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【早雲】後北条家総合スレッド【氏直】

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0001北条信者2006/07/09(日) 08:15:27ID:w53HNuek
北条だけ考察されていないのは理不尽だ!北条も語れ!
時代が違ったり越後辺りの人を語るのはご勘弁。
0199名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 00:09:05ID:px2dTmQf
>>191
ローマみたいな大名だと思う。
統治力と組織力で勝負!
名将は少ないかも知れないが、中堅の厚さはピカイチ。
0200んにゃ2006/09/25(月) 12:46:57ID:AODRVj2u
>>198いや、早雲は伊豆侵攻で虐殺をやっている。反早雲勢力だった関戸某の居城(名前忘れた)でほぼ皆殺してる。

そのせいか、伊豆の郷土史では早雲の評判は芳しくないようだ。

その後の一転した太陽政策は、伊豆の反省なのかもしれない。
0201名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 12:50:13ID:O0Gdjve1
三浦一族の虐殺もあるな。三浦半島の「油壺」は討たれた武者の血脂が
海面を覆い尽くしたことに由来する。
0202無名2006/09/25(月) 15:10:41ID:AODRVj2u
後北条は結局最終的には、石高はどれくらいいったんだろうな?

伊豆・相模・武蔵・下総・上総のほぼ全域と上野の大半と下野・常陸の一部か……与力大名含めりゃ150〜200万石てとこか?


失ったとはいえ駿河東部や信濃佐久郡も制圧した事もあったのだから、すごい版図だ。

当時東国屈指の文化・経済拠点小田原や、伊豆には土肥金山もあった(採掘は天正期には行われている)から、資金力も潤沢だったろうな。
0203名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 15:43:31ID:o6IOYkPS
早雲様大ファンです。
信長の野望では北条家でしかやりません。
0204名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 16:04:32ID:PffAU3uD
>>200
その話って限りなくうそ臭いんだけど。
茶々丸って堀越で自刃したんでしょ。
0205名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 16:28:35ID:o6IOYkPS
早雲様は虐殺なんてしない。
0206名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 18:49:39ID:NaYxC1Hf
>>173-178
丹波哲郎、亡くなっちゃったな・・・
0207名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 19:57:28ID:WSNcsiRX
うわ、マジだ…去年も大河で源三位やってたのに…
真田太平記の昌幸も良かったなあ。北条嫌う役どころだったけどさ。

合掌。
0208名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 20:54:56ID:hvLMAj5O
大霊界に旅立たれたか。合掌。
0209名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 21:09:26ID:o6IOYkPS
なんかひどくやつれてたね。昌幸・・合掌
0210名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 22:45:14ID:Xq7OGTXU
太閤検地の数値を書いてみる。小数点以下は四捨五入
伊豆7・相模19・武蔵67・上野50・下総39
上総38・下野37・常陸54
伊豆・相模・武蔵は10割、上野・下総は真田や結城領を除く9割
上総は佐貫・真理谷・万喜のラインで6割前後だろう
下野は、宇都宮の喉元である鹿沼・南摩城、さらに壬生の支配域である日光一円。およそ5割強。
常陸は贔屓目にみても江戸崎、木原など1割弱。
ということで220万石ってとかな?事実上従属させてる里見を併せれば、250万石近い。
0211名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 22:48:58ID:Vcf3XaOZ
三浦・・・・・なんとか奴でしたっけ?
80にして早雲に敵対して戦死した奴は。
0212名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 22:52:58ID:NaYxC1Hf
三浦義同(道寸)か
0213名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 23:17:43ID:Lm2SPOga
>>204
茶々丸って、じつは甲斐に逃亡してしばらくは抵抗を続けていたとか聞いたことがるが。
0214名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 23:24:02ID:fLD+xXzv
>>213
近年では実際に倒されたのは数年後だとされている。
0215名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 23:29:02ID:CAozUJYg
>>210
五大老当時の家康が255万石でしたっけ?
02162006/09/26(火) 00:20:54ID:dlQVXhtH
>>210
サンクス!しかしすごいな。200万石超えは、地方大名では北条くらいか?最盛期の伊達や島津や毛利でも、200超えはないか?
0217名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 00:23:19ID:lgQd3HFR
鎌倉幕府執権の北条氏って戦国乱世の時代は完全に絶滅していたのかな?
0218名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 00:24:21ID:tCSI44Vy
ついでに池田大作先生の「人間大学」でも「戸田城聖」やってた。
「丹波哲郎」ここでも北条創価つながり。
0219名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 00:49:53ID:TIwda2IK
板部岡江雪斎は執権北条の末裔だという話を何かの本で見たような。
あと宗瑞の三人目の妻もそうだという説もあるにはある。
ただ、かなり怪しい話だし、子はできなかったようだ
0220名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 01:01:44ID:RjNJABFM
>>216
毛利は微妙なラインだな、島津は後もうちょっと秀吉が来るのが遅ければそのくらいは行ってたろうが。
伊達は150万くらいかな、上二つよりはやや低い。
0221名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 01:24:31ID:jLgscjsc
>>213
だんだん義経みたいになってきたなw
0222名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 03:50:50ID:JmGAbM8t
0223名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 12:17:37ID:bzEG8sUt
>>210
こうやって数字で見ると(まあ石高至上は好きじゃあないが)
最大版図築いた氏政ってもっと評価されてしかるべきだわなあ。
氏康相続時で伊豆・相模と駿河・下総の一部、武蔵の南半だから
拡大率で言えば早雲・氏康にはもちろん比較にならないけど。
やはり急速な拡大は不死鳥里見氏と和睦できたことかねえ、
まさに後顧の憂いだったからなあ。

本当に小田原に長期篭城していたら備蓄武器弾薬、兵糧考えれば
勝てたんじゃねえの?って国力だよなあ。
実際開城したときには後二