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▼火縄銃について語ろう▲

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDM
実際にはどのくらいの威力があったのか?
どのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0488人間七七四年2010/10/07(木) 12:13:33ID:BkCzsT3S
日本では組で扱う兵器は好まれないからな
0489人間七七四年2010/10/07(木) 13:01:38ID:dwOw7UoZ
一発一発に
大量の火薬を使うからってだけかと。

大砲一門で一発撃つあたり
火縄銃100発分以上



0490人間七七四年2010/10/07(木) 18:35:57ID:fTBhdny6
 攻城戦にはそれなりに有効だったとは思うんだけど。戦国時代は数キロあるけば
城にあたるって位、出城・砦だらけ。壁崩すとかには有効だったろう。火薬について
もそれなりに大量になければ100年位で火器装備率があがる訳がない。やっぱり文化
的要因があったのかな。
0491人間七七四年2010/10/07(木) 18:56:52ID:hFa+1whA
柵と土塁のビンボ臭い城と砦ばっかです・・・
0492人間七七四年2010/10/07(木) 19:00:49ID:9471OaSW
攻城戦で壁崩すのに有効といっても、戦国時代の城は壁なんかないのも多いし、
山城なんかだとそこまで近づけるかどうか、届くかどうかも微妙。
そんな役に立つかどうかわからないものを必死こいて野を越え山越え運ぶくらいなら、
鉄砲をたくさんそろえたほうがよっぽど効果的だろう。
大砲の使用は、近代的な平城・平山城への攻撃や、平地での運用、篭城戦に限られたと思う。
0493人間七七四年2010/10/08(金) 04:29:16ID:cBwapAsw
戦国時代、大砲を楽に通せるような道が整備されてなかったのも大きいね。
そんなこと考えて日本の道は作られてないから。
0494人間七七四年2010/10/08(金) 04:35:17ID:cBwapAsw
臼砲は役に立ったかなと思う。
短砲身の攻城砲で、壁越しに高い放物線を描いて射撃できる。
ただ17世紀後半にならないと榴弾を発射できるには至らない。
0495人間七七四年2010/10/08(金) 10:14:25ID:0XwusplB
朝鮮の「飛撃震天雷」みたいな弾丸を開発すれば良かったんだよ
0496人間七七四年2010/10/08(金) 11:19:58ID:TGyd0ZCh
ヨーロッパや中国みたいに石の城壁があるわけじゃないんだから
大砲の必要性は薄い
0497人間七七四年2010/10/08(金) 12:14:53ID:lo4LKbra
 防御砲としても一定の効果はあったと思うんだけどね。17世紀のヨーロッパ
の城塞なんかはハリネズミの様に砲台があっちこっちにある。日本の場合はすぐ
天下太平の徳川時代に入ったから同列には論じられないが、大阪城や江戸城とか
にも砲台の概念は殆ど無いよね。
0498S字型金具2010/10/08(金) 22:29:26ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」C

現在の著作物は著作権法により守られている。この大友氏の『豊筑乱記(九艘唐船之事)』と種子嶋氏の『南浦文集(鉄炮記)』の酷似は、その内容が「日本の銃砲史」や「教科書の記述」に関わることから、著作権の侵害だけでは済まされない。
どちらかが(または両者が)『パクッた』のは間違いないので、ここに両者の読み下し文を記述順に列記してみた。
【大】は垣本言雄校訂「大分県郷土史料集成 戦記篇 豊筑乱記」より。《種》は洞富雄さんの「南浦文集の新仮名遣い読み下し文」である。

【大】『九艘唐船之事』 厥後、享禄三庚寅年夏の頃、南蛮国より大船九艘、豊後臼杵に着岸しけり。
《種》『鉄炮記』 隅州の南に一嶋あり、州を去ること一十八里、名づけて種子と日う。我が祖世々これに居る。古来相伝う、嶋を種子と名づくるは、この嶋小なりと雖どもその居民もろもろありてかつ富めり、
譬えば、種を播くにこれ一種子を下せば、しかも生々窮まりなきが如し、この故にこれに名づくと。これより先、天文癸卯(十二年)八月二十五丁酉、わが西村の小浦に一の大船あり、

【大】商売のため渡海したる船なれば、絹布・薬種・其外美妙の重宝、其数あげて斗り尽し難く、諸国に其隠れなければ、国々の商入金銀を持参して、幾千人と云ふ数を知らず相集る。
《種》何れの国より来るを知らず。船客百余人、

【大】然共、此船に乗来る商人は云ふに不及、船頭其外以下の船手の者共、何れも言語に通じがたきにより,何れの国より渡海したるといふ事をしらず。文字も日本の筆法に相応ぜざれば、筆談もなり難し。
《種》その形類せず、その語通ぜず、見る者もって奇怪となす。

【大】され共、大明国より儒学の仁を其船に雇ひ、乗来ると見へしかば、禅僧に保首座といふ出家、書翰を認め、船中に遣しければ、三官と云ふ儒学の大明人披見して、夫より保首座に初参会所したり。
《種》その中に大明の儒生一人、五峯と名づくる者あり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞という者あり、すこぶる文字を解す。たまたま五峯に遇いて杖をもって沙上に書して曰く、船中の客、いずれの国の人なるを知らざるなり、何ぞその形の異なるやと。

【大】三官筆誌に我は大明国の者なれ共、言語通達の為に、彼商人宿はじむるにより、此船に乗来り、商売の客は云ふに不及、船頭・楫取・以下の船方共皆南蛮の者共也。
《種》五峯すなわち書していわく、これはこれ西南蛮種の賣胡なり
0499S字型金具2010/10/08(金) 22:30:52ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」D

【大】依之、某南蛮の作法為業を偏に知らず。然共、船中の者共のていたらくを見るに、君臣の分は有りけれ共、一円に礼儀不法の国と見へて、君臣の分ちは礼儀正しからず。
《種》ほぼ君臣の義を知ると雖ども、いまだ礼貌のその中に在るを知らず、

【大】朝夕の食事をも、大勢一器に入て箸を用意せずして手づから握み食して、
《種》この故に、その飲むや杯飲して杯せず、その食するや手食して箸せず、

【大】我や人やと云ふ。貴賎を撰ぶる事なしと答書する。
《種》徒に嗜欲のその情に愜うを知りて、文字のその理を通ずることを知らざるなり、いわゆる賣胡一処に到れば輙ち止まるという、これその種なり、その有るところをもって、その無きところに易うるのみ、怪むべき者にあらずと。
これにおいて、織部丞また書して曰く、ここを去る十又三里に一津あり、津を赤尾木と名づく、わが由って頼むところの宗子、世々居る所の地なり、津の口に数千戸あり、戸富み家昌えて、南商北買、往還織るがごとし、いま船をここに繋ぐと雖ども、要津の深くして、
かつ漣ざるのまされるにしかざるなりと。これをわが祖父恵時と老父時尭とに告ぐ。時尭すなわち扁艇数十をして、これを拏かせ、二十七日己亥に至りて船を赤尾木の津に入らしむ。期の時に丁って、津に忠首座という者あり、日州龍源の徒なり、法華一乗の妙を聞かんと欲して、
津の口に寓止して、ついに禅を改めて法華の徒となる、号して住乗院という、ほとんど経書に通じて、筆を揮うこと敏捷なり。たまたま五峯に遇いて文字をもって言語を通ず、五峯もまたおもえらく知己の異邦にありと、いわゆる同声相応じ、同気相求むる者なり。

【大】当国の大守大友義鎮公は、府内に在住し給ひ、異国人よりの進物として、種々の重宝美妙の数を尽し捧げ進上する。其中に兵具を三(二)つ指上る。
《種》買胡の長二人あり、一を牟良叔舎といい、一を喜利志多佗孟太という。

【大】誰がとなへ始めしとは知れざれ共、鉄炮と云ひ始めしとて、其長さ二三尺も有りたると也。
《種》手に一物を携う、長きこと二三尺、

【大】中に竹の筒の如くの穴あり。外は直にして其底は厳敷く塞ぎ堅めて、手元の傍に小き穴あり。火の通ずる道あり。
《種》その体たるや、中通じ外直にして、重きをもって質となす、その中は常に通ずと雖ども、その底は密塞を要とす、その傍に一穴あり、火を通ずるの路なり、
0500S字型金具2010/10/08(金) 22:32:52ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」E

【大】たとへて云ふべき様もなく、妙薬を其筒に少し込みて、円き小玉を後に入て、
《種》形象物の比倫すべきなし。その用たるや、妙薬をその中に入れて、添うるに小団鉛をもってす。

【大】四方の細き的の中に、墨にて星を顕はし、射垜に立置き、自彼鉄炮を手に持ち、火縄に火を付け取添て、其身を直治にして、其仁片目をすがめ、手前の小穴より火を放つ。時に立所に星にあたらすと云ふ事なし。
《種》まず一小白を岸畔に置き、みずから一物を手にして、その身を修め、目を眇にして、その一穴より火を放つときは、すなわちたちどころに中らざるなし。

【大】其発時の甚しき事は、さながら稲妻の光りの如く、騒ぐ事は雷電霹靂の如く山に響き、大地も動く如く覚へたり。見物の貴賎耳に手を覆ひ、岩石も只今崩るゝ如くなり。
《種》その発するや製電の光のごとく、その鳴るや警雷の轟くがごとく、聞くものの耳を掩わざるなし。一小白を置くは、射る者の鵠を侯の中に捿くの比のごとし。この物ひとたび発して、銀山くだけつべく、鉄壁うがつべし。

【大】誠に肝魂を消す如く覚へけれ共、彼鉄炮を翫ぶ異国人は、少も騒ぎたるけしきもなし。鳥獣をも刹那が間に歿命する事眼前也。
《種》姦宄の仇を人の国になす者、これに触るればすなわちたちどころにその魄をうしなう、いはんや麋鹿の苗稼に禍する者においてをや。その世に用あるもの、勝げて数うべからず。時尭これを見てもって希世の珍となす。
はじめはその何という名なるを知らず、またその何の用たることを詳らかにせず。すでにして人なづけて鉄炮となすは、知らず明人の名づくるところか、そもそも知らずわが一嶋の者の名づくるところか。
0501S字型金具2010/10/08(金) 22:34:58ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」F

【大】希代不思議の重宝の兵具なり。
《種》一日、時尭重訳して二人の蛮種にいって曰く、
われこれを能くせんというにはあらず、願くば学ばんと。蛮種もまた重訳して答えて曰く、君もしこれを学ばんと欲せば、われもまたその蘊奥をつくしてもってこれを告げんと。時尭曰く、蘊奥聞くことをうべけんかと。
蛮種曰く、心を正うすると、目を眇にするにあるのみと。時尭曰く、心を正うするは、先聖の人に教うる所以にして、われのこれを学ぶ所以なり、おおよそ天下の理、事ここに従わざれば、動静云為、おのずから差うなきこと能わず、公のいうところの正心、
あにまた異ることあらんや、目を眇にするは、その明もって遠きをてらすに足らず、これをいかにしてか、その目を眇にするやと。蛮種答えて曰く、それ物ごとに約を守らんことを要す、約を守るは、ひろく見るをもって、いまだ至らずとなす、
目を眇にするは見ることの明らかならざるにあらず、その約を守ってもってこれを遠きに致さんことを欲するなり、君それこれを察せよと。時尭よろこんで曰く、老子のいわゆる見ること小なるを明というと、それこれの謂いかと。
この歳、重九の節、日は辛亥にあり、良辰を涓びとりて、試みに妙薬と小団鉛とをその中に入れ、一小白を百歩の外に置いて、これが火を発てば、すなわちそれほとんど庶幾からんか。時人はじめはすなわち驚き、中ごろはすなわち恐れてこれを畏ぢ、
おわりには翕然としてまたいう、願くば学ばんと。時尭その価の高くして及びがたきことをいわずして、蛮種の二鉄炮を求めて、もって家珍となす。

