★管領家★ 細川氏総合スレ ★応仁勝者★
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/15(土) 17:14:12ID:FbHP8oiiそして管領職を独占し勝者になったにもかかわらず
一族合い抗争して権力を失っていく
こんなかわいい細川氏を語りましょう
細川藤孝・忠興や地下官人細川蔵人家の話題も可
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/15(土) 17:27:15ID:J+Q7XyNB0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/15(土) 18:30:45ID:9f7NjmDihttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150021673/
0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/15(土) 21:23:42ID:FRMRgjXt元春という息子がいたって話になってるんだよな。
0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/16(日) 00:48:44ID:neRFsVDe剣術や弓術にも秀でていたんだよね。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/16(日) 12:10:48ID:TJcd8Lp9藤孝は最強の戦国武将
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:36:24ID:XrDqkzEf0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:42:31ID:2uOnfbpW長男を追放し
次男を無理やり切腹させ
家を継いだ三男とは喧嘩別れをして争う始末
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 23:50:46ID:XdQE+VGJ細川家の同族?
0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 05:12:01ID:5pS1qhFq0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 08:54:32ID:BBXlBdvU血筋からいうと足利尊氏以降、足利将軍家から分かれた家。
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 15:48:30ID:Fio7aWUO>>11を補足すると、
三淵晴員は和泉半国守護(上守護)細川元有の子です
和泉上守護家は細川頼之の弟、頼有の流れ(元有は頼有の玄孫)
0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 17:04:25ID:Fio7aWUO>応仁の乱の勝者
山名スレに書いたけど、山名は但馬、因幡(伯耆もあるけど)に籠もちゃったから
斯波は見る影もなく、せいぜい畿内に絡んだのは畠山
そういう意味では、細川は応仁の乱後も政権握ってるからね、勝者といえば勝者
0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 00:18:59ID:mTYSaF0n0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 17:35:26ID:zbrr7qcJ0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 21:09:58ID:fWRWG4U6徳川から十五人扶持もらって仕えたらしい。
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 21:12:39ID:0knJuAEZその辺不勉強なんで詳しい方簡単に聞かせてプリーズ
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 21:38:23ID:0knJuAEZごっつあんです
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 15:11:34ID:9OYjOJEoこれが出発点
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 16:25:05ID:mhS6qpuH0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 16:33:35ID:9OYjOJEo長岡と改姓したそうだ
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 21:22:53ID:djycgZPs0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 22:15:03ID:mhS6qpuH細川に戻したのは、清和源氏を仮冒した徳川への対抗心でしょうか。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 22:21:38ID:djycgZPsもともと細川なんだから
対抗はしないでしょ
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 02:24:37ID:QzIAry47きびしいでつな
0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 13:07:10ID:2ZFF2Zar・細川 晴元逃亡 天文十八年(1549) 氏綱が死去 永禄六年(1563)
・今川 桶狭間戦 永禄 三年 (1560) 完全に滅亡 永禄十一年(1568)
若干今川が遅い程度ですね
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 15:18:11ID:KOQGpQeX0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 00:36:22ID:6JdwM7Ix藤孝が元常の養子なら、元春なる人物も実子ではありえない。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 01:08:37ID:kQdqNJsh0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 14:58:58ID:250M6HAG明治期に正六位で宮内省京都支庁殿掌などをした、常典のご先祖さまのことね
謎?だね
晴貞?
三淵晴貞ならわかるが・・・
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 20:47:12ID:Mhg+Q8X1「座中天文日記」に「和泉守護殿(元常)御弐息五郎殿」と元常次男の五郎が出てくる。
これが「細川家文書」の封紙上書に「刑部大輔晴貞」とある人物と
同一人物であると岡田謙一氏が明らかにされていた。
最近出た書籍にはこういう説もあるということで。
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 21:53:10ID:iBG40bvv0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 22:09:17ID:Mhg+Q8X1ただ継嗣がいるのに、藤孝を養子にしなければ
ならなかった理由はまだ不明なんだよね。
晴貞が早い段階で死亡したりしたのかな。
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/27(木) 14:26:35ID:JKIBdTxE0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/28(金) 09:54:08ID:ppCn7quOこの時代の政略結婚にしては珍しいくらい妻に執着
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 17:28:01ID:kNRI4itZというよりすごくアブナイ性格だったらしいぞ
妻と会話した自分の部下全員を殺してるし
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 18:31:59ID:HaEqrI5O父の藤孝と弟の興元以外は絶対男子禁制
(それも内心は嫌々)
重臣がやむを得ぬ話のある時は襖越し
0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 18:32:58ID:nli36Is50040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/31(月) 12:00:25ID:dLAkCeci0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/31(月) 12:14:21ID:mkKEzRID0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/31(月) 13:28:57ID:dLAkCeci>阿波守護の存在意義は一時的に高まってるな
これは長治の件?
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/31(月) 22:45:33ID:S1A+zzyG0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 16:34:06ID:CYl+4rJu禁裏と幕府を支える財政的負担に苦しんだ
それがもともとの端緒となって、後柏原天皇の即位の礼が遅れることとなる
ちなみに先帝(後土御門)の大礼のときは、三十ヶ国以上の国役で財源をつくったそうだから
京兆家だけの負担は、あまりに重すぎたようだ
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/11(金) 15:38:15ID:nnFNLocG0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/12(土) 15:07:17ID:yLGBMV4j修験道に凝って、政務をかえりみない、子もいないではね
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/12(土) 16:24:10ID:w1uOV6Va0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/12(土) 16:48:09ID:yLGBMV4j澄元とか
義興とか
知名度がないからねえ
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/12(土) 20:41:49ID:8HDJdKltむしろ一般人が知っている方が異常
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/13(日) 00:40:25ID:/r5Sh1QW学校で習った記憶がない
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/13(日) 16:21:36ID:9JURzeVT斯波義敏とか畠山義就とかも出て来なかったかな?
>戦国時代突入の画期をなす事変
やっぱり政元が戦国の発端なのかな
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/15(火) 00:02:41ID:5a9CNw0e0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/17(木) 14:58:18ID:/ztd8l/G畿内的には従来の応仁の乱が、しっくりくるような気はするけど
それとも戦乱云々じゃなくて、キーワードは下克上なのかな?
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/19(土) 02:02:28ID:i6GANpEi明応の政変で将軍権威にとどめを刺したのは、長期的にはまずかったのでは
まぁ、お陰様で室町末期がめちゃめちゃ面白い時代になったので、
政元様と日野富子にはめっちゃ感謝してます
てか政変前後の権力闘争自体、かなり面白いから、
NHKあたりに一度ドラマ化してほしい
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/19(土) 09:51:32ID:MRXVb7eRよく覚えてないけど
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/21(月) 16:28:52ID:ZsIQ2lOL0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 17:30:12ID:C22YygBO0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 10:59:02ID:51G9Kn3i0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 16:04:25ID:n7caQM+Fそれはそうと、政元に唯一対抗出来たのは、畠山政長
政長は当然東軍なんだけど、義就の死後政元が掌返しちゃうんだよね
やはり邪魔だったのかな
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 21:22:59ID:6n4uywvo危機に立った基家は、上原元秀を通じて足利義材を廃立するよう細川氏内衆を説得
細川政元は畠山政長を正覚寺に攻め自害させ、義材は元秀に捕らえられる
結果、幕府内のライバルが排除できた上に将軍も幽閉できて(゚Д゚)ウマー
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 23:48:43ID:Z0Rh7tEE澄元・高国らがボコボコと勢力争いしてた歴史を教えて。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 13:56:55ID:MS85cFmB・永正四年(1507)六月、政元が澄之派の香西元長らに殺される、七月澄之が家督を相続
・同年八月、澄之が澄元と結んだ高国に攻められ、香西元長、薬師寺長忠らとともに討死
・同年同月、義澄将軍のもと、澄元家督を相続、三好之長が補佐
・永正五年(1508)四月、高国入京、澄元・之長・義澄が近江に逃れる
・同年六月、大内義興が足利義材を伴い入京、義尹(義材)将軍、高国管領に
・永正六年(1509)八月、一時澄元が京を奪還するが、船岡山で高国、義興に敗退、摂津から阿波に逃れる
・永正十五年(1518)八月、大内義興帰国
・永正十六年(1520)三月、三好之長、高国らを近江に追い入京
・同年五月、高国、等持寺で三好之長を破る、之長捕らわれ処刑、六月、澄元が阿波で病没
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 13:58:13ID:MS85cFmB・大永七年(1527)二月、柳本賢治・波多野稙道ら、高国、義晴将軍を近江に追い入京
・同年三月、足利義維、晴元、三好元長ら堺に入る
・享禄三年(1530)六月、天王寺で高国、三好元長らに敗れ、討死
・翌年、六角定頼の仲介で、義晴将軍と晴元和睦、義維阿波へ
・天文元年(1532)六月、晴元の要請で木沢長政と一向一揆が三好元長を攻め、元長討死
(こののち一向一揆を抑えるため、晴元が法華衆を利用、延暦寺との対立で天文法華の乱に)
(この間に晴元と三好長慶和睦)
・天文十一年(1542)三月、木沢長政が三好政長らに討たれる
・天文十七年(1548)三好長慶が細川氏綱と結び、晴元と対立
・天正十八年(1549)六月、晴元方の三好政長が摂津江口で敗死、晴元、義輝将軍近江に落ちる
・同年七月、三好長慶入京(天文二十二年、義輝将軍と和解)
だいぶ抜けてるかな?
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/26(土) 18:46:56ID:bA0iU9EK>>62>>63サンクス!よく分かります。
いわゆる「大物崩れの戦い」とはどれのことでしょうか?
