【早雲】後北条家総合スレッド【氏直】
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001北条信者
2006/07/09(日) 08:15:27ID:w53HNuek時代が違ったり越後辺りの人を語るのはご勘弁。
0812人間七七四年
2007/05/20(日) 23:08:44ID:Z8KTy34b0814人間七七四年
2007/05/28(月) 01:15:31ID:/EtyCe+O落ちのびた北条家のお姫様が、裏切った家臣たちに輪姦
されて孕んでしまうという話だったな。
スレの流れに関係ないけど。
0815人間七七四年
2007/05/28(月) 01:25:54ID:6ps7udZU再来週は「河越夜戦」がタイトルになってるし、楽しみだ
0816人間七七四年
2007/05/28(月) 22:34:53ID:lPXeUCoE甲斐武田家とはどんな関わりがあるんだ?
0817人間七七四年
2007/05/28(月) 22:41:04ID:JAE5ETf26月3日「三国激突」
由布姫が身ごもり、勘助は我が事のように喜ぶ。
同じ頃、晴信のもとに今川家の軍師・雪斎が訪れ、
武田・今川の同盟に基づき駿河への出兵を求めてきた。
北条氏康を共に討って欲しいとの要請であった。
出兵を得策でないと見た勘助は今川と北条を和解させるために駿河へ向かう。
9年ぶりの駿河で勘助は今川義元に会う。
6月10日「河越夜戦」
北条氏康は武蔵国で苦境に陥っていた。
要衝・河越城を関東管領・上杉憲政の大軍に包囲され敗色濃厚であった。
勘助は北条の援軍として河越に向かう。
勘助の真の狙いは上杉家に仕える真田幸隆と会い、武田へ仕えるよう説得することにあった。
変装し上杉の本陣に潜入する勘助。上杉軍は勝利を確信し油断しきっていた。
氏康は夜襲をかけることを決意する。
0818人間七七四年
2007/05/28(月) 23:04:28ID:ImOeLulU勘助が検索するとか言う展開はマジ勘弁
0819人間七七四年
2007/05/28(月) 23:26:55ID:JAE5ETf2軽く勘助に意見を求めるぐらいしそうだ。
勘助がまた兵を二手に別け‥‥ と急に問われた時のいつもの案を語り
それを適当にあしらう氏康公を見たいところ。
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/006.html
>氏康が常々、「用兵術で、これはと思ったいい案があったならば、
>いくら身分の低い者でもかまわないから、直接、氏康まで申し上げよ」
>と言っていた
0820人間七七四年
2007/05/29(火) 00:27:23ID:8OUP58de北条は氏康の凄さはもちろんだが、組織の強さも特色だからね
面識のある勘助相手なら、意見を求めるのは確かにありそう
自分個人としては、勘助は架空に近い人物であるし、存分に暴れて欲しいと思っている
いや、氏康や綱成たちの見せ場はちゃんとやって欲しいがw
0821人間七七四年
2007/06/07(木) 08:04:00ID:YxRL6A5k0822人間七七四年
2007/06/07(木) 19:44:46ID:7P5URcUr0823人間七七四年
2007/06/10(日) 02:41:14ID:1XBVIKNb家中随一の猛将だったらしいけど。
0824人間七七四年
2007/06/16(土) 11:39:29ID:M7tS5TuY0825人間七七四年
2007/06/21(木) 16:35:36ID:DVtj9b37京にいた時は盛時だった。
ただし、氏親後見になった後で偏諱を受けて改名した名前が伝承した可能性は否定できない。
政治情勢に合わせてコロコロ改名するのは当時普通なので。
ただしはっきりそれを証明できる一次史料は無い。
0826宇喜多直家信者
2007/06/22(金) 00:02:18ID:vIERq/h8本能寺に死んだ。これで混沌となった甲斐・信濃国に北条氏直と徳川家康が
ここぞとばかりに進出した。
北条軍は甲州鰍原に、徳川軍は信州乙骨に在陣し、両軍2里余りのところに迫った。
だが山に遮られ徳川軍は北条軍に気付かない。
「敵は退却の気配なので攻撃の好機です」と物見の1人が言った。これを聞いた氏直は、
「甲斐を攻め取るのは今しかない。出陣だ」と叫んだ。