【大】これによりて、当国の若き侍方伝受して、もてはやしければ、其後は鳴響く音にも恐れ騒がず、何れ達者の上手と沙汰したり。
《種》その妙薬の搗篩・和合の法をば、小臣篠川小四郎をしてこれを学ばしむ。時尭朝に磨き夕に淬め、勤めてやまず、さきのほとんど庶きもの、これにおいて百発百中し、一つとして失うものなし。

【大】扨、南蛮の商人共、商売たやすく仕舞ければ、順風に帆あげて本国へ帰りけり。其後数年指過ぎ、天文二十辛亥の年 (後略)
《種》この時において、紀州根来寺に杉坊某公という者あり、千里を遠しとせずして、わが鉄炮を求めんと欲す(中略)。その後、和泉堺に橘屋又三郎という者あり、商客の徒なり、(中略)。船中にわが僕臣松下五郎三郎という者あり、手に鉄炮を携えて、(後略)。
0502人間七七四年2010/10/09(土) 01:30:16ID:sgaDBwFZ
>>487
大友家では、ソリを使った。
それでも、平地の多い場所はよかったが、阿蘇から竹田の坂道はきつかったと思う。
それで>>482にあるような>労役が大変だと不平が出たわけだ。


0503S字型金具2010/10/17(日) 03:27:59ID:wnz501Mp
大友家の「鉄炮伝来記」G

『豊筑乱記(昭和13年発行)』の異本には、歴史図書社が昭和55年に発行した『大友豊筑乱記(岡藩由学館本か?)』があります。
この異本は ttp://www1.bbiq.jp/hukobekki/teppou/teppou.html でも紹介されていますが脱落や誤記が多々あり、管理人さんも解説に苦労されています。
たとえば、本文の「九艘唐船」の単語抜け、永禄と享禄、三寉と三官、義鑑と義鎮など、重大な書き写し間違いがあります。
『豊筑乱記』は大友家初代より天正15年(1587年)の22代大友義統までの当主順に書かれていますが、鉄砲伝来のような事項については年代が交雑しているため、思い込みによる書き写しミスが発生したと思われます。
『豊筑乱記(九艘唐船之事)』は、第21代大友義鎮(宗麟)の顕彰を目的として書かれており、南蛮より大友家への鉄砲伝来事項(伝来年月未記載)と石火矢・国崩伝来事項(天文20年)により成り立っている。
文頭の享禄三庚寅年(1530年)は大友義鎮(宗麟)の生年で、死没は天正15年(1587年)である。
種子嶋氏の『南浦文集(鉄炮記)』の成立は慶長11年(1606年)であるので、『九艘唐船之事』が『鉄炮記』を『パクッた』のであれば、それ以降に書かれた物となる。

『国友鉄砲記』は寛永10年(1633年)に国友の鉄砲代官4名の連署で国友の鉄砲由来を書いたものであるが、作為的な所や矛盾点もあり、成立年代もおかしい。
その本文には、『然此兵器之用法。倭人雖有流伝之願。思不叶所。初文亀元年・永正七年。従南蛮国相続渡是共。委不伝妙法。故其用知者希也。』と気になることが書いてあるが、『鉄炮記』の伝来を天文8年(1539年)として、その文に尾ひれを付けて由来を書いている。
国友の鉄砲代官らは、当時、『鉄炮記』が有名であったために、『九艘唐船之事』・『鉄炮記』どちらを採用しても由来書には影響を与えず、矛盾点を判っていながら、あえて『鉄炮記』を付け加える必然性があったのではなかろうか?
国友の鉄砲代官から見れば、『鉄炮記』の方が種子島時尭の顕彰のために圧倒的に記述が詳細で本当らしく書いてあるので『鉄炮記』を『パクッた』が、なぜか『尾栓ネジ』につては記述が違い気になる所である。

大友家からすれば鉄砲伝来については重大事項では無く、国崩しの命名の方に関心がある。
大友家は長く続き(江戸時代は高家旗本)、大友家の記録事項は数多く残っているので『鉄炮記』を『パクる』必要性は少ないと思われる。
『豊筑乱記(昭和13年発行)』の底本が不明なので、他の記録事項との突合せも必要であるが・・・。
0504S字型金具2010/10/27(水) 01:11:42ID:WUWjhNpm
大友家の「鉄炮伝来記」H

『豊筑乱記(九艘唐船之事)』または『この地域に流布していた鉄砲伝来の伝承』が『南浦文集(鉄炮記)』に『パクられた』可能性は高い。
両記録で問題となる個所は
@享禄三庚寅年夏の頃・豊後臼杵に着岸 → 天文癸卯八月二十五丁酉・わが西村の小浦に一の大船あり
A三官(儒学の大明人) → 五峯(大明の儒生)
B保首座(禅僧の出家) → 忠首座(禅を改めて法華の徒となる、号して住乗院という)
C異国人 → 買胡の長二人あり、一を牟良叔舎といい、一を喜利志多佗孟太という
D其底は厳敷く塞ぎ堅めて → その底は密塞を要とす
であり、『鉄炮記』より「織部丞」・「時尭」・「蛮種」等の『曰く』個所を削除してみると両記述内容は非常によく似ているので、『パクッた』後に『曰くの個所を付け加えた』と思われても止むを得ない。

『鉄炮記』が「三官」を「五峯」と書かなかったら、国立歴史民俗博物館の「鉄砲伝来倭寇説」は根底から崩れ去り、『抗倭図巻』の疑問も解消する。 >>425 >>441
『鉄炮記』が「保首座」を「忠首座(住乗院)」と書かなかったら、井沢元彦さんの「織田信長の本能寺煙硝ルート」は無い。 >>451
『九艘唐船之事』の異国人は、「ポルトガル人」の可能性が高いが、「南蛮国からの鉄砲伝来年月」の特定ができない。
Dは鉄砲の尾栓ねじが絶対必要条件でないことを記している。 >>458

「世界銃砲史(上)」で岩堂憲人さんは、P128で次のように書いている。
『日本側にはこれ以上の史料は見当らないし,また事件後60年余といえば,さして長期でもない。
当時としても鉄砲の伝来というのは大事件だったろうから、文之が鉄砲記を編纂するに当っては、「種子島家譜」以外にも、今日では散逸している確実な史料を駆使したことが考えられる。
それゆえに、「鉄砲記」を日本側のもっとも確とした史料として扱うのに不都合はないものとしてよいだろう。』

しかし、『鉄炮記』の『即遣津田監物丞持以贈其一於杉坊矣』の記述は明らかにおかしい。
『鉄炮記』の『この時において、紀州根来寺に杉坊某公という者あり、千里を遠しとせずして、わが鉄炮を求めんと欲す(中略)。その後、和泉堺に橘屋又三郎という者あり、商客の徒なり、(中略)。船中にわが僕臣松下五郎三郎という者あり、手に鉄炮を携えて、(後略)。』
これらも『パクッた』記述ではなかろうか。

私は、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする考え方なので、日本の銃砲史・技術史をいい加減な物にしたくない。
0505人間七七四年2010/10/28(木) 02:17:38ID:iV0wB1K+
レス番号が盛大に飛ぶなあw
まだ繰り返してんのかキチガイ
0506人間七七四年2010/10/30(土) 23:25:48ID:qIp+U5pi
もうこのスレこいつにやって新スレ立てた方がよくね?
0507人間七七四年2010/11/03(水) 00:45:33ID:/MYolesd
火縄銃だけのスレにする?
それとも大砲スレも落ちちゃったし、大砲や焙烙玉、棒火矢なども含めた火器総合スレにする?
0508人間七七四年2010/11/03(水) 14:52:18ID:ApeJkgSy
当時は火器の区分も曖昧みたいだし
全部一緒でいいべ
0509S字型金具2010/11/10(水) 00:48:42ID:KojOOsib
徳永家の「鉄炮伝来記」@

徳永氏は、種子島家初代信基の種子島入部に同行して以来の家臣としている。
その徳永氏の家系図、「徳永祐家」の欄に鉄砲伝来の記述がある。『』内はその読み下し文である。

祐家、大八。大永元年辛巳生母氏不詳。為側用人。天文十二年癸卯八月二十六日。南蛮船来于西之村海浜。適祐家展祖先廟在于西之村。
『祐家、大八。大永元年辛巳生まれ。母、氏不詳。側用人と為る。天文十二年癸卯八月二十六日、南蛮船西之村海浜にゆく。たまたま祐家、祖先の廟を展みて西之村に在り。』

祐家与地頭西村織部丞及村松七郎朝光欲乗南蛮船。々中有声。其響如雷。衆驚愕。
『祐家と地頭西村織部丞及び村松七郎朝光、南蛮船に乗らんと欲す。船中より声有り。其の響は雷の如く、衆驚愕す。』

即贈書曰。何故到此地乎。欲以兵仇我乎。然則吾亦当待以兵也。報書曰。我輩通商也。欲航某国洋中遇颱遂漂着于貴地。非敢仇也。
『即ち書を贈りて曰く。何故に此の地に到るや、兵を以て我を仇せんと欲するか。然れば則ち吾亦当に兵を以て待つべき也と。書を報じて曰く、我輩は商に通う也。某国に航せんと欲し、洋中颱に遇い貴地に漂着を遂ぐ。敢えて仇するに非らざる也。』

即贈鉄砲三挺以示信。三人大喜持到城府献時尭公。公愛賞之。吾国鉄砲之権輿也。
『即ち鉄砲三挺を贈り以て信を示す。三人、大いに喜び、城府に持ち到り時尭公に献ず。公之を愛賞す。吾国鉄砲の権輿也』

「鉄炮記」は主君の種子島時尭を顕彰する目的で書かれた文書である。
「徳永氏系図」の成立時期は不明であるが、その当時の種子島氏の家臣である「徳永祐家」の欄は、明らかに「鉄炮記」と異なった鉄砲伝来記述となっており、「贈鉄砲三挺・献時尭公」となっている。
このような由緒書きが、種子島家中で黙認されていたものであろうか。
それも、家臣の西村、村松をも含めて書く必要性があったものだろうか。
そもそも「鉄炮記」に、出典として「我嘗聞之於故老曰」とか「鶴髪之翁。猶有明記之者矣」と明記して書くことは、記録が無い(検証ができない)ことを意味しているのではなかろうか。
この家系図の記載から南蛮船にはポルトガル人の乗船が確認できず、また、国立歴史民俗博物館の「鉄砲伝来倭寇説」の根拠となる「五峰」の記載も無い。
0510人間七七四年2010/11/10(水) 04:51:03ID:fqO7/fWX
>>508
立てたよ〜

☆☆☆火縄銃・大砲について語ろう☆☆☆
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1289332220/
0511S字型金具2010/11/18(木) 21:37:14ID:iZ/VFald
徳永家の「鉄炮伝来記」A

