雑賀衆・根来衆
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 19:04:00ID:vqoDtz6a鉄砲を使った先進的な戦術で、周囲にその名を轟かせた紀州の傭兵集団を語りましょう。
湯川衆についての話題もどうぞ。
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 19:06:11ID:E3c1qlGBhttp://www.m-network.com/sengoku/kisyu/index.html
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 19:44:05ID:MJ2VEjv4本日、CCさくら板のふたごスレ
ファインたんのおててに頬ずり
http://anime.2ch.net/test/read.cgi/sakura/1151634753/
で、みんなでファインたんのおててに頬ずりしませんか?
0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 19:52:28ID:AabMrtDX所詮は傭兵(土豪連合)一国を保つことができなかった。
でも戦国時代の紀伊国(南国)の気風に悪感情はないなぁ・・・
今の和歌山は・・・紀州徳川家に抑圧されたのね・・・
0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 20:04:16ID:+sG1XI6J0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 20:27:39ID:AabMrtDX前提として大きな大名家がなかった国はたくさんあります。
自分が考える理由としては
@それぞれの土豪の力(独立心)が強かった。A寺領が強かった。
B本願寺勢力が強かった。C畿内に紀伊を狙う大勢力が無かった。
D畠山氏があぼーん!E南国なんで人心が御気楽?
といろいろな理由があるのでは?
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 20:45:16ID:+sG1XI6J0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 00:45:36ID:gT0UUybQ豊臣政権下で紀伊国新宮を領有していたとしかわからん・・・
(参照ウィキ)
紀伊の国人だったのか?豊臣秀吉の子飼いだったのか?も
わからん・・・とりあえず関ヶ原で西軍についてあぼーん!しました。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 00:46:25ID:SyFeE7qHある物は本願寺に雇われたり織田に雇われたりとにかく大きな傭兵企業みたいなもんかな。
だけど秀吉にとっては邪魔な存在だったらしいの丸ごとアボーンされた。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 00:53:17ID:gT0UUybQ南紀白浜(和歌山県新宮市から三重県尾鷲市)のほうは
熊野大社、九鬼氏(海賊さん)と小勢力の乱立で
紀伊国内での統一は難しかったと思われます。
0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 13:38:21ID:kjuyS6JO二組50人を一小隊とし、二組が交代で射撃を行なったとある。
そしてその発展例としては作家の工藤章興氏の「二人一組、
25組で一小隊、二人で交互に射撃」という考え方もある。
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 16:06:07ID:GJIfkA060013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 20:42:39ID:e1f2u1SN0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 21:21:43ID:GgDz9B+/女を犯しまくってるところで、暗殺される雑賀孫一
0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 18:44:34ID:rAo4XbCeいい氏に方だなw
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/20(水) 05:57:54ID:Sc/fu81s鉄砲頭やってましたよ。結局徳川の子孫が水戸の雑賀を継いだんだよね
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/21(木) 00:24:43ID:JyiAnIf60018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/24(日) 16:00:36ID:2+RNI/g4.
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/24(火) 00:53:19ID:6HLSlK8ihttp://www.m-network.com/sengoku/kisyu/magoichi.html
あとオマケでこれも
http://www.m-network.com/sengoku/sen-01.html
0020名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 02:59:36ID:hMNhS2qZ雑賀衆
雑賀衆は雑賀五縅とも呼ばれ、雑賀荘・十ヶ郷・宮(社家)郷・中郷・南(三上)郷
の五郷を以って雑賀衆と呼称され、人口10万〜20万、鉄砲三千〜五千挺、動員兵数3万余といわれ、
戦国時代最大の惣国一揆とも呼ばれているが、その実態は各郷の有力家の争いが絶えなかった。
雑賀荘・十ヶ郷は一向(浄土真宗)門徒の鈴木氏をはじめ、浄土宗の土橋氏や岡氏、粟国氏、
狐島氏、松田氏、宮本氏、渡辺氏などが寄合を形成して鉄砲衆や海賊衆を束ねていたが、
五縅の中心的な一門である鈴木氏と土橋氏の仲がすこぶる悪く、鈴木孫市は後に土橋家の首領を
殺害したりもしている。
また宮郷の日前宮の神宮を勤める太田党は宮(社家)郷のほかにも中郷・南(三上)郷の国人たちと共闘し、
鈴木氏と何度も戦をしている。この三郷は特に三緘衆とも呼ばれ、農耕を由とした一団のようで、
秀吉の紀州攻めにも最後まで抵抗し、壮絶な水攻めの後、滅亡する。
雑賀衆の著名人には雑賀孫市、土橋氏の支流佐竹伊賀守義昌、
石山合戦で名を馳せた的場源四郎などがいる。
根来寺
新義真言宗の総本山だが、戦国期には廃れる。
坊舎2700余、寺領72万石を数え、1万余の僧兵を要していた一大勢力。
紀伊でももっとも早く鉄砲が伝来した土地で、
種子島から鉄砲を伝えた津田監物算長の弟(或いは兄)明算は杉之坊の院主。
杉之坊は根来寺西口の旗大将で根来衆で最も大きな勢力の子院で、
これに続く勢力は東口の旗大将岩室坊、泉識坊、阿加井坊の三院だった。
岩室坊は紀伊の土豪・田中氏が代々僧院を世襲し、最後の院主・岩室坊清祐は
雑賀衆と共に紀伊にとどまり、最後まで豊臣家に抵抗した後、縁故のある毛利家に仕えて
関ヶ原の合戦にも参戦、後に根来姓を名乗る。
泉識坊は、雑賀衆の土橋氏が院主を配し、当時の院主・土橋泉識坊は
遠く安房や土佐の三好・長祖我部氏の動乱にも出兵し、根来滅亡後に土佐に逃れ、
長祖我部氏の家臣に殺された。阿加井坊は詳細不明w
院外では雑賀衆と戦ったり、院内でも利権にからむ騒乱で僧院どうしがたびたび争うことが
あったが、その場合は鉄砲はほとんど使わず「打ち捨て(首を取らない)」と呼ばれる
暗黙のルールで最低限の秩序を守っていたらしい。
津田監物没後は、子の杉之坊照算率いる杉之坊が実質的な根来寺の首領となり、
フロイス曰く盗賊の王のような振る舞いを行っていたが、1585年、豊臣秀吉に滅ぼされた。
有名な根来衆の豪傑には、久米田合戦で三好実休を討ち取った往来左京、
千石堀城で島左近と一騎打ちで敗れ討ち取られた根来的一坊、
熊取寿明院の院主で中氏藤原家の末裔、熊取大納言坊(小佐次盛重、盛繁とも)
などが有名。
粉河寺
天台宗系の粉河観音宗総本山。
寺領四万余石、雑賀衆の鈴木氏、根来衆との共闘が知られ、多数の僧兵を要していた。
0021名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/07(日) 16:00:32ID:0kkDnABo0022人間七七四年
2007/02/19(月) 23:12:22ID:Hm5rmZaT0023人間七七四年
2007/02/20(火) 02:42:45ID:6IY11Md10024人間七七四年
2007/03/09(金) 20:59:36ID:6KdbsZ29法華頭三位とか阿加井坊とか寿明院坊とかさ。
根来寺を訪れた宣教師が「山主(たぶん杉之坊)は大王のようにふるまい、僧院ではなくまるで騎士団のようだ」
と報告書に書いている。おもしろいよねぇ。騎士団って表現。なんか燃える。
0025人間七七四年
2007/03/09(金) 21:36:55ID:yg74BNo9それが忍者になり僧兵になり鉄砲集団になった
日本のいちばん解らなくて不思議な所だよね
やっぱ空海なのかや?
0026人間七七四年
2007/03/10(土) 15:09:40ID:0vk+zOCM法力を使う者がいたという記述がある。
エスパーがいたのなら強いはずだよなあ、と妙に納得してしまった。
0027人間七七四年
2007/03/10(土) 16:22:58ID:svnqpZLL0028人間七七四年
2007/03/11(日) 12:31:32ID:gxa9Qvfz記録映画で鬼畜米英滅びよと護摩を焚く真言密教の勤行を観たことがある
麻薬とか毒薬なんかの書も持ち帰ったんだろうなぁ、、空海
0029人間七七四年
2007/04/10(火) 17:58:56ID:Av+lgq820030人間七七四年
2007/04/11(水) 19:08:03ID:tR/C3jsM0031人間七七四年
2007/04/23(月) 21:42:00ID:F8zB0G/x薬物のことについてはどうかわからないけど水銀に関する知識は半端じゃなかったらしいよ。
主に建造物の朱塗りや仏像の金めっきに水銀を用いたものだと思うがひょっとしたら
水銀を使った秘薬も作っていたのかも知れないね。
0032人間七七四年
2007/04/23(月) 22:20:50ID:0rb8oBul根来衆みたい。
経文を唱えると辺り一面が紫色に染まり兵士がバタバタと倒れた、とか
法印を結び僧兵が10尺の塀を一足飛びに飛び越えた、とか
火炎術で炎を自在に操り兵が進軍できなくなった、とか
いろいろあるよ。
0033人間七七四年
2007/04/23(月) 22:31:48ID:5avaM/th地方大名程度の力だと山間部までは手がだせんよ。
紀伊山地の旧道なんて凄い道なんだから 若葉で行ったら命にかかわる
0034人間七七四年
2007/04/23(月) 23:11:28ID:z+5fF7CCあーー、そういえば根来は僧兵ですね
なるほどです
根来衆も雑賀衆も、漫画化かドラマ化したら絵になって面白いだろうに
いまいちマイナーで、もったいない題材だなあとつくづく思うな
0035人間七七四年
2007/05/28(月) 00:37:11ID:dj9E1hO4法華頭三位とか阿加井坊とか寿明院坊とかさ。
根来寺を訪れた宣教師が「山主(たぶん杉之坊)は大王のようにふるまい、僧院ではなくまるで騎士団のようだ」
と報告書に書いている。おもしろいよねぇ。騎士団って表現。なんか燃える。
0036人間七七四年
2007/05/28(月) 05:18:05ID:GE15pbyO0037人間七七四年
2007/05/28(月) 14:29:56ID:fKXS7Hmqこの城は奈良県御所市にあります。
保存状態もよく、瓢箪型をした台地上に築かれた城で、
縄張りも土塁や城道で区画された住宅地という感じがします。
周りは空堀に囲まれているものの、城という感じがしません。
山を登っていくと突然、整然と区画された城域に突入します。
城の中心に幅7〜8メートルほどの道が東西に走り、東端は虎口でしょう。
登り道は果たしてあるのでしょうか?植林された山肌を直登しましたが、
それほどの高さではありません。しかしきつかったです。
この城の城主は佐味氏とされますが、永禄10年(1567)に、
根来衆と畠山氏がこの城に攻めた記録が『多聞院日記』にあり、
当時、畠山氏と根来衆は松永久秀と組んで三好三人衆と対立していたことから、
三好三人衆と組んでいた筒井方の城であると推定が出来ます。
当時、松永方は苦境でしたからその救援に向かった畠山氏と根来衆は
この城により食いとめられたのです。
交通は、近鉄御所駅などから出ているバスで風の森下車、
徒歩で西にある高鴨神社を目指してください。
そのさらに西にある下の写真のように見える山が佐味城です。
(2003 12/22現在)
さて、2回目の探訪でほぼ全体を把握でき、図を完成させました。
本当にこれだけしっかり遺構が残っているのに全く整備もされずに
残されているのはある意味、皮肉なものです。
発掘をしてみると何かしら必ず発見されると思います。御所市さん、頼みます!
まぁこのまま放置するのも味がある城跡のままでいいかもしれません。
しかしかなりの大規模な土木工事をしたものです。堀も深く、土塁だらけ。
根拠はありませんが、城として利用する前にお寺とか何かあったのかなあ、と思います。
0038人間七七四年
2007/05/28(月) 19:04:17ID:STMhUpY00039人間七七四年
2007/05/29(火) 08:33:04ID:jqJ+B+/B0040人間七七四年
2007/05/30(水) 05:17:20ID:3E8WU0RJ元は南都六宗維摩派の寺だったようだね。
平安後期から城砦に近い構造物が追加造営され現在の形に近くなったようだ。
0041人間七七四年
2007/06/17(日) 11:34:13ID:A9R6lM3W0042人間七七四年
2007/06/17(日) 15:39:41ID:nMxVEKaw0043人間七七四年
2007/06/17(日) 17:46:26ID:A9R6lM3W0044人間七七四年
2007/06/17(日) 21:54:47ID:Zg2ZF5yp0046人間七七四年
2007/06/19(火) 23:22:46ID:dxE3+FRU0047人間七七四年
2007/06/27(水) 19:01:30ID:62gdNL+aやっぱ、下間頼廉とかと石山合戦出陣?
0048人間七七四年
2007/07/15(日) 20:47:04ID:rOQUr2i00049人間七七四年
2007/07/28(土) 00:21:30ID:KjZG9xcd0050人間七七四年
2007/08/03(金) 02:01:00ID:CAjw00mO0051人間七七四年
2007/08/03(金) 21:14:28ID:V40DjPMX0052人間七七四年
2007/08/06(月) 14:53:56ID:bqAhBvMW0053人間七七四年
2007/08/07(火) 23:24:46ID:1zNdvhZp0054人間七七四年
2007/08/11(土) 18:14:50ID:agnfUdPM津田監物役はシェークスピア役者だから威厳あって西洋の僧兵みたいだ。
ほとんど秀吉に焼かれたが、焼け残った国宝の寺院に種子島の弾痕が残っていて
凄いな。
根来衆は無頼の徒で命知らずの傭兵だから勘助みたいな雰囲気だったのかな。
内野はジャック・バロウみたいだから水軍の将の九鬼なんかやると面白いのに。
あの面構えはいけるよ。
0055人間七七四年
2007/08/12(日) 13:37:38ID:8LJocjMf年配の層には司馬遼太郎の小説で結構人気あるんじゃなかったっけ?>>孫市
0056人間七七四年
2007/08/14(火) 09:48:14ID:Enedx69b0057人間七七四年
2007/08/14(火) 11:31:10ID:PghnHrBf天正四年五月織田方の武将大和守護原田直政が三好・根来衆とともに本願寺方の
三津寺砦を攻撃したとき、雑賀衆が織田勢を迎撃した
兵力は一万程度だが、鉄砲は数千挺
織田家中で馬廻から大和守護まで昇進した家中一の出世頭だった原田直政は銃撃
を受け戦死した
この時の戦いで雑賀衆は鉄砲の二段撃ち戦法を使用したといわれる
0058人間七七四年
2007/08/15(水) 10:05:07ID:PQPyapiK尻くらえ孫市とかいいのにね。江戸時代も人気あったそうだし。
大河にすれば絵的に派手でいいと思うんだが、多分1年やるには
材料と文献が少ないんだろうね
0059雑賀孫一重次 ◆dlXpfTmI/Y
2007/08/21(火) 23:52:36ID:7fiAB8830060人間七七四年
2007/08/22(水) 08:02:33ID:B7rjSOVZ北条水軍の将・梶原景宗
黒潮に乗って東国にも派遣されてたのね
0061人間七七四年
2007/09/02(日) 01:07:02ID:EwuWEqweこんどNHKのBSで木曜日13時に司馬遼太郎原作「尻吼え孫市」をやるよ。
戦国最大の鉄砲の傭兵集団の雑賀衆のボスの話だ。
周辺の戦国大名たちに恐れられた漢の役は勝新太郎だったとおもう。
根来衆の津田監物役のシェイクスピア役者の吉田氏も貫禄あってよかったが
雑賀衆の勝氏も破天荒な無頼らしさありそうで楽しみ。
0062人間七七四年
2007/09/02(日) 02:11:46ID:lkIU1LR/傭兵部隊となると・・・予算もね。
0063人間七七四年
2007/09/02(日) 06:26:06ID:u94EYNLS0064人間七七四年
2007/09/02(日) 11:25:53ID:S2fOeiBT0065人間七七四年
2007/09/02(日) 18:25:41ID:NPAwn/Epこれか
衛星映画劇場 尻啖(くら)え孫市 1969年・日本
BS2 9月6日(木) 後1:00〜後2:46
司馬遼太郎の原作をもとに、自由と信義を重んじ、女と戦いをこよなく愛した戦国の型破り男・雑賀孫市の半生を描く。
3千人からなる最強の鉄砲隊として武将たちから恐れられたよう兵集団の雑賀衆。その若き大将・孫市は、一人の
女性を見初めたことから天下統一を目指す信長や秀吉、本願寺の法専坊信照らの戦いに巻き込まれていく。
孫市に中村錦之助、信長に勝新太郎、秀吉に中村嘉葎雄ほか個性際立つ配役が見どころ。
http://www.nhk.or.jp/bs/genre/movie.html
昼にやるのね。
0066人間七七四年
2007/09/07(金) 06:23:46ID:TL4Ujifsせっかく教えてもらってたのに(つД`゚)゚。
0067人間七七四年
2007/09/07(金) 08:23:49ID:ZJUrOJgU0068人間七七四年
2007/09/07(金) 13:50:19ID:Q9uuALQH0069人間七七四年
2007/09/07(金) 14:39:03ID:bVSRXOts0070人間七七四年
2007/09/14(金) 11:24:46ID:5+NtyHSm馬に乗りながら、孫市が手下から次々火縄銃を、野球のボールみたいに投げられ
キャッチしては撃ち込む様子が西部劇みたいだった。
当時はありえない馬車がなぜか出てきてトロイの木馬みたいに敵の陣地に突っ込んで
爆破させて奇想天外。
馬の数や織田信長の勝新の存在感が凄かった。
姫様とのラブラブより戦闘場面をもっと多くして欲しかった。
でも大河よりも迫力あった。
0071人間七七四年
2007/09/15(土) 22:45:27ID:PRkZMV7e0073人間七七四年
2007/09/16(日) 14:20:39ID:GP2Fv/7jhttp://i58.photobucket.com/albums/g254/maroder13/160photos025ik1.jpg
0074人間七七四年
2007/09/16(日) 20:11:37ID:fa7puID80075人間七七四年
2007/09/20(木) 16:37:28ID:QZKN1R5U畠山に味方して三好実休を討ちとった往来(おく)左京、
武田の重臣山県昌景配下の豪傑鳶二位、
阿波の本山氏に与力して長曽我部氏と戦った佐武伊賀守など、
雑賀・根来衆は各地にとびちって戦っている。
中国の倭寇の詳細を記した史書にも紀伊や雑賀の名前があったり、
種子島に渡った津田監物をみると、相当行動力があった集団だったことがわかる。
本当に不思議で魅力的な集団だ。
ゲームでは鈴木一族一辺倒なのがおしい。
的場源四郎や根来小密茶坊など、
雑賀孫一にひけをとらない人物はたくさんいるんだがなあ
0076人間七七四年
2007/09/20(木) 18:10:14ID:d3sNPVBnほかの人にスポット当てて活躍する小説か漫画が出ればいいのになあ
0077人間七七四年
2007/09/27(木) 20:59:23ID:DSrkoJWc0078人間七七四年
2007/09/27(木) 21:11:41ID:Yl16FgE7天心独名流を興した根来八九朗重明がいますね。
0079人間七七四年
2007/09/27(木) 23:40:51ID:HqdJcypnこれは嘘だよね?
