゃ家臣からも離反者が出て軍勢の維持すらままならなくなる
ならば為信としては兵力が削られる前に適当な城で持ちこたえて、残りの兵で奇襲かけて撤退に追い込むまで削るか、劣勢覚悟の野戦かける位しかない。待ちの戦術とれる立場じゃないんだよ大浦は
0582人間七七四年
2011/06/03(金) 19:11:42.73ID:dw86+cjsじゃなんで負けたの?
0583人間七七四年
2011/06/04(土) 03:14:12.60ID:CGewMiVuえーと、1572年の八戸の方だよね?
そもそも戦ってないんだから負けてすらいない
途中で九戸が八戸領狙う為に動いて、それ抑える為に撤退しちゃってるんだから。大浦はそれに助けられたに過ぎない
八戸が失敗したというなら、九戸の動きを考えてなかった事前見込みの甘さだろう。もし九戸の動きが無かったら、八戸はそこそこ優位に戦えてたよ
0584人間七七四年
2011/06/04(土) 09:14:02.00ID:NPD3dBFC記述だと東氏が自ら志願したのではなく信直が命じてるとある。
だけど信直が北氏、南氏を差し置いて敵対して東氏を
総大将に任命する合理的な理由がないわけであって。
一時的に押されても八戸氏はいずれは戻らなきゃならない。
それに長期戦になれば八戸から弘前に兵糧を届けるだけでも
相当の負担になり兵数の多くを荷駄隊に人員を割かなきゃならなくなる。
八戸氏にしてみれば短期決戦しか道はないよ。
0585人間七七四年
2011/06/05(日) 01:52:34.31ID:s4RB9V+7南部根元記あたりだと、御一族筆頭に南氏や北氏をおいて東氏が来る
これは東氏が過去の経緯にかかわらず、普通に三戸内で重きを成していたからと考えるべき
討伐を直接命ぜられたのも、東氏が晴政の件で遺恨を持たれてなかったと考える方が自然
だから八戸は短期決戦狙いだって言ったでしょ。そして大浦には長期戦に持ち込もうにも時間稼ぎできる兵力が無い。数で押し込まれて大浦まで攻め込まれる
もし大浦城まで取られたら、その時点で勢力としての為信は半分アウト。少なくとも再起にはかなり時間がかかる
そこまでいきゃ八戸側に撤退しなきゃならん理由などない。普通に領土化して経営すればいい
兵糧については、進攻から一月もすれば米の収穫時期になるから兵糧の心配は断然軽くなる。占領地を統治して普通に収穫すればいいし、最終手段として敵地からの苅田って手だってある
0586人間七七四年
2011/06/07(火) 19:51:51.72ID:ylycD426あと南部信直が家督を継ぐ前年には一戸氏も九戸派に転向してるし
九戸氏にも出兵をさせず単独で全軍を遠征させるのは無理がある。
大浦氏が動員できる兵力がたった1000のわけがないでしょ。
あれだけ広大な所領だったんだからさ。
千徳氏ですら防衛戦において1000をかき集めてるってのに。
あと苅田ってのは自国に米と麦を持ち帰る場合に行うものだからね。
0587人間七七四年
2011/06/07(火) 22:53:32.81ID:s+s13V9w0588人間七七四年
2011/06/08(水) 22:40:49.36ID:4x8Kqf8D>あれだけ広大な所領だったんだからさ。
安東と同等以上に渡り合ってた様子も有り
一時的に八森も支配下においてた。
それを考えるとはじめから下手な大名よりも勢力はあったろうな。
0589人間七七四年
2011/06/14(火) 22:44:58.69ID:i7PoMHAr関ヶ原が終わってから津軽と伊達は
それぞれ加増されてるけど南部は加増されてないよね。
0590人間七七四年
2011/06/15(水) 23:42:11.53ID:Ttrtc+z40591人間七七四年
2011/06/16(木) 22:07:52.38ID:2p6pq6M+0592人間七七四年
2011/06/19(日) 22:17:32.53ID:GE5EZSn0それは不可抗力じゃないか?
0593人間七七四年
2011/07/02(土) 21:20:48.02ID:GltZ9ybv0594人間七七四年
2011/07/02(土) 21:57:54.76ID:isCcRvol0595奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2011/07/03(日) 07:31:01.80ID:DZwbhyoV0596人間七七四年
2011/07/03(日) 21:36:32.60ID:p2rZzFOI旧上郷村を含む田子町だろうけど
石亀城に関してはよく分って無いのが実情。
田子町は南部信直の父親である石川高信の根城との見方も強いし・・・
0597人間七七四年
2011/07/08(金) 12:52:35.00ID:fOlTtXVy0598人間七七四年
2011/07/09(土) 16:26:30.75ID:3SRgNPE2相当の資料が失われたんだろうな。あと本拠地を
南部町→三戸町→二戸市→盛岡市と移したのも
資料が失われた一因かと。
0599人間七七四年
2011/07/09(土) 18:11:06.57ID:puDhG0NR資料が失われた一番の要因ですよ
0600人間七七四年
2011/07/09(土) 23:40:30.35ID:0kVW2qeG特に移さなければならない理由が思いつかないんだけど。
周りは身内で囲ってたしあんな山に住んでたら普段の生活はかんり不便そうな気がする。
0601人間七七四年
2011/07/10(日) 07:48:38.96ID:K9LeA6o0それから城下の再編と拡大、って意図もあったらしい
城下を広げるのに聖寿寺舘の位置はちと手狭
0602人間七七四年
2011/07/10(日) 13:11:56.09ID:tNrHcjUk家臣二人に簡単に放火されましてや全焼してしまうってことは
合戦になったら簡単に落城してしまうことを悟ったからじゃないかな。
0603人間七七四年
2011/07/11(月) 22:25:30.34ID:Z1z9nndtそういう意図もあったのか。
0604奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2011/07/11(月) 23:05:30.82ID:d9EOrPDo0605人間七七四年
2011/07/12(火) 19:35:48.28ID:e1DmxcTZ宗家の上級武士の屋敷があり多少商人が居た程度。
0606人間七七四年
2011/07/13(水) 00:31:40.93ID:Tch42tAv0607人間七七四年
2011/07/18(月) 22:50:18.99ID:jm5DB/+90608人間七七四年
2011/07/21(木) 10:58:50.97ID:PALxNbBL盛岡に首都移したのが要因じゃないだろ。牽強付会にもほどがあるべ
0609人間七七四年
2011/07/22(金) 00:12:30.54ID:io0r8rlqたかがヒバを巡っての騒動だったとは思えないけど・・・
0610人間七七四年
2011/07/24(日) 14:22:04.54ID:KXWx4c3j文献が少ないから何とも言えないけど
戦国時代の主だった家臣を岩手方面に移動させたのが原因じゃね?
それによって準備できる人材が居なくなってしまったのが
八甲田を奪われた主因だと思うが。
0611人間七七四年
2011/07/26(火) 15:01:41.68ID:VUq0MQ2u東北道宇都宮辺りでみる
仙台まで180km
盛岡まで360km
の標示からして隣藩の本拠が180キロ離れてることにも驚きだけど
livedoor地図機能で一般優先で検索してみると
新旧拠点の距離で
盛岡城→三戸城 90キロ
本拠と重鎮石川氏拠点の距離は
三戸城→弘前城 (旧石川城の場所が分からなかったから地点登録)110キロ
これだと十和田湖の南西をかすめるルートとってたけど
平地を選んで連結するとしたら青森方面経由だろうから
もっと距離が出る。
0612人間七七四年
2011/07/26(火) 23:28:40.81ID:v8xlg0E/0613人間七七四年
2011/07/28(木) 00:24:46.76ID:hloT5UBv盛岡から宮古までの距離も普通に凄まじい。
海産や鉱山などの利益も独占かな。
0614人間七七四年
2011/07/28(木) 23:51:39.06ID:8kTwqvi3戦国時代は鹿角の鉱山は発掘されてないし
三陸海外は世界有数の難所として交通では使われてなかった。
あと鉱山関係は殆どが旧斯波領や旧阿曽沼領のもの。
0615人間七七四年
2011/07/29(金) 00:09:30.87ID:p1iQyvCa伊達領側から地下を堀り進み南部領側に入り込んでぜんぶ掘り出してしまったので幕府の裁判待ちをして良い子を演じてた南部涙目w
0616人間七七四年
2011/07/29(金) 00:17:08.98ID:BeUWDI/z0617人間七七四年
2011/07/29(金) 03:07:44.92ID:T7FIW19B鹿角自体も金山の発見が江戸初期ってだけであの当時から鉱山地域だぞ
0618人間七七四年
2011/08/01(月) 00:25:43.20ID:vls6mQcpそれともそこの領主のもの?
