日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるG

鉄砲が伝来したとする根拠にその「伝来銃」を示せば納得もできるが、詳細に調べてみると非常に心もとない結果となっている。
国立歴史民族博物館が『鉄炮記』を根拠にした通説、「天文十二年(一五四三)の八月、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられ、日本中に広まった」とする通説に矛盾を感じ、倭寇による伝来説を主張している。
ポルトガル人によるヨーロッパ銃の伝来説は、確たる証拠(鉄炮記以外の文献)・現品(ヨーロッパ由来火縄銃)も無く、ただ「願望論」から成り立っている。ただし、倭銃には何時ごろとは特定できないが、ヨーロッパ銃の影響があったことは否めない。
しかし、「倭寇による伝来説」の東南アジア製銃についても、残存する火縄銃は国内外とも極めて少なく、今のところ東南アジアに古い銃は残存していない。
日本最古の火縄銃とされている『喜蔵とりつき銃』でも天正11年(1583年)ということで、鉄砲伝来とされた40年後の火縄銃である。
戦国期末(慶長年間で鉄砲伝来とされた60年後?)までに、東南アジア各国への、贈与の要求、日本から贈答・輸出・持ち出しを認める明確な文献があるので、残存銃にはこれらの交雑の影響があると思える。
徳川美術館所蔵鉄砲は非実戦銃のように思われ、国内には出土銃部品、中国や韓国には文禄・慶長の役の際の遺品など実戦を推定できるものがある。
残存銃の絶対数が少ないのに、制作年代の推定に火皿と照門の相対位置が挙げられているが、例外の銃もあり、本当に銃の年代推定ができるのであろうか?

国立歴史民族博物館の「歴史のなかの鉄炮伝来」P33で、
『「武蔵八王子城跡から発掘された各種の玉と鋳型」 武蔵にある後北条氏の支城八王子城は一五九〇(天正一八)年に秀吉に攻められて落城した。同城跡から出土した鉄製。青銅製の玉、玉の鋳型の類である。土玉とおぼしきものもある。
秘伝書は土玉の作り方を説明しているが、八王子城のそれが鉄炮の玉かどうかは今後の検討を要する。』
と書いてあるが、検討結果はどうなったのであろうか?
各地から土玉の出土例もあり、この城跡から鉛製の銃弾はたった3個しか出土していなく、土玉・素焼玉が鉄炮の玉であれば、「鉄砲の定義」そのものが疑われる。 >>600
新城市宗堅寺の「信玄砲」は説明の付かない(誰も解説していない)銃身で、土玉・素焼玉でも発射したものか? >>514