0080人間七七四年
2007/09/28(金) 00:20:18ID:VxN/4idAテンプル騎士団などの宗教騎士団に似ていると言われててワロタw
soheiとかwarrior monkというらしい
限られた数の鉄砲を使ってたとか書いてあるが、大量の鉄砲持ってただろw
0081人間七七四年
2007/09/28(金) 02:36:55ID:y4u0cZes存在で信徒は大名領を超えて民衆や家臣団の中にも存在し、死ねば極楽と立ち向かってくるから
厄介な存在で怖かったんだろう。
比叡山や高野山など天皇も公家も平安から持て余していた集団だし、信長の殲滅戦もキリシタン追放も
徳川の檀家制度も宗教の力の恐ろしさを知りすぎてるからで、世俗的権力の支配下に置こうとした。
映画では孫市は本願寺の坊主に入信させられそうになるが拒んでるが、実際の中世人は熱烈な仏教徒だった
だろうな。中世ヨーロッパと非常に似てると思う。
0082人間七七四年
2007/09/28(金) 07:42:29ID:WK/dEm2C信長に従って本願寺相手に銃ぶっ放してなかった?
0084人間七七四年
2007/09/28(金) 13:44:04ID:fOdsFoyO0085人間七七四年
2007/09/30(日) 03:04:52ID:Vc5CsZ/7司馬遼太郎が書いたのは小説
0086人間七七四年
2007/09/30(日) 15:26:32ID:49doJGcVまあ、何の根拠もないのにあそこまで女好きに書かれちゃなあ
0087人間七七四年
2007/10/22(月) 03:18:15ID:G6oXl52qまあ、そのおかげで子孫が残ったわけで・・・って、いるの?
0088人間七七四年
2007/10/22(月) 06:51:18ID:I5rlXMmAhttp://www.asahi-net.or.jp/~eg8y-krsn/kanko/tuki/10/hojyutu/hojyutu11.html
0089人間七七四年
2007/10/22(月) 09:00:03ID:i8TvfFAB0091人間七七四年
2007/10/22(月) 18:33:03ID:VwxOTqRJ読んでみなよ最近新装版がでたからさ。
正直司馬先生の戦国小説TOP10には堂々4位だな。
0092人間七七四年
2007/10/29(月) 22:01:01ID:1ReFiG370093人間七七四年
2007/10/30(火) 04:05:32ID:6c3I+13P0094人間七七四年
2007/11/01(木) 07:19:06ID:feGrzqCf0095人間七七四年
2007/12/07(金) 12:51:49ID:QgR+6BKzいつ頃までいたのこいつら
0096人間七七四年
2007/12/08(土) 13:11:08ID:/oXuql1+他の人たちも藩士になったりで存在してます
0097人間七七四年
2007/12/10(月) 04:29:29ID:cHlUC0E2熊野水軍とはやはり協力関係にあったのか?
0098人間七七四年
2007/12/10(月) 15:21:12ID:dnf9OJOJ各地の戦闘に加わってたのも舟を多用して遠征してたんじゃないかな
舟を足代わりみたいに使ってたから、江戸時代も日本中や海外にと活動範囲はものすごく広いね
0099人間七七四年
2007/12/12(水) 06:12:36ID:VLdP5bQ5範囲じゃないの?
0101人間七七四年
2007/12/12(水) 08:29:53ID:fYAnwEry信長と和したのは、四国攻めてで協力する為らしいね。
0102人間七七四年
2008/01/11(金) 08:43:14ID:BVfJZro/世渡り上手いんだか下手なんだか分からんね。
0103人間七七四年
2008/01/11(金) 15:18:05ID:tE2vnaHj北海道の函館市にはその昔、モノホンの末裔(by地元紙)が経営する
その名もズバリ「さいかデパート」というのがあってだな、
ガキの頃そこでおもちゃの空気銃を買ってもらった覚えがあるぞ
今思えば銃の品揃えが豊富だったのかもしれんなw
まだあるのかなあ
0104人間七七四年
2008/01/13(日) 17:43:34ID:trrIEcU5北海道から五島列島までいる
水軍持ってたから全国に散らばりやすかったってのもあるね
0105人間七七四年
2008/01/14(月) 16:29:08ID:ftxmpCiP東洋系には見えなかったがひょっとすると子孫かも。
0106人間七七四年
2008/01/16(水) 02:44:38ID:iNL9KuGN0107人間七七四年
2008/01/16(水) 13:33:17ID:jvQK+MY/0108人間七七四年
2008/01/16(水) 16:05:53ID:mv1JVJcW雑賀はデパートとかの名前には使ってるけどね
0109人間七七四年
2008/01/25(金) 10:56:53ID:RlPSNOaA0110人間七七四年
2008/01/25(金) 12:27:44ID:PyUC7RWn雑賀衆の動向
・元亀元年
信長vs三好三人衆・本願寺
雑賀衆、“信長方”として出陣(信長の養女と婚姻している紀州守護の畠山昭高
が健在だったため)
・畠山昭高暗殺後
雑賀衆の分裂
雑賀庄(土橋氏)・十ケ郷(鈴木氏)→本願寺方
宮郷・中郷・南郷〔+根来衆〕→信長方
・天正八年、本願寺降伏後
土橋氏と鈴木孫一の対立
土橋氏→教如派(対信長強硬派)
鈴木孫一→顕如派(対信長融和派)
信長方(織田信張)の鈴木孫一への加勢→鈴木孫一の勝利→親信長派の鈴木孫一
の雑賀衆統一
0111人間七七四年
2008/01/28(月) 02:40:01ID:zB54yMYUといって雑賀衆に一向宗の門徒が多かったわけではないんだよね。
0112人間七七四年
2008/02/01(金) 20:28:54ID:t0y5hfOlで宗教まわりだが
確か雑賀庄や十ヶ郷は一向衆徒がそこそこ多く、浄土宗も多くの信徒がいた
で、残りの郷では根来寺の信徒が多かったはず
だから、雑賀庄・十ヶ郷では本願寺を支援する動きが出たのは当然だし、
それに対して、残りの郷が異なる行動をとったことも至極当然なことではある
ゲームの影響かは知らんが、そこそこ有名だが実際がどうであったかを知ってる人は少ないね
0113人間七七四年
2008/02/06(水) 02:58:17ID:1OaN0PJQ秀吉に攻められて根来衆共々壊滅。
その後は帰農したり、各地に離散しちゃったからねぇ。
0114人間七七四年
2008/02/07(木) 02:42:47ID:z1j+VIiu詳しそうなので質問してみる
1当時の紀伊全体の動員力はどれくらいだったの?
2その緩い連合を成していた各一揆衆は、いわゆる国人クラスの領主と思って良い?
戦国時代の紀伊=兼業傭兵家でイパーイ、というイメージがあるのだが…
その割には「庄」や「郷」という如何にも小規模そうな地名にギャップ感じるんだよ
0115人間七七四年
2008/02/07(木) 07:40:22ID:zYD0gPrI1 .紀伊は太閤検地で確か243550石だったはずだから、
そこから逆算すれば、5〜7000人ぐらいになりますかねぇ
(太閤検地の値の信憑性についてはここでは論じない方向で)
2 主要な人物の中には国人レベルの人もいたでしょうが、
大半は土豪クラスと考えても差し支えないかも
それこそ各惣の有力者のような存在なので
後、紀伊でも傭兵業が盛んだったのは主に和歌山付近ぐらいでしょうねぇ
(それこそ雑賀衆が住していた地域なんてそれぐらいの広さでしかない)
南に向かうと、湯川氏などが畠山氏の家臣として長く仕えていて、
熊野に行くと今度は熊野の神党ともいえる勢力が根を伸ばしてましたから
0116人間七七四年
2008/02/11(月) 23:13:47ID:yLOvg7fI詳しくサンクス
熊野と畠山の存在をすっかり忘れていましたw
さらに質問してみる
傭兵業じゃ、どの程度の規模で戦力を出向させてたんでしょ?
(依頼次第で、一概には言えないと思いますが
0117人間七七四年
2008/02/12(火) 08:35:33ID:DUC5fsUN一応、秀吉の紀州攻めの時抵抗した太田党・根来党が約2万とか言いますが、
これはかなりの誇張と考えられますし、実際は非戦闘員(女性や子供、老人)も含んでのことでしょうから、
実際の戦闘員はもっと少なくて数千人程度になるのではと推察されます
ということは太田党の兵力はあまり大きくはなかったと推察され、
それに雑賀党もあわせたとして、石高を考慮しないとしても常時はせいぜいMAX5〜6千が限界ですかねぇ
正確なところはもう少し調べてみないとなんともですし、
雑賀衆は家ではなかったために、資料が乏しいんで、
今となっては当時の雑賀衆の動きというのは闇に埋もれた部分が多いですね
0118人間七七四年
2008/02/28(木) 15:38:55ID:o2lVYb7zどうやって配分したんだろ?
0119人間七七四年
2008/02/29(金) 00:11:49ID:xa8CnaBO0120人間七七四年
2008/02/29(金) 00:18:50ID:05tzht4M0121人間七七四年
2008/02/29(金) 01:51:26ID:Il7YETaB武具などの製造業等の多角経営の一翼ととらまえた方がいいかも知れないみたい。
もちろん農業だけでは食べていけないからだけど(特に雑賀荘や十ヶ郷)。
0122人間七七四年
2008/03/01(土) 01:12:52ID:WJhX5/ur紀ノ川流域の肥沃な土地で米もたくさん取れたと読んだ覚えがある
多角経営でいろんなことやっててお金持ちだったようだね
戦国期から明治まで一族中が遊んで暮らせるだけの財力があったとか
0123人間七七四年
2008/03/01(土) 03:11:56ID:GVgJNiL4雑賀衆の分布する範囲は広くないとはいえ、それでも地域差がありまして
雑賀衆で主となったのは
雑賀荘・十ヶ郷・宮郷・中郷・南郷
の5地域であると言われている
で、このうち雑賀荘と十ヶ郷は海沿いであり、
あまり農業は盛んではなかったかわりに、海運・交易・はたまた海賊業が盛んであったと言われ、
逆に残り3郷は、紀ノ川下流部の肥沃な土地を使った農業が盛んだったと言われている
この違いが宗教伝播と繋がりの差となり、雑賀衆内の石山本願寺に対する対応の違いを生んだ要因でもあるとも言えます
0124人間七七四年
2008/03/01(土) 03:16:39ID:siuXg4sC農業が盛んではないとは言ってないよ。
ただし肥沃な土地だったのは宮郷・中郷・南郷。
雑賀荘と十ヶ郷は砂混じりの痩せ地で海水がさしたり水害も多いので
米作には向いていないし作物の質も悪いと江戸後期の「紀伊続風土記」等の
史料にもある。これは年貢取立て側の紀州藩の編纂だから信憑性も高い。
戦国期に宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」で雑賀地域のことを
「大いなる共和国的存在」と言っているけど、これは当時の異邦人が中世的な
自治体制をそのまま表現したととらえるべきだと思うよ。
現在、一般的に「雑賀衆」といわれているのは上記5つの荘郷を自治組織と
捉えた場合であり、それも決して一枚岩ではなかったのは周知の通り。
農耕不適な雑賀荘は宮郷や中郷と何度も武力闘争を起こしている。
だから戦闘組織としての「雑賀衆」は雑賀荘と十ヶ郷を中心にした人々と
捉えるべきだと思うよ。事実「本願寺文書」等にもそう記されている。
もちろん彼らも農耕に全く縁がなかった訳でもなく、金銭で他人の知行地を
買った例も多く伝えられているけどね。
0125人間七七四年
2008/03/01(土) 14:52:24ID:els7VsGt0127人間七七四年
2008/03/01(土) 19:28:05ID:siuXg4sC宣教師ルイス・フロイスがイエズス会への報告書に雑賀衆の事を
「ヨーロッパにおいては富裕な農夫と称する如き者」と記しているのを根拠に
雑賀地域の農業生産力が高く、住民が豊かな生活をしていたとする人も多い。
でも前述のように雑賀とは農耕に適した宮郷など3つの郷と不適な2つの荘郷から
成り立っていた。
フロイスの報告から200年以上のちの江戸後期の史料でもそう指摘されている。
農業や灌漑技術もかなり改良され生産力も向上しているはずの江戸期になっても
未だそんな状況だったのだから、戦国期の雑賀の状況は推して知るべきかと。
となると海沿いの雑賀荘・十ヶ郷の主な生業が交易にあったとしても頷けるよね。
国内のみならず、中国本土へも渡っていたと中国側の史料にも語られている。
いわゆる「倭寇」だけど、その本質は私貿易で一般に言われる海賊行為ではない。
必ずしも手荒な行動に出なくても充分な利益は得られたみたいだよ。
0128人間七七四年
2008/03/02(日) 20:53:36ID:HFTOukXG0129人間七七四年
2008/03/02(日) 22:00:39ID:YwvaBbTA最初と伝えられている。という事は根来を経由して雑賀に入ってきたという事になるよね。
その数年後には幼少時から鉄砲の撃ち習いをしていたようだから普及は早かったようだよ。
それほどの数を短期間に揃えたという事にもなるよね。
他国から買い入れたとする史料もあるけど、確証がある訳でもないようだよ。
石山合戦の前後では堺や根来も信長方だった事が多いし、鉄砲の入手にも苦労したはず。
でも、そういった史料は今のところ出てきていない。
古くから雑賀では武具製造もしていたようで鍛冶技術ももっていたらしいから、
鉄砲生産も手がけていたというのが最近の見方のようだよ。
0130人間七七四年
2008/03/03(月) 18:21:16ID:HP1Fga1/火薬なんかはどうやって調達していたのかな?
やっぱり交易?