0619人間七七四年
2011/08/03(水) 22:07:47.74ID:vZbPBzRh自らのものにしてたみたい。
一方の南部は豪族の連合体から脱皮出来ていなかったんで
八戸氏が支配してた北郡、九戸氏が支配してた九戸郡といった
地域では採掘出来なかったと思う。
0620人間七七四年
2011/08/04(木) 13:57:33.17ID:iuWS59xw0621人間七七四年
2011/08/04(木) 14:45:36.58ID:olsRNuvA0622人間七七四年
2011/08/04(木) 16:36:15.81ID:iuWS59xw0623奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2011/08/05(金) 23:39:02.41ID:MvSl4aN10624人間七七四年
2011/08/06(土) 12:10:33.40ID:JzPmSMGV0625人間七七四年
2011/08/06(土) 12:30:35.94ID:IAabU3Eq0626人間七七四年
2011/08/06(土) 19:06:16.37ID:HpOS/TZa0627人間七七四年
2011/08/07(日) 02:20:15.43ID:ke1Udjpe一時的とは言え比内も南部領だったからね。
0628人間七七四年
2011/08/13(土) 13:23:12.87ID:ZAT99Wcp水軍一つ持ってないのも不思議な希ガス。
0629人間七七四年
2011/08/13(土) 18:09:22.95ID:a8tvu/qP0630人間七七四年
2011/08/13(土) 23:43:57.55ID:pnKwop8Q津軽はもちろん斯波も服従させてた南部晴政だと思う。
0631人間七七四年
2011/08/14(日) 00:11:09.93ID:2ulWUxQz斯波家、葛西家、大崎家、伊達家といった
東北地方太平洋側の有力大名は水軍を持ってません。
というのも当時は東回り航路がなく
水軍をもつ必要性は全くなかったからです。
0632人間七七四年
2011/08/14(日) 07:28:44.19ID:KQvhTxhV熊谷が海路から留守応援に行ったり
本吉が歌津衆と戦ってたり、葛西所属かと言われれば疑問なやつもいるけど
0633人間七七四年
2011/08/14(日) 12:29:59.48ID:oW1LnC+w0634人間七七四年
2011/08/15(月) 14:17:43.11ID:QntgoRQz南部に水軍があったという話しは聞かないけど
もしかしたら八戸南部だったら居たかも。
蠣崎の乱のときに水軍衆が奇襲をかけて勝利したともいうからな。
0635人間七七四年
2011/08/15(月) 15:40:36.44ID:1fGHnDqK0636人間七七四年
2011/08/20(土) 16:48:46.44ID:+4HkwlKW0637人間七七四年
2011/08/23(火) 00:13:50.49ID:oLQQDqBC0638人間七七四年
2011/08/23(火) 08:01:56.63ID:Vxkw7jma0639人間七七四年
2011/08/23(火) 23:28:46.16ID:oLQQDqBCよほどの戦国オタクじゃない限り
普通は区別がつかない。
0640人間七七四年
2011/08/23(火) 23:29:37.48ID:oLQQDqBCググってみたら別物だと分りました。
0641人間七七四年
2011/08/27(土) 21:47:40.27ID:MIPOTv0f0642人間七七四年
2011/08/28(日) 02:44:40.68ID:H0jY4/bA0643人間七七四年
2011/08/29(月) 18:48:12.27ID:7RbwyNTD0644人間七七四年
2011/08/31(水) 15:10:07.05ID:n756LYGB人質戦術で戦に勝とうとする卑劣な武家があったそうな。
0645644
2011/08/31(水) 16:00:23.52ID:n756LYGBhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263523504/l50
0646人間七七四年
2011/09/08(木) 20:47:31.84ID:tJrEzpWE0648人間七七四年
2011/09/14(水) 23:20:14.05ID:XxRVrMpZ三戸城の標高はそれほど高くないけど
絶壁と言っても過言じゃない部分が多く
登れる箇所は限られてるからねえ。
実戦で使われた事はないようだけど・・・
0649人間七七四年
2011/09/15(木) 22:35:12.95ID:f1F/2/0q0650人間七七四年
2011/09/15(木) 23:09:21.62ID:q2HH3A7j藩南部の一揆に全く対応できてなかっただろうね
>>648
良い城だよね三戸城
川に囲まれて防備に良し流通にも良し
支城も整っていて、地味だけど侮れない城だと思うわ
0651人間七七四年
2011/09/16(金) 00:13:38.73ID:yahve+ck盛岡藩の一揆の原因は藩南部に藩士を集め過ぎた事じゃないか?
意外かもしれないが何故か生産力の高い南部の方が
生産力が低い北部より一揆の件数が多く規模も大きい。
0652人間七七四年
2011/09/16(金) 00:26:54.00ID:p/IQP9ns生産力の高い藩南部からの収奪が酷すぎたのは確かだよね>一揆
ただ、三戸が本拠のままだったら、という仮定だったので
タイムラグが大きくなる分対応も遅くなる、ってこと
三戸のままじゃ現岩手県域の実情把握も遅れただろうしね
0653人間七七四年
2011/09/16(金) 18:33:06.60ID:yahve+ck収奪が酷いというよりは北部の統治がザル過ぎて
穏田(今でいう脱税)の取り締まりが出来なかったからじゃないかな?
結果的に藩南部から過剰に税を徴収せざるを得ないのが実情かと。
二戸辺りに支城があったら多少は違ってた気がする。
0654人間七七四年
2011/09/19(月) 22:09:33.30ID:XzeEe+1b本貫の地だから年貢の取り立てが緩やかだった。
0655人間七七四年
2011/09/23(金) 12:13:02.29ID:pkB2JTzq0656人間七七四年
2011/09/23(金) 13:44:53.17ID:6/B8hTTIあの辺りの河川は氾濫しにくいと思ってたのに。
0657人間七七四年
2011/09/25(日) 20:31:05.41ID:LDZojltl本当でしょうか?浄法寺氏の支配域は旧浄法寺町だけだったと思うんですけど
あの地域だけで5000石もあるもんですかね?
0658人間七七四年
2011/09/26(月) 07:22:31.42ID:H9olAGo4さらに言えば、領土としていたのは安比川流域の穀倉地帯だ
0660人間七七四年
2011/09/27(火) 08:38:33.93ID:gW0xI8Y4平地が少ないってのは糠部ではどこも同じようなもんだし、流域全体で見れば結構な広さがある
あと浄法寺は十文字川沿いの上斗米あたりにも領地があったそうで
その辺の生産力も加味してたっぽい
0661人間七七四年
2011/09/27(火) 22:13:11.61ID:s+gZ6iWVやませの影響が小さいからねえ。
あと五戸から八幡平にかけての山々は標高が低い事もあって
田畑を切り拓きやすい。
0662人間七七四年
2011/10/01(土) 06:59:43.79ID:WN1Q4BVN単純に隠し田がやりやすかっただけ。
平地だと難しいけど北部は山が多いから
簡単には見つからない。
0663人間七七四年
2011/10/02(日) 21:44:08.62ID:trR+fa2y0664人間七七四年
2011/10/04(火) 15:38:07.80ID:j+/GTNJb0665人間七七四年
2011/10/07(金) 18:06:36.01ID:r0motI9+あの当時にあっただろうか。
告発されて瞬殺されてしまうのでは
0666人間七七四年
2011/10/07(金) 22:49:08.81ID:/LTUolSD戦国・江戸時代は農耕技術が急激に発達した為
隠し田が最も隆盛を極めた時代かと。
気になってグーグルアースで糠部を見てみたら
結構山に田畑が多かった。
0667人間七七四年
2011/10/12(水) 21:18:19.40ID:hu43afNy0669人間七七四年
2011/10/21(金) 21:36:36.69ID:/z0YVa3O0670人間七七四年
2011/10/21(金) 23:44:05.50ID:JZgCu7SU0671人間七七四年
2011/10/23(日) 07:26:38.62ID:cj8zgExv0672人間七七四年
2011/10/29(土) 17:15:30.98ID:PFgJS2a00673人間七七四年
2011/11/04(金) 21:46:29.98ID:S27z1ieo0674人間七七四年
2011/11/04(金) 22:16:13.96ID:2C8SelJN0675人間七七四年
2011/11/04(金) 22:34:07.97ID:+3Wc/Mkqもてなされたくねえwww
0676人間七七四年
2011/11/05(土) 18:50:06.30ID:j+xYmvjE0677人間七七四年
2011/11/05(土) 22:25:35.96ID:UpGVVV5k0679人間七七四年
2011/11/08(火) 14:09:45.96ID:bSZ9kLy2そんなこと言ったら秋田県なんて…茨城県出身の佐竹。
津軽も岩手県久慈市説が…
0680人間七七四年
2011/11/09(水) 15:02:53.02ID:vBNZSp030681人間七七四年
2011/11/10(木) 07:49:04.29ID:EijJQK5+意外と北信愛由来の伝承とか多いしあそこ
0682人間七七四年
2011/11/10(木) 20:58:57.10ID:1xt9gmZ7斯波氏を傘下にしたのも実質的には政実だったし
金ヶ崎へ遠征し(何回か失敗したが)城を手に入れ
更には大軍を率いてやって来た葛西氏を
撃退したといった功績もある。
0683人間七七四年
2011/11/11(金) 12:22:03.05ID:dIsR+ajP武将隊なんてそんな『他の大名や武将は認めません』みたいなもんでもなかろう
0684人間七七四年
2011/11/12(土) 08:19:34.17ID:kqjNZxtH0685人間七七四年
2011/11/12(土) 10:14:10.28ID:cTyV/ZvM0686人間七七四年
2011/11/12(土) 13:30:15.96ID:qsUvu7ro0687人間七七四年
2011/11/13(日) 15:22:50.97ID:aSMlhyYPけど金ヶ崎一帯は木村領になりその後は伊達藩の領地になってるけど
本当に落としたかは疑問符がつくが…
0688人間七七四年
2011/11/14(月) 22:58:34.47ID:IjQtto7O0689人間七七四年
2011/11/15(火) 17:36:33.27ID:9R/DAkNw0690人間七七四年
2011/11/15(火) 23:13:35.43ID:OW1Trm/s残念な大名だった。
名代を送るなど中央の情勢もそれなりに把握していたのに
秀吉の理不尽な裁定で改易されてしまった哀しい大名。
0691人間七七四年
2011/11/16(水) 15:37:04.61ID:BAOmLVTx和賀が、すべて任せますのでお願いしますと
頼んでる時点でバカ
0692人間七七四年
2011/11/16(水) 20:10:34.79ID:mjPnQsRn0693人間七七四年
2011/11/20(日) 21:03:08.65ID:Yq3ufLJqあれだけ南部にフルボッコにされてたのに
よく戦国末期までもったよ。
斯波みたいに従属しなかったし
もっと評価されてもいいと思う。
0694人間七七四年
2011/11/21(月) 00:15:27.79ID:HqQQNhDh0695人間七七四年
2011/11/22(火) 00:38:23.55ID:E1JlL+3Tそだ |------、`⌒ー--、
れが |ハ{{ }} )))ヽ、l l ハ
が |、{ ハリノノノノノノ)、 l l
い |ヽヽー、彡彡ノノノ} に
い |ヾヾヾヾヾヽ彡彡} や
!! /:.:.:.ヾヾヾヾヽ彡彡} l っ
\__/{ l ii | l|} ハ、ヾ} ミ彡ト
彡シ ,ェ、、、ヾ{{ヽ} l|l ィェ=リ、シ} |l
lミ{ ゙イシモ'テ、ミヽ}シィ=ラ'ァ、 }ミ}} l
ヾミ  ̄~'ィ''': |゙:ー. ̄ lノ/l | |
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>l゙、 ー、,'ソ /.|}、 l| |
:.lヽ ヽ ー_ ‐-‐ァ' /::ノl ト、
:.:.:.:\ヽ 二" /::// /:.:.l:.:.
