▼火縄銃について語ろう▲
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDMどのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0839S字型金具
2011/11/21(月) 22:34:49.09ID:LeCAwG5i>というか鳥銃の登場より以前に、中国で大量の小銃が運用されていたのは常識じゃね?
この図の銃 http://www.uraken.net/world/china/bei09/02_122.jpg のことを指摘していると思いますが、大量の小銃が運用されていたのは間違いないけれども武器ではないと思う。
中国では武器には名称を付けるのが普通であるが、この銃には名称がなく、「銅銃」「銅火銃」「手銃」「手把銅銃(国立歴史民族博物館)」など各種様々に呼ばれている。
明のこの型式の銃にはシリアルナンバー(確認されている最終番号は天字九万八千六百二十号、勝字壱万弐千柴伯柴拾伍号)が刻印されており、大量の銃が運用されていたのは確かである。
しかし、薬室の膨らんだこの型式の銃の出土品はあるが、武備志など中国の兵書に出てこなく、そのため名称が分からない。朝鮮の「兵器図説」には、よく似た図に矢を飛ばす「箭銃筒」として出てくる。
しかし、30〜40cmの銅銃身に木の柄を付けて、熱した金属線で点火する(火蓋は有るが火皿が無いので口薬は使用できない。導火線は「せせり穴」が大きくなり、小銃には使えない。)銃は、武器として使うシチュエーションが浮かばない。
用途として砦や城塞において、昼夜天候に左右されない通信信号用として使った物ではなかろうか。
粉末火薬は燃焼速度が速く、衝撃波が強いので高音を出し、大砲音と区別出来たものと思われ、その後連発可能な3眼銃などは通信信号用としても使われたのでなかろうか。
武器にはナンバーを打つ必要性が少なく、中国では盗難、紛失などの対策に、また、備品管理用としてシリアルナンバーが必要であったのでは。
朝鮮では、烟臺で信砲を使っていた。
『我國之患, 在於北方。 野人不能侵中國之境者, 畏火砲弓弩也。 近來十餘年, 野人不得侵掠我境, 以田時貴、李澄玉、河敬復等, 能戰勝也。 雖有賊變, 若能高築烟臺, 具備禦之物而戍之, 則野人必不得久留。 其令兵曹, 預備烟臺信砲小火砲等事。』
ポルトガルのレイナー・ダインハルト氏も、手銃は信号用に使用したのではないかと推定している。
http://www.fhaj.jp/archives/738
0840人間七七四年
2011/11/21(月) 23:46:25.11ID:WpAurYFm普通に弾丸を発射する銃として使ってるよ。
中国は大砲にもシリアルナンバーがある。
中央集権国家ゆえ、官営工廠で管理生産がされていたから。
朝鮮の手銃に関しては、文禄の役で宣教師が
発砲音の割に威力が少なく誰も倒れなかったと記録している。
日本の甲冑は手銃の弾丸を弾いてしまったわけだ。
0841人間七七四年
2011/11/21(月) 23:55:01.31ID:WpAurYFm写真のタイプの銅銃は明初期のもので、複数の鉄丸を込めて撃つタイプ。
見ての通り射程は短い。
火門を塞ぐ火蓋があるはずだが、写真では確認できない。
0842S字型金具
2011/11/22(火) 00:13:21.42ID:6S8eQH3K「普通に弾丸を発射する銃」の名称は。その出典を教えてください。