しかしこれを聞いた重臣松田とかは「氏光殿、氏邦殿もそれぞれ出陣しており、それらの軍勢と
一丸になって敵を討つ作戦が小田原城にて決まっているので、どうかお留まり下さい」と懇願した。
氏直は「敵の動きに対処して指揮するのが将たる者だ」と怒ったが、結局押し切られた。
のちに皆が「この好機を生かしておれば、きっと北条が勝ったであろうに」と臍を噛んだが、
もはや後の祭りであった。
(北条記参照)
これを見て分かるとおり、氏直はなかなかの名将。少なくとも名門の5代目としては上出来。
0827人間七七四年
2007/06/22(金) 01:46:22ID:ujn91bAyに、3ういろう。
0828人間七七四年
2007/06/22(金) 02:27:57ID:/0M5AaAM0829宇喜多直家信者
2007/06/22(金) 19:27:16ID:8XExTCMM山中韮山杉山しかり、
0830人間七七四年
2007/06/22(金) 20:58:59ID:M6OGlUqE0833宇喜多直家信者
2007/06/23(土) 01:36:42ID:zTxIKoR5>>830 武蔵杉山城は、今の埼玉県比企郡嵐山城にあった。今でも縄張りが
完全に近い状態で保存されている貴重な名城。
この城は北条家と関東管領上杉氏、また上杉謙信らによって激しい激戦が繰り広げられた
地域にある。よって堅城も多くなったのである。松山城その他しかり。
0834人間七七四年
2007/06/23(土) 01:37:38ID:vcpusLhW0835834
2007/06/23(土) 01:38:14ID:vcpusLhW0836人間七七四年
2007/06/23(土) 02:32:17ID:B0WvcK3j氏邦コスプレ祭りはまだやってんのかな
0838宇喜多直家信者
2007/06/23(土) 03:35:05ID:zTxIKoR5鉢形城は埼玉県大里郡寄居町にあった城。建築は1476年長尾景春の怒りによるもの。
激しい争奪戦の末、1564年北条氏邦が入城し、改築も行なわれた。
1590年秀吉による小田原攻めの際、一ヶ月持ちこたえるが落城。以後廃城となった。
0839人間七七四年
2007/06/23(土) 03:56:34ID:6+ieLGSZ0840人間七七四年
2007/06/23(土) 04:11:43ID:vcpusLhWあんだけ大規模な城、使わずにほっといたとは考えにくいんだけど、
使われた形跡なし。城下町ごと八王子城に移転したと考えられている。
0841宇喜多直家信者
2007/06/23(土) 04:17:25ID:zTxIKoR5滝山城は東京都八王子市丹木町にあった城。建築は1521年山内上杉家の重臣
大石定重と言われる。河越野戦で氏康が上杉を破ったため、大石定重は娘婿に
北条氏照を迎えた。以来氏照が実質滝山城主になったのであるが、1558年ぐらいに
城をかなり改築している。
小田原を目指す武田軍に対処するためであった。この時武田軍2万に攻められ、
落城寸前にまで追い詰められるも、なんとか持ちこたえた。
しかし防御体制が不十分であると判断したのか(そうは思えんが)、氏照はこれ以後、
八王子城へ移っている。この時本拠は滝山城より移したとされる。
八王子城も結局秀吉の小田原攻めの際1日で落城したが。
0842人間七七四年
2007/06/23(土) 09:29:37ID:6+ieLGSZでもまあぶっ潰していいか。ボロいし、オレん家じゃねえし。
0843宇喜多直家信者
2007/06/23(土) 15:41:40ID:Uji0T6gmした縄張りが見られる。
北条家の最新の築城技術は常に最先端の城に投入されていたのである。 しかし滝山城山中城三崎城のように、領域支配の拠点となる城には
常に最先端の技術が用いられている。 屈曲スロープや独立橋頭保型馬出なんかの築城技術を
持っているのは北条家だけであった。
0844人間七七四年
2007/06/24(日) 05:38:18ID:IMiYBN6l八王子城は未完成だった上に、城主の氏照以下主力が小田原に居て不在、兵も少数だったので無理も無い。
完成していれば、険しい八王子の山を丸ごと縄張りされた天然の要害に、
北条家の技術を結集させた土塁と木材を利用して固めて、その上に、
信長との同盟で中央と関係が出来た事で安土から技術を仕入れて作らせた石垣を重ねた
平城全盛になった後期戦国時代で、戦国最後の超巨大山城の完成を見たと言うのに・・・。
今でも石垣と縄張り、復元された橋などだけ残ってるので興味のある人にはお勧め、
「この山を丸ごと城にするつもりだったのか?!」という驚きを感じられる。
しかしそれゆえかほぼ無血開城が多い小田原攻めのなかで八王子城は全滅、虐殺の憂き目にあった城、
城内の女性が飛び込み集団自殺をした御主殿の滝付近には古びた石碑があり、
今も卒塔婆が無造作にたてかけられている。
0845宇喜多直家信者
2007/06/25(月) 04:10:40ID:HFV8834+知らんかった。
0846人間七七四年
2007/06/25(月) 04:42:28ID:T+IR+jej城址公園に書いてあった略図と山の大きさで単純に予想するに、
小田原城に匹敵する巨大城が山の上に出来たのでは無いかと思う、もっともこの城は廃城になってるので、
出来た・・・と言うよりは規模的にはある程度は出来ていたのではないかとも思う。
この城は小田原城の支城だが、この城自体にも更に支城として初沢城などが存在するし並の規模ではない。
ちなみにこの城の残る山は現在では城山と言う名称になっているが、本来の名称は深沢山
それがまるごと八王子城になったことで、八王子城山→城山となった。
まさに山全体が城だった事の名残でもある。
恐らく氏照は死ぬまであそこに構えて、西に対する睨みを利かせるつもりだったんだろうな。
しかし小田原攻めのときにここに篭ったのは女子供・農民なども含めた1000人未満の兵のみ、
対する豊臣軍は上杉景勝・前田利家・真田昌幸の連合軍、城が機能するはずもない。
勝敗はともかく、氏照が兵を率いて完成された八王子城に篭っていたら・・・と思わずにはいられない。
0847人間七七四年
2007/06/25(月) 19:15:43ID:Q7O++g1h家康、利家に匹敵する大大名になっていたのではないか
そしていずれ徳川とぶつかったときに八王子の陣が見られたかも知れない
0848人間七七四年
2007/06/25(月) 19:24:25ID:0GOMpoFy北条が臣従して、関が原でも家康派だったとしたら、
関東は北条家が領有、日本の首都は静岡県・・・なんて事があったりなw
もしくは秀吉の遺領で大阪かも
0849人間七七四年
2007/06/25(月) 19:40:57ID:D8SpXC5Bまさか大坂に呼んでいきなり殺したりはしないだろうけど
もし北条を残したとすると
東海甲信と関東の半分以上が徳川北条派と言う事になる
石高にして400万石超え
これじゃ秀吉もとてもじゃないが枕を高くして眠れない
やはり上洛したら人質に取られて減封とかいうオチになったんじゃ…
0850人間七七四年
2007/06/25(月) 20:37:38ID:0GOMpoFy減封する理由はないんだよね。まぁ何かにつけて理由つけそうな気がしないでもないけど。
0851人間七七四年
2007/06/25(月) 21:30:43ID:TvXhck9j当初は信雄を家康旧領に配する予定だったわけだから別に問題ないんじゃね
実質的な支配圏を東海より西に置くか、関東以西にするかの違いだけ
0852人間七七四年
2007/06/25(月) 22:08:27ID:T+IR+jejそれはそうかもしれない・・・でも多分、コレは勘だけど、
もし北条家があそこで臣下の礼を取って生き延びていたとしても
氏照はそこまで生き延びていないような気がする。寿命とかではなく。
どうも彼は吉川元春、柴田勝家、島津家久、と言った武断派で秀吉を毛嫌いした猛将らと重なる部分がある、
そして彼らがどうなったかを思うと、やはり氏照も生きてはいないような気がする。
0855人間七七四年
2007/06/26(火) 01:29:42ID:DM9otAd0島津や長宗我部ほどの温情も期待できない気がするんだけど。
早い時期に臣従してれば一国程度の割譲で許されたかもしれないけど、
ぐだぐだした挙句に仮に土壇場で臣従しても、相模・伊豆に武蔵半国とか、
その辺しか許されない気も。
0856仙台藩百姓
2007/06/26(火) 02:03:19ID:sxzjMtV5オゥ、ホウジョウバーカネー(´゚∀゚`)ハッハー
0857人間七七四年
2007/06/26(火) 02:17:30ID:EulUkpvy伊達が転封されて北に追いやられたことを考えると、
北条も同じような扱いで済むんじゃない?