南蛮船から鉄砲三挺を貰った、あと二人の家系図を見ると、

村松七郎朝光の系図は
『村松家系図』朝光
天文十二年癸卯八月二十五日南蛮船之至也、朝光適在西之村、乃就誥其来到之由、蛮人以非敢為冦者、答且請献鳥銃、朝光喜急馳使報之島主時尭公、公受而試之、其用甚利、於是大賞朝光処分称♂]、
『村松家文書』治承前家改俗相伝記
(前略)七郎朝光、文禄四年卒ス、法名太源院良遠ト号、此七郎ハ文武二道ニ達、知謀有ル人、時ニ天文十二年癸卯八月廿五日南蛮人ノ船西ノ村之濱来著ス、其時七郎西ノ村ニ有合南蛮人ニ逢度ト思イ、彼ノ船ニ趣キシ処ニ、鉄炮ヲ打懸ケ其音雷ノ如ク、
七郎大キニ驚一通書南蛮人ニ被遣、其ノ文ニ曰其方風不順吹流此地ニ漂著有哉ト、存処武具ヲ用兵船ト相見エ謀叛人之於輩ニ者、是非此方モ軍勢ヲ催集一戦ヲ可致返答如何、承度候謹言、
南蛮人エ城ノ七郎朝光ト書送リ、南蛮人返答ニ曰、我等謀叛人不有(アラス)、商売之望売物積風天ニ有テ出帆ス、天俄ニ逆風吹来遠海長洋中流不順甚成テ当地漂著喜悦候、無謀叛之証拠、
鉄炮ヲ国主エ奉謹上降人ニ参候ト返事仕テ、鉄炮ノカラクリヲ馳テ持来リ、七郎ハ大キニ?ヒ急キ城下ニ致通達、諸士頭衆被差越、鉄炮御受納有テ御家御宝物ト成、角テ種子嶋鍛治鉄炮作事伝受仕テ、日本之鉄炮ノ初リ者種子嶋ト云伝エ珎敷事共也、(中略)
慶長三年戌四月五日  平 時信花押

地頭西村織部丞の系図は
時貫、織部丞。
○天文十二年癸卯三月廿三日奉従直時君内城有軍功
○同八月日廿三日西村浦着岸一大船、船客其形而異言不通、見者怪之、時貫以杖書沙上云、不知何国人乎、客即書云、是西南蛮種之賈胡也、勿怪矣、時貫速遣人告恵時君(御居城赤尾木西村行程十三里)
乃僉津々浦々遣扁舟拏之、入赤尾木津而滞在於此逾月、是船客之内有手携一物者、名鉄砲、時尭君其体無比物問其用道、客答云、用於世者可勝、故○公?学之、我亦声薀奥以告焉、時尭君欣然聞其薀奥矣、時貫亦放之、是我朝鉄砲之権輿攷、

『種子島家譜』の明治11年(1878)2月15日の記事に、
○西村時彦、鉄胞一挺を献ず、初め天文十二年、南蛮人鳥銃を法性公に献ずる也、時彦の遠祖西村織部正(丞)も亦一挺を獲たり、去歳の戦いに公室の蔵する所は兵火のために焼かれる。時彦之を聞き、乃ち己が家に蔵する所を献ず。

三人とも、主君の種子島時尭を顕彰する目的で書かれた「鉄炮記」と内容が異なる。
このような由緒書きが、種子島家中で黙認されていたものであろうか。
また、種子島家中では鉄砲を『種子島』ではなく、『鳥銃』と呼んでいた。
0512人間七七四年2010/11/25(木) 15:19:31ID:jW4xaQYN
新スレ落ちたな・・・
0513人間七七四年2010/11/25(木) 17:52:21ID:h67I64k2
意外と簡単に落ちるもんなんだな
保守しておけばよかった
0514S字型金具2010/11/26(金) 00:38:03ID:9MATwgcj
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考える@

日本に火縄銃が伝来したとすると、『その銃が何処で製作されたものか』が気になる。
初伝銃の製作地については、ヨーロッパ・ポルトガル・インド・ゴア・東南アジア・マラッカなど色々と言われて来た。
近年紹介されたマラッカ説でも、その内容は以下の記述のように甚だ曖昧で根拠に乏しい。
『ここにおいて天文十二年に種子島に伝来した銃は「種子島記」ならびに定堅作の模製銃によってその形態を知ることができ、またその製作地は、ヨーロッパでもトルコでもなく、
ポルトガルのアジア基地のいずれかであって、多くの資料によって論ぜられた伝来時のいきさつから考えればマラッカがそれであるとするのが至当であろうと思われる(火縄銃・所荘吉)』
また、その後の伝来・渡来についても曖昧で、鉄砲史・技術史として不完全である。
倭寇説(真説鉄砲伝来)では「西日本一帯の広い地域に南蛮筒が続々と渡来した」としているが、その説の根拠については理解しがたい。(戦国期の火縄銃についての疑問C >>327 以下のシリーズ)
国立歴史民族博物館でも、東南アジアの何処か(特定していない)で火縄銃の進歩・発達・改良があり、そこで製作され渡来した火縄銃が南蛮筒であり、その南蛮筒を真似して日本で製作したものが異風筒としている。
したがって倭寇説では、江戸初期までは日本に南蛮筒・異風筒以外の火縄銃が存在しないことにしているが、なぜかそれ以外の多量の鉄砲の存在をも認める記述をしていて矛盾している。  >>340

今までの製作地の推定では、東南アジア地域に極少数残存している火縄銃で比較検討をしているが、その記録も無く、呼称も判らなく、年代も判らない銃、19世紀の火縄銃で論じられている。
東南アジア地域を含めて、慶長年間以前の火縄銃の残存は極めて少なく、日本最古の火縄銃とされている『喜蔵とりつき銃』でも天正11年(1583年)ということで、鉄砲伝来とされた40年後の火縄銃であり、新城市宗堅寺の『信玄砲』は説明の付かない銃身である。
現物資料が出てくる江戸初期になると、日本の火縄銃の優秀性が理解されるが、それまでの間は不明なことが多く、火縄銃の進歩・発達・改良はどうであったろうか?
戦場・城郭の発掘調査で火縄銃の部品・弾丸が出土している現実がある。この部品類をも考慮に入れて伝来論を考察しなければならないと思う。
0515S字型金具2010/12/03(金) 00:04:52ID:xQelSgTZ
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるA

江戸時代前期まで、日本が武器輸出国であったことはあまり知られていない。
私は「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」と見ているので、いずれの製作推定地説も承服しがたく、日本から輸出した火縄銃をも考慮に入れて、伝来論を考察しなければならないと思う。

江戸幕府の鎖国体制が完成したのは1641年(寛永18年)であるが、それまでに幕府は2回も武器輸出禁止令を出しており、その当時の武器装備状況などから、日本が火縄銃を含む武器輸出国であったとみなしても良いだろう。

@元和7年7月27日(1621年)『幕府、豊前小倉城主細川忠利・肥前平戸城主松浦隆信・同大村城主大村純信等に令して、外国人の、邦人を買取、渡航せしめ、又武器を購入、搬出し、更に洋中に於て、賊をなすを制止せしむ、』
A寛永11年5月29日(1634年)『幕府、薩摩鹿児島城主島津家久・肥前大村城主大村純信・同国福江邑主五島盛利等をして、耶蘇会宣教師の上陸・邦人の渡航及び外人への武器販売を禁ぜしむ、』

2回も武器輸出禁止令が出されたことは、海外に日本の武器が大量に輸出されていたことと、なぜ武器輸出を禁止するのかも理解しなければならない。
東南アジア各地や各国の東インド会社商館において傭兵として多くの日本人が海外で雇われ、「邦人買取」項目は「日本人の傭兵」をも意味し、当時の「日本人傭兵」は戦国時代も終わり、火縄銃をも持つ戦争慣れした戦闘集団である。
大坂の役(慶長19年〜慶長20年・1615年)で天下統一となってから多くの浪人が発生し、彼らが傭兵となって海外で活躍した。ピーター・ウォーレン・シンガーによると、イギリス東インド会社の例では、傭兵の半数は日本人であったとしている。

鎖国について、次のような見方もある。
『単純にキリスト教流入の阻止だけが目的ではなく、貿易の覇権を求めた闘争の禁止と日本への波及の阻止、
そして日本から海外に武器と武人が輸出されることで、海外における武力紛争に日本人が巻き込まれ、それが日本に波及することで、貿易が阻害されたりすることを恐れてのものでもあったのだ。』
 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-15.htm
0516人間七七四年2010/12/04(土) 19:51:13ID:a9JXCk93
実射実験のDVD付き
けっこう迫力あった……が、音はよく空砲でやってる時代祭のほうが
すごいような。火薬の量の違いか?

http://www.yosensha.co.jp/book/b75914.html
0517S字型金具2010/12/05(日) 00:42:31ID:qKzVk9TI
>>516
『歴史REAL vol.1、中身を少しだけご紹介!』を見た感じでは、戦国合戦を科学するといいながら、いい加減なことが書かれている。
「検証2」の三段一斉射撃の可能性の検証は、『戦国時代においては、一発目を発射したあと、次の玉込めを早めるために、火薬と弾丸を一セットにした小道具である早合が使用された。本誌でも同様の手続きで試みる。』という前提で実弾の反復射撃実験を行っている。

なぜ『戦国時代に早合が使用された』と断定して、鉛弾でのみ実験を行っている根拠が判らない。
所荘吉著・火縄銃に次の様に書かれている。
『このようにして作られた火薬も、銃腔内に充填された状態、すなわち棚杖によって圧された度合等、名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が完全に満足されたとき、始めて発射薬としての力を十二分に発揮する事ができるのである。
しかし吸湿性の塩類を含有した黒色火薬に対し、常に最高の状態を求めるのは不可能である。この事は初期の砲術家による経験によっても知られ、春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになっている。』

火縄銃用の黒色火薬に吸湿性があることは周知のとおりであり、戦国時代でも条件により配合比率を変えており、あらかじめ誰が火薬と弾を装填して早合を準備したのであろうか。
戦国時代では、早合で発射の最高の状態を維持することは困難であり、早合は江戸時代の非実戦用の物ではなかろうか。

実験は現代の黒色火薬で行っているが、当時の黒色火薬の燃えかす量はどの位であったろうか。 >>308   >>309   >>310
要するに、連発は何発まで可能であって、その結果によって三段一斉射撃の可能性を考える必要がある。江戸時代の文献では『鉄砲玉五つ六つ放せば火薬筒の中に焼け付きて玉込澁りて玉入り難し』と書いてある。

90ページの『戦国合戦・戦国の城を往く』で史跡八王子城を紹介しているが、この城は天正18年(1590年)6月23日にわずか半日で落城してしまった山城で、この城跡から鉛製の銃弾は1点も出土していない。
出土した銃弾は銅製が34点、鉄製が453点であり、素焼の土玉(私は銃弾と見た?)も検出個体として163点出土している。
このことは、戦国時代の火縄銃の弾は鉛とは限らないことを証明している。
また、この本、114ページ『鉄砲玉の原産地はタイのソントー鉱山だった』は早合点であり、鉄砲の弾丸がタイの鉱山の鉛でなくてもよいことを証明している。

本文は読んでいないが、その他、火縄の種類、火縄銃など、戦国時代の実験再現方法の前提に問題がある。
0518人間七七四年2010/12/05(日) 09:53:13ID:LiHwvEN5
これは久しぶりにいいレス
0519人間七七四年2010/12/06(月) 08:43:14ID:miT6Uh07
>本文は読んでいないが

