▼火縄銃について語ろう▲
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 22:56:37ID:MMPKGKDMどのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
0320S字型金具
2010/01/10(日) 23:51:26ID:IfKE7cSp射撃練習や黒色火薬の出来を見るために試し撃ちをする。
裸眼視力で、計算上識別できる大きさ(o)と対象までの距離(m)は以下の様である。
視力 10 20 50 100 200
1.0 34 69 172 345 690
2.0 69 138 345 690 1379
3.0 103 207 517 1034 2069
4.0 138 276 690 1379 2759
明るい場所でコントラストの強い静止した物体は、裸眼で2.0の人は10oは69m、100oは690mまで見え、裸眼限界の4.0では、10oは138m、100oは1379mまで見えることになる。
10円玉(径23.5o)に例えると、計算上、視力2.0で162m、視力4.0で323mまで見えることになる。
通常、火縄銃の弾丸は音速で飛ぶために裸眼では見えなく、被弾痕で正確性を判断する。
その際、識別できる物を大きくするために、土煙が出る所を造って着弾させるか、水に浮かべた木片を的にして波紋を出させる。
当時は伝染病のトラコーマ、囲炉裏の煙や不潔な手による結膜炎などの眼病が想定され、眼の洗浄剤や目薬もなく、昔の人は視力が良かったとは一概に言えない。
また、動体視力と静止視力は全く別のものであるが、戦闘中の物の見え方は如何であったろうか。
>>313 の「1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。」は、撃ったほうが相手の被弾負傷よる姿勢変化を見てのことであり、何処に弾が飛んで行ったか分からない場合が多い。
標的が動くことや風向・風力、空気中の湿度、照度・靄・霧・雨などの諸条件により命中率(負傷させる)は悪かった様に思われる。
撃たれる側から見ると、耳元での衝撃波音は相手の発射音よりも先に聞こえるが弾は見えなく、直進弾の他に兆弾(跳弾)もあり、当たれば傷害度の大きい恐怖の対象となる武器に遭遇したことになる。
より正確に弾を飛ばすためには、どのくらい練習できたのか(させてもらえたのか)、またその経費は如何様であったかものか。
0321人間七七四年
2010/01/11(月) 00:24:17ID:tHuoJza2鉛弾は変形して再利用できなくなるから。
0322人間七七四年
2010/01/14(木) 15:56:04ID:L1fLSl8q文禄・慶長の役では安価な二匁半筒を大量に調達したため、
それまでと比べ小口径な銃が多用されたんじゃなかったっけ。
板金鎧を着けない朝鮮兵には十分効果があったんだろうけど。
0323S字型金具
2010/01/15(金) 01:10:17ID:eaajzEnG射撃実験の Video があります。
「火縄銃の威力検証」
ttp://isv.sakura.ne.jp/gun/hina-ken.htm
小口径の鉄砲(小重量の弾)でも、当たれば相当な負傷を与えるでしょうね。
0324S字型金具
2010/01/24(日) 00:48:38ID:ETgJfqaP火縄銃の口径と弾丸のサイズは、あまりにもバリエーションが多い。
そのため、口径に合わせて弾丸を作成していたようだ。
そこで、弾丸作成法に疑問がある。
戦国期の弾丸作成は、玉型を使用していたのだろうか。
鉄玉の出土があるから鋳型も使ったと思われるが、鉛の比熱は小さいので鋳型は使った(利用できた)だろうか。
表面張力を利用した溶融滴下法(dripping molten lead)で多量に鉛球を作成し、その中から口径に合った物を選別した
可能性がある。(この方法で真球度の高い物ができるかどうか、何時か再現実験をしてみたい)
0325人間七七四年
2010/01/24(日) 01:49:24ID:jVz6q19n江戸時代や大陸と同じように、先がでかくて中に球状の空間があるペンチつかって
工具は知らんがバリの付いた制作途上の弾丸は発掘調査で出土してるし
鉛製、鉄製のほかに銅製のもあったらしいな。
篭城中に鉛が無くなって、しょうがないから銅銭溶かしてって推測されてたが
0326S字型金具
2010/01/24(日) 22:37:47ID:ETgJfqaP>308 の8分弾(直径8ミリ)から2.5匁弾(直径12ミリ)の小球形金属物の作成を考えると、
当時、炭火では鉄を溶融できなく、鉄玉では鎚による作成よりも、鉄鋳型による温鍛造の可能性がある。
銅玉や >316 の合金弾については、銅銭製造のようにルツボ・トリベによる溶融土鋳型法も考えられるが、鎚による鍛造や、鉄鋳型による温鍛造の可能性もある。
鉛玉は、玉型(1発用)による溶融鋳型は現存しているが、多発用の土鋳型の現存は知らない。(私が知らないだけかも)
鋳型による弾製造は、鋳型によって玉径が決まるので、口径にあった鋳型が必要となる。
いずれにしても真球度を上げないと弾の回転が増して直進性が失われる。
鉛は整形が簡便で高比重であることから弾材料に適しているが、数百発の異径鉛弾の一括出土例はどの様に解釈したらよいのか判らない。
0327S字型金具
2010/02/03(水) 23:47:26ID:Pn1Hh8JL「真説 鉄砲伝来」に、気になることが書いてあった。
記事の中から、近世初頭における火縄銃と思われるものを拾い上げると、
「鉄炮・鉄放・大鉄炮・石火矢・手火矢・長大筒・小筒・六匁玉・種嶋・薩摩筒・南蛮筒・南蛮鉄炮・異風筒・異風物・意府物」と多くあり、なぜ色々な名前を付けていたか、呼ばれていたかが疑問である。
著者は「むすび」で、「伝来したものが南蛮筒」で「異風筒は南蛮筒を見本にしてつくられたもの」としているが、異風筒の呼び方にしては多すぎるような気がするし、南蛮筒の呼び方は後の呼び方である。
あえて「南蛮」と付けて、違いを示す必要性があったものか。
また、「西日本一帯の広い地域に南蛮筒が続々と渡来した」と記載している。
東南アジアの一地域から工夫・改良されながら続々と渡来したものか、インドを含む東南アジア一帯から渡来したものかが不明である。
その時代のキリシタンご一行様も鉄砲を持っており、その西洋鉄砲の影響についても不明である。
東南アジアに、中国(明)よりも火器の発達した国があったとは思えないが。
0328仙台藩百姓
2010/02/05(金) 20:59:18ID:Abgtcxud今だって小銃一つとっても数十種類あるのと同じだお( ^ω^)
0329S字型金具
2010/02/05(金) 21:49:29ID:USeLibst異風筒の呼び名が多い割りに、火縄銃の部品名についての異名が少ない。
「照門・照星・銃口・銃床・さく杖」については中国での部品名であり、江戸期になってから使われ始めたもので近世初期には用いられてはおらず、「鉄砲伝来」とは関係ない部品名である。
火縄銃が進歩・発達すれば当然部品点数も増え部品名も増えてくるが、「続々と渡来した」ならば外国語の部品名が付けられていてもおかしくない。
江戸期に入り、数多くの「流派・砲術師」があらわれてバリエーションのある銃が造られ「口伝・秘伝書」で部品名を伝えているが、部品名を漢字に当てはめ直したとしても、なぜ「秘事」にしてはあまりにも共通の部品名を使い、異名が少ないのだろうか。
「カルカ」についてはカタカナで書かれおり、その意味はポルトガル語の歯科道具「calcador」(和名のエキスプローラー・エキスカベーター)に相当するものと思ったが?
また、「火縄銃」の呼称は、何時ごろ、誰が、何と区別するために言い始めたのだろうか?
