▼火縄銃について語ろう▲
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDMどのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0624人間七七四年
2011/02/23(水) 10:40:17.52ID:4Ggu0FgJパイク方陣は側面ではなく中央に位置する。
その四辺を覆うように銃兵。前辺はマスケット兵。
後期には火力補完のため四隅に銃隊方陣を置いた。
0626人間七七四年
2011/02/23(水) 17:03:25.08ID:cPmdIvZ60629S字型金具
2011/02/25(金) 00:46:09.04ID:dCBmmHGbその中で、「砲」(鉄朴・テツホウ)を『武具』と『呴器』の両方の分類に入れている。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_d0263/bunko08_d0263_p0034.jpg
『呴器』とは「三絃子」(三皮仙・サミセン)や「鐘」「鑼」「鼓」「鈴」など音を出す道具のことである。
>>626 >>627のコスプレ鉄砲隊の鉄砲は空砲なので『呴器』の範疇に入り、「鉄砲隊」ではなく今で言う「音楽隊」に該当し、演技である。
弾を入れないので空気抜けが良く、また、装填火薬量を多くしても銃身破裂の危険性が低くいので、より大音量が可能となりコスプレ効果が高まっている。
エスパニヤ人であるメンドーサが1580年頃の中国見聞記「シナ大王国誌」には、
『およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。
まず合図と同時に進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に目標に襲いかかった。
その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり、もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服することができるであろう、とおもったほどである。・・・・
この閲兵は四時間つづいた。チナ人たちが明言したところによれば、たとえ敵襲の恐れのないときでも、国内の全都市において同日の同時刻にこの行事がおこなわれるということであった。』
と書いてあるので、「当時の中国(明)には多量の火縄銃があった」としている人がいる。
しかし、メンドーサは「自国のテルシオ陣形を知っていて記載した」と思われるが、音を聴いたのであって、弾の発射を見ていない。
内閣文庫所蔵本「日本風土記」の『武具』には、火器の「手銃(鉄火也)」「鳥銃(弾我皮世也)」「発狼箕・イシヒヤ(酷尾突治失・クニクヅシ)」「狼銃(一路也里)」などが入っている。
『呴器』に「爆伏」、「火薬」を入れているので、「砲」(鉄朴・テツホウ)が『武具』の分類に入れるほどの威力があったかどうかは疑問である。
「砲」(鉄朴・テツホウ)を日本人が申告したものかどうかは判らぬが、手銃(鉄火也)は九州地方の「手火矢」、または火箭の可能性があり、狼銃(一路也里)は火槍の可能性がある。
当時の朝鮮には「鳥銃」が無く、明国に「鳥銃」があったとしても威力は低く、また、明国の火器の種類も日本と異なり、「テッポウ」に該当するものはどれか、私には判らない。
0630人間七七四年
2011/02/25(金) 00:58:50.65ID:SN6Hd6Ye君に聞いてないから。
自分の妄想に都合いい史料だけ拾って来て
妄想組み立ててダラダラ書く君より、
「コスプレ鉄砲隊」を一度でも見た方が、はるかに鉄砲について分かる。
0632人間七七四年
2011/02/28(月) 17:20:22.29ID:W2BZrexs0633人間七七四年
2011/03/01(火) 19:39:35.51ID:cdeKKpvu0634人間七七四年
2011/03/01(火) 19:40:17.96ID:vREV8Dka0635人間七七四年
2011/03/01(火) 23:24:37.36ID:Ytb1agpq何言われたってしょうがないわ。
彼は自分がどうして周囲とトラブルを起こすのか理解できないし、そもそも何が問題なのかもわかってない。
相手の言葉も歪曲して自分流に受け取ってしまうから、コミュニケーションが成り立ってない。
0636人間七七四年
2011/03/02(水) 11:15:04.16ID:x2ckE6Sm何の役にも立たないお前らよりもずっとか役に立つ
適当に読んでる分にはまあ面白いw
0637人間七七四年
2011/03/03(木) 18:30:49.24ID:sMJLjdJE落とさないためだけなら不快な長文なんぞ要らん
0638人間七七四年
2011/03/03(木) 19:36:30.64ID:MWHn21MM不快なだけではなく、彼の書く内容は誤ってるからね
0639S字型金具
2011/03/03(木) 20:52:58.93ID:4NZRvxc8火縄銃にとって黒色火薬は兵站物資として、最重要物質である。その主成分は炭素、硫黄、硝酸塩であるが、その合薬方法など日本の銃砲史にとって未解決な部分が多い。
『炭素』成分として草木の炭が使われるが、煮炊き、暖房など、火薬以外の用途も良く知られているので、普通「炭=黒色火薬」と捕らえない。
『硫黄』は日本が火山帯に位置するため産出し、火山の少ない中国や朝鮮などへ多量の輸出や献上などの記録がある。しかし、当時の日本での火薬以外の用途は記録されていないのでよく解らなく、その精製法や流通など不明な点がある。
『硝酸塩』については一般的に硝石、また、焔硝、塩硝、煙硝などの名でも呼ばれている。その用途は漢方薬の他、日本では黒色火薬以外の用途について言及されたものが無い。
日本の銃砲史は、鉄砲伝来(?)時には天然硝石の産出は無いとして、すべての硝石は輸入品としている。その後国内で焔硝の生産が始まり、需要が多かった時には一部輸入し、余った時には輸出したとしている。
1448年(文安5年)の朝鮮王朝実録に、源義成(第8代将軍足利義政)が朝鮮国王に焔硝(硝石)20斤を献上した記録がある。
『其書曰:日本国王源義成奉書朝鮮国王殿下。両国中間、海程万里、隣好不渝、天水一碧。・・・・
別幅:彩画扇二百把、黒漆鞘柄大刀一十把、練緯絹二十段、香五十觔、胡椒三百觔、焰硝二十觔、沙魚皮二十片、生脳二十觔、鮫魚皮五十片、朱漆木車椀一百一十事、白鑞一百觔、蘇木一千觔。』
献上品には胡椒などの輸入品が含まれるので、この焔硝が中国産か国産品かどうかは不明であるが、日本人が焔硝についての知識があったことは事実である。
当時の朝鮮も天然の硝石の産出が無いので、自国で床古土法により焔硝を生産して火器を運用している。
焔硝の献上記録はこれのみで、なぜ日本国王(将軍)の献上品に焔硝が含まれていたかは謎である。
1斤600グラムとすれば20斤は12キログラムとなるので飲用漢方薬としては多すぎ、朝鮮に無い高純度焔硝の酸化剤としての用途が考えられる。
日本は古来より朱色を好み、神社や国旗にまで朱色を使う、朱(丹)の国・鉛丹の国であり、錬丹術があったと思っています。 >>610
0640人間七七四年
2011/03/03(木) 22:50:50.46ID:QKeSzC5e0641人間七七四年
2011/03/03(木) 23:01:54.85ID:lIEQWPvT0642人間七七四年
2011/03/04(金) 21:38:27.90ID:SMOF1sDs0643人間七七四年
2011/03/06(日) 17:25:26.88ID:+v5sdylDいや、それは無理でしょ。>>642みたいな荒らし兼保守する能力しかないのは今までの流れを見てればねえ。
0644人間七七四年
2011/03/06(日) 23:50:36.57ID:jZ5vyJRoそれが一年ちょっと前、変な連載を始めだした頃からおかしくなっていった。
何かあったのか?
S字さんに聞くよ>>639、自分のやってることをどう思ってる?なんで答えるべきことに黙ってるの?