0131人間七七四年
2008/03/04(火) 16:42:27ID:NarQJqdZおっしゃる通り、火薬がなければ鉄砲もただの鉄棒だよね。
火薬の製法自体は鉄砲と同時に津田監物によって根来経由で雑賀にも伝わったようだ。
ただ、火薬の原料の硝石は日本では産出されないのが問題だった。
必然的に輸入に頼るしかない。主な輸入港は堺だけど、信長に押さえられて以降
本願寺側は大阪の難波からも陸揚げしていたようだよ。
当時の戦国大名たちがキリスト教布教に寛容だったのは鉄砲と共に火薬の入手にも
熱心だったからだとも考えられている。
前述のように雑賀は交易業が盛んで、当時は貿易拠点の一つだった種子島とも
頻繁に行き来があった。また独自のルートも持っていたのかも知れないね。
しかし、それと同時に日本国内でも硝石類は製造されていたんだよ。
硝石は大気や土壌に含まれるアンモニアが酸化されて硝酸になる作用からできる。
これを利用して鳥や魚の死骸に草や土を堆積させて作っていたようなんだ。
本願寺は一向宗勢力の強い加賀や越中に技術者を派遣して製法の指導もしている。
合掌造り民家で有名な富山県の五箇山地方などでは蚕の糞などを原料とした「塩硝」作りが
明治中期まで行なわれていたようだよ。
0132人間七七四年
2008/03/05(水) 01:05:12ID:ompxNRJcそうらしいね。
でも、硝石の採取量はごく少量だったみたいね。
0133人間七七四年
2008/03/05(水) 02:05:29ID:bShuCa07詳しい生産量は不明だけど、もちろん雑賀衆の活躍した時代にあっては
ほぼ輸入品だったという説が多いね。
ただ中には信長が堺などを通じてポルトガル領マカオからの貿易を独占したのは
本願寺側の硝石保有量に脅威を感じたからだという説もあるね。
前述のように本願寺側は加賀・越中の他に美濃や飛騨などでも塩硝作りをさせていた
形跡もある。ちなみに越中五箇山の塩硝の生産量は江戸後期で年間5〜6トンらしいよ。
もっともこの頃には徳川幕府の統制もあって国内での消費量もしれていたんだろうけど。
戦国期にはあちこちでドンパチやっていたのだから火薬の消費量も多かっただろうし、
硝石の国内生産も始まったばかりで当然ながら質も良くなかっただろうね。
となると、全てではないにしろ必然的に輸入に頼らざるをえなかったんだろうね。
ここでも雑賀衆の交易とそれによって蓄えた財が役に立ったんだね。
0134人間七七四年
2008/03/07(金) 01:21:52ID:/xvBgTYoどこかの本で石山戦も後半の頃になると織田軍と本願寺軍の
火薬の質の差が出始めるようになった、と書いてあったね。
何の本だったろ?
0135人間七七四年
2008/03/08(土) 02:47:36ID:F5rqpbzGその書名はわからないよ、申し訳ない。
火薬の質という点では、信長側の包囲網によって輸入量も減っていっただろうから
戦いが長引くにつれ落ちていったのだろうね。
ただ量的には十二分とまではいかなくても、少なくとも不足し過ぎるということは
なかったのじゃないかな。
本願寺降伏後の戦いでも、雑賀衆は何度か鉄砲で信長側を撃退しているし。
もちろん備蓄していた量も半端なものではなかったのかも知れないよね。
0136人間七七四年
2008/03/08(土) 04:25:54ID:1l6EeZqh複数の戦線に物資を分散させなければならない織田軍に対して、
限定的な戦線に物資を集中できる雑賀衆。
物量差がそれほど生じにくい状況があったのかも知れないですね。
おまけに地の利は雑賀衆にあり、尚且つ、雑賀衆は独自の水軍を持っている。
この点も戦線を維持できた大きな要因でしょう。
最終的には合従連衡の惣村連合という基盤の弱さがネックになりましたが。
0137人間七七四年
2008/03/08(土) 04:32:44ID:F5rqpbzG哀しいかな、一地域の連合であり、前述のように決して一枚岩ではなかった。
最後まで抵抗をしたのも、いわゆる「雑賀孫一」党ではなく対立関係にあった
太田党ですしね。
0138人間七七四年
2008/03/08(土) 04:43:58ID:1l6EeZqhこのあたりは同様の惣村連合である伊賀衆なども同じ末路を辿っていますね。
領主への抵抗勢力としては団結できても、利害関係が崩れると今度は惣村同士が
潰し合いを演じてしまう。
結果、離散して帰農するか、惣村を離れるか。
紀州に雑賀衆の資料、史跡が少ないのもそういうところに理由があるのでしょうが。
0139人間七七四年
2008/03/08(土) 05:31:43ID:Z0q6WHOeこの点も戦線を維持できた大きな要因でしょう。
信長が強力なな鉄板戦艦を投入してから
雑賀衆水軍のほうでは士気は落ちたんだろうか?
0140人間七七四年
2008/03/08(土) 05:47:03ID:F5rqpbzGまさしく小土豪たちの悲哀が感じられますね。
壊滅後、西軍として関ヶ原で戦った者も多いですし、その後は根来衆と共に大阪の陣に
入城した者もかなりいたようですね。また残った者も大阪城に呼応して一揆を企てた者も
見受けられますよね。
ここにも共通の「外敵」に対する彼らの団結心が垣間見られるような気がします。
0141人間七七四年
2008/03/08(土) 06:24:45ID:F5rqpbzG史料が少ないようなので実態はあまりわかっていないようです。
交易や海運、漁業に関わってはいたのですが、常備組織としての水軍ではないようですね。
本願寺合戦の際には、外洋航行用の「大船」や「警固船」をはじめ200艘ほどの大規模な
水軍を運用していたようで、もちろん鉄砲や焙烙などの火器も積載していたようです。
信長方の「鉄甲船」については、「信長公記」その他の記事にありますが、近年ではその
存在自体が疑問視されているようですね。
しかし第2次木津川河口の戦で数に勝る毛利水軍が惨敗しているのは既成の事実です。
これにより毛利水軍は本願寺への補給をほぼ諦めていますよね。
雑賀水軍は第1次木津川河口の戦には参戦したようで、2年後の第2次には「鉄甲船」に
敗れて堺への入港を許してしまい、結果として毛利水軍もそれに敗れたとあります。
ただ、毛利水軍が敗れてから2年間も本願寺が持ち堪えたのは、雑賀水軍による補給も
大きな要素ではないでしょうか。
そう考えると、それほど士気が落ちたとも思いにくいのですが如何でしょうか。
0142人間七七四年
2008/03/08(土) 07:04:08ID:v25lDQeu大坂本願寺の海上封鎖戦が終わった後は無用の長物と化したのかな。
江戸幕府も草創期に江戸湾に大型軍船を浮かべていたが、メンテナンスコストが
嵩んで解体の憂き目に。
外板の腐食も早かっただろうし、切り回しが悪くて使いづらかったのかも。
0143人間七七四年
2008/03/08(土) 15:24:31ID:wlhqeM0x0144人間七七四年
2008/03/10(月) 02:31:46ID:gOMkXPdQ信長方の「鉄甲船」は木津川河口の戦後は、河口に係留され威容を示していたが
やがて朽ち果てたともいわれていますね。
そもそもこの「鉄甲船」、鉄を貼り付けていたとする史料は全く発見されていないようです。
唯一「鉄」の記述が出てくる「多聞院日記」も「鉄砲が通らぬ鉄の船」とするだけです。
0145人間七七四年
2008/03/10(月) 18:07:19ID:B7/KSyJ60146人間七七四年
2008/03/10(月) 22:56:53ID:/Wr+59Kh織田は海上兵力を用いて遠征するという作戦があまり無かったからね。
長曾我部を攻めようと思ったら、本能寺の変 ⇒ 織田家衰退 だもの。
その後の混乱の中で鉄甲船も失われたんだろう。
しかしながら、九鬼の鉄甲船?(大型の安宅船)「鬼宿」は秀吉に徴用されて朝鮮の役に
参加しているし、徳川家も「安宅丸」を建造しているので、この種の軍船の戦力的価値が
低下したというわけでもなかったみたいね。
「安宅丸」の外板は鉄板でなく銅板だったようだけど。
0147人間七七四年
2008/03/15(土) 22:37:17ID:ITc7WMdq0148人間七七四年
2008/03/15(土) 23:56:32ID:is17D+JI戦国の寺・城・まち 山科本願寺と寺内町
ttp://www.free-style.biz/book/img/sengokunoterasiro-thumb.jpg
出版社:法蔵館
発行日:1998年8月初版
ページ数:284P
編者:山科本願寺・寺内町研究会
書評:
戦国時代、山科には日本屈指の都市があった。浄土真宗中興の祖・蓮如が築いた
山科本願寺とその寺内町である。1997年春、住宅建築にともない、寺内町時代の
遺跡をかつてない規模で発掘する調査が行われることになった。これを機会に、都
市や城郭、真宗史に関心をもつ関西の研究者が集まり、広く市民に山科本願寺・
寺内町の歴史的意義を伝える連続講演会を催すことになった。その成果をまとめた
ものが本書である。
0149人間七七四年
2008/03/16(日) 08:19:50ID:XJOSq8Px1人で書いてる対談物みたいな匂いがするの俺だけ?
0150人間七七四年
2008/03/17(月) 02:14:23ID:x1KC1jTL0151人間七七四年
2008/03/17(月) 03:07:11ID:sQOlcXHTほのぼのと展開しているスレに文句言っちゃいけない。
0152人間七七四年
2008/03/17(月) 04:25:12ID:5u2qQoIZ0153人間七七四年
2008/03/18(火) 03:33:59ID:bPnXCEWHとりあえず交戦した相手方のことにも触れておかないと。
0154人間七七四年
2008/03/25(火) 17:58:12ID:gWh77d1t0155人間七七四年
2008/03/31(月) 13:26:34ID:usFVN9UX0156人間七七四年
2008/04/02(水) 05:39:35ID:7Fz6jVxV湯川氏は室町期からの畠山氏の重臣で、紀伊中部において大きな勢力を有していたことが知られている
(おそらく当時の紀伊では最大の在地勢力であり、その軍事力は畠山家中でも有数のものだったようである)
そのため、近隣の国人衆よりは上の位置にいることが多かったと思われる
で、この湯川直春起請文が書かれた時期だが、
永禄5年(1562年)7月と言われており、これは先代湯川直光が河内で戦死した少し後
つまり、この起請文は湯川氏の代替わりにおいて、近隣の国人衆が湯川氏とのこれまでの関係を再確認するために作られたと予想される
そう考えるなら、当時の紀伊の一部地域では湯川氏を中心として、ゆるい国人の連合体が構築されていたのではないかと思われる
まあ、起請文を直接現代語訳したわけじゃないんで外してるだろうけど
0157人間七七四年
2008/04/02(水) 21:33:13ID:6fdW78Xl雑賀衆との関係も連合であったり時には敵対したりと、その時々で変化していますよね。
156さんのおっしゃられるように、あくまでも「ゆるい」連合体であった事が察せられます。
0159人間七七四年
2008/04/06(日) 01:24:40ID:d1X/9FpNhttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1187020509/32
こんな人が来てるんだけど誰か相手してやってくれ
0160人間七七四年
2008/04/06(日) 03:00:19ID:dmK8cQn2機内は信長に制圧されてるのに、こいつだけ大名家として生き残ってて
雑賀すげえ!って思ってたな
0161人間七七四年
2008/04/06(日) 04:50:57ID:1vqTw7+Aまあ結局秀吉にやられるけど
0162人間七七四年
2008/04/06(日) 11:47:58ID:iZoGpDVZ夢を壊すのはなんだが
本能寺の変直前の鈴木孫一は親信長派です
天正十年初めに信長から織田信張の援軍を得た鈴木孫一は反信長派の土橋兄弟を
破り放逐して雑賀衆を統一
鈴木孫一ら雑賀衆は織田信孝の四国渡海に水軍と陸兵千で支援する予定だった
一方、逃れた反信長派の土橋一族の土橋平尉らは長宗我部元親の軍に加わり、勝
端城を攻めている
本能寺の変で動揺した孫一は翌六月三日に岸和田城に逃れ、織田信張の庇護下に
入った
0163人間七七四年
2008/04/09(水) 14:00:31ID:jEI5y+5L2008.4.9 03:04
根来寺(和歌山県岩出市)周辺で約30年にわたって行われていた発掘調査を受け、
新たに見つかった史料などを集めた企画展「根来寺の今と昔」が、和歌山市吹上の
和歌山県立博物館で開催されている。20日まで。
根来寺延命院の僧侶が土地の売買をしていたことを表す紀の川市の極楽寺に伝わ
る戦国時代の文書や、根来寺旧境内で発掘された延命院の名を記した漆器椀、2石
(361リットル)入りの備前焼の大甕(おおがめ)が展示されている。根来寺大塔と同
じ藤原時吉の銘が入った戦国時代の鬼瓦や土蔵の遺構から見つかった約430年前
の金山寺みそも披露されている。
このほか、旧境内の菩提院や閼伽井(あかい)坊があったと思われる場所から発見さ
れた、あまり出土例がない中国・元時代の植木鉢など計86点が展示されている。
入館料は一般260円、大学生150円、高校生以下と65歳以上の高齢者は無料。
月曜休館。問い合わせは県立博物館((電)073・***・****)へ。
ttp://sankei.jp.msn.com/region/kinki/wakayama/080409/wky0804090306006-n1.htm
0164人間七七四年
2008/04/09(水) 18:14:42ID:XaF+1bL50165人間七七四年
2008/04/10(木) 01:39:00ID:itoOPhed以前にも記しましたが、水軍といっても単なる「海賊衆」ではなく、
「さつまあきない」といって土佐沖を抜けて薩摩と往来していた貿易商人です。
当時の薩摩は対明貿易の中心地の一つで、中間交易だけでなく、時として
明国へ直接渡って交易していた事も確認されています。
これに従事していたのは所謂「雑賀衆」の五荘郷のうちでも、海側に位置した
雑賀庄の湊・雑賀・岡と十ヶ郷の松江・加太あたりです。彼らはもちろん漁業も
生業としていたようです。
対して、内陸部の三組(宮郷・中郷・南郷)は比較的に土地が肥えていたので
農業が主な生業だったようですね。
これらについても先述していますので、ご参照下さいね。
0166人間七七四年
2008/04/10(木) 09:09:02ID:gavwrITDこの時代船を使う兵士は全て海賊と呼ぶ
海賊全員が略奪を生業としていたわけじゃない
0167165
2008/04/11(金) 00:17:39ID:+UpeDn00ご指摘ありがとうございます。
それは承知の上での発言ですよ。
ただ、昨今は水軍という呼称が定着している感があったので
一般の方々にも判り易いように敢えて使用しました。
0169165
2008/04/19(土) 01:53:57ID:y3UknymM私如きが伺ってもよいのでしょうか?
0171人間七七四年
2008/05/05(月) 09:43:43ID:yebmMbTG当主は誰に相応しいでしょうか?
津田監物照算?
0172人間七七四年
2008/05/05(月) 10:01:03ID:yebmMbTG雑賀衆が傭兵家業みたいな事や
貿易に携わっていて海賊(水軍)を保有していたのは
このスレでわかったんですが、根来衆の方はどうだったんでしょうか?
そういう傭兵業みたいなことで各地へ兵を派遣したり
海運関係の利益はあったのでしょうか?
0173人間七七四年
2008/05/05(月) 10:11:15ID:yebmMbTG本能寺の変直後の
根来衆・雑賀衆・鷺森の本願寺の関係はどのような感じだったのでしょうか?
雑賀も根来も、それぞれ諸勢力の集合体なので全体として動きはまとまっていなかったとは思うのですが
おおよそ、どのような関係であったのか?というのを知りたいです。
雑賀・本願寺−根来 敵対
雑賀−本願寺 友好
こんな感じですか?
あと、これらの勢力は本能寺後、光秀・秀吉らの戦いにどのように関わったのでしょうか?
すぐ傍には信孝・丹羽の軍勢や大和の筒井氏などがいたと思うのですが。
積極的にどこかの勢力に属したのでしょうか?それとも静観?