0330人間七七四年
2010/02/05(金) 23:33:10ID:iJ/MwIDV0331人間七七四年
2010/02/06(土) 00:16:00ID:EWP5qdYJ0332人間七七四年
2010/02/06(土) 00:23:48ID:EgU7dvMD0333S字型金具
2010/02/06(土) 01:08:32ID:X7wPP/N+「朝鮮王朝實録」の「成宗 75卷, 8年(1477年) 1月 28日(丁卯)」には、
「火藥庫有石硫黃二十三萬七千餘斤焰焇四萬斤然今倭人未有來獻者必有窮盡之時」とあり、「火薬庫に石硫黄23万 7千余斤と焔硝4万斤の在庫があるが、今まで献上(献土)してきた倭人(日本人)が来なくなったので,必ず無くなる時が来る」と記述されている。
「朝鮮王朝實録」に鉄砲に関係する倭人の献上品に、硫黄・鉛・銅などが記述されており、これまでに(1418年12月から1449年2月まで)これらを献上してきた主な日本人は以下の人々である。
九州前ハ管右武衛源道鎭、九州ハ管源義俊、筑州石城管事民部少輔平滿景、對馬島都萬戶左衛門大カ
筑前州太守藏親家、濃州太守平宗壽、一岐州太守源重、駿州太守源省、肥州太守源昌C、筑前州太守滕源滿貞、日向大隅薩摩州太守修理大夫、薩摩州太守源久貴
熊州刺史源昌C、作州前刺史平常嘉、九州府石城式部小輔源俊臣、薩摩州伊集院㝢鎭藤原ョ久、筑前州太宰宗貞澄
したがって、その当時、朝鮮に鉄砲原料(無い・不足している物)を送ったのは「倭寇」ではなく、日本の役人である。
また、日本は火薬のことは当然知っているが、朝鮮側が秘密にしていて正式に教えていない。
0334人間七七四年
2010/02/06(土) 22:56:48ID:EgU7dvMD日本の役人が正規に火器の原料を朝鮮に提供していたのは
倭寇による鉄砲伝来説とはまったく矛盾しない。
0335S字型金具
2010/02/07(日) 02:25:12ID:n4nccmJZ「真説 鉄砲伝来」の著者は、「国立歴史民俗博物館研究報告第17集」「壬辰・丁酉の倭乱と李朝の兵器」の中で、
明宗元年(1546年) 四月「濟州漂流人到琉球國刷還到上國時見福建道水車之制而傳習之今若制作激水甚便請令戶曹造作下送各道ヘ民何如且鐵丸火砲唐人之所作用之水戰甚便破敵尤妙請令軍器寺詳究制度造作藏諸沿邊各官以備不虞何如」
について、「鐵丸火砲」を「中国人が造った仏狼機」と推測し記述している。(P11、P46〜)
著者の推測根拠は、
@明宗元年(1546年)は、仏狼機が明国に伝わって二十七年後のことであるから、このとき、李朝に仏狼機があったとみても不自然ではあるまい。唐人の鉄丸火炮はおそらく仏狼機かもしれない。
A宣祖二十六年(1593年)九月、李朝は仏狼機の説明が書いてある「紀效新書」をえたので、研究されていたはずである。
B宣祖二十七年(1594年)六月、明国軍が平壌城を仏狼機で攻撃した。(ただし、李朝ではない)
C宣祖二十八年(1595年)十月、「海上通路遮断するために仏狼機などを装備すべきと啓した」とあるので、仏狼機が打造されたとみなしてもよいだろう。このなかに仏狼機がふくまれていたとおもいたい。
などであるが、その直後の文に「ヨーロッパから明国に伝わった仏狼機は、その後、ほどなくして李朝にもたらされた」「仏狼機が、宣祖二十八年ごろふたたび打造されたのである」と断言している。
しかし、「朝鮮王朝實録」では、「鐵丸火砲」の記載はここ1箇所のみ、「佛狼機(器)」についての記載は宣祖二十七年(1594年)三月からで、訓練は光海二年(1610 年) 十月から、製作は顯宗六年(1665年) 五月からのようである。
また、著者は、宣祖二十五年(1592年)十月四日「賊徒一百名出來則前鋒百人持鐵丸環刀其餘後行皆無兵器我軍誠冒死突入勝之必矣」について、「鉄丸が火縄銃、長剣と環刀が日本刀であることはいうまでもあるまい。」と断言している。(P7)
「朝鮮王朝實録」に「鐵丸」は多く出ているが、「鐵丸火砲」について「中国人が造った鉄砲」と解するほうが妥当な見方ではないだろうか。
そうであれば、「天文十五年(1546年)以前に中国で・・・」となる。
0336S字型金具
2010/02/07(日) 10:41:48ID:n4nccmJZしかし言えることは、「朝鮮は日本のことを恐れている割には、日本のことを知らないし、知ろうとしない」、「中国から火器・火薬について習ったが、その後の改良・進歩が遅い」である。
日本を恐れるあまり火薬製造法を極秘にし、自国の技術伝承さえ危うくなっていて、「朝鮮王朝實録」の記述から日本の鉄砲について知るべきことは少ないと思える。
1449年2月以降、朝鮮への献上(献土)はほとんど無くなり、日本人は私貿易でも硫黄なども扱っており、焔硝は禁制品ではなくその精製法も知っていた。(火薬についての製法は中国より知っていたが性能は不明)
定宗元年(1399年)6月1日「日本國使詣闕 賜酒食日旣夕令軍器監張火戲以視之倭驚曰此非人力所爲乃天神使之然也」で驚き、その原料の硫黄などを献上していれば、中国より情報を得ようとするのは当然だと思える。
今までの「朝鮮王朝實録」による「倭寇による鉄砲伝来説」は状況証拠であり、確証ではない。
「鉄砲伝来」について、中国(明)史料を解明しないと真実は出てこないのかも知れない。
その他、
@「鉛丸」の記述は、宣祖26年(1593年) 1月 11日「提督鼓諸軍薄城賊伏於陴中亂用鉛丸湯水大石滾下拒之」からであった。
A「鉄砲」の定義についてははっきりしていないが、これも「伝来」といえるのかな。
世宗卽位年(1418年)8月14日「對馬島敬差官李藝啓 火(桶)碗口唯以銅鐵鑄造而銅鐵我國所不産因此火(桶)碗口未易鑄造臣至對馬島於賊倭處得中國所鑄水鐵火(桶)碗口以來請以水鐵鑄火(桶)碗口分置諸州鎭命軍器監試之」
0337人間七七四年
2010/02/07(日) 23:18:03ID:XUiYsI1/朝鮮王朝実録(1546年)記述の「鐵丸火砲唐人之所作」が仏狼機という根拠は滅茶苦茶。
ABCは(1593年)(1594年)(1595年)の仏狼機に関する記述で
そんなものが時代大きくを遡って(1546年)に適用できるものじゃない。
@にしても「不自然ではあるまい」とか「かもしれない」といった程度の
殆ど根拠にならないような根拠。
(1546年)頃の明では仏狼機以外の各種火砲が存在していたのだから
仏狼機に限定することはできない。
0338S字型金具
2010/02/08(月) 23:44:03ID:6wVSZddy倭寇による伝来説の根拠を「真説 鉄砲伝来 P44〜P49」から抜き出すと、
@この当時、明政府は朝貢関係にある外国の商船以外の受け入れを禁止し、自国の商船の海外渡航を禁じていた
A天文十五年(一五四六)に薩摩山川港に来泊したポルトガル船の船長が、年々九州地方に来航していた中国船の数はおびただしかったと記録に書き残している
B明の商船がわが国に頻繁に来航するようになると・・・日本の商人がこれに加わって明に出向くようにもなった
C倭寇は・・・国禁を犯して、日本や東南アジアの諸方面に奔走して威勢を誇示していた
D倭寇の構成員の主体は中国人であったが、・・・・倭寇は西日本地域と深い関係があったことになる
E中国人は・・・つまり鉄砲であろう。・・・火砲を日本に売りさばいたことは想像にかたくない
F明宗2年(1547)4月19日の記録によると、すでに福建人が倭奴と交通して、かれらに兵器をあたえ、かつ火砲の撃ち方を教えた
G倭寇の重要な交易品のなかには硝石や硫黄がふくまれているが、これらの商品は鉄砲の必需品である。この点からも倭寇が鉄砲を商ったことはまちがいあるまい
だから、「倭寇が東南アジアから鉄砲を伝えた」としている。
中宗39年(1544年)7月23日「但此唐人漂向倭地則其火砲器具倭人必ョ而傳習
當此憤怨之時其爲我國之害亦豈少哉前者欲以唐船有勿歸倭地之議其言甚爲有理
然興販唐船往來日本者必前後相望倭奴之傳習火砲恐或終不能防閑也」
P48のこの文を著者は、「唐人たちの所持する火砲が商売の末日本に伝わり、日本人が火砲の製作法や射法を学んで、朝鮮に害をなすことにあった」と解説しているが、
「中国人が日本へ行って、日本人に中国の火砲・器具を教える」とも取れるのだが。
ABの薩摩山川港を含む九州地方の人は「倭寇」か。
Fの中国・福建を東南アジアといえるのかな。
0339S字型金具
2010/02/10(水) 01:08:16ID:isGwpU7k由緒書などには信頼性の低いものもあるが、鉄砲について誰から教わったかを「真説 鉄砲伝来」の第4・5章から拾い上げてみると
@P70 天文二十三年に佐々木少輔府次郎が祖父の相模守に授けたもので・・・
AP87 機会があって入唐し、明師から小筒一流の秘術の伝授を受けて帰国し、さらに研鑽を積んだ
(P91 秘伝書の目的は秘事の伝授であって、鉄砲伝来の事実を語ることではない。唐・天竺も南蛮もともに外の国、すなわち海外からということを表現したもので、それほど深い意味はない)
BP95 長ずるにおよんで諸国を遍歴し、諸流の秘伝を学んで・・・
CP98 唐人式部大輔に秘伝を授けた岸和田肥前守重房の消息は不明であるが・・・
DP104 大唐より鉄砲が伝わり、豊後の国に・・・
EP105 その伝来は大友家から世上にひろまった