会津あたりで100万石とか。
0858宇喜多直家信者
2007/06/26(火) 03:11:50ID:DY6XfkJQ0859人間七七四年
2007/06/26(火) 03:44:32ID:dfEzHpIq0860宇喜多直家信者
2007/06/26(火) 04:01:17ID:DY6XfkJQ小田原と仙台の間でかなり頻繁に連絡を取り合ってた記録が
あるのだ。ただ長くなるのでやめておく。
希望あれば書くが・・・
0861仙台藩百姓
2007/06/26(火) 11:28:19ID:sxzjMtV5信長より勢力伸ばしてた秀吉には何で強気だったのかね
少しばかり領地増やしたり
家康や政宗公が味方だとおもって調子に乗っちゃったのかお?
(≧ω≦)
0862山形義光
2007/06/26(火) 13:27:48ID:NfsL8Gwm0863仙台藩百姓
2007/06/26(火) 13:51:32ID:sxzjMtV50864人間七七四年
2007/06/27(水) 22:41:33ID:bggRib4f豊臣政権は1から叩き上げた基盤がないからもろい、
そう思ったから長宗我部も島津も信雄も家康も北条も
容易に臣従したり降伏したりしなかったし、
伊達家に至っては滑り込みセーフなだけであって。
>信長より勢力伸ばしてた秀吉には何で強気だった
ってのは反抗した大名すべてが思ったことじゃないかな。
それ以上に秀吉の政治力が良かっただけだと。
現にその政治力がなくなった瞬間に豊臣政権は崩壊。
とにかく煽りたいだけならくるなよ・・・
0865人間七七四年
2007/06/27(水) 23:10:38ID:faAYpGicあとコイツは政宗信者を装ってるだけ。
0866宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 01:47:20ID:BMI26Zi5「小田原の使者が仙台に来た」旨の記述があり、
北条家が政宗に当てた書状も何通か残っている。
この連絡の窓口となっていたのは、北条は氏照、伊達は片倉景綱であった。
氏照は秀吉との武力対決を主張し、景綱は会津攻めを
実質的に指揮しており、共に反秀吉であった。
0867宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 01:58:39ID:BMI26Zi5古河と会津若松の間だけでも、およそ100に及ぶ城砦が
今でいう電線みたいにつながっており、手旗や狼煙によって
頻繁に通信が行われていた。
地図がないと分かりにくいんだが、黒川城から古河城までの
およそ140キロ間にかなりの城または砦があり、頻繁に通信が
行われていたことが分かる。
0868人間七七四年
2007/06/28(木) 02:03:22ID:JkgCkUUDだって両家とも、その秀吉と戦わずして降伏したんだからw
0869宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 02:11:55ID:BMI26Zi5小田原への出陣を命じたのが天正17年(1589)11月24日。
政宗と同じ東北の諸大名、最上義光、津軽為信、秋田実季らは
いち早く参陣しているが、政宗は一向に動かず、重臣らに促されて
ようやく出陣する始末であった。この遅さには、政宗母の
保春院による毒殺未遂事件があったからとも言われるが、
しかし黒川を発ったのは4月15日。がその後南会津大内まで進みながら
逆戻り。再出発したのはなんと5月9日でやっと
小田原に着陣したのは6月5日。異様な遅さである。
0870宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 02:23:01ID:BMI26Zi5北条氏は抵抗らしい抵抗もせずに秀吉に降伏したのである。
仮に伊達軍が小田原を囲んでいる秀吉の背後を襲い、
小田原から北条軍も出撃する…という作戦であったならば
この北条家の早すぎる降伏も理解できるのである。
籠城には援軍が必要なのは古来からの常識である。
伊達軍が秀吉軍に加わったことで、北条家はもはや勝ち目なし
と考えたのではないだろうか。
あくまでも一説だからな。北条記、天正日記、関東北条五代など10冊参考。
0871仙台藩百姓
2007/06/28(木) 02:23:23ID:bn9ohmDxその家康も信雄も長宗我部も島津も
みんな秀吉に従ったのを知らないわけではあるまいに
信長にコケにされたから
中央政権に対する不信感が強かったのかもね( ^ω^)
0872人間七七四年
2007/06/28(木) 02:24:12ID:JkgCkUUDただ単に鈍臭かっただけだろ
どんな憶測を設けても
結果は両家共、農民上がりの猿面男と戦わずして降伏したってことだけ
0873宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 02:41:19ID:BMI26Zi5黒川城ー向羽城ー加塩城ー田代館ー小野城ー白岩城ー
丸々布城ー赤岡館ー塩生館ー小島館ー大岩城ー田部原館ー
鴨山城ー糸沢城ー貝鳴山ー山王城ー三依鶴渕城ー熊野堂ー
中二依城ー高瀬城ー狸原城ー平山城ーイノ原城ー丸山城ー
高徳城ー倉ケ崎城ー坂橋城ー石邦田城ー堀之内城ー田中城ー
多気城ー上域城ー犬飼城ー宇都宮城ー横田城ー児山城ー
壬生城ー平川城ー吹上城ー皆川城ー川連城ー榎本城ー
小山城ー塚田城ー諸川城ー総宮城ー総和城ー水海城ー
古河城ー栗橋城…
といった具合に、短距離でこれだけの情報通信が行われていたのである。
ここに書ききれんかっただけで他にも50ほどの城や砦があった。
まあ連合じゃなくても、何かあったような気がする。
0874宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 02:44:08ID:BMI26Zi5結構昔からある説。まあ信じるか信じないかは自由。
0876仙台藩百姓
2007/06/28(木) 05:09:55ID:bn9ohmDxその城は何を意味してるのだお?( ^ω^)
北条側と反北条側がごちゃ混ぜやん
0877宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 05:21:45ID:BMI26Zi5あるので安心しろ。しかしなあ・・・、
0878宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 05:26:22ID:BMI26Zi5北条家と伊達家との間では可能だったということ
実際すべての城に徐々に伝達されるというわけではない。
0879仙台藩百姓
2007/06/28(木) 05:29:21ID:bn9ohmDx意味不明
0880人間七七四年
2007/06/28(木) 07:36:51ID:Cr7AqsnFじゃあその通信とはどんな方法なんだ。
北条領内では伝馬を利用してそれが行われたことは否定しないが、
伊達との間となると話は別だ。実証可能な例をあげてくれ。
ちなみに当時は書状を届けるには通常飛脚を利用していて、
重要な情報の場合には信頼できる家臣が直接相手方に届けていた。
あと伊達が北条と交渉していたのは対佐竹のためであって、
対秀吉の為ではないからね。伊達には秀吉と戦う利点は一切ないから。
おそらくそれは北条も分かっていたし、そんな期待もしていなかっただろうね。
そもそも中近世ハイブリッド的自力救済を国是として掲げていたような北条王国が、
伊達の救援を見越して篭城したなんてナンセンスもいいトコだ。
伊達が会津を出立して小田原に到着するまでの日程が遅れたのは、
敵対する佐竹の影響圏を迂回して越後信濃を通って相模へ入ったから。
そんで伊達は会津のことで佐竹と戦っていたので容易に出立できなかった。
だから当然佐竹も小田原参陣は遅かった。
0881人間七七四年
2007/06/28(木) 08:03:23ID:i/J7fdhT佐竹は秀吉に救われたわけだ。
政宗は奥会津、仙道筋の掃討戦をしながら、秀吉を値踏みにかけていた。
この時期、徳川家康との連携がなっている。
0882人間七七四年
2007/06/28(木) 12:40:47ID:mhjKrpHkその為に佐竹らは8年も前から秀吉と誼を通じて
連絡を密にしていったわけだし
北条と伊達が通じて生き残りを図ったように
佐竹らも秀吉と通じて生き残りを図っただけ
0883宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 14:21:55ID:BMI26Zi5まあ通信手段には手旗や狼煙だったらしい。
参考資料は北条五代記
あと北条の名胡桃奪取と、政宗の河原田盛次、山内氏勝討伐が
ほぼ同じ時期に行われているのも興味深い。
「佐竹文書」には、7月4日秀吉が政宗に詰問状を発したと伝え、
「新編会津風土記」には石田三成が山内氏勝にあてた書状が収められている。
「政宗の会津攻めと、北条の背信行為は同罪である。来る三月一日に
秀吉が小田原に出陣、北条を討伐の後、直ちに黒川に乱入して、
政宗の首をはねてやる」
政宗と北条の行動が対同であると考えたのであろうか・・・
0884仙台藩百姓
2007/06/28(木) 14:59:29ID:bn9ohmDx何を言って欲しいのやら
うむ
別世界
0885宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 15:03:36ID:BMI26Zi5これは工藤氏の説に少し付け加えたものである。
0886人間七七四年
2007/06/28(木) 16:02:30ID:zVdKM8qV0887宇喜多直家信者
2007/06/28(木) 21:41:13ID:BMI26Zi5小田原落城前の豪胆な文体とは違い、すっかり弱々しい
悲壮感漂う文筆になっているのが悲しい。
0888仙台藩百姓
2007/06/28(木) 21:58:47ID:bn9ohmDx信長に攻撃されたら皆殺しにされるのがオチだし
0889人間七七四年
2007/06/28(木) 22:00:36ID:hYF1aAWc生きながらえることが出来ただけなのが後北条家なのです。
ま、そもそも本拠の小田原城を何度も包囲されてる時点で明らかに
戦下手な氏康公でございますが。
しかし北条厨からすれば両名将と五分に渡り合ったと勘違いし続ける
しかないのですね
0890人間七七四年
2007/06/28(木) 22:16:32ID:RIJbK4FDそれより阿呆な文章のスレが立ってると思ったら>>889の1分前に同じ文章でスレ立ててるし、コイツ。
煽る気満々。百姓も同類、レスする意味がない。
0891仙台藩百姓
2007/06/29(金) 01:18:39ID:YOKFjBEV0892人間七七四年
2007/06/29(金) 18:33:48ID:pLRiLjCK所詮後北条家は、上杉武田とは比較にならないね
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1183035574/
小田原北条家が存続するには
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173546086/
もし北条家に小田原城が無かったら
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1170962554/
信長の野望シリーズにおける北条家の扱い
http://game11.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1171725955/
0893人間七七四年
2007/06/30(土) 14:08:41ID:NljUAQVf二人とも小田原城には手も足もでずに引き下がりますたが・゚・(ノω`)・゚・。 アワレー
0894人間七七四年
2007/07/04(水) 22:01:38ID:t+YTP/NW後世でも伊豆では早雲の評価はイマイチ。だがこれも大組織の礎を築いた創業者が決して避けては通れない、業の深さというものかな……
0895人間七七四年
2007/07/05(木) 02:29:44ID:Xyt8gWnzまぁいずれにしろ善政は敷いてても善人とは違うので(豪族級には特に)
騙し討ちとか策略関連はいいんだが、それに関しては聞いた事の無い事柄なのでちょっと気になる。
伊豆は北条家にとって足がかりでしかないので、
特に早雲の評価が良いとは聞かないけど、取り立てて悪いと言うのも聞いた事が無い。
まぁあの情勢で堀越公方の存続を願う奴もいないだろうし。
小田原城の中を見ても一目瞭然だが
小田原城騙し討ちが批難されるものならもう少し大森家についても触れてやれよと言う感じだし。
伊豆も小田原も良く行く身としては今ひとつ実感が無い。
0896人間七七四年
2007/07/05(木) 07:59:15ID:EYVVa+kt人をまとめていくのは本当に大変だから「アメとムチ」が必要だわな。
0897人間七七四年
2007/07/06(金) 00:20:47ID:1UkG40J9伊豆にとって堀越公方はガンだったがさすがにそのお膝元だけは多少の愛着はあるかもなぁ