0174人間七七四年
2008/05/05(月) 15:58:07ID:fMPBhASQほとんどの寺が城門、石垣に匹敵する堅固な砦の様式で築かれ要衝として機能していましたので、
味方する勢力に前線基地として寺の使用を許可し、
場合によっては僧兵もレンタルのような形で傭兵業を営んでいました。
敷地利用に付随する形での傭兵業なので派遣地域も自ずと自勢力内に限られていました。
海運収益は紀ノ川水域の内水系、現在の岬町付近を拠点とする外水系両方で莫大な利益をあげていました。
0175人間七七四年
2008/05/06(火) 00:48:24ID:nei18VZl171のご質問に関しては根来衆という形態も手伝って諸説あり断定はできないようですね。
また172に関しては174さんが的確にご回答されていらっしゃいますので割愛いたします。
ご存知のように根来衆とは僧徒らの集団ですが、根来寺僧徒には学問・儀式を司る学侶と
寺の管理や防衛に当る行人(ぎょうにん)とがあり、僧兵となったのは主に行人でした。
彼らは○○坊と呼称される多くの子院に属していましたが、これら子院のほとんどが近隣の
土豪とかなり密接な関係を持っていたようです。例えば特定の家から子院の門主を送り込む
事も多く、泉職坊の門主などは代々が雑賀の土橋家から出ています。また古書類を見ると
根来衆が雑賀衆に加勢したとか、鈴木孫一の従兄弟が根来衆の有力者だったという記事も
見えます。
このように人的には深い関係があっても、新義真言宗の根来衆ですから一向一揆など起こす
訳もありません。石山合戦では全てとはいえないまでも信長方として雑賀衆と戦っていますよね。
石山合戦中に雑賀衆は分裂、信長の雑賀攻めにより鈴木孫一は降伏。本願寺は門徒を中心に
雑賀一向衆を再編するも、信長と講和、鷺森に移りますが、一向一揆を指導する事はなかった
ようですね。
この頃には根来衆は信長の家臣化していたようです。降伏した鈴木孫一は信長に急速に接近
していったようで、そういう観点からすれば根来衆とは同じ陣営に属してはいますよね。
ただ、おっしゃる通り「集合体」ですので、複雑な関係ではあったようです。
領地問題から、あるいは反信長の土佐長宗我部氏と通じた為か鈴木孫一は同じ雑賀衆の
土橋氏を暗殺していますが、この時には本願寺顕如が必死に説得しているようです。また、
土橋氏の縁者である根来寺泉識坊も討ち取っています。このあたりが雑賀衆・根来衆ともに
複雑な内部事情ですよね。
反信長派を一掃、雑賀衆の支配者として四国攻めの兵船を調達。そこに本能寺の変です。
鈴木孫一は雑賀から脱してしまい、土橋氏が再び実権を握ります。
この頃には雑賀衆は根来衆とも結んで和泉国へも積極的に進出していたようで、これが
秀吉との対立を生み、紀州攻めの要因ともなっていますよね。
私の知る限りでは、この間、信長の「弔い合戦」の為に組織的に動いた形跡も特にないように
見受けられます。地域土豪集団の常として、共通の外敵の出現には連合して戦いつつも内部
においては闘争も繰り返す。多分に漏れず、彼らとてそのような感が否めません。
長々と述べた割には内容が薄くて申し訳ありません。
また、本能寺の変前後の彼らの動きについて更にご存知の方、ご教授いただけましたら
幸いです。
0176人間七七四年
2008/05/06(火) 09:20:54ID:qDgfbdv0ありがとうございます。大変参考になりました。
とりあえず根来の傭兵活動、経済活動、
及び、信長死去直前までの両陣営の動きはだいたいわかりました。
>>175さんの私見を参考にすると、両者とも
特に本能寺後に、積極的に明智・羽柴に属して合戦を行ったということはなく
内部抗争・様子見・空白地帯への侵攻、そんな感じだったんですかね?
0177人間七七四年
2008/05/06(火) 11:30:56ID:qDgfbdv0wikiなどを見ると
>本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。
とあるのですが
一方で、鈴木重意(佐太夫)が、1585年の紀州侵攻で抵抗して騙まし討ちされた、ともあります。
雑賀衆というか「鈴木氏」についての質問なのですが
彼らは本能寺以後、どういう行動を取っていたのでしょうか?
一度は秀吉(信孝)の領内に庇護を求めて逃げ込んでおいて
後に秀吉に抵抗して討伐されている。
いまいち、秀吉に対してどういう対応を取っていたのか
どこを拠点にしていたのかがわかりません。
(拠点を失い秀吉支領内にいたのか?雑賀に確固たる拠点を置いていたのか?)
また、鈴木氏が一度雑賀で勢力を失って
「土橋派」が勢力を盛り返していたようですが
この「土橋派」には、どのような人物が入っていたのでしょうか?
鈴木氏衰退後?の雑賀衆を率いた人物にはどのような人がいたのでしょうか?
太田党とかの事なんですかね?
0178人間七七四年
2008/05/06(火) 12:11:53ID:wRyOeG3Y>>177
そこらへんはいかんせん雑賀衆等の記録がなかったり、うさんくさかったりで
正確なところがはっきりしてないところが多いために断言が難しいところではあります
まず本能寺後ですが、分裂状態ではあるものの、基本的に主流であったのは太田党や雑賀郷土橋氏であり、
土橋家では明智光秀との書状のやりとりがあったことから比較的光秀よりの立ち位置を取っており、
また、長宗我部家と共同歩調をとり、讃岐への出兵の記録もあるようです
さらに秀吉は根来衆らが和泉や紀伊に持つ権益を認めなかったこともあり、
根来衆や雑賀衆は反秀吉的性質が強かったと予想されます
ただ、秀吉の視線が基本的に東を向いていたこともあり、比較的緊張した不戦状態に近かったかと思います
しかし、小牧・長久手の前後になると家康の誘いもあり、雑賀・根来衆は明確に家康方につき、
秀吉勢を後方から牽制、大阪周辺まで兵を進めたと言われています
で、その小牧・長久手が予想以上に早く終結すると、秀吉は後方を攪乱できる位置にある紀州の重要性から
紀州討伐へと動くわけです
0179人間七七四年
2008/05/06(火) 12:25:09ID:wRyOeG3Yで、鈴木家ですが、まず著名な孫市(一)、これが問題になります
というのは孫市というのは雑賀鈴木家の人物の多くが名乗った名乗りであり、
そもそも孫市が全て同一人物であるという考え方をまず捨てる必要があります
で、本能寺後の鈴木家ですが、基本的に紀伊に残ったのが大勢かと思われます
というのも、紀州討伐の際に雑賀城にこもった雑賀衆の中に鈴木姓が複数見られるからです
(ちなみにこの雑賀城は鈴木左兵ヱ、鈴木孫六(重意の子と言われている)らが本願寺顕如からの書状を受け開城した)
なので鈴木家全体が親秀吉派であったということが一つの間違いであるのかもしれません
0180人間七七四年
2008/05/06(火) 12:27:51ID:wRyOeG3Yで、お次は土橋氏ですが、土橋氏は雑賀荘の中核をなす家の一つであると同時に、
根来寺との関わりが非常に深く、結果として土橋家は
比較的一向衆徒の多かった雑賀荘・十ヶ郷と根来寺及びそれに近い残りの雑賀衆を結びつける橋渡し的存在であったようです
その性質故か、石山合戦の際も本願寺支援に積極的であった鈴木家とは行動を別にしていたようです
逆に雑賀討伐、石山退去後になると鈴木家が親信長派に近く、土橋家は反信長派となり対立、
雑賀勢によって土橋若太夫が殺害されています
その後本能寺の変が起こり鈴木家の勢力が後退すると、土橋家は太田党や根来衆と行動をともにするようになります
おそらくこのころの土橋家は土橋若太夫の子土橋平次郎(守重?)が中心であったと予想されます
0181人間七七四年
2008/05/06(火) 12:42:29ID:wRyOeG3Y最後に本能寺後の雑賀衆ですが、
基本的にその中枢を占めたのは太田党と言われる宮郷の太田城主太田氏を中心とする親根来勢力であったようです
(元々、宮・中・南郷の三郷は根来寺との繋がりが強い)
その中心にいたのが太田左近という人物で紀州討伐では太田城で最後まで抵抗、最終的には切腹し、没落しています
さて、紀州討伐後の雑賀勢力ですが、
鈴木家は秀吉に仕えていた孫市だけでなく、雑賀城を早々に開城した鈴木孫六は所領を得て
秀吉の統治下に納まり、関ヶ原後は鈴木重秀(朝)の流れが水戸徳川家に仕えるなど後世にその名を継いでいったことがわかります
一方、土橋家は紀州討伐で強く抵抗した結果、土橋平次郎は太田城で討ち死に、
その他の一族のほとんども戦死もしくは帰農と武士としては後世に残らなかったようです
その他でも紀州討伐で強く抵抗した勢力はほとんどが没落し、帰農なり国外へ移るなどがあったものと予想されます
というのは日前国懸両神宮の神職を勤める紀氏すら一時は零落というほどの処置が行われたことから
基本的に中世紀伊北部の勢力・統治構造を完全に破壊するほどの後処理が行われたと予想されるためです
0182人間七七四年
2008/05/06(火) 12:57:27ID:qDgfbdv0じゃあ、実際は本能寺後に雑賀で実権を握っていたのは
根来寄りの土橋氏や太田氏であり、
鈴木氏がリーダーシップを取ってはいなかった、という事で
おおよその情勢把握は良いんですかね?
一部、そのまま残った鈴木一族もいたけども、と。
よくゲームなんかでは、鈴木氏が大名扱いになってるけども
1582年に雑賀衆という勢力を出すのなら、太田氏や土橋氏が
本来は代表なわけですよね?(少なくとも鈴木氏よりは)
じゃあ、本能寺〜紀州侵攻の間
鈴木重意(佐太夫)やら、重朝やらは
どこで何をやってたんだろう?
彼らは残った「鈴木一族」の中に入るんですかね?
0183人間七七四年
2008/05/06(火) 21:34:04ID:wRyOeG3Yこれも難しいところですが、元々一揆衆であり、一つのまとまった勢力ではない雑賀衆において、
鈴木家はさらに特殊な家の1つであったことは間違いないかと思います
その最たる例が石山本願寺支援であり、
根来衆やそれに近い雑賀衆勢力が軒並み織田方についていることと比べるとその違いが歴然としています
そして、その対応の違いが雑賀衆の分裂・内紛の引き金の一つであったことはこれまでにも書いてきたことです
さて、本願寺顕如の石山退去の際、その和睦交渉の中継ぎ役として実は雑賀衆が出てきます
どうやら、このことを境にして雑賀鈴木家は織田信長との繋がりを持つようになり、
その後は織田信長の勢力を後ろ盾に土橋家との抗争状態に入ります
しばらくは織田家の後ろ盾のある鈴木家が優位にことを進めたようですが、
本能寺の変で織田信長が死に、鈴木家の後ろ盾を失うと事態は一転し、
土橋氏が鈴木家の居城である鈴木城に放火するなど、鈴木家の勢力の後退と土橋氏の伸長が目立ちます
その後の根来・雑賀衆の一体となった反秀吉的行動をみる限り、
本能寺以降の雑賀衆の中心は根来寺に近い太田党であったとみるのが自然です
さて、ここで問題になるのは本能寺の変の後に織田家領へ逃れたという鈴木孫一の存在です
彼が鈴木家中の誰を指すかというところが最初の問題となりますが、
実のところは明確に誰という結論はなさそうです
というのは>>179にも書いたとおり、鈴木孫一が一人の人物である可能性は、
その名が長い期間にわたって史料に出てくること、
さらに石山における戦死者の名前にも同様の名乗りが表れることからも低いことが想定できます
ただ、本能寺後の鈴木家の人物を見ると、鈴木重秀が秀吉に重用されたことがうかがえ、
彼が本能寺以降秀吉に仕えたという孫一である可能性が高いのではないかと思われます
一方、その他の鈴木一族がその頃に秀吉に出仕した様子はまず見あたらないことから、
彼以外の鈴木氏のほとんどは以前同様、雑賀荘に残ったとみるのが自然ではないかなと思います
0184人間七七四年
2008/05/06(火) 22:19:05ID:qDgfbdv0なるほど。ありがとうございます。
可能性としては孫一(おそらく重秀)が秀吉に仕えていて
残りの鈴木一族は雑賀に残った、だが
実権を握っていたのは、太田・土橋などの親根来の勢力で
雑賀・根来一体となって秀吉に抗していた、そんな感じでしょうか?
じゃあ、もしかしたら佐太夫と重秀が敵味方に別れて戦っていた、
なんて可能性もあるっちゃーあるわけですね・・・
結局のところ、鈴木氏は「孫一」で、その活躍をまとめられちゃって
個人的な動きや活躍みたいなのはハッキリしない人が多いんですかね?
0185人間七七四年
2008/05/06(火) 23:03:05ID:wRyOeG3Y基本的にその通りです
ただし、本能寺以降の雑賀衆が基本的に反秀吉であったとはいえ
やはり一揆衆の性格ゆえ、完全に一枚岩というわけでもなく
紀州討伐の際に根来寺が陥落し、秀吉勢が雑賀荘に入る頃には一部地域では既に焼き討ちが行われていたり、
雑賀城が開城するや、一部の雑賀衆の城が同様に開城してしまうなど、
やはり内部分裂・崩壊が生じた様子がうかがえます
0186人間七七四年
2008/05/06(火) 23:50:19ID:qDgfbdv0その辺はいろいろ回って調べたので把握しました。
秀吉の紀州侵攻の時は
根来衆の方が徹底抗戦派が多く
雑賀の方は、すぐに降伏したり、寝返ったりみたいな連中が多かったんですよね。
ただ、鈴木氏の動向が実際はどうだったのかってのが
結構、あんまり知られていないような気がしたので
質問してみました。(実際私も知らなかったですし)
ありがとうございました!
0187人間七七四年
2008/05/17(土) 21:19:44ID:8p8J5Dvy未だに発見されてないと聞きます。
また、雑賀衆の同様な遺構はどうでしょうか?
ご存知の方、ご教示下さいませ。
0188人間七七四年
2008/05/18(日) 05:50:31ID:2bXRId8j自分はそこまでは詳しくはないから参考にはならんが
そういう話は聞いたことはないなぁ
正直、あそこらへん一帯は紀伊討伐の際に徹底的に破壊されてしまったようなものだし
日本でも有数の歴史を持つとされる日前神宮・國懸神宮の社殿すら破壊されたと記録に残ってるほど
そう考えると、秀吉が雑賀衆の勢力の源とも言える鉄砲運用技術を野放しにはしてないと思うんだが
どうだろうか
0189人間七七四年
2008/05/19(月) 02:27:56ID:Bi2pRDoxありがとうございます。
自分なりにも調べてみました。
近年の発掘調査では20ヶ所ほどの半地下式倉庫が見つかっているようですが
火薬庫ではなく食料類の貯蔵庫の可能性が高いと判断されているようですね。
何度か行なわれた調査でも鉄砲鍛冶の遺構と証明されるものは未だに発見されて
いないようです。鉛弾の製造跡や野鍛冶跡は見つかっているようですが、鉄砲を
大量生産したらしい痕跡はないということでした。
同時代の他の城跡からは煙硝蔵は必ずといっていいほど発見されているのに。
泉州地域で根来衆に味方した寺や村も徹底的に破壊されているようですし、
やはり秀吉軍によって金属片ひとつ残らず破壊されてしまったのでしょうか。
ただ発掘調査報告書によれば、貯蔵庫跡と推測される半地下式倉庫の壁は
防湿や壁面の強化の為と思われる意図的な焼付け加工の痕跡があるとの事。
その辺を更に綿密に研究してもらえば・・・もしやとは思うのですが・・・。
雑賀における同様な遺構については現時点では不詳でした。
0190人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/03(火) 09:11:01ID:h3Hehu+70191人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/04(水) 01:42:25ID:69//jgmx血が残らなかったのは神罰が当たったんだな
0192人間七七四年
2008/06/22(日) 19:13:40ID:yya21IYhはたまた秀吉方についたんだろうか?
それとも、どちらにも属さず中立を貫いたんだろうか?
本能寺の変の前年(1581年)に氏善は信長の傘下に入って、
1585年の紀伊征伐で秀吉軍に抵抗後、降伏したみたいだけど…
誰か詳しい人、教えて下さい。
0193人間七七四年
2008/06/22(日) 21:25:35ID:gLJg+Jnm地理的条件を考えると、どっちにも属さないで静観。
光秀・秀吉も当てにするような勢力・地域ではないと思う。
どうしてもどちらかに属す、となったら
紀州征伐でも早期に秀吉方に降って一揆勢の駆逐に参じているし
九鬼氏との繋がりも深いので、秀吉に加担したんじゃなかろうか。
0194人間七七四年
2008/06/22(日) 23:15:46ID:yiP9wq/J信長の傘下に入ったのは九鬼氏の勧めもあったようですが、
その実、信長という天下人の名をかりて熊野全域から南紀を
手中にしようと西進。本能寺の変の頃は高川原氏や小山氏らと
戦っていた頃ですね。
光秀側からの誘いがあったかは不明ですが、地理的に見ても
山崎合戦の報も相次いで受け取ったと思え、どちらにつくか
考える間もなかったのでは、と思います。
0195人間七七四年
2008/06/22(日) 23:57:58ID:gLJg+Jnmゲームなんかじゃ雑魚武将扱いだけど
結構、能力的にそこいらの有象無象扱いするのはどうかと思う武将の1人。
0196人間七七四年
2008/06/23(月) 01:33:01ID:qrXOq2Dm確かに雑魚とは言い難いようですよね。
智謀もあり策略も謀り熊野一円を一時的にでも治めたわけですから。
故に熊野地方では最近まであまり好意的には語られなかった将のようですが
活躍した場所と時間が少し違っていたら面白かったかも知れませんよね。
0197人間七七四年
2008/06/23(月) 13:42:01ID:NwvLi+cEそんな中で比べると特にぬきんでても居ないというところか
0198人間七七四年
2008/06/23(月) 15:01:52ID:fjD+N5XFそれなりの実績はあるわけで。>堀内氏
でもゲームでの扱いは凡将以下の扱い。
0199人間七七四年
2008/06/23(月) 16:51:53ID:Zu92lYBy>>194
意見ありがとうございます。
なるほど、確かに本能寺の変と山崎の合戦はそんなに日が離れていませんし、
氏善が何か手を打つ前に大勢が決してしまったのかもしれませんね。
やはり中立をせざるを得なかったのが実情ですかね?