FP106 鉄砲は大永六年に村上新左衛門という西国の牢人が信虎公へ奉公して教えた
(P106 まだ鉄砲が伝来していないからおかしい)
GP109 唐国から永正七年に初めて渡来した鉄砲と教えられた。
(P109 それが永正七年というのはありえない。鉄砲自体が伝来していないからである)
東南アジア人・南蛮人から教わったような形跡は見えず、著者は「天文十二年伝来説」にこだわっている。
また、P57の「鉄砲薬方並調合次第」では、「両分朱」の単位系を使い、道具も東南アジアのものではない。
(この次第書はなぜか配合比率が2種あり、この処方では火薬は作れず、詳細は口伝となっている)
0340S字型金具
2010/02/11(木) 00:59:27ID:gxF3hfFX「真説 鉄砲伝来」で南蛮鉄砲について、『P64 江戸時代以前、わが国に伝えられた鉄砲は、南蛮筒とか、南蛮鉄砲とよばれていた』、『P82 外国製の鉄砲は「南蛮筒」とよばれ、それを見本につくられた鉄砲が「異風筒」である』と明言している。
「南蛮筒」についての古文書は、P64・65に「天文23年(1554)」、「天正12年(1584)」、「天正14年4月」、「慶長18年(1613)」などを紹介している。
そして、P65から現存する南蛮筒の実物資料7点を紹介し、伝初伝銃を「南蛮筒(銃身だけ)」、他の6点を「異風筒」として、『南蛮鉄砲・南蛮筒に関する文献史料と実物資料は数えるほどしかない・・・』と記述している。
その他国内には、喜蔵とりつき銃、信玄砲、上妻家伝来古銃、慶長大火縄銃、徳川家康所用火縄銃なども存在するが、著者はこれらも「異風筒である」と言うに違いないが、「信玄砲」はどんな「南蛮筒」を見本にして作られたものだろうか。
いずれにしても制作年のわかる(信頼できる)現存銃は、慶長期(1600年ころ)以降とされ、それ以前については確証が得られていない。
P82から「異風筒」についての記載があり、『実在を示す文献史料はつぎの三点を数えるにすぎない』として、紹介している。
@元和3年(1617年) 鉄砲1020挺、イフウ物不同也 285丁、『千二十挺に対して二百八十五挺は、けっして少ない数字ではあるまい』と記述。
A元和4年(1618年) 異風筒 300挺、6匁玉 1000挺、『三百挺におよぶ異風筒が島原城にあったことになる』と記述。
B寛永13年(1636年) 田布施流の秘伝書、『そこには「大薬、種嶋、異風物」とあり・・・・異風物がふくまれていた可能性がある』と記述。
『P85 通説のように種子島を起点に鉄砲が全国に伝播したとすれば、みな種子島の鉄砲とおなじ形式になるはずである。
しかし、そうでないのだから、種子島以外の地域にも南蛮鉄砲が伝わったことになる。
南蛮筒はもとより、多くの異風筒の存在は、鉄砲の伝来が分散波状的にあったことを証明している』と記述している。
しかし、私はこの記述について、全く納得できない。
著者は南蛮筒・異風筒以外の存在を認めていないのに、@ABの「異風筒以外の多量の鉄砲」をも認めている。
これは「おかしい」。「真説」というよりは・・・・・。
だから、私の「戦国期の火縄銃についての疑問C」が出てくる。
0341人間七七四年
2010/02/11(木) 05:47:27ID:WyoPyZni0342u7dee9885fw5gz6
2010/02/12(金) 01:35:50ID:dUAOT1PHS字金具様、お久しぶりです。
掛け軸の件、気にはかけていたのですが、何処で閲覧したか記憶を辿れませんでした。
申し訳ありません。
某寺所蔵のサーペンタイン銃ですが…何か判明しましたか?
宜しければ教えて下さい。
0343S字型金具
2010/02/12(金) 23:09:16ID:4ox+Be+0u7dee9885fw5gz6 様、掛け軸の件は残念です。
サーペンタイン銃については、昨年9月に記録保存のため計測を行いました。
その後、雑賀と関係ない「石山本願寺防城用の狙撃銃」ではないかと推論し、手紙で澤田さんにその批評をお願いしましたが、現在のところお返事はいただいておりません。
その計測値と推論要旨を「デジカメによる計測・コメント欄」で公開しておりますので、ご意見・ご指導をお願いします。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/list/4143269/
訂正 >>256 の「東南アジア」は「東アジア」の入力間違いでした。
0344u7dee9885fw5gz6
2010/02/13(土) 05:39:14ID:iFImjHvb詳細な調査、御苦労様です。
改めて拝見させて頂き大変、勉強になりました。
私見となりますが、S字型金具の設置方法(外装か内装)と火蓋の形状が、かなり判断の目安になるものかと感じました。
0345u7dee9885fw5gz6
2010/02/13(土) 08:21:20ID:iFImjHvb例外もあると思いますが、サーペンタイン式にてS字型金具を内装しているのは、中国を中心としたモデルの特徴だと感じます。
0346u7dee9885fw5gz
2010/02/13(土) 08:24:50ID:iFImjHvb> > 続きです。
展示物以外(オークション等)にも数点、サーペンタイン式を見ておりますが、国産と思われる物で内装式を見ておりません。内カラクリの壊れた火繩銃をサーペンタイン式に改装した物も拝見しましたが、やはり外装でした。
又、あくまで個人的な私見ですが、火蓋の造りが鍛造的に感じます、現存する国産の古式銃、資料でも同形状の火蓋を拝見した事が有りません。
火蓋自体が破損等、紛失している物も多いのですが…
以前にも書きましたが、自分は、否定派ではなく
肯定派です。
新しい事が解りましたら、また教えて下さい。
宜しくお願い致します。
0347S字型金具
2010/02/13(土) 22:47:46ID:rjb9iLsu火蓋の造りは軟らかい鍛造鉄でリベット止めとなっており、ほかの鉄部は硬い鍛造です。
最初、変形していたので、私がエイ!ヤー!と手力で、火門池と合うように整形しました。(20年前なので時効)
炭火では純鉄の融点1535℃まで上がらなく(たたらでも1300℃)、鉄の直接鋳造は不可能です。
金属は不純物(合金を含む)があると融点が低下する(純銅・1085℃、青銅・真鍮・900℃、鋼・1400℃、銑・1200℃)ことや物性が変化するので、銅合金鋳物はよく作成されましたが、鉄鋳物は石炭(コークス)の利用からだったと思います。
ヨーロッパでは、サーペンタイン式銃は早く消え、現物を探していても見つかりません。
クロスボウ(ボウガン)・弩の仕掛けは内装が多く、内装式は支点がしっかりするなどの利点があったと思われます。
0348S字型金具
2010/02/15(月) 02:34:16ID:yo6fb72B宇田川武久(元国立歴史民俗博物館教授)さんは、「真説 鉄砲伝来」で、「鉄炮記」を『そもそもこの書物は、伝来とされる年から約六十年後、・・・・・それほど史料的価値が高いとはいえないものである』として、「倭寇説」を組み立てている。
伊川健二(大阪大学・大学院文学研究科・文化動態論専攻)さんは、「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」で、「鉄炮記」を信頼に足る史料と結論づけ、ポルトガル伝来説を採用している。
その『おわりに』(下・P32)では、
『じつは筆者は、歴史研究者にとって、鉄砲伝来というテーマは、労多くして実り少ない論点であると考えている。・・・・・
しかも、この問題は、本来、文献のみで解釈されるべきものではない点は、前号以来しばしば触れているとおりであり、技術面での考察をあわせるのであれば、さらに複雑化することはいうまでもない。』
と書いている。
ttp://igawa200.hp.infoseek.co.jp/pdf/teppo-1.pdf
ttp://igawa200.hp.infoseek.co.jp/pdf/teppo-2.pdf
太田牛一の「信長公記」は、豊臣家滅亡後に軍記の執筆に専念し、慶長15年(1610年)に書き上げ、小瀬甫庵はその「信長公記」を元にして、翌年、「信長記」を書き上げている。
『甫庵の「信長記」は「偽り多し、3つのうち本当のことは1つ」(大久保彦左衛門の三河物語)と当時の人からも非難されている』とのこと。
ttp://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon09.html
『これは裏を返せば、原本となった牛一の「信長公記」についてもそのまま信じては駄目だと言うことにもつながる』は、正しい。
ttp://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide04.htm
由緒・由来書、伝記について、どこまで信用してよいものか。古文書・手紙にしても、偽物や意図して書いた物もあるし、秘伝書については、「トンデモ本」の範疇に入る物もある。
0349人間七七四年
2010/02/15(月) 11:25:35ID:uONNRbgTまったく話題にならないよな
0350人間七七四年
2010/02/16(火) 20:52:29ID:LfMtO2Viその頃の明に鳥銃ってあったの?
