▼火縄銃について語ろう▲
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0340S字型金具
2010/02/11(木) 00:59:27ID:gxF3hfFX「真説 鉄砲伝来」で南蛮鉄砲について、『P64 江戸時代以前、わが国に伝えられた鉄砲は、南蛮筒とか、南蛮鉄砲とよばれていた』、『P82 外国製の鉄砲は「南蛮筒」とよばれ、それを見本につくられた鉄砲が「異風筒」である』と明言している。
「南蛮筒」についての古文書は、P64・65に「天文23年(1554)」、「天正12年(1584)」、「天正14年4月」、「慶長18年(1613)」などを紹介している。
そして、P65から現存する南蛮筒の実物資料7点を紹介し、伝初伝銃を「南蛮筒(銃身だけ)」、他の6点を「異風筒」として、『南蛮鉄砲・南蛮筒に関する文献史料と実物資料は数えるほどしかない・・・』と記述している。
その他国内には、喜蔵とりつき銃、信玄砲、上妻家伝来古銃、慶長大火縄銃、徳川家康所用火縄銃なども存在するが、著者はこれらも「異風筒である」と言うに違いないが、「信玄砲」はどんな「南蛮筒」を見本にして作られたものだろうか。
いずれにしても制作年のわかる(信頼できる)現存銃は、慶長期(1600年ころ)以降とされ、それ以前については確証が得られていない。
P82から「異風筒」についての記載があり、『実在を示す文献史料はつぎの三点を数えるにすぎない』として、紹介している。
@元和3年(1617年) 鉄砲1020挺、イフウ物不同也 285丁、『千二十挺に対して二百八十五挺は、けっして少ない数字ではあるまい』と記述。
A元和4年(1618年) 異風筒 300挺、6匁玉 1000挺、『三百挺におよぶ異風筒が島原城にあったことになる』と記述。
B寛永13年(1636年) 田布施流の秘伝書、『そこには「大薬、種嶋、異風物」とあり・・・・異風物がふくまれていた可能性がある』と記述。
『P85 通説のように種子島を起点に鉄砲が全国に伝播したとすれば、みな種子島の鉄砲とおなじ形式になるはずである。
しかし、そうでないのだから、種子島以外の地域にも南蛮鉄砲が伝わったことになる。
南蛮筒はもとより、多くの異風筒の存在は、鉄砲の伝来が分散波状的にあったことを証明している』と記述している。
しかし、私はこの記述について、全く納得できない。
著者は南蛮筒・異風筒以外の存在を認めていないのに、@ABの「異風筒以外の多量の鉄砲」をも認めている。
これは「おかしい」。「真説」というよりは・・・・・。
だから、私の「戦国期の火縄銃についての疑問C」が出てくる。
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