氏善が雑魚かどうかの話ですが…
ある程度の能力・勢力だったからこそ、ゲームでは「独立勢力」として
登場しているのでしょう。
ただ、ある程度の能力・勢力しか無かったからこそ、
「大名」扱いではなく「独立勢力」扱いになってしまった。
その辺りが、氏善の限界を示しているのでは…と思います。
0200人間七七四年
2008/06/23(月) 22:25:39ID:fjD+N5XF九鬼氏も似たようなもんなんだけど
信長・秀吉・家康とか、その辺のメジャーどころと
接点があったかなかったかでも、扱いは変わるよね。
0201194
2008/06/24(火) 01:29:01ID:B9Px6fvw堀内氏善の最盛期で当時の6万石ぐらいといわれていますよね。
当時の熊野地方で堀内氏に属さなかったのは比較的奥地の
色川氏ぐらいらしいですし。
ただ南紀を西進した堀内氏勢力を現在の古座町辺りで食い止めた
のは、高川原氏や小山氏・安宅氏等の土豪の連合軍という事からも
それが堀内氏の力の限界といわざるを得ないかも知れませんよね。
もちろん地理的条件もあり、>>200さんのおっしゃるような条件も
関係あるのでしょうね。
堀内氏が秀吉から熊野総支配を命ぜられたのは、その観点から言えば
ラッキーな事だったのかも知れません。
0202人間七七四年
2008/06/24(火) 19:35:26ID:fDxBFGa+色々な話があるみたいですが、
1581年に信長から本領を一旦安堵されているという説はあり、
また、本能寺の変に関しても、秀吉方についたという説もある
ただ、これらの説の信憑性については正直疑わしいとは思う
(前者は、1576年に伊勢長島城を落としたことで、伊勢北畠家=織田家との接点は生じているのでありえないくはないかもしれないが)
明確なのは1585年の紀州討伐の際に秀吉に降り、
それ以降秀吉の臣下として働いたことぐらいですね
ゲームで扱いが悪いのは、紀伊半島南部自体が巨大な空白地扱いされることが多いからでしょうな
(まあ、実際大勢力が発生しなかった地域なので、ゲーム的に重要性が低いのは否めんが)
堀内氏の最盛期の所領は、北はツヅラト・荷坂峠、南は今の旧古座町のあたりですな
ただ、色川氏の抵抗に苦杯をなめ続けたり、高河原・小山氏に抵抗され南進を断念するなど、
その勢力は当地において盤石のものであったとは言い難いことだけは確かですな
0203人間七七四年
2008/06/24(火) 21:39:09ID:c820vcFe>>202
意見ありがとうございます。
当時の6万石と聞いてもピンと来なかったので、
試しに地図で、北はツヅラト・荷坂峠、南は旧古座町の範囲で調べてみると…
思ったより大きい領域だったんですね、紀伊東部はほぼ掌握してたのか…。
まあ、あくまで「最盛期」の領域なのでしょうが。
ただし、皆さんも指摘している通り、周辺の諸豪族の激しい抵抗を受け、
それらを完全に屈服出来ず、それ以上の領域拡大を出来なかった所が
氏善の能力・勢力の限界なんでしょうね。
>>200さんの事に関しては、九鬼家を通じて織田家と誼を通じてるかと。
(↑氏善の正室は九鬼嘉隆の養女)
0204人間七七四年
2008/06/25(水) 02:09:27ID:XRgYilK1良スレですね。
0205人間七七四年
2008/06/27(金) 01:04:15ID:fKufn3rU秀吉が壊滅させてひどい状態になってたんだから地元なんかにいたら皆殺しになってるよね
秋葉山の池から当時のものすごい数の骨が出てきたって言うし
有力な家はみんな各地に離散してるしさ
0206人間七七四年
2008/06/28(土) 18:52:41ID:QXUm1idq雑賀衆の有力家は他地方に逃げ延びてるね
その先がたいてい海の近くなので、自前の水軍で海路移動したのかもしれない
移動が出来ず地元に残らざるを得なかったのは
雑賀衆ではなく雑賀衆が治めてた領地の民じゃないかな
0207人間七七四年
2008/06/29(日) 16:23:38ID:OsaHMYfQ例外もいないわけでもないだろうが、どうなんだろ
雑賀地域の有力家で、雑賀近郊に続いたことがはっきりしてるのは
日前国懸神宮の宮司だった紀氏ぐらいだねぇ
これも厳密には高野山の寺領に逃げ込んだ後、秀長に仮殿を建てた時に戻ってこれたという展開だが
0208人間七七四年
2008/06/30(月) 12:33:56ID:9dkcs5vs0209人間七七四年
2008/06/30(月) 19:52:01ID:W2VhIvgl0210人間七七四年
2008/06/30(月) 20:03:35ID:9IdHa53G秀吉は神社に甘い。
0211人間七七四年
2008/06/30(月) 22:20:02ID:4fGUJDEpきっちり社領没収+社殿破壊されとります
当時の当主紀忠雄は神霊持って山奥に逃げ延びるのが精一杯
かつては広大な境内を持った日前宮も一時は見る影もなく荒れ果ててた
元の場所に戻って来たのは徳川頼宣のころだが
その敷地はさみしいぐらいに狭くなってしまったそうな
0212人間七七四年
2008/07/01(火) 08:35:32ID:l9aiqPPP0213人間七七四年
2008/07/02(水) 02:53:26ID:+9bLjRQC雑賀の岡織部の2尺玉が出ていたが、
皆さんご覧になりましたか?
0214人間七七四年
2008/07/02(水) 03:16:42ID:BwPaED5p古代からある和歌山の神社は秀吉に縁起も神宝も焼かれ海に沈められ粉砕されましたが何か
それによって神事の縁起がまったくわからなくなってしまった
0215人間七七四年
2008/07/02(水) 03:23:01ID:BwPaED5p徳川の世になって再建したからね。けど社領はやっぱ狭くなってる
日前宮に限らず、紀北の古い神社はどこもそんな感じじゃないかな
0216人間七七四年
2008/07/04(金) 02:56:22ID:l1l7yOCH0217人間七七四年
2008/07/04(金) 07:59:44ID:Im+awR5o普通は四国出兵よりも紀伊制圧を優先しそうなもんだが。地理的に。
0218人間七七四年
2008/07/04(金) 08:47:44ID:jVmOEP5P四国統一を果たしそうな日の出の勢いの長曽我部と、
小勢力の集まりの紀伊土豪なら
長曽我部が先だろ。
三好がうまいこと取り入って救援求めたのもあるだろうし
0219人間七七四年
2008/07/04(金) 19:19:58ID:rS1mjKcS理由はいくつかあるだろうが、
当時の雑賀衆では織田家の後ろ盾のある鈴木家が強い力を持った
というのがあるかと
東西に敵対する大勢力(毛利と上杉・武田)のあった織田家としては、
雑賀衆内の親信長派を抱え込めただけでも十分な成果だったかと
雑賀衆が分裂し内部抗争状態になっただけでも
南からの直接の脅威は格段に薄れるから
後は親信長派に援助して潰されないようにしておけばOKというわけ
0221人間七七四年
2008/09/05(金) 01:22:02ID:C1sX0JLC0222関連スレ
2008/09/27(土) 04:16:06ID:D68452Mwhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1222456299/
末裔のスレが再興
0224人間七七四年
2008/10/20(月) 21:37:30ID:3KfHBT9I0225八咫烏
2008/10/22(水) 04:21:12ID:0zh8IXWA結構エロくて、これじゃあドラマ化は難しいですねぇw
これ以外で孫市や雑賀衆の原作小説は無いのでしょうか?
大河は無理としても、他の時代劇枠(民放含め)で取り上げてほしいものですが。。
0226人間七七四年
2008/10/23(木) 21:07:21ID:Bdf9cMN9鈴木重朝
鈴木重秀
鈴木義兼
鈴木ヒロミツ
0227人間七七四年
2008/10/24(金) 19:31:39ID:I2MDx01O「尻啖え孫市」って昔の東映で映画化されたよね
萬屋錦之介が主演で結構楽しく脚色もされていたっけな
今でもCS東映チャンネルで放送されてるから時々観てしまうw
今の時代なら深夜枠とかでドラマ化しても面白いと思うんだけどなあ
小説はPHP文庫の二宮氏版、あとは短編で幾つか見た覚えがあったけど
今すぐに思い出せなくてごみん!
ウェブや携帯小説の類でもよければ、ググッてみれば出てくるはずだよ
中途半端で申し訳ない!w
0229人間七七四年
2008/11/03(月) 18:55:54ID:FL9aRVQF「尻啖え」の雑賀孫市は
ルパン、コブラ、冴羽獠に似てる希ガス。
0230人間七七四年
2008/12/14(日) 03:43:58ID:HHGCDr2Y雑賀衆の的場源四郎って紀氏の家系なんでしょうか?
というのも、的場源四郎の子孫が残した
『源四郎昌長真宗本山御助力実記』という本に
「紀州名草郡中之島村住人的場源四郎紀昌長(きのまさなが)
【源四郎紀昌長ハ人皇第八代 孝元天皇第四皇子彦太忍信命の曽孫
武内宿弥の孫盾人宿弥第四十八代の孫従五位上左京亮紀保輝の孫
紀六郎左エ門保詮十二代の孫にして當郡の郷長なり】」
という一文があるんで。
それと、何かの本で読んだことがあるんですが、的場源四郎は雑賀滅亡後、
大和の桑山氏に食客として召され、その後関ヶ原に参戦したあと、
若い娘と結婚、堺に移住し、紀伊に里帰りする道中自害したという話が
あるんですが(このとき、60歳前後だったという話も)
だいぶ昔に読んだので詳しくは覚えていないんですが。
的場源四郎に詳しい方、ぜひご教授を…
0231人間七七四年
2009/01/27(火) 01:22:38ID:Erzl4ojq0232人間七七四年
2009/01/28(水) 01:15:37ID:AirtYIdu「佐武伊賀働書」にもあります。この子が後に豊臣家の鉄砲頭となった
鈴木孫一郎某と考えられているようです。
専門家なども主張する説としては、その豊臣家の鉄砲頭が関ヶ原の戦
の前哨戦でもある伏見城攻撃で功名を成し、後に水戸徳川家に仕えて
名を「雑賀孫市」と改めたというものがありますね。ただ、伏見城戦で活躍
したのは「鈴木孫三郎重朝」という人物で孫一とは全くの別人だというのは
史料によっても確かなようです。
0233人間七七四年
2009/01/28(水) 05:47:50ID:uXpvKDJD鈴木孫六(孫一の弟)、鈴木孫助(孫一の孫)、中嶋孫太郎(孫一の兄)なんてのもいるらしい。
0234人間七七四年
2009/01/28(水) 09:30:59ID:N1c0ZMg/0235人間七七四年
2009/01/28(水) 10:53:13ID:ZpIS7J+L0236人間七七四年
2009/01/28(水) 16:20:26ID:sISBvCpS孫三は孫三郎重朝と別人?
伏見城の孫一郎と朝鮮出兵の孫一郎は
別人という説もあるし、石山軍記や陰徳太平記で
事績が重なる鈴木伊賀守(源左衛門)と佐武伊賀守
(こちらも源左衛門)も別人らしいから、
一概に同一人物とは言えないけど。
孫十郎はもしかすると、1563年に三好氏と
畠山・紀伊勢連合軍(雑賀衆・根来衆・湯川党)
が戦った和泉久米田合戦で戦死した、
鈴木孫九郎重宗の近しい人物かな?
232の「佐武伊賀働書」に出てくる根来衆の玉宝というのも、
鈴木孫一の従兄弟らしい。この資料に出てくる孫一は、
佐竹義昌(佐武伊賀守)と同世代なので、多分重秀だと思う。
玉宝は、1570年の河内古橋城の戦いで、織田方の三好義継、
畠山昭高に属したキリシタン大名の結城忠正
(実際は忠正の甥で同じキリシタンの結城弥平次らしい。
「佐武伊賀働書」は、佐武伊賀守の記憶違いが結構多い)
と共に古橋城の守将として、300〜400の兵を率いて
三好三人衆に組みした鈴木孫一、佐竹義昌ら雑賀衆と
戦ったらしく、従兄弟の鈴木孫一(重秀)の降伏勧告にも
応じなかった。
雑賀衆の中でも根来衆に縁の深かった土橋氏(専識坊氏人)、
岩橋氏(威徳院氏人)は有名だけど、鈴木氏をはじめ、
雑賀衆の面々には、根来寺に入って行人僧兵として活動した
人物もけっこういたようだ。
前述の佐武伊賀守も、若い頃は根来寺専識坊配下の福宝院で
修行してそうだし。
0237人間七七四年
2009/01/31(土) 00:18:48ID:ptRhlBd+0238人間七七四年
2009/03/07(土) 15:26:49ID:ltk2h41G0239人間七七四年
2009/03/11(水) 21:07:51ID:HzXckFBDこないだ根来寺に行ってきたきたけど、受付のおばちゃんが、
寺から1キロくらい離れた郵便局を作るときに鉄砲とかが出土したって言ってた。
それが鉄砲工場かどうかはわからないけど、
あの辺で郵便局と言ったら上岩出小の当りだから、やっぱりそのくらいはなれたところが怪しいんでないかなあ。
復元地図とかを見ても、愛宕山のラインより北は全部寺そのものだから、そういうものがあったとは思えない。
0240人間七七四年
2009/03/16(月) 23:29:59ID:uUc1HeiO0241人間七七四年
2009/04/03(金) 08:35:14ID:GbCmhnbR2009.3.30 02:50
戦国時代の和歌山で、雑賀衆と呼ばれる鉄砲隊を率いて奮戦した雑賀孫市の往時をしのんで
和歌山市の活性化を図ろうと29日、本願寺鷺森別院(同市鷺ノ森)などを舞台に「第5回孫市
まつり」が開かれた。
市内の商店街連合会などでつくる「孫市の会」の主催。午後0時10分、戦国時代の甲冑(かっ
ちゅう)や衣装に身を包んだ同会の会員ら約110人が、同寺院から南海和歌山市駅周辺まで
練り歩く武者行列がスタート。
ほら貝や陣太鼓を打ち鳴らしながら、刀や槍(やり)、火縄銃の模造品を持ち、戦国時代をほう
ふつさせる重厚な手作りの鎧(よろい)や兜(かぶと)を身に着けた勇壮な行進に観光客や市民
らは、携帯電話で撮影するなどして楽しんでいた。
また、寺院の境内で雑賀衆鉄砲隊による迫力満点の火縄銃射撃が行われたほか、「孫市鍋」
と称した鍋が振る舞われた。通行規制した路上ではスポーツチャンバラなどのイベントも行われ、
観光客や市民らでにぎわった。
ttp://sankei.jp.msn.com/region/kinki/wakayama/090330/wky0903300252000-n1.htm
0242人間七七四年
2009/04/03(金) 19:50:49ID:MaNvbMIJ0243人間七七四年
2009/04/03(金) 21:12:48ID:6/n9bZjR「武将」という表現はおかしいのでは?
0244人間七七四年
2009/04/05(日) 19:36:33ID:fN46FZ4q根来寺内の遺構からは鉄砲の鍛冶場が出てないらしいから、
もし国内で鉄砲を生産していたとしたら、寺外で精製していた
可能性がかなり高いと思う。
種子島をコピーした西坂本の芝辻清右衛門妙西も
根来寺の門前町の住人だったし、雑賀庄では雑賀鉢や
刀剣の精錬が盛んで、鉄製技術がかなり発達してたらしいし。
>>242
スレの最初のほうでも書き込んだけど、根来衆は基本的に
南泉や紀伊雑賀五郷、那珂郡の土豪や国人、地侍が根来寺の坊院に
一族を送り込んで有力な武装集団に発展していった。
だから根来衆の実態は、和泉南部から紀伊北部にかけて行人傭兵として
根来寺に入ったゆるやかな土豪連合の側面が顕著で、雑賀衆や
高野山、南和泉の動向にかなり関与している。
南泉の有名な雑賀衆は根来寺成真院の熊取大納言坊(熊取中氏)
那賀郡では吐前の津田氏から興った根来寺杉ノ坊の杉ノ坊照算
(津田自由斉、鉄砲を伝えた津田監物算長の子)、
那賀郡荊本邑田中荘の田中氏から興った根来寺岩室坊の岩室坊清誉や
関ヶ原で毛利氏に味方した岩室坊清祐、同じく那賀郡奥家の往来左京
(久米田合戦で三好実休義賢を討ち取った人物)、その兄弟といわれる
奥大蔵(小道茶といわれている豪傑)
雑賀五郷では雑賀庄の有力土豪土橋平治守重の息子、根来寺専識坊の
土橋専識坊なんかが根来衆の有名どころ。
杉谷善住坊は甲賀五十三家の出というのが有力な説らしいけど、
もしかしたら根来で修行していた可能性もあるかもしれない。
根来衆の一人に亀井重堅という人物がいるけど、彼はもともと
細川氏の家臣だったが、若い頃家中で殺人を犯して根来寺に入り、
石山合戦では織田方と戦ったりしている。
杉谷善住坊もそういった過程があって、根来寺に入ったのかも。
0245人間七七四年
2009/04/13(月) 01:55:51ID:EdujjmRz0247人間七七四年
2009/04/16(木) 13:55:44ID:NP7bEiBo(鈴木氏や岡氏の中にも、根来衆の有力者がいたので)
0248人間七七四年
2009/04/17(金) 17:17:40ID:IK1+ug2V立ててみた
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1239956192/
0249人間七七四年
2009/04/18(土) 19:36:56ID:SpkmgXzs江戸時代に雑賀衆なんて残ってるか?