:.:.:.:.:.::ヽ:\ /::://:.:,':.:..:l:.:.
;.;.;.;.;;.:.:.:.\`ー-- '" //:.:.:;l:.:.:.:l:.:
0696人間七七四年
2011/11/22(火) 11:13:36.15ID:f/IRvYkk0697人間七七四年
2011/11/23(水) 09:24:31.44ID:sCj3c56A7万もないでしょ。南部藩が10万石だったのに
どう考えても計算が合わないよ。
0698人間七七四年
2011/11/24(木) 12:11:41.09ID:jzRxEJ/lあと戦闘能力は無いけど生存能力には長けたのって結構いるからね
そういえば話は変わるけど盛岡藩は財政難で藩士のほとんどがタケベラだったらしいよ
金山経営が自由に出来た戦国時代の方が裕福だったんだろうな
津軽為信に叛かれたとはいえ南部晴政は名将だったし
為信に叛かれたことと、実子が中々産まれなかったことが落ち目の始まりだったのかね
為信が叛かず、信直を養子に取る前に晴継が産まれてたらもっと違ったのかも
0699人間七七四年
2011/11/24(木) 18:38:35.64ID:v5BrNKgy石高表記している信憑性薄い史料からだろ
和賀領なんて出来るだけ多く見積もっても2万石程度だろ
0700人間七七四年
2011/11/25(金) 02:32:50.96ID:PmwlmwGs0701人間七七四年
2011/11/25(金) 13:46:06.14ID:/90dCj26> 和賀領なんて出来るだけ多く見積もっても2万石程度だろ
まあ、そんなもんだろうな。
0702人間七七四年
2011/11/25(金) 14:08:56.80ID:a7C5qOKR割拠できるだけの金山などの経済力があったから?
大地震や大津波でやられたから不毛地帯だったから?
0703人間七七四年
2011/11/25(金) 17:54:17.61ID:bM/s3Krn金山からの収入も含めて7万石と言われてる。南部藩の石高には鉱山収入は入ってないし
幕府に石高を過小申告してるっぽいから頭ごなしに否定するのはどうかと。
0704人間七七四年
2011/11/26(土) 01:16:28.20ID:sJvhHDqC知らね
0705人間七七四年
2011/11/26(土) 15:04:17.19ID:8vAMKKA8開拓が頭打ちになった江戸中期でも、和賀稗貫2郡でようやく実高8万石なのに
戦国時代で和賀ひとつで7万石とか普通にありえん
あとその和賀氏の石高を書いた史料(小田島家記録)では鉱山収入を3千〜4千両としている
仮にそれを1両=2石としても8千石で、たいした割合じゃない
0706人間七七四年
2011/11/26(土) 15:57:26.57ID://JFu1Rq0707人間七七四年
2011/11/27(日) 01:58:43.36ID:0eJ79DEL彼らにしてみれば和賀は南部の侵攻を防ぐ重要な盾。
0708人間七七四年
2011/11/27(日) 20:59:53.75ID:oJUWls/y詳しそうなので聞きたいんだけど
根城八戸氏は遠野に転封される前は1万6千石だったと言われてるけど
支配域はどの程度のものだったのかな?
今の青森県の東部は北郡5千石。三戸郡8千石で両方合わせても
足りてないのが不可解。まして三戸方面は
三戸南部の領地が大部分を占めてる・・・・・
0709人間七七四年
2011/11/27(日) 22:11:05.78ID:forRq74I0710人間七七四年
2011/11/27(日) 22:58:01.85ID:oJUWls/y0711人間七七四年
2011/11/29(火) 20:50:27.49ID:FFl4QNvLちょうど図書館行く用事あったんでちょっと調べてみた
元和4年に南部利直が八戸内儀(ねね)に出した知行宛行目録(新編八戸市史近世資料編T収録)
だと、だいたい現在の八戸市域と階上町、それから下北半島に所領が分布してるみたい(田名部は召し上げられた後)
あと岩手郡にも若干の飛び地があり、しめて1万2千5百石となっている
後世との石高との矛盾の理由は分からんけど、知行宛行目録は一次資料だし
記載された村ごとの石高は根拠のないものではないと思う
>>709
だいたい25万石位
0712人間七七四年
2011/11/30(水) 00:43:31.25ID:f2XplThL所領に関しては711の言うとおり。
石高の矛盾に関しては南部藩は石高を過少申告していたことがその理由かと。
沢内村3000石を申告しなかったことからも
南部藩は幕府に対し領内の実高を隠していたかがうかがえる。
あと三戸郡が8000石なのに今の五戸町を拠点にしていた
南氏は3000石。名久井城を拠点にしてた東氏は2000石を有してたらしいが
この2つの家だけで三戸郡の半分以上を占めているわけがない。
これも過少申告の根拠と見ていいと思う。
0713人間七七四年
2011/12/01(木) 22:24:10.43ID:HCVGKPBrただ宇都宮家や柳生家がそれによって
改易されたこともあるしリスクは高いのではないでしょうか?
0714人間七七四年
2011/12/03(土) 08:03:55.58ID:vJ8WT3PUこの時代の検地は中央の役人の胸先三寸でどうとでもなった。
事前の根回しさえしっかりやっておけば
それほど危険な行為ではなかったと思われる。
0715人間七七四年
2011/12/03(土) 16:18:39.94ID:Syk98lsn>そういえば話は変わるけど盛岡藩は財政難で藩士のほとんどがタケベラだったらしいよ
>金山経営が自由に出来た戦国時代の方が裕福だったんだろうな
「タケベラ」ってなんだろう?
竹光(たけみつ)のことなのかあ? 南部鉄器もあるから違うとは思うんだが。
0716人間七七四年
2011/12/03(土) 16:28:38.34ID:rVxxu4yN0717人間七七四年
2011/12/03(土) 20:17:14.32ID:79eq6KSa重直が死ぬくらいまでが南部の一番裕福な時期
0718人間七七四年
2011/12/06(火) 01:04:38.74ID:BGvQSV8t0719人間七七四年
2011/12/06(火) 21:39:34.57ID:xH8b8qyKっていうか、東北の大名は僻地なのを良いことに
過少申告しまくる傾向だよね
0720人間七七四年
2011/12/10(土) 09:08:24.60ID:UQp2pzBL武士が内職してたってことじゃない?
0721人間七七四年
2011/12/13(火) 22:04:40.32ID:EjZ7HsBd0722人間七七四年
2011/12/20(火) 14:46:24.65ID:7bSiUARL0724人間七七四年
2011/12/23(金) 16:00:11.06ID:qHZ/6d2h最終的に数割カットの数字を幕府に報告している。
薩摩藩も江戸中期〜後期に人口が倍増しているのに、内高は変わっていない。
不作時のために余裕を持たせて内高を低く出したとも、
稲作以外のカロリー源が増えたとも見なせるが、
要は過少申告は中央から離れれば、どこもやっていること。
現在でも脱税で、真のGDPなんて分かりっこない。
0725人間七七四年
2011/12/26(月) 19:11:00.98ID:I9nKs4iB0726人間七七四年
2011/12/28(水) 12:11:29.96ID:Qd9BdOAI幕府が警戒していたのは島津、毛利、伊達などであって、
南部は警戒されていなかった。
0727人間七七四年
2011/12/28(水) 15:35:35.85ID:/jCQVieg0728人間七七四年
2011/12/28(水) 16:35:26.99ID:sX6Inbanそれは江戸時代初期の段階での話。
よく薩摩は領民に8割という高い税金を掛けていたとか言われるが、
それは分母となる課税対象が江戸時代初期の検地の数字で、
本当にぎりぎりの生活を強いられているのなら、
江戸時代後半の東北地方のように人口増加率が停滞するはず。
明治維新になっても薩摩藩は地租改正に抵抗したので、
明治初期の石高も実態を反映してない。
0729人間七七四年
2011/12/29(木) 19:22:22.54ID:rB/Xhr5C欺くってのは違うでしょ。為信の独立は南部晴政のお墨付きかと。
0730人間七七四年
2012/01/04(水) 22:19:24.64ID:6+4CEohG0731人間七七四年
2012/01/04(水) 22:29:53.12ID:1BPVZupqその後は飢饉による耕作放棄→再開墾の繰り返しで20〜25万を行ったり来たり
(無論凶作の年は除く)
0732人間七七四年
2012/01/07(土) 20:36:06.21ID:3E6Wkwhzあまり開墾に力を入れてないように見えるけど理由とかあったの?
0733人間七七四年
2012/01/09(月) 01:26:45.52ID:g1gWSFni財政的に困窮していなかったのがその理由かと。
南部藩は九戸の乱での大身の処分。あと新参の斯波氏、阿曽沼氏を
滅ぼしたり追放したり浄法寺氏を改易したりして直轄地は隣藩とは比べ物にならないくらい大きかった。
0734人間七七四年
2012/01/09(月) 10:49:02.13ID:EPI+41MR南部藩は畑作が比較的多かったことも理由
畑作だと同じ面積でも生産力は低くカウントされる
南部藩だと水田が三百坪一反に対して、畑作は九百坪一反で計算している
それに弘前とか久保田とか仙台みたいな、周囲の米所に比べるとどうしても下田が多かったから
同じ位の面積を開墾しても、石高はどうしても劣る
0735人間七七四年
2012/01/10(火) 20:14:42.15ID:mhzvK08D畑作メインでやってたということ?
