そもそも鉄砲とは何か@

1281年(弘安4年)7月30日の夜、総勢4千4百隻の船と14万人ともいわれる元軍の大半が長崎県伊万里湾の海底に沈んだとされ、鷹島周辺の海では昭和56年7月から調査が行われており、数多くの元寇遺物が発見されている。
そして、平成5年(1993)、鷹島町神崎港の海底から直径15p、厚さ1・5pほどの陶器製の球状物体が発見され、未使用のものとみられる半分に輪切りしたような形の物体からは、一辺2〜3p、厚さ約1pの柱状の鉄片10数個が確認されている。
http://saint-just.seesaa.net/article/20128007.html
この物体を九州国立博物館は「てつはう」(鉄炮)と断定し、モンゴル軍の最新兵器として発表している。
http://www.rkb.ne.jp/kyuhaku/100705.html
http://www.kyuhaku.jp/pdf/asiage_01.pdf
その根拠は、鷹島周辺海域は元寇の際に暴風雨を避けて避難した元軍と高麗軍の軍船が遭難した海域として知られ、元軍の遺物が発見されていることと、「蒙古襲来絵詞」に描かれている「てつはう」から連想しているようだ。

しかし、私には疑問点が残る。
@この物体が元寇の時代のものであると確認されているのだろうか。後世の戦闘や落下物を否定できるのだろうか。
A元軍の爆発火器ならば、「火球」(火毬)の類とするのが妥当ではなかろうか。
B表面は陶器製であるのに、なぜ鉄製品をイメージする「てつはう」を採用するのか。
D「蒙古襲来絵詞」には信頼性を疑う改竄があり、3人の蒙古兵は後世に加筆されたもので、「てつはう」なる物体も後世に加筆されている可能性がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/2953448.html
「蒙古襲来絵詞」は基本的に「日本軍に苦戦する元軍」を描いたものであり、絵からの判断ではあるが、「てつはう」の飛来方向から私には日本軍の火器の様に見え、破裂の仕方も一方向で破裂力も弱く、中に金属片が入っている様には描かれていない。
また、竹崎季長の馬が出血しているが、これは「てつはう」によるものでは無く、2本の矢が刺さったことによる負傷である。
C「蒙古襲来絵詞」の「てつはう」について、『変体仮名の「てつはう」は文字から、実は後世、江戸時代頃に書かれたものだと言われています』と指摘がある。
http://www.h3.dion.ne.jp/~oneone-p/ii/tetsuhau.html
となると、この物体が「てつはう」なのかどうかも疑わしい。

そもそも「てつはう」(てっぽう)の呼称は中国(明)・朝鮮の史料には現れず、日本独自のものであって、そのため1281年(弘安4年)よりも前から日本に火器があった可能性がある。
独立行政法人国立文化財機構 九州国立博物館は「てつはう」(鉄炮・鉄砲)と断定しているが、正しいのであろうか。