シリアルナンバーのある大砲の名称も教えてください。
>>841
複数の鉄丸を込めて撃つタイプの根拠。出典は。
『(火蓋は有るが火皿が無いので口薬は使用できない。・・・』と書いたが・・・。
0843人間七七四年
2011/11/22(火) 01:20:18.64ID:6c1zVlbT封建的主従関係による指揮系統・編成の支障は無いよ
現実に足軽組や鉄砲組が編成されてる。
それ以前に、当時の西欧諸大国の軍は高価で数が少なく練度は低く士気も非常に低い
かつスペインやオランダ軍の編成は日本の軍と比べて下士官の数が少なく大雑把な編成
0844人間七七四年
2011/11/22(火) 01:26:25.90ID:6c1zVlbT火槍、突火筒などなど
管理号入りのは、大碗口筒、大砲筒、二十九号大砲筒などなど
出土した物には火皿があるから
0845S字型金具
2011/11/22(火) 03:09:24.14ID:6S8eQH3K火槍、突火筒には、薬室部の膨らみは無いのでは・・・。
「銅銃」「銅火銃」「手銃」と火槍、突火筒は大きさの点でもまったく異なる銃ですが・・・。
『出土した物には火皿がある』は本当に「銅銃」「銅火銃」「手銃」でしたか。
突火槍では、『至順三年二月吉日綏邊討寇軍第三佰號馬山』
明洪武五年碗口銃では『水軍左衛進字四十二號大碗口筒,重二十六斤,洪武五年十二月吉日寶源局造』
明洪武十年銅銃には『夙陽行府造。重三斤八兩。監造鎮撫劉聚,教匠陳有才,軍匠崔玉。洪武十年月日造』で番号が無い。
明洪武八年大砲筒には『萊州衛萊字七號大砲筒重壹佰貳拾斤洪武八年二月日寶源局造』
二十九号は、>>760 の「莱州衛(竹冠に耒)宇二十九号 大砲筒〜」ですか。
しかし、『各地舊藏和新發現的洪武八年以前的銅銃還有幾件,銘文格式完全相同,反映了當時造銃已有嚴格的制度。』の一文が気にかかり、「官営工廠で管理生産」したとするならば番号が小さく、モデル番号(鋳型番号)かも知れない。
0846人間七七四年
2011/11/22(火) 03:12:17.45ID:t17jV5Vc実際にやってみると良く練習した人でも早合をつかって一分に2発くらいが限度
雨だと火縄より火薬が湿めって撃てない
火皿も濡れるし弾込めのときに立てた銃の銃口から水が入る
だから燧発式の銃も撃てないだろうと思われる
雷管式でもゲベール銃のように先込めだと弾込めのときに銃を立てて火薬を注ぎ込むので
銃口から水がたくさん入ってしまえば撃てなくなるだろうと思われる
0847人間七七四年
2011/11/22(火) 04:43:53.85ID:6c1zVlbT5238号、22058号、23283号、23625号、4344号とあるから
大砲のみ型番表記というのは考え難いような
0848S字型金具
2011/12/11(日) 07:09:27.52ID:bEjYbNC4天文18年?(1549年?)摂津の細川晴元は山城の本能寺へ出した書状に 『種子島より鉄炮馳走候て、此方へ到来す、誠に悦喜せしむるの由、彼嶋へも書状を以て申し候・・・』と書いてあるので、これ以前に種子島に鉄砲があったことは間違いないが、
種子島氏16代当主の久時(1568〜1612)が慶長11年(1606年)和尚である南浦文之に編纂させた「鉄炮記」には、あたかも種子島がはじめて「鉄砲」の呼称を作ったように書いている。>>364
しかし、日本においての「鉄砲」の呼称用例はそれ以前から有り、種子島が最初ではない。>>794