0736人間七七四年
2012/01/11(水) 00:29:47.66ID:4ILI0CHE0737人間七七四年
2012/01/11(水) 01:33:39.57ID:XmvtVvjZ岩手圏域の内陸部はほとんどやませの影響はない。
0738人間七七四年
2012/01/11(水) 01:59:49.04ID:gCsHMGRc実収28万石は、いかにも少ないわけである。
0739人間七七四年
2012/01/11(水) 04:45:18.80ID:oTSy8OGX高給取りが少ない=直轄地が多くて本家に入る収入が多い、と言いたいのかと
畑作メインってワケではなく、稲作出来ない土地が多かったという事
青森県南部地方や三陸沿岸は基本アウト
>>737
ヤマセは貴方が思うよりもっと大規模な自然現象
直接的に吹き付ける地域だけが影響を受けるのではない
http://www.jma-net.go.jp/sendai/wadai/touhokukikou/kikou-index.htm
つか岩手の内陸部に影響ないとか、1993年の凶作のこと知らない世代?
0741人間七七四年
2012/01/11(水) 15:44:27.24ID:imi153d00744人間七七四年
2012/01/12(木) 03:17:29.84ID:qjq5cOU7この規模の冷害が十年に一回、小規模なのだと三・四年に一回は起こってたのですが
あと当時は今以上に稲が寒さに弱かった上に、江戸時代半ば以降は小氷期
寒気が北上山地を越えるだけで、容易に稲が成育しなくなる条件が当時は揃ってた
三年に一回不作・十年に一回凶作が起こる土地柄では、たとえ内陸でも畑作してリスク分散せんとやってけなかった
0745人間七七四年
2012/01/12(木) 19:43:27.21ID:IXHeid6w泥棒だな。でもマスコミも民主も韓国人だから抗議しない。
もうだめなのか日本は?
http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_720065&feature=iv&src_vid=RnnLj7ChmL8&v=sW4H2PGj6JU
0746人間七七四年
2012/01/13(金) 10:59:04.98ID:5UBrawyc0747人間七七四年
2012/01/13(金) 11:02:21.01ID:5UBrawyc誰か加筆すれ。
0748人間七七四年
2012/01/13(金) 23:45:24.17ID:9AV/FgjSやませの影響が大きかったから日本海側に比べ農業は大変だったらしい。
基本的にその構図は昭和まで変わらなかった為
太平洋側は工業化でそれらを乗り切るしかなかった。
0749人間七七四年
2012/01/15(日) 12:21:28.53ID:1gKtn9Bm稲作はリスクが高いし商人が力をつけてきてからは
大名達は安く米を買い叩かれるようになってきたからだな。
そういったこともあって南部藩は鉱山や馬産、
北廻航路に利用されてる田名部(現むつ市)の開発整備に力を注いだ。
0750人間七七四年
2012/01/20(金) 23:25:55.71ID:flIkAgFeさらに信愛の子が大光寺光愛であるとか、光愛が死んだため滝本播磨が入ったとか、言っていることがおかしいです。南部側の記録でも、大浦為信の讒言を聞き入れた浪岡城に居た石川政信のせいで、大光寺光愛は鹿角に落ちたとか言われてます。
これを天正10年のこととしていますが、浪岡御所はこの時点では既に為信に落とされているので、石川政信がこの時点で浪岡に居て云々というのは合点がいきません。
『岩手県史』では大宝寺義氏の書状を挙げて、大光寺攻めは天正10年の事だと言っていて、大光寺城が落ちた時期だけは一致しています。
大光寺攻め及び大光寺光愛の真実は実際はどうだったんでしょうか?
0751人間七七四年
2012/01/21(土) 23:28:11.29ID:fWevaJgO私は大光寺攻めは2回あったのではないかと思ってます。
一度目は天正3年。そして2回目の天正10年もあったのかなと。
六羽川の合戦で惨敗を喫した津軽為信が
安東愛季にもう暴れません。奪い取った大光寺は返しますと
約束し実行したという説もありますし、そんなおかしいことではないのかと。
0752人間七七四年
2012/01/22(日) 13:56:49.94ID:MsG1zzJc0753人間七七四年
2012/01/24(火) 19:17:27.95ID:IC0bJOkA0754人間七七四年
2012/01/30(月) 19:57:06.57ID:s1+J59/g0755人間七七四年
2012/02/06(月) 22:34:22.85ID:hyX8fZsY平地が少ない
0756人間七七四年
2012/02/12(日) 10:31:05.38ID:VNTwe72pこれといって大したことしてないのに。
0757人間七七四年
2012/02/12(日) 11:05:42.56ID:2L9RAnPi0758人間七七四年
2012/02/12(日) 22:17:59.97ID:asBoC8nN正保 538村 10万5065石9斗5升1合
元禄 531村 12万8000石
天保 542村 28万8874石7斗9升3合
元禄(1697年)頃 天保(1830年)頃
和賀郡 2万1885.660石 3万8362.692石
稗貫郡 1万5112.203石 4万2447.666石
志波郡 1万6380.004石 4万7185.279石
岩手郡 1万2223.414石 3万5903.389石
鹿角郡 8272.325石 1万8983.063石
閉伊郡 1万3666.780石 2万6725.210石
九戸郡 7453.368石 1万2891.971石
二戸郡 8148.304石 1万3888.542石
三戸郡 1万8874.014石 3万8575.259石
北郡 5983.928石 1万3911.722石
なお中村哲の計算によると、地租改正直後の明治10年〜明治12年の農産表から計算した
陸中国の農産物米換算石高は68万7770石(日本全国で4684万石)。
地租改正直前の明治5年の陸中国の石高は46万9073石(日本全国で3222万石)なので、
南部領の天保期の実際の農産物米換算石高は、推定42万石程度。
288,875×687,770/469,073≒423,558
明治15年の陸中国の田畑面積は、
田 5万0587.2町
畑 7万4818.8町
0759人間七七四年
2012/02/12(日) 22:18:23.45ID:HBWId/96衰退し危機的状況に陥ったものを再び興して盛んにした人。
信直が家督を相続(略奪?)したときの情勢は
散々たるものだったからでしょうね。
為信は津軽地方で南部側の勢力を駆逐し
斯波氏には反逆され晴政が勝ちとった岩手群を奪われ
九戸氏は我こそ正当な宗家と主張する有様。
そういう危機的な状況から何とか盛り返したからでしょう。
0760人間七七四年
2012/02/16(木) 21:03:49.62ID:FdwJLa1Aもしそれに失敗してたらどういう感じに分裂したんでしょう?
0761人間七七四年
2012/02/24(金) 22:32:42.88ID:jknChiiP0762人間七七四年
2012/02/26(日) 07:48:28.76ID:VGP26dEVてな感じで乱立しまくってたかも。
0763人間七七四年
2012/02/26(日) 08:08:01.56ID:Zk3TXRF8個人的に、信直の政治力もさることながら、
あれだけ暗殺されかけたのに尽く切り抜けた強運っぷりを評価したいw
0764人間七七四年
2012/02/26(日) 16:00:44.80ID:Rv17t7ze相馬大作のテロから逃れたり、鳥羽伏見の後で薩長についたのに助命されたりで。
0765人間七七四年
2012/02/26(日) 18:20:21.58ID:QXBhrmS3そんなに広くないのにww
0766人間七七四年
2012/02/26(日) 21:26:50.92ID:dThxIfVYまあ広さだけならなwww
0767人間七七四年
2012/02/29(水) 22:53:52.59ID:GK72sye00768人間七七四年
2012/03/02(金) 00:46:25.88ID:m2PuTSDP0769人間七七四年
2012/03/06(火) 21:32:13.58ID:fRM9GSY20770人間七七四年
2012/03/11(日) 21:32:21.18ID:UAV0dw6kなかなか波乱に満ちた人生を送った大名だよな。
若いころは斯波や和賀、安東と戦ったり
次期当主として扱われてたのが一転して命を狙われる立場になったり・・・
おまけに親父と弟は津軽為信に殺されたし(晴政の密命?)
そっからまた這い上がってくるとか、ようやるわって気がする。
0771人間七七四年
2012/03/19(月) 22:05:27.24ID:7TDj8hRr0772人間七七四年
2012/03/20(火) 05:06:19.01ID:IcHjphql0773人間七七四年
2012/03/20(火) 19:26:09.54ID:gKwxiWBa今の青森全域、秋田の北半分、岩手全域が支配域だったら
伊達政宗みたいに取り上げられたかもw
0774人間七七四年
2012/03/27(火) 23:37:25.46ID:oou0J28W0775人間七七四年
2012/04/02(月) 22:15:49.74ID:jhxsO49S浅利氏くらいじゃね?基本的に戦国時代の
南部の戦略は南下がメインだし。
0776人間七七四年
2012/04/04(水) 18:33:15.55ID:KML7lrwJ0778人間七七四年
2012/04/22(日) 00:34:30.50ID:B6Q5xPs50779人間七七四年
2012/04/22(日) 07:37:00.19ID:Ei0CI0AW三日月の〜は、端から端まで移動してるうちに三日月が満月になっちまったって意味じゃないの?
南部領抜けるのに半月くらいかかったって事。
0780人間七七四年
2012/04/29(日) 12:47:16.91ID:WoSGmQ/W0781人間七七四年
2012/05/12(土) 23:15:20.00ID:U3/WkhLsてめえ、宝賀厨か
0782人間七七四年
2012/05/13(日) 21:17:57.69ID:3cTI/FF3いつの間にか伊達領になってるの?
