▼火縄銃について語ろう▲
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0461S字型金具
2010/08/12(木) 00:52:41ID:4S3ohsRA井沢元彦さんの逆説の本のP133にポルトガル商人による硝石輸入について、根拠の無い(?)ことを記述している。
『鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
(中略)その輸入ルートが確立されない限り鉄砲の大量使用は不可能であることは、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのである。』
十六世紀日欧交通史の研究(岡本良知著)の「第二章 ボルトガル船の日本航海」に
『ボルトガル印度間では多くは十数艘少くも数艘の船隊をなして航海したが、当時日本へは通例一艘、ときに船一艘の外一・二艘のジャンクが来た。
三百年前のこの極東の航海に従った僚船を有せぬ一帆船は、印度を出帆してマラッカ海峡を過ぎ、寂莫たる南支那海を北上して遠路広東沖に達し、
それより更に糧食を補給し貨物を積んで台湾海狭の荒波を蹴り東支那海を東走して日本に達し、帰航にはまた同じ経過を逆に追って行ったのである。』
同著、第四章の『至一五九〇年日本航末ヨーロッパ船一覧表』に「航海年度・出発・経由地・入港地・到着月日・出発月日・カピタン名・備考」が詳しく調べられている。
これによると、ボルトガル官許船による諸侯との貿易期間である1555〜1587年(弘治元年〜天正15年)では、年間1〜3隻(33年間に66隻で年平均2隻)が7・8月に、九州各地に入港している。
今まで、ポルトガル商人との鉄砲・火薬・硝石の輸出入記録は発見されておらず、ただ、若干の贈答、融通した記録はある。
当時のポルトガル人の日本貿易は、終始一貫して支那物資(生糸・絹織物)と日本物資(銀)との仲買貿易をしていたとされている。
硝石が生糸・絹織物よりも量や利益があれば輸出入記録に残るはずだし、仮に年間1〜3隻のガレオン船のサブ輸入品としても当時の日本の使用量から見ると足りる量では無く、しかも7・8月の入荷である。
ボルトガル官許船1〜3隻の貿易記録にも残らない量の火薬が、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのであろうか?
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