0250人間七七四年
2009/05/16(土) 18:43:39ID:wjZhPw+Sて、誰やねん
0251人間七七四年
2009/05/17(日) 00:57:24ID:15S6m7Zb0252人間七七四年
2009/06/08(月) 08:26:02ID:IhhKUB430253人間七七四年
2009/06/21(日) 20:30:20ID:FqnOuK/D雑賀でも土橋氏とか根来衆の人物についても詳しい書籍ってないですかね?
0254人間七七四年
2009/06/21(日) 22:07:56ID:kWdDB0VB安価な入門書
http://www.7andy.jp/books/detail/?accd=31414275
0256人間七七四年
2009/06/27(土) 04:34:51ID:CczoHW4e土橋氏血縁、兄弟から根来の僧院に僧として出ています。
種子島を本土に持ち込んだ津田監物算長も紀伊国小倉吐前の出自=雑賀党 しかし所属は根来衆です。
雑賀党は一向衆=浄土宗ですが、
根来衆は新義真言宗、つまり真言宗です。
雑賀と根来は領地の境界線が隣合うための争いが多いみたいですが、雑賀党内でも連合国家だった為に争いが絶えなかったとか...
例えば、本郷(鈴木一派)と宮郷(太田党=親根来派)の中の悪さとか...
0257人間七七四年
2009/06/27(土) 04:48:12ID:CczoHW4e雑賀、根来関連小説
尻くらえ孫市
海のかや琴
天かける倭寇
草笛の剣
雑賀六字の城
鉄砲無頼記...
まだあると思う。
0258人間七七四年
2009/06/27(土) 09:29:19ID:5Jp/LkC4雑賀党ってのはそもそも一枚の看板に見えるが、
たくさんの土豪が緩い協力関係を持っていただけというのが実際であって、
地域全体が一つの勢力として存在したというのはかなりの拡大解釈
ここらへんはスレをさかのぼると色々書かれてはいるがもう一回
雑賀党でも一向宗徒が多かったのは
海沿いで土地も農業には向いていなかったため、漁業や海運業が盛んであった雑賀庄や十ヶ郷
(ただし、これらの地域でも100%一向宗というわけではない)
一方残りの宮郷・中郷・南郷は紀ノ川沿いの肥沃な土地に位置し、農業が主体
これらの郷は根来寺とのつながりが深く、真言宗徒が多数を占めていた
なので、これらの地域はどちらかというと根来寺と一体とまでではないが、かなり連動した動きを見せている
雑賀衆の内紛の多くはこの地域一帯での根本的な宗教的基盤の違いに立脚してる
石山戦争時で雑賀衆が一致した動きしてるので、一見全体が一向宗徒に見えるのは仕方ないが、
雑賀衆が一致して石山本願寺に協力姿勢を示したのは、反信長という当時の雑賀衆の立ち位置が重なったからであり、
実際の動き見てみると、本願寺に入るなど積極的に動いていた十ヶ郷鈴木氏(一向宗)や
逆に表立った動きの少ない雑賀庄土橋氏(浄土宗)など結構違いが見られるし、
本願寺降伏後は鈴木氏を代表とする一向宗徒の中からは親織田派に転ずるものもいたが、
他の雑賀衆は反織田の姿勢を保持し続けるなど、宗教的基盤の違いがあからさまに表に出てきている
0259人間七七四年
2009/06/27(土) 09:41:13ID:5Jp/LkC4結果論的に見れば、歴史的に目立つのは十ヶ郷鈴木氏ではあるが、雑賀衆全体をひもといていけば、
彼らが歴史的に目立つことになったのは雑賀衆の中では異端な存在であったからこそとも言える
少なくとも1580年頃には雑賀衆でも鈴木氏の一部は明らかに親織田派であり、他の雑賀衆から孤立していた
彼らは織田家の後ろ盾をもって対立する雑賀衆をうまく抑え込んでいたようだが、
それゆえ本能寺の変が起こるや、彼らは他の雑賀衆から攻撃を受け、逃げ出さざるをえなくなっている
その後の歴史に名前の残る鈴木氏はこの本能寺後に雑賀から逃げ出した勢力がほぼ全てになる
ちなみにこのとき紀伊に残った他の鈴木氏の中にも
(解釈は色々あるだろうが、石山戦争後の本願寺自体が
潜在的に親織田、反織田に分裂気味だったことから、雑賀衆内の一向宗徒も分裂していたのかもしれない)
秀吉の紀州討伐の際に、本願寺からの開城を求める書状を受けあっさり開城するものが出るなど、
やっぱり他の雑賀衆とは異なる動きを見せている
それゆえ、雑賀衆の代表格として扱われることの多い鈴木氏であるが、
実際は雑賀衆の中では異端な存在であり、彼らをもって雑賀衆全体を語るのは無理であると言えるだろう
0260人間七七四年
2009/07/14(火) 23:58:05ID:Itrci/v90261人間七七四年
2009/07/20(月) 13:34:14ID:YliOVTsR何してたのかな?
0262人間七七四年
2009/07/20(月) 23:15:46ID:LLg0JwIO0263人間七七四年
2009/07/25(土) 23:40:07ID:0j5mKzY6近くの図書館に同じ著者の「紀州雑賀衆 鈴木一族(昭和59年刊)」てのがあったんで
借りたんだけど内容ほとんど一緒かな?違うなら新しい方も買ってみようかなって思ってるんだけど。
0264人間七七四年
2009/07/28(火) 15:20:32ID:sJP5EL0R多分新しい方は単行本を新書化した増補版では?
内容の差異はよく分からんけど。
0265人間七七四年
2009/07/28(火) 18:22:30ID:m0Q4oS4lこのような衆団の様な一団がいたからこそ
その筆頭だった武将が目立った訳で
雑賀衆のような集団こそ注目を集めるべき
織田豊臣徳川のような武将だけ目立つのは
いかがかと。
0266人間七七四年
2009/07/28(火) 18:30:40ID:m0Q4oS4l雑賀衆のような集団こそ注目をあつめるべき
0268人間七七四年
2009/08/02(日) 22:03:39ID:zLkd45Y4http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1249208441/
0269人間七七四年
2009/08/04(火) 05:15:54ID:Yg9sInhl鈴木重秀、重朝は、鈴木重意(左太夫)の子であるというのが定説のようになっているみたいですが
そもそも、重秀・重朝が兄弟であるという説も仮説の域を出ず、
重意(左太夫)が父であるという部分に至っては、何にも確証が無いと思われるのですが
どうなのでしょう?
0270人間七七四年
2009/08/05(水) 02:38:07ID:rdParJ2H答えから言うと実際のところは全く不明と言わざるをえない
少なくとも水戸藩に仕えた鈴木重朝は重秀の子であると明記された事実はない(参照:水府系簒)
そもそも鈴木孫一なる人物の扱い自体がきわめて難しく、時代によって指す人物が異なるのは確かではあろうが、
それが誰であるかということに関しては一切史料がないと言っても過言ではないのよね
0271人間七七四年
2009/08/05(水) 06:39:23ID:vnE947llそもそも左太夫=重意ってのも明確ではないんですよね?
この人物の詳細すら明確でないのに、重朝・重秀の父である、鈴木氏の前当主である、ってのは
すべて推測に過ぎないわけですよね?
0272人間七七四年
2009/08/06(木) 04:56:49ID:tsY72N4r鈴木左太夫という人物があり、それと同時代に鈴木重意がいるので
現状他に比定できる人物がいないことから、重意=左太夫とするのが限りなく自然と思われるという感じでしょう
(この手の比定は歴史では特段珍しい話ではないですし、間違った方法と見なされるものでもないですね)
重朝、重秀についても同様に、同時代の人物として孫一(市)と比定されているという感じでしょう
雑賀衆は後世にその集団の名前としては残りましたが、実際の記録は全くというほど存在しないので、
今後も比定中心の研究にならざるをえないでしょうねぇ…
0273人間七七四年
2009/08/09(日) 19:01:23ID:VzcU1sFfなってたからな。
0274人間七七四年
2009/08/26(水) 14:48:50ID:qS67b4+s戦国時代、織田信長に立ちはだかった紀州鉄砲集団・雑賀(さいか)衆の頭領、雑賀孫市。そのゆるキャラ「まごりん」の
着ぐるみができ、22日に和歌山市の祭りに登場した。
製作したのは、地元住民らでつくる「孫市の会」。滋賀県彦根市の「ひこにゃん」が大人気なのを見て、闘争心を燃やした。
孫市の定紋「やたがらす」をモデルにした「ヤタっち」も一緒に着ぐるみにする予定だったが、予算不足でできず。「まごりん」
だけが火縄銃ならぬ募金箱を持って街を練り歩く。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200908230032.html
http://www2.asahi.com/kansai/news/image/OSK200908220177.jpg
0276人間七七四年
2009/08/26(水) 16:03:14ID:uuZ/lLZm0277人間七七四年
2009/08/26(水) 16:19:18ID:0ifol8aIまごりんはだめだろ
0278人間七七四年
2009/08/26(水) 16:35:47ID:vq6Ux5F10279人間七七四年
2009/09/08(火) 00:57:21ID:vTTu4wKJプロ野球パのコミッショナーは信長を狙撃した根来氏の末裔w
0280人間七七四年
2009/09/08(火) 01:13:23ID:pXYVDl1d0281人間七七四年
2009/09/09(水) 00:19:38ID:d8UjdyOG土佐、讃岐、播磨等で確認されていて、特に四国には
長期的かつ積極的に派兵してたらしい。
長曾我部元親の初陣になった永禄3年(1560年)の長浜の戦いでは、
長曾我部氏・本山氏双方に相当数の雑賀衆・根来衆が従い、
本山方についた佐武伊賀守はこの戦いで、長曾我部方についた
阿弥陀院大弐という顔見知りの根来者を討ちとったり、
かと思えば、長曾我部方についた雑賀衆・根来衆と共に
紀伊に戻ったりしている。
こういう話は雑賀衆・根来衆にとても多くて、たとえば
前述の河内古橋城の戦いで鈴木孫一が従兄弟の根来者・玉宝と戦ったり、
同じ戦いで佐武伊賀守が、同郷の友人と思われる中之島の六郎太郎が
討ち死にした際、敵方についていた根来衆の大夫という男と共に、
激戦の中、六郎太郎を埋葬して負傷したりしている。
0282人間七七四年
2009/09/09(水) 01:06:30ID:d8UjdyOG湊衆は鈴木氏、岡氏と共闘したり争ったりした集団で、今の和歌山市の
北西部沿岸を支配し、海運業や海賊に従事した集団として知られている。
この湊衆の実力者の一人、佐々木刑部助は、元亀3年(1572)
細川真之・三好長好の依頼で雑賀衆の大将の一人として阿波に渡海し、
三好氏の軍記『昔阿波物語』には「湊の大将植松平大夫、久保町の才助、
湊の形部(佐々木刑部助)、鷺森の源左衛門(佐武伊賀守)」として
記されている。
この一年後、阿波では三好家の重臣篠原紫雲(長房)が討たれる
「紫雲の乱」という事件があり、渡海した雑賀衆は、この事件に
関与していた可能性がかなり高い。
現に、雑賀衆は篠原長房の子を紀伊に連れ帰って育て上げ、
天正5年(1577)再び阿波に渡海した時、篠原長房の子を擁立したいう
記述が『昔阿波物語』にも記されている。
さらにこの佐々木刑部助については、天正14年(1586)に小田原の
後北条氏と海上交易した記録が残っている。
この文書を発給したのは、後北条氏の海賊衆で紀伊国西部有田郡の
出である梶原備前守で、かつて後北条氏には根来金石斎という根来者が
軍師をしていたこともあり、後北条氏と紀伊の雑賀衆・根来衆は
かなり昔から深い関係があったと思われている。
天正14年(1586)というと、前年に雑賀衆・根来衆ら紀伊の勢力は
豊臣秀吉の紀州攻めでほぼ滅ぼされていて、その中にあって湊衆は、
秀吉の庇護によって海運業を継続していたこともわかる。
0283人間七七四年
2009/09/09(水) 02:09:41ID:p60ASD3s特に長浜合戦のお話、勉強になりました。
0284人間七七四年
2009/09/09(水) 08:36:54ID:d8UjdyOGありがとうございます。
これで雑賀衆・根来衆に興味を持ってもらえれば。
湊衆の話にちなんで、もうひとつ。
前述の『昔阿波物語』(十河氏に仕えた二鬼島道智の作)に、
雑賀党の湊衆を指して「紀州の者は土佐前を船に乗り、
さつまあきない計仕る」とあって、雑賀の人々は、当時対明貿易の
拠点だった薩摩坊ノ津あたりまで活発に交易していたことが
知られている。実際、根来衆の津田監物算長も、この交易によって
種子島に向かい、鉄砲を持ち帰ったことが知られているが、
その中にはさらに中国や琉球、朝鮮やフィリピンやマラッカまで
到達した紀州の集団もあったようで、明代後期に鄭若曾が倭寇の
事件を細かく記した『籌海図編』には後期倭寇の拠点であった
福建月港や浙江双嶼港に入港、あるいは居住していた生粋の倭寇、
つまり日本人たち(主に薩摩、大隈、肥前の人々)の中に
「乞奴苦芸(きのくに・紀伊国)の人もしばしば入寇する」と
記されていて、雑賀衆の海上での活動範囲は国内だけではなく、
かなり広域だったことがわかっている。
ここで重要なのは、雑賀衆・根来衆は対明貿易や海外貿易を行った
ほかの大名(たとえば薩摩の島津氏や周防の大内氏)と違い、
緩やかな地縁の武力集団、かつ紛争著しい惣国の中で、この貿易を長く
行っていたということ。
これは、紀伊北部の雑賀衆・根来衆が、戦国時代でもかなり異質な
マージナルマン(境界を超えた人々、主に海洋民族に使われる用語)
的素養を多分に持っていて、そういう要素を含む集団のために、
一部は深く宗教に帰依してつながりを保ったり、かと思えば
宗教の戒律を無視して寺領の坊院に子弟を送り、田畑や加地子
(在地の租税や年貢)を蓄えて、鉄砲をいち早く所有し、
損得勘定の戦を雑賀荘内外で行ったり、惣内でも共闘したり
争ったりする、稀有な集団に形成されていったと思う。
0285283
2009/09/10(木) 01:54:05ID:Ky+r91fgこのスレにも今年春から参加していたのですが
最近は忙しくてなかなか来られませんでした。
当方、雑賀衆や根来衆とも縁浅からぬ土佐は
長宗我部氏の元家臣の子孫でしてw
今後とも興味尽きないお話を楽しみに
いたしております。
0286人間七七四年
2009/09/10(木) 22:43:14ID:w4W2i4zwありがとうございます。
自分は雑賀・根来とはなんの縁もない百姓の子孫ですが、
趣味で雑賀衆・根来衆の事跡をたどっている素人者です。
土佐というと、土佐に逃れ長曾我部氏に謀殺されたという
根来衆の鈴木平十郎と土橋泉式坊を祭る社があると聞いています。
この鈴木平十郎、鈴木を称しておりますが『平』を冠した名前のため
自分は土橋一族と縁浅からぬ人物と考えております。
(粟村の土橋氏は平大夫、平之允(平尉、平之丞)、平次(平治)、
平次郎、平三郎…と、代々一族で『平』を名乗っている者が大勢いるので)
まあ、これも素人考えなのですが…
0287人間七七四年
2009/09/17(木) 02:41:42ID:xcmTyZ0n残念ながら、その社の事は存じません・・・。
泉式坊(専式坊)が蟄居していたのは高知の和食(わじき)とか。
調べてみますね。
ところで、秀吉の命令で長宗我部元親が討伐を指示したのは山川氏・吉田氏・黒岩氏です。
この黒岩治部の弟に我が先祖は討たれていますので因縁浅からぬ話題でした(苦笑
0288人間七七四年
2009/12/07(月) 18:33:17ID:06GQaX7a0289人間七七四年
2009/12/11(金) 22:06:36ID:ViZVllDd「戦国BASARA3」の雑賀孫市は女性だった!
http://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/0912/11/news068.html
0290人間七七四年
2009/12/11(金) 22:15:20ID:FF7fJGRO0291人間七七四年
2009/12/12(土) 12:32:18ID:knd6b6Lv0292人間七七四年
2009/12/12(土) 21:19:14ID:XqvEEQRT中の人が「大原さやか」なのは期待出来るな。
0293人間七七四年
2009/12/18(金) 23:16:29ID:An+RPhTT“絢麗豪壮” 前田慶次の固有技/バサラ技を紹介
http://www.4gamer.net/games/094/G009450/20091218038/
0294人間七七四年
2010/01/06(水) 17:59:31ID:yxXWaNkl0295人間七七四年
2010/01/12(火) 18:39:37ID:RyYuGTsC0296人間七七四年
2010/01/12(火) 18:55:15ID:cAdOvON+0297人間七七四年
2010/02/15(月) 01:01:44ID:AICHP1yq0298人間七七四年
2010/02/15(月) 08:23:44ID:B8kG3ic+> この地がまとまるような強力な指導者が出ていれば、天下取れたかもね
天下取るのは無理。
0299人間七七四年
2010/03/06(土) 19:53:49ID:Ht3AjzLj// |.:.:.:./.:.:.:.:.|.:.| |`、.:.:\.:.:.:.:.、.:.:.:.:.:.:.:.:..:.、.:.:.:.:.`、:i
´ |.:.:./|.:.:.:.:.:|.:.| !.:.i、.:.:!\.:.:.:\:.\.:.:、.:.:ヽー:、:.ヽ
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| !.:.:|:.\| ! ー´ハ、j/ ヽ/ |.:.:
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0300人間七七四年
2010/03/07(日) 09:42:15ID:aJNaADJW0301人間七七四年
2010/06/27(日) 14:56:02ID:FOSTjSa80302人間七七四年
2010/07/01(木) 23:09:12ID:VnmY4np70303人間七七四年
2010/07/08(木) 17:04:43ID:HEjWvjWi孫一って親織田派だったん?それとも敵対派だったん?
