戦国期の火縄銃についての疑問CのC

由緒書などには信頼性の低いものもあるが、鉄砲について誰から教わったかを「真説 鉄砲伝来」の第4・5章から拾い上げてみると
@P70 天文二十三年に佐々木少輔府次郎が祖父の相模守に授けたもので・・・
AP87 機会があって入唐し、明師から小筒一流の秘術の伝授を受けて帰国し、さらに研鑽を積んだ
(P91 秘伝書の目的は秘事の伝授であって、鉄砲伝来の事実を語ることではない。唐・天竺も南蛮もともに外の国、すなわち海外からということを表現したもので、それほど深い意味はない)
BP95 長ずるにおよんで諸国を遍歴し、諸流の秘伝を学んで・・・
CP98 唐人式部大輔に秘伝を授けた岸和田肥前守重房の消息は不明であるが・・・
DP104 大唐より鉄砲が伝わり、豊後の国に・・・
EP105 その伝来は大友家から世上にひろまった
FP106 鉄砲は大永六年に村上新左衛門という西国の牢人が信虎公へ奉公して教えた
(P106 まだ鉄砲が伝来していないからおかしい)
GP109 唐国から永正七年に初めて渡来した鉄砲と教えられた。
(P109 それが永正七年というのはありえない。鉄砲自体が伝来していないからである)

東南アジア人・南蛮人から教わったような形跡は見えず、著者は「天文十二年伝来説」にこだわっている。
また、P57の「鉄砲薬方並調合次第」では、「両分朱」の単位系を使い、道具も東南アジアのものではない。
(この次第書はなぜか配合比率が2種あり、この処方では火薬は作れず、詳細は口伝となっている)