天文19年(1550年)「萬松院殿穴太記」には、前将軍足利義晴が天文18年から京都東山慈照寺の大嶽での築城の際、『鉄砲の用心』のために細川晴元等と議して築城したことが書いてある。
天文21年?(1552年?)将軍足利義輝が島津貴久と種子島時堯あてに妙薬について照会した書状、『鉄放薬事、南蛮人直令相伝、種子嶋調合無比類之由、触御耳』がある。>>406
これらの細川晴元や足利義輝、島津貴久の古文書は「鉄砲」とは何か、また、南蛮以外の鉄放薬調合方法を知っていなければ書けない文面である。
日本では中国とは違い日本語独特の当て字が使われ(鐵銕鉄・砲炮放朴など)、「砲、炮」の違いはあまり意味をなさない。
近世初頭における「鉄砲」と思われる異名は「鉄炮・鉄放・大鉄炮・石火矢・手火矢・長大筒・小筒・六匁玉・種嶋・薩摩筒・南蛮筒・南蛮鉄炮・異風筒・異風物・意府物」と多くある。>>327
島津義久の家老の日記(天正2年・1574年からの上井覚兼日記)には、鉄放16件、手火矢27件、同一日に鉄放と手火矢を同時に書いてあるのが4件あり、薩摩島津氏は天正2年以前から鉄放または手火矢(手火矢は人吉藩相良家文書にも出てくる)を使っていた。
「火縄銃」の呼称は、文献では江戸期に西洋銃と区別するために使われた例もあるが、一般的に使われるようになったのは昭和に入ってからである。
安齋實さんは「徳川時代の小銃と其製造」(昭和8年)で、徳川時代の小銃に火索式(火縄式)小銃と外国からの燧石式小銃を挙げるが、我邦独特の型式である火縄式小銃のために火縄銃と呼称して論文を書かれた。
洞富雄さんの「鐵砲傳來記」(昭和14年)では「火縄銃」は一箇所、「前装火縄銃」は一箇所であったが、「種子島銃―伝来とその影響―」(昭和33年)になると火縄式発火装置から「火縄銃」を呼称されている。
所荘吉さんの「火縄銃」(昭和39年)では火縄式発火機から「火縄銃」を呼称され、その後一般に使われるようになった。また、所さんは「天文十二年の火縄銃伝来」と書いている。
しかし、現在「鉄砲伝来」は使われるが「火縄銃伝来」はなぜか一般には使われず、「鉄砲」と「火縄銃」は同義語ではあるが同一物とはされていないようである。
0849人間七七四年
2011/12/11(日) 09:13:48.87ID:BJyB1i3mライフリングは切ってないよね
0850人間七七四年
2011/12/21(水) 17:46:48.90ID:7n5wYKxz0851S字型金具
2011/12/31(土) 11:03:40.02ID:sr9RbboJ>>4
>現存している火縄銃は慶長以後のもので、戦国時代のものは皆無。
>よって、江戸時代のものがほとんどな現存火縄銃を考古学的根拠に
>戦国時代の火縄銃を云々する歴史家のバカさ加減にあきれる件について。
戦国時代の日本は鉄砲(火縄銃)の装備率が50%を超える戦闘集団もおり「世界一の銃保有国だった」と言われているが、「慶長初年頃までに製作されたと確定できる遺品は皆無である」と指摘されている。
それ以降の少数残存している鉄砲は「製造其台之刑制、与其飾之如鍵鑰者」が当てはまり、贈答用と言える鉄砲であって実戦鉄砲の遺品では無い。
『戦国時代の火縄銃を云々』するには少数残存している武将クラスが所持する鉄砲ではなく武士・足軽が持つ実践鉄砲で論じないと実態に正確性を欠くが、残念ながら良く分からない。
最近の出土品の中には鉛でない鉄やその他の材質の弾が出土している外、実戦鉄砲用と思われる「カラクリ」が出土している。それは従来品(江戸時代の火縄銃)と趣が異なる形状や材質の部品である。
