1592年ごろ明国の総兵官だった侯継高が、当時の日本についてのそれまでの情報をまとめて書いた「全浙兵制考・日本風土記」がある。写本を重ねる内に、日本での書き込み、改変、省略、欠損があるが、中国人から見た当時の日本が垣間見れる。
その中で、「砲」(鉄朴・テツホウ)を『武具』と『呴器』の両方の分類に入れている。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_d0263/bunko08_d0263_p0034.jpg
『呴器』とは「三絃子」(三皮仙・サミセン)や「鐘」「鑼」「鼓」「鈴」など音を出す道具のことである。
>>626 >>627のコスプレ鉄砲隊の鉄砲は空砲なので『呴器』の範疇に入り、「鉄砲隊」ではなく今で言う「音楽隊」に該当し、演技である。
弾を入れないので空気抜けが良く、また、装填火薬量を多くしても銃身破裂の危険性が低くいので、より大音量が可能となりコスプレ効果が高まっている。

エスパニヤ人であるメンドーサが1580年頃の中国見聞記「シナ大王国誌」には、
『およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。
まず合図と同時に進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に目標に襲いかかった。
その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり、もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服することができるであろう、とおもったほどである。・・・・
この閲兵は四時間つづいた。チナ人たちが明言したところによれば、たとえ敵襲の恐れのないときでも、国内の全都市において同日の同時刻にこの行事がおこなわれるということであった。』
と書いてあるので、「当時の中国(明)には多量の火縄銃があった」としている人がいる。
しかし、メンドーサは「自国のテルシオ陣形を知っていて記載した」と思われるが、音を聴いたのであって、弾の発射を見ていない。

内閣文庫所蔵本「日本風土記」の『武具』には、火器の「手銃(鉄火也)」「鳥銃(弾我皮世也)」「発狼箕・イシヒヤ(酷尾突治失・クニクヅシ)」「狼銃(一路也里)」などが入っている。
『呴器』に「爆伏」、「火薬」を入れているので、「砲」(鉄朴・テツホウ)が『武具』の分類に入れるほどの威力があったかどうかは疑問である。
「砲」(鉄朴・テツホウ)を日本人が申告したものかどうかは判らぬが、手銃(鉄火也)は九州地方の「手火矢」、または火箭の可能性があり、狼銃(一路也里)は火槍の可能性がある。
当時の朝鮮には「鳥銃」が無く、明国に「鳥銃」があったとしても威力は低く、また、明国の火器の種類も日本と異なり、「テッポウ」に該当するものはどれか、私には判らない。