鋳造の粗雑な銅銃しかなかったと思うんだが
0351S字型金具
2010/02/17(水) 03:05:28ID:XI+C2b4T伊川さんの、「鉄炮記」について『技術面での考察をあわせるのであれば、さらに複雑化することはいうまでもない。』と記述していることは、今まで、技術面から鉄砲伝来を見ていない(調べていない)事を言っている。
私なりに「鉄炮記」を読解してみると、
@種子島の位置と地名の由来を紹介。
A天文12年、言葉の通じない外国人(西南蛮人の商人)が乗った船が来て(難破か座礁か不明)、五峯(明人の儒生)と筆談できたので、領主の恵時と時堯は港に運んだ。
B住乗院(島の法華の徒)と五峯は、筆談により意思が通じた。
C商人の長は二人いて、鉄炮を持っていた。
D時堯は鉄炮の原理・用途を理解した。
E今呼んでいる鉄炮の名称は、明の人か、あるいは種子島の人が知らずに名づけたものである。
F時堯は使い方を学び、頼んで二丁手に入れ、妙薬の調合法も学び、鉄炮の練習をして、百発百中になった。
G紀州根来寺の杉坊某公が鉄炮を求めてきたので、隠さずに、妙薬の調合法、使用法を教え、一丁贈った。
H時尭は鍛冶職人に複製品を作らせたが、鉄炮の底の塞ぎ方を知らなかった。
I翌年、蛮人の商人が来て、その中に一人の鍛冶職人がいたので塞ぎ方を学び、その後、数十の鉄炮を製造した。
J時堯は、鉄炮の台の形・飾りの模造が気に入らなかった。(理由は、鉄炮は軍需品である)
K近臣の者は時堯を見習い、多くの人が百発百中になった。
L和泉国堺の橘屋又三郎(商客の徒)が島で鉄炮を学び、畿内・関西・関東の人に伝習させた。
M聞いたところによると、鉄炮を持った松下五郎三郎(時尭の家来)が東海道伊豆州に漂着し、関東八州の人に伝習させた。
N鉄炮が種子島に伝わって六十年余りで、覚えている者がいる。領主の時堯は、蛮人から二丁の鉄炮を求め、学び、日本中を驚かせた。また、鉄炮の製造法を知り、日本中に教えた。
種子島が鉄炮の始まりであることを明らかにするためにこれを書いた。種子島は、種子の意味にあった島の名前である。
読解力不足ですみません。
0352人間七七四年
2010/02/17(水) 10:00:18ID:Wwfg0wWj明が滅亡した時、日本に亡命してきた人らがかなりいたが(朱舜水など)
そういう人たちが護身用に携えていた銃のひとつでは無いかと推測
0353S字型金具
2010/02/17(水) 15:24:07ID:XI+C2b4T「鉄炮記」には、「佛郎機(フランキ)」、現在の葡萄牙(ポルトガル)が出てこない。
佛郎機は国名で、正徳12年(1517年)、佛郎機種は明国へ朝貢したが、その後、国交を断られた。
佛郎機砲は、佛郎機種が中国(明)へ伝え、明が改良した大砲である。
明は、嘉靖2年(1523年)に試作し、嘉靖7年(1528年)には4000門を配備したが、小型火器である銃(佛郎機槍?)については、不明である。
「鉄炮記」に、天文12年(1543年)に着いたのは、「西南蛮種之賈胡也」、すなわち、「東南アジアの商人である」とはっきり書いてある。
文中に、6箇所「蛮種」が出てくるが、「佛郎機種」よりは「西南蛮種」としたほうが妥当だと思え、また「その後どうなったか」については書かれていない。
「鉄炮記」での「蛮種」は、「其形不類,其語不通,見者以為奇怪矣」
明国「武備志」でのポルトガル人は、「顧應祥云、佛狼機國名也、非銃名也、正徳丁丑(1517年)、予任廣東僉事、署海道事、驀有大海船二隻、直至廣城懐遠驛、稱係佛狼機國進貢、其船主名加必丹、其人皆高鼻深目、以白布纏頭、如回回打扮」
その翌年、「蛮種の鉄匠」(たぶん鍛冶職人)より、「底塞ぎ」を学んだが、通訳や、筆談、風体については書かれていない。
五峯(大明儒生)が「倭寇の王直」説は、天文12年(1543年)現在、日本語が喋れないので、「アウト!」。
天文12年(1543年)の種子島の当主は「恵時」のはずだか(時尭は当時15歳?)、なぜか文中1箇所のみである。
Dについては多くの疑問があり、長くなりますが書かせてください。
0354S字型金具
2010/02/17(水) 17:25:37ID:XI+C2b4T明朝が滅亡したのは崇禎17年・寛永21年(1644年)ですが、この銃については、慶長9年(1604年)から明治4年(1871年)の廃藩置県までに持ち込むことは、この寺の性格上、殆ど不可能です。
戦後、寺蔵の調査の際に忘れ去られていた物が出てきたが、寺とは合わないためガラクタと一緒に廃棄処分品として置いてあったものではなかろうか。 >>243
文禄・慶長の役(1592年から1598年)の際、日本中から色々な種類・形式の銃を集めて出征しており、また、明からの輸入(戦利品)の可能性もありますが、「本願寺の銃」としたいものです。
朱舜水とは時代が違うので、「この寺所蔵の銃」とは関係ないと思います。
ちょっと面白いものを見つけたので
中国(明)が日本の倭銃について研究していたのは事実ですが、私は「明代徐州衛遺址出土の鳥槍」については、倭銃の可能性が高いと思っています。
火鋏は欠落していますが、引金・元目当の位置?。弾金・締金は、真鍮・青銅?
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/128522/
0355人間七七四年
2010/02/17(水) 23:09:42ID:Wwfg0wWjどこの寺かは存じませんが、明からの帰化人は寺をひとまずの住処とする事が多かったので、
彼らの武器が寺社に持ち込まれる可能性はなくはないでしょう。(当時、漢語に堪能な日本人は学識階級である僧侶くらい)
黙子如定、隠元隆gが身を寄せた興福寺など。
寺社領は権力の及ばない治外法権の領域でもありますし、
そう思えばu7dee9885fw5gz6さんが目撃されたと言う
「なぜかサーペンタイン銃を持った僧兵の掛け軸」の由来も説明がつくような気がしまして。
可能性の一つとしてお留め置きいただければ幸いです。
0356S字型金具
2010/02/20(土) 02:11:06ID:4EuxLzN2「鉄炮記」は種子島氏16代当主の久時(1568〜1612)が、慶長11年(1606年)『和尚である南浦文之』に編纂させたものである。
恵時は、久時の祖父(1503〜1567)で13代当主。「鉄炮記」登場は1箇所。
時堯は、久時の父(1528〜1579)で14代当主。「鉄炮記」登場は14箇所。
@天文12年(1543年)3月23日、禰寝氏が300人の兵を率いて種子島を攻撃し、種子島氏は戦いに負ける。
恵時(当時40歳)は屋久島に逃亡する。時堯(当時15歳)は屋久島を譲ることで和解。その後、恵時は本島へ帰還する。(日時は不明)
A8月25日に南蛮船(百余人乗船)が現れ、恵時と時堯に連絡入る(恵時の記載はここだけ)。すぐに船数十艘に南蛮船を引かせ、27日赤尾木港に入港させる。
Bある日、時堯は通訳を介して、南蛮人から鉄砲の奥義を教えてもらう。
C9月節句の日、時堯は試し撃ちを行い、とても手が届かないほど値段が高いにもかかわらず、2挺の鉄砲を買い求め、家宝とした。
Dこの頃、時堯は、杉坊某公に鉄砲1挺を贈り、妙薬の法と火放の道も教えた。
Eこの後の、南蛮人百余人の動向は不明。
F天文13年(1544年)、恵時は屋久島の禰寝勢を攻撃して戦いに勝ち、屋久島を奪還する。(戦いの日時は不明)
禰寝勢は与えられた船に載って大隅半島へと向かったが、その船には細工が施されていて、たちまち浸水、転覆して禰寝勢は全滅した。
以後、禰寝氏との対立が激化する。
G再び来た南蛮人(一人の鉄匠)に鉄砲製法を学ぶ。来航日時、南蛮人の動向は不明。
H何年か後に、新たに数十挺の鉄砲を製することができるようになり、習うものが増えた。
Iその後、商人の橘屋又三郎が種子島に一・二年居住して、鉄砲についてほとんど学んだ。
「鉄炮記」は種子島時堯(当時15・16歳〜)について書かれており、種子島氏は在地領主として種子島を支配していたが、天文12年以来、屋久島・口永良部島などを巡り禰寝氏(大隅国の領主)と争いを繰り返していた。
@Fの原典は未確認ですが、大きく違わないと思います。
このような状況を考慮に入れると、「鉄炮記」の記述内容は「のんびり」していて信憑性は低く、信頼できないところが多い。
「漂流してきた西南蛮船を略奪、葬り去った際に、略奪品の中に鉄砲があった」とするほうが妥当で、「最初の鉄砲伝来・日本発見」とは関連が無いかも知れない。
0357月孔雀
2010/02/20(土) 02:13:12ID:88kOxkdN自衛隊の工作員は、そのくらい、やってるかな・・
0358人間七七四年
2010/02/20(土) 09:19:50ID:5600RxFQ0359S字型金具
2010/02/22(月) 02:41:11ID:Q700ATRt@中国(明)は、1405年から1433年までの28年間に7次の大航海を行い(東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカまでの航海)、キリン・ライオン・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れて帰った。
Aその後、明はマラッカ王国(マレー半島南岸のイスラム港市国家、1402年〜1511年)のスマトラとマラッカに官廠(貿易中継施設)を開設していた。
B中国は、マレー半島の西側を「西洋」と呼び、東側を「南海」と呼んでいた。
