戦国期の火縄銃についての疑問Dの@

伊川さんの、「鉄炮記」について『技術面での考察をあわせるのであれば、さらに複雑化することはいうまでもない。』と記述していることは、今まで、技術面から鉄砲伝来を見ていない(調べていない)事を言っている。

私なりに「鉄炮記」を読解してみると、
@種子島の位置と地名の由来を紹介。
A天文12年、言葉の通じない外国人(西南蛮人の商人)が乗った船が来て(難破か座礁か不明)、五峯(明人の儒生)と筆談できたので、領主の恵時と時堯は港に運んだ。
B住乗院(島の法華の徒)と五峯は、筆談により意思が通じた。
C商人の長は二人いて、鉄炮を持っていた。
D時堯は鉄炮の原理・用途を理解した。
E今呼んでいる鉄炮の名称は、明の人か、あるいは種子島の人が知らずに名づけたものである。
F時堯は使い方を学び、頼んで二丁手に入れ、妙薬の調合法も学び、鉄炮の練習をして、百発百中になった。
G紀州根来寺の杉坊某公が鉄炮を求めてきたので、隠さずに、妙薬の調合法、使用法を教え、一丁贈った。
H時尭は鍛冶職人に複製品を作らせたが、鉄炮の底の塞ぎ方を知らなかった。
I翌年、蛮人の商人が来て、その中に一人の鍛冶職人がいたので塞ぎ方を学び、その後、数十の鉄炮を製造した。
J時堯は、鉄炮の台の形・飾りの模造が気に入らなかった。(理由は、鉄炮は軍需品である)
K近臣の者は時堯を見習い、多くの人が百発百中になった。
L和泉国堺の橘屋又三郎(商客の徒)が島で鉄炮を学び、畿内・関西・関東の人に伝習させた。
M聞いたところによると、鉄炮を持った松下五郎三郎(時尭の家来)が東海道伊豆州に漂着し、関東八州の人に伝習させた。
N鉄炮が種子島に伝わって六十年余りで、覚えている者がいる。領主の時堯は、蛮人から二丁の鉄炮を求め、学び、日本中を驚かせた。また、鉄炮の製造法を知り、日本中に教えた。
 種子島が鉄炮の始まりであることを明らかにするためにこれを書いた。種子島は、種子の意味にあった島の名前である。

読解力不足ですみません。