当時の文献を見ると、実戦銃は筒(銃身)と火縄銃の台(+カラクリ)とは別に管理されているように見え、鉄砲の計数やその装備率を算出するに当たり、この筒数の扱いについて良く判らない点がある。
簡単に銃身の補修・清掃ができるものなら別に計上する必要性は少ないが、筒は大小様々と記載されているので、戦闘中に燃えカスの詰まりや破損の際に換え筒を交換したものと思える節がある。
また、カラクリの火縄鋏アーム長は銃身の長短・大小と関係が無く一定であり、台(+カラクリ)を基準として実戦銃は贈答用の鉄砲とは異なり、フレキシブルに筒を取り替えてを対応させたものと思われる。
戦国時代の戦闘について鉄砲の数だけが取りざたされているようだが、その運用や火薬の性能などで結果は「月とスッポン」ほど異なると予想され、判らないことが多い。
国立歴史民俗舘の『歴史のなかの鉄炮伝来』の記載について。
「はじめは珍しさから贈答品として、あるいは離れた獲物を瞬時に射止める狩猟の道具として使われた。鉄炮が続続と伝来すると、それに呼応して各地に火薬の作り方や・・・・」とあり、倭寇は自分らも使わない狩猟道具を種子島に売りつけたことになるが、何かおかしい。
また、「異風筒や南蛮筒は火縄挟みの位置が右側であり、目当ては上部があいている。なかには銃身の端が鳶ノ尾形式のものがあるが、こうした特徴から日本に伝来した鉄炮は東南アジア方面のものと考えられるのである。」とあるが、本末転倒ではなかろうか。
フロイスは自国の鉄砲、または彼が知っている鉄砲と日本で見た鉄砲とが明らかに異なっている様に書いている。>>615
信長公記に「橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古」とあるが、橋本一巴は何時、何処で、誰から鉄炮を習ったのであろうか。
鉄砲は「音響・花火類・狩猟用に利用され、殺人武器となる火器・鉄砲へと発展したもの」とすれば旨く説明が付くのだが。>>735
0852人間七七四年
2011/12/31(土) 16:43:53.17ID:4vsBFzOJこれ面白いね。撃った後はすぐ掃除しないと錆びちゃうから、筒はけっこう頻繁に取り外しはしてたんだろうけどさ。
台と筒に互換性があるならいろいろ効率的な運用が可能になる。
S字さんもよいお年を
0853人間七七四年
2012/01/06(金) 16:06:31.97ID:TD3GYxrr0854人間七七四年
2012/01/06(金) 21:56:51.44ID:yv/A4p3Uたぶんネジと筒の組み合わせは製造過程から考えると、規格統一は不可能だったんじゃないかな?
規格統一した銃というのは、米国の南北戦争期からだったと思う。
0855人間七七四年
2012/01/08(日) 23:13:59.49ID:709BtJX+0856S字型金具
2012/01/23(月) 18:05:23.95ID:qYyIPqRs江戸時代初期、大久保彦左衛門忠教(1560〜1639)が著した「三河物語」に「鉄炮」のことが出ている。
古式鉄砲研究家のS氏は「歴史研究(第595号2011年10月号23頁)」で、『三河物語には鉄砲伝来以前の銃撃戦や天文時代の鉄砲使用が述べられているが信憑性を欠く』と書いている。
S氏は、「鉄砲伝来は天文12年(1543)であるから、三河物語の鉄砲記述は信用できない」と推論されているようだが、はたしてそうであろうか?