Cポルトガルは、インドのゴアに基地を設営(1479 年)した後、そこから18隻、1400人の船隊でマラッカ王国を攻撃したので、マラッカ王国は滅亡(1511年)してしまった。
Dそこで、ポルトガルは日本を含む東アジアの情報を得て、正徳12年(1517年)明国へ朝貢したが、明はポルトガルについては知らなく、国名(後に佛郎機・フランキ)も無かった。
Eしかし、明は「佛郎機最凶狡,兵械較蕃獨精」として、1520年にポルトガルを追い払い、鎖国を行った。
F1522年、ポルトガルは5隻の軍艦で広東を攻撃してきたが、明軍は岸炮・艦炮で反攻したのでポルトガル軍艦2隻が分捕られ、3隻がマラッカに戻った。このとき、2隻の艦炮の大砲(佛狼機)を20門手に入れた。
G1523年、明は分捕った艦炮から佛狼機を試作し、1528年には4000門を配備した。(小型火器については、不明)
H当時、東アジアにおいて倭寇が活躍していたので、ポルトガル(佛狼機夷)は中国東南部の沿海貿易に倭寇を利用した。
I1548年、明は、鎖国の一部を解禁(10隻か?)した。
Jポルトガルが征服から貿易に転向したことが了解されたので、明は1557年にマカオでの居留権を与えた。
K1604年、明軍とオランダ(紅毛夷)の船と戦闘になり明軍が負けた。その後、佛郎機炮から紅毛炮に切り替えていった。
以上が当時の大まかな東アジア情勢である。
ポルトガルは日本については知っていたが、1522年以降1548年頃(?)までの間は、直接日本に行けない事情があった。
そのため、鉄砲伝来倭寇説も考えられるが、黒潮による漂流、中国からの伝来もありえる。
しかし、今までのところ中国でポルトガル(佛狼機夷)の小銃記録が見られなく、仮に神器譜(しんきふ)の西洋銃がそれだとしたら、倭銃とはまったく異なった銃である。
日本に伝来した銃すべてがポルトガル製とは考えられなく、マラッカ銃についても中国に記録が無いので(私だけか?)、日本の火縄銃について再考が求められる。
0360人間七七四年
2010/02/22(月) 03:41:33ID:dWBE/XKTこのスレではなっから答えを求めない「ボクの見つけたすごい疑問!」をやられてもみんな困っちゃうだろ。
0361u7dee9885fw5gz6
2010/02/23(火) 06:10:32ID:c5chY3op火繩銃のスレなんだから、問題ないでしょ?
むしろ、否定なら自分の持論で反論すれば?
0362人間七七四年
2010/02/24(水) 08:47:30ID:AXA6DHn8いまいちよくわからんのですが。(何年にどこから、どのように)
既知の説では明が日本式の火縄銃の製法を得たのは1548年、
トルコ系の魯密銃を得たのは1598年という事になってますが
0364S字型金具
2010/02/25(木) 23:18:53ID:4fLDrvuu天文18年?(1549年?)、摂津の細川晴元は山城の本能寺へ出した書状に
『種子島より鉄炮馳走候て、此方へ到来す、誠に悦喜せしむるの由、彼嶋へも書状を以て申し候・・・』と書いてあるので、種子島に鉄砲があったことは間違いない。
「鉄炮記」には当然のことながら、鉄炮について書いてある。
本文中に「鉄炮」の単語は10箇所出てくるが、「種子島筒」「南蛮筒」「異風筒」など「鉄炮」の異名については「ゼロ」である。
文中で、「始め、その名前も使い方もよく分からなかったが、鉄炮の名称は明の人、または種子島の誰かが名づけた」ものとしている。
『始不知其何名。亦不詳其為何用。既而人名為鉄炮者。不知。明人之所名乎。抑不知。我一島者之所名乎。』
しかし、中国(明)の書物に「鉄炮」の記載は無く(私が知らないのか?)、小さい物は「○○銃」、大きい物は「○○槍」などで、総称する名は無い。
なぜ、「鉄炮記」に、「種子島の人がよく分からない内に、鉄炮と名づけた」と記載する必要があったのだろうか?
時堯は、南蛮人から名称も聞かずに買ったり、教えてもらっていたのだろうか?
また、なぜ「自分が初めて名づけた」と書けなかったのだろうか?
その当時の古文書には「鉄炮」のほかに、天文23年の大館晴光より大友義鎭あての書状には「南蠻鐵炮」、永禄3年の大友宗麟より足利義輝あての書状には「種子島筒」、天正年間の土井覺兼日記は「手火矢」、「鐵放」など、用例・異名?はあった。
このことは、種子島以外に鉄炮があったことを示唆している。
0365S字型金具
2010/02/26(金) 00:11:30ID:F0TPVRUD「鉄炮」とは何か、「伝来」とは何処までをいうのかを定義しないと答えがでません。
まだ確証は得られていませんが、私は鉄砲らしきものから(花火を含む)、火薬の材料などを含む技術の伝来について調べています。
人によっては、「火縄銃」に限定、「南蛮筒」に限定して論じていますが、「鉄砲については広く捕らえたほうがよいのでは」と思っております。
「伝来」についても、「手に入れた=伝来」の方もいますが、それを理解し改良できるようになったら伝来したものと解釈しています。
したがって、私は「1400年ごろから伝来が始まった」と思っております。 >>336
「トルコ系の魯密銃を得たのは1598年という事になってますが」は、中国(明)の「趙士禎が」であり、日本ではそれ以前の可能性があり、鉄砲の改良に役立ったと思っております。
0366人間七七四年
2010/02/26(金) 15:55:43ID:3iRSp7VP当時は、火薬の爆発圧で金属片を加速して殺傷する兵器全般を示す
一般名詞だったんじゃないの?
0367u7dee9885fw5gz6
2010/02/26(金) 18:15:49ID:7Vs2QGrx日本に於いての火砲の起源は、蒙古襲来のてつはう(震天雷)からの認識で問題ないと思います。
記録が消失している事が残念ですが、当時でも不発、戦利品の震天雷の実態解明は、為されたと思います。
木炭、硫黄に関しては、当時でも即座に解ると思います。
火薬の起源伝来については、ヨーロッパよりも、以外に日本の方が早いかもしれません。
0368人間七七四年
2010/02/26(金) 23:19:38ID:kPG/P8+Q明国が製造していた歩兵銃は、青銅製の鋳造砲を単に携行可能な大きさにスケールダウンさせただけのものにすぎず、
心棒に鉄板をかずら巻きにして作るマスケット銃とは威力も製法も根本的に異なります。
応仁の乱の時に早くも火砲が使われていたという話などもありますが、
たとえそれが事実だとしても直接的に火縄銃の参考になるものではなかったでしょう。
0369S字型金具
2010/02/27(土) 00:33:46ID:76ojZ+Hy「蒙古襲来絵詞」の「てつはう」の実物が、長崎県鷹島町神崎港の海底から出土しています。
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics011025.html
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics020811.html
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics020811-2.html
これは、中に鉄片が入った手榴弾のような「火器」ですが、「てつはう」→「てつほう」→「鉄放」で鉄砲をイメージしますが、私は「火砲」には入らないと思います。
「てつはう」の単語は「蒙古襲来絵詞」以来、しばらく記録に出てきません。(たぶん?)
火薬の使用目的は「火器」以外にもありますので、起源伝来についてはよくわかりません。
0370S字型金具
2010/02/27(土) 01:14:59ID:76ojZ+Hy『明国が製造していた歩兵銃は、青銅製の鋳造砲を単に携行可能な大きさにスケールダウンさせただけのものにすぎず、
心棒に鉄板をかずら巻きにして作るマスケット銃とは威力も製法も根本的に異なります。』
明国の「神鎗(神槍)」(1410年ごろからか?)などは、銃身が鉄、握りが木で作られた銃砲武器で、青銅製の鋳造砲だけではありません。
>>332 に関連がありそうです。
0371人間七七四年
2010/02/27(土) 13:10:28ID:rezmG18b失礼しました。
ここで言いたかったのは材質が青銅か鉄かではなく、鋳造と鍛造の違いです。
神槍とはこのような火器でしょうが
ttp://arms.cybrary.jp/db/fire/gun/shenqiang.html
ttp://arms.cybrary.jp/db/fire/gun/huoqiang.html
これらは鍛造ではなく、鋳型に流し込んで作る鋳鉄製ですね。
鍛造ならば尾詮にネジが切られているはずですが、それだとこのような柄は付きません。
マスケットとの製造技術の関連は火薬の基礎技術以外の点では薄そうに思います。
0372S字型金具
2010/02/27(土) 14:26:02ID:76ojZ+Hy武器図書館の管理人さんはよくがんばって情報収集され、頭の下がる思いです。
参考文献に「篠田耕一著 武器と防具 中国編」を上げておられますが、紙面(?)の都合上全文を採用されておられません。
篠田さんの本では、「銃身は鉄を鍛造したもので、後部の握る部分は木で作ります。(225ページ)」となっております。
「鋳鉄」のためには、石炭(またはコークス)の利用が必要と思いますが、当時の中国ではどうだったでしょうか?