ワロタ、つーか椅子から滑り落ちかけたぞ
0520S字型金具2010/12/06(月) 22:07:39ID:mxBABFqa
>>517 は以下の抜粋した部分が公開されているので、其処だけを指摘した。
>『歴史REAL vol.1、中身を少しだけご紹介!』 http://stand.honzuki.jp/9784862486394/_SWF_Window.html

>>516 「歴史REAL vol.1、特集、戦国合戦を科学する」は本体838円+税で、永久保存版という触れ込みである。
抜粋個所以外の本文もいい加減なことが書いてあったので、追加の指摘をする。

特別付録DVDのタイトルは「戦国鉄砲・実弾発射」となっているが、死闘を演じる戦国時代の再現とするには迫力もなくて程遠く、噛まし布(パッチ)や鉄のカルカなど時代錯誤のある実弾発射であったが、それなりに興味ある映像もあった。
発射映像では、火鋏から火の付いた火縄が外れたのは1回であったが、火鋏の形状、火縄の種類・長さにより外れる(飛ばされる)ことはよく生じるのか?
フロイスは「われわれの間では兵士たちは左腕に火縄を持ち運ぶ。日本人は右手に持ち運ぶ」「われわれの火縄は紡糸でできている。彼らのは紙または竹の皮でできている」と書いている。
戦国時代の火縄銃の再現には、紡糸でない(縄ではない?)当時の日本式の火縄で着火させ、火縄の火は消えるか、材質、長さによりどのくらい飛ぶのか、火持ちなど興味が尽きない。
火縄の状態によって、連射時間間隔に差がでると思うが?
映像より、発射時に火花が広がって出てくるのは解ったが、風が吹いている時には非常に危険な状態に陥ることも解った。
実験での火縄銃の口径と装薬量ははっきり判らなかったが、16世紀、西洋・倭寇の鳥銃(火縄銃)は、8分の鉛弾(直径8ミリ、3g)を1匁(3.8g)の黒色火薬で飛ばしたようで、戦国時代の日本の火縄銃は如何であったろうか。 >>308
本誌では「思っている以上に鉄砲の総合評価は低い」とし、
「したがって鉄砲の登場は、従来の弓矢が鉄砲に置き換えられたというにすぎない(しかも全部ではない)。武器としての総合評価は、前述の革新性を含めて考えても小さくならざるをえないのである」と書いているが、はたしてそうであろうか?
戦国末期の鉄砲装備率は高く、確かに黒色火薬は湿度に弱いが、打たれる側から見ると音速で飛んで恐怖を覚える武器であり( >>320 )、防御用としては最適な武器であると思うのだが?

P114、「鉄砲玉の原産地はタイのソントー鉱山だった!」は、戦国時代末期から江戸時代初期の約50〜60年ほどの時期のことで、鉄砲伝来当時のことではなく、非常に紛らわしいタイトルである。
当時は塩硝(硝石)もタイ国から輸入しており、天下統一後には塩硝(硝石)が余り、逆に東南アジアに輸出している。
0521S字型金具2010/12/10(金) 20:53:12ID:tEglVc5O
>>516  歴史REAL vol.1、第一部 戦国のリアルを科学する!鉄砲・弓の真の威力、「検証5 戦国合戦の主力武器・弓矢の飛距離、速度、その構造を明らかにする」となっている。

しかし、この本では威力実験を行わずに道具の紹介で終わっており、科学的な検証になっていない。
このような書籍は根拠が曖昧で、戦国時代の「弓矢」にあった鍛錬・訓練は当然必要であり、「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」と書いて記述全体を誤魔化している。
385.4メートルと長い飛距離を書いているが、これは18gの特製の軽い矢を使ったもので戦国時代の矢とはまったく異なるものであり、少なくとも戦国時代の矢を再現した上で、風向、風力、湿度などの影響を調べ、武器としての弓を明らかにすることが必要ではなかろうか。
「弓」の記述は、『019ページの「結局のところ鉄砲は、弓より総合力はやや低い」の拠り所のために書いた』と勘繰られる内容である。

036ページに、鈴木眞哉氏が「軍忠状」を集計した負傷要因と比率を紹介しており、171年間の史料142点(0.8点/年)、負傷者1567人(9.2人/年)と年間例数が少ない史料からであるが、『石・礫疵が12.4%』と書かれている。
この集計について、『戦国時代を勝ち抜いた者の家に残る記録』、『初戦の制圧戦で負傷して戦列を退いた原因の統計に過ぎない』など、『軍忠状に現れた結果は著しく偏向したものだ』と批判する人もいる。
また、「注進状」ともなると、負傷者15人全員が「石疵」となって書かれた物もあり、戦国時代の様相を調べる手法としての「軍忠状」は、注意を要する。
「石・礫疵」の負傷比率は高く、山城攻撃の際には投石・落石などによる負傷は多かったと思われるが、平地での戦いには笠などの防具を着用しているので、軍忠状に現れるような「石・礫疵」は少ないと思われる。

そこで、日本各地での「土弾・素焼弾」の出土品や、「石銃」「団子銃」「手火矢」など「鉄砲」以外の記述もあり、「軍忠状」の「石・礫疵」にこの火器(鉄砲?)による負傷も考えられるのではないだろか?
自分が火器を持っていない、其の名を知らなかった場合は、負傷要因に「石・礫疵」と書いた物もあったのではないだろうか?
また、「伝来当時の鉄砲は高価であった」と曖昧な根拠で汗牛充棟のごとく書かれているが、猟師の軍用以外の記録(永禄3年)があり、なぜ猟師が弓矢の他に鉄砲を所持できたかも考える必要がある。
0522人間七七四年2010/12/10(金) 21:04:36ID:HloUx1ZN
>>521
>「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」

これ近藤好和の言葉だろ?
なぜか2chではあの人の信者結構多いけど
基本的にこの人の書いてるものメチャクチャだよねw
「命懸けの戦いのために修練を積んでいた武士ならできたはずだ!」とかそんな記述ばっかり。
「弓矢と刀剣」も「騎兵と歩兵の中世史」ももちろんのこと、
「人類にとって戦争とは」や、民俗博物館の近藤担当スペースも全部そう。
彼にとっての「武士」ってドラゴンボールや北斗の拳のキャラと変わらないスーパーマンだしな。

それから、近藤批判を無理に鈴木批判につなげるなよw
この二人全く別物だから。
0523人間七七四年2010/12/12(日) 13:59:32ID:BOruVDhl
というよりな、S字金具さん。
皆が迷惑だといっているのに、平然と居座ってシリーズものの連レスを続けるのは良くないよ。
もともとそういうスレじゃないし、
住人が困って避難スレまで立てるに及んでいるんだよ。

もし俺であれば、困らせたことは謝り、専用スレを立てるか自分のHPを作ってそこで自説を披露するよ。
0524人間七七四年2010/12/12(日) 18:04:14ID:rrpuB5Pt
>>523

禿同だ。私物化すんなs痔
0525人間七七四年2010/12/12(日) 21:20:59ID:ZjJ2J/np
俺はもう諦めたがな。

キ印になに言っても無駄
スルーするしかないんだよ
0526人間七七四年2010/12/13(月) 03:19:13ID:qBpmnI+c
と言って立てた別スレ速攻で落ちたやんw
0527人間七七四年2010/12/13(月) 06:56:56ID:Z91s89rY
>>526
そりゃもともとレスの多い話題じゃないからね。
こんなことが起きているんだし、S字金具氏も何かレスポンス返していいんじゃないの?
最初は問題なかったけど。長文連載はじめてから妙になっていったなあ。
0528人間七七四年2010/12/13(月) 13:52:31ID:2vGCaAzy
黙らぬならころ…NGにしよう、S字金具

織田信長
0529人間七七四年2010/12/13(月) 17:11:03ID:gxD+74Og
とりあえず、何故ブログじゃなくてここで書かなきゃいけないのか、理由が知りたい所。
0530人間七七四年2010/12/13(月) 19:26:27ID:HlHDq8Dp
集客がめんどいんじゃないのw
2chなら過疎板でもそれなりに人いるからね
0531S字型金具2010/12/17(金) 00:41:35ID:MSwNZJpc
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるB

その他、日本から鉄砲を輸出した記事がある。

メンデス・ピント著「東洋遍歴記・岡村多希子訳」で日本人の気質について、『この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。彼らは、既知の他のいずれの国民よりもそれに楽しみを見出しているのである』と書いている。
( 我が国固有の文化への鋭い指摘であり、それは現代にも通じている。 http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1221013.htm )

そして、その気質を紹介する意味で、
『(前略)1556年(弘治2年)に、日本人が断言したところによれば、この王国の首府である府中の町には三万挺以上の鉄砲があった。そして、この物がそんなにひどく殖えるなどということはあり得ないように思われたので、私がこれにたいそう驚いたところ、
信頼し得る立派な人である数人の商人が言い、また多くの言葉をもって断言したことには、日本全島で三十万挺以上の鉄砲があり、彼らだけでも、六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球人のもとに持って行ったということである(後略)』と書いている。
この中で、「日本に大量の鉄砲の存在」「琉球を介して火縄銃を輸出」など無視できない記述がある。 >>452
メンデス・ピントの「東洋遍歴記」には記載内容に問題点のある記述もあるが、全部が全部嘘とは言えない所があり、最近再検討されるようになって来ている。

原本未確認ではあるが、的場節子著「ジパングと日本」に以下の記述がある。
『一五八九年五月二十日付けで、マニラ総督府審議会が作成した武装蜂起首謀者による供述書には、一五八八年十月二十日の蜂起発覚数日前に、イスラム系原住民首領が、ボルネオ王に火縄銃などの日本の武器を送り届けたとある。
この事実は、前年に続く日本船による武器輸送を意味するもので、ルソン金と日本製武器との交易が生き続けていたことを示す。
ところがついに、吉近と原住民ドン・アグスティンとの間の密約発覚をきっかけとして、ゴーレス交易以来の原住民に対する日本の武器輸出は終焉へと向かう。そして、その後の刀剣搭載船の取引相手は、マニラ総督府に取って代わるのであった。』

この武装蜂起失敗の一因は日本人にあったようで、日本人は航海が不慣れのため(倭寇征伐により航海する機会が減ったため)バックアップ要員が送れず、結果として未遂になったようである。
0532人間七七四年2010/12/17(金) 20:05:14ID:53QhON30
まあキチガイに何言っても無駄ってことだよね
0533人間七七四年2010/12/17(金) 20:15:13ID:AlcsiFux
ブログにでも書いてろ キチガイS字型金具
0534人間七七四年2010/12/18(土) 02:36:40ID:kAcqvuCu
鉄砲組って一斉射してたのか個別射撃してたのか。

音が半端ないからやっぱ一斉射かな。
足軽投入時に射撃中止の命令聞こえなかったらまずいし。
0535人間七七四年2010/12/18(土) 20:34:51ID:MGce7drF
まあ「鉄砲組」が組織されたのは戦国末期だからな。
その頃には少なくとも最初の2,3発は斉射してたんじゃね?
その後は足軽の再装填技量に大きく左右されて個別射撃だろうけどね。
0536人間七七四年2010/12/19(日) 04:56:16ID:7Bbd7dzs
その後は、って…2〜3発も撃ったら普通、敵がすぐ目の前まで来てるんじゃね?
その前に撃ち方止め→長柄などの白兵戦力を前に出して迎撃、だと思うぞ。
実際信長は長篠でそうしてる。
柵なんかの防御陣地があっても鉄砲組だけで敵の突撃を抑えきれるわけがないし、
白兵戦力を投入すれば同士討ちの危険があるので鉄砲は撃てない。
>>534の言うように指揮統制の問題からも個別射撃はないと思うよ。
0537人間七七四年2010/12/19(日) 06:37:04ID:dWAXYZhi
>>536
日本の伝統的な合戦手順は
1.射撃武器による攻撃
2.射撃によって敵の陣形が崩れたら、白兵攻撃
の手順。
射撃は、歩兵の攻撃の準備攻撃でもある。
相手が崩れてないのに、長柄の投入は損害が大きすぎる。
だから
>…2〜3発も撃ったら普通、敵がすぐ目の前まで来てるんじゃね?
は、かなり特殊な状況といえる。
鉄砲隊の攻撃力が低すぎて、長柄の衝撃力を押さえ込めなかったって事だし
長篠ではそんな感じだったんだろう。

実際、日本の鉄砲隊の訓練は個人技の狙撃が多い。狙撃による被害も多い。
一斉射撃による弾幕をはっても、日本の隊列は密集陣じゃないんであまり効果がないんだ。
0538人間七七四年2010/12/19(日) 07:31:29ID:7Bbd7dzs
>>537
一斉射撃がただの弾幕とは限らんのでは?
狙撃重視での一斉射撃もありうるわけで…。

つか突撃してくる敵を、有効射程距離…
すなわちたかだか100〜200m程度の距離内で崩すことなんてできるかなあ?
相当な連射速度と鉄砲の数が必要だと思うけど。

まあ仮に崩すことができたとしても、各自好きなタイミングでバラバラに狙撃してたんじゃ、
ひっきりなしに続く轟音にかき消されて射撃中止の合図に気付くのが遅れる危険性がないか?
そうすれば同士討ちの危険から迂闊に白兵戦力を前に出すことはできず、
追撃の機会を失うと思うんだが。

>射撃は、歩兵の攻撃の準備攻撃でもある。
だったら敵の何割か何分かを削るだけでも十分な効果があると思う。
その分、味方歩兵が有利に戦えるんだし。
0539人間七七四年2010/12/19(日) 07:43:52ID:r/Rsa8lz
>>537の言う通りだな〜

付け加えていうと、天正三年の長篠の段階で鉄砲衆や長柄組がどれほど組織化されていたかはよく分からない。
軍役で集められたのと同じ戦闘単位で、騎乗の侍が長柄や鉄砲を従えてめいめい戦っていた可能性も大いにある。
25年後の関ヶ原、40年後の大坂の陣ではかなりの程度、鑓や鉄砲を集めての組織化が行われてたようだけどね。

まあ、俗説では織田軍は組織化されてたように言われてるが、何の根拠もないんだよね。
織田の軍役の実態がほとんど何も分かってないし。
鉄砲の装備率が高かったのかどうかも分からん。
0540人間七七四年2010/12/19(日) 11:00:47ID:dWAXYZhi
>一斉射撃がただの弾幕とは限らんのでは?
>狙撃重視での一斉射撃もありうるわけで…。
Boy、それは集団による各個射撃であって、一斉射撃ではない。
そして、こちらは狙撃を否定していない。ok?

>つか突撃してくる敵を、有効射程距離…
>すなわちたかだか100〜200m程度の距離内で崩すことなんてできるかなあ?
>相当な連射速度と鉄砲の数が必要だと思うけど。
鉄砲以前は弓でやっていた。弓で崩れるものが鉄砲では無理という事はない。
陣が崩れず、矢も尽きると、後日に仕切りなおす例も存在する。
あと、崩れる主原因は物理的ダメージではなく、心理的ダメージによる。

>まあ仮に崩すことができたとしても、各自好きなタイミングでバラバラに狙撃してたんじゃ、
>ひっきりなしに続く轟音にかき消されて射撃中止の合図に気付くのが遅れる危険性がないか?
10人未満の番ごとに小頭が付き、数番からなる組を組頭が指揮する。
指揮系統に問題が発生する事はない。そもそも鉄砲や弓は技能職であり、常雇いが普通で訓練が行き届いている。
そんなドジは踏まない。

>だったら敵の何割か何分かを削るだけでも十分な効果があると思う。
戦争では何人殺したかではなく、いかに士気をくじいたかが重要。
損害が軽微でも士気崩壊した敵に攻撃を加えれば大損害を与えられる。
損害が重度でも士気が維持されている敵に攻撃を仕掛ければ、負ける可能性がある。
0541人間七七四年2010/12/20(月) 00:28:25ID:B/aJj5uQ
>>539
同時代の北条は兵科ごとの編成だったみたいだよ。

> 244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 03:33:28 ID:Q06NYw8U
>>243
> 1577年に北条氏直が岩付衆にあてた御朱印状だね。歴史群像アーカイブにも載ってたな。

> このとき宮城四郎兵衛個人に届いた着到状では、
> 騎馬8騎(含本人)、槍17人、歩者4人、旗持4人、鉄砲2人、弓1人連れて来い、と動員が割り当てられてるんだが、
> 備を編成する段階では、武田氏と同様に一旦バラバラに解体され
> 槍600、騎馬500、歩者250、小旗120、鉄砲50、弓40、と兵科ごとに奉行が割り当てられ編成されてる。
0542人間七七四年2010/12/20(月) 00:31:31ID:B/aJj5uQ
>>537
長柄組は互いの肩が触れるくらいの間隔で横隊を組んでたよ。
0543人間七七四年2010/12/20(月) 02:02:51ID:8QIMUW8i
>長柄組は互いの肩が触れるくらいの間隔で横隊を組んでたよ。
申し訳ないがソースを
時と場合に応じて密度を変化させるのが基本だが、こんなに密集しては満足に動く事が出来ない。
20人ほどの横隊を戦闘機動させることを考えてみるといい。
同時代の密集方陣のテルシオでさえそんなに密集しない。

まぁ、普通に整列となるとそんな形になるが、実戦でのソースが欲しいな。
0544人間七七四年2010/12/20(月) 02:49:59ID:8QIMUW8i
> 槍600、騎馬500、歩者250、小旗120、鉄砲50、弓40、と兵科ごとに奉行が割り当てられ編成されてる。

こいつの具体的な編成も知りたい。
武田は寄親・寄子制がベースで、これに足軽を組み合わせて備を編成した。
足軽は地縁血縁による上下関係から外れた大名直属の兵だったんだ。
これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
0545人間七七四年2010/12/20(月) 06:05:22ID:RBboo+6w
横槍でスマンが、オレはむしろ
>武田は寄親・寄子制がベースで、これに足軽を組み合わせて備を編成した。
>足軽は地縁血縁による上下関係から外れた大名直属の兵だったんだ。
>これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
こっちのソースの方が知りたいぞ。

長柄組に関しては「肩が触れるくらいに」かどうかはさておき、
ある程度密集しないと長柄の持ち味が活かせないだろうとは思う。
散開して行動するなら長い槍は簡単に懐にもぐりこまれて意味ないだろうし、
振り回したら味方に当たったりもするだろうしなあ。
0546人間七七四年2010/12/20(月) 10:15:16ID:8QIMUW8i
>>545
おおすまん。こちらのページがよく調べてある。
ttp://kagiya.rakurakuhp.net/i_684871.htm

>ある程度密集しないと長柄の持ち味が活かせないだろうとは思う。
答えはこれ。
>時と場合に応じて密度を変化させるのが基本だが、

 槍兵の展開は相手の隊列に合わせて展開するのが、古今東西の槍兵の基本なんだ。
相手より密集していれば攻撃力は上がるが、横から回りこまれる。
 逆に相手より広がっていると攻撃力が下がるので、突破されやすくなる。
相手と自分の兵力、展開している地形、各種状況によって密度を調整するものなんだ。
 で、世界的に見ると日本の槍兵の横陣は密度か低い類なんだな。
日本の地形は開けたところでも樹木が多く、密集していると移動時に陣が乱れてしまう所に起因していると思う。
 これは西洋でも同様で、指揮官はその場の状況に応じて、密度を決めている。
0547人間七七四年2010/12/20(月) 13:37:04ID:B/aJj5uQ
>>546
日本の場合は備の二列目より後ろに、横を向いた長柄や徒士の縦列が配置されることが多いように思う。
0548人間七七四年2010/12/20(月) 14:01:02ID:B/aJj5uQ
>>546
>>541はこのスレからの引用なので、ここから聞いてみて・・・
戦国時代における騎馬武者の実像とは
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1245948808/

暗黒期を除く西洋に関して言えば、数kmに渡って隙間を空けないよう戦列を展開するから、
戦列の両端の大隊以外は、横の防御をあまり心配しなくていいようにしてるね。
それでもマケドニアファランクスでは横や後方防御用に予備大隊を用意しているな。

もしくはテルシオのように四方から攻撃されてもいいように方陣化するか。
ただこれは側・後面に余計な戦力を割くため、正面戦力が低下する。
0549人間七七四年2010/12/20(月) 16:06:09ID:RBboo+6w
>>546
読んだけど、想像の域を出ない部分が多いね。
既定事実として語られても困る。
0550人間七七四年2010/12/20(月) 19:03:41ID:/+NExu49
横スレだが、長柄槍の密集(穂先を一本に束ねる)という戦術が、
勝海舟の「氷川清談」に、「合理的な方法で西洋兵術を学んだ俺にも納得がいった」
と、記述がある。これ、八王子千人同心(武田家臣団の末裔)の集団槍術訓練を
評してのもの。つまり、千人同心には武田流の槍衾が伝承されていたという話。
0551人間七七四年2010/12/20(月) 19:12:11ID:gL03Uorg
>>549
判りやすくピックアップするとこれだな。
>武田家の場合、その軍役衆は大名(武田氏)直接の被官であり、
>家臣(寄親および寄子)に預けられる形であり、彼らを指揮する領主とは御恩奉公に関係しない。

これを元に件の章は仮説を立てている。想像と仮説は違うよ。
あとは個人の評価だな。君の評価を私は否定しないよ。
0552人間七七四年2010/12/20(月) 21:19:37ID:RBboo+6w
>>551
ん?キミはID:8QIMUW8iかい?

あのサイトの仮説に特別ケチをつける気はないが、
>>544の断定的な意見がちょいと気になったもんでね。
「〜と考えられる」「〜と思う」がついてりゃいいんだけど、
さも見てきたように言い切ってるから「困る」と言ったんだよ。

>これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
ここはもろそのサイトの仮説部分だしね。
0553人間七七四年2010/12/21(火) 00:21:56ID:5P2DmDpx
>>534
一斉射撃についてルイス・フロイスが1584年に薩摩で見聞した記録がある。
直訳された文章の抜粋で判りにくいが、この事例では槍や弓矢の運用についても記録しているので、戦国時代の実戦を知ることができる。


ドン・プロタジョは山上に留る能はず、また旧位置に引返すことも困難であるを見て徐々下山し、敵の銃撃の大部分を受くべき所に到った。
この間に隆信の軍は非常な勢で月の形になって進撃し、中務とドン・プロタジョの陣を包囲し、第一に銃五百挺を一斎発射した。
わが軍はほとんど皆地上に伏してこれを避け、銃撃が終った後槍隊の突撃せんことを期待したが実現した。
日本人は我等の如く楯を用ひない故ドン・プロタジョとその兄弟ドン・エステバンは銃撃に面して非常な危険を冒してゐた。
備前守殿といふ武士が、彼らの前に幅二パルモ〔約半メートル〕高さは人の腰まで達する鉄の戸を置いた。
これによって彼等は辛うじて銃丸を避けることができた。
敵は激しく銃を発射し、暫くの間弾丸は雨の降るやうであったが、ドン・プロタジョとその兄弟は長く腰を屈めてゐることができず、立って体を露出した時、大きな弾丸が激しくドン・エステバンの兜に当り、彼は地上に倒れた。
ドン・プロタジョは直に救助に駈けつけたが、その兄弟は死したやうであった。
併し再び見た時少しく動き始めたので、手をもって抱き上げたところ、不思議にも傷なく意識を回復した。彼等両人は二回敵銃隊の中に突入して死せんとしたが、部下が彼等を抱き止めた。
戦は四月二十四日の朝八時に始まり、正午過ぎまで続いた。最初の銃撃が終って、一時間槍をもって激しく戦ったが、隆信の軍は槍と共に銃を用ひ、その兵数が比較にならぬ程多かったため、わが兵はその寨内に退くに至った。
・・・・・
敵は再び寨を攻めたので、薩摩の兵は打って出たが、すでに頗る疲労してゐた。而して隆信の兵は多数の銃と少数の弓、長き槍と短き剣を持ってゐたが、薩摩の兵はこれに反して銃器は少数で、弓は多く、槍は短く剣は長かった。
・・・・・
戦闘は激しく行はれ、双方槍を使ふ余地なく、薩摩の兵は前に人なきが如く突進した。
銃は弾丸を込める時がないためこれを用ひず、薩摩の兵は甚だ弓に熟練し大いにこれを用ひ、敵は少からずこれに苦しめられた。
戦闘の最も激しい時薩摩の部将の一人は、最も勇敢なる兵士数人と共に偶然他の兵に離れて進み、隆信の駕籠の側に到って戦ひ始めた。
隆信は部下の兵の間に争が起ったものと考へ、高声に今は互に戦ふ時にあらず、汝等は隆信がここに在ることを知らざるかと言った。
この際彼の轎夫達は槍をもって突かれて駕籠を棄てた。川上左京殿と称する薩摩の青年武将は彼の名を聞き、その起ち上ったところを襲ひ、我等は汝を尋ねて来たと言って槍をもって突いた。
彼に槍をつけた人に直に首を斬られた。
竜造寺隆信の死が伝って、その軍隊は恐怖のあまり混乱し、皆背を転じて急に逃げ始めた。
彼等は啻に鎧のみならず、衣服をも脱し、身を軽うして追撃する敵より遁れんとし、負傷者及び死者の上を越えて逃げた。
かくの如き場合に恐怖は人に翼を与へ、重荷となるものは皆かくの如く急な破滅を免れる邪魔となるものである故、彼等は携へた物を棄て始め、
啻に槍、銃、弓矢、立派なる鎧及び黄金の飾を施したる兜のみならず、後方に聞えた叫喚は前方の死の像を示した故、剣も長剣も棄て、一層早く走るため、或る者は一切脱して裸体となった。
また乗馬の純然たる疲労のため地に倒れて死するものもあった。
・・・・・
0554人間七七四年2010/12/21(火) 01:38:36ID:qPm52E8N
この鉄砲を撃ちまくった後に白兵が突撃する戦法が
竜造寺独特の戦法なのか、それとも戦国後期の一般的な戦法なのかよく分かんない
0555人間七七四年2010/12/21(火) 01:45:43ID:zPFFLD6g
>>553
結構合理的だね。
伏せて銃撃をやりすごしたり、鉄の盾で武将を守ったり。
戦国期の歩兵ってもっと強引に突撃するイメージしかなかったw

鉄砲は連続して撃ち続けてるようなので、少なくともこの合戦に関して言えば、
撃ち始めは一斉に→あとは各個人がバラバラに撃ち続けてるってところかな?
それともいくつかの小隊でローテーションを組むことで間断なく撃ち続けてるんだろうか?

あと気になるのは銃撃が止まって槍戦になった理由。
隆信方が“敵がひるんだ”あるいは“これ以上撃っても無駄”と見て槍兵を出したのか、
それとも単に手元の弾薬が尽きて補給する際に銃撃に隙が生じたのか。

結局は謎だらけ。
実際この目で確かめられれば最高なんだがw

逃げ出す兵に素っ裸の者もいたってのはちょっと笑っちゃうけど、
みんなそれぐらい必死だったんだろうな。
0556人間七七四年2010/12/21(火) 08:03:05ID:vL4RQaJD
フロイスは日本の戦場を見たことがないし、ほら吹きだから
「西洋では馬に乗って戦い、日本では馬から下りて戦う」の部分は信じない。
でも、この部分の記述は事実と受け取る。

そのダブルスタンダードが理解できません。
0557人間七七四年2010/12/21(火) 08:27:37ID:oyQY9ySm
>>552
うん?変だな?言葉が通じていないのかな?
私は「仮定の話を既定事実として語るのは困る」というあなたの意見を認めると言ったのだけど。

・今の私のリソースでは一次史料を集められない
・したがってあなたを納得させる事が出来ない
・よってあたなの意見を認める
こういうこと。

武田の軍制は知っての通り寄親寄子制を基本とするけど、素直にそのとおりにはなっていない。
この辺りが複雑怪奇で、専門の研究者にとっても難物になっている。
この辺りを解明しろよ、もしくは解明したものをもってこい、と言われると謝るしかないよ。うん。
まぁ逆に言えば、兵科ごとの編成はされていなかったというソースもないんで…まぁそのあたりはいいや。
アレだけの動員をして、そんなこと普通はありえない…もとい、ありえないと私は思うんで。証拠はないが。

これからは「だと思う」「と、考えられる」って付けるよ。これでいいかい?
必要なら、レスアンカー付けて訂正して回るが?
0558人間七七四年2010/12/21(火) 08:45:35ID:oyQY9ySm
>548
ソースありがとう。
私は事の成否ではなく、何故そういう考えを持ったのか知りたかっただけだから。

>暗黒期を除く西洋に関して言えば、数kmに渡って隙間を空けないよう戦列を展開するから、
>戦列の両端の大隊以外は、横の防御をあまり心配しなくていいようにしてるね。
>それでもマケドニアファランクスでは横や後方防御用に予備大隊を用意しているな。

この件はもっと単純な事なんだ
方陣の密度を上げることによって衝撃力を上げるという方法が使われたり、
それが仇になって隊形の変形や機動性に問題が出て包囲されやすくなったり。
「カンネーの戦い」を調べてみると、この辺りの有利不利がわかったりするかもしれない。
0559人間七七四年2010/12/21(火) 08:59:47ID:oyQY9ySm
>>556
悩ましいところだな。
1つ嘘があるから全部信じないか、1つ事実があるから全部信じるか
『嘘を嘘と見抜けない……』って誰かも行ってたしな。
フロイスさん、ヨーロッパでの乗馬歩兵の成立っていつでしたっけ?

さて、仕事いてくる。
0560人間七七四年2010/12/21(火) 22:33:37ID:5P2DmDpx
>>555
>あと気になるのは銃撃が止まって槍戦になった理由。
>隆信方が“敵がひるんだ”あるいは“これ以上撃っても無駄”と見て槍兵を出したのか、
>それとも単に手元の弾薬が尽きて補給する際に銃撃に隙が生じたのか。

一斉射撃後銃撃が止まった理由は、敵は弾薬を多量に携えていたので、手元の弾薬が尽きたとは思えない。
(「彼等は攻撃及び防御の武器を備え、糧食、弾薬その他必要なる物を多量に携え、速に戦争を終了せしむるため、先端の尖った短い棒を多数持参した。これを寨の壁に刺し、梯子の如くして上がり、内に入ってこれを破壊するためであった。」)

それよりも、火縄銃の連発には物理的な限度があり(当時は6発以下か?) >>517 、また不発銃も増えたためでなかろうか?

>結局は謎だらけ。
>実際この目で確かめられれば最高なんだがw

同意。
この事例(沖田畷の戦い)には、大砲についても書かれている。

ドン・プロタジョ(有馬晴信)は聖週(1584年4月12日から始まる週間)となって、陣所に大砲二門を据付けた。
これは日本でも甚だ珍しいもので、操縦する人は少なかったが、この際偶然砲に装薬することのできる黒奴が一人居合せ、
また隆信が不当に殺すことを命じたため、大村より高来に逃げて来たマルチニョMartinhoといふキリシタンの兵士があって、この人が砲の狙いをつけ、マルバラMalabarの人が火を附けた。
大砲は薩摩の兵に取って珍しく且驚くべきものであったが、敵城内の人々には甚だ面白からぬものであった。
暗黒の木曜日及び金曜日に発射した多数の砲弾は木造の家に入って大なる音を立て、この珍しい物に対する驚愕による城内の婦人及び小児の叫喚は、ドン・プロタジョの陣所まで聞えた。
0561人間七七四年2010/12/23(木) 00:48:33ID:AjLRgbJQ
>>558
カンネーのローマ軍歩兵はひと塊というより、大隊を隙間を空け市松模様に並べこれを縦深厚めにしたものだったけど、
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/2/25/Rom-mnpl-1.png
これは錬度・装備と兵数でローマに劣る、カルタゴ軍戦列中央の突破を狙ってのことだった。
カルタゴは中央にヒスパニア・ガリア部族歩兵の弓なり密集陣、側面の主力たるリビア歩兵はファランクス陣形(下リンク)だった。
http://scottthong.files.wordpress.com/2007/05/phalanx2.jpg

歩兵のみならば脆弱なカルタゴ中央が支えきれず崩壊したところを、
ローマは両翼の騎兵が敗れたため、長槍に側面、騎兵に背面を衝かれ壊滅した。
この戦いは騎兵の多寡が最大の勝因だけど、
たしかに縦深をとったために包囲されやすくなった。
もしローマが横長に布陣すれば、左翼の側面攻撃と騎兵の後方迂回は防げただろうね。
0562人間七七四年2010/12/23(木) 00:50:06ID:AjLRgbJQ
方陣といっても種類がいろいろあるし。
古代ローマの場合は、山岳部族との戦いで機動性の確保を悟り、
歩兵は長槍を捨て、短剣に盾を持った歩兵が数十人単位で別行動が取れるようにした
(下リンクは対飛び道具用のテストゥード隊形、ただし装備はマリウスの改革後)。
http://4.bp.blogspot.com/_qsZFggp2bPg/SkQ-xliTolI/AAAAAAAAAC0/uFVAK0jX0Qw/s1600-h/testudo.jpg

マケドニアファランクスはとんでもない正面圧力だが前を向いて進み続けるしかないので、
側・後方を取られたら終わり。隙間なく戦列を組み、騎兵と軽歩兵が両翼をカバーする必要がある。
諸兵科の複合陣形であるテルシオ(下リンク)や、シンプルな長槍円陣であるシルトロンの場合鈍重だが、元は対騎兵陣形として生まれたため、
http://historywarsweapons.com/spanish-tercio/
長槍を全周にわたって突き出せ、包囲攻撃には滅法強い。
0563人間七七四年2010/12/23(木) 00:56:41ID:IzyyeUJB
長文はブログにでも書いてろ
スレ違いだ
0564人間七七四年2010/12/23(木) 01:08:18ID:AjLRgbJQ
戦国時代に戻るけど、当時の軍記によく「つるべ打ち(釣瓶撃ち)」って出てくるよね。
現代砲術だと、端から一人ずつ順番に、バケツリレーみたいに撃っていくけれど
これは各個のタイミングで自由に射撃をしたという意味かもしれないと思うんだが?西洋で言うFire at will。

三段撃ちに関しても、あったとすれば「どの三段撃ち」かあまり言及されてない。
@一列目が撃つと後方に下がり、二列目→三列目と進み出て撃つ方法。
A一列目のみが射撃し、二列目・三列目が装填をして一列目に渡す「繰り込め」。森流砲術などにある分業方法。
Bその場から動かず一列目は膝射、二列目は立射、三列目は二列目の肩の間から撃つ、18世紀フランス軍のような方法。

もしBだとしたらかなり間隔が必要な上、斉射必須だろうなw
雑賀衆の二段撃ちもこのうちどれなのか気になる。
0565人間七七四年2010/12/23(木) 01:09:31ID:AjLRgbJQ
>>563
すまんすまんw
どうも長文スキーでな・・・
0566人間七七四年2010/12/23(木) 01:30:23ID:9aig1BPt
三段撃ちはあったとしてもAだと思うよ。
@は無駄な労力が必要だし、Bは火縄銃ではあまりにも危険すぎるかと。
0567人間七七四年2010/12/23(木) 02:17:37ID:GkN/tAHe
>>564
>戦国時代に戻るけど、当時の軍記によく「つるべ打ち(釣瓶撃ち)」って出てくるよね。
「つるべ」についてだけども、「滑車釣瓶(かっしゃつるべ)」と「撥ね釣瓶(はねつるべ)」の2種類が思いつくのだが、滑車釣瓶の桶(バケツ)は2個、撥ね釣瓶の桶は1個である。
桶を火縄銃にたとえて「つるべ打ち(釣瓶撃ち)」と表現しているならば、滑車釣瓶ならば2つの銃(2人)が前後入れ替えて発射、撥ね釣瓶ならば1つの銃で前進後退しての発射となろうか?
深井戸ならば滑車釣瓶、浅井戸ならば撥ね釣瓶が妥当だと思われるが、戦国時代に滑車釣瓶があったろうか? あったとしても一般的な物か?
はたして「軍記」はどれを示したものか?
何れにしても火縄銃の連発には物理的な限度があるから、集団での当初だけの発射方法を表現したものではなかろうか?
0568S字型金具2010/12/23(木) 23:11:18ID:GkN/tAHe
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるC

徳川家康は足利義輝と同じように鉄砲好きだったようで、色々な鉄砲を収集していたようである。
ただし、他の大名らの記録は見つからないので不明であるが、彼らも武器である鉄砲については興味があったと思いたい。
徳川家康については、柬埔寨(カンボジア)、暹羅(シャム・タイ)の2カ国に鉄砲を要求した結果『極品鐡砲』を貰い受け、逆に日本の鉄砲を贈答していた記録がある。これ等の遺品の一部らしきのもが「徳川美術館に所蔵」されている。

○慶長11年(1606年)9月15日『幕府、呂宋、西洋、安南、柬埔寨及び暹邏諸国渡海の朱印を出す、家康、呂宋、安南二国に復書し、また書を柬埔寨(カンボジア)、暹邏(シャム)二国に遺りて、奇楠香、鉄砲を需む』
○慶長11年9月21日『徳川家康、暹羅(シャム)国に書簡・鎧・太刀を送り、奇楠香(上上奇楠香)と鉄砲(極品鐡砲)を求める』
○慶長13年10月10日『本多正純、徳川家康の意を受け、暹羅(シャム)国に書簡と鎧を送り、家康所望の鉄砲贈呈の催促をす。また塩硝をも求む』
○慶長15年6月25日『徳川家康、柬埔寨(カンボジア)国主に対し、暴悪を働く日本人は柬埔寨(カンボジア)の国法に従い処罰すべき旨の返書を発給し、鉄砲(30挺)をもって贈答す』
○慶長15年7月『これより先、初めて暹羅(シャム)国より返書が来る。
家康所望の鉄砲などを来年の便船にて献上すべき由を記す。よって7月、徳川家康、暹羅(シャム)国に対し返書を送り、国王には鉄砲を、家臣「握雅普控」には鎧と刀を贈る。また本多正純も返書を出し、毎年商船来日のこと』
○慶長15年7月是月『家康、暹邏国王に書及び物を贈りて、鉄砲塩硝の舶載を促す、本多正純もまた、書を其臣握雅普控に遺りて、家康の意を伝ふ』

伝来銃・渡来銃については贈答用の鉄砲と実戦用の鉄砲とは区別して論じるべきで、黒色火薬に硫黄成分が入っている関係上、実戦に使用された銃は消耗が激しく、残存しにくい条件がある。 >>285 >>287 >>290 >>291
「伝来当時の鉄砲は高価であった」と通説になっているが、永禄3年(1560年)猟師の軍用以外の記録があり(伝来17年後)、なぜ猟師が高価な鉄砲を所持できたかも考える必要がある。(たぶん、日本独自の鉄砲ではなかろうか?)
なお、現存する最古の黒色火薬調合の秘伝書「鉄放薬方並調合次第」は永禄2年(1559年)であり、「両分朱」の単位系を使い、道具立ては東南アジアや西洋の物ではなく、日本の品物である。 >>62 >>339
0569人間七七四年2010/12/24(金) 00:00:52ID:4Uujrj1u
このスレが落ちる前に書き込みをどっかにまとめておいてね
0570S字型金具2010/12/31(金) 16:13:14ID:yibJp3Ld
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるD

メンデス・ピント著「東洋遍歴記・岡村多希子訳」に火器の名前が多く出てくる。
この本は、1537年から1558年までの21年間に渡る東洋のことについて書かれ、1578年にポルトガルで脱稿、1583年に死亡、1614年に出版された。
和訳名の根拠やその火器の詳細は不明であるが、一応火器らしき物を和訳記述のまま列挙してみた。

投石器(ロカ・デ・ペドラ)、火薬筒(アルカンズイア・デ・フオゴ)、長さ十ないし十二掌尺の大火縄銃、大火縄銃(エスピンガルダン)、火縄銃、鉄砲(エスピンガルダ)、青銅製のモスケット銃、モスケット銃
青銅製のガルバリン砲、パサムロ砲、大砲(ボンパルダ)、射石砲(ロケイロ)、球砲(エスペラ)、半球砲(メイアエスペラ)、揺籃砲(ベルソ)、半揺籃砲(メイオベルソ)
獅子砲(レアン)、駱駝砲(カメロ)、小駱駝砲(カメレテ)、鷹砲(フアルカン)、鷲砲(アギア)、犬砲(カン)、蛇砲(バジリスコ)

多くの種類・名前の火器が記載されているが、この中で日本に渡来・伝来した火器はあるのだろうか?
>>463 『ポルトガルの拠点だったインドのゴアなどが製造地の候補にあげられるという。 フランキ砲は鉄砲より少し遅れ16世紀後半に日本に伝わった。宗麟が最初に導入し、城の攻防に威力を発揮、「国崩し」の異名をとった』のフランキ砲はどれに該当するのだろうか?

的場節子著・ジパングと日本・第五章 ピント『遍歴記』日本初渡来記事と鳥銃伝来・157ページには、
『鉄砲伝来に関して発生する疑問に、ポルトガルで古今を通じて銃砲の意味で使用されるエスピンガルダという言葉が、なぜ日本に伝えられなかったのかというものがある。
さらに不思議なことには、鉄砲伝来の直後に種子島で製造法を学んだ畿内の鉄匠系統の伝書には、スペインで銃砲を指して汎用されるアルカブスを採用し、「阿留賀放至」が、ペドロ「皿伊旦崙」の名とともに伝えられている。』
と書いて、疑問を投げかけている。

なぜ、当時、ポルトガル・スペイン・現地生産の多種類の砲が東洋に存在していたのに、日本へ渡来・伝来・情報の移入が殆ど無かったのか?
また、小銃(火縄銃)のカタカナ部品名も「カルカ」(ポルトガル語?)位しか見当たらず、部品名については色々と疑問があり、謎の部分がある。 >>329
0571人間七七四年2010/12/31(金) 16:15:37ID:hyNXVgyx
本書けよもう
誰も読まねーけど
0572人間七七四年2011/01/07(金) 20:52:33ID:E83uHOQI
「大塩の乱資料館」のホームページに「大塩の乱銃撃戦発砲記録(幕府方)」が◇禁転載◇で掲載されていますが、貴重な火縄銃の発砲数が集計されているので、火縄銃の連射可能数を探るためにちょっと拝借いたしました。

この記録は、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の際の、39名分、186放の火縄銃発砲記録です。
与力・小頭9名は、0〜4放・合計12放・平均1.4発砲しており、同心30名は、4〜8放・合計174放・平均5.8発砲していて、ヒストグラムは、0放3名、1放3名、2放1名、3放1名、4放7名、5放6名、6放10名、7放4名、8放4名である。
少数の発砲数例は采配のためや不発もあると思うが、最高発砲数は8放で止まっており、江戸時代での黒色火薬は8放が連発限界数かも知れない。 >>517
連射の際には不発を防止するために火穴掃除器「せせり」が必要となると思うが、その使用法やどのタイミングで使用したものか?

また、不発銃や弾込めした銃の後処理はどの様にしたものか?
尾栓を外さなくても、銃口を下向きにして銃口を木槌で叩けば弾は出てくるような気がするが?
0573S字型金具2011/01/07(金) 23:18:15ID:E83uHOQI
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるE

明の趙士驍ヘ、『卷一,聖旨八道,萬?二十五年條上《東援用兵八害》,?議"番銃足以破倭鳥銃"。兵部題覆:"令京營具式轉咨工部制造。"奉聖旨:"是。"二十六年五月,因京營無式,恭進?蜜西洋等銃。』で始まる『神器譜』を著している。
この書は、文禄・慶長の役(1592〜1598)の際、明の朝鮮支援軍が日本の火縄銃(倭鳥銃)が優良なことを認め、明軍にこのような火縄銃が無いので、?蜜銃、西洋等銃、軒轅等銃、鷹揚車などの朝廷献上や運用法などを記述(1598〜1603年)したものである。
この『神器譜』は主に火縄銃について記述されたもので、恭進した火縄銃以外の明軍から見た当時のアジア地域の火縄銃についても記述されている。
同名異種、または異種同名のような記述になっているので、火縄銃らしき物を其のまま抜き出してみた。

中国の銃: 中國鳥銃、中國銃炮、鷹揚銃、翼虎銃、震疊銃、迅雷銃、三長銃、三神銃、軒轅銃、奇勝銃、三眼銃、掣電子銃、霹靂火銃、改放西洋銃
ヨーロッパ・インド系と思われる銃: 佛郎機番銃、西洋番鳥銃、西洋鳥銃、西洋銃、大西洋銃、小西洋銃、水西洋諸國銃
トルコ系と思われる銃: ??銃、?蜜番銃、西域?蜜銃
東南アジア系と思われる銃: 海南各國鳥銃
日本の火縄銃と思われる銃: 倭銃、鳥銃、倭鳥銃、對馬島大鳥銃

神器譜に於いて、倭銃は??銃・西洋銃とともに研究対象の中心となっており、各国の銃とは違う独立した銃として取り扱われている。
和銃の特徴として銃床の頬付けが挙げられる。
神器譜に記載されている図の中で、西洋銃全形図・改放西洋銃図・水西洋各国番人打放図は銃床を頬付けする内カラクリ銃として描かれている。
しかし、倭銃(出土品)を所蔵している徐州博物館の「??和?型的火炮」と比べて、カラクリ、引金、銃床形などはまったく異なっている。
同じく、種子島家所蔵の2挺の古銃は、「ポルトガル人が伝えたとする初伝銃は頬付け式で内カラクリ」、「伝国産第一号は頬付け式で外カラクリ」でなぜか形式が違うが、神器譜に記載図の頬付け銃とまったく異なっている。
海南各國鳥銃の図は無かったが、「喜其初為打鳥而作。床尾稍短,後手不甚定準。打放非極精熟者不能命中。」と書かれており、海南を東南アジアとすれば「マラッカ銃」となるのかな?
本文に燧石(フリント)の単語は現れず、当時の東アジアにはスペインで開発されたミュクレット式銃は伝来・渡来しなかったのでは?
0574人間七七四年2011/01/08(土) 19:55:15ID:Yko2q4gn
?になってる文字部分がわからん
??銃は研究対象って言われてもさっぱりだ。
という事で補足説明頼む
0575人間七七四年2011/01/08(土) 23:44:26ID:Fd45Hba+
>>574
失礼しました。今回は、中国語の検索にでも引っかかるように『中国語簡体字の神器譜全文』からコピーペーストしたので文字化けしたようです。
前回の >>293 >>301 では文字化けしませんでしたので参考にして下さい。
?蜜 −−>ろ蜜  ??銃 −−>ろみつ銃
萬?二十五年條上《東援用兵八害》,?議"番銃足以破倭鳥銃" −−> 万暦二十五年条上《東援用兵八害》,内議"番銃足以破倭鳥銃"
「??和?型的火炮」 −−> 「鳥槍和軽型的火砲」
0576人間七七四年2011/01/09(日) 07:15:30ID:WCWuc8e4
おおわかったありがとう
しかし見たことない文字だ。こりゃ文字化けするわ
0577S字型金具2011/01/13(木) 17:52:16ID:65UJBWhB
>>516
歴史REALのDVDは、戦国鉄砲とは思えない江戸時代のベストコンデションの鉄砲で、平和ボケした江戸時代砲術家の雪駄を履いて立放する標的射撃再現DVDである。
18 ページに「A命中精度はおそらく弓よりもかなり低い」と書いてあるが、実験は8ページに「両氏は射撃の名手として実験に参加」となっており、両氏よりももっと射撃の上手な方で再実験すれば見方が変わるかもしれない。
しかし、その根拠となる弓の実験データを示さず、24ページに「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」と書いて今回実験を行わず、読者をなめている。
また、「反復射撃は何秒で可能か」実験では、14ページに「E早撃ちのときには噛ましの布は未使用」と書いているのに、戦国鉄砲では使わない噛まし布を使用し、
2種の「かるか(鉄?)」で突いて余計に時間が掛かるように仕向けるなど、我田引水的な編集・著作となっており、俗書であり歴史書ではない。

朝鮮の役では2.5匁筒(口径11.8mm)が標準的口径で、それ以前はもっと小径だったと思われ、噛まし布を使えばカルカは折れ・曲がり易く相対的に弾も小さくなり、また、綿類は輸入品で火縄にも使っていないほどであった。 >>317 >>318
そのため、下向きに撃つ場合などは弾の転がり出防止のために、弾込め後に少量の発射薬を入れてカルカで再度突き固めるか、弾込め後に紙を丸めてカルカで突き固めるなど知恵を働かせている。
この方がまだREAL。 http://isv.sakura.ne.jp/gun/hina-ken.htm 弾は鎧に穴を開け、兜に当たれば脳震盪を起こさせる。>>553
命中率と引き換えに銃の大口径化による弾重量の増大化によって、具足はどの程度役に立ったものか?

この本は、5〜20秒ほどで突撃してくる距離での、敵の存在を1分間以上無視した「戦国合戦を科学する」もので、戦国合戦は面白いが謎だらけであるから慎重に。
0578人間七七四年2011/01/13(木) 20:27:26ID:hJyX2dEH
>>577
朝鮮役では、国内では威力不足で小口径の番筒でも
鎧に劣る朝鮮の兵には有効なため、大量調達されたという経緯がある。
0579人間七七四年2011/01/13(木) 21:17:52ID:65UJBWhB
>>578
あえて「具足」と書いたのは、鉄砲の出現によりその対応策を練った甲冑(=当世具足・南蛮具足)のことで、脳震盪を起こさせた例もある。
鉄砲の進化と具足は『矛盾』の関係にあり、具足がどの程度防御できた(=役立った)かが知りたい。
朝鮮の防具、従来の甲冑、足軽の防具は弓矢対応用で小口径の鉄砲でも簡単に穴が開き、兆弾には有効であったかも?
0580人間七七四年2011/01/14(金) 00:58:47ID:V71J0Tb0
>>573
燧石式の開発って1620年代だし広く普及したわけでもないんだから
そりゃ伝来してないだろ

神器譜には掣電銃や翼虎銃の開発は魯密銃や倭鳥銃、西洋銃を参考にしたとあるし
絵を見るとストックを脇に入れて頬付けてる
あと、威力があって射程が長いのはオスマン製、命中率が高く撃ち易いのは日本製
軽いのはポルトガルかスペイン製とあるね
0581S字型金具2011/01/14(金) 23:16:52ID:W9cs+/GP
>>580
>燧石式の開発って1620年代だし広く普及したわけでもないんだから そりゃ伝来してないだろ
洞富雄氏は、天文20年(1551年)にフランシスコ=シァビエルが大内義隆にespingarda de pederneira(燧石銃?)を贈ったことを紹介している。また、ミュクレット式銃(Miquelet)は1570年代に開発されている。
History :Sometime in the middle 1570s, Madrid gunsmiths introduced a prototype miquelet lock, possibly based on a lock developed in Brescia.  http://en.wikipedia.org/wiki/Miquelet

>神器譜には掣電銃や翼虎銃の開発は魯密銃や倭鳥銃、西洋銃を参考にしたとあるし 絵を見るとストックを脇に入れて頬付けてる
大きなストックで脇に挟める銃はインドなど各国に見られ、歩きながらの射撃もできるようにしてある。

>あと、威力があって射程が長いのはオスマン製、命中率が高く撃ち易いのは日本製  軽いのはポルトガルかスペイン製とあるね
当時、中国ではマラッカより西側諸国はすべて西洋と認識しており、インド、アフリカなども西洋で、ポルトガル、スペインと断定できない。
0582人間七七四年2011/01/14(金) 23:54:28ID:V71J0Tb0
>>581
フェリッペ2世の晩年でもスペイン兵やイタリア兵の支給された火器は火縄銃だから
本国でも全く普及してなさそうだけどな

倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い

掣電銃の項見ると西洋銃と佛郎机の間をとって造為とあって、違う扱いかもね
ヨーロッパ・インド系という分け方は全く持って不可解だけど
0583S字型金具2011/01/15(土) 00:48:06ID:v0j6cFzd
>>582
>フェリッペ2世の晩年でもスペイン兵やイタリア兵の支給された火器は火縄銃だから 本国でも全く普及してなさそうだけどな
ミュクレット式銃のメカは、外カラクリの倭銃のルーツのように思われるが、そもそも燧石銃はなぜか日本で普及していないので何とも言えない。

>倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
神器譜に倭鳥銃の図はありましたか?

>掣電銃の項見ると西洋銃と佛郎机の間をとって造為とあって、違う扱いかもね
佛郎机はポルトガル国を意味し、佛狼机夷はポルトガル人、また、佛郎机はカートリッジの子機を持つ大砲をも示す。明は佛郎机のようなカートリッジを使う大型銃の鷹揚砲、カートリッジ銃身の掣電銃を開発した。

>ヨーロッパ・インド系という分け方は全く持って不可解だけど
当時、中国ではマラッカより西側諸国はすべて西洋としていて、ヨーロッパとインドを区別していない。
0584人間七七四年2011/01/15(土) 02:38:26ID:Xg7ST/kL
>>583
火縄銃に詳しくないから倭銃と倭鳥銃の違いが解らないけど、文中じゃ区別してる感じしなくて
図には倭銃と書かれてる、結構いい扱い?というか性能は魯密銃の次に買われてる

それは確実に無いと思うな、明前期の鄭和ですらアフリカまで行って国名も残ってるし
元代の混一彊理歴代国都之図でもイラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる
いくら海禁政策を採っていたとは行っても、ムスリム商人や私貿易に携ってた商人はいるから

あと、密迩水が何所の国なのか全然解らん。どこ?
0585人間七七四年2011/01/15(土) 10:36:14ID:v0j6cFzd
>>584
>それは確実に無いと思うな、明前期の鄭和ですらアフリカまで行って国名も残ってるし
>元代の混一彊理歴代国都之図でもイラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる
>いくら海禁政策を採っていたとは行っても、ムスリム商人や私貿易に携ってた商人はいるから
神器譜は鉄砲解説書であり、明の永楽帝が鄭和を西洋に派遣して土地風俗を見聞させ、陳子魯が書いた『西域番国志』などの地理志とは違い、細かい地名・国名はここ(神器譜)では必要がない。
必要に応じて使い分けるもので、『イラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる』の指摘は見当違いでは?

>あと、密迩水が何所の国なのか全然解らん。どこ?
原文は、『ろ蜜密邇水西洋』と書かれている。したがって、国名ではなく『ろ蜜国は水西洋に密邇(接する)』である。

どこの原典か書籍から引っ張ってきて投稿しているのか判らないけれども、元が違えばその後の解釈も異なるのは当然である。銃砲史・戦国史には曖昧な根拠で汗牛充棟のごとく孫引きが横行している。
http://blog.goo.ne.jp/kanimaster/e/b33006ffe0ffd597e8544d1b2ddce5dc
今のところ、私の知っている神器譜には、倭銃・倭鳥銃の図はない。
0586人間七七四年2011/01/15(土) 14:04:21ID:Xg7ST/kL
孫引きも何も、上海社会科学院出版社、出版の温州文献双書に載ってる
神器譜には倭銃・倭鳥銃の図があるよ、私の知っている神器譜って何?意味不明なんだけど
0587人間七七四年2011/01/15(土) 17:47:30ID:v0j6cFzd
>>586
>孫引きも何も、上海社会科学院出版社、出版の温州文献双書に載ってる

温州文献双書ではなく、温州文献叢書(温州文献丛书)の竜門集・神器譜(龙门集・神器谱)のことでしょうか?
温州文献叢書に『倭銃・倭鳥銃の図』が載っていることを知らず、失礼しました。
神器譜には、色々なバージョンがあることが知られており、未だ完全本は不明のため、今後も追加があると思います。私は、主に谷村文庫本、玄覧堂叢書本などを見ています。>>301
中国史研究のために温州文献叢書の編集委員会が結成され、2006年に日本古典研究会の協力を得て出版されたこの本の存在は知っていましたが、国会図書館にも所蔵されておらず、今のところ倭銃図の確認はできません。

>>582
>倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
『相当ストックが長い倭鳥銃』は新発見で、倭銃研究・鉄砲伝来に関係すると思われるので、是非、図のアップロードをお願いします。
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