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 10:08:54ID:m1Tzt+JD>>63で一年間違ってるけど、享禄四年(1531)六月に高国が天王寺で敗戦
逃れたが、尼崎の大物で捕らえられ、大物広徳寺で自刃させられた
天王寺合戦〜自刃までを、俗に大物崩れという
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/28(月) 12:06:08ID:Ud4M6/ls・大永元年(1521)三月、将軍義稙が高国と対立し堺から阿波へと落ちる、義晴将軍に
・大永七年(1527)二月、柳本賢治・波多野稙道ら、高国、義晴将軍を近江に追い入京
・同年三月、足利義維、晴元、三好元長ら堺に入る
・享禄四年(1531)六月、天王寺で高国、三好元長らに敗れ、尼崎大物広徳寺で自刃
・天文元年(1532)六月、晴元の要請で木沢長政と一向一揆が三好元長を攻め、元長討死 、義維失脚
(こののち一向一揆を抑えるため、晴元が法華衆を利用、延暦寺との対立で天文法華の乱に)
(この間に義晴と晴元、晴元と三好長慶和睦)
・天文三年(1534)九月、義晴将軍が入洛、この年、義維阿波に入る
・天文十一年(1542)三月、木沢長政が三好政長らに討たれる
・天文十七年(1548)三好長慶が細川氏綱と結び、晴元と対立
・天正十八年(1549)六月、晴元方の三好政長が摂津江口で敗死、晴元、義輝将軍近江に落ちる
・同年七月、三好長慶入京(天文二十二年、義輝将軍と和解)
また間違いあれば指摘下さい
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 20:51:10ID:WIELFPsJ船岡山合戦は「毛利元就」以外で
取り上げられたことはないはず。
>>50、>>52
明応の政変は今なお異常なほど知名度が低いね。
平禅門の乱、永享の乱、嘉吉の変などにも言えるけど、
NHKの「その時歴史が動いた」はこれらの大事件を
必死にスルーしてるようにしか思えない。
文字通り「歴史が動いた」歴史的大事件なのに。
どういう理由で無視し続けているのか分からないな。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 20:45:13ID:QSwRcNdkでも、明応、永正のふたつのクーデターで、将軍と管領が
弱体化したってことなんだな。
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 21:26:23ID:FVu+IWqw事績はすごいね
0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 10:25:08ID:EnrgXjb+澄之の実父も変な人物だが。
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 16:05:20ID:jEQJyaxIそれを除いても九条政基はそうとう流浪してるね
まあ流浪自体は珍しくないけど
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 22:42:51ID:TS8K7zvC0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 01:55:55ID:lAmEaMWO単に視聴率が取れないから
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 21:11:18ID:QNtEog/E0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 21:14:16ID:Ugrr23000076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/05(火) 21:42:13ID:e4cIN9gT0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 15:14:51ID:0wDa9DoCこの人三好元長を庇ったり、義維を将軍に推戴しようとしたり
独自に活躍するが、三好義賢に殺されちゃう
0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 21:47:08ID:EqH9zBYMそう言えば、昔ウィキペディアの「戦国時代」の項目で戦国時代の始まりを明応の政変から旧説の応仁の乱に直そうとして注意された奴が逆ギレして編集合戦になった挙句、保護になったんだよな。
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 21:49:58ID:/nKGfo4+諸説あっていいんじゃないかな
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 00:31:44ID:CZHuzgijしかし幕府が崩壊状態になったのは、政元暗殺からだろう。
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 01:58:20ID:HGET73Kyこの頃完全に徳川側だった忠興は怒り心頭だっただろうな
しかもちゃんと活躍しているし
忠興は何か信長に近い性格のような気がする
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 12:16:23ID:nbYeIkBg0083中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/09/12(火) 12:31:43ID:zffBPNKZ官位授与の手続きでは官途奉行の摂津氏が将軍に裁可を仰ぎ続いて外記局に諮問のが行き天皇の勅許を取っ
た上で太政官から頭弁の口宣案という形で降りてくる。それを将軍か大納言の名で許可するが、将軍が逃亡
してたりすると官途奉行から最初の段階でつまずいてしまうためこれ以降直奏が増えたり管領が取り次いだ
りした。将軍権威の失墜ではなく政治機構の崩壊の観点からの分け方であったと思う。たしか三条西実隆の
日記には応仁の京都の騒乱を評して戦国の末世などと表現してたのが、戦国という語句の最初の記載だった
と思うが要はいつでもいいんじゃね?ということかと
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 13:28:59ID:WuFp06o1そうそう
勝元〜晴元までは細川中心で回ってるからね
(一方の雄って時期もあるけど)
>政元暗殺
これ+養子同士の争いで混迷は深まった
0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 13:34:41ID:WuFp06o1明応の政変って
・政元が義材を追放した、つまり将軍の首を管領が挿げ替えた
・三管領の時代が終わり、細川氏が管領職を独占した
ってこの二点が特徴で良いよね
義澄や義材、義晴や義輝が近江などに逃れるのは、政元暗殺後の混乱以降だね
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 21:07:37ID:VJqV/xio追加、確か切れたときに「(明応の政変=)そんな歴オタみたいなマニアックな事を書くんじゃねーよ」とか言ったんじゃなかったっけ?
0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 12:08:30ID:x1yTqrCi一般の知名度があまりにも低すぎるな。
(この3人の諱は単語登録しないと一発変換できない)
政元や晴元より藤孝や忠興のほうが有名だなんて理不尽だよ。
(「忠興」はなぜか一発変換可能)
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 19:07:52ID:CvN91WA7ことじゃない?藤考の流れは。晴元の直系の子孫は秋田で細々と
血脈をつないではいたらしいけど。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 19:29:45ID:DAeammS/は一発変換した
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/30(土) 16:17:30ID:9bSNpwg2管領も傀儡
侍所頭人は空位
執事は?
蜷川さんは?
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 00:24:18ID:px6b99KY0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 04:33:35ID:U1qh1kEv0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/01(日) 17:48:20ID:3/TNLlj2【おれたちの嫌いな三成】お国言葉で七将襲撃
ピンポーン!(家康伏見屋敷)
清正(尾張)「武断派代表の加藤だけどよう、三成さん、みえなさる?」
正則(尾張)「三成ーっ!こんたぁーけ!
おみゃぁ、首でも洗って待っときゃあ!」
長政(播磨)「三成ーっ!どこどいや!はよ出てこんかい、このダボケツ!」
忠興(山城)「三成はーん!どこにおらはりますのん?居留守はあきまへんって!
はよう出てきなはれー、このあほう!」
家政(尾張)「三成ーっ!おみゃぁ、人の言うこたぁええ加減に聞いとるでにゃぁ
よ!」
輝政(尾張)「三成ーっ!おみゃぁ、そんなことしとったらだちゃかんがねー」
嘉明(三河)「三成ーっ!おしはこすい奴だなー」
清正(尾張)「三成ーっ!いい加減だがやしあらすか〜と、殺すぞー!」
正則(尾張)「三成ーっ!わしはおみゃあにどえりゃ〜頭だがやきたぞ!」
長政(播磨)「三成ーっ!このくそダボが!まだそこに居るのんは、
わかっとーのんじゃー!」
忠興(山城)「三成はーん!いつまでうちら待たせるおつもりですのん?
ええかげんにしておくれやす!あんたはんがそこにおらはるんは、
うちらにはようわかってますのやー」
輝政(尾張)「あのよぉ。微妙なのが一人ほど混じっとるでにゃあか?」
嘉明(三河)「細川越中、おしはいせてやっとるだら?」
忠興(山城)「いややわぁ。うちは皆さんと違うて氏も育ちもええから、
ついついこんな時でも優雅になってしまいましてなぁ」
家政(尾張)「長政の言葉、柄が悪すぎじゃあらすか〜か?」
忠興(山城)「黒田甲州はヤクザみたいで、ほんま、品があらへんなぁ…」
長政(播磨)「じゃかましいんじゃー!越中もいてまうどー!」
面白かった。皆お国言葉でww
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/11(水) 22:40:34ID:mmvkWj4Zガラシャを殺した家臣がどうなったかとか話がなかったな
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/12(木) 21:40:33ID:UTGpNRw/0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/18(水) 23:08:56ID:UhQCZ0qW0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/19(木) 10:41:39ID:CkQusO5rあとなんでこいつ義昭を裏切ったの?いくら義昭が馬鹿なマネをしたからって自分の
兄弟を見捨てるなんて最低なやつだな。和田は義昭についていたったのに
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/19(木) 14:26:04ID:POG+OmJ0親父と嫡男を見限った武田信玄の立場はどうなる
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/19(木) 22:26:10ID:Z6I/qc8P和田は信長と義昭が決裂する前に死んでるぞ。その息子のことか?
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/23(月) 01:54:21ID:+bN07+xa元はね
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/28(土) 15:53:57ID:ke2Z418q漢代ぐらいからかな?この官名あるの
首都の長官っていうような意味ですね
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/29(日) 23:01:00ID:t6IAag6dありがとうごさいます
典廐は自分で調べます
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/08(水) 20:43:25ID:+audg/Zu0105つー`) ◆Cry/RhdmAo
2006/11/24(金) 08:16:29ID:Vl6oEPfN0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/24(金) 19:22:10ID:dnqP/aO30107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/24(金) 20:53:28ID:QNIZ+pzv0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/24(金) 22:25:23ID:QTmNV2Piつ斯波義廉(元々は渋川家の人物だけど)
分家も含めれば、斯波(最上)義光も有名だよね
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/24(金) 23:19:28ID:sbqsgOeh大概が室町時代に内紛続きで主筋が衰え、戦国時代に傍系にのっとられる構図
武田とかよく持ちこたえたよな
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/25(土) 00:04:44ID:sv9tbbw60111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/25(土) 19:45:33ID:E0LMmsZO0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 01:03:00ID:hgri/mbn別にかまわないっしょ。
護煕の首相就任当時、彼を勝元の子孫と勘違いしてた人はかなり多かったような・・・
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 21:28:20ID:vc6S2CSW0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 22:03:52ID:Pd147PBG息子の政元は残念ながらマイナーだよなぁ・・・
実際には勝元を上回る大物だったといえるのに。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/28(火) 14:16:33ID:/QmXfrGuどちらかといえば京兆家にとってはプラスにはなっていない
政元は終わりは良くないが、斯波・畠山を排斥し、将軍も無力化したからね
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 21:47:13ID:1c6gzcLI若干時期がずれるが、細川首相が在任中に大河ドラマ「花の乱」が放映されて
いたから、知っている人はいたかも。野村萬歳が演じていたっけ。まあ
史上最低の視聴率だったからそうでもないかな。それと政元は今井雅之だったな。
>>116
政元は2人の養子とって家中を混乱させた上、暗殺という絵に描いたような
凋落ぶりがまた面白い。評価は人それぞれだろうけど。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 21:48:27ID:njL/D9xB0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 22:41:33ID:Dc5G1xqS三管領家で一番格下なのに、なぜか有名人が多い細川。
足利分家の中で最も格上なのに、なぜか有名人がいない吉良。
(俺の中では、大河「太平記」の影響で貞義が有名人だけど)
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 00:16:43ID:x7+MMuYC0121名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 00:55:32ID:4928vBMI0122名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 14:59:15ID:Ys0IIKjFこの両氏は義詮に禁じられるまで、足利を名乗っていたわけだし
吉良は義氏の庶長子長氏の流れ、
斯波は一代後の泰氏の庶長子家氏の流れと斯波の方が近いし、
畠山は吉良より一代古い、義兼の子義純の流れ
細川にいたっては初代義康の子義清の流れ
本筋に戻すとそんな傍系が台頭できたのは、ひとえに和氏、頼春らの大活躍による
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 02:16:30ID:3HdLEIZU義満全盛期の頃でさえ応永の乱後の周防・長門守護を
入れ替えられなかったぐらいなんだから
九州も関東も慢性的な戦乱状態で、唯一義持時代に機
内近国で大きな戦乱はなかったというくらいだ
勉強してみると面白い時代なんだが、一般人にはわか
りづらすぎる時代だ。知ってるのはせいぜい金閣・銀
閣ぐらいのものだろう
0124七資産1970
2006/12/03(日) 12:34:23ID:zeP0fpXz拠って立つ名分はいくらでもあるしね
対して中央政府の力は弱いし
0125名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/06(水) 22:19:40ID:eInnnDIS小笠原少斎は切腹しました
0126名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/07(木) 11:09:17ID:X4WfG2ps叩き出すようなことしているから、生きていたら酷い目にあったでしょうね。
(徳川氏の覇権が確立すると見越して、前田との関係を薄めて、徳川とコネ作らせた三男に家督譲るためという気はするけど)
0127名無篠の戦い
2006/12/23(土) 21:54:52ID:GoCkLTptってなんにもしらないけど
0128名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 01:19:19ID:yzGClvym秋田じゃなくて福島県の三春藩。
細川京兆家の細川昭元の娘が秋田実季に嫁入りした事から細川京兆家は江戸時代、代々秋田家の家老となった。
1645年から秋田家は福島県の三春藩主5万石となった。
先日福島県三春町の細川京兆家家の墓を見て来たよ。
さすがに立派な素晴らしい墓だった。
反対側にある三春藩家老の荒木家
(丹波の波多野家臣の細工所城主荒木山城守氏綱の子で明智光秀家臣となった荒木氏清の子孫。
荒木氏清の妹が細川昭元の娘の侍女となり、秋田家の側室となった事から、
荒木氏清の子孫は秋田家の家老となり、藩主の秋田家と代々密接な親戚となり、
秋田家に養子を出してついにその子が藩主となって、お家乗っ取りに成功したが、
幕府を巻き込んで大騒動になり、化け猫騒動まで起こった)
の巨大な墓が倒れたままだったのは大変残念だった。
貴重な史跡だから三春町か福島県で何とか保存して欲しいものです。
0129名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/27(水) 10:41:40ID:LUW/bKTyなかなかおもしろい歴史の流れですね。
0130後陽成天皇
2007/01/10(水) 22:10:00ID:IGxVE+qt0131名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/12(金) 20:33:48ID:Sy01qxS20132名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/12(金) 20:36:48ID:Sy01qxS20133名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/14(日) 19:05:36ID:nFr3hfUo0134名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/16(火) 12:32:40ID:n+UG/1At晴元VS氏綱でもあっちについたりこっちについたりと、好き放題だったな。
0135名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/16(火) 12:52:02ID:pQ0ZIBqUそう考えると恐ろしいな、摂津衆って
0136名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/16(火) 13:08:42ID:iJTTEtUv基盤となる軍事力のない晴元についたほうが、自由にやれたのではないだろうか。
0137名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/16(火) 14:55:26ID:0pmWZJA5晴元が荘園保護派だったのが摂津衆離反の原因って言うから
その辺の利害がからんで三好についたと
狡猾なイメージはあるね、摂津衆
0138名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/16(火) 22:18:03ID:DFxy+Z+E細川自体が家臣格だから無理だと考えたのか
0139名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/16(火) 23:13:29ID:0pmWZJA50140名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/22(月) 10:21:02ID:qXEgJo7rそれなんてノブヤボ脳
0141名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/23(火) 15:26:49ID:6kAF0Mqwこのスレ的には
0142名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/26(金) 01:36:26ID:q372am0tいや根拠のないただの偏見だけど
0143人間七七四年
2007/02/17(土) 20:08:57ID:tz9k1+kvさすが戦国一の風流人
0144関連スレ
2007/02/18(日) 04:31:57ID:zgNWr4HNhttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171715093/
0145人間七七四年
2007/02/18(日) 10:00:09ID:Dxt67s490146人間七七四年
2007/02/27(火) 12:08:14ID:b1TJ6eN40147人間七七四年
2007/03/02(金) 14:36:34ID:O9un9dfl知っているのでは
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/hoso_2ke.html
とか
ttp://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/tomatu/background.html
とか
0149人間七七四年
2007/04/01(日) 21:29:16ID:NVDUmhrg私の母の実家は、言い伝えでは、阿波守護細川家の末裔らしいのですが、
最後の阿波守護細川家は、実力者の三好家の傀儡と化しており、
それに叛旗をひるがえして、戦い、三好家が徳島から撤退した後の
1582年10月に、何故か細川真之が自害して絶えた事になっているようです。
(ここからは、歴史的に認められていない話です。)
真之には何人か男子が居り、そのうちの二人が生き残り、
兄は愛媛に落ち延び、弟は徳島の片田舎の土豪に預けられたそうで。
徳島に残された弟の方が、母の実家の先祖だそうです。
元守護家といっても、庶民同然の暮らしだったようで、
身分は武士でも実際は近隣の豪農より貧しく、
近所の人に読み書きを教えたり、医者のような仕事をして生活を支えて来たようです。
0150人間七七四年
2007/04/01(日) 21:56:06ID:NVDUmhrg母方の実家は分家なのですが、
本家の方にも、書き付けとか、系図などは全く残っておらず、
ただ、「細川家の子孫だ」という言い伝えが残るだけでした。
ところが、愛媛に逃げ延びた兄の家系には、
詳しい書き付けか何かが残っていたようで、
歴史好きな当主の方が、徳島の某所に弟の家系が残っている筈だと、
はるばる訪ねて来て、家を探し当ててくださり、
どうやら、言い伝えは本当なのかもなあという状態です。
いずれにせよ、お寺の過去帳しか、家系をたどる物がなく、
家は分家なので、7代しかさかのぼれません。
機会があれば、本家の方に過去帳を見せてもらおうと思います。
0151人間七七四年
2007/04/01(日) 23:00:42ID:Fb6wXIlM0152人間七七四年
2007/04/02(月) 00:06:46ID:appg/RuR>こうい
うときDNA鑑定って使えるもんなんだろうか
無理。戦国時代の頃の先祖なら10世代くらいじゃ聞かないでしょ。
2乗で先祖の人数は増えていくんだから。
それに例えば、どの世代で兄弟だったかも特定できないはずから
先祖が同じという結果がでたとして、それが細川真之だと特定する証拠がでてこない。
0153人間七七四年
2007/04/02(月) 03:10:01ID:vybUi3hg問題は、阿波系統と本家や他の系統の区別は、オリジナルDNA使っても、
たぶん違いはわからない(ほとんど同じ)だから、
DNA以外の手段で”言い伝え”以降他の細川家と血筋的に無関係と確認できた状況なら、、
現在の細川家本流と比較し似ている特徴が多ければ、断定できるかもしれない。
ただ現在の細川家の特徴を確定するところからはじめるから、現実的にはごっつい大変だと思う。
0154人間七七四年
2007/04/03(火) 08:38:07ID:QDaHQM0qDNA鑑定、面白そうですね。
母の実家の本家と、愛媛の方がDNA一致すれば面白いのでしょうが、
なにせ、400年以上前のお話です。どうなんでしょうね?
母の実家も分家して一代目で当主、子供が相次いでなくなってしまい、
残った奥さんに新たに婿をとっています。
一応、本家の縁続きの者だったらしいのです。
(そうでないと、わざわざ家を残す意味も無いのですが。)
家の血統と本家の血統も、だいぶ離れてしまっていると思います。
祖父が詳しい話を知っていた筈ですが、
残念ながら、聞く前に亡くなってしまいました。
(私自身、あまり興味が無かったのです。今思うと残念です。)
大阪へ転出していた本家の方が、定年後、田舎に帰って来られたそうなので、
実家に行ったついでに、話を聞きに行ってみようと思います。
0155中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/04/03(火) 11:23:58ID:H6/N/u1v女系の直系にしか見いだせないと何かの本で読んだ気がする
日本の武家の場合、特に男系の一子相続が基本にあり
しかも血縁がなくとも頻繁に養子を入れて相続させるから(中には女系で繋がる場合もあるが)
仮に鑑定してみても思うような結果が得られない可能性は高い
逆に商家などは嫡子がいても継がせずにわざわざ娘に入り婿を取って家督を継がせることを
半ば慣例的にやってるから、DNA準拠で血統判定を行なう場合には
むしろ商家のほうが求める結果を得る確率は高いといえるかもな
0156149
2007/04/16(月) 09:11:30ID:7gfq+BV4保守上げさせていただきます。
新しい話題は有りません。すみませぬ。
0157149
2007/04/16(月) 09:12:19ID:7gfq+BV40158人間七七四年
2007/05/01(火) 00:10:39ID:Xlf1UOoJ細川家は足利の傍流だから義澄の養子になる手もあっただろうが、実子のいない政元にその気がなかったんだろ。
0159人間七七四年
2007/05/04(金) 00:52:20ID:iQPmeMdP0160人間七七四年
2007/05/04(金) 01:21:53ID:ro6k8q/s0163人間七七四年
2007/05/19(土) 20:15:21ID:WBH19p7I0164人間七七四年
2007/05/21(月) 06:01:18ID:XSa6ONRX昔この板の近畿スレでいろいろ詳しく書いてあったサイトのリンクが貼ってあったと思う
そこならもしかしてあるかも
0165人間七七四年
2007/05/24(木) 01:44:40ID:3sLBgimF今からでも長岡と名乗れ
0166人間七七四年
2007/05/24(木) 12:38:57ID:w2+j89IS0167人間七七四年
2007/05/24(木) 20:09:27ID:5dQ9OncBそりゃ六角氏の支配が安定してるし、山道行かずにすむし、それにだいたい敵は大和か摂津から攻めて来るから。
0168人間七七四年
2007/05/25(金) 23:52:58ID:PnptqIvV0169人間七七四年
2007/06/04(月) 21:58:19ID:b/sQByyp鎌倉攻め時に劣勢の幕府軍(北条一族)から寝返りが出てない
細川京兆家なによ…
0170人間七七四年
2007/06/04(月) 22:29:12ID:guTBnVzA0172人間七七四年
2007/07/21(土) 16:12:36ID:wGa8VO6P0173新参者
2007/08/03(金) 23:50:49ID:IfKjOexEよろしくお願い致しますm(__)m
久米義広の室が、細川持隆の妹であるというのを、よく見掛けるのですが、
県立図書館にある本で調べても、その出典というか、根拠が分かりません。
どなたか、ご存知の方、いらっしゃいませんか?
0174人間七七四年
2007/08/04(土) 09:38:29ID:eOg0sGOh0175人間七七四年
2007/08/05(日) 01:42:52ID:cSokRTGA0176人間七七四年
2007/08/05(日) 16:09:04ID:bFj7RG0zせめて両刀使いだったら、細川京兆家も安泰だったし戦国もなかったろうに。
0177人間七七四年
2007/08/31(金) 19:33:23ID:XDS6iaSB頼朝の直系や他のライバル御家人一族を謀殺しまくって頂点を独占したことで
ず〜っと美味しい汁吸い続けてたんだから結束力は強いだろww
0178人間七七四年
2007/09/28(金) 15:48:56ID:u6OD5dkn北条の権勢見た、将軍家の策と思うんだけどね
0179人間七七四年
2007/10/05(金) 22:50:06ID:6KQg6phu0180人間七七四年
2007/10/25(木) 13:45:25ID:eD2MNq1T斯波も反抗してるしね
そもそも尊氏と直義が争ったあたりが問題なんだよなあ
0181人間七七四年
2007/11/04(日) 08:21:18ID:U1s/AA2N爺ちゃんの従兄弟が肥後細川家の出なのでいまだに殿様と呼んでいる。
津軽氏と細川氏の関係がわからない。俺にも忠興の血が流れてると聞いてる。
詳しい人頼みます。家紋は細川家九曜別姓です。
0182人間七七四年
2007/11/04(日) 08:24:24ID:U1s/AA2N0183人間七七四年
2007/11/04(日) 10:04:13ID:IJM7vKIx幕末に細川氏から、津軽氏に養子が入っているからじゃないのかな?
最後の藩主の津軽承昭って人が細川氏からの養子です。
0184本当にあった怖い名無し
2007/11/04(日) 10:38:23ID:U1s/AA2Nああっそうか。回答有り難うございます。
謎が解けた。でも本来なら津軽氏を名乗りますよね?
何で主家は細川なんでしょかね。津軽承昭じゃ無くて細川アヤチャンだそうです。
細川アヤチャンは誰ですか?
天皇青森御幸の際、案内役に任ぜられました。
ちなみに弘前藩を佐幕から官軍への変更を殿様へヒイヒイ爺さんが具申
従五位下を朝廷から賜ってます。
0185奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
2007/11/16(金) 01:21:30ID:PrJHQ0+X戦国期の系図下賜から始まってるのに、明治期に入ると物凄い近親になってるな。
0186人間七七四年
2007/12/04(火) 15:52:22ID:NdWa2UB20187人間七七四年
2007/12/10(月) 16:06:21ID:BOmyVJiWつまり子孫がいて家を継いでいるのか?
前に京都に京兆家があるというカキコ見たんだが
0189人間七七四年
2007/12/11(火) 01:06:33ID:Axaet7fO0190人間七七四年
2007/12/12(水) 19:23:15ID:B3K8Mndbいつ京都に戻ってきたのかは知らんけど。
0191人間七七四年
2007/12/28(金) 16:05:28ID:or8QQKaS0192人間七七四年
2007/12/29(土) 18:43:06ID:ONCMisvv京兆家らしく足利義昭の名を貰ってて。
0193人間七七四年
2007/12/30(日) 15:50:46ID:HsfpKkBbその後持之−勝元−政元−澄元−晴元−昭元
勝元だけ違う〜そうだ義勝か。
0194人間七七四年
2007/12/30(日) 18:07:05ID:aBStunxS名前からすると京兆家の一門でしょうか?
系図わかりますか?
0195奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
2007/12/30(日) 19:02:45ID:omvzCBCi0196人間七七四年
2007/12/30(日) 20:56:47ID:pFXCw/aX○賢(○は将軍からの偏諱)なら、典厩家の出身(195さんがいっている一族)でしょうね。
一国の守護ではない(分郡守護)けど、京兆家と関係が深い有力な細川一族です。
ttp://kamigyo.doshisha.ac.jp/details/61_tenkyu.html
ttp://heartland.geocities.jp/fuumi1999/2-2-5.htm
0197人間七七四年
2007/12/31(月) 12:21:32ID:U/n+27iU織田信長の家来になった細川藤孝よりは
比べられないくらい忠臣だね。
0198人間七七四年
2008/01/01(火) 07:06:04ID:M009ijN30199人間七七四年
2008/01/04(金) 13:51:16ID:8RM6+6wU正月、母の実家に帰ったついでに本家に行って調べてきました。
いろいろな事実が分かりましたが、
どうも家と細川阿波守護家の関係を辿るのは、かなり難しそうです。
本家の伝承によると、家の先祖は、細川持隆が三好義賢に討たれた時に、
乳母の実家にかくまわれた者で、江戸時代は、ずっと別の名字
(乳母の家の姓)を名乗っていたようです。
明治になって、本家の当主が、うちは細川家の子孫で有るとして、細川姓にしたもので、
江戸時代の分家である母の実家も、同時に細川姓にしたもので、それ以前は、
やはり別姓であったようです。
江戸時代に細川姓にしていたのであれば、蜂須賀家の家臣の記録など、
公の記録にも残っているのでしょうが、明治新姓の時期に改姓したものなので、
裏の取りようが有りません。
先祖が嘘をついているとは思いませんが、
詳しい調査は非常に困難だと思います。
私がこれ以上調べるのは止めにします。
本家の御当主は、私と話して、逆に先祖調査に興味が湧いたようなので、
いずれ何かの進展があるかもしれません。
なにか情報が入りましたら書き込むかも知れません。
またよろしく。
0200人間七七四年
2008/01/06(日) 02:20:12ID:ZZrv9JzM0201人間七七四年
2008/01/06(日) 13:11:17ID:decrHlGuただし乳母の実家の名字を名乗った時点で細川氏の子孫ではないです。
0202人間七七四年
2008/01/06(日) 20:41:39ID:umSSmEgF0203人間七七四年
2008/01/08(火) 02:23:18ID:Xm0INfjRわざわざ名乗りをあげる気にはならないでしょ。
他の名家好きの大名に仕官するにも、それこそ長岡さんに遠慮しなきゃいけないし。
難しい立場だったんじゃ無いの?
0204人間七七四年
2008/01/08(火) 18:01:59ID:WsM74kcdずっと隠れていたってのは眉つばな気がする。
武士として家を立てることは出来なくとも、坊主になるくらいで許してもらえそう。
0205人間七七四年
2008/01/08(火) 23:25:17ID:Xm0INfjR母親が、小少将以外の人物なら、身を隠す必要があった可能性は高いよ。
もっとも、同母の兄弟が結局殺し合いしてるのだから、結構無茶苦茶な家だよね。
0207人間七七四年
2008/01/09(水) 12:57:42ID:r3qUyd5E「傾城の美女」とはまさに彼女のこと。
0208人間七七四年
2008/01/11(金) 15:43:09ID:if9hAiuW0210人間七七四年
2008/02/12(火) 15:01:00ID:CwDHHn1S0211人間七七四年
2008/02/26(火) 14:51:47ID:YsHSJ8Kd0212人間七七四年
2008/03/02(日) 06:24:22ID:WEN+Wl9pググってみると、細川晴元の次男じゃないかって推測してる人がいるな。
1.「細川両家記」に、晴元の次男が六角家に保護されているという記述がある。
2.足利義昭に従った人物に細川家臣の薬師寺弼長がいる。弼長の弼は六角義弼の弼らしい。
3.細川家と六角家の関係から、六角義賢の一字書き出しを受けた晴元の次男では?
ということらしい。
義昭としては昭元に信長方からの離反を期待しつづけたろうし、
自分の傍にいる昭賢を京兆家の家督にすると昭元の内通はありえないことになるから、
細川氏庶流の中でも随一の格式の高さを持つ典厩家を継がせたのかもね。
0213人間七七四年
2008/03/17(月) 17:41:09ID:9kzQoUwh0215人間七七四年
2008/03/23(日) 13:18:21ID:9t+XaQTd0216人間七七四年
2008/04/07(月) 15:32:46ID:55ZRQph10217人間七七四年
2008/04/13(日) 03:25:12ID:iZu7QRvp佐々木哲って、六角家の系図にこだわってるアノ人かw
だが、実際に史料から読み取れる事実だけで推測されてるなら問題ないかと。
典拠史料が例によってアレだったり推測がアレだったりしたら、目も当てられないけどw
0219人間七七四年
2008/04/30(水) 16:07:31ID:tocvD0PN0220人間七七四年
2008/05/08(木) 23:44:25ID:vfVwDeeFあの系統は信長臣従後の足取り不明だし
0221人間七七四年
2008/05/15(木) 13:22:54ID:9jr4u9t4それはないw>六角
六角ごときは、所詮本格介入しても三好の優勢を覆せなかった程度の勢力。
かつての細川政元や大内義興クラスじゃないと、政局左右するとは言えんよ。
0222人間七七四年
2008/05/15(木) 19:17:34ID:+1EnLiaw0223人間七七四年
2008/05/16(金) 07:56:26ID:sU+XWkjm0224人間七七四年
2008/05/16(金) 12:04:41ID:hu2Prvuf六角氏について言えば、定頼は明らかに幕政に参画しているぞ。
事案を内談衆(将軍義晴の側近グループ)が定頼に意見を求めたり、
逆に定頼が口入したりしている。細川晴元とも和睦してるしね。
また、朽木動座も定頼の進めによるものだしね。
六角義賢の代になると、また話は別だけどね
0226人間七七四年
2008/05/18(日) 10:35:25ID:k3OEBFua(あとは法華とか一向宗門徒くらいかね)
六角の意向が政局を左右したとはいえるんじゃね?
政局を左右するってのは別に2大勢力とかじゃなくてもOKなんだし。
今の政治で公明党(創価学会)が勢力の割りに発言力が強いのと一緒。
0227人間七七四年
2008/05/18(日) 11:30:37ID:yqPKEYzI0228人間七七四年
2008/05/18(日) 19:18:45ID:mdKl6fDz近江に将軍が逃れた際にそれを立てて反将軍勢力と戦った、なら一勢力だろうが……
六角「将軍を京都に戻してやんなよ三好さん。かわいそーじゃん」
三好「もう、あんたがそこまで言うならしゃーないわな。戻るの許したる」
将軍「やったー! 六角さんサンキュー」
とか
六角「将軍さん、匿ってあげるからこっちおいで〜」
将軍「はーい」
細川「また近江逃亡かい! 出兵もめんどいからほっとくっつの」
とか、こういうのを幕政に参加とか政局を左右とは言わんだろ。
0229219
2008/05/19(月) 15:20:04ID:58MwdcDB政局を左右→畿内では存在感があった。
0230人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 18:16:56ID:cccVKFL4足利に対して、あるていど節度ある行動を常にとったのは
六角くらいだろう。
0231人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 19:49:18ID:Xsm7lZ/r事あるごとに将軍を庇護して
管領代として幕政に参画してたわけで
キーマンのひとりではあるだろう
0232人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 20:08:28ID:/INGsCLyそれは六角氏というより六角定頼だけなんじゃ?w
0233人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 20:23:38ID:Q6xXCBHn見過ごしたっつー輝かしい実績をお持ちな訳だが。
積極的に中央の政治に関与する意思も、実際に反映させる力量も持たない勢力の事を
『政局を左右する大大名』と呼ぶのか、最近は?
0234人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/02(月) 03:10:10ID:mhNdZ68l呼んでいるのはごく少数で大多数は呼んでないと思うが。
江坂の戦い→江口の戦い
0235人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/02(月) 21:22:33ID:2oBz+EC4最近は呼ぶんだよーっ。
勉強になったか!。
0236人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/05(木) 00:17:42ID:5zycE6vzttp://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f68671153
ヤフオクで浮世絵検索してたら発見。
「和氏」じゃなくって「員氏」なのは、ただ単に当て字なだけだと思う
0237人間七七四年
2008/06/19(木) 14:15:18ID:1yOgfvFc0238人間七七四年
2008/06/28(土) 14:29:25ID:dCiWEugv0239人間七七四年
2008/06/29(日) 14:58:41ID:gp0+vl3eその子の正氏以降もつづいたみたいだけど・・・
0240人間七七四年
2008/07/10(木) 15:14:35ID:qrLcA8Ki0241人間七七四年
2008/07/11(金) 01:16:49ID:4QejQ3vU幕府の内部抗争の結果
(佐々木道誉との対立の結果と太平記にはある)
室町幕府は有力守護の寄り合い所帯的な風があったので、
内部抗争に敗れた側が南朝に寝返るなんてのはよくあった
畠山国清のように寝返ろうとして拒否されて、結果路頭に迷って死んだのもいるけど
0242人間七七四年
2008/07/11(金) 13:02:27ID:nm+y5XnBわけわからん。
0243人間七七四年
2008/07/16(水) 00:35:33ID:dFk7t77k0244人間七七四年
2008/07/30(水) 15:12:42ID:s4/FgCmr0245人間七七四年
2008/08/02(土) 09:30:51ID:QwgH301c0246人間七七四年
2008/08/13(水) 15:31:38ID:nhJQeVqZ0247人間七七四年
2008/08/13(水) 20:29:41ID:/dcWMJOC0248人間七七四年
2008/08/25(月) 14:04:22ID:pL1EHqzg0249人間七七四年
2008/08/25(月) 21:35:04ID:bsPsh0kN0250人間七七四年
2008/08/25(月) 21:36:33ID:bsPsh0kN0252人間七七四年
2008/09/09(火) 15:19:35ID:VPmJKf/40253人間七七四年
2008/09/11(木) 19:31:53ID:jQjG1vbF古い家系の名門は、足利幕府という安定した権力があってこそ権勢や富貴を維持できるけど、
下克上になってしまうといずれ没落する。
0254人間七七四年
2008/09/22(月) 14:56:09ID:0QdpwvVO0255人間七七四年
2008/09/22(月) 15:33:43ID:hzc4SQH00256人間七七四年
2008/09/27(土) 13:42:56ID:2rV+hiuN0257人間七七四年
2008/10/03(金) 23:13:55ID:CN0lpo3W斯波氏は応仁の乱で二つに別れて争ったが越前は朝倉氏、尾張は織田氏に実権を奪われて没落。東北の斯波御所は除く。
畠山も二つに分かれて争った揚句、家臣に実権を奪われた。
細川家はそれらの中では1549年まで実質的な管領として権力があった。
0258人間七七四年
2008/10/03(金) 23:46:38ID:pFcz+0GQ0259細川氏ってどお?
2008/10/10(金) 15:34:29ID:wB4wK8J3延徳3年(1491)管領細川政元が秘かに越後を訪問したとのことですが…、
それはどれくらいいたのでしょうか? また私の資料には3月3日に東国(越後?)を巡回したとの事ですが…
それは本当なのでしょうか? なんでもいいので情報待っています。一応「関東王 越後守護 上杉房定親子」スレにも書きました。恐々謹言。
0260人間七七四年
2008/10/10(金) 19:26:32ID:Gr+/n/0H細川政元が北陸路から越後に入り、上杉房定、房能と会見したのが延徳3年3月20日。
その直前に足利義材から近江出陣命令が届いていて、予定の白川に向かうことが出来ず
越後国府を発ったのが4月10日、帰京したのが4月28日。
0261細川氏ってどお?
2008/10/13(月) 15:36:15ID:hEfmoIx9ありがたく参考にしますね。
>>258さんへ。細川晴元の軍事力の根源は…、私見ですが…、
阿波三好氏を頂点にして小笠原一族が結集していた事じゃないの?
0262人間七七四年
2008/10/13(月) 15:48:49ID:6VcM/R3p0263人間七七四年
2008/10/13(月) 21:15:44ID:ziHm6GIl晴元までの京兆家を支えたのは間違いなく内衆。
というか晴元は三好氏の軍事力にほとんど依存していないと思うが。
また三好氏が軍勢を率いて畿内に攻め上ることができたのも細川家あってのことで、
資金源は内衆を中心とする畿内の細川氏基盤に依存してるぞ。
0264人間七七四年
2008/10/14(火) 00:55:27ID:g34sVhLbだから江口で長慶が氏綱に味方したら一気に崩壊。
0265人間七七四年
2008/10/14(火) 05:46:36ID:43pvUQIU0266人間七七四年
2008/10/14(火) 19:09:50ID:g34sVhLb0267人間七七四年
2008/10/15(水) 01:40:08ID:9gjTm4R+被官といるからな。
0268人間七七四年
2008/10/28(火) 14:28:52ID:piN1Epug0269人間七七四年
2008/10/28(火) 14:36:42ID:j+Fdfr9L0270人間七七四年
2008/11/07(金) 15:34:45ID:BlT3p0+N0271人間七七四年
2008/11/07(金) 16:15:51ID:MdlAUSIF0272人間七七四年
2008/11/08(土) 04:37:55ID:qOkrVdaC0274人間七七四年
2008/11/08(土) 14:30:57ID:9udSSOgx義材も側近だけにいい顔する傾向があったみたいだし
0276人間七七四年
2008/11/18(火) 13:12:19ID:94jHFNOo0277人間七七四年
2008/11/18(火) 15:57:27ID:vu+4blV7それを受け継いだ義材が将軍になれば、その人材を使うのは経緯から行って当然なわけで。
これに関しては「自分の妹の子だから」って理由だけで、義材の将軍就任を後押しした
日野富子が一番悪い。日野富子もすぐそれに気がついて政元に接近するし。
政元は最初から清晃の擁立を主張してたようだし。尻拭いをさせられたって感じでいたかもね。
0278人間七七四年
2008/11/20(木) 20:46:58ID:I5O/HUb2排除しやすかったともいえる
0279人間七七四年
2008/11/20(木) 22:41:00ID:vXO40PFa>室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に
>崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、
>細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている。
との記述あるんですけど、これの一次資料(出典)がわかりません。
細川繁氏が崇徳のたたりで亡くなったことの出典は「太平記」とか、
そのへんはすぐ調べがついたのですが、頼之が崇徳の菩提を弔った
なんて話は、見たことがなくて・・・・・。
もしご存知の方、いらっしゃましたらご教授のほど、よろしく。
0280279です
2008/11/21(金) 00:02:28ID:wpfF5Xuz0281人間七七四年
2008/12/02(火) 11:19:42ID:sdaMBEFQいつの話だろうね
0282人間七七四年
2008/12/06(土) 20:50:41ID:JRF8OqB2それをあっという間に蹴散らしたのが細川
細川氏はある意味じゃ高氏よりも武功でのし上がった家
0283人間七七四年
2008/12/19(金) 14:59:15ID:erYZjTgf0284人間七七四年
2008/12/21(日) 23:42:15ID:O6Xknuur0285人間七七四年
2008/12/30(火) 14:54:20ID:vBh6xJff0286人間七七四年
2009/01/07(水) 14:41:18ID:Jrkira670287人間七七四年
2009/01/07(水) 22:47:08ID:6E2KQ0Hx0288人間七七四年
2009/01/13(火) 21:35:50ID:ct1p8eva「反小泉純一郎・反野田聖子・親平沼赳夫・親高市早苗」以下、
国民新党・前原首相
副首相○○○○
非小沢グループ非菅グループ非鳩山グループ連立政権
13人目の晒し者が小沢一郎
の大どんでん返し
0290人間七七四年
2009/01/31(土) 02:20:43ID:ecfXDZVo細川護煕元首相殿
最初の4手が思い浮かびませんでした。
誠に申し訳ありません。
正解は、
「反小沢一郎・反菅直人・親鳩山由紀夫・親鳩山邦夫・反小泉純一郎・反野田聖子・親平沼赳夫・親高市早苗」以下、
改革クラブ・前原首相の9手詰め(前原誠司−亀井静香−小池百合子のライン)ですね。
0291人間七七四年
2009/02/01(日) 09:07:45ID:VNQYttQ1小沢一郎さん、まさか特定郵便局長会に参加したのですか?
小泉元首相を超える最強の抵抗勢力。
小沢一郎こそ「自民党そのもの」だよ。
もう、「自民党そのもの」をぶっこわす。
すなわち、
「反小沢一郎・反小沢一郎・反小沢一郎・反小沢一郎・反小沢一郎・反小沢一郎・反小沢一郎・反小沢一郎」
以下、・・・・・・・・・・・・・・・・
0292人間七七四年
2009/02/04(水) 12:48:39ID:3/3egALT寄付1万円で“熊本城主” 天守閣に家族や友人の名
熊本城の復元事業に1万円以上寄付した人を、熊本市が「1口城主」に認定する制度が人気だ。
1月の募集開始から問い合わせが殺到、1カ月間で全国から約4700件、約6500万円を集めた。
このペースが続けば、目標額の7億円を1年以内に達成する。
1口城主には「城主証」と、天守閣や本丸御殿にいつでも入場できる無料パスポート(額に応じて最長10年間)を贈呈。
天守閣内の「芳名板」に寄付者や本人以外の氏名を載せられる特典も好評で
「家族や友人の名前を載せてプレゼントする人もいる」(市の担当者)という。
ことし還暦を迎える熊本県大津町の公務員の女性(59)は2万円(2口)を寄付し、
フランスと栃木県に住むいずれも2歳の孫たちの名前で応募。
「将来、熊本城で自分の名前を見て、おばあちゃんを思い出してくれるかな」とほほ笑んだ。
問い合わせは熊本城総合事務所、電話096(359)6475。
2009/02/04 07:35 【共同通信】
ttp://www.47news.jp/PN/200902/PN2009020401000133.-.-.CI0003.jpg
天地人と場所も違うが「真の戦国好き」なら
これに限らず現存の城とかの補修事業とかにお金落としてあげてくれ
これは長く残る貴重な遺産
0293人間七七四年
2009/02/05(木) 01:20:29ID:QVqm3weh細川家は後から国替えで入っただけ。
0294人間七七四年
2009/02/12(木) 08:12:38ID:Rr/qWB83>反小泉純一郎・反野田聖子・親平沼赳夫・親高市早苗
>小沢は西松建設の件で逮捕も近いんじゃ?
これ見て、すぐ○○○○○に気付けば合格。
○○○○○あるだろ。
俗に「民主党の国民新党」と言われているもの。
そこ、既存政党ではないし、党議拘束もないから柔軟性がある。
「あにき」は前原グループ、野田グループ、民社グループを引き連れて○○○○○へ異動。
「おとうと」は○○○○○、高市早苗、二階堂俊博を引き連れて○○○○○へ異動。
そして、国民新党と公明党と連立政権を組む。
自民党はいらない。
○○○○は刑務所、○○○は民主党に隔離すれば良い。
大ゴマ2枚切って政権交代だ。
0296人間七七四年
2009/03/02(月) 15:53:10ID:6vtIMzNv0297人間七七四年
2009/03/02(月) 20:18:30ID:TMf4bwM70298人間七七四年
2009/03/13(金) 14:24:53ID:0HbHsY7u0299人間七七四年
2009/03/24(火) 15:54:20ID:BPq6wHiE0300人間七七四年
2009/04/01(水) 14:43:19ID:gMWKzyjV0301人間七七四年
2009/04/07(火) 00:10:26ID:PqGHohK+それとも京兆家が足利幕府を飲み込んだのだろうか?
0302人間七七四年
2009/04/15(水) 15:42:02ID:kYPH0vbc0303人間七七四年
2009/04/24(金) 13:57:52ID:jrv3UCYU0304人間七七四年
2009/05/02(土) 11:58:41ID:GbHIzcLr0305人間七七四年
2009/05/14(木) 16:09:17ID:2xtTCKom0306人間七七四年
2009/05/21(木) 16:54:56ID:XD1e1iio0307人間七七四年
2009/05/22(金) 10:40:12ID:1M/qbpsf0308人間七七四年
2009/05/30(土) 11:55:23ID:hTyjFiRW0309人間七七四年
2009/05/30(土) 19:05:04ID:rEqSiNFW0310人間七七四年
2009/06/11(木) 15:44:15ID:Co2yUCT20311人間七七四年
2009/06/11(木) 16:11:27ID:vHUDeOqg0312人間七七四年
2009/06/20(土) 15:18:10ID:vwLYuZu30313人間七七四年
2009/06/29(月) 14:44:21ID:DdRMrWCF0314人間七七四年
2009/07/06(月) 16:09:20ID:GBzVtYqO0315人間七七四年
2009/07/06(月) 21:36:24ID:f64YCn8L0316人間七七四年
2009/07/12(日) 21:31:08ID:iI1DGX100317人間七七四年
2009/07/12(日) 22:03:54ID:1ncb5WAo0318人間七七四年
2009/07/14(火) 01:51:28ID:jr8Fd3ry0319人間七七四年
2009/07/14(火) 02:07:34ID:Prlc8XVo野州家から養子取ってるし。
高国が政元の養子になること事態には特に不自然さは無い。
0320人間七七四年
2009/07/18(土) 15:23:29ID:PdXYd7f80321人間七七四年
2009/07/25(土) 15:09:40ID:1LN0DWEU0322人間七七四年
2009/08/01(土) 19:41:44ID:1ZTiRfjTネタはすごくいっぱいあるんだから
0324人間七七四年
2009/08/08(土) 15:10:16ID:mT2SIFME0325人間七七四年
2009/08/14(金) 15:53:41ID:wX8/JXIl0326人間七七四年
2009/08/18(火) 14:03:10ID:fZhATktVきわどい部分もあるが
0327人間七七四年
2009/08/29(土) 12:55:07ID:Ynu8LcPG0328人間七七四年
2009/09/04(金) 16:06:31ID:LWXZlizSそのあとはゴチャゴチャだから。
0329人間七七四年
2009/09/09(水) 16:15:54ID:WBeMf/eM0330人間七七四年
2009/09/14(月) 15:40:42ID:XC2Anjtq0331人間七七四年
2009/09/18(金) 15:35:21ID:1zIhVEFF0332人間七七四年
2009/09/24(木) 15:32:52ID:feklRCbA0333人間七七四年
2009/09/30(水) 15:34:57ID:dYjTt+EG0334人間七七四年
2009/10/09(金) 15:29:55ID:SiAxJwNJ0335人間七七四年
2009/10/14(水) 14:54:37ID:S/sfC/vf0336人間七七四年
2009/10/19(月) 16:15:23ID:IGYyUApT0337人間七七四年
2009/10/21(水) 13:17:28ID:16+ulZD6介入に成功して畠山氏を分裂に追い込んだのは見事な手腕だった。
ま、その事が関東では享徳の乱を、畿内では応仁の乱を巻き起こす事になるんだけどなw
0338人間七七四年
2009/10/21(水) 22:18:23ID:IxOfcG88>ま、その事が関東では享徳の乱を、畿内では応仁の乱を巻き起こす事になるんだけどなw
応仁の乱はともかく享徳の乱は違うだろw
0339人間七七四年
2009/10/22(木) 00:38:44ID:vJVe2Yzv享徳の乱は、鎌倉公方派だった畠山持国の後ろ盾を失った足利成氏が、
逆に細川勝元の後ろ盾を得て攻勢に入った関東管領派に追い詰められて
爆発したもの、ってのが今の定説だと思うが。
0340人間七七四年
2009/10/22(木) 21:19:30ID:taRyperE享徳の乱勃発の主原因は旧持氏派(成氏派)と上杉派の対立だとするのが定説だと思うが?
その説は誰が提唱し、主に誰が支持しているのかぜひ教えていただきたい。
足利成氏の扱いについて畠山持国と細川勝元の思惑が錯綜したのはわかるが、
勝元(及び山名持豊)による畠山持国の後継者争いへの介入が原因になったとは思えない。
論文があるなら是非とも読んでみたい。
0341人間七七四年
2009/10/23(金) 12:35:12ID:YPabc/3b> 享徳の乱勃発の主原因は旧持氏派(成氏派)と上杉派の対立
底流としてそれがあった上で、畠山持国の失脚が乱の引き金を引いたってことでしょ。
つーか、昨今の研究者ならみんな、享徳の乱にこの持国失脚が関係してるって言ってるぞ。
最近の書籍なら山田邦明氏の「室町の平和」とか。
0342人間七七四年
2009/10/24(土) 01:26:02ID:ZdQkmrsB直接の引き金を引いたっていうより背中を押したって感じだな。
なるほど、享徳の乱勃発の原因の一つってことか。
数レスかけさせてスマンね、為になったよ。
ありがとう。
0343人間七七四年
2009/10/30(金) 15:22:17ID:VbNhB5qF0344人間七七四年
2009/10/31(土) 02:09:23ID:4MECqVTjなにより関東管領は鎌倉府の下部機関というより、幕府からの出張機関と言う性格が濃い。
どうしたって関東の情勢は京の政局とリンクしますわな。
0345人間七七四年
2009/11/10(火) 15:11:37ID:OEbZT7FW0346人間七七四年
2009/11/10(火) 18:30:25ID:JRW2rGsg義持はあの時代の陰謀の、総元締めみたいな存在だった。
0347人間七七四年
2009/11/14(土) 18:09:54ID:CneAa8su0348人間七七四年
2009/11/14(土) 19:18:13ID:2mZHqGDm0349人間七七四年
2009/11/19(木) 14:44:24ID:2kxYfH0i0350人間七七四年
2009/11/20(金) 13:59:22ID:kqg105C/最近、細川と本願寺がすごくつながってたと知ってビックリw。
一向一揆が三好元長を殺したのも、細川と本願寺の強いつながりからだったとは・・。
応仁の乱前の本願寺が弱い頃からの付き合いだったらしいけど、どういう手づるがあったんだろ?
知ってる人、情報キボン
0351人間七七四年
2009/11/20(金) 14:20:24ID:1l2mm3HS富樫政親が加賀一向一揆に殺された時、将軍義尚周辺では本願寺討伐が本気で検討されたが
細川政元がかばった為、象徴的な処罰程度で済んだ。本願寺はそれ以降、京兆家との連携を
非常に重視した。
0353人間七七四年
2009/11/21(土) 00:57:35ID:wRuCMhhgそういえば富樫政親を滅ぼした一向一揆って、細川政元の被官が多く加わってたらしいね。
政元が後ろで糸引いてた可能性もあるな。
0355人間七七四年
2009/11/21(土) 23:15:05ID:HNP7VXCk和睦の斡旋をしたのが長慶だろ。(当時、10代前半だったけど)
0356人間七七四年
2009/11/21(土) 23:26:48ID:dTxawj740357人間七七四年
2009/11/21(土) 23:46:17ID:wRuCMhhg0358人間七七四年
2009/11/27(金) 22:49:08ID:LPqIccZZ内衆の中に土佐の国人っていた?
0359人間七七四年
2009/12/31(木) 13:57:33ID:ECVfeqJm0360人間七七四年
2010/01/05(火) 11:53:32ID:lAATvedXあまりの荒廃ぶりに悲しくなったよ。
丈六寺自体、お金がないのか、かなりぼろぼろなのだけど、
墓所はもっと酷かった、
折れた木の巨大な枝が墓石に覆い被さっていて、
正面から見られない、
折れた枝が他のお墓に引っかかって安定しているので、
墓石本体は、無事だが、花活けなどは倒れてしまっている。
何かの拍子で枝が動けば、墓石も倒れてしまいそうだった。
直系の子孫がおらず、祀る人がいないというのは寂しい話しだ。
0361人間七七四年
2010/01/19(火) 16:29:53ID:H2boKgas0362人間七七四年
2010/01/31(日) 07:55:21ID:nz/xdC9j0363人間七七四年
2010/02/21(日) 02:33:51ID:/ASh+aNd前田利常につかえた三浦乗賢は阿波から出てきたらしいが、細川乗賢のことだろうか。
0364人間七七四年
2010/03/28(日) 10:57:01ID:wHN/EDSJ0365人間七七四年
2010/06/16(水) 19:31:46ID:JeBDQGG/部下が勝手にやったかどっちなんだ?
0366人間七七四年
2010/06/17(木) 23:13:30ID:+vyuxs9Lそれと言っても仕方ないんですが、澄之が公家からの養子ではなく
政元の実子だったら、政元暗殺も両細川家の乱もなかったのかな・・・
なんて思ったりもします。
0367人間七七四年
2010/06/18(金) 22:12:23ID:lspOCazdありがとうございます
政元と一緒に澄元・三好之長も死んでたら高国の一人占めなんだろうか
んで義興が義稙と上洛してきて大内の天下
史実どおり義興が帰ったら庶流の尚春か政賢・尹賢
もしくは六角家が実権握るかだったんだろうな
0368人間七七四年
2010/06/24(木) 19:04:22ID:eL/YGJ3T足利義昭の追放後、信長に属して1581年の御馬揃えに参加している事と
1590年に没した事はわかったのですが
1581〜1590年の間はどこで何やってたんでしょうか?
特に本能寺の変の前後とか。何か動向がわかるような記述ってありますか?
0369人間七七四年
2010/08/16(月) 11:50:30ID:AsQqXUy8史実でも高国が澄之、澄元、三好を撃破し京兆家家督を継いでしまいます。
しかし高国の場合は、相続ではなく、戦闘に次ぐ戦闘で言わば武力で強引に
京兆家家督をもぎ取った形になる為に、今まで京兆家の支配に服していた
丹波や摂津や山城の国人層は京兆家に対する帰属意識や一体感が希薄になって
しまった、と言われています。
内衆や国人達は、「高国は、所詮、野州家という京兆家の分家筋であり、
細川宗家の血は引いておらず分家筋が無理やり宗家を軍事力で乗っ取った」
という認識であり、政元暗殺から高国相続まで、京兆家親族や内衆、国人は
相互にテンデンバラバラに分かれて殺し合ったが為にすっかり京兆家に対して
嫌気が差してしまった、と言えます。
現在でもある大企業で重役のスキャンダルや派閥争いが激化し、
社員がすっかりヤル気を失い将来を期待されていた中堅管理職がセクハラ
パワハラで次々と更迭される事態となっていますが、それと似たようなものでしょう。
政元暗殺まで京兆家は畿内で一番の大名でした。将軍家を凌駕し、畠山家を
無力化し、畿内の公家や大寺院の経済的な基盤を奪い取り、事実上畿内を
京兆家が制圧しつつありました。内衆や国人層も京兆家に所属している事に
ある種の満足感が有ったのかも知れませんが、政元があのような事になり、
更にその後は、京兆家内乱で畠山家や六角氏、大内氏までも巻き込む大乱
となってしまい京兆家家督への期待と言うか求心力が希薄になったと思います。
こうなると政元に実子が居ない事が如何に京兆家の前途に悪い影響を与えているかが判ります。
0370人間七七四年
2010/08/17(火) 07:51:01ID:Ba0BmGPO畠山家も斯波家も足利将軍家も15世紀には内紛状態だったのに
細川京兆家は、16世紀まで大規模な内紛らしき事は発生しなかった。
0371人間七七四年
2011/02/02(水) 12:46:55ID:yeGHkGJa0372人間七七四年
2011/02/07(月) 17:45:43ID:FKhvtxPM麻原ぐらいには飛行能力があったらしいぞ
0373人間七七四年
2011/02/07(月) 18:44:12ID:+bRiLKXA0374人間七七四年
2011/02/08(火) 00:30:14ID:Iq978DIL試しに殺してみてもらっただけだよ。
思った通り凄い効果だったよ!
0376人間七七四年
2011/02/08(火) 14:54:32ID:Iq978DIL0377人間七七四年
2011/02/08(火) 15:25:53ID:n9NHIwb6玄宗皇帝とか、大友宗麟とか、あのタイプ
0378人間七七四年
2011/03/15(火) 12:44:30.33ID:AB7/RFSU0379人間七七四年
2011/04/21(木) 10:01:54.40ID:0x2iEEJm0380人間七七四年
2011/06/01(水) 11:08:42.12ID:brekoMgL0381人間七七四年
2011/06/05(日) 11:41:56.24ID:NWWXIjRnhttp://s1.shard.jp/rabbit1/02/6/67_1.html
実は、鹿児島叩きに細川氏は利用され、用がすんだら捨てられていた。
0383人間七七四年
2011/06/26(日) 23:13:13.42ID:JIzPSwnv0384人間七七四年
2011/06/27(月) 18:49:15.08ID:SP6WZ+GQ若い頃は魔法こってないだろうし勝元が何かしてたんじゃないの
0386人間七七四年
2011/06/28(火) 13:30:26.84ID:VtQlxIZz0387人間七七四年
2011/06/29(水) 13:31:15.85ID:aiZRZNxZ0388人間七七四年
2011/07/03(日) 14:07:41.50ID:ZigRrlq1和泉細川藤孝の末裔は大名
三淵藤英の末裔は旗本
一色藤長の末裔は旗本
0389人間七七四年
2011/07/20(水) 20:00:39.67ID:tnaTvlOP0390人間七七四年
2011/07/28(木) 01:49:40.48ID:d8gAblxZ0391人間七七四年
2011/08/05(金) 00:39:37.46ID:xSKSPye8主役大内義興、脇役細川高国ぐらいだろな
0392人間七七四年
2011/08/14(日) 03:25:10.57ID:M5RDWn+B0393人間七七四年
2011/08/14(日) 17:00:46.21ID:iZr0np85系譜の年代に、つじつまの合わない怪しいところあり。
元常の長男とされる、元春なる人物の出自も謎だな。
(実子とは思われないのだが)
とはいえ、「自称」で蔵人家という地位を、
大藩の熊本藩があるもとで獲得できるのか、
とういうことも疑問。
0395人間七七四年
2011/08/20(土) 01:38:54.44ID:nGSUGsM40396人間七七四年
2011/09/12(月) 17:20:49.59ID:Bl9VvS2s0397人間七七四年
2011/09/13(火) 01:34:10.52ID:fJ4YLXZt0398人間七七四年
2011/09/13(火) 19:23:58.86ID:ozFU8rXt0399人間七七四年
2011/09/17(土) 15:31:41.38ID:iTcel8Y6細マッチョだったの?
0400人間七七四年
2011/11/12(土) 21:27:51.44ID:MqtbNFZl0401人間七七四年
2012/02/05(日) 11:59:20.52ID:wcY0YJpI0402人間七七四年
2012/04/25(水) 00:35:28.65ID:zgeUT0N10403人間七七四年
2012/05/28(月) 03:45:39.88ID:tQWwwDOwこのゲームを かちぬいたのは きみたちが はじめてです」
細川澄元「ゲーム?」
義稙「わたしが つくった そうだいな ストーリーの ゲームです!」
細川高国「どういうことだ?」
義稙「わたしは さいきんのばくふのけんりょくあらそいに あきあきしていました。そこで まさもとをよびだしたのです」
細川澄之 「なに かんがえてんだ!」
義稙「まさもとは かんれいしょくをどくせんするなどのばつぐんのせいじりょくで ばくせいをあんていさせてくれました
だが それもつかのまのこと かれはしゅげんどうにこってしまうような かわりものだったのです」
大内義興 「そこで ゲーム・・か?」
義稙「そう!そのとうり!!わたしは まさもとを うちたおす ヒーローが ほしかったのです!」
澄元「なにもかも あんたが かいたすじがきだったわけだ」
義稙 「なかなか りかいが はやい。 あなたたちはまさもとのこどもといってもしょせんはようしでした。 そのほかのいえからやってきた
ちのつながらないようしすぎないそんざいが ひっしに たたかいぬいていく すがたは わたしさえも かんどうさせるものがありました わたしは このかんどうをあたえてくれた きみたちに おれいがしたい!
どんなのぞみでも かなえてあげましょう!」
高国 「おまえのために ここまできたんじゃねえ! よくも おれたちを みんなを おもちゃにしてくれたな!」
義稙「それが どうかしましたか? すべては わたしが つくった モノなのです」
澄元「おれたちは モノじゃない!」
義稙「かみに ケンカをうるとは・・・・ どこまでも たのしい ひとたちだ!どうしても やる つもりですね これも いきもののサガか・・・・
よろしい しぬまえに かみのちから とくと めに やきつけておけ!!」
0404人間七七四年
2012/05/28(月) 21:41:27.24ID:OB+Xlrdy0405人間七七四年
2012/05/29(火) 18:33:11.51ID:CVA7jbKSこれとは違うだろうしな。
0406人間七七四年
2012/05/31(木) 00:40:22.16ID:6dD4TST70407人間七七四年
2012/05/31(木) 07:05:15.47ID:VuDhoVpx0408人間七七四年
2012/06/17(日) 15:58:11.28ID:2xLsUTNb0409人間七七四年
2012/07/05(木) 08:58:41.98ID:wH4CqKkr0410人間七七四年
2012/07/19(木) 11:41:52.56ID:sm8ADkAMに仕え幕末に至る。
京兆家は三春藩家老。
備中守護家は長府藩家老。
阿波守護家は、末裔と称する貫心流の細家が広島藩指南役。
地下官人では、和泉上守護家の子孫が六位蔵人、有栖川諸大夫、大覚寺侍に
も細川元雄なる者がいる。
鳥取の佐川神社住田氏は細川氏綱の子、天竺二郎三郎元氏の弟住田久次の末
裔を称する。
旗本の花木、細田、澤も細川氏族を称する。
0411人間七七四年
2012/10/21(日) 16:50:35.35ID:CzEmkJxO1153年、父:源義康、母(源頼朝の母と姉妹):藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の娘(実父は藤原季範の長男:藤原範忠)の間に生まれる
1155年、母方の祖父(血縁は曾祖父):藤原季範死去、父方の祖父:源義国死去
1157年、父:源義康死去
1159年、母の姉:由良御前(源頼朝の母)死去
1160年、源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年、藤原範忠(実の祖父)周防国に配流
母親(頼朝の母と姉妹)の所領(父親からの化粧料)である三河国額田郡乙見に、異母兄弟2人(源義清、源義長)と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
1167〜1168年頃、八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮祭典の大宮司代理に補された)
異母兄の源義清(細川氏・山名氏の祖、室に新田義重の娘)は、三河国幡豆郡矢田(皇嘉門院(崇徳天皇中宮)領)に拠を構え、矢田義清(矢田判官代)と称する
1174年、三河国碧海郡碧海庄で長男、源義純(源姓畠山氏の祖)が生まれる(その所縁か、後に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
1176年、三河国碧海郡碧海庄で次男 源義助(桃井氏の祖)が生まれる
1181年、北条時政の娘を正室に迎える
1183年、異母弟2人源義清(矢田義清)、源義長は水島の戦いで戦死
1184年、源範頼(後に三河守)軍の一員として九州平定
1185年、上総介に推挙される
1187〜1190年頃、三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺を建立(義純、義助の母である白拍子を菩提)、三河国額田郡乙見内の真福寺に法華堂建立(母親を菩提)
1189年、源頼朝軍の一員として奥州合戦に従軍、嫡男足利義氏(後に足利氏として初めて三河守護)誕生
1195年、東大寺で出家
1199年、死去
0413人間七七四年
2012/11/29(木) 15:53:45.25ID:KiyiHhJb祖谷にも末裔のかたがいらっしゃるんですね、阿南とうちの先祖だけかと思ってました。
この分だと、徳島各地に細川家の末裔がいるんじゃないでしょうかね?
まあ、うちの場合、調べても言い伝え以外には、何も出て来ませんし、
江戸期を通して別の姓を名乗っておりますしで(汗
まあ、一族だけのロマンにしてたほうがいいのだと思います。
レスありがとうございます。
0414人間七七四年
2012/11/30(金) 01:28:12.70ID:jaqdumIG0415人間七七四年
2012/12/01(土) 00:26:10.48ID:8Q/cexL80416人間七七四年
2012/12/01(土) 02:20:39.45ID:CkE9tOfoなので、それを知らずに使っていたらけっこう恥ずかしい。
0417人間七七四年
2012/12/05(水) 16:06:37.24ID:9jHX7UCM0418人間七七四年
2012/12/05(水) 17:27:16.25ID:9WAJJkj8http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=457
あとはこのへんがまあまあ詳しいかな。
http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_hosokawa.html
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hosoka_awa.html
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hosoka_i.html
0419人間七七四年
2012/12/11(火) 17:23:24.17ID:1cCiqJb+熊本とか忠興とかアホか
0420人間七七四年
2012/12/11(火) 20:07:35.40ID:4tRO4d6y0421人間七七四年
2012/12/12(水) 20:51:31.17ID:iSbzZdN2神紋を後から変えた可能性もあるし、(例えば熊本の細川家が保護した等々の理由で。)
先祖の氏神の神紋が九曜なのを承知した上で、信長に拝領したっていうかたちにした可能性もあるわな。
肥後細川家ぐらい歴史のある家は、紋もそれぞれに歴史があるので、どれが正解とは決めがたい部分もあるが、
定紋として九曜を使用したのは、長岡家以降で間違い無いと思いますよ。
0422人間七七四年
2012/12/14(金) 09:23:25.79ID:uzl4qZRp二つ引両を足利義満から与えられたのなら、それ以前の家紋があったはず、それは九曜紋
元々鎌倉時代もしくは室町時代から、九曜紋だったと言う事だ
ちなみに細川氏は、菩提寺が隣松寺、氏神が村積神社と何故か足利宗家・足利被官(菩提寺は滝山寺、高氏だけは満性寺)と一線を引いている
これは、初代細川義季は足利宗家に連れて来られて関東から移住して来たのではなく、祖父から引き続き三河にいたという事を暗示させる
関東に全く細川氏関係の記録がないのもこの為だ
祖父、足利義清(矢田判官代)←嫡男の義実と共に三河の矢田(矢田城)に本拠を置く、水島の戦いで戦士
父、足利義実(広沢義実)←父が戦死したあとも三河にとどまる、広沢は豊田市の広沢、豊橋市の広沢か?
戸賀崎義宗←細川義季の弟、戸ヶ崎(矢田のすぐ近く)城主、後に村積神社神官、細川義季と同じ隣松寺に墓あり
0423人間七七四年
2012/12/14(金) 12:51:28.94ID:ZuLZZj+S>元々鎌倉時代もしくは室町時代から、九曜紋だったと言う事だ
ここで論理的に飛躍してない?
前からの紋が有った可能性と、それが九曜であることを断定出来るだけの証拠が揃ってないじゃない。
細川家の氏神の村積神社の神紋が九曜なのは、後から肥後細川家が寄進したりして、
後から変えたものである可能性も有るのだから、簡単に断定するのはおかしいよ、
九曜の紋についいては、言い伝えレベルであるが、信長からもらったという話も残っているのに、
そこを無視してはダメでしょ。
0424人間七七四年
2012/12/14(金) 22:30:22.27ID:uzl4qZRp可能性はゼロだと言ってんの
つーか村積神社の九曜紋は室町時代からなんだよw
俺の仮説が正しいだろうが
0425人間七七四年
2012/12/14(金) 23:11:27.68ID:8o11Lzw7細川藤孝とかは関係ないのに九曜紋なのはおかしいと思ってたらやっぱりそれ以前から九曜紋は使われていたんだね
納得
0426人間七七四年
2012/12/15(土) 08:48:30.21ID:CmX0aa1t納得しちゃうのは早計じゃないかなあ。
うちは細川の子孫だ、細川といえば九曜紋、じゃあうちも九曜紋にしよう!ってご先祖様が早とちりした可能性もある。
現にうちのご本家がそうだ(w
丸の小さな細川九曜なので、どう見ても無理がある(泣
九曜紋自体は、メジャーな意匠なので、いくつも紋を持っていた古い家系なら、使っていても全く不思議では無いのだが、
武家で考えれば、どうも九曜には平氏系のイメージが付きまとうので、源氏の細川が九曜というのは、やや特殊な感じがするのよね。
信長にもらったというのも、わりと納得できるエピソードでは有るのだが、
足利家との決別を示すシンボルとして利用した可能性もあるからね。
本来は昔から使ってた(かも知れない)九曜に戻しただけなのかもしれないし、
先祖の氏神の神紋と同じだったから、信長からもらった形にして、信長への忠誠を示すパフォーマンスだったかも知れない。
0428人間七七四年
2012/12/15(土) 16:54:54.01ID:pUBdYlCb0429人間七七四年
2012/12/15(土) 19:10:57.89ID:nV2YXOC3戦国馬鹿にはうんざりだ
0430人間七七四年
2012/12/15(土) 19:21:47.54ID:CmX0aa1tこれをどう考えるかだな。
忠興公を細川幽斎系と書くと忠興さんに怒られそうなので、お詫びと訂正を致します。
こういう書物って、脚色の可能性もあるので、素直に信じる訳にはイカンだが・・・。
0431人間七七四年
2012/12/15(土) 20:55:43.51ID:tKlNOAoZ0433人間七七四年
2012/12/26(水) 22:01:11.36ID:bz3jwJ8F0435人間七七四年
2013/01/05(土) 21:07:43.62ID:oL4nw9Hn飛砲火槍の成之よッ!
0436人間七七四年
2013/01/10(木) 01:44:02.49ID:bqiIba8l勝元のしたたかさは流石だと思う
政元は自由に生きすぎたw
だがそれがいい
結論:みんな味があって非常によろしい
0437幽斎
2013/01/12(土) 22:06:39.01ID:pdfKAOFP0438人間七七四年
2013/01/13(日) 19:33:12.99ID:i6YKe17B0439人間七七四年
2013/02/03(日) 13:35:07.44ID:fIIT5fi70440人間七七四年
2013/02/03(日) 13:39:37.09ID:TZdT6oPj0441人間七七四年
2013/02/20(水) 21:24:48.75ID:DXuMuWIH0443人間七七四年
2013/04/04(木) 16:08:26.38ID:f7xFjzBz0444人間七七四年
2013/04/04(木) 16:13:14.01ID:f7xFjzBz0447人間七七四年
2013/04/06(土) 17:07:30.65ID:wzKfmsui「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
0448人間七七四年
2013/04/07(日) 11:46:48.37ID:LGR4+siQ0449人間七七四年
2013/09/27(金) 16:11:04.49ID:PxsEsj4Tウェキの細川氏の系図には載ってなかった
清和源氏足利氏族の細川の人じゃないのかなあ?
わかる人いたら教えてください
御ねがいたしますね
0450人間七七四年
2013/10/09(水) 01:55:55.08ID:p9ifhNTtwikiによれば『近江佐々木氏の一門・大原氏の出身』とのこと
だとすると足利氏族の細川氏とは別だろうね
0451人間七七四年
2013/10/20(日) 13:27:30.47ID:G/Zvq82W高国の偏諱を受けた人物
長宗我部国親
安芸国虎
伊丹国扶
内藤国貞
これを信じると摂津、丹波、土佐は高国指示?
0452人間七七四年
2013/11/10(日) 22:15:59.00ID:K1sp9JQohttp://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1384056585/
魔法半将軍の暗殺(中) 山伏・天狗・魔術で権力つかんだ室町幕府細川マジカル大名≠フ天才的謀略センス
魔術に熱中する余りに家臣から見放され、ついには湯殿で行(ぎょう)に入る直前、
首を切られて殺された室町幕府管領、細川政元。子供のときから父・勝元も認める知略
を駆使して将軍以上の権力を持ち、「半将軍(はんしょうぐん)」と恐れられた存在だった。
そんな彼がどのように魔術に魅せられ、権力をつかんでいったのか。誕生から姿を追ってみた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131110/wlf13111007010000-n1.htm
0454人間七七四年
2013/11/30(土) 01:22:48.80ID:eLfSHEAlこのひとが作庭した庭に惚れた
あと北畠宛ての辞世がカッコよすぎる
0455人間七七四年
2013/12/06(金) 12:00:02.24ID:BWH0Jk6D天魔ゆく空は読んだのですが…
0456人間七七四年
2013/12/06(金) 18:38:48.07ID:HIJhyBSL魔法半将軍 十四歳の魔王 (コバルト文庫):
0457人間七七四年
2014/01/11(土) 20:07:10.34ID:8pgRJFfR0458人間七七四年
2014/01/12(日) 09:04:12.66ID:LoenlVqi蓮舫をトップ当選させたりキチガイ山本太郎も当選させるし、猪瀬に至っては都知事選において過去最高得票とかホント頭悪い連中だよw
0459人間七七四年
2014/02/09(日) 23:01:51.84ID:oqui96DH0460人間七七四年
2014/02/13(木) 12:16:45.07ID:1RF3KRAjチャイニーズ強制送還著作権オレオレ空気プレン 沖縄海マー君博多焼きそば
チャイニーズ光金強制送還著作権オレオレ空気プレン 沖縄海マー君博多焼きそば
チャイニーズ光金著作権ブラックジャック空気 沖縄海マー君焼きそば
0461人間七七四年
2014/02/15(土) 11:33:48.77ID:tNBWw+TNその子孫には関係ないことだけど
実父の細川藤孝の先祖は淡路細川氏の分流の細川らしいよ>>449>>450
その家は守護の格じゃなく将軍家の近習の細川らしい
分流とはいっても足利氏族であることには変わりがないけどね
和泉半国守護の細川家は江戸時代、朝廷の下級公家として存続してたらしいよ
0462人間七七四年
2014/03/07(金) 06:06:52.21ID:ql7rIRYvお詳しいですね。
藤孝さんは名門の御曹司ってイメージだったけど
残念ですね。
成り上がりってイメージに変わりました。
0463人間七七四年
2014/03/07(金) 09:53:30.24ID:ZT/eK8g8成り上がりってのは違うでしょ、ただの成り上がりなら古今伝授なんてされんだろ、だいたい。
細川氏の本流では無いが、細川氏は分家(スペア)をたくさん作っておくことで、
家系を存続させる作戦をとった、それが裏目に出て一族の内紛が起こってしまったが、
その時点で主流勢力で無かったから、逆に勢力を温存できたんでしょ。
消耗し尽くして消えてしまった阿波守護家とは対照的で面白いが、
細川家全体でみれば、家としてたくましい家系だなあとは思う。
本家がこけたら一緒にこけちゃうパターンのところも多いのにな。
0464人間七七四年
2014/03/08(土) 03:32:41.83ID:EA95XKrx「天魔ゆく空」
この小説のタイトルをずっと「天狗空をゆく」だと思い込んでた
買って読んだくせに何なんなの
でもこっちの方がむしろ内容にあってる気もするし
きっと表紙に天狗のお面がのってるのが悪い
0465人間七七四年
2014/04/09(水) 22:44:09.03ID:Z7Ny6HoLあと、細川氏の桜は細川桜だけなんですか?
うちの親戚に細川がいて、家紋が桜って言ってましたので。
0466人間七七四年
2014/09/14(日) 05:57:25.17ID:bGluuRy2クラッシックプラグマティストアブラカレー
クラッシックプラグマティストアブラカレー
0467人間七七四年
2014/09/24(水) 04:30:40.02ID:ZAkBOjEuこれは36人ぶった切る顔ですわw
http://www.nicovideo.jp/watch/1411381994
0468人間七七四年
2015/03/10(火) 08:46:28.24ID:pati5oKd教えてくだされ
0469人間七七四年
2015/12/11(金) 07:58:47.81ID:X6n67xUH0470人間七七四年
2016/01/11(月) 19:05:38.18ID:DdmZaSE2斯波氏家臣の細川(完草)氏の流れかな?
0471人間七七四年
2016/02/10(水) 06:02:37.95ID:ijhC9ro3https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
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