0783人間七七四年
2012/05/14(月) 07:05:17.01ID:xYZkzT87「はず」 ←ここに注目
実際は、大坂政権→江戸政権によって、線引きされた。
こういう細かい部分の領土のやりとりは、あちこちで行われており、
整理整頓が行われた。
整理整頓するのが、中央政権の役目ともいえよう。
そもそも九戸が攻略した土地が、自動的に南部領かはかなり疑問だ。
0784人間七七四年
2012/05/14(月) 19:49:02.62ID:rVAlg1Q10785人間七七四年
2012/05/17(木) 14:50:39.46ID:EdLCnHVk0786人間七七四年
2012/05/23(水) 20:05:46.79ID:PABLn9zE伊達の前に木村親子に与えられてるから。
0787人間七七四年
2012/05/31(木) 23:29:15.36ID:0Y4U3vBe0788人間七七四年
2012/06/04(月) 23:53:52.70ID:W+rz05LH南部城行って風呂入ってくる
0789人間七七四年
2012/06/11(月) 22:52:52.36ID:n7TGTiq4どうだった?
0790人間七七四年
2012/06/14(木) 23:08:42.49ID:VmLgQxuE0791人間七七四年
2012/07/01(日) 11:45:46.87ID:Rtei05Dg0792人間七七四年
2012/07/01(日) 12:01:58.03ID:Rtei05Dg0793人間七七四年
2012/07/01(日) 12:18:42.34ID:E1oYpIwa0794人間七七四年
2012/07/07(土) 00:22:36.66ID:GK4wdTiu0795人間七七四年
2012/07/09(月) 22:54:25.73ID:8M20aFwV0796人間七七四年
2012/07/10(火) 22:41:30.46ID:jvG7x7/Xあれほど信直擁立に拘ったのかが分らないんだけど・・・
いくら庶子とは言え仮にも当主晴政の息子より
信直を推す理由が思い当たらないんだけど。
0797人間七七四年
2012/07/11(水) 16:34:41.54ID:02ltdrCD信直のがましだって思っただけだろ
0798人間七七四年
2012/07/13(金) 16:18:59.85ID:UQ6MugqO取るに足らない家臣ならまだしも、信直は高信の子。
盛岡藩の史書を信じるなら、高信は九戸政真と並ぶ当時の軍事トップでしょう。
晴政派 VS 高信派で南部全体が割れてたことが想像できる。
東政勝とか右往左往してるし
0799人間七七四年
2012/07/13(金) 21:50:43.93ID:sj1FTp1n勢いずくことを恐れたからだろ。
三戸南部が八戸南部から権限を奪ったように
九戸政実が当主格になるのが我慢ならなかったんじゃね。
0800人間七七四年
2012/07/18(水) 22:29:12.18ID:t2jUig1E0801人間七七四年
2012/07/25(水) 23:49:30.16ID:eklY8FQp0802人間七七四年
2012/07/29(日) 21:34:19.46ID:Cd0wF1Bi>>晴政派 VS 高信派で南部全体が割れてたことが想像できる
これ分らないんだが・・・
石川高信が南部晴政と争ってたなんて初耳。
0803人間七七四年
2012/07/30(月) 13:01:38.30ID:CiUH+9GX0804人間七七四年
2012/08/11(土) 20:54:48.36ID:RqgumLcJ0805人間七七四年
2012/08/12(日) 00:52:09.36ID:cSUafMrF0806人間七七四年
2012/08/13(月) 18:31:03.49ID:O7F9/AaIそれで安心してたのに実子の晴継が生まれて、
そうなると実子に継いで欲しくなった→信直邪魔
という流れじゃなかったっけか?
石川vs晴政なんてもんだったかどうかは知らんけど。
0807人間七七四年
2012/08/14(火) 13:31:48.84ID:9MUrXf46実の子供に権力握らせたいのはどちらも同じかと
0808人間七七四年
2012/08/14(火) 23:05:19.92ID:s2hd1z32親父の元に避難してればあんな騒動起きなかったのかもな。
0809人間七七四年
2012/08/25(土) 21:54:43.05ID:Zteku4L1>それで安心してたのに実子の晴継が生まれて、
>そうなると実子に継いで欲しくなった→信直邪魔
追記すると
信直の後見人、石川高信が邪魔。
おい大浦為信あいつをやったら津軽をお前の好きにしていいぞ。
0810人間七七四年
2012/09/02(日) 16:47:22.58ID:I81O+oYG0811人間七七四年
2012/09/07(金) 20:29:52.59ID:7WHBd+t/http://www.nikkeibookvideo.com/goods_img/168253.jpg
。 。
/ /
( A )
0812人間七七四年
2012/09/07(金) 20:50:49.38ID:rO2X1sVD鹿角奪還とか斯波氏率いる連合軍との戦い、
あと九戸の乱とかで1万人以上動員してるのに。
0813人間七七四年
2012/09/27(木) 21:54:03.25ID:ZZer/OK/信直を暗殺には、失敗したが鉄砲の腕を見込まれて
登用されたとかまるで漫画みたいな話しだけど。
0814人間七七四年
2012/10/22(月) 23:47:02.55ID:wE2J/arr!?
0815人間七七四年
2012/10/24(水) 13:53:17.95ID:uB7KMeGU道歩いてたら農民の娘がいきなり跳びかかって来て縁起がいいからって泥をベタベタ塗りたくって
その時に一目惚れかなんかしたのか嫁にして生まれたのが晴継
晴継さんが家を継いでたらロマンチックだったのになって思っちゃう
0816人間七七四年
2012/10/24(水) 20:50:45.32ID:SYcempkt0817人間七七四年
2012/10/25(木) 13:43:45.39ID:NuVYBbNT弘前藩士で明治をむかえたらしいけどね
0818人間七七四年
2013/01/12(土) 20:59:21.38ID:DocW4l8a南部領から駆け落ちで津軽藩に逃げる人も多かったみたいだし。
0819人間七七四年
2013/01/31(木) 00:07:23.96ID:mtlTXbiA0820人間七七四年
2013/02/10(日) 23:45:46.83ID:Rouy2pp3統治しきれなかっただけであって。
0821人間七七四年
2013/02/11(月) 20:49:01.43ID:Hh2Z8Hf40822人間七七四年
2013/02/13(水) 17:59:56.66ID:YjkVCoyh岩手県央の斯波と阿曽沼、あと鹿角郡の諸将を
合わせて南部家って呼ばれるのが一般的。
0823人間七七四年
2013/02/16(土) 20:56:28.92ID:1B1FI248サンクス
0824人間七七四年
2013/02/17(日) 12:04:42.23ID:kMjNMRgI斯波は違うだろうがよ明らかに。あと
北畠も文献を鵜呑みにするなら南部とは別個で別格の存在ってことになる。
南部の血でなくても南部に仕えた一族は多いが
そうでないのまでいっしょくたに南部とは呼ばん。
0825人間七七四年
2013/02/21(木) 20:40:47.36ID:7I/FHYMP事実上、従属してたと考えていいんじゃないか。
北畠に関しては確かに南部家ってのは言い過ぎだったと思う。
0827人間七七四年
2013/02/26(火) 23:28:56.33ID:qz/iUyg0後世に斯波家は残しておいて欲しかった。
0828人間七七四年
2013/04/30(火) 21:50:27.90ID:xmZlIxH90829人間七七四年
2013/05/24(金) 20:11:27.28ID:Ebg1J+FA浪岡北畠っていつの間に津軽地方で最大勢力になったんだろうか・・・
当初は旧浪岡町くらいしかなかったはずなのに
0830人間七七四年
2013/05/26(日) 14:31:07.76ID:3tCvvYbY一般的には南部家が安東をと言われてるけど、
もしかしたら北畠が主導で安東と戦ったのかもしれん。
でないと説明がつかない部分が多々あるし。
0831人間七七四年
2013/05/26(日) 17:18:56.94ID:G1x5Khc9北畠って言えば太平記の頃の南朝奥州小幕府の将軍。
北畠顕家でググれば当時における重要性が分かる話がなんぼでも出て来る。小説にもなってるし。
安東や南部なんかはその下で足利勢である斯波らと戦ったわけ。
安東はともかく南部は相当最後の方まで北朝に帰順しなかった南朝の鑑みたいな一族だから
南北合一の時のどさくさにかつての上司に棲家を献上しててもおかしくはない。
0832人間七七四年
2013/06/01(土) 11:33:44.94ID:GL/BCA+h独自に朝廷と関わってることからも戦国大名として見られてる。
0833人間七七四年
2013/06/02(日) 19:40:38.78ID:QXM/uXE6おかげで津軽に離反されても動けずに領土の4分の1(しかも本領)をみすみす逃す体たらく
後半なんとか仲良くなって斯波を滅ぼしたがそのころには葛西家とまともに戦う勇将も国力も無い
ついでに九戸に裏切られて領土の半分を失う(もう南部家ってどこが主家なの?)
運が良い事に秀吉と仲良くしておいたおかげで九戸を討伐してもらうが宿敵だった葛西も瞬殺されて愕然
自分たちの誇った領土も中央に換算するとせいぜい10万石。三日月(爆
正直呪われてると思う
0834人間七七四年
2013/06/02(日) 20:38:29.96ID:QXM/uXE6安東と津軽に半分振り分けるとして1500人しか運用できない
これに葛西伊達とも敵対してるから如何に四面楚歌かが判る
しかも一族仲悪い
なんで強いって言われてるのか解らん
0835人間七七四年
2013/06/02(日) 22:36:46.72ID:6M6u+rWs「見られてる」って誰に?
出自が公家の国司なんだから朝廷と関わって当たり前なんだけども。
一族の権益を守るため武装して土地を取り合った戦国大名として
浪岡の北畠を見ていいかどうかは疑問。
>>833
強力な主家が一族を纏める、といった戦国大名になっていなかったのを
太閤秀吉のお達しで代表ひとりってことになったから揉めたのが九戸の乱。
九戸には「主君たる三戸への裏切り」なんて意識は微塵もなかったはず。
三戸と八戸どっちが主家だったか、なんて基礎的なことにすらいくらでも説がある。
おまけに八戸はバリバリの日蓮宗だが他は違うとか、それぞれの体質が随分違っていた。
晴政の時代にまとまりかけたが世継ぎで揉めたことが引き金で津軽の独立となった。
これらをして「一族仲悪い」と一概に言っていいものかどうか。
そりゃノブヤボで「南部家」とまとめてしまうと不自然な「一族」だけど、
太閤サンの時代まではそれが普通だったとも言えるわけで。
伊達家のゲームでの顔ぶれとかも似たようなもん。
あと「強いって言われてる」って誰に?