なんか人間味が感じられないんだけど。
0645人間七七四年
2011/03/07(月) 00:19:58.30ID:wlwzhSta0646人間七七四年
2011/03/07(月) 17:55:51.67ID:Oylfne9T話を聞いてくれる人もいない
ここなら誰かは読むもんね
0647S字型金具
2011/03/15(火) 19:42:20.94ID:XkroXJrZ洞富雄さんは、著書「鉄砲―伝来とその影響」で「古くから日本に火薬があったのではないか?」と指摘している。洞さんが何を言いたいか良く解らないところがあるので、P43・P44の全文を紹介します。
『※なお、「明史」巻322、日本伝には、古くから日本に火薬があったことを示すかのような不思議な話が載っている。それは胡藍の獄で有名な胡維庸の謀反に関係したことで、公武20年(1387)の記につづけてこう述べているのである。
「先是、胡惟庸謀逆、欲籍日本為助、乃厚結寧波衛指揮林賢、佯奏賢罪、謫居日本、令交通其君臣、尋奏復賢職、遣使召之、密致書其王、借兵助己、賢還、其王遣僧如瑤率兵卒四百余人、
詐称入貢、且献巨燭、蔵火薬・刀剣其中、既至、而惟庸己敗、計不行、帝亦未知其狡謀也、越数年、其事始露、乃族賢、而怒日本特甚、決意絶之、専以防海為努、」
この火薬云々の一件は、「明史」の日本伝に記されているだけで、同書、巻308の胡惟庸伝や「明史紀事本末」巻13の胡藍之獄の条には見えていない。
これについて、所荘吉氏は「(補説)天文以前における銃砲伝来の実否について」(「銃砲史研究」第83号、1976年10月)で、「この事件は「明史」のみでなく、「皇明実録」、「皇明祖訓」に掲載されているにもかかわらず、信じ難いことで、
胡惟庸を失脚させるために、明代における仮想敵国日本の名を利用したものと考えられ、このような事実は否定さるべきであり、それにともなって、南北朝時代にわが国で火薬が製造されていたことも否定されよう」と断じている。
わたくしも所氏同様、「明史」日本伝に見られる、明初の洪武年間はやくも日本人が火薬をつかっていたかのような記述内容を、そのまま真実をつたえていると信じようとするものではない。
ただ、所氏の述べているところを読んで気になる点がある。それは「皇明祖訓」や「明実録」にも、火薬云々と記されているように誤って読みとる向きがあるやもしれないということである。
「皇明祖訓」には、「日本国」として、「雖朝実詐。暗通奸臣胡惟庸、謀為不軌。故絶之」と記しているだけであり、「明実録」(洪武30年8月丙午条)には、胡惟庸の謀乱と外国との関係が記されているが、日本のことは見えていない。』
鉄砲伝来(?)よりも155年前、「南北朝時代にわが国で火薬が製造されていたこと」を否定して良いのだろうか?
○太祖皇明祖訓の読み下し文で、「朝」を「日本朝」として「日本朝すると雖も実は謀りて、暗に奸臣、胡惟庸と通じ、不軌を為す事を謀る故に之と絶つ。」と書いてあるものがある。
○鄭若曽が1562年に著した「籌海図編」にも、「十五年、賊臣胡惟庸党備倭指揮林賢、入倭搆乱、十六年、寇金郷、進巨燭暗蔵火薬兵器、佐惟庸為不軌、于是高皇帝訓、絶其往来、」とあり、以前より日本に「火薬兵器」があったことを認めている。
0648人間七七四年
2011/03/15(火) 20:18:53.20ID:v6I/UQAL日本にも当然伝わってたと考えるのが自然だろ「このような事実は否定さるべき」とか
どこの老害暗黒爺だよ
0649S字型金具
2011/03/15(火) 21:14:08.62ID:XkroXJrZ>日本にも当然伝わってたと考えるのが自然だろ「このような事実は否定さるべき」とかどこの老害暗黒爺だよ
老害暗黒爺は『所荘吉』さんで、「このような事実は否定さるべき」と書いて日本の銃砲史・火薬史を組み立てており、現在の定説となっている。
「ID:v6I/UQAL」さんのような考え方は、まだまだ少数意見である。
0650人間七七四年
2011/03/15(火) 21:32:19.57ID:rvBRvm8A0651人間七七四年
2011/03/15(火) 21:49:17.45ID:v6I/UQAL明清の儒学者かよ、というよりこの方面は全然研究者いないの?
0652S字型金具
2011/03/15(火) 22:40:02.62ID:XkroXJrZ鄭若曽は、明・清の儒学者ではない。
この方面(銃砲?・火薬?・花火?)は、範囲が広い割にはマイナーな分野で、本を書いても多くは売れない。そのため、研究者(学者)は経済的に生活が成り立たないので少なく、殆どの方は趣味の範囲でのサブ研究となっている。
しかし、歴史からも消えており、面白おかしく書けば売れる要素があるのでトンデモ本、ゲームか現実か判らないものが横行している。
0653人間七七四年
2011/03/21(月) 00:44:48.11ID:WCz03qyl0654S字型金具
2011/03/23(水) 01:01:33.11ID:1HWRnTyq小葉田淳さんは、「天文期以前に日本人が火薬を朝鮮に持参していた」と書いている。
『日本では、ほぼ天文の前期一五三〇年代の終りを画期として、これまでと反対に銀の輸入から輸出へと転ずる。金はこれまでの輸出から輸入へと変ることになる。
朝鮮半島との貿易では、李朝は、はじめ日本との金銀貿易は一般にきびしく統制した。朝鮮銀の輸出を禁上し、日本金の輸入も原則として禁止している。そのため民間で密貿易によって金銀が交易された。
貿易禁制品が民間貿易で取引されるため、十五世紀中期に一切私貿易を禁止してすべて公貿易としたこともあったが、公費が嵩むので私貿易開禁の議論もでた。
しかしそのために生ずる難点の一つは、日本人が火薬や金を持参して朝鮮銀と交換する機会を多くあたえることであった。朝鮮としては日本金の輸入より朝鮮銀の輸出を取り締ることに重点があったのである。
十五世紀後期より大名らの使送船による金の輸出が増加し、十六世紀はじめにも日本金の朝鮮流入はさらに活発になっている。』
朝鮮王朝実録の1485年(文明17年)の2・3月の項、「命召随駕宰相更議倭物私貿易便否」に日本人との火薬貿易について書いてある。
『・・・・如三浦、則倭奴所売者、金、銀、銅、鉄、皮物、朱紅、石硫黄、皆我国功用之物、而我国禁物、亦不過火薬、金、銀数物而已。
・・・・赴京之行、禁物之令、雖厳然、或以銀、或以他禁物、挟帰潜売者有之。但無現発者、故未之罪耳。 今於倭人、如以火薬、銀換金、此実禁物、当置重典。・・・・』
『・・・・右副承旨李世佑啓曰:金、銀、貂鼠皮、我国不産、於中国、則固是禁物、若於倭人、則非是禁物。但火薬雖為禁物、而人民得之為難、此則似若無慮。但倭人、性本軽躁、興販之際、若争利相害、於国体何如・・・・』
朝鮮では金、銀は不産としていていながら、日本の金と朝鮮の銀とを交換すると書いてあるが、この「火薬」の正体については良く解らない。
朝鮮において火器用の火薬は一般人にとって全く必要性は無く、市中に出回ることはない。この文面から、この火薬は火器用の火薬と思えず、小葉田さんが「日本人が火薬を持参した」とするには他にも何か根拠となる文献があるのだろうか?
いずれにしても、鉄砲伝来(?)よりも57年以上前の、1485年以前より、日本人が火薬についての知識があったことは間違いない。
0655人間七七四年
2011/03/23(水) 03:07:56.95ID:MWXT1VZC厳密な火薬の意味でしか使われてないから、朝鮮がわざわざ独自の使い方をしてたとも思えんけど
0656人間七七四年
2011/03/23(水) 10:54:22.32ID:30TPsPc10657人間七七四年
2011/03/23(水) 21:10:35.10ID:vNbVez6lロケット花火のお化けみたいなのとか、爆発して金属片を飛ばす震天雷とかは
作ってたみたいだけど、どの程度の規模で運用してたのかねえ。朝鮮史観で
膨らませたのではなく実態に興味がある。
0658S字型金具
2011/03/23(水) 21:17:05.71ID:1HWRnTyq古代中国では、火薬は「火の薬」として取り扱われ、仙薬、丹薬など火器以外での利用があり、その頃の火薬は炭粉が入っていませんでした。可燃物としての炭素成分は油などであったと思われます。
炭粉を混ぜ合わせた始めの頃は、「黒火薬」として別に扱っていたと思われます(たしか?)。
朝鮮では、火薬(鉄砲薬とは限らない)を医薬品の外、民生用にも使っていたようです。
>>656
量産していたかどうかは判りませんが、14世紀の朝鮮の火器での使用はありえるかもしれません。しかし、15世紀以降の朝鮮では火器用火薬の取り締まりは、非常に厳しいものがありました。
0659人間七七四年
2011/03/23(水) 22:17:57.89ID:XIibwn6/炭粉と硫黄と硝石を一定の割合で混ぜたものを指す、とあるから当時は今と同じ意味で「火薬」
「黒火薬」←訳者が注釈無しでこっちに火薬を当ててたらアレだけど、の語を使ってたんじゃね
0660人間七七四年
2011/03/27(日) 22:13:46.89ID:1NwP81WZ最初、デニックスかと思ったのですが…検索してもありませんでした。
モデルガンなのは間違いないのですが、デニックス以外で販売していましたか?
教えてください。
0661人間七七四年
2011/03/28(月) 14:54:14.21ID:0OYyq4bK0662人間七七四年
2011/03/28(月) 18:38:14.37ID:v9sz2nGU0663人間七七四年
2011/03/29(火) 20:00:09.54ID:yIQ/bvA8詳しい方、教えて下さい。
http://www.bannch.com/bs/bbs/648441
0664人間七七四年
2011/04/04(月) 13:40:57.44ID:mE3mKbWE【火縄銃・マスケット銃】鉄砲・大砲の歴史 【種子島・ライフル】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1179124918/
[近世総合]大坂の陣、火縄銃、戦国・江戸・大航海時代3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1296659597/
0665S字型金具
2011/04/13(水) 20:20:32.12ID:gpUh9O7X『イエズス会士日本通信』の書翰集にポルトガル人へ硝石の入手要請をした手紙が載っている。
この手紙は鉄砲が伝来した(?)とされる25年後の1567年(永禄10年)に、キリシタン大名の大友宗麟がシナ滞在中の司教ドン・ベルショール・カルネイロに送付したものである。
この手紙を硝石輸入の根拠として取り上げられているが、相手の毛利元就には自製している記録(弘治年間)があるので「硝石の当地輸入を一切禁止」はあまり意味が無い。
硝石200斤(黒色火薬として160kg)は石火矢(国崩し)30発分ほどで大友家の必要量としては少なく、国産品の他に「毎年、良質の硝石」の輸入が必要となったものと思われる。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1289142325/109
良質の硝石二百斤で毛利元就に勝てるとは安易な考えで、しかも百タイス【銀一貫目】で勝てるとなればあまりにも安い買い物になり、売国奴のバテレン大名独特の甘えが見え、また、何か裏約束でもあったものか?
この手紙の返信やその後の結果(輸入されたかどうか)については不明であり、ポルトガル人からの火薬の融通記録は数点あるが、私の知っているポルトガルからの硝石輸入記録は、この書翰だけである。
『 最も尊敬すべき君。
我等は貴下が本年当地に来られんことを大に待ちゐたる者にして、貴下の渡航を妨げたる原因は小ならざるものと考ふれども、近く相見るの希望を棄てず。
予が常にコンバニヤを庇護せんと欲することはすでに貴下の聞に達したらんと信ず。
予が山口の王【毛利元就】に対して勝利を望むは、かの地にバードレ等を帰住せしめ、始め彼等が受けたるよりも大なる庇護を与へんがためなり。
而して予が希望を実現するに必要なるは、貴下の援助により硝石の当地輸入を一切禁止し、予が領国の防禦のためにカピタン・モール【ポルトガル船の司令官】をして毎年良質の硝石二百斤を持来らしめんことなり。
予はこれに対し百タイス【銀一貫目】または貴下が指定せられる金額を支払ふべし。この方法によれば、山口の暴君は領国を失ひ、予がもとに在る正統の領主【大内輝弘】その国に入ることを得べし。
貴下の手に接吻す。
本日陰暦第九月の十五日【永禄10年9月15日は1567年10月17日に当る】 』
0666人間七七四年
2011/04/13(水) 20:59:33.13ID:+RK+iIqU大仰というか大らかというか気宇壮大というか空想的というか
0667S字型金具
2011/04/25(月) 00:25:08.74ID:yReM8OWd硝石を輸入品としている人の根拠集
@岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究・昭和11年(1936年)』
『また、火器弾薬原料が輸入せられた。推察するにその数量は頗る多かつたに違ひないが、的確にそれを知ることが出来ない。その理由は蓋し多くの場合商取引として、日本商人の手を経ることがなく、
直接に諸侯、殊に基督教諸侯に引き渡され直に戦争に使用せられたからである。その輸入し直接交付せられた二・三の例を次に挙げる。・・・・』
A田中健夫『倭寇−海の歴史・昭和57年(1982年)』
『「倭好」のなかには入れられていないが、鉄や硝石も倭寇の重要な需要品であった。種子島の鉄砲伝来後、日本各地で鉄砲が生産されるようになったが、日本の鉄はもろく、福建地方やシャムから鉄を輸入したという。
また火薬のもととなる硝石も日本には産出しないので中国から買い、遠くシャムまで足をのばして購入に行ったこともあったそうである。このことは「日本一鑑」に書いてあることである。これらの商品の対価はおおむね銀で支払われた。・・・・
「日本一鑑」は鄭舜功が、嘉靖三十四年(一五五五、弘治元)から同三十六年まで、三年間豊後大友氏のところに滞在した日本生活の経験をもとに嘉靖四十四年に書いたものである。』
B岡田章雄『キリシタン風俗と南蛮文化・昭和58年(1983年)』
『戦国諸大名の間で鉄砲がさかんに利用されるようになると、火薬の原料、とくに硝石の需要が高まった。
わが国には硫黄は多く産出するが、天然硝石は産出しない。そこで外国船により、また海外渡航船によってインドシナやシャム(タイ)・インドなどその産出国からさかんに輸入された。』
C宇田川武久『近世初頭における火器の普及と生産・平成2年(1990年)』
『鉄炮は火薬がなければ、ただの鉄の棒にすぎない。したがって日本に鉄炮が伝えられたころ、火薬は鉄炮とセットでもたらされたとおもう。
このことは鉄炮伝来後、まもない時期と推定される種子島弾正忠宛の将軍足利義藤御内書に「鉄放薬事、南蛮人直令相伝、調合無比類之由、被触御耳、武家御内書如此侯、於無相違者、可為御祝着之旨候、聊以不可有御他言由侯」と、
種子島時尭が南蛮人から相伝した鉄放薬の調合法は比類がないから伝えて欲しいと、述べている事実に明らかである。
倭寇は鉄炮を交易品としたから必需品の火薬も取扱ったに相違ない。』
0668人間七七四年
2011/05/03(火) 13:29:12.01ID:GC3cYODu0669S字型金具
2011/05/04(水) 00:48:44.73ID:Du9+F7bF硝石を輸入品としている人の根拠集
D岩堂憲人『世界銃砲史・平成7年(1995年)』
『すでに述べたように、銃砲類は彼らの対日貿易品ではなかった。しかし、このことを明確に証しうる資料は日本においても、ポルトガルにおいても、またそれ以外の所でも現在までのところ、発見されていない。
したがって、筆者としてもそれらが輸入商品としての規模で日本に持ち込まれた痕跡のない事から推測したのであった。そして、これはまた硝石についても事情は同様である。』
E生田滋『東南アジアの大航海時代・平成13年(2001年)』(原本未読)
『東南アジア史の研究者である生田滋氏が、次のように指摘されている。
なおここで注意しておきたいのは、大砲、鉄砲の導入は、それとともに火薬の原料としての木炭、硫黄、硝石、銃丸の原料としての鉛、火縄の原材料としての綿糸などを供給するシステムが確立しないかぎり不可能だということである。
例を日本にとってみると、これらの原料、原材料のうち、火薬の原料としての木炭、硫黄は豊富に産出するが、その他の原料、とくに硝石と鉛の供給は来航するポルトガル船に仰いでいたのである。
また大砲、鉄砲ともに最初は「輸入品」を使用していたに違いないが、それを「国産化」する場合には、それなりの技術水準が必要である。
日本の場合でも種子島には原材料である砂鉄、製鉄の技術、鉄製品の製造の技術はあったが、尾栓のねじ切りの技術がなく、これをポルトガル人に教わって初めて鉄砲の製造が可能になったのである。』
F井沢元彦『逆説の日本史・戦国野望編・平成13年(2001年)』
『しかし、問題は、世界有数の火山国で鉱物資源の種類は極めて豊富なこの国に、硝石はまったく産出しないという事実である。
鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
ポルトガル人が種子島時尭に鉄砲を献上した(贈与した)というのも、この硝石のことを考えれば、有り得ないことではないことがわかるだろう。』
0670人間七七四年
2011/05/04(水) 01:47:31.85ID:LnRPiTYH生田滋とかいう奴も井沢と同レベル
0671人間七七四年
2011/05/04(水) 13:22:14.37ID:0qADpV9o送料込みで6000円。
長さ110cm、重さ3kg。メーカー、定価不明。
フロントのカラクリ部分も動きます
http://e.pic.to/16gt37
http://s.pic.to/16c45f
0672人間七七四年
2011/05/05(木) 00:38:05.20ID:BdWGGTFM0673S字型金具
2011/05/09(月) 00:34:50.78ID:+0e1ksqQ雑誌(07703-04)ではあるが、磯田道史(日本史家・茨城大学准教授)と水野和夫(エコノミスト・埼玉大学大学院客員教授)の対談が載っていた。
磯田『話は少しそれますが、武士の格差をなくしたのは、火縄銃がライフル銃になったことが大きいですよ。』
水野『ほう。』
磯田『火縄銃というのは射程距離が百五十メートルしかなくて、毎分一発、せいぜい二発しか撃てない。ですから騎馬武者たちは在来の、あんなに足が短い馬でも足軽の鉄砲隊を蹴散らすことが可能だったんです。
足軽というのは農家のアルバイトがほとんどでしょう。代々武士で、子供の頃から討ち死にしてもかまわんという教育を受けている騎馬武者が向かってくると、やはり怖いわけです。
ところが、そこに射程距離五百メートルのライフル銃が出てきた。もちろん命中率も高い。そうなると、騎馬武者が背中に旗を立てたり派手な鎧を着たりするのはもはや自殺行為でしかないんですね。』
水野『撃ってくださいって言っているようなものだ(笑)。』
磯田『ライフル銃さえ持てば、たとえアルバイトの足軽でも英雄になれてしまう。騎馬武者の時代の終焉です。』
水野『テクノロジーの革新が格差を是正したいい例ですね。皮肉なことに今は金融というテクノロジーが格差拡大を助長していますが・・・・・・。』
個人にとって歴史観は様々であろうが、人々は教育によって大きく影響を受け、特に権威や肩書きに弱い我国では教授クラスの人の発言は社会に影響を与え、その後の訂正・修正は困難を伴う。
田中健夫(東京大学名誉教授)さんによる『倭寇図巻』の解説訂正は、何時・誰が行うのか? <<441
近世初頭から幕末維新期にかけての日本近世史が専門の磯田氏の発言内容は以前からのようで、水野氏も笑って同調している場合ではない。
http://kbaba.asablo.jp/blog/2006/05/03/
戦後の日本の歴史教育の結果がこれであり、今後の歴史教育はどうなるのだろうか?
0674人間七七四年
2011/05/09(月) 00:55:19.30ID:IKgmsN4a本国で見直しが進んでる西欧史でも、未だに30年以上の前の歴史観を信奉して
新しい研究成果を無視し続ける歳の逝った日本人西欧史家は多いけど
0675人間七七四年
2011/05/09(月) 17:13:10.02ID:WIJYIaL80676S字型金具
2011/05/17(火) 01:02:06.27ID:9GbWjj4N硝石を輸入品としている人の根拠集
G佐々木稔『火縄銃の伝来と技術・平成15年(2003年)』
『問題は火縄銃を製造するための原材料である。すでにI部の第一章第2節でも簡単に触れたが、亜鉛(もしくは真鍮)・鉛・硝石は、最初から輸入に頼らざるを得なかった。また原料鉄の多くは、それ以前からも輸入されていた。
したがって火縄銃の伝来は、数種の原材料の調達を含む一連の生産システムとして導入された、意図的な事件の可能性がある。
たんに火縄銃が伝来したことだけを見てしまうと、歴史の真実から遠ざかる危険性がある・・・・
(硝石)火縄銃伝来当時は、日本国内では火薬の需要はなく、生産していなかった。明では禁輸品であり、従来説のように密輸品を使用したと考えたい。
(鉄)銑鉄や半製品の鋼材として輸入されていて、その比重は国産の鉄(これには不均質な中間産物が想定されている)よりもずっと高いと考えざるを得ない。』
H武光誠『海外貿易から読む戦国時代・平成16年(2004年)』
『鉄砲伝来をきっかけに、種子島家と倭寇(海商)の頭目、王直との取引が開始されたと思われる。王直の部下の船によって大量の硝石が種子島家にもち込まれ、それが西国各地の商人に売られたのだろう。
種子島家は、この硝石貿易によって大きな儲けを得た。そして、種子島から運ばれた硝石の有力な買い手が織田信長ではなかったかと思われる。』
I久芳崇『東アジアの兵器革命・平成22年(2010年)』
『鉄砲といえば、日本では織豊政権樹立の原動力の一つとなったものとして広くに知られる。そのため、一五四〇年代前半の種子島での鉄砲伝来、およびその後の全国への伝播・普及の状況については、これまでに膨大な研究の蓄積がある。・・・・・
明朝における鉄砲の伝来については、従来の研究ではおおむねその製法がまずポルトガルから伝来したが精妙に模造できず、
次に嘉靖二十七年(一五四八)に密貿易の拠点として倭寇の巣窟となっていた雙嶼を明軍が攻撃した際、倭寇側より獲得した鉄砲、および捕虜となった倭寇を通して日本式鉄砲が伝来したと推定されている。
十六世紀半ばには、威継光らによって鉄砲が積極的に導入され、倭寇対策や北方防衛に効果をあげた。しかしその後、十七世紀初頭にかけての明朝における鉄砲の普及状況については、なお不明確な点が多く、
十六世紀末の朝鮮の役時点における明朝では、十六世紀半ばに伝来した旧式鉄砲が配備されているにとどまり、それは朝鮮の役で日本軍が用いていた鉄砲の性能に遠く及ばないものであったとするのが従来の大方の見解であると言える。・・・・・
朝鮮の役を契機として、日本兵捕虜を介して日本式鉄砲と火器技術とが明朝に伝播し、それが十七世紀の中国北辺での対女真・モンゴル防衛や中国西南部での反乱鎮圧に活用されたことを解明した。
すなわち、十六世紀半ばのポルトガル人などを通じてのヨーロッパ式火器の導入と・・・・・』
0677人間七七四年
2011/05/17(火) 01:44:51.28ID:SThxbJMU0678人間七七四年
2011/05/24(火) 01:55:26.77ID:2draH7Ph馬を飼ってるところの土から火薬つくれるって本当なんですか?
どうも嘘くさくて……。
0679S字型金具
2011/05/24(火) 01:58:25.06ID:kG9R2Jp/硝石(KNO3)40〜80%、硫黄(S)3〜30%、炭素(C)10〜40%の範囲内での割合で混合すれば、一応黒色火薬として成り立ち燃焼するが、現在の鉄砲発射薬としての黒色火薬は、硝石75%、硫黄10%、炭素15%が標準的な混合比率とされている。
黒色火薬が燃焼(酸化)すると、N,O,S ,C成分はガス化(N2 ,CO2 ,SO2など)して空中に放出されるが、Kと未燃焼の、S ,C成分はガス化せずに残留する。
標準的な黒色火薬の硝石混合比率75%では、K量は29%『75%×[39÷(39+14+16×3)]=29%』含まれ、この重量割合がガス化しない。
このK量に未燃焼の、S ,C成分が燃えカスとなるが、ガス化した硫黄酸化物量の発生量は少なく、多くの硫黄は燃えカスとなる。(標準的な黒色火薬では、重量の40%以上がガス化しないと推定される)
火縄銃内で発生する燃えカスは、発射の際に銃口と火穴から一部放出するが完全な排出は困難であり、次々と薬室や銃身内にこびり付くので、連続的な発射のために清掃は必須である。
燃えカスのこびり付く量は、火薬の粒形、コーテング、混合比率、薬室構造、火穴の位置、口径などの条件で大きく異なる。
三種の混合比率を変えて燃えカスの少ない火薬は作成できるが、威力のある火薬とは別であり、戦国時代の戦闘中では、薬室までの清掃は必須であった。 >>572 >>310
大砲用の黒色火薬の場合は、砲身の破裂を防ぐために硝石比率を低くして爆発力を抑えているので相対的に硫黄、炭素成分が多くなって燃えカスが増え、また、酸素成分が減るため不完全燃焼となりやすく、炭素成分は多量の黒煙(爆煙)となった。
長篠の戦いで使った3000挺の三段撃ち戦法や輪番による連続射撃が中国明軍に伝播したとして、1638年に明朝で刊行された畢懋康『軍器図説』の鉄砲の一斉射撃戦術図「輪流操作図」を紹介している書籍がある。
この図には、中国銃の特徴である銃床が短く長銃身の火縄銃(長槍?)が描かれているが、中国銃に特有な銃架(又杖?)が描かれていなく、物理的に支えるのが不可能な図が描かれており、連続射撃の伝播の根拠に図だけで判断するのは危険である。
また、燃えカスの事を考慮に入れずに連射が可能であるとしてことや、いまだに火縄銃3000挺の三段撃ちが史実のように思われて、単純に玉数を掛けて総発射弾数量を算出している物もあって定説を覆すにはなかなか難しいものがある。
0680人間七七四年
2011/05/24(火) 02:02:12.04ID:OXxEQ/VXほとんど妄想レベルの話ばっかだよな。
0681人間七七四年
2011/05/24(火) 08:14:11.28ID:jS5HBQeW0682人間七七四年
2011/05/24(火) 11:30:55.74ID:JpYr2H7Pそのころの厩って確か板敷きだろ、
床下には硝酸カリウムたっぷりの土壌が形成されたと思うよ。
民家の床下の土から火薬作るのと原理は同じだろうし。
0683S字型金具
2011/05/25(水) 01:15:02.20ID:WHdZI9/Q>馬を飼ってるところの土から火薬つくれるって本当なんですか?
『萩藩閥閲録』に『えんしようの事申越候虚、早々尋越候、祝着侯』、『鹽硝熱させ侯、然者其方馬屋之土可然之由侯間、可所望侯』、『鹽硝熱侯仁爰元罷越侯、就夫古馬屋之土入之由候條中入侯、某元御短息候て可給候』と書いてある。
この文は弘治三年(1557)ころの手紙で、「馬屋之土」から黒色火薬の原料である鹽硝(塩硝・えんしょう・硝石・硝酸塩)が造れることが判る。
明治十年代では、武田司馬介を社長として東京白焔社が設立され、札幌郊外で陸軍より馬糞の払い下げを受け、主に北海道石炭採掘事業用の硝石を製造した記録がある。
>>682
>そのころの厩って確か板敷きだろ、床下には硝酸カリウムたっぷりの土壌が形成されたと思うよ。
『フロイスの日本覚書』に『われらの厩舎は地上に建てられる。彼らのには板の仕切りがなくてはならない』、『ヨーロッパの馬は、厩舎のなかで地面に放尿する。日本では、長い柄杓(ヒシャク)で人が馬の尿をとる』と書いてあるので、板敷きであることが判る。
となると、厩の土と床の有る民家の土との差は無く、あえて「馬屋之土」と書く必要性は無い。
「馬屋之土」とは武士用とは違って、民衆農耕用の床の無い、馬の食べかすや糞尿の混じった土と思える。
したがって、民家の床下の土とは硝酸イオンの形成過程が異なり、また形成されるのは主にカルシウム塩であって、硝酸カリウムとして収量を上げるためには草木灰を添加してカリウム置換が必要となる。
0684人間七七四年
2011/05/25(水) 02:39:16.66ID:5NSVokksそのう、結局、火薬の成分ってなんなの?
話をきいてると馬糞からつくれるってことにならない?
もちろん馬糞からつくれるにしても、
戦争とそのための訓練に使用できるほどの量が取れるのかなあ?
石炭採掘事業に使ったとあるけど、
それってたぶん穴掘り用の発破に使う爆薬としてでしょ?
なんか、凄い意外な感じするんだけど。
0685人間七七四年
2011/05/25(水) 03:37:00.01ID:H/GQjUgOそんなもん
0686人間七七四年
2011/05/29(日) 00:31:50.21ID:5XEqRalu火薬作ろうとしてた描写があったような気がする
作品名が思いだせんが
0687S字型金具
2011/05/30(月) 22:49:52.76ID:61I+nCdP昭和十七年、外山卯三郎さんはポルトガルとの貿易関係の上で、「火器弾薬原料」が贈答品として送られた例はあるが、貿易目的で取り扱って例は無く、貿易品では無いと指摘している。
この指摘は岡本良知氏を批判したためか、なぜか一般には取り上げられず無視されたままになっている。 >>667 @
『以上のやうにポルトガルのカピタン・モールから、或は印度副王から諸侯に贈られた武器と軍需品との記載については、私達も幾つかの文献を知つてゐる。
然しこれがはたして貿易品として輸入されたと言ふ意味において、私達は異義をのべなければなるまい。
岡本良知氏は「火器弾薬原料が輸入せられた。推察するにその数量は頗る多かつたに違ひないが、的確にそれを知ることが出来ない。
その理由は蓋し多くの場合商取引として、日本商人の手を経ることがなく、直接に諸侯、殊に基督教諸侯に引き渡され直に戦争に使用せられたからである。」とのべてゐられる。勿論この岡本氏の言葉にもあるやうに、
(1)これ等の武器や軍需物資の舶載は、日本商人の手を経たものでなく、キリスト教諸侯の手に直接渡されたものである。
(2)しかもそれはキリスト教徒たちの政治的・軍事的な援助として送られたものであつて、商品として取扱はれたものでないと言ふことである。
(3)さうでない場合においても、主として贈答品として送られたものであって、貿易品として舶載されたものでないと言ふことである。
さうした点から見て、岡本氏の「また火器弾薬原料が輸入せられた」 と言ふ言葉は妥当でないと言はねばなるまい。
今日においても贈答品として個人並に使節が携帯する品物には、貿易禁止品もあり得ることをもつて見れば、商業上で言はれる貿易品と明確に区別して考へられねばならないだらう。
従って日本とボルトガルとの最古の貿易においてもまた、鉄砲は明かに貿易品ではなかつたのであつて、私達は現在までにそれ等を貿易品として取扱ってゐる文献は、ひとり日本における間接的な史料以外に見出せないものである。
この点を明僚にするために、私達はこの最古の日葡貿易の時期、即ち一五五五年以前の貿易の項に加へて、それを記述する次第である。・・・・・』
この指摘を確認してみると、一貫した至極自然な流れとなっており、私は真実であると確信している。
0688人間七七四年
2011/05/30(月) 22:55:40.80ID:gR2XkHWN貿易自体も本国から持ってくるケースは稀だし
0689人間七七四年
2011/06/01(水) 01:59:09.46ID:nVk5g2jdかりにそうだとして
鉄砲伝来より前から火薬の使用は来島水軍などが炮烙を使ってる
鉄砲伝来より前に土硝法が伝わってるのは不思議じゃない
0690S字型金具
2011/06/08(水) 00:40:56.59ID:b1Lb/Grd岩生成一さんは著書の中で、イエズス会側から見た日本との貿易について書いている。
『現世的利益は貿易のうえでは直接的であり、効果も期待された。当のバリニャーノが、この点についてするどく見ぬいている。かれの報告によると、つぎのようである。
「諸大名は、イエズス会のパードレを介して銀をマカオに送り、その銀で、金または生糸などを求めんとするが、通常金のみを求める。銀を輸出して金に替えるしきたりは、当初、大村・有馬、その他のキリシタン大小名によって小規模にはじめられた。
大友宗麟ごときも、一五七八年(天正六)受洗以前、年額三千ドカード(一ドカードは日本銀約十匁)の取引をするようになった。
キリシタン大名はもとより、未信者たる大名も、たえずイエズス会のパードレを介して銀を金に替えんと欲している。未信者たる大名にたいしても、これを信者たらしめんためには、とくに便宜をはかってやった。
もしこれをこばめば、かれらには怨恨の結果、おおいに憤り、布教に悪影響をおよぼす虞れがある」
そこで宣教師は、領内の布教のためにも、その領主自身の教化のためにも、ポルトガル船の貿易を極度に利用した。また一方、宣教師は会堂・学校や病院維持のために、有力な信徒の浄財をあおぐとともに、ポルトガル貿易商の喜捨を必要とした。
しかし伝道がいよいよさかんになると、これに応じて商人らの喜捨を無制限に期待することはできなかった。ついに伝道資金獲得のために、宣教師みずから生糸などの商品を定期船に託して貿易経営に参加するようになり、王室もおおいにこれを支持した。』
バリニャーノは、インド地方区長巡察使でイエズス会の大立者であって、彼は「日本の諸大名がイエズス会に近づく目的は、銀を金に替えることである。そのため、信者にするために便宜を図ってやった。」と報告している。
しかし、彼は「日本の諸大名は鉄砲・硝石を求めている」とは報告していない。そのため、ポルトガルとの貿易記録の「鉄砲・硝石」は、いくら探しても出てこないのは当然である。
「倭寇が鉄砲・硝石輸入に介在した」とする論も、「日本が鉄砲・硝石を求めていない」とすれば成立しない。
文献至上主義の日本において、なぜ「鉄砲・硝石を輸入した」とする論がまかり通っているのだろうか。自虐史観のにおいがする日本の歴史教育は変えなければならない。
0691人間七七四年
2011/06/08(水) 01:36:48.67ID:x42Wrcti貨幣として使うだけかな。
良質の火薬を作りたい場合のみ宣教師に宗麟のように頼むんじゃない。
あとはかなり国産の生産量はあったんじゃないかな。
0693人間七七四年
2011/06/08(水) 19:00:07.22ID:tMHSmadP0694人間七七四年
2011/06/08(水) 20:08:12.96ID:43Vw9qnX0695S字型金具
2011/06/08(水) 21:27:37.54ID:b1Lb/Grd井沢元彦著「逆説の日本史(9)戦国野望編」P132〜134
『■「火薬調合法」と「ネジの技術」を伝授したポルトガル商人の真意
そのポイントとは硝石(煙硝)である。硝石とは黒色火薬の主原料であり、今日ではそれを硝酸カリウムと呼ぶ。
無色透明のありふれた鉱物で、世界各地で産出する。南米チリでは硝酸ナトリウムの形で大量に産出するが、これを硝酸カリウムにすることは簡単なので、「チリ硝石」の発見は鉄砲の普及にとって大きな意味があった。
しかし、問題は、世界有数の火山国で鉱物資源の種類は極めて豊富なこの国に、硝石はまったく産出しないという事実である。
鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
ポルトガル人が種子島時堯に鉄砲を献上した(贈与した)というのも、この硝石のことを考えれば、有り得ないことではないことがわかるだろう。
鉄砲は一丁持てば、二丁、三丁と欲しくなる。そして、それを有効使用するためには硝石を大量に輸入しなければならない。ならば初めの一丁ぐらいは「サービス」しても、ポルトガル商人は損はしない。いやむしろ多大な利益が期待できるのだ。
この硝石、いや当時の言葉で煙硝と呼ぶが、この煙硝が輸入品であり、その輸入ルートが確立されない限り鉄砲の大量使用は不可能であることは、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのである。
前節でも述べたように、ポルトガル商人にとって、おそらく誤算だったのは、日本人が他のどの民族よりも素早く高品質の鉄砲の国産化に成功したことだ。これによって完成品の鉄砲を高く売りつけるということは失敗に終わった。
あまり他の歴史家が指摘していないことを言おう。日本人は昔から外国からの輸入製品を「舶来物」と呼んで珍重してきた。その最大にして最良のコレクションが「正倉院御物」である。
たとえば現代でも、時計つまり「時を測る道具」としての品質は日本製が最高なのに、あえて外国の「ブランド物」を買い求める人が多い。日本人にとって「舶来イコール高級品」なのだが、鉄砲に関しては本場のポルトガル製を珍重はせず、すべて国産の鉄砲を使っていた。
あの「南蛮大好き」の織田信長ですら、「オレの鉄砲は舶来物だぞ」とは言わなかった。戦争だからである。戦争をしている以上、兵器は出来るだけ優秀なものを使わないと命にかかわる。
そのギリギリの選択の中で選ばれたのは、決して舶来物ではなく国産の鉄砲だった。今でも世界の古式銃の大会では日本製の評判が高い。』
読み物としてはおもしろいが、八切止夫さんの「チリー硝石輸入論」を取り入れている点で信頼性が落ちる。
八切止夫さん以外の人も『鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない』こと認め、「鉄砲の使用には硝石の輸入が不可欠である」として著述されているが、硝石輸入の有無は鉄砲伝来を含む銃砲史の根幹に関わる問題である。
0696人間七七四年
2011/06/08(水) 23:08:16.94ID:Tq++1Y7Dそれだと鉄包の普及はあまり進んでなかったんじゃないか?
0697S字型金具
2011/06/09(木) 00:49:43.45ID:zHgf5jSx「長篠の戦い」「石山合戦」など日本各地で多くの鉄砲戦が行われ、朝鮮半島での「文禄・慶長の役」でも鉄砲戦が行われたことから、現実に鉄砲は普及していた。
「鉄包の普及はあまり進んでなかった」とする君の推論は、ハズレである。
したがって、「火薬の値段はとんでもなく高かった事になる」もハズレである。
とすると、仮定の「火薬の材料が輸入するしか無理」もハズレとなる。
0699人間七七四年
2011/06/09(木) 06:10:11.27ID:IPxdGDGs輸入のほうが高いとは限らない
土硝法じゃ量が少ないし
硝石は明でとれるから明からの輸入ならそっちが安いんじゃないの
0700人間七七四年
2011/06/09(木) 09:02:30.49ID:ln5GsNhNさすがに輸入だけで奥羽に至るまで全国急普及した大量な鉄砲の火薬を賄えるとは思えんわ。
取り立てて記録に残らないのは普通に身近で調達できたからじゃないのか?
もちろん良質なものになると宗麟みたいに宣教師経由でインド〜マカオあたりから来るポルトガル船から購入したんだろうけど。
禁令を犯して中国内陸部から沿岸まで運んでくるのは現実的じゃないし。
江戸時代の糞尿を肥料にするリサイクルなどからして
糞尿を買い取ったりするシステムもすでにあったんじゃないかな?
0701人間七七四年
2011/06/13(月) 22:00:41.31ID:dxE4jF/u0702人間七七四年
2011/06/13(月) 22:25:44.56ID:WbP75V5n当時の輸入品がそんなに高くないだと?
アホにも程がある。
0703人間七七四年
2011/06/13(月) 22:31:43.32ID:WbP75V5nしかし火薬を大々的に取り合ったという話は聞かない。
0704人間七七四年
2011/06/13(月) 22:42:38.89ID:dxE4jF/u信長公が死ななかったらどうなるかってやってて、天下統一後唐入りして大陸で
戦うんだけどやはりうまくいかず、徳川家康が信長公に謀反を起こすんだけど
結局火薬の補給が途絶えて長くは戦えず鎮圧されるだろうとか言ってたぞ
でもその番組の先生役の人はとくに有名な大学教授というわけでもなさそうだった
0705人間七七四年
2011/06/13(月) 22:45:36.35ID:SBPFXEfr0707人間七七四年
2011/06/14(火) 02:11:20.09ID:ffFZ7w6V輸入品がそんなに高くないなんて言ってないよ
国産と比較しての話し
日本は天然の硝石は産出しない
国産は土硝法といって便所の土の中で化学反応で生じるものを採取するしかない
組織的に生産していたみたいだが少量だから値段も高かった
輸入品のほうが安かったと思うな
0708人間七七四年
2011/06/14(火) 02:16:41.65ID:UGQ7L3iQ超先進国の明から輸入するのはどうしたって高くなる
0709人間七七四年
2011/06/14(火) 08:43:33.62ID:NuILCs5Iふつうに国内各地で大量生産体制を構築してたと思うぞ。
じゃなきゃあんなに鉄砲が普及するわけがない
0710月孔雀
2011/06/14(火) 10:39:47.69ID:gLKEDKb9才能なくても射撃上手くなる。
それで、織田は武田に勝った。
0711人間七七四年
2011/06/14(火) 12:53:35.45ID:m2Gp6AXZしかも自分達より数が多い軍勢に攻撃したら普通負けます
鉄砲関係ありません
0712S字型金具
2011/06/15(水) 01:33:26.41ID:38P0KDil田中健夫さん等は、「日本一鑑」を「硝石輸入」の根拠として取り上げている。>>667 >>669
その記述は「硝:土産所無、近則竊市於中国、遠則興販於暹羅」『硝石:土産なきところ、近くは則ち竊(ひそか)に中国に市し、遠くは暹羅シャム(いまのタイ)と興販す』である。
しかし、「日本一鑑」の此処だけを見れば問題は少ないのだが、次の記述が問題でその中身については怪しいところがある。>>445
「手銃:初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也、次則棒津平戸豊後和泉等処通作之、其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此」
『手銃:はじめ仏郎機(ポルトガル)に出ず。国の商人はじめて種子島の夷に教え作るところなり。つぎは則ち棒津(薩摩)・平戸・豊後(府内)・和泉(堺)等の処、通じて之を作る
国産の鉄は脆くて鉄砲の材料にはならないので、日本は主にシャム(いまのタイ)の鉄を輸入し、また中国の福建の鉄をもひそかに買入れて鉄砲をつくっている。』
「日本一鑑」について、他にも怪しいところが多くあり、その書かれた目的・成立を精査する必要がある。
田中健夫さんは、『「日本一鑑」は鄭舜功が、嘉靖三十四年(一五五五、弘治元)から同三十六年まで、三年間豊後大友氏のところに滞在した日本生活の経験をもとに嘉靖四十四年に書いたものである。』として、倭寇論を展開されているが、
来日と滞在の時期は、1556年(弘治2年)7月から同年12月までの6ヶ月間の短期間で、彼の得た日本に関する情報は豊後の海蔵寺の僧から得たものが多かったと思われる。そのため、矛盾・疑問のある記述の書物になったものと思われる。
そもそも倭寇禁圧のための明国の使いである鄭舜功が、「日本の倭寇についての記載が少ない日本一鑑」を書いた目的や成立時期を知った上で、硝・手銃について判断しなければならない。
手銃について「近ごろ手銃有り。佛郎機中より師出す。國今之れ有り。名を鳥嘴と易う」などと書いてある箇所もある。
0713S字型金具
2011/06/22(水) 00:20:29.86ID:6XgJyGLC「日本一鑑」は「桴海圖經」三巻、「阝絶島新編」四巻、「窮河話海」九巻の三部からなる大著で、書かれた時代背景を神戸輝夫さんが記述しています。
『(前略)鄭舜功が日本に赴き,倭冠禁圧を訴える考えを最初に上奏したのは嘉靖二年発未(1523)年であった。しかし,これはすぐには取り上げられなかった。
その後嘉靖年間の倭冠の猖獗にともない,明朝は倭冠対策に迫られ,倭冠禁圧を諭す使者を直接日本に派遣する政策を取るようになる。
嘉靖三四年乙卯(1555)年,鄭舜功は再び倭冠禁圧の使者となることを願いでて皇帝の裁可を得,浙江総督楊宜によって「大明國客」の名をもって日本に派遣された。
鄭舜功の日本豊後への到着は嘉靖三五年仲夏(1556年5月)であり,以来六カ月に亙って豊後臼杵・府内に滞在し大友義鎮(宗麟)から倭冠禁圧の約束を取り付けている。一方,部下の従事官沈孟綱,胡福寧を京都に派遣し,後奈良天皇とその重臣にも接触させた。
鄭舜功は豊後滞在の間,積極的に日本に関する資料と情報を収集し,また沈孟綱らに対しても各種の絵地図などを収集させた。それらは「日本一鑑」を著述するための貴重な資料となった。
鄭舜功の帰国は嘉靖三五年末に豊後府内出帆,翌三六年(1557)一月に広東帰着であった。鄭舜功はその帰国に際して大友義鎮から明国へ派遣された二人の僧を伴っていた。即ち正使の府内同慈寺華岳院主・佐伯龍護寺住僧清授と副使の野津院到明寺僧清超である。
帰国後の鄭舜功らの運命は苛酷なものであった。
鄭舜功を派遣した総督楊宜は既に失脚しており,時の浙江総督胡宗憲は鄭舜功の功績を認めず,逆に彼を迫害して投獄した。鄭舜功の投獄期間は七年に及びその間に清授・清超らは四川に流謫され,遅れて帰国した沈孟綱・胡福寧らは広東海上で殺害された。
鄭舜功は獄から解放された後の余生を「日本一鑑」の完成のために捧げた。鄭舜功の没年は明確ではないが,嘉靖三六年(1557)の帰国とその後の状況を勘案すると,「日本一鑑」の完成の時期は隆慶年間(1567年〜1572年)から万暦年間の初めの頃(万暦元年1573年)にあると思われる。
言わば「日本一鑑」は,鄭舜功の畢生の大作である。
(中略)
鄭舜功の豊後滞在は僅か六カ月に過ぎない。二人の従事沈孟綱,胡福寧の協力も大きかったにせよ,この短期間に見聞した厖大な情報を纏め得るには,豊後の寺僧ら知識人の協力があったものと推測されるが,残念ながら彼らの氏名は分からない。
「日本一鑑」は,まさに明代の日本研究の専門書の「白眉」である。それは著者鄭舜功が日本の土を踏んだことによる成果であろう。彼の果たした任務の大きさに比べて,帰国後の生涯は極めて不遇であった。(後略)』
0714人間七七四年
2011/06/26(日) 16:20:22.37ID:HNx6se+n0715人間七七四年
2011/06/26(日) 16:25:12.25ID:qNr6RuD+だから、S字よ。
S字は戦国時代にどこから硝石を調達したと考えてるんだ?
自説を論じてみろ
0716人間七七四年
2011/06/26(日) 20:25:44.98ID:EJNTgXOhカキン!ってはね返されたよ。
え?なに?通報?上等だボケ!
