逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありF

織田信長の堺支配(1570年〜?)の前、1565年(永禄8年)に、日本の商人等が貿易相手であるポルトガル官許船への略奪未遂事件を起こした。
この事件については日本とポルトガル両方に記録が残っているが大きな相違があり、日本側の記録「大曲記」はそれ自体の信用性が疑われる内容である。
ポルトガル側の記録は幾つかあり、それぞれ詳細に記載されている。
ポルトガル船の入港はそれまで平戸であったが、ポルトガル側の都合により1962年から横瀬浦に変わった。
1965年に来航したポルトガル官許船は、横瀬浦が戦乱中で破壊されているので、調査済みの大村領の福田浦へ入港した。
今後平戸領内にポルトガル船が入港しなくなるので、領主の松浦隆信は堺の商人等と略奪計画を盟約し、武装した商人等の大船8艘と松浦軍の小船で官許船へ奇襲攻撃を掛けた。
フロイスは、「その時の松浦軍の攻撃武器は、堺で作られた大型のマスケット銃であるエスピンガルダ銃と矢であり、商人等は生糸を買うために来た堺の商人等である」と書いている。
福田浦には、ポルトガルの小型ガレアン船1艘と支那商人の船数艘がいて、不意を突かれたポルトガル官許船にそれらの船は全力で近づき、援助を行った。
大村領の大村純忠は、ポルトガル船への援助をしなかった(できなかった?)。
ガレアン船の砲撃により松浦軍側は大船3艘が撃破され、200名以上の死傷者を出して略奪は失敗に終わった。
襲撃されたポルトガル官許船の積荷がその後どうなったかの記録は無いが、12月(?)に出帆している。

この記録から見ても、当時の日本側の貿易体制は海賊行為が行われており(瀬戸内海は海賊が横行していたが、日本海側は不明)、ポルトガル船は直接堺港に入港できない状態ではなかろうか。
この当時ポルトガルは日本の諸侯を通じて日本の商人等と商売をしており(日本在住の支那商人もか?)、堺との直接貿易ルートが確立しているとは思えず、「硝石(煙硝)」が略奪商品名や貿易記録に出てこないことから、
井沢元彦さんの逆説の本に書いてある「織田信長の煙硝の輸入ルート」そのもの自体がありえないのではなかろうか。
また、支那商人が来往しなかった時期もあり(>>462)、硝石の輸入については再検討を要する。