0836人間七七四年
2013/06/02(日) 23:56:54.52ID:QXM/uXE6>>820
岩手の大名と言えば南部だけど歴史は古くてもやってることは地味すぎるんだよ
歴史の教科書でも色つきで領土書いてるけど大したことないし
あと晴政がいたのに「主家は三戸じゃない」ってのもおかしいよ
晴政いなかったら安東に滅ぼされててもおかしくなかったんだから
しかも八戸が折れて三戸主家でいいよってなってる筈
立地は悪いけど某小説で言ってたみたいに、もし晴政の時代に一丸となってれば
伊達家に匹敵してたかもしれないだけに無念だったろうね
まあ九戸も信直も晴政も戦犯なんだけどさ
0837人間七七四年
2013/06/05(水) 21:00:34.41ID:viYT8uRO戦国大名の定義そのものが難しい問題だけどな。
ただ浪岡北畠は独自に検地を行ったり、津軽地方の約半分を支配下に治め
津軽の政務は北畠が担ってると書かれてるし、
単なる一国人の枠を突き出てる存在なんだから普通に戦国大名と見られてる。
0838人間七七四年
2013/06/06(木) 21:03:41.02ID:QJMrLQK4どこか面白いところないかねぇ〜
0839人間七七四年
2013/06/06(木) 21:54:00.57ID:LQatlG4v戦国時代じゃ地味な印象だろうけどねえ。
足利将軍直属の軍勢を一度は破った南北朝期を忘れないであげて。
晴政の時代に安東が攻め込んだのは鹿角。
要するに南部のテリトリーの中でも辺境で
南部そのものを駆逐する意図があったとはとても思えん。
つかその時安東を降伏させたのが他ならぬ九戸なんだがねえ。
晴政の時代が特別視されているのは単に、三戸南部にはこの時期以降の史料が多く
しかもそれ以前の史料がほぼ真っ新に焼失しているからとしか思えないんだが。
実際戦争で活躍してるのは晴政より信直。斯波を滅ぼしたのもそう。
つか応仁以前にも他勢力とのいざこざが絶えなかった南部の歴史の中
鹿角防衛戦がどれだけの意義を持っていたかは疑問。
一族を統一して攻めて来た安東に対抗するため一族が結束したことには意義があるが
Wikiに書かれているような「有力支族を旗下におさめ」なんてものだったかも疑問。
異説諸説がまかり通っている南部史をWikiの知識ひとつで語ってもしょうがない。
あと「言われてる」「されている」なしには語れませんか。とても気持ち悪いです。
0840人間七七四年
2013/06/07(金) 04:01:55.97ID:D80XL6I8自分がソースで語る方が気持ち悪いわ
らしいらしくないで語るなってタイムスリップでもしてきたのか?
南部の大まかな流れを知ってる上で敢えて全部否定してる様だけど随分齟齬だ目立つな
鹿角は安東と南部の境界線だろ
国力が互角の安東がそこを越えてくるって時点で十分危機だっつの
0841人間七七四年
2013/06/07(金) 23:19:17.17ID:DkWTsD5Z南部晴政も伊達輝宗も共に最盛期を築くけど
後継ぎに失敗してる点もそっくりだけどな。
輝宗は長男が想像以上にイカれてたし、
晴政は庶子の長男に無理やり家督を継がせようとしてお家騒動を引き起こしちまった。
0842人間七七四年
2013/06/08(土) 00:27:52.47ID:AqAj+f0c津軽の北畠が権勢らしきものをふるうのは戦国大名が生まれるずっと前で
安東愛ちゃんや南部のはるるんが辛うじて戦国大名に相応しい体裁を持った頃には
お飾り集団に堕しているね。
津軽北畠にもいい時代があったことを言いたいなら戦国大名を持ち出すのが変だし
北畠戦国大名説なるものがあるならどこで言われてるかソースを示すべきじゃない?
0843人間七七四年
2013/06/08(土) 07:30:53.43ID:FzTPF1/h南部の真骨頂はその外交力。戦国末期にあれだけ
中央政権を上手く使った大名はいない。
例えば斯波氏を滅ぼしたのは、明白な惣無事令違反だが
お咎めなしどころかそのまま支配を認められてる。
また奥州仕置に乗じて、失った津軽郡の代わりとして加増されたが
南部が支配してたのはせいぜい南津軽程度なので
失ったものよりも遥かに得た物の方が大きい。
0844人間七七四年
2013/06/09(日) 10:31:43.82ID:l0mLCkc0斯波氏はほんといいところが宗家も含めてない。まぁ吉良なんかも糞だが。
0845人間七七四年
2013/06/09(日) 10:47:20.47ID:FYorIRs30847人間七七四年
2013/06/11(火) 03:08:06.00ID:nCLEwRfb津軽は浪岡を攻めたけど南部や安東からは「保護」されていたはず。
名家ではあるが南部に従属してる浄法寺、工藤が戦国大名と言われないところを見るに
南部らの世話になっていた浪岡北畠を戦国大名と呼ぶのは違和感があるよ。
戦国大名っていう身分があったわけじゃなく、後世の評価がその定義になるような単なる言葉だから
どうでもいい話ではあるけど、例えば南北朝以降居座っている南部が戦国大名なんて言われるだけの
格を得たのは晴政あたりってことになっている。浪岡具永なんかよりずっと後だ。
オレも「浪岡北畠は戦国大名だ」と積極的に主張しているものを見たことがない。
あるなら素でソースきぼん。
0848人間七七四年
2013/06/11(火) 19:54:01.09ID:0LcY9AMyそれに書いてたと思ったな。
というか大名じゃないなら浪岡北畠は何に当たると
考えてるんだ?
0849人間七七四年
2013/06/11(火) 22:05:19.83ID:rIJzYMtX0850人間七七四年
2013/06/12(水) 21:15:13.55ID:ND51MXOj一応、北畠も入ってるぞ。
0851人間七七四年
2013/06/12(水) 22:46:30.54ID:Tf3zwHL80852人間七七四年
2013/06/13(木) 02:01:45.63ID:lqKqpLsC0853人間七七四年
2013/06/13(木) 11:18:02.89ID:FyVhEwfC0854人間七七四年
2013/06/13(木) 16:21:32.49ID:qKPdenEiどれくらい違うものか俺に教えてくれ。
0855人間七七四年
2013/06/13(木) 21:25:11.58ID:RnPucNm6そもそも北畠があの北畠の末裔かどうかまで怪しいんだぞ?
しかも戦国大名だったと書いてあったらしいのは
東日流外三郡誌なんかを平気で郷土資料にまとめる
悪名高き青森県の郷土史家なんだろ?
2chの噂レベルでくだらねーこと言い合うくらいならちゃんと史料集めて来い。
戦国大名の定義をテコに議論してたらマトモな結論なんて出っこねーよ。
0856人間七七四年
2013/06/14(金) 09:11:41.16ID:FPiBJTms国人たちに安堵状を発給するのが大名じゃないかな。
二本松畠山・浪岡北畠はそういう意味では戦国大名へ昇華できなかった。
ただ、ただの国人とも違う古びたものの権威は持つ高貴な家柄で
問題が生じたときは権威をひっぱりだして解決が図れる一目置かれる土着国人と貴族の中間に位置するもんだろう。
ただあくまで権威であって権力ではない
0857人間七七四年
2013/06/14(金) 22:31:34.77ID:3ZesG02w1万石を超えてるだろうから戦国大名だろ。
0858人間七七四年
2013/06/14(金) 22:43:55.04ID:AKZeEKsB0859人間七七四年
2013/06/15(土) 10:26:01.40ID:w3FDH/ou南部からしてはっきりと安堵状を通じての主従関係をきっちり結んでいたか怪しい。
0860人間七七四年
2013/06/15(土) 22:58:33.90ID:0+2sZFQ5基本的には豪族連合みたいなもんだしな。
だからこそ求心力を保つために合戦や中央工作をしてた
0861人間七七四年
2013/06/15(土) 23:20:19.45ID:UvYDXJmy0862人間七七四年
2013/06/16(日) 02:21:44.37ID:iJFdil6wロクに取れなかった。
平成になってもおてんと様の具合一つで収穫ゼロなんてことがあった。
0863人間七七四年
2013/06/16(日) 20:55:25.11ID:jJCfyvSc日本海側は鹿角と大館くらいまで
0864人間七七四年
2013/06/17(月) 13:46:59.91ID:2FjyX5Bn0865人間七七四年
2013/06/17(月) 17:04:30.10ID:sUHx797d0866人間七七四年
2013/06/17(月) 17:33:52.63ID:opO94+9i0869人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:8CcFxg9a米が採れない=経済力が弱い。なはずなのに
周りの米が採れる大名相手に優位に立てたのかが不思議。
0870人間七七四年
2013/07/10(水) NY:AN:NY.ANID:K8ICTdDS「周りの米が採れる大名」は存在しない。
0871人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:8bbTGnrZ0872人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:X/dho6fXクマ狩りや動物狩りはあったぞ。毛皮がないと真冬過ごせないからな。
つまり動物の肉は採れてた。
0873人間七七四年
2013/07/11(木) NY:AN:NY.ANID:3Qci7c9i特に北上平野は稲作以外にも古くから金が採掘されてたし
東北地方では割と拓かれていた方。
0874人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:ScDYagMy0875人間七七四年
2013/07/12(金) NY:AN:NY.ANID:st38I76Q由緒正しい南部藩士の末裔とかは別として、俺含む岩手県民一般の認識ってそんなもんだと思う。
名君・暗君以前に「空気」w
0876人間七七四年
2013/07/14(日) NY:AN:NY.ANID:7XuXhns2確かに糠部郡は米がとれないけど鉄や漆、馬といった合戦に
欠かすことは出来ない物は豊富にあったからでしょ。
0877人間七七四年
2013/08/13(火) NY:AN:NY.ANID:93QpczOGってあるけど、北国での1月に軍事行動は可能だったの?