0718人間七七四年
2011/06/27(月) 19:58:25.12ID:JwUHPDOX0719人間七七四年
2011/06/27(月) 21:21:13.05ID:BIL38ntG0720S字型金具
2011/06/29(水) 00:44:01.39ID:B3FDx893翌年、浙江総督の胡宗憲(〜1565)はこれらを基にして「籌海図編」(嘉靖41年・1562)を編纂し、「籌海図編」は嘉靖年間に初刻出版された後も再販され続けてきたので広く知られており、中国の日本認識の原点となっている。
しかし、小葉田淳さんはこれらや、鄭曉(〜1566)の「吾学編」(嘉靖43年・1564)について、
『日本図纂・籌海図編の記事には、日本につき清新有用の文字尠からざるも、猶前代の諸書の記録を任意に剪裁縫合して其間誤謬が僅少でない。(中略)一々学説の煩に揕へぬ。吾学編の妄誤は寧ろそれ以上である』と断定している。
そして、これらの書物が架空の事を記載し、誤診を犯した理由は、『嘉靖の大倭寇を被って、倭寇の真相・防備などを述べて日本の国情に及んだ。そのため我が国情に関し潤色的なものが自然的にも或いは意識的にも濃厚である』としている。
浙江総督胡宗憲(〜1565)の死後、鄭舜功は出獄して「籌海図編」と対抗するように、そしてその内容を批判しながら「日本一鑑」(1567〜1573)を著したが、「日本一鑑」は写本で伝えられたために日本語の研究以外は良く知られていない。
その後、鄭舜功は日本に行っていない鄭若曽(〜1570)から「籌海図編」を改訂するための「日本一鑑」の借用の申し出があったがこれを断っており、ケ鍾は1592年に「籌海図編」を編集しなおした「籌海重編」を出版している。
「籌海図編」の巻十三「兵器」は、「紀効新書」巻之十八「治水兵篇」をより詳しく書いているが、「紀効新書」巻之十五の「鳥銃」については間引きの記述であり、なぜか「神器譜」>>573 の図もある。
「日本一鑑」に「國今之れ有り。名を鳥嘴と易う」と書かれている「鳥嘴銃」について、「籌海図編」にはその鳥嘴銃の図が出ているが、「紀効新書」「籌海図編」共に鳥銃と鳥嘴銃について混乱・矛盾した記述となっており、後の改編・改定が入っているようである。
「紀効新書」では鳥銃と鳥嘴銃はトリガーなどが異なって書かれているので同一形式の銃とは思えず、装備も「鳥嘴銃○○把」「鳥銃火藥○○斤」となっているが、「鳥銃○○把」は出てこない。
硝石を使う火薬は鳥銃薬だけが秘法として詳細に書かれており、鳥銃薬の合薬技術の伝播は難しかったものと思われる。そのため、「紀効新書」を読んでみても、明軍の戚継光らは鳥銃または鳥嘴銃を倭寇に対して実際に使ったようには見えない所がある。
鄭舜功は倭寇対策のために日本に来る前、明軍に鳥銃または鳥嘴銃が有り、それを知っていれば「日本一鑑」に「手銃」とは書けなく、解説文も違うものになるだろう。また、「硝」の用途や「火薬」も記載する必要が出てくる。
0721人間七七四年
2011/06/29(水) 03:28:45.24ID:N31pvr5e0722S字型金具
2011/07/06(水) 02:18:51.54ID:rXC8I/BC室町時代の日本では「連句連歌」などの文芸が盛んとなり、その創作活動には共通認識の基になる知識が必要であった。五山衆は和漢の古典に長じており、文安元年(1444年)に京都五山建仁寺霊洞院の東麓軒の僧により「下学集」という辞書が編纂された。
この「下学集」の注釈は和漢の古典を拠り所として成り立っており、公家衆や博士家等の学問所の人々、連歌師らにとって受け入れられ、器財門(道具の項)には『作詞に必要な品物』が書かれている。
その後、元和三年(1617年)には刊本となり、以後増補、続刊、重刊され続け、百科辞典の体裁になってきた。
鄭舜功は「日本一鑑」の「窮河話海2巻」の「器用」(役に立つ大切な器物)欄に、『手銃』と『硝』について注釈を付けて書いている。
「日本一鑑」は「桴海圖經」「阝絶島新編」「窮河話海」の3部作で、「窮河話海」は9巻より成り、1〜4巻は物の名の解説(収録語は2530語、器用については536語)、5巻は日本語単語、6〜9巻は日明勘合貿易など日本に関しての情報が書いてある。
「日本一鑑」の「器用」は「下学集」の「器財門」から成り立っており、536語の内432語が共通で、104語が異なるが「下学集」が重要な位置を占める。
鄭舜功は「器用」欄を書くに当たり冒頭で、「器用附言土産」(器用の注釈)について『日本の用器が良くわからない時は項目の下に註を附けず、その他知らない事は訳さないことにした』と書いている。
「彼六月諮其風俗詢其他位得聞其説得覧其書」とあるように、「日本一鑑」は鄭舜功が言葉のよく通じない豊後の大友義鎮の所で6ヶ月の間に日本の国情の調査、資料収集を行った結果を記述したものであるので、当然、間違い・思い違いの記事もある。
器用の注釈は半数程に付けてあり、注釈には産地記載に注意がはらわれており、日本国での産地の記載内容などやその内容から見ても情報源は豊後大友家の僧侶からが主と思え、商人や武士など人からは少ないように思える。
「下学集」に殆ど収録語の無い武器・武具については注釈数が少なく、鄭舜功個人での知見と思われるが、ただ、『手銃』と『硝』については他の収録語とは異なる産地「暹羅(シャム)」や「福建」が書いてあり、中国へ帰ってからの知見ではなかろうか。
「窮河話海」の重複、矛盾など錯綜する記述はやむを得ないが、「鳥嘴銃」という単語は日本では使われておらず中国だけで使われており、『近ごろ手銃有り。佛郎機中より師出す。國今之れ有り。名を鳥嘴と易う』は窮河話海3巻の「漁猟」の欄にあるのは面白い。
0723S字型金具
2011/07/12(火) 21:02:39.66ID:KnD58GbP硝石輸入の根拠として、インドに来た日本人(アンジロー)から聞き取ったインド総督宛ての報告書の『シナからは硝石や多量の生糸を持ってきます』を取り上げている物がある。
しかし、この報告書には続きがあり、『また同様に陶磁器、水銀及び麝香の固まりをも持って来ます』と続き、『また水銀若干量と硫黄がたくさんあります』とも報告している。 >>614 >>615
この報告書はポルトガルが日本進出にあたり、1548年にインド総督が知りたいことについて、ゴアの聖パウロ学院長ニコラオ宣教師がポルトガル語を習得した日本人のアンジローから直接聞き取った情報である。
この報告書には『彼らは、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています』など、日本の大名クラスの武器・防具・馬などについても書いてある。
アンジローは1546年秋(天文15年)ポルトガル人であるアルヴァロ・ヴァス等の手引きで日本を脱出し、1549年にフランシスコ・ザビエルを案内して薩摩の守護大名の島津氏に謁見している。
となると、島津氏など九州地域の大名は1546年よりも前からエスピンガルダ(小銃)を所持し、日本の戦闘にはそれが使われてきた事になる。
当時日本と東南アジア・中国大陸との交通・通信手段は季節風に影響される帆船で行われ、日本への来航は春・秋の2回、日本からの出航は夏の年1回である。
1543年(天文12年)にポルトガル人が種子島へ鉄砲を2挺売ったとする「鉄炮記」との差が3年以内となり、このエスピンガルダ(小銃)は「鉄炮記」のポルトガル銃(?)とは異なる銃となる。>>356
また、この報告書は1546年より前の日本(九州地域?)の硝石の輸入記録でもある。
鉄砲火薬には硝石が必要不可欠であり、この硝石が鉄砲火薬用の輸入品だとするならば硝石の発注・納品には少なくとも1年間が必要となるので、この点でも「鉄炮記」と齟齬が生じる。
しかし、当時、鉄砲火薬に関して「硝石は結晶の形から純度は不明」であり「炭素成分も合薬にはキーポイント」となるので、ポルトガル人等が、貿易船に鉄砲や鉄砲火薬その物を船積して商売に来航する方が合理的で、鉄砲火薬用として硝石単独の船積は疑問である。
また、インド総督が「その他の火器」「火薬」についてニコラオ宣教師に照会していない事も不自然である。
ポルトガル語では、「しょうせき(硝石・消石)」と「えんしょう(焔硝・塩硝)」は同義語として取り扱われるのでこの報告書では区別が着かないが、日本では医薬用は「しょうせき」、火薬用は「えんしょう」の名で取り扱われ、幕末期まで決して混同はされていない。
したがって、「しょうせき」が輸入であるか否かでは無く、「えんしょう」が輸入であるか否かを論じなければならない。
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