「三河物語」で信憑性が問われる記述は4ヶ所あると思われるが、以下にその抜粋文を記す。
1)五代長親 ○北条早雲の来攻を沮む(永正5年・1508年)
『大拾〔樹〕寺に本陣ヲ取バ、所勢伊〔諸勢〕ハ岩津之城ヱ押寄、四坊〔方〕鉄炮放チカケ、天地ヲヒヾカせ、鬨ノ声ヲ上ゲてヲメキ叫ブトハ申せ共、岩津殿と申ハ弓矢ヲ取て無其隠御方ナレバ、少モ御動転ナク譟ガせ給ハズ』
2)七代清康 ○尾張に出陣し岩崎・品野を占領す(享禄2年・1529年)
『熊谷ガ城ヱ押寄給ひて、忙〔放〕火シテ、大手ヱは松平内前殿・同右京殿、其外御一門之衆寄サせ給ふ。御旗本ハ搦手上之嵩ヱ押上サせ給、天地ヲ響カせ、四方鉄炮打コミ、時〔鬨〕ヲ上サせ給ふ。 熊谷も去弓取ナレバ、事共せズシテ、大手ヱ切て出る。』
3)八代広忠 ○忠俊等に迎えられて岡崎城に入る(天文6年・1537年)
『然間、城ヲ固メテ、「広忠ヲ御本居〔意〕ヲ遂げゲサせ給ひて、只今、城ヱ写〔移〕ラせ給ふなり。二三之丸に有侍、広忠え心有者ハ、二三の丸ヲ固メ給ひて、入番之族ヲ一人モ洩ラサズ打取給え」ト云て、鯨声ヲ上、鉄炮ヲ放シ懸申せパ、知ルモ知ラザルモ落行く。』
4)九代家康 ○今川義元の将太原崇孚、織田信広を安祥城に攻囲す(天文18年・1549年)
『案〔安〕祥之城には、小〔織〕田之三郎五郎殿移ラせ給ひて御処に、四方より責寄て、鐘・太鼓ヲ鳴、四方より矢・鉄炮ヲ放シ、天地ヲ響、鯨声ヲ上、持楯・垣立〔楯〕、井楼ヲアゲ、矢蔵ヲ上、竹束ヲ付て、昼夜、時之間モ油断無、荒〔新〕手ヲ入帰〔替〕入帰責入ば』
この「鉄炮」の記述内容について、私には『鬨を作る(上げる)ための鉄砲使用』と思われ、『武器としての鉄砲使用である』と解釈できない。
この時代の戦闘には「鬨」が重要であり、「鉄炮」と同列に鯨声(大声)・鐘・太鼓・矢(鏑矢)による「鬨」の記述がなされていて、「鉄炮」は「天地を響かせて鬨を発生させることが目的である」と解釈する。
「八幡愚童訓」にも「太鼓ヲ叩銅鑼ヲ打チ、紙砲鉄砲ヲ放シ時(鬨)ヲ作ル」と書かれている。>>771
また「三河物語」には口合戦(言葉合戦)も書かれており、当時の日本の合戦は色々と心理的な戦いでもあって、四柱推命・占い・まじない・御霊信仰などによる影響を受け、勝敗は武力の大小だけでは無いようである。
石火矢=大砲=佛郎機の別名「国崩し」は「弾で地形が崩れる事」では無く「音響により地形が崩れる事」を意味するが、この強大な「新たな輸入品による鬨」の効果(結果)に興味がそそられる。>>473 >>474
明国の侯継高は日本の鉄砲を「?器」としても書いて(1592年ごろ)おり、4)の安祥城の攻囲(天文18年)に「竹束」が出てくることから、「武器」としての鉄砲はこれ以前から使われたようである。>>629
問題となる「鉄炮」の記述は大久保忠教が生まれる前の出来事を書いたものだが、「三河物語」は徳川家を含む徳川政権下での大久保家の記録書であって、彼自身の自筆本が存在し、存命中からも写本が出されている。
彼と当時(江戸初期)の人の間において鉄砲に対する認識が異なっていれば指摘・訂正されるだろうし、文章の流れからも鉄砲の記述は自然であって、4ヶ所も誤記(先祖・先輩から聞き誤った)しているとは思われない。
「三河物語」は、「1)鉄炮」「豊臣秀長の毒死」「大阪夏の陣の日付」など多少の誤記があるとされているが、234)の「鉄炮」については無視されている。
S氏は「三河物語は信憑性を欠く」としているが、記述が真実であればS氏等の銃砲史は根底から覆る。
0857人間七七四年
2012/01/23(月) 18:20:12.55ID:31Lkzzdt過去の愚にも付かない歴史研究が覆った事例なんて幾らでもあるよ
0858人間七七四年
2012/01/25(水) 10:01:11.94ID:xUVNbhjd0859人間七七四年
2012/01/28(土) 00:58:48.94ID:CZyus5j70860人間七七四年
2012/02/01(水) 01:27:32.17ID:RfBbFsJjいままでの日本史家は何の根拠を以てポルトガル人が伝えたなどと言ってたんだ?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています