信玄最後の戦「三方ヶ原の戦い」
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:13:10ID:V43UXblr0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:18:09ID:zb2GuJkF0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 17:55:43ID:eEoVUw2W0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 19:09:35ID:ZozRKDF/0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 22:39:29ID:08lN5u2Y0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 01:12:56ID:UOCD8s1c山本勘助の活躍のほとんどは創作だぞ
最近、実在が確認されたが
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 01:06:52ID:AqbEfFr2川中島はや姉川なんかは載っててなんで三方ケ原は出ないんだ?
やっぱ家康が負けたってのは都合が悪いのかな?
0008奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/07/23(日) 01:08:01ID:A3lZEOAM0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 02:00:33ID:9hO6NVKT0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 07:23:09ID:CVMTwtZK0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 07:35:30ID:CquXMUPO0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/26(水) 01:56:13ID:+g0qMLKB最近じゃないよw
0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 21:41:58ID:wLmfTpxattp://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x122.html
0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/31(月) 17:13:22ID:AFO8ZWMU0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/05(土) 23:52:02ID:TB8bypXn川中島や姉川以上に歴史の変化には影響の薄い合戦だから
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/06(日) 01:27:51ID:f/X6thVp0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/19(土) 16:59:08ID:rOly9smm小牧長久手の戦いのほうがよっぽどいいぞ
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 19:39:11ID:MrL8lOKa思い出してください。池田大作も長年にわたって、「悪と戦う。」と言ってい来た事を。
闇の勢力と闘う振りをして、実は[悪の手先]と言うのは、いつものパターンです。
その証拠に、「半島系の人間がいる。」って言うが、この事を知らない人がいるのだろうか。
しかも、在日なんて、どこの団体にでもいるでしょう。
実際の所、原口は、裏の組織の正体を知っていて、何の情報も流さない。
戦う振りをして、闇の勢力との戦いに参加しようとする人を罠にはめている。
実際に、周りの人間は皆不幸になっている。
(議員辞職、党代表辞任、国対委員長辞任、国会議員自殺、松下グループへの嫌がらせ)
しかも、一番闘っているはずの原口だけは無傷で、常に党の代表に擦り寄っている。
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 20:27:43ID:nD6Z7d/s0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 21:51:02ID:E4Q9nRnT幸村ぁ!
おやしろさま!
幸村ぁ!
おやしろさま!
幸村ぁ!
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 21:59:45ID:WJVpvPKb0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 00:59:19ID:UAFBtzCdアンチ秀吉のスレは少ないなあ。秀吉厨ほど馬鹿はいませんからね。
0023…
2006/08/27(日) 05:19:23ID:6/caqDRt「脱糞の計」
が最初で最後に見れた戦
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 21:43:41ID:axV6ZQik=どこのスレにも必ずあらわれます。
=唐突に横槍をいれます。
=〇〇厨か?、〇〇厨はバカ、〇〇厨はカス、消えろ等、口癖。
=なんの為の書き込みなのか、意味不明。
このような厨を【厨厨】と呼ぶ。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 18:08:03ID:fGTBkXJo0026名無しさん
2006/09/07(木) 16:22:21ID:GbDHCq7i0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 18:45:06ID:tJk9pHmO野戦ということなんだろ。
それに三方ヶ原以降は病床だったはずだから、信玄が直接指揮した最後の戦ではある。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 00:55:33ID:sHDEk1jr0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 04:32:41ID:QLeNavn10030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 09:41:54ID:TQYXaBx1http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x122.html
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/15(金) 00:21:47ID:UNHSI/p50032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 16:48:55ID:F/N5Rh1W0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/23(土) 01:10:00ID:pPqmTh9Q家康はうんち漏らした
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 21:16:05ID:lnRzmcjL間もなく、城より撃って出てくるやも知れぬ。その時は一気に潰す。出てくる気配なくば、そのまま軍勢前に進めよ」
「家康、血迷うたか。山津波の如く、一気に襲え」
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 21:53:12ID:PfyUPBA4そして家康は負け戦の愚痴とうんちを漏らした・・・・
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 14:57:46ID:HFRixw9+良性マゾ体質なので、糞漏らし公開は奴にとってご褒美ですよ。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 08:49:31ID:YkUTxZDY当代記という史料によると、三方ヶ原戦では実は家康は信玄を見逃して持久戦することを決意してたらしい
ところが信玄軍を監視させていた物見が敵に石を投げて挑発しているうちになし崩しに戦闘になり、慌てて出て行ったら大負けしたと……
負けを承知で飛び出していった、という「武士らしい」話は家康を英雄に仕立てるための作り話?
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 11:42:18ID:k4HvlaKT論じ方はどうかと思う。
ちなみに投石による挑発は戦の常道で、三方ヶ原は武田側の
それが巧みであった事が広く知られていることを追記しておく。
0039名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/30(土) 19:56:40ID:DAwvhNSU0040名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/30(土) 21:36:43ID:/Q38ngR/なるほど
惨敗と公開スカトロプレイで家康もハッスルしちゃったのね
浜松に逃げ帰ってから元気になったのはそう言う事か
0041名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 23:09:14ID:5tsSYWCY単なる兵力の差じゃない?(しかも、当初は徳川が優勢だったしね)
0042名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 23:13:01ID:yVVG8TIb0043名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 23:14:13ID:AJWrz4SR篭城戦していれば家康は負けなかったか織田軍の援軍と挟み撃ちにできたかも知れないのに
三方ヶ原で野戦に誘い込まれて短期決戦に持ち込まれたということは軍略に負けたと言えるんじゃないの?
0044名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/24(水) 23:32:11ID:Tn+YIVBj0045名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 12:03:17ID:WhfzvRa8武田軍が斜面を降りている最中に後ろから襲えば、勢い付いて優勢に持ち込めるかも。
だが、家康の読み通りにはいかなかった。
徳川軍の出撃を予測していた武田軍は斜面を降りる前に留まり、
正面を向いて待ち構えていた。
0046名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 12:49:43ID:Nie8Imvdという当代記の記録が一番真実に近いような気がする
徳川史観のために家康の勇猛さという面が拡大されてしまった
0047名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 22:43:35ID:MZQsj338城の目の前を素通りされて織田領内に攻め込まれた場合の
織田家と徳川家の関係悪化を恐れて、家康は出撃するしか選択肢がないというもの。
0048名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 23:26:49ID:EVy7VHGf家康が仮に武田選んでたら、信長も生存中の東進断念したか
0049名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/25(木) 23:54:59ID:gjw2JPnn0050名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/26(金) 18:50:57ID:a+jy615Y>何時の間にか本格的合戦になり、なしくずしに家康が負けた
これを徳川史観と言うんだが?
どう贔屓目に見ても
自軍に有利な時間と場所を選んで武田軍に一泡噴かせる算段だったのに
目論見を見破られただけだろう。
0051名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/26(金) 19:14:17ID:Sz7NWm3z家康はまだ若かったし、同じ年位に信長は桶狭間やった訳で、
それを体験してる家康はこの頃はまだあわよくば第二の信長に、
天下又は織田に対抗しうる大勢力への飛躍を考えての野望的出撃じゃ無かったのだろうか?
戦略は上に書いて有る通りだし、もし武田に退却しなけばならない位の打撃を加える事が出来たら、
うまくいけば駿河まで勢力圏の拡大も可能ではないのかな?
そうなれば織田に対しても、武田に対しても、北条に対しても十分やっていける(三方から攻められたら終わりだけどね)
そうなれば天下取りのプレーヤー又はそれに準ずる立場にはなれる。
そういう野心の戦いだったのじゃないかな?家康にとっては。
結局失敗して、その後、織田への従属度が増して野心も萎えたような気がする
0052名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/26(金) 20:28:58ID:a+jy615Y確かに45の言う一か八かに賭けたくなる利がそこにあるよね
成功すれば二代目海道一の弓取りに成れる訳だし
失敗して多少の損害を被っても城に篭っていれば
見かねた織田がやってくると言う公算があるしね
矛先を織田に向けた途端に討って出たとあれば
信長の覚え目出度く、勢力UPすれば織田との関係も従属から対等同盟になる
武田家には一目置かせられる・・・はずだったorz
0053名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/28(日) 11:55:30ID:adyu5mZB信玄が死んでしまったから、織田がやってきてくれたかどうかは未知数だけど。
0054名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 19:49:06ID:3x2nVWMn俺が以前読んだ徳川史観否定の本では逆のこと書いてあったぞ。
「勇ましく出て行って〜」ってのが徳川史観であって、信憑性の高い資料に共通するのは
「小競り合いからなし崩しに〜」の方だと。
それだけ当時の徳川軍の(というかどこの軍も)軍律がゆるかったということで、
武田が強かったのは他より統率がよく取れていたからだ、という内容だったが。
0055名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:28:47ID:ukU/9pOP0056名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/30(火) 21:39:23ID:4W8q/dknそれ贔屓目じゃなくて客観視
0057名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/03(土) 00:57:02ID:hFyC6bYy0058名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/03(土) 11:45:41ID:MyXkVRDV0059名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/04(日) 14:00:10ID:5FEfpvykウンコと恐怖心には生物学的にあるいは心理的にはどんな関係があるのかな?
経験がないからよくわからない。
0060名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/05(月) 00:09:58ID:nfuejI0a競馬とかどパドックで糞洩らす馬はダメとか言うし。
0061名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 01:07:06ID:g8PInyz5話し作り過ぎだよな。
戦国時代の話しなんてあてにならん。
0062名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/06(火) 05:09:22ID:2zhNm3Tx信長や謙信、見たい奴が少数か?大大名なのに自ら刀振りますような奴が
0063人間七七四年
2007/02/21(水) 21:22:44ID:q9p3YYhm0064人間七七四年
2007/03/01(木) 23:32:16ID:bHuHznN/そんでもって、店の主人に取り押さえられたというWW
0065人間七七四年
2007/03/01(木) 23:36:22ID:bHuHznN/少なくね?
0066人間七七四年
2007/03/01(木) 23:40:58ID:sfj1cSPw負傷者は3〜4倍に達するといわれるしね。
0067人間七七四年
2007/03/02(金) 00:46:12ID:JvblAupk0068人間七七四年
2007/03/02(金) 00:51:42ID:+DvEY3gKそれ鈴木眞哉
便乗史観の彼の本の鵜呑みは危険
0069人間七七四年
2007/03/02(金) 10:35:11ID:buoOvttR違う。当代記というれっきとした史料が元だ、それは
0070人間七七四年
2007/03/03(土) 00:08:38ID:iwMXfHyFではその当代記のどの部分に具体的にどういう記述があるのか教えてもらおうか?
>>54の記述を見る限りそれは鈴木眞哉という歴史家が散々書いているのとうりふたつなんだよ
鈴木曰く、
「家康は勇ましく信玄に挑んだのではない。
部下が物見気分で武田勢を見に行ったのをとめようとして、
結果戦いに巻き込まれ惨敗した。
この例を見てもわかるように徳川勢はあまり統率がはかれていないが、
信玄は部下の統率をしっかりしていた。だから武田は強かったし信玄はえらい」
と褒めるんだよ
これを鵜呑みにしているだけのレスだから、
鈴木の意見の鵜呑みをするのはどうか、と言ったんだよ
0071人間七七四年
2007/03/03(土) 04:59:46ID:8QA6Soeb三河を完全に手中にする前の小勢力のころは、戦っていたんじゃないかな。
一向一揆の際もかなりやばくて、一揆勢に加わっている家臣が見かねて、
家康の身を守るために戦った、って話もあるぐらいだし。
徳川がらみでは、私の一番好きな逸話。
0072人間七七四年
2007/03/05(月) 02:29:10ID:GtReLxTT0073人間七七四年
2007/03/08(木) 22:39:03ID:lDgUu60H三河兵は屈強だし、当初は家康が有利に戦いを進めていたし、
なんといっても家康は戦国時代きっての野戦の名手と言われているし。
0074人間七七四年
2007/03/08(木) 22:50:03ID:Jos8fdSC0075人間七七四年
2007/03/08(木) 22:50:03ID:NzmPG+8B釣り?
0077人間七七四年
2007/03/08(木) 22:59:34ID:A8mpg+eEまさか本気で京都を目指したわけではないだろうに…
0079人間七七四年
2007/03/08(木) 23:51:34ID:zeUWVuYu信長の足をひっぱるためだろ?
0081人間七七四年
2007/03/09(金) 22:42:38ID:MXdzJ7arとりあえず 信玄の寿命が危うい状態で信長と敵対することの是非は置いとけ。それ言い出したら話にならんからな
この時期機内においては、浅井・朝倉・一向一揆勢に三好残党等々と、数々の反織田派諸勢力がおり、主敵たる織田主力部隊から行動の自由を奪い取っている。
信長率いる織田家はこの時期、単独でなら日本全国どこの大名よりも大きな軍事力を持っていたわけだが、
しかし内線の速攻戦で一つ一つ片付けられるほど脆弱な敵は存在しておらず、どの方面で攻勢に出るべきか判断が付かん状況にあった。
一方面に主力投入してる間に他方面から侵攻食らったら対応に困るからな。
んで、そんなこんなで織田が動きを取りにくくなっている間に、
織田最有力の同盟国であり、織田本拠たる尾張の門番である徳川家を屈服させるための出撃というのが三方ヶ原の前状況。
徳川を潰すなり臣従させるなりして、交通の便が良く、大軍の侵攻に適した東海道筋を抑えるのが主目的だったと見る。
よーするに、上洛戦=織田との決戦に備えた地均しの最終段階であり、
だからこそ徳川方が対応不能な大軍を送り込んで、一気に圧倒撃破しようとしたわけだが、
土壇場で時間切れちゃいました。と。
0082人間七七四年
2007/03/09(金) 22:58:34ID:yg74BNo9つまり家康を滅ぼす目的ではないのだろう?
織田も誘い出して叩こうとしていたのかも知れないが
一挙撃滅なんてことは考えていないようだし
信玄は何を考えていたのかな?
0083人間七七四年
2007/03/10(土) 01:33:58ID:mTwK4frpボロ勝ちつーほどの勝利はしとらんよ
一応勝利は収めたしある程度の戦果も上げた とはいえ
肝心の家康本人は夜陰に紛れて逃げられちまうし
家康を支える重臣・豪族の主だった連中もほとんど死んでなく
結局徳川の主力は軍の体裁保ったまま、浜松に逃げ戻って再び篭城に入っちまう
信玄の待望していた武田側優位の決戦に持ち込み勝利したは良いが、結局戦略的環境はなんら変わらんかったっつーオチ。
家康は再び引きこもって嵐が去るのを待ち、信玄はなんとか家康再び引っ張り出そうとするも叶わずあぼん
0084人間七七四年
2007/03/10(土) 11:37:24ID:Cho3MqRs上洛できるわけでもないし領土的なメリットがあるわけでもないし
そもそも何でノコノコと出てきたのか、つうことだよ
長篠の戦みたいに両方一気に叩けるならば別だろうが
片方づつ叩いても、もぐら叩きにしかならんぞ
0085人間七七四年
2007/03/10(土) 12:31:40ID:mTwK4frpだから上洛の前段階だと言うとry
>領土的なメリットがあるわけでもないし
少なくとも 徳川屈服させれば三河遠江を完全支配できますが何か?
>両方一気に叩けるならば別
両方同時に相手にしたら勝ち目薄いから片方ずつ潰しにかかっとるんでしょうが
この時期でも既に織田が動員できる兵力下手すりゃ5万超えるわけでな
>そもそも何でノコノコと出てきたのか
そいつぁ信玄本人に聞かなきゃわかんね
それ言い出したら義昭さんあなた本当に信長に勝てるつもりだったんですか とか
浅井親子さんあなたそこで朝倉について生き残れるとでも思ってたんですか とか
義景さんあなたなんでいつもいつも肝心なところで帰っちまいやがりますか とか
その手の当人たちしか分からんミステリーはいくらでもありよるつーの
0086人間七七四年
2007/03/10(土) 12:59:59ID:Cho3MqRsなーもしないで帰るのか? 何か目的があったんだろう?
上洛の地ならしったって、片方づつ戦ったのでは挟撃されるだろうが
勝頼だって両方一編に戦おうとしたのじゃないの?
0087人間七七四年
2007/03/10(土) 14:42:37ID:SwrvFF11信玄死後の勝頼の長篠までの戦いは、基本的に織田徳川の各拠点の撃破であり、
城を落として拠点を確保した状態での優位な状況で戦えるなら織田徳川との決戦も
辞さなかっただろうが、その場合は織田や徳川が撤収している。
長篠では長篠城を落とせないでいるうちに織田・徳川が到着して迎撃しようとしたら
背後をとられたので決戦になだれこんだ。
勝頼としても出来るなら各個撃破を狙うか、優位な状況で戦いたいだろう。
0088人間七七四年
2007/03/10(土) 14:51:35ID:SwrvFF11そして野田を落とした後で病に倒れるが、もし次に吉田の城が落ちたなら
徳川領は分断される事になると思うのだが。
そうなれば挟撃されるリスクはかなりさけられるのでは?
それなら徳川領制圧か徳川屈服の可能性もあるんじゃないかな。
上洛前の地固めというのは結構的を得ているんじゃないか?
0089人間七七四年
2007/03/10(土) 16:54:40ID:Cho3MqRsしたのスレで話していた奴が長篠城は勝頼がわざと落さなかったと
つまり妻女山の謙信と同じく、織田、徳川をおびき出す為に落とさなかったつう意見に
賛成せざるを得なくなったんだよ、つまりそうでないとあの突撃の意味が解らんからな
おびき出したからこそ勝頼は無理にでも戦ったんだと…
0090人間七七四年
2007/03/10(土) 17:36:08ID:y7W5RWlAただし、二俣とかのように落城までてこずった例もあるんだよな
あと信玄ってこの頃既に体調は悪かった様で、
(信玄の病気療養のせいで遠江侵攻も遅れている)
自分の死期とかについてはどう思ってたのか、と
仮にこの大遠征で病気悪化させて死んだんならただの無謀ではないのか、と
最初は徳川領への侵攻・徳川の支配を目論んだけれど、
織田包囲網の朝倉タンの突然の帰国から情勢が変化、
信長の後詰の可能性が出てきて、
三方が原に家康をおびき出す事で何とか早く徳川を服従させようとしたけれど、
戦には勝つも家康は逃がすし、
徳川方の大勢の重臣をうちとることも出来ず結果的には失敗、
最終的に野田城とかのように徳川領への侵攻の拠点作りに落ち着いてしまったのかもね
0091人間七七四年
2007/03/10(土) 18:32:41ID:SwrvFF11おびき出したから無理に戦ったといっても結果が悲惨すぎないかな?
もし勝頼が引ける状態なら無理とわかった時点で引き上げようとするんじゃないだろうか。
しかし結果は柵と土塁と堀で守られた重厚な野戦陣地に執拗に突撃して被害を増大させ
最後には崩れて逃げる所を追撃されて壊乱だ。とても望んでなった状況とは思えないんだが。
0093人間七七四年
2007/03/10(土) 22:54:29ID:mTwK4frp自分の寿命がいよいよ危ないと感じていたからこそ、
死ぬ前になんとか織田と互角に張り合えるだけの国力を後継に持たせてやろうとしたって考え方もできるがなー
っつーか
「俺の余命あと半年だから、もう出戦せずに養生してるべぇ」
なんてことを考えて 実際に戦略に取り入れられる輩は そいつぁ人間以外の何かとしか言いようがねーだろ 正直。
>野田城とかのように徳川領への侵攻の拠点作りに
野田城は拠点にするにはちと奥まりすぎてないか? 信玄死後すぐに奪い返されてなかったか
俺が思うあの時点での信玄の計画は、野田→吉田→岡崎と進むことで、
浜松の家康&徳川主力勢と、岡崎の信康&酒井忠次ら三河衆との連絡を遮断し、
浜松の徳川主力勢を城から引っ張り出すのが目的だったと考える。
家康にとっては絶対に失えない拠点であり、かつ比較的防備の手薄な地点を攻撃することで、
徳川方の出戦を強要、再度決戦に持ち込み今度こそ殲滅を図った んじゃねーだろうか。
0094人間七七四年
2007/03/10(土) 23:00:58ID:Cho3MqRs346 長篠・設楽原合戦の真実スレ
執拗に突撃したのは勝頼本隊を逃す為だよ、右翼の先が逃げ道になるからな
0095人間七七四年
2007/03/10(土) 23:06:22ID:Cho3MqRs信玄の三方が原も、同じ目的であったのじゃないかと推測する
つまり本当は家康ばかりでなく信長も誘ったんだろうが
信長は出てこなかったのじゃないのかな…
0096人間七七四年
2007/03/11(日) 01:25:24ID:6bGTOvxQいや
単に織田との決戦を希求するだけってんなら 中仙道ルートで直接美濃を襲えば良いわけで。
信玄が望んでいたのは、あくまでも織田・徳川の各個撃破。
織田勢主力の行動が制限されている間に、徳川を屈服させちまおうというのが狙いだろ。
もし徳川領に侵攻し織田勢をおびき出して云々なんて考えていたとしたら、
その場合信玄は己の考えを後悔したに違いないよ
信長が出てくるとしたら、武田勢に確実に勝てるだけの数−おそらく濃尾で総動員かけて、軽く4万はそろえてくるだろうからな
また、そんだけの数を三河に投入しても大丈夫な戦略的情勢にならん限り、信長は三河の後詰には赴かんだろうよ
0098人間七七四年
2007/03/11(日) 01:38:27ID:gxa9Qvfz普通は篭城だろう
そしてどこかの城を囲んで織田と徳川が出てくるのを待つ
つまり長篠の戦と同じ作戦を取るつもりじゃなかったのかな
その軍師(真田?)がまんま長篠の戦の指揮も執った
0099人間七七四年
2007/03/11(日) 01:45:26ID:6bGTOvxQアレは、単に城攻めて落としきれず 何かの理由で撤収もできずに後詰決戦に持ち込まれてボロ負けしたってだけの話
もしも、本当に誘い出し図ってたとするなら、1万5千なんて中途半端な数で出てくるわけがない
その程度の数で織田徳川合同軍と決戦して勝てると思ってたとしたら、そりゃ作戦立てた奴が無能としか言いようがない
0100人間七七四年
2007/03/11(日) 01:54:46ID:gxa9Qvfzんなことはないだろう、ふつう、一ヶ月も落せないなんてことはないぞ、きっと
それに長篠城を見張る砦を三つも作ってる
0101人間七七四年
2007/03/11(日) 02:05:27ID:gxa9Qvfz奥平某、きっとそれ以後の歴史に燦然たる名前を成しただろうぜ
0102人間七七四年
2007/03/11(日) 02:11:42ID:6bGTOvxQいやまぁ、別にわざと落とさず誘いかけてたっつーのを強いて否定するつもりはないけどな
もしそうなら武田家臣団は揃いも揃って無謀系の無能揃いとしか言いようがなくなるだけで
なお、真田幸隆は長篠時既に死んでるし三方ヶ原には参陣してねぇ。
0103人間七七四年
2007/03/11(日) 02:25:09ID:6bGTOvxQ1575(天正3)年5月
6・7日 武田勝頼、吉田城(豊橋市)に追って小ぜりあい。
8日 武田勝頼(1万5千)が長篠城(奥平貞昌5百)を囲み攻撃開始。
10日 大手門付近で戦闘、城兵が門外へ突出。
11日 豊川対岸の武田軍、筏で野牛郭を攻撃。城兵も多数死傷するが撃退。
12日 武田軍、本丸西隅に横穴を掘り侵入、城兵は逆襲して退ける。
13日 武田軍は瓢郭を攻撃。夜、瓢の兵は本丸に引き上げ。大手門方面に武田軍が建てた望楼を城兵が銃撃で破壊。
14日 武田軍の総攻撃を城兵が死守。鳥居強右衛門が奥平貞昌の命を受けて脱出。
15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着し家康に言上。織田信長も岡崎に到着。
16日 鳥居強右衛門は武田軍に捕われ、城中へ援軍到来を告げて磔にされる。
18日 織田・徳川軍、設楽原に到着し、陣地を構築。
19日 武田軍は軍議。勝頼は諸将の諫言を容れず、設楽原の敵陣攻撃を決定。
20日 武田本隊は城の包囲を解き設楽原へ。徳川軍酒井隊が鳶が巣方面へ。
21日 設楽原で激突。勝頼は多くの将士を失い残兵に守られて敗走。
(長篠城址史跡保存館パンフレットより)
っつーかだ。防戦期間は実質一週間程度だろう。一ヶ月なんてどっから出てきた?
>102
で 立役者たる奥平信昌のその後
信の字は長篠における戦功を信長に祝されて与えられたもの
家康の長女を娶る
徳川の関東移封時には上野に3万石を与えられる(家中で十指に入る厚遇)
後年に初代京都所司代 美濃小幡に10万石を領する堂々たる大名にまで出世
0104人間七七四年
2007/03/11(日) 02:26:30ID:gxa9Qvfzだとすると生殺しにして援軍の要請をさせて、それを撃つのが目的だと判る
幸隆は死んでいるのか、でも長男次男は長篠の戦で討ち死にしているから
どちらかが軍師役じゃなかったのかなぁ…それ以外に誰かいる? 勘助はいないしw
0105人間七七四年
2007/03/11(日) 02:36:37ID:gxa9Qvfzで合戦が五月二十一日、ちょうどひと月
0106人間七七四年
2007/03/11(日) 02:43:38ID:gxa9Qvfz家康をつついているんだろう
0107人間七七四年
2007/03/11(日) 23:36:11ID:fjcwpMCU0108人間七七四年
2007/03/24(土) 11:41:52ID:L/VeG+Sbそれが本当なら明智城のときも高天神城の時も、
信長の援軍が来る前に城を落したりしていないと思いますが。
0109人間七七四年
2007/04/02(月) 06:36:54ID:NTb8cj6/信長自身が切り捨てたとも言われてる、形だけの出陣で、
打って変わって幾内とかには、そのまま猛烈に進撃してるしな。
0110人間七七四年
2007/04/02(月) 06:50:18ID:NTb8cj6/高天神城側の降伏を拒否して、武田本体釣りだそうとしてる。
その時は、武田本体は来たけど、対陣しただけで退却したな。
兵数では武田が倍近くいたにもかかわらず。
それで高天神城兵は打って出て玉砕、山県遺臣は全滅。
0111人間七七四年
2007/05/06(日) 17:44:04ID:ASY6ZRTh0112人間七七四年
2007/05/07(月) 20:34:10ID:vrJei3i4北条からも援軍を得ていたようです。
これに対して、織田信長は好機と思っていたようです。
尾張、美濃まで深く誘い込んで、補給路を遮断し、武田軍を殲滅する計画を立てていたようです。
摂津に三好、近江に浅井朝倉がいる現状では、必然的に大軍を東海に差し向けることはできません。
当時、織田家が恥も外聞もかなぐり捨てて、伊勢も尾張も近江も捨てる気になれば、美濃に六万から七万の兵を集ることが可能であったようです。
徳川が壊滅させられることがあっても、絶対に織田信長は武田に勝つ自信があったようです。
信長は武田がかなり無理をして進軍していると推測していたようです。
尾張、美濃で織田軍と戦うのに、遠々江や三河の徳川と本気で武田が戦うはずがないと信長は考えていたようです。
そのため、徳川家康に対して、「絶対に城から出るな。」「武田は絶対に家康のいる城を攻めない」と指示を出していたようです。
それでも、徳川家康には、信長の意図が理解できず、
「織田が援軍を出してくれないなら、武田に寝返る。」とまで言って援軍を要請したようです。
これに対して、織田は、精鋭水野軍を主力として、佐久間信盛、滝川一益、平手汎秀、水野信元が派遣されたようです。
援軍の中では、水野信元が織田信長の説明する戦略の意図をもっとも理解しており、
徳川家康に対して、再三にわたり、篭城すること、決して武田には攻めかからないことを約束させます。
しかし、血気盛んな徳川の兵は城を抜け出し、何度も進軍中の武田軍にちょっかいをかけたので、
ついに一言坂で武田軍と徳川軍が小競り合いを起してしまいます。
徳川方は枯野に放火して、かろうじて逃げ延びますが、この戦いに激怒した水野信元は徳川家康を叱責したようです。
0113人間七七四年
2007/05/07(月) 20:35:43ID:vrJei3i4その動きを見た水野信元は、益々、武田が徳川軍を無視して進軍すると見て、再度、家康に対して、部下に対して、武田軍を挑発しないよう、厳命します。
徳川家康はこれを承諾し、家来に対して、弓矢や鉄砲を射掛けないよう命令を下します。
しかし、これに納得しない徳川の家臣たちは、哨戒、偵察と言っては度々浜松城を抜け出し、武田の隊列に石を投げたようです。
この時の徳川の兵は主に三河衆であったようです。
武田側は徳川の石投げを無視して行軍していたようですが、何度か、徳川方の投げた石が武田の兵に当り、それを見て徳川方がはしゃぐので、
武田の兵も怒り、徳川方に石を投げ返したようです。
そして、しだいに石投げが激化し武田方が弓を射掛けてきたようです。
これが徳川の兵に当り、死亡したので、徳川方が激昂し、鉄砲を撃ったようです。
そうして、上官の命令なしに、またもや、偶発的に戦いが始まってしまいます。
しかし、今回は、徳川の将たちは水野信元に叱責されたことが面白くなかったのか、撤退命令を出さず、次第に戦いが拡大していきます。
「何をやっているのか!たわけが!」その報を聞いた水野信元は怒鳴ります。
それに大して徳川の将たちが「仮にも一軍の将に対してたわけとは何事か!」と刀を抜いて詰め寄ります。
そこに徳川家康が割って入り、徳川の将をなだめます。
そして、水野信元に対して
「このわしが自ら出陣して、兵を引かせますゆえ、なにとぞ、与力賜わりませ。」と水野信元に協力を要請します。
これに対して、水野信元は渋々承諾します。
0114人間七七四年
2007/05/07(月) 20:37:41ID:vrJei3i4徳川本隊が出てきたのをみた武田信玄は部隊に反転を命じ、一気に徳川本隊に突撃し、乱戦になります。
前衛での徳川と武田が乱戦になったのを見て、水野信元はため息をつき、
奇麗に隊列を組んで、整然と撤退し、戦わずして浜松城に引き返してしまいます。
主力の水野軍が撤退するのを見て、佐久間信盛は立ち止まって撤退していく水野軍を見ます。
そして、徳川とともに突撃していく平手汎秀を見ます。
そして、また水野軍を見ます。
水野軍はどんどん小さくなっていきます。
「どないしますんや、水野、逃げてやんすで!」
滝川一益が佐久間信盛に近づいてきて怒鳴る。
佐久間信盛が硬直しているのをみて、滝川一益は平手汎秀に続いた。
しかし、すぐに徳川の前衛が崩れて逃げ出したので、滝川、平手も撤退を開始。
しかし、平手は後頭部に矢が刺さって馬から落馬し、佐久間信盛の前のほうで絶命した。
佐久間信盛はそれをみて「ああああああ、ああ」と声を上げて、馬に乗って撤退を開始した。
それを見て佐久間の兵たちも、「逃げろー!」と声を上げてラバラバに逃げ出した。
途中、逃げる佐久間に向かってくる武者たちがいる。
「佐久間殿、ここは我らに任せ、お逃げなさいませ!」
その武者たちに一目して、「任せた!」と叫び、佐久間信盛は逃げた。
この武者たちこそ、桶狭間の戦いで一番乗りした、長谷川橋介、 佐脇藤八、山口飛騨守、加藤弥三郎であった。
彼らは槍を振りかざして突撃してくる武田の軍勢の中に土煙とともに消えていった。
0115人間七七四年
2007/05/07(月) 20:40:14ID:vrJei3i4そういって家康は城の中に入っていった。
「なんとなされるぞ、この様は。」
先に帰っていた水野信元がそう詰問するが、家康はそれを無視して、「たいげ」独り言を言って水野の前を通り過ぎた。
「へぼいの」水野が吐きすてるように言うと、家康は立ち止まり、水野を睨むが、
そのまま無言で奥の部屋に入っていき、土まみれ、鎧を着たまま布団にもぐりこんだ。
しかし、眠れないのか、絵師を呼び、椅子に腰掛け、自分の絵を絵師に描かせた。
その間中、家康は歯を食いしばり、ずっと貧乏ゆすりをしていたようだ。
少し気分がおちついたのか、「腹がへった。」と言って湯づけを食べて、服を着替えてそのまま布団に入って寝てしまった。
その間にも、水野信元は大量の松明にを浜松城の窓ごしにかかげ、その窓からわざと大量の鉄砲を突き出し、
武田側から、城に大量の鉄砲があることを誇示した。
武田側の哨戒は、先に水野軍が整列して撤退しているのを見ていて、武田信玄に対して
「徳川本隊は戦わずして、整列して城に帰りました。」と報告した。
この情報と、浜松城から見える大量の鉄砲の銃口の情報の報告を総合的に考えて、
武田信玄は、これが徳川家康の罠と考え、これ以上、浜松城を攻めなかった。
というより、織田信長が以前より言っていたとおり、武田はここで兵力を消耗するつもりはなかった。
予定通りの行動だった。
0116人間七七四年
2007/05/12(土) 09:53:15ID:5vb7x5KD0117人間七七四年
2007/05/23(水) 16:34:54ID:IumdsKz9それが伝統なのだよ
0118人間七七四年
2007/05/25(金) 23:51:37ID:FAbnQfZt0119人間七七四年
2007/05/26(土) 00:02:42ID:Z39ZH6cI伊勢、近江、尾張を捨ててどうやって美濃に6〜7万もの戦力を
集めるんだよ。
0120人間七七四年
2007/05/26(土) 00:13:55ID:iDucg7P60121人間七七四年
2007/05/26(土) 01:33:21ID:E3VCitC+[家康は信長の意図が理解できず]理解してたが自国領を敵に平然と通られる事は武士として最もはずべき行為、として出陣したのだが。まぁたてまえだろうが
【伊勢、近江、尾張を捨てて6万の兵を用意可能】どうやって?
【血気盛んな徳川軍の兵がたびたびちょっかい】出陣命令を出したのは家康の狸なんだが
【徳川勢が武田勢に石を投げ込む】逆なんだが
などなど
間違い多すぎて指摘すりのも疲れる
0122人間七七四年
2007/05/26(土) 11:47:03ID:XM1LGUlz信玄もそれを知っていて素通りするフリを見せたのじゃないの?
0123人間七七四年
2007/05/26(土) 12:03:39ID:iDucg7P60124人間七七四年
2007/05/26(土) 14:06:14ID:S5Vq0hHe0125人間七七四年
2007/05/26(土) 15:00:45ID:iDucg7P61573年3月15日、馬場700にて岐阜侵攻。
織田10000を敗る。
このとき信長は「後ろも見ずに岐阜に逃げ帰った。(甲陽軍鑑)」
甲陽軍鑑にこんな記述あったか?
0126人間七七四年
2007/05/26(土) 16:16:59ID:iDucg7P60127人間七七四年
2007/06/01(金) 18:28:16ID:4CFT9qZe0128人間七七四年
2007/06/16(土) 07:08:05ID:ceyGl30Q三方ヶ原古戦場までは帰りの電車の都合で行けなかったが
大久保忠世らが野営する武田勢に夜襲を仕掛けて崖したに多数の武田兵を
突き落としたと言われる犀ヶ崖古戦場には行けた。少々道に迷いながら
歩いていたら偶然たどり着いたんだが。ボコボコにされた徳川勢意地の一撃と
いうところか。敷地内には本多忠真(忠勝の叔父)、数十メートル離れた場所には
夏目吉信の討ち死にの碑などもある。それにしても浜松城まで近い。
1qあるかどうかというところだろう。そんな至近距離まで攻め込まれた訳だ。
長文失礼。
0129人間七七四年
2007/06/16(土) 22:08:29ID:ITWL+Rm30130人間七七四年
2007/07/27(金) 22:34:04ID:gaBdwZLyhttp://puka-world.com/php/upload/puka/img-box/1184981314875.jpg
銭取跡
http://puka-world.com/php/upload/puka/img-box/1185542227069.jpg
0131人間七七四年
2007/07/27(金) 22:46:36ID:peXGqDX9これひどすぎwww
嘘しかない笑
0132名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 03:54:27ID:SBmA3qZe0133人間七七四年
2007/07/31(火) 00:35:31ID:oTVfJoBZ戦国時代って結構近距離で争っているからねー
それと同じころ浅井は小谷城から1キロあるかないかのところに
砦築かれていたりするし
0134人間七七四年
2007/08/08(水) 19:35:51ID:acOVxLCi0135人間七七四年
2007/09/08(土) 22:20:38ID:tb4/au3A0136人間七七四年
2007/10/29(月) 17:23:35ID:4/EO4VP90137人間七七四年
2008/02/19(火) 18:42:55ID:7vOCSaJG0138人間七七四年
2008/02/19(火) 19:51:18ID:1OhyKB/1m9(^ω^)きんもーっ☆
0139人間七七四年
2008/02/19(火) 21:51:58ID:/BXHgq3h0140人間七七四年
2008/02/19(火) 22:24:55ID:+CNuAHcx0141人間七七四年
2008/03/24(月) 03:13:37ID:FMk3TVsV0142人間七七四年
2008/03/25(火) 21:56:31ID:fX/McUpW0143人間七七四年
2008/03/25(火) 21:57:36ID:fX/McUpW0144人間七七四年
2008/03/25(火) 22:07:15ID:msm9xHnv家康は元祖スカトロマニアだからね
0145人間七七四年
2008/03/26(水) 02:07:08ID:x80i5cJP■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています