「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問C

「倭寇」説は、朝鮮王朝の記録『中宗実録』と『明実録』を引き合いに出している。
◎中宗三十九年七月のことである【1544年・天文13年】。一艘の唐船が羅州の飛弥島に停泊した。・・・・中略・・・・。
いきなり火砲を発してきた【卽發火炮】。それにわが船の二人が中って死亡し、二人が傷をうけた【二人中炮而死, 二人中炮而傷,】。
そこでやむなくわが方は火砲と弓箭で応戦したが【而勢不得已應以火炮弓箭】、やがて唐人らは楯に身を隠しながら、櫓を漕いで東方に向かった。このとき、たまたま唐船の船足が鈍くなったので追いついて捕獲することができた。
◎朝鮮王朝が漂流民を保護して明に送還するのは、明との朝貢関係からであるが、なによりも恐れたのは、唐人たちの所持する火砲が商売の末日本に伝わり、日本人が火砲の製作法や射法を学んで、朝鮮に害をなすことにあった。
【且此唐人,今持火炮器具, 漂向日本,而ヘ習於彼, 則其爲巨禍, 莫此爲甚。】、
◎福建省の国禁を犯した者たちを送還したとき、朝鮮国王は「今、また馮淑ら前後とも千人以上を捕らえたが、かれらは軍器と貨物をもっている。これ以前、倭奴は火砲がなかったが、今では多くこれをもっている」と明政府に報告している。

「倭寇」説は、
『かつて日本には火砲がなかったが、いまでは多量にもっているというのである。
この時期、朝鮮王朝はおびただしい数の中国人を保護したが、かれらは一様に軍器を所持していたという。
この軍器は火砲、つまり鉄炮であろう。朝鮮海峡で漂着し朝鮮王朝に拿捕された明の商船はごく一部であるから、それ以外は積載した火砲を日本に売りさばいたことは想像にかたくない。』
つまり、軍器=火砲=鉄炮(東南アジア製)として、多くの鉄炮を日本に売りさばいたとしている。

朝鮮王朝の記録に没収・鹵獲した鉄炮の記録が無い。倭寇を取り締まった中国(明)にも鉄炮の記録が無い。
ということは、当時の倭寇は鉄炮を使っていない。取り扱っていない。
軍器・火砲=鉄炮の前提が崩れていれば、「倭寇」説そのものが成り立たない。

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、その後の中国・朝鮮の鳥銃伝来の説明がつく。
また、東南アジア製の鉄砲が朝鮮に伝来(将来?)しなかった説明もつくし、ポルトガルの鉄炮の商売記録が無いことも説明がつく。