0878人間七七四年
2013/08/15(木) NY:AN:NY.ANID:uGBDwb8L恐らく間違った資料でも読んで書いたんだろ。
0879人間七七四年
2013/08/19(月) NY:AN:NY.ANID:Apm2Hhem旧暦天正18年1月29日 ≡ グレゴリオ暦1590年3月5日
3月も雪積もってそうだけど
0880人間七七四年
2013/08/19(月) NY:AN:NY.ANID:7Z3dqSlN0881人間七七四年
2013/08/19(月) NY:AN:NY.ANID:Apm2Hhem天正18年正月の祝いの席で、大浦為信が浪岡城の郡代と喧嘩したのが原因とされる
実際の戦闘開始は天正18年旧暦3月26日(西暦1590年4月30日)に大浦為信が浪岡城を襲った時で、
南部信直が軍を津軽に向けたは、それよりも後
南部信直の軍は先鋒が野辺地まで進んだものの(本人は七戸まで)、
本軍は特に戦うことなく小田原攻め撤退している
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763427/37
十八年正月十日浪岡城の具足餅開きに際し、
態と郡代と争論して無礼の言を放ち、諸士にその理非を問ふ。
諸士その威に恐れて皆為信を是とす。
窃に喜で愈兵を挙ぐるに決し、
三月秋田実季の臣秋田四郎兵衛に使を遣して援兵を乞ふ。
(中略)
三月二十六日秋田の援兵至るや、即夜急に浪岡城を攻む。
城中事不意に出でたるを以て大に狼狽し、
士卒城を陥れて為信に帰する者多し。
二十八日城遂に陥り両軍代出奔して三戸に帰る。
(中略)
公この敗報に先ち、自ら兵を率て津軽を討たんとし、
先鋒の任に当らしむべく九戸政実を召す。
0882人間七七四年
2013/08/26(月) NY:AN:NY.ANID:PkRhvygB0883人間七七四年
2013/08/28(水) NY:AN:NY.ANID:pmCyQR1m0884人間七七四年
2013/08/29(木) NY:AN:NY.ANID:czC9GRoJそりゃ北なのに南部なのに疑問持つのはわかるがあんまりだ
0885人間七七四年
2013/09/03(火) 21:52:28.13ID:7WstMYCIあっちの住人がいかに根拠なく人を叩きたいか分かったんだから
よかったじゃねえか。これを機にネトウヨ卒業汁。
0886人間七七四年
2013/09/05(木) 00:24:13.55ID:pn92LWu0木下がみんな朝鮮人なら秀吉は同族相手に戦争したのかと。
0887人間七七四年
2013/09/09(月) 22:41:35.04ID:hpLb0Ibb南部安信の後の世代の人物に思えてしょうがない。
・千徳村黒森神社の棟札に天文十年「南部右馬允安信」に比べ
二戸郡斗米村の月山神社棟札の永禄二年「南部新四郎政康」、
二戸郡御返地の新山神社棟札の天正五年丁丑「源政康」
活動時期が逆転していること。
・三戸南部氏から偏諱と思われる南家歴代の諱が、南「信」義(長義)―南「康」義であること。
・永禄、元亀頃に活躍した桜庭光康が南部政康、安信に仕えたと伝わること。
安信も天文頃まで生存しているから、政康が安信の後にくればこの伝えの辻褄は合う。
このくらいしか根拠ないが、第21代の南部信義との関係が曖昧だし、
子とされる毛馬内秀範が1521年生(鹿角志の大光寺縁起によれば1508年生。)である。
安信以前の家譜が相当疑問なのはわかっているけど、
実際のところ、信義―安信―政康―晴政の順ではないのかなぁ。どうだろうか?
0888人間七七四年
2013/09/16(月) 21:00:29.62ID:wCV0odlM石川高信だったという説もあるからねえ
実際のところは誰にも分からないし
今後も分かりそうにはない
0889人間七七四年
2013/09/22(日) 14:01:04.45ID:AnC5gjXE備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
0890人間七七四年
2013/12/21(土) 19:31:27.65ID:1jjk3T/9> おまけに八戸はバリバリの日蓮宗だが他は違うとか、それぞれの体質が随分違っていた。
なるほど。宗教までは頭が回らなかったよ。
0891人間七七四年
2014/04/01(火) 23:58:23.22ID:tOskXxXK0892人間七七四年
2014/05/19(月) 23:44:30.91ID:uAmh6Ryw0893人間七七四年
2014/05/25(日) 14:09:53.91ID:oyrSgGnm0894人間七七四年
2014/06/13(金) 01:57:17.04ID:veAV/CNo0895人間七七四年
2014/06/21(土) 10:06:21.04ID:EkSvx9Vo0896人間七七四年
2014/10/02(木) 07:29:56.30ID:bZIF/SUfhttp://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201409/20140930_25007.html
0897人間七七四年
2014/10/08(水) 03:25:52.82ID:liNj28WM近くの三光寺には信直夫妻の墓所や利直の霊屋なんかがあり町のHPにも載っているが寺側が非公開にしていて見られなかった
住職に遠方から来たと言ったら見せてくれたという人の話もあるがあまり観光向けではないのだろうな
0898人間七七四年
2015/01/23(金) 00:30:46.06ID:0A6q+d6Hアイヌの毒矢と伊達政宗の騎馬鉄砲隊が活躍したとか
色々言われてますけど、攻城戦で毒矢や騎馬鉄砲は
あんまり意味がない気がしますが
0899人間七七四年
2015/02/02(月) 22:49:39.73ID:YCU/3Ey90900人間七七四年
2015/02/13(金) 00:39:01.49ID:Ir2Bt14J九戸抜刀隊、九戸鉄砲隊の逸話も基本的には口伝を
後世の人が纏めたものだから信憑性には疑問符が付く。
ただ10倍以上の髪型軍が謀略を使わざるを得なかったことから
初戦は九戸側は善戦したと思われる。
0901人間七七四年
2015/07/15(水) 23:45:27.65ID:gfKgwlO0大光寺城及び大光寺氏のことを調査してるんだけど、意味不明すぎる。
やっぱ津軽側の創作話ですかね。
0902人間七七四年
2015/07/16(木) 07:56:14.95ID:ucyyn8nS0903人間七七四年
2015/07/16(木) 16:07:15.54ID:F7YKmRhd『下根杭日向守鎮元 瀧本播磨守頼喜と同断』とかある。
0904人間七七四年
2015/07/16(木) 21:58:43.05ID:kWrx5Mffありがとう助かります。
下根杭って下名久井、つまり東氏か工藤氏だよね。
奥南落穂集の津軽の欄、読みなおしてみる。
0905人間七七四年
2015/07/17(金) 06:49:31.23ID:mFTxq58A> 葛西や大崎なんてgdgdの代表格だが、外の敵には比較的団結して戦うしね
アウェイでは弱いが、ホームゲームには強いんだっけ?
0906人間七七四年
2015/07/17(金) 20:36:55.34ID:hkGJubM2戦国時代になると大分落ちてるみたいだからねえ
色々と調べてもせいぜい南津軽郡しか
支配できてないっぽいし
0907人間七七四年
2015/07/18(土) 11:20:51.67ID:viuMqmPj横内、油川、大浦、石川、和徳、大光寺、田舎館、浅瀬石、ってこれ全部南部の城だよね
0908人間七七四年
2015/07/18(土) 19:30:29.67ID:yK3WG8Wb0909人間七七四年
2015/07/18(土) 21:49:41.92ID:HBtyCJ/L0910人間七七四年
2015/07/18(土) 21:51:42.25ID:su5+GSdC俺の知ってる限り、下国家を津軽に追いやってから大浦為信が反乱起こすまでに津軽で起った戦闘って、
・安東政季が糠野城を拠点として津軽奪回を目論むも地盤が緩すぎて失敗
・大浦氏と小山内氏の喧嘩
ぐらいだし、郡代を置いとくぐらいで充分な支配だったと思われる。
結局大浦為信に全て掠め取られてしまうのは、お家騒動で対応できなかったのもあるけど、
やっぱり奥羽の戦国大名にとって山間部を越えての支配はキツかったんじゃないかな。
特に南部氏は領土の広げ方と、占領した土地の治め方がチグハグすぎる。
その点、やっぱ織田・武田・後北条辺りは凄い。
0911人間七七四年
2015/07/18(土) 21:54:46.06ID:su5+GSdC下国家を津軽
じゃなくて、下国家を渡島
です
0912人間七七四年
2015/07/18(土) 23:10:37.73ID:8iEy0sssどう考えても大変そうなのによく取られなかったもんだ。
0913人間七七四年
2015/07/19(日) 15:55:35.23ID:DBOoDkEp> やっぱり奥羽の戦国大名にとって山間部を越えての支配はキツかったんじゃないかな。
もともと道路網が貧弱なのと、冬だな。
0914人間七七四年
2015/07/19(日) 15:57:46.46ID:DBOoDkEp> 横内、油川、大浦、石川、和徳、大光寺、田舎館、浅瀬石
これは関東以西基準だと、城ではなく砦でしょう。
0915人間七七四年
2015/07/19(日) 17:09:08.19ID:eJMcWvRb津軽と鹿角から安東を滅ぼしにいくか、斯波氏を滅ぼして厨川、盛岡あたりに城作って本拠を移すとかかな
0916人間七七四年
2015/07/19(日) 18:06:33.46ID:iECawUGB無理に増やせば敵も増え面倒の種を背負い込みまくるだけだし
0917人間七七四年
2015/07/19(日) 21:15:10.30ID:Ks+Ee+l80918人間七七四年
2015/07/20(月) 00:51:35.43ID:zham1+rl当初は南部氏が持ってた支配権がどういうわけか
次第に浪岡北畠氏に移ってる
>>915
春秋戦国時代の秦みたいな改革が出来たらやれたかもな
基本的に生産性が低い土地だから攻め込まれにくいし
生産性が高い土地を手に入れるって目的があれば
兵の士気も高めやすい
0919人間七七四年
2015/07/20(月) 06:23:51.52ID:GD3UMwhw1万石につき250人動員という基準は当てはまるのだろうか?
当てはまらないとしたら
どれくらいが妥当なのだろうか?
0920人間七七四年
2015/07/20(月) 07:09:48.07ID:QqnHU8VPあと、九戸の乱の時は南部さんはボコられてたの?
0921人間七七四年
2015/07/20(月) 08:47:25.19ID:J+nfkR/f>ここのスレにでてくる北畠と伊勢の北畠は親類なんすか?
親類というか、同祖。
0922人間七七四年
2015/07/20(月) 08:49:34.88ID:J+nfkR/f> あと、九戸の乱の時は南部さんはボコられてたの?
火だるま炎上状態
0924人間七七四年
2015/07/20(月) 14:57:44.14ID:H1rYalC0農業生産が低いから領土の広さや人口に比べて他国より石高が低くなるので、まあ妥当なんじゃない?
0925人間七七四年
2015/07/20(月) 19:09:46.09ID:ApoQKFQB今でも山林ばっかりなのに
戦国時代だと更に開拓されてなくて
統治大変だっただろうな
0926人間七七四年
2015/07/21(火) 03:07:54.48ID:qqSlLEWg0927人間七七四年
2015/07/21(火) 09:05:01.56ID:jOz0aIHl信濃なんか良い例だよね?特に木曽を統治するのは信玄でも無理だったから、婚姻で従わせた殆どだしね
0928人間七七四年
2015/07/21(火) 09:18:52.16ID:k+XraZ26津軽の話になるけど、垂柳や砂沢遺跡だってあったわけだし
0929人間七七四年
2015/07/21(火) 09:22:23.61ID:k+XraZ260931人間七七四年
2015/07/22(水) 00:45:33.72ID:TBlsdtEi0933人間七七四年
2015/07/22(水) 15:56:32.61ID:ay+OBnVp俺もそう思う。占領できるが、維持が難しい。
0934人間七七四年
2015/07/23(木) 18:49:53.11ID:Ad+AmFc3斯波本体は弱くても、その頃の奥羽だと足利一門が結束しているだろう
南進なんて無理無理
0935人間七七四年
2015/07/23(木) 20:57:36.22ID:IRj70WQQ他に侵攻先がないから仕方ない。秋田とか遠すぎだし
北上盆地以上に維持が難しい
0936人間七七四年
2015/07/23(木) 22:45:30.44ID:8lWprfzEで、後顧の憂いなく斯波氏攻めに大軍を送るとする
すると稗貫、和賀、葛西勢が斯波に援軍出すんかなやっぱ
めんどくせーな岩手
0937人間七七四年
2015/07/24(金) 09:12:10.43ID:vnB8o11H0939人間七七四年
2015/07/24(金) 22:22:27.98ID:xjFi2doC南部vs斯波、和賀、稗貫連合は度々衝突してたよ
耐えきれなくなった斯波は九戸政実の弟を娘婿に迎え
実質的に南部の傘下に入らざるを得なかった
0940人間七七四年
2015/07/24(金) 23:24:49.72ID:RM/ZxmJZ0941人間七七四年
2015/07/25(土) 00:21:05.56ID:f7BhWe4j0942人間七七四年
2015/07/26(日) 14:42:34.44ID:1y9t6eP50943人間七七四年
2015/07/26(日) 16:01:41.27ID:XvLbyfFD0944まこと
2015/07/26(日) 16:06:32.86ID:Q5Hu+ynL0945人間七七四年
2015/07/26(日) 16:07:20.64ID:Q5Hu+ynL0946人間七七四年
2015/07/26(日) 17:13:38.65ID:XvLbyfFD0947人間七七四年
2015/07/26(日) 19:05:15.19ID:9IrFICFl0948人間七七四年
2015/07/28(火) 20:57:39.23ID:MwLcWChV和賀を降すのは時間の問題だろうがそっから先は微妙
斯波と和賀を従えて葛西領に殴りこむだろうけど
葛西、小野寺の連合相手だとそう簡単には領土を拡げられないかと
0949人間七七四年
2015/07/29(水) 10:18:20.31ID:qB4YRMBKもし津軽の領土を維持したまま江戸時代迎えてたら飢饉と一揆でお家潰れてそうだな
0950人間七七四年
2015/07/29(水) 14:02:39.17ID:iUs5CGE/江戸幕府が南部氏には異様に甘いから、その場合でも幕末まで家が持ちこたえたと思うね。
0951人間七七四年
2015/08/03(月) 14:39:31.04ID:sSLeX/z90952人間七七四年
2015/08/08(土) 20:20:55.18ID:YeUTqgwE浪岡北畠がいるから、どのみち津軽地方は南部から離れていく定め
歴史にもしはないが浪岡北畠藩とかできてたら
外様でありながら要職とか幕府から与えられそう
0953人間七七四年
2015/08/09(日) 16:20:10.14ID:aNd/4oDM浪岡北畠を過大評価しすぎでない?
いくら安東と組んでたと言っても戦国末は衰勢激しくて、津軽全土を取るのは無理だろ
0954人間七七四年
2015/08/09(日) 20:29:08.67ID:fZjR6+CCこれは防御力が低そうな感じだが、どうなの?
仮に上杉謙信が攻めてきたら20分くらいで落城しそうなんだが
https://youtu.be/_5oJoqytoBY
0955人間七七四年
2015/08/09(日) 22:57:19.15ID:npixdbTg当時の津軽地方は浪岡北畠を筆頭として大浦、大光寺の三勢力が領有してたけど
秀吉の小田原参陣の情報を得やすい大浦が、南部の傘下で大人しくしてるわけがない
大光寺も小田原に行くだろうし津軽地方はどの道南部から離れていく
0956人間七七四年
2015/08/10(月) 04:36:21.17ID:1rsqD1WU0957人間七七四年
2015/08/12(水) 00:13:58.69ID:vSlDxOJs笑わせてくれる
大光寺なんて三戸南部の分家の分家じゃねーか
大光寺が独立勢力のように見えるのは、石川城が落ちて、本家の援助を充分に得られずに大浦氏に独力で対峙してたからだろ
どちらかといえば千徳氏のほうが小田原行ってそうだわ
0958人間七七四年
2015/08/12(水) 08:07:47.74ID:CUQYpoYP常陸佐竹氏の例でいうと、真壁氏や江戸氏のような感じだな。
事実上は独立勢力なんだが、戦場に出た時には佐竹氏の指揮下に入るという感じの。
0959人間七七四年
2015/08/13(木) 23:56:50.94ID:6FGOzk8n0960人間七七四年
2015/08/17(月) 12:31:50.41ID:kl3vsbAy>>葛西、小野寺の連合相手だとそう簡単には領土を拡げられないかと
大崎や最上と組んで葛西と戦うかもしれないし
意外といけそうな気がする
仮に葛西領を手に入れたらそのまま南下するか
横手盆地に進出するかどっちだろうな
だけど面白いのはこれからだって時に、
グダグダの内乱が始まるんだよな
0961人間七七四年
2015/08/17(月) 16:12:37.59ID:ubg2Apd80962人間七七四年
2015/09/23(水) 20:39:12.18ID:oEv3umO40963人間七七四年
2015/10/14(水) 01:01:13.58ID:b0hX7QcOまあ南部信直は残党狩りはしなかったから
領内に隠れてた国人も多いだろうね
0964人間七七四年
2015/10/14(水) 20:43:28.14ID:A/9v6IBk源氏なのに珍しいね
0965人間七七四年
2015/10/14(水) 21:04:46.05ID:IgeNTt2t山梨県にとどまった人がいるかもしれないが
記録に残っていないのかもしれない。
0966人間七七四年
2015/10/14(水) 21:11:41.84ID:CFUr7ErQ「あの地方にしかいなかった」のは佐竹氏の方。
0967人間七七四年
2015/10/14(水) 21:46:58.48ID:8wTLs6m7土佐藩出身の男爵に南部姓の人が居たけど
この人も南部光行の末裔らしい
あと加賀出身の陸軍中将で南部辰丙て言う人が
系譜は不明だけど多分一族だと思われ
0968人間七七四年
2015/10/14(水) 21:51:16.44ID:IgeNTt2t南部甕男
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E7%94%95%E7%94%B7
0970人間七七四年
2015/10/15(木) 02:46:43.06ID:f2OHA9H90971人間七七四年
2015/10/15(木) 08:14:17.44ID:35U5WqgO南部の前に鹿角郡奪われとるし庄内の連中にフルボッコwwww
0972人間七七四年
2015/10/15(木) 08:18:42.70ID:AS+FOKAE佐竹は茨城の入り組んだ地形で戦うからそれなりに強かったのであって
秋田では無理。
0973人間七七四年
2015/10/15(木) 14:00:45.50ID:b2zIO0oV0974人間七七四年
2015/10/15(木) 17:59:19.51ID:w3RhIuKc0975人間七七四年
2015/12/04(金) 06:08:49.97ID:OxVYBzvU0976人間七七四年
2015/12/04(金) 06:13:04.26ID:OxVYBzvU0977人間七七四年
2015/12/04(金) 06:15:42.44ID:OxVYBzvU0978人間七七四年
2015/12/04(金) 06:17:33.59ID:OxVYBzvU0979人間七七四年
2015/12/04(金) 06:19:59.20ID:OxVYBzvU0980人間七七四年
2015/12/04(金) 06:21:39.34ID:OxVYBzvU0981人間七七四年
2015/12/04(金) 06:22:59.34ID:OxVYBzvU0982人間七七四年
2015/12/04(金) 20:32:01.37ID:8/ez0LiJ0983人間七七四年
2015/12/05(土) 16:44:30.46ID:V3IIoPn8過激な見世物で日本だけでなく南蛮人をも魅了していたに違いない
(例:ふんどしに刀をはさんで曲げる)
0984人間七七四年
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