戦国期の火縄銃についての疑問DのA

「鉄炮記」には、「佛郎機(フランキ)」、現在の葡萄牙(ポルトガル)が出てこない。
佛郎機は国名で、正徳12年(1517年)、佛郎機種は明国へ朝貢したが、その後、国交を断られた。
佛郎機砲は、佛郎機種が中国(明)へ伝え、明が改良した大砲である。
明は、嘉靖2年(1523年)に試作し、嘉靖7年(1528年)には4000門を配備したが、小型火器である銃(佛郎機槍?)については、不明である。

「鉄炮記」に、天文12年(1543年)に着いたのは、「西南蛮種之賈胡也」、すなわち、「東南アジアの商人である」とはっきり書いてある。
文中に、6箇所「蛮種」が出てくるが、「佛郎機種」よりは「西南蛮種」としたほうが妥当だと思え、また「その後どうなったか」については書かれていない。
「鉄炮記」での「蛮種」は、「其形不類,其語不通,見者以為奇怪矣」
明国「武備志」でのポルトガル人は、「顧應祥云、佛狼機國名也、非銃名也、正徳丁丑(1517年)、予任廣東僉事、署海道事、驀有大海船二隻、直至廣城懐遠驛、稱係佛狼機國進貢、其船主名加必丹、其人皆高鼻深目、以白布纏頭、如回回打扮」
その翌年、「蛮種の鉄匠」(たぶん鍛冶職人)より、「底塞ぎ」を学んだが、通訳や、筆談、風体については書かれていない。

五峯(大明儒生)が「倭寇の王直」説は、天文12年(1543年)現在、日本語が喋れないので、「アウト!」。
天文12年(1543年)の種子島の当主は「恵時」のはずだか(時尭は当時15歳?)、なぜか文中1箇所のみである。

Dについては多くの疑問があり、長くなりますが書かせてください。