ただアメとムチは間違って無いけど、この堀越公方の壊滅がむしろアメだったりもする・・・。
この堀越攻めに伊豆の兵がかなり多く混ざっていたようだし、一般庶民にとっては有難かったんだろうが、
どうにも偉い奴が嫌いっぽい所はあるな早雲。
だけど伊豆で早雲の評価が低いは無いよ、そんな限定的なところはともかく。
0898人間七七四年
2007/07/06(金) 19:01:01ID:PynV422b0900人間七七四年
2007/07/06(金) 22:50:34ID:Kggm0EsZ0902人間七七四年
2007/07/07(土) 16:28:23ID:jwhYlq010903人間七七四年
2007/07/08(日) 22:16:57ID:7xZAhGmj0904人間七七四年
2007/07/09(月) 13:53:41ID:KhKeoyBy普通の人間の身長と同じ高さまでジャンプして踏まないと死なない上に
こっちは触れただけで死ぬんだぞ
0905人間七七四年
2007/07/10(火) 01:05:44ID:/rD1dhYgいくさになれば戦国のならいにより真っ先に先鋒を任された漢。
だがそれにもめげず
1-1の一番最初のスーパーキノコの目の前と言う危険な要地で数々の勢いに乗った敵兵を殺し続けた猛将。
0906スレ汚しスマソ
2007/07/10(火) 02:27:08ID:ympjMWdP計略に気付いた時には既に為す術なく敵将は逆に一瞬で葬られる。史上最も冷徹にして苛烈なる策士、クリボー……
0907人間七七四年
2007/07/11(水) 06:32:13ID:hD2CcMKh黙祷。
0909人間七七四年
2007/07/12(木) 00:32:52ID:0wqdddR8いつも通りなのか今日だけなのかはわからんが、
綺麗な布とか台の上にしかれてたな。白い布とかかけてあったり。
綺麗にされてあってなんか嬉しかったな。
0910人間七七四年
2007/07/12(木) 01:24:36ID:e2+OL/P50911人間七七四年
2007/07/15(日) 23:25:16ID:fFR4+AfG怪しい点を纏める。
・北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年も生きられるか?
・北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
・氏康はその後表舞台には出てきていない。
・もし上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
・なぜか武田と講和、城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
・氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
・武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
・氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
・氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?人質として取ってあるなら利用できるはずである。
・武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である。何故だか圧力すらかけない。
・氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
・越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
・氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
・いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
・氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
・信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。