0304人間七七四年
2010/07/12(月) 12:15:46ID:JUnCZf4M0305人間七七四年
2010/07/14(水) 23:22:13ID:fSgnPd63>>303
基本的に本願寺派として動いた雑賀衆鈴木氏の織田家への立場は本願寺のそれに追随する形で動いてます
つまり、石山戦争の間は鈴木氏は明確な本願寺派でそれに従う形で反織田勢力で、
本願寺と織田信長が講和を結び、蓮如が紀伊へ移ると鈴木氏もそれに従う形で矛を収めた
その後、雑賀衆内で内部対立が拡大すると、鈴木氏(の一部)は敵対勢力を抑え込むため織田家の後ろ盾を求めるようになった
で、織田家の力をバックに対立する勢力を抑えつけてたが本能寺で信長が死んで後ろ盾を失い、
反対勢力から一気に攻められて紀伊から逃走
大まかにはこんな流れになります
0306人間七七四年
2010/07/14(水) 23:34:52ID:fSgnPd63一方、この流れを雑賀衆の中で見ると少し複雑になる
まず、雑賀衆には本願寺派であった勢力と浄土宗の根来寺とのつながりが深い勢力という風に、
内部に宗教的な違いが古くから存在し、一部有力者が橋渡しする形でゆるい連合体として成り立っていた
しかし石山本願寺との関係から、織田の圧力が強まるとこの宗教的な違いがずれを産み、
最終的には浄土宗派の織田への寝返りという事態になる(根来寺が織田方であった影響も大きいと思われる)
で、これから紀州攻めへと発展するが、これは一向宗派が形式上降伏するだけという実利のない結果に終わり、
織田の圧力が弱まると一向宗派はすぐに反織田の態度を取り戻し、雑賀衆内の浄土宗派に対しても反攻を仕掛け、
最終的には雑賀衆において一向宗派が勢力を強める結果に終わったと考えられます
で、本願寺が織田に屈服した後もこの内部対立はなくなったわけではなく、
一向宗派の十ヶ郷の鈴木氏と雑賀荘の根来寺に近しい土橋氏の対立が先鋭化する
(十ヶ郷と雑賀荘はともに一向宗徒が多い地域であり、上に従うのであればこれは雑賀衆における主導権争いであったものと思われる)
この争いにおいて鈴木氏の一部は織田家の後ろ盾を求めるようになり(本願寺との繋がりから織田家とはパイプができていた)、
織田家も雑賀衆の親織田派を支援すれば不安定要素を減らせることから利害が一致し、
鈴木氏は織田家の後ろ盾をえる形で対立していた土橋若太夫を殺害する等雑賀衆の主導権争いで優位に立った
で、本能寺で信長が死に後ろ盾を失うと、反鈴木派が一斉に反攻に出、抵抗しきれなくなり織田領に逃走する他なくなった
ただし、全ての鈴木一族が駆逐されたわけではなく、秀吉の紀州討伐において雑賀衆に多くの一向宗徒の鈴木氏の名が見られること、
土橋若太夫殺害には土橋氏の一部が関与している等、この主導権争いは一族内対立等相当入り組んだものであったと考えられます
0307人間七七四年
2010/07/15(木) 20:30:13ID:2KAcUQQE根来寺は真言宗だろーが!
0308人間七七四年
2010/07/17(土) 13:34:57ID:uNQPP6K/0309人間七七四年
2010/07/19(月) 02:58:04ID:qLgaJXRnサンデー連載の「戦国八咫烏」て、どうよ?
0310JFA
2010/07/19(月) 06:32:11ID:Bqt91wev矢宮神社で必勝祈願したら、日本勝った〜〜 ( ^ω^)
0311人間七七四年
2010/07/19(月) 16:09:49ID:aPXCQYoO蓮如?
顕如じゃないの?
0312人間七七四年
2010/07/27(火) 08:18:53ID:FH3p4yKq0313人間七七四年
2010/07/27(火) 11:23:59ID:kQz+8uPI0314人間七七四年
2010/08/24(火) 15:54:59ID:iU/HgBBq「世襲の名前としての鈴木孫一」という概念を省いて
永禄〜天正年間に石山合戦や雑賀庄の争乱で活躍した
鈴木氏の有力者の一人としての鈴木孫一と考察すると…
鈴木孫一は反信長→親信長→秀吉配下、となる。
さらに石山合戦や紀州防衛で信長に抵抗し、最後は信長に
組みしたという鈴木孫一は、鈴木重秀の可能性が極めて高い。
鈴木孫一の名が記録として歴史上初めて登場するのは、
永禄五年(1562)の湯河党と雑賀衆の間に交わされた
「湯河直春起請文」中の誓紙の記帳。
それ以前の記録では、雑賀衆の一人、佐竹義昌が覚書として
書き残した「佐武伊賀守働書」中にある弘治三年頃(1557)
雑賀荘中之島で起こったという、中郷と雑賀荘の争乱
(発端は中郷の和佐荘と岩瀬荘の土地争いが根来寺や雑賀荘に
飛び火したらしい)に、鈴木孫一が一党を率いて戦ったという
記述がある。
このあたりが、鈴木孫一の事跡を辿れる最古の記録。
これとは別に、天文十九年(1550)に法主本願寺証如を
黒江に迎えた「伏山孫一」という名が登場するが、
これは多分孫一重秀の父親か、一世代前の有力な鈴木氏の
頭目と思われていて、伏山の名は当時の鈴木一族の拠点の
一つだったと思われている。
(伏山は現在の和歌山城が建つ虎伏山近隣)
このように雑賀鈴木氏は年代を追うごとに
藤白→妙見山(雑賀城)→弥勒山→伏山→鷺森→宇治→平井谷と
その本拠が北上していて、これは紀伊国の一向門徒の中心地の
北上(清水→黒江→弥勒山→鷺森)と年代的に合致していて
とても興味深い。
弘治〜永禄年間頃に文献に現れる孫一は、まだ10〜20代の青年で、
当然、信長との接点も無かったと考えられる。
孫一がはっきり信長と敵対するようになったのは、
信長が根来衆&中郷、宮郷太田党、南郷の大野十番頭を
次々と味方につけることに成功し、雑賀衆の切り崩しを
はじめた永禄十二年(1569)前後。
孫一はこの後十年続く石山合戦、信長による
二度の紀州攻め、雑賀庄の内紛(信長に組みした南郷の
春日大社を鎮護する旧地頭集団・大野十番頭との対決
【井ノ松原の戦い】、宮郷太田党・根来衆・中郷連合軍
との戦い【第一次太田城攻防戦】)を経て、一貫して
反信長の姿勢だったが、天正八年(1580)法主顕如の
石山本願寺開城に従い、これを機に顕如と共に親信長に
傾倒していく。
0315人間七七四年
2010/08/24(火) 15:57:58ID:PJB6XvcD参考にします!
0316人間七七四年
2010/08/24(火) 16:05:37ID:iU/HgBBqこの孫一の転向にはいくつかの複雑な事情がからんでいて、
その一つに十ヶ郷・雑賀荘の二郷の雑賀衆の中心人物として
古くから雑賀衆や根来衆を率いてきた土橋若大夫(平次守重)
との確執がある。
土橋若大夫は、最後まで信長との徹底抗戦を唱えた反信長派の
顕如の息子・教如に賛同したため、親信長の顕如に従う鈴木孫一と
対立した、というのが一般的な見方であるけど、この対立の奥底には、
雑賀衆での主導権争いの可能性が十分考えられる。
(実際、それを察した顕如は、その後幾度か両人を諌めたりしている)
またこの二人、これまた複雑なことに、実はかなり近しい相婿関係で、
孫一の嫁は土橋若大夫の娘ないし妹、或いは土橋氏の氏族、福島村の
藤木氏(歴史研究家の藤木久志の先祖の家)の娘といわれており、
孫一の姉妹たちも、それぞれ土橋若大夫の息子や弟に嫁に入っている
という間柄で、次第に深まる二人の対立は、共闘と離反を繰り返す、
雑賀衆の人間関係の複雑さと気質、性質を象徴する代表的事例でもある。
そんな鈴木孫一と土橋若大夫の対立の激化の結末が、
天正十年(1582)一月に起きた鈴木孫一とその一党(土橋一族の一部)
による雑賀衆の反信長派の頭目・土橋若大夫殺害事件。
(実際には、土橋若大夫を切腹に追いやったという)
この事件の翌日、孫一は泉州の織田勢を紀州に招きいれ、
親信長派として土橋氏や湊衆、根来を攻撃してこれを破り、
反信長派の多くを紀州から追い出して、織田勢と共に雑賀荘を掌握する
(この時、孫一と共に織田勢と戦い続けた弟の鈴木孫六や佐武伊賀守、
的場源四郎といった面々は、 孫一が招き入れた織田勢や孫一の手勢と
戦ったことになる)が、 天正十年(1582)6月に起こった本能寺の変で、
信長が横死すると孫一の立場は逆転して、反信長派の雑賀衆・根来衆の
反撃にあい、紀州を追われて泉州の織田信張、次いで秀吉の元に身を寄せた。
その後の孫一の動向は、どうも秀吉の家臣になったようだが、実際は
食客のような扱いだったようで、一応秀吉の鉄砲頭という記録も
残っているが、名ばかりの名誉職みたいなものだったのかもしれない。
ただ、秀吉からはかなり気に入られていたらしい。
もしかすると重秀の「秀」は、このときに秀吉から拝領された
可能性も考えられる。
(孫一の実名の候補に、重元、重治、重行というのもあって、秀吉に
仕えて秀を拝領し、重秀となった…かもしれない)
最後に孫一が歴史の表舞台に登場するのは、天正十三年(1585)三月の
秀吉の紀州攻めで、多くの雑賀衆・根来衆が最後に立て篭もった
宮郷の太田城に、孫一は降伏勧告の使者として秀吉方の中村一氏と共に
太田城に参じて降伏を促したが、断られている。
この降伏勧告は、顕如や秀吉からずいぶんお願いされて、孫一も
しぶしぶ承知したらしいが、どうもこのとき、案の定というか、
太田城に篭った顔馴染みや秀吉勢と戦った紀州勢や同門の鈴木氏、
土橋氏から、だいぶ反感を買ったらしく、その後孫一は結局紀州に
帰ることなく没したと思われます。
このように鈴木孫一は、一貫して反信長、反秀吉だった大部分の
雑賀衆や鈴木一族に反して、かなり特異な行動とっていた人物。
0317人間七七四年
2010/08/24(火) 17:36:03ID:iU/HgBBq一般的に雑賀衆は、現在の和歌山市北東にあった五つの郷、すなわち
十ヶ郷・雑賀荘・中郷、宮郷(社家郷)・南郷(三上郷)の国人、
土豪、地侍、百姓の武力集団・商工集団を指すが、五郷のうち、
十ヶ郷・雑賀荘と、他の三郷は別の勢力として考えたほうがいいかも
しれない。
ただ、この五郷のいずれも、基本的に紀伊守護の畠山氏の被官として
位置づけられていたが、その実態は独自の経済活動・対外活動を行う
強力な惣国で、永禄年間までの動員には従うものの、畠山氏との
結びつきは、かなり希薄なものだったと考えられている。
十ヶ郷・雑賀荘の人々は、特に紀伊の対外戦争や紀州の防衛戦の
中心となった集団で、さらにこの地域の勢力はかなり複雑だった。
鈴木氏、岡氏、松江氏、宮本氏、島本氏といったいわゆる
一向門徒衆やそれに組した十ヶ郷の土豪庄司氏、木本氏などをはじめ、
雑賀荘粟村を本拠とし、根来衆と深い関係を持つ雑賀衆の中心となった
土橋氏とその氏族粟村氏、幸仏氏、弾塚氏、藤木氏、小倉氏ら土橋一門、
雑賀荘の交易や海運業を独占していた紀ノ川流域の二つの湊衆、
十ヶ郷の海運業を独占した加太(賀田)氏など
独自の勢力が離反・共闘を繰り返し雑賀衆の中心として活動した。
中郷はその有力な土豪・地侍に津田氏、田中氏、湯橋氏など、
根来寺に一族を送り込み深い関係を持つ家が多くあったが、中には、
熱狂的な一向門徒の岡崎氏や熊野信仰の田辺氏、林氏、湯河党被官の
山本氏などもあって、中郷全体の動員や自立性は雑賀衆の中で
ほとんどなかったと思われている。
また、隣接する那賀郡の土豪や高野山との活発な交流があったことも
知られている。
宮郷は、その郷全体が日本最古の神宮の一つといわれる
國懸宮・日前宮の両神宮(一説には紀元前の建立といわれている)の
社領で、そのため別名を社家郷、或いは神宮郷といい、神宮社領の
鎮護のため、15世紀に宮司の紀氏の呼びかけによって、在郷の太田氏を
中心に黒田氏、神前氏、島田氏、中島氏、秋月氏、吉田氏など
社領の地侍から成る太田党と言われる武力集団が結成され、
同じ時期に建設された太田城を中心に、宮郷を外敵の侵入から防衛した。
特に十ヶ郷の鈴木氏と雑賀荘の岡氏とはとても仲が悪く、記録によると、
國懸・日前宮の社領に雑賀荘の鈴木・岡の衆が勝手に畑を作って
水を横領したため、太田党と鈴木・岡氏の大規模戦闘に発展したことも
あるらしい。
南郷は別名を三上郷といって、大野にある奈良春日大社の分社を
数百年にわたって鎮護した、大野十番頭とよばれる神官十氏
(稲井、藤田、中山、宇野辺、三上、田嶋、坂本、井口、石倉、尾崎)が、
数年に一度の順番で宮司を務め、政治的、宗教的に古くから南郷を
牽引して世襲化した。この神官集団も戦国時代になると南部の湯川氏や
雑賀衆、太田党に匹敵する武力集団に成長し、16世紀になると
雑賀荘との紛争を起こしたりした。
このように雑賀衆を形成した五つの郷の人々は、宗教や血縁よりも、
地縁や権益に順じた惣国だったらしい。
0318人間七七四年
2010/08/24(火) 18:03:42ID:iU/HgBBq鈴木孫一を輩出した雑賀鈴木氏は、熊野八庄司を祖とする
藤白鈴木氏の傍流で、そのつながりは不明な点が多いけど、
おそらく鎌倉末〜室町初期に藤白から次第に北上し、戦国期に
雑賀地方に定住した鈴木氏庶流の一集団だったと思われます。
藤白は現在の和歌山県海南にある土地で、そこに定住した
鈴木氏は熊野別当の藤原氏の流れとして藤白鈴木氏と呼ばれています。
藤白鈴木氏は奈良時代末にすでに藤白に定着し、源平の頃、
九郎判官義経に従った鈴木三郎重家・亀井六郎重清兄弟が出た
ことで有名な家です。
その家紋は代々穂積鈴木氏に関連ある稲穂に熊野と縁深い
八咫烏で構成されていることが多く、平井の蓮乗寺に現存する
鈴木一族の墓にも「平井孫市郎藤原義兼」とあるので、
雑賀の鈴木氏は、熊野三山→八庄司→藤白と続く熊野系の八咫烏を
シンボルにしていた可能性はかなり高いと思う
0319人間七七四年
2010/08/24(火) 18:39:16ID:iU/HgBBq0320人間七七四年
2010/08/24(火) 22:04:07ID:PJB6XvcD0321人間七七四年
2010/08/25(水) 16:27:42ID:1QFVXCHR遅レスになるけど、秋葉山は当時、弥勒寺山城といって、
本願寺の別当として御坊が立てられ、鷺森移動後も
鈴木一党や門徒衆の拠点として戦国末期まで機能した山城。
弥勒寺山(秋葉山)のそばに和歌川(雑賀川)が流れていることから、
小雑賀の守りの要として雑賀衆がよく立て篭もったため、
信長や秀吉の紀州攻めでは激戦地となり、秋葉山周辺は
敵味方多くの死傷者が出た。
今でも秋葉山周辺で沢山の人骨が出てくるのはそのためだろう
0322人間七七四年
2010/08/25(水) 23:51:52ID:k8HUGuNaただ、>>316の重秀が秀吉の一字拝領というのは無理があるような。
もしそうであれば秀重と乗っているはずで…秀吉からもらった秀を名前の下につけた人いましたでしょうか。
0323人間七七四年
2010/08/26(木) 11:35:57ID:6wgwLZ6z「根来寺焼討太田責細記」って成立時期いつごろなんでしょうか?
信頼性とかどうなんですかね?
0324人間七七四年
2010/08/27(金) 00:29:24ID:gWUbsr1j「根来寺焼討太田責細記」の書目データでは
謄写本とあるので、個人蔵の古文書を
書き写したものが残ってるようだよ
本の文字が肉筆で昔の漢字使ってるから、ちゃんと
書き正せてるかはあやしいけど
(特に「寫了」の部分)最後のページに
根来寺焼討太田責細記
右紀伊國和歌山市高市伊兵衛氏所蔵明治三十
八年六月寫了
とあるから、明治38年に和歌山市の高市伊兵衛さんの
家に伝わる「根来寺焼討太田責細記」を写本したみたいだね
雑賀衆・根来衆の研究は郷土に残る伝承や古文の謄写本や
江戸時代にまとめられた風土記を元にしてることが多いから
明治以降に粉飾された立川文庫とかの読み物・軍記物よりも
(たとえば石山軍記とか)信頼性は高いんじゃないかな
しかしネットはすごいね…なんでもあるなあ
「根来寺焼討太田責細記」は前からちゃんと読んでみたいと
思っていたから、時間あるときじっくり読んでみたい
0325人間七七四年
2010/08/27(金) 00:53:41ID:/q8byRDl解説ありがとうございます。
なるほどなぁ、他の史料ともいろいろ見比べて読んでみたいと思います。
「根来寺焼討太田責細記」は描写が細かくて面白いんだよな。
0326人間七七四年
2010/08/31(火) 22:48:14ID:nUb+KaQ6秀の字が下どころか、上についてる人でも貰えたのは一門とか大大名の子弟の一部しかいない
だからまったく関係ないと思う
0327人間七七四年
2010/09/16(木) 01:22:46ID:knQ8ByGj0328人間七七四年
2010/09/16(木) 04:08:20ID:X0824n1N信長の支援を受けて土橋氏を倒して優勢となった
雑賀鈴木氏が信長寄りだったから
>秀吉に敵対した
本能寺の変で信長の支援を失って
長宗我部氏らの支援を受けた土橋氏に逆襲され
雑賀鈴木氏が追い出されて失脚したから
土橋氏と根来寺は親密な関係にあり
その盛衰を一体にしているというわけ
0329人間七七四年
2010/09/16(木) 14:05:10ID:36YbqXh+信長は根来寺の泉南経営を黙認していたというのがあるね。
泉南に権益拠点を構えていた根来寺にとっては、ありがたい上口だった
ようで、大部分の根来衆は、石山合戦、長篠合戦、高屋城合戦にもこぞって
信長に味方して参戦してます。
俗に言う紀州の「日傭鉄砲(鉄砲傭兵)」の真実はこのことかと。
一方秀吉の方は、徹底して泉南の返還を強く求めたため、根来衆に
反感を買い、対立を深めていったようです。
細かく言うと、根来衆と秀吉の対立の発端は主に二つあります。
一つは、和泉国泉南の根来寺領の権益保持と秀吉の勧告。
根来衆は15世紀末から和泉国泉南に進出し、その土豪中氏、奥氏、
行氏、目氏、毛氏、赤井氏、大谷氏、藤田氏などの泉南の有力土豪の
子弟を根来寺の行人方子院の門主に迎えて、泉南土豪・根来寺行人衆、
お互いの権益を堅守するため武装化し、戦国期には根来寺から増援部隊
や砦建設の人足、加地子(寺領の租税)や収益を管理する仲人(奉行職)
が派遣されて、泉南の根来勢力が巨大化していく。
これが戦国期の泉南地方の根来衆の発展に繋がっていて、天正末頃に
岸和田以北を領していた秀吉との対立を生み、秀吉は1583年に家臣の
長谷川秀一を根来寺に送って泉南の寺領の返還と権益の破棄を勧告
したが交渉が決裂し、1585年の紀州攻めの口実となった。
あと一つは、小牧・長久手前後に徳川家康に組した根来衆が大勢いたこと。
根来衆は以前から徳川氏との縁もけっこうあったようで、小牧長久手の
際にそれが決定的になったようです。
あくまで中立を保つ根来衆もいたようですが(杉ノ坊、弥勒院、池上坊など)
特に成真院熊取大納言(中盛重、根来大膳・右京、泉南日根郡熊取荘の中氏)
田中福永院和泉坊、鳴神愛染院算長、土橋泉識坊、田中岩室坊清伝、
赤井坊少納言といった大部分の連中はこぞって徳川に味方したため、
秀吉の怒りを買っています。
このうち、熊取大納言、福永院和泉坊、鳴神愛染院などは、根来滅亡を
免れて徳川家康に仕官し、後の根来組同心の中核構成員として、それぞれ
根来姓を称しています。
ほかにも岩室坊は毛利氏、土橋泉識坊の子孫は会津或いは土佐に出仕したと
いう記録もあって根来衆は雑賀衆同様、全国に散らばっていったと
考えるのが妥当です。そのほとんどは、根来姓を名乗っています。
0330人間七七四年
2010/09/16(木) 14:13:47ID:36YbqXh+石山合戦集結以降(1580年)の対立〜土橋若太夫殺害事件(1582)に
関しては、土橋氏vs鈴木氏という構図より、鈴木孫一vs土橋若大夫
(平次守重?)の個人同士の対立と考えたほうがいい。
この事件では土橋氏に加担した鈴木氏の一族もいたし(鈴木某)
鈴木氏に加担した土橋氏(土橋兵大夫、土橋小左衛門、幸仏某)も
いた。必ずしも土橋・鈴木の両氏の総意で起こった対立とは
考えにくい。
こういった例は、鈴木氏・土橋氏に限らず、雑賀衆・根来衆を含めた
紀伊国北部の惣国に非常に多い。
例を挙げると雑賀荘・十ヶ郷と長年抗争していた宮郷の太田党にも
鈴木氏や岡氏ら門徒衆や紀ノ川流域の湊衆の構成員を多く出した領域の
住人がいる。
たとえば、鈴木孫一の一党を支えた雑賀荘中之島の住人
(島田新三郎、川村新三郎など)も太田党にいたし、十ヶ郷坂井
(栄谷・境谷)の住人(藤田六郎左衛門、藤田長藏)もいた。
さらに宗派や立場が違う南郷出身者(山本荒熊丸・鹿之助兄弟、若林万助)
の者もいる。あげくには鈴木氏支流と思われる人物(亀井対馬守、
藤白鈴木氏の支流)が副将的立場で太田党を率先してりもしていた。
これらの人々は本来、血縁的、位置的、立場的に太田党と対立するべき
人々だけど、太田党滅亡まで宮郷の太田氏に従って、最後まで奮戦
している。
この傾向は根来衆にもあてはまる
基本的に織田方についた根来衆の中にも、雑賀荘・十ヶ郷と共に
石山合戦で一貫して戦った者(渡辺藤左衛門、土橋泉識坊、浄法院)や、
どうも紀伊国那賀郡(雑賀五郷の中郷の東)の高野山系地侍と
思われる山東孫之丞、山東三之右衛門、乾源内太夫といった連中も
雑賀荘・十ヶ郷に従って信長、秀吉と戦い続けているので、
雑賀衆・根来衆はこういった血縁・宗教・勢力図にとらわれない
立場をとった人々が大勢いたらしい。
ここらへんの考証がとてもややこしいのもこの地域の特徴。
あと、孫一の居住地も注目するべき
孫一の実父といわれる鈴木重意(佐太夫、左兵ヱ?)や
その子孫六、その他の多くの鈴木一族は雑賀荘(本郷)南西の
雑賀崎妙見山(雑賀城)を終始拠点としていたらしいけど、
鈴木孫一とその郎党は、紀ノ川の北にあたる十ヶ郷平井谷にずっと
居住していて、孫一道場なる門徒の集会場まで建立していた。
平井谷のすぐ東隣には土橋氏の拠点である粟村があるので、
相婿関係だったという孫一と土橋若大夫の関係も、孫一が
雑賀鈴木氏の拠点である妙見山から離れていた原因の一つかもしれない。
そんな二人が最終的には殺害事件という形で破局するんで、やっぱり
この土地の人間関係は複雑だったんだろう。
0331人間七七四年
2010/09/16(木) 15:57:52ID:36YbqXh+雑賀鈴木氏のかなりまとまった系図を見つけたので貼っておきます。
「日本氏族大鑑」というHPです。
歴代の鈴木孫一・雑賀孫市も雑賀鈴木氏の当主として記述されていて
大変興味深い内容です。
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-hodumi-saiga.html
ここで気になるのが、重意(佐太夫)の兄とされている長重とその子重行の
存在。このどちらかが「信長公記」に記されている石山合戦で討ち取られた
という鈴木孫一なのでは…と推測しています。
また、重意の父は「穂積鈴木氏系図」等で長らく重長と思われていたので
すが、この系図を見る限り違うようでこれも新発見。
それとも養子に入ったのか?
さらに石山合戦等で活躍したとされる五代目雑賀孫市(鈴木孫一)が
平井蓮乗寺に埋葬されている鈴木重兼、その弟孫六を重秀としているのも
大変興味深い(自分はずっと重秀が石山合戦で活躍した鈴木孫一だと
思っていたので)
これが事実だとすると、伝承にある出家した佐太夫長男の中嶋孫太郎を含め
「七郡地士名寄」「ますをのすヽき・海士郡」等に記された
「孫市の父佐太夫に三男あり」という伝承が信憑性を帯びてきます。
そして最後に、徳川家康に仕えたという鈴木孫三郎重朝(六代目孫市)
いろいろ調べてみるとどうも彼は三河鈴木氏から出て重秀の養子に
入ったらしく、さらに徳川家康の庶子という伝承もあるようです。
(鈴木一蔵重康というらしい)
最後にこの系図を元に歴代の雑賀孫市をざっと書き綴ってみました
ただこれは決定的なものではないので(伝承・系図の混乱があるので)
あくまでも歴代雑賀孫市の目安として見てください
鈴木重國(雑賀一郎、四代前重吉の時雑賀に住す)
鈴木重郷(雑賀小一郎)
初代 鈴木重村(雑賀孫一郎)
二代 鈴木重家(雑賀孫一郎)
三代 鈴木長重(雑賀孫一、鈴木佐太夫重意兄、伏山孫一?)
四代 鈴木重行(雑賀孫一、長重の子、石山合戦で戦死した鈴木孫一?)
五代 鈴木重兼(雑賀孫市、孫一入道、良固、義方、三吉?、佐太夫重意子、孫六重秀兄)
六代 鈴木重朝(雑賀孫市、孫三郎、重秀養子、水戸藩旗本)
七代 鈴木重次(雑賀孫市、豊若丸、孫三郎、重兼の子?重朝養子、水戸藩家老)
八代 鈴木重義(雑賀孫市、養子、水戸藩主徳川頼房十一男)
0332人間七七四年
2010/09/20(月) 23:38:50ID:PWdqE/m70333人間七七四年
2010/09/22(水) 11:02:34ID:dPlKoG9R0334人間七七四年
2010/09/27(月) 22:17:04ID:FFcuhHaV残念ながら、鈴木孫一の容姿や身長については伝わっていない
ただ、鈴木孫一の鎧や鑓と伝わる遺物は現存している。
鎧のサイズを見てみると、当時の平均的なサイズなので
155〜165センチぐらいだったのでは
それと、石山合戦の中期に「孫一入道」の記述があるので
剃髪していた可能性がある
0335人間七七四年
2010/09/30(木) 13:47:55ID:VeRqImOfNHKの歴史群像だったかな?では、金忠善の名を与えられ、戦後は済州島で畑を耕し、余生を過ごした。と朝鮮側の記録にあると言ってたけど
0337人間七七四年
2010/09/30(木) 16:55:07ID:VeRqImOf0338人間七七四年
2010/09/30(木) 23:06:22ID:NXxmmKLY沙也可(金忠善)研究は最近かなり進んでいて、
wikiやネットのブログを探せばすぐに説明に
いきつく。詳しくは検索されたし。
簡略に言うと、その沙也可の正体は、加藤清正の
家臣岡本越後守や原田信種という部将の説が有力。
あとは鈴木佐大夫の兄弟や叔父、甥と言われる
鈴木善之という人物の説があるが、実在は年代的にも
記録的にも不明瞭で、さらに朝鮮の役に参加した記述が
見つからないこと、伝承がとぼしいことから、これは
信憑性が薄いらしい。
(鈴木孫一の息子や甥は名護屋城の在番となっている
事実はあるけど、朝鮮には渡っていない)
あとは雑賀衆の岡(岡本)氏の出自という説もあるが、
これも怪しい。雑賀衆、根来衆の残党の幾人かは、兵卒や
足軽頭として出征した伝承があるがこれも確定はされてない。
とにかく降倭の日本人が朝鮮で名族となったのは
確かだけど、雑賀衆や鈴木氏の可能性は極めて
低いそうだ。新しい発見が待たれるね
0339人間七七四年
2010/11/11(木) 04:18:02ID:BQbDVtsAhttp://www.youtube.com/watch?v=GrryN0-GeFM
ただの神だったわ・・
0340人間七七四年
2010/11/26(金) 16:42:54ID:mpGTQx0n0341人間七七四年
2010/11/27(土) 22:43:04ID:4gJJAmxFどこで見られるの?
0342人間七七四年
2010/12/20(月) 13:05:50ID:o7DaV66X0343人間七七四年
2010/12/20(月) 18:50:48ID:BYYbOUUP0345人間七七四年
2011/03/25(金) 06:43:50.28ID:t8Uu6Qvk雑賀孫市祭り公式サイト
http://magoichi.fc2web.com/
0346人間七七四年
2011/03/26(土) 19:57:15.16ID:p31EVjB8鈴木重朝 足(E)、騎(E)、鉄(A)、水(E)
鈴木佐大夫
0347345
2011/03/31(木) 02:45:53.34ID:6tLFtxIU3月だったorz
0348人間七七四年
2011/04/01(金) 01:29:33.24ID:dF1R99BN0349人間七七四年
2011/04/01(金) 04:57:20.88ID:z72TSxGU0350人間七七四年
2011/04/01(金) 08:23:01.99ID:B/CW4G/C0351人間七七四年
2011/08/13(土) 19:01:25.16ID:fRJBYrsXあるゲームでは能力は酷いが一応織田家の城主任されてるな
九鬼と関係が深いみたいだけどとくに興味わかなかった
0352人間七七四年
2011/10/08(土) 03:06:06.61ID:pXEggs3m0353人間七七四年
2011/10/09(日) 18:48:00.73ID:1nvm4mrS太田左近は範疇外?
0354人間七七四年
2011/11/22(火) 03:19:02.47ID:6A4eOQA7宮郷(社家郷、神郷)の太田党も雑賀衆。
ただ、十ヶ郷、雑賀荘の雑賀衆(鈴木、岡、土橋、
宮本(湊)、島本(狐島)、松江など)とは
河川の中州の芝と呼ばれる耕作に適した土地や
塩浜(塩田)、農業用水の争奪、境界の土地争いで、
鎌倉時代末期から領民の争いが続いていたらしい。
太田党は宮郷の日前宮・國懸宮の宮司で紀元前から
続く国衙・国司の末裔紀氏の私兵で、頭領は代々
紀氏の氏族である太田氏が勤めていた。
太田党は弘治年間に根来衆、次いで元亀年間に
織田信長と軍事同盟を結んで十ヶ郷の鈴木孫一や
雑賀荘の土橋守重と戦った記録があって、
これも古くからの境界争いに起因している。
ただ、天正年間の信長や秀吉の紀州討伐では
鈴木孫一らと休戦し、これらの外敵と戦った
という史料もある。
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