また、鉄砲に「ネジを切った尾栓」は、絶対的な必要条件ではありません。
0373人間七七四年
2010/02/27(土) 15:47:20ID:rezmG18bしかしそれだけの技術を持ちながら、なぜ明はマスケットに相当する火器を自力で発明できなかったのでしょうか?
ちなみに中国では鋳鉄は紀元前から使われてますよ。
石炭、コークス高炉も(驚くべき事に)宋代には出現しており、古来から鋳物大国と言って良い国です。
ただ明代には森林資源の減少からかつてほどは盛んでなくなっていたようです。
>尾詮
中国の鍛造がどのようなものだったかはわかりませんが、
少なくとも日本の種子島のように鉄板を巻いて作る方式には不可欠なのでは。できたらやってるはずなので。
0374人間七七四年
2010/02/28(日) 11:00:47ID:JgSQ5S+e編成を見ると華北は三眼銃が多く、華南は戚継光以降急速に鳥銃(火縄銃)が普及してるな。
火器のみで編成された歩兵の運用、馬上での運用などは日本よりもはるかに進んでいたが、
いかんせん銃自体がローテクなのが惜しい。
戦術的には槍兵と鳥銃兵を組み合わせたり、戚継光のように諸兵科混成で小隊を組んだりさまざま。
ヨーロッパのように整然とした陣形を組み、小隊の隊形まで決め事があった。
演習に立ち会ったスペイン人は「中国以上に規律のある軍隊を持つ国はない、彼らは世界を征服できる」なんて記録してるね。
0375人間七七四年
2010/02/28(日) 13:17:28ID:XKvqPeBe国策で技術の進歩をある程度放棄しちゃってるのがな…
海禁さえしてなければ鳥銃も真っ先に伝来してただろうね
0376S字型金具
2010/03/03(水) 23:33:39ID:uiB0tezS「鉄炮記」の鉄炮の記述について@
@『手に一物を携う。長きこと二三尺』
「西南蛮種は、長さ60cmから90cmの物を手に持っていた」と書いてある。
種子島開発総合センター寄託の初伝銃の全長は100cm(口径17mm)、八坂金兵衛初作銃は100cm(口径14mm)である。
一般的に火縄銃の長さは100cmよりも長く、西南蛮種は、時尭が買った2丁の他に、短い銃を所持していたのだろうか?
A『その体たるや、中通じ外直にして、重きをもって質となす。』
「胴体は、中空状の真っ直ぐな、重たい材質」と書いてあり、種子島は砂鉄の産地で、鉄匠(鍛冶職人)もいたのに、なぜ、「鉄」と書いてないのだろうか?
もしかしたら、「青銅製品」?
B『その中は常に通ずと雖も、その底は密塞を要とす。』
胴体は管状であるが、その底は密封する必要があると書いてあるが、「栓」については書かれていない。
C『その傍に一穴あり、火を通ずるの路なり』
本文中に、「火皿」「火蓋」、「引金」などの点火部品の記載は無い。
D『形象物の比倫すべきなし。』
「いままで、似た形の物は、見たことが無かった」とのことである。
E『その用たるや、妙薬をその中に入れて、添うるに小団鉛をもってす。』
なぜ、火薬のことを「妙薬」と書いているのだろうか。
当時、火薬のほかに、合薬、口火薬、玉薬などと書かれている古文書はあるが、「妙薬」「小団鉛」は今のところ、この古文書だけだったような気がする。(私だけ知らないのか)
「小団鉛」は鉛製の弾だと思うが、ちなみに朝鮮での鉛弾使用は、1593年からである。>>336 @
青銅製の銃でも「鉄弾」を発射していたら、「鉄放」の名前でもよいのかな?
F『みずから一物を手にして、その身を修め、目を眇にして、その一穴より火を放つときは。』
目を眇にして(目を細くして狙いを付ける?)と書いてあるが、本文中には、「元目当」「先目当」が出てこない。
「火を放つとき」としているが、その点火方法(引金)が書いてない。
以上の記述では、火縄銃というよりも「指火式(タッチホール)」銃砲の記述のように思えます。
0377人間七七四年
2010/03/04(木) 21:12:41ID:O3SmebTK0378人間七七四年
2010/03/06(土) 12:55:49ID:rUnAFpOw一人で文字通り、的に向けて鉄砲を1000発撃つこと。
これは通例卯の一刻(午前五時)から申の半刻(午後四時)まで行われるもので、
不発弾や上手く発射されなかった、カウントされないのもの含めてこの11時間の間に
1100〜1400発ほど撃ったらしい。
平均して1時間に100発前後くらいですな。
0379人間七七四年
2010/03/06(土) 13:01:25ID:yPipITQT劣化廃棄するよりは景気良く使っちゃえってことなのか
単にスポ根物なのか
0380人間七七四年
2010/03/06(土) 14:29:14ID:tK9HNH8K0381人間七七四年
2010/03/06(土) 14:56:45ID:VzSI7BEX0382人間七七四年
2010/03/06(土) 17:06:46ID:yPipITQTウンコしたとき紙が少なかったら大事に丁寧に効率よく拭き取るだろ
0383人間七七四年
2010/03/06(土) 17:13:51ID:VzSI7BEX職人芸大好き的な
0384人間七七四年
2010/03/06(土) 17:32:46ID:w+XoreIK旧軍も短機関銃や特殊鋼を作れるだけの技術力自体は一応あったけど、
先立つ物資が慢性的に欠けてたもんなぁ。
0385人間七七四年
2010/03/06(土) 18:03:03ID:fpWQDvI3戦争には絶対勝てないと言う事だ
0386人間七七四年
2010/03/07(日) 21:15:52ID:aHxWa1vS弾丸の製造や火薬の調合も自分たちでやったらしい。
0387人間七七四年
2010/03/09(火) 22:16:34ID:GOQ3odqi0388人間七七四年
2010/03/11(木) 01:52:25ID:o1h2QYbfある程度の命中率を維持しようとするなら、毎回、同じ大きさ形状の弾、
同じ調合の火薬を、同じ硬さに付き固める必要があるわけで、撃つ技術だけで済む
現代のライフルとは比較にならないぐらいの熟練が必要だろうな。
しかも、銃ごとの癖もかなりバラつくから、銃の個体ごとに習熟が必要になるわけだ。
こう考えると、鉄砲足軽って相当の技術職だよな。
熟練の鉄砲足軽が大勢討たれてしまえば、かなりの時間を掛けないと
穴を埋められないんじゃないか?
0389人間七七四年
2010/03/11(木) 02:42:36ID:Zd1wJlq60390S字型金具
2010/03/11(木) 10:07:04ID:SQQpJy0k「鉄炮記」の鉄炮の記述についてA
@『その形象を熟視せしめ、月鍛季錬して、新たにこれを製せんと欲す。その形制すこぶるこれに似たりと雖も、その底のこれを塞ぐる所似を知らず』
「よく似た銃ができたが、底の塞ぎ方が分からなかった」と書いてあるが、張り塞ぎにしてでも銃として使わなかったのだろうか?
銃身の尾部は密封すればよいことで、鉄砲には必ずしも「尾栓」は必要でない。
「尾栓」の最大の利点は銃口内の掃除に便利なことで、大砲や青銅製銃では「尾栓」の無いものがある。
また、実際、張り塞ぎの火縄銃の遺品も残っているようである。
A『その底の塞ぐところを学ばしむ。漸く時月を経て、その巻いてこれを蔵むることを知る』
翌年に来た蛮種から「尾栓」について学び、数ヶ月かけて習得した。
B『これにおいて歳余にして新たに数十の鉄炮を製す』
こうして、何年か後に、新たに数十挺の鉄砲を製造した。
C『しかして後に、その台の形製と、その飾の鍵鑰のごとくなるものとを製しつくる』
その後、銃の台(銃床?)の形製と、銃に鍵鑰のような飾り(内カラクリ?)を付けて製造した。
ということは、初伝の銃には、銃床とカラクリが無かったのか?
