逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありE

ポルトガル政府の勅令によるカピタン・モール制は1555年から始まり、1556年からボルトガル官許船は毎年必ず一回一艘が定期的に日本へ来航し、大規模な重商業主義的な機構による貿易が始まった。
ポルトガルが支那(明)のマカオでの居留権を得たのは1557年からであり、官許船での日本貿易は必ずマカオ経由での取引となった。 >>359
今までポルトガル商人による硝石の輸出入記録は発見されていないが、支那は硝石の産地なので、仮に硝石の輸出入があってもインドやマラッカで集荷された品物とは考えにくく、硝石はマカオで集荷された物になるであろう。
しかし、明が日本への輸出や通過を認めたかどうかは不明であり、当時の輸出入の記録は少ないながらも、日本への硝石の輸出入に関する書翰の痕跡すらも発見されていない(たぶん?)。
通常、ポルトガル官許船は、南方季節風を利用して7・8月に日本に入港し、北方季節風が吹くのを待って11・12月に出帆しており、その間に日本の商人と取引を行い、それ以外の期間には日本の港にポルトガル船はいなかった。
また、当時の日本の港に支那船がいない事を1558年に来航したカピタン・モール・レオネル・デ・ソーザが1561年の書翰で記述している。
『かくして予は支那に至るや、ポルトガル・印度の凡ての煩はしき要求を忘却し、日本の港に行きて自己を利せんと決意せり。
日本人の支那に対してなしてありたる大戦争(倭寇)の故に、(支那)商人来往せず港は閉ざされてありて、予が載せ行きし商貨の価は、予をして利益に倦怠せしむるまでの額に達し、(後略)』

このような重商業主義のカピタン・モール制の現況において、井沢元彦さんの逆説の本のP133
『鉄砲は一丁持てば、二丁、三丁と欲しくなる。そして、それを有効使用するためには硝石を大量に輸入しなければならない。ならば初めの一丁ぐらいは「サービス」しても、ポルトガル商人は損はしない。いやむしろ多大な利益が期待できるのだ。』
の根拠は何処にあるのだろうか?

倭寇による鉄炮伝来説の宇田川武久さんは、硝石について殆ど触れていなく、1558年以降の倭寇説はどのような展開で成り立っているのだろうか?