D『時尭の意は、その台とその飾とにあらず。これを軍を行るの時に用うべきにあり』
時尭は、「銃床」と「カラクリ」について不満があった。
「銃を行軍の際に用いるつもりで作った」としているが、理由がよく解らず、『時尭の意』とは何であったのだろうか?
「鉄炮記」の記述は、種子島開発総合センター寄託の初伝銃とは、長さも形も異なるに様に書いてある。
記述が違うのか、初伝銃が違うのか、両方とも違うのか?
0391人間七七四年
2010/03/11(木) 18:50:47ID:TnOWVZzX少数の狙撃兵が足軽頭や侍大将を狙うならまだしも、
多数の兵員が敵部隊を撃つなら命中精度はほとんど問題ないのでは?
0392人間七七四年
2010/03/11(木) 19:23:07ID:Kxm7rb1o0393人間七七四年
2010/03/11(木) 20:42:24ID:Ezr9a9AX縦深が浅いだけ
0394人間七七四年
2010/03/11(木) 21:12:45ID:nNom8eXm基本的に一列だし、射撃前の移動はかなり好き勝手に走るし
0395人間七七四年
2010/03/11(木) 21:25:12ID:Ezr9a9AXその後ろの侍大将の護衛や方陣、騎馬に当たるんじゃない?
0396人間七七四年
2010/03/11(木) 21:45:27ID:nNom8eXm流れ弾が当たればラッキー程度
0397人間七七四年
2010/03/11(木) 23:26:03ID:Ezr9a9AX大抵の備は二列目までの縦の間隔は1〜数m離れている程度じゃない?
長槍は体を揺らすと隣と肩が触れるくらいで並んでるし
0398人間七七四年
2010/03/12(金) 00:22:07ID:rC00D5ZV敵が固まってるから問題ないって事は無いな。
0399人間七七四年
2010/03/12(金) 08:39:31ID:fYSkWgHC甲陽軍鑑抜書にはそう書かれていた
長柄についてはそこら辺が鉄砲普及以降、長柄が戦場の主力から後退した一因と思われる
(雑兵物語でも長柄は補助的な任務)
0400人間七七四年
2010/03/13(土) 00:11:56ID:DVEWF4kd0401人間七七四年
2010/03/13(土) 10:28:19ID:/0W8oLv5. _ ._ ._
|_||_||_|∧_∧ 火縄銃?
|_||_||_|(・ω・ ) 竹束でボコボコにしてやんよ!
|_||_||_|⊂ )
|_||_||_| ( ヽ
|_||_||_| ∪ ̄\ )
0402人間七七四年
2010/03/13(土) 11:25:20ID:Ji6nMPdL、_人_从_人__/
_)
,..r;;: ( 人) ) ,;`ー、 | ヽ丶 _) 消 竹
ヾゞ、 ゞ'´ '`´ `ヾ、 ─|─ _) 毒 束
-‐':、ゞ'`` ,l / | ヽ _) だ は
ヾ、 ゞ;;. ,r-、 `ヾ、 ヽ、 _) l
, rヾ ,r!/r'ヽ '` \ _|_ _) っ
_,,,.,ノ、_ ヽ, `ゞ;; ;:、 /| `) !
,r‐'''" ,.r ,イ彡ミミヾ、 `` ´;;i V^V⌒W^Y⌒
__,.;;,ィ'´ ,:;;;;彳彡ミ;j`、 `i;:、 オ
;; ヾ、彡;;;ノリ;jjjjj;;;jr' i . ノ;;:'' `゙`、 ``ー、 ,ィ
彡冫;;il;;;ミ;;;;;y;レ ,t'´ ,.、ー、 ゝ ォ i|l;
;'イ;;;'ヾ``ヽ、ィ;;i ,ri'´ ヽ ヾノ ,ry' il'Y゙r ヽ、 ,j|l;;
j'´ '´ '´/ゞ';;::`´ヽ ``´ー ゙i ;;: ,r' ) ,r、 ,rヾlir'ミ,
/ ,;:' '´/ ー≡;i{、 /ヾr'´ ,. '`;;:、 〉ゝ r-ー-、_ ,{i=i= }i、
ーr-、j ,! ,;',;'ィ;;:イ''``ゞ、_,、-‐'´ヽ:;/ 、 ``ヽ ;:、 `' (´ `ゞ、;;;;'',,fi、,≡:;イ==、
,,:' ``ゞ、,;;ゞ、 "´イ ,... `'彡 ,/´ `ヾ、ヾ ' ー、 ii;j `i;;!'´ニil';;;;ゞr、_,r'ミ
' ー‐─ ,rー'゙ー─-、_j;:r'´ ヾ,ゞ 、 ゞ,ミ;:l;;l ,! ,!,i;;'´¨/
;. r-‐;;'"} ``ヾ、 ノ ,;;;: (i,;)))、,,:;!、__,:};!_,.、l
.... _,,,ィ、 i 'ヾ人 、}( / ノ ,r'i r'"ヾ-‐i‐-:;イ, / ヾ
0403人間七七四年
2010/03/13(土) 14:29:32ID:bk22E319これでだいたいどうにかなったらしい。
0405人間七七四年
2010/03/13(土) 16:05:10ID:79M95/C7.__
|風|
|林|
|火| __________
|山| /
_∧ .∧(oノヘ| ̄ < それじゃ騎馬隊が歯輪式拳銃持ってきたらどうすんだYO
(_・ |/(゚Д゚ )|\ \__________
|\Ю ⊂)_|√ヽ
(  ̄ ~∪ )^)ノ
||` || ( | ( |
'~ ~ '~ '~
0406S字型金具
2010/03/17(水) 23:55:04ID:Ag7bPn4I「鉄炮記」の鉄炮の記述についてB
本文に『その妙薬の搗篩・和合の法をば、小臣篠川小四郎をしてこれを学ばしむ』と書いてある。
天文21年?(1552年?)、将軍足利義輝が島津貴久と種子島時堯に、妙薬(鉄放薬)について照会を掛けた古文書がある。
『嶋津修理太夫あて 雖不寄思儀候、鉄放薬事、南蛮人直令相伝、種子嶋調合無比類之由、触御耳、武家御内書如此候条、令啓候。此趣被伝達、無相違候者可然候也。猶不断光院西堂可有漏脱候也。状如件。』
『種子嶋弾正正忠あて 雖不寄思儀候、鉄放薬事、南蛮人直被相伝、調合無比類之由、被触御耳、武家御内書如之候。於無相違者、可為御祝着之旨候。卿以不可有御他言由候。猶自嶋津匠作可有伝達候也。状如件。』
足利義輝は鉄放薬について、調合方法により性能差があることを知っているため照会をしたのであって、種子島の南蛮人直伝調合方法はその一つで、それ以外の南蛮人直伝や他の調合方法も知っている。
この古文書では、「南蛮人直被相伝、調合無比類之由」と煽てて「教えてくれ」と書いているが、その結果については不明である。
南蛮人直伝以外の鉄放薬調合方法は、南蛮人の鉄砲伝来よりも前でなければならなく、南蛮以外から鉄砲が伝来(または、日本国内で進歩・発達)したことになる。
0407人間七七四年
2010/03/18(木) 00:46:24ID:87ODpzt30408人間七七四年
2010/03/18(木) 01:13:18ID:IVPQOWhL0409S字型金具
2010/03/24(水) 21:58:34ID:gi2GMbBx「鉄炮記」の鉄炮の記述についてC
その翌年(1544年)に、蛮種の商人がまた種子島に来た。商人の中に、一人の鉄匠がいたので『金兵衛尉清定なるものをして、其底の塞くところ学ばしむ』と書いてある。
今まで、尾栓製作法については実証実験や文献について報告されているが、現在においても当時の尾栓製作法の確証が得られていない。
ttp://www.riflesports.jp/nraj/archives/neji/index.html
尾栓製作法は蛮種の鉄匠から学んでいるのだから、蛮種の製作法を知り、その上で実証実験で確認するのが普通ではないだろうか。
不思議なことに、今までの報告例では日本がオリジナルのように書かれており、蛮種の製作法と比較検討されていない。
また、蛮種の鉄匠から学んでいるのだが、その他の火縄銃製作技術、パーツ名も殆ど見受けられない。(カルカの他には、何があるだろうか?)
『漸く時月を経て、其巻いてこれを蔵むることを知る』と書いてあるので、「捻子」「捩子」ではなく、「螺子(らし)」が正解であり、尾栓はプラグ(Plug)・螺螄底である。
0410S字型金具
2010/03/31(水) 20:09:54ID:Qyf6zJg2伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠について@
伊川さんは、前後の文章のつじつまがあわないなどの現象(内在的疑問)、「種子島で鉄砲の製造が始まるまでの年代と、明への貢船の派遣年代」について、
『李氏は鉄砲製造開始を早くとも1545年末だとするが、年末である必要はない。鉄炮記を素直に読むならば、鉄砲伝来は1543年8月で、ポルトガル商人再来はその「翌年」、すなわち1544年中であればいつでもよく、
したがって、それから「歳余」(語義としては、1年余りの意)を経た製造開始も、1545年中のどの時期かを確定する根拠はなにもない。
一方で三貢船の動向であるが、なるほど一度は1544年に渡航を試みているものの、種子島に吹き戻され、実際に渡航したのは翌45年である。松下五郎三郎はその段階で乗船したと理解すれば矛盾は解消する。
したがって鉄炮記に記された年次を修正する必要はないものと考えられる。』
『以上により、鉄炮記の内在的疑問を解決することができたと考える』としている。
○「1544年中であればいつでもよく」は、当時は帆船のため、季節風(モンスーン)、海流の影響を考えて考察をしなければならないのではないだろうか。
○松下の乗船には、「漸経時月」+「歳余」(語義としては、1年余りの意?)+「然後製造其台之刑制与其飾之如鍵鑰者」でないと、完成した火縄銃ではない。
○資料Cの鄭瞬功『日本一鑑』では「其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此」となっており、種子島産砂鉄を使っていない鉄砲となる。
○三貢船について、「我嘗聞之於故老曰。天文壬寅癸卯之交。」の解釈が抜けており、外在的疑問の範疇に入る「種子島家譜」で論じている。また、家譜では「天文十四 (一五四五) 年乙巳六月十四日、二合船帰朝す」となっているのだが。
0411人間七七四年
2010/04/06(火) 00:58:06ID:mrItx6ti銃身 車のハンドルシャフト
ストック そこら辺の樹を削って作ったみたいな奴
弾 歯磨き粉のチューブを溶かした奴。
火ばさみとかトリガー周りは、ぶっとい針金見たいのひん曲げて作った
緩発式のバネなし版みたいな奴だった。
火薬の方も、やっぱり自作なのだろうか?
それとも、行商人みたいのが売りにくるのだろうか。
0412S字型金具
2010/04/07(水) 22:46:55ID:7LXaSvNR伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠についてA
伊川さんは、『鉄炮記を素直に読むならば、鉄砲伝来は1543年8月で、ポルトガル商人再来はその「翌年」、』として、「ポルトガル商人再来」と断定して考察している。
「鉄炮記」には、「佛郎機(フランキ)」、現在の葡萄牙(ポルトガル)が出てこなく、「牟良叔舎」・「喜利志多侘孟太」は、「此是西南蛮種之賈胡・賈胡之長」と明確に書いてあるので、東南アジア人のキリシタンの可能性がある。 >>353
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7
種子島氏(地頭)・島津氏(守護)は、明の海禁政策の中、二合船を出しているので「佛郎機最凶狡,兵械較蕃獨精」の情報は当然得ていると思われる。
鉄炮記では、天文十二年(一五四三)八月二十五日、南蛮種の船に対して、二十七日己亥までに、数十艘の舟で引かせて、十三里離れた港に入れたことになっている。
明国「武備志」でのポルトガル人は、「其人皆高鼻深目、以白布纏頭、如回回打扮」と書いてあり、見た目で区別が付くので、百余人の南蛮種を抹殺したものであろうか。
このような状態の船は、通常難破船・漂流船と見るのが妥当で、仮に修理を行っても、翌年中に、季節風、黒潮の大蛇行の中を、同じ所(種子島)に再来できるものだろうか?
また、来る必要性があるだろうか?
一度戻るとしたらマラッカであろうか?(マカオでの居留権は1557年から >>359 )
となると、「ポルトガル商人再来」よりも、前年と異なった東南アジアの人達が漂着した方が妥当ではなかろうか。
0413人間七七四年
2010/04/08(木) 19:29:12ID:tlNQOG+jそりゃまた何とも極端な結論ですね……
○○道にしたからって全く戦争で使えなくなるなんて言い切れるんですか?
0414人間七七四年
2010/04/14(水) 22:33:58ID:uQjdyyrittp://www.nicovideo.jp/watch/sm10382526
削除されないうちにお早めに
>>411
俺が昔見た番組だと
狩人のおっちゃんが大量のマッチを携帯してて
頭薬をナイフで削ったものを火薬に使って虎撃ってた記憶がある
0415S字型金具
2010/04/16(金) 07:03:27ID:0g5BytGD伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠についてB
伊川さんは、
『この点を修正した私見をまとめるならば、次のようになるであろう。1542年、ポルトガル人2名は、阿久根近海で遭難した。上陸はできなかったものの、なんらかの経路により琉球にたどり着いた。
翌43年には3名で渡航した。ところが今度は琉球への上陸は許されなかった。他方、彼らとは別途種子島へたどり着いたポルトガル人がいた。』
『史料@「ビーリャロボス艦隊報告」、史料B「発見記」と史料E「鉄炮記」は別の出来事を記していることが明らかなので、史料BとEを切り離し、史料Bの年代が1542年であることを根拠に、
史料Eの記述を錯誤とする外在的批判は成立せず、史料Eを信頼に足る史料と結論づけたい。』
としている。
だからと言って、鉄砲伝来が技術移転の問題を包含している以上、史料Eを信頼に足る史料といえるのかな〜。
また、伊川さんは、『ほぼ同時代の明史料である史料C「日本一鑑」もまた、「手銃、初め佛郎機國に出で、國の商人始め種島之夷に教え作る所なり」と述べ、伝来地が種子島であることを明記していることは大変示唆的である。』としているが、
『曰手銃〈初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也、次則棒津平戸豊後和泉等処通作之、其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此、〉』の中身については怪しいところがある。
0416人間七七四年
2010/04/16(金) 10:45:58ID:hm5YhNApこのマスカキ
0417人間七七四年
2010/04/16(金) 11:36:21ID:6+DhYf+q0418S字型金具
2010/04/22(木) 23:54:13ID:APoJhTEK鉄炮記は、
『 ○鉄炮記 代種子島久時公
隅州の南に一嶋あり、州を去ること一十八里、名づけて種子と曰う。我が祖世々これに居る。古来相伝う、嶋を種子と名づくるは、
この嶋小なりと雖どもその居民もろもろありてかつ富めり、譬えば、種を播くにこれ一種子を下せば、しかも生々窮まりなきが如し、
この故にこれに名づくと。これより先、天文癸卯(十二年)八月二十五丁酉、わが西村の小浦に一の大船あり、何れの国より来るを知らず。』
で始まり、
『いまそれ、この物のわが朝におこなわるるや、けだし六十有余年、鶴髪の翁、なお明らかにこれを記する者あり。ここに知りぬ、
さきの蛮種の二鉄炮、わが時尭これを求めてこれを学び、一たび発して扶桑六十州を聳動す。かつまた、鉄匠をしてこれを製するの道を知りて、
五畿七道にあまねからしむ。しからばすなわち鉄炮のわが種子嶋に権輿するや明らけし。むかし一種子の生々窮まりなきの義をとって、
わが嶋に名づくるは、今もってその識に符えりとなす。古にいわく、先徳善有りて世に昭々たること能わざるは、後世の過ちなりと、
よってこれを書す。 慶長十一年丙午 重陽節
(洞富雄「鉄砲・思文閣出版」・読み下し文)』
で終わっています。
本文中には、守護職の島津氏や九州の大内氏・大友氏などの記載が無く、種子島から日本全国に鉄砲を普及させたとするこの内容については疑問があります。
続く
0419S字型金具
2010/04/23(金) 00:05:02ID:iknMvSLn>続きです。
鉄炮記の古文書は3通残っています。
@文之玄昌自筆本の南浦文集の内。
鹿児島大学附属図書館コレクション・玉里文庫(島津久光及び玉里島津家の旧蔵書)・天の部・南浦文集・第1冊に書かれています。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/collection/handle/123456789/45186 (図書ID:0110030001)
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/cgi-bin/prec_img_disp.cgi?ts_id=0110030001&start_pos=1&lang_mode=J
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000019.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000020.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000021.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000022.jpg
A文之玄昌の鉄炮記写者或は伊地知季安による半紙写本。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/collection/handle/123456789/44243 (図書ID:0100600001)
末文に「慶長十一年丙午重九之節種子島左近大夫将監藤原久時」と書き入れあり。
B1667年に上妻隆直が編纂した『種子島家譜』の内。
末文に「慶長十一年丙午重九之節種子島左近大夫 平久時」と書き入れあり。
鉄炮記とほぼ同様の記述となっている。
鉄炮記(代種子島久時公)は、16代種子島久時が文之玄昌に代作させたもので、著者は、島津家の学僧・禅僧であるため、代作文が多く残っています(南浦文集内に)。
そのためか火縄銃そのものについてはよく知らず、当時の日本での鉄砲に関する種子島以外の逸話・寓話をも含めた文章ではないだろうか。
その内容は、嶋を愛する気持ちのこもったとても良い文章だと思いますが、種子島の名前と種子島時尭の鉄砲に関する美徳を絡ませて、多禰島から種子島、肥後氏から種子島氏への変化の正統性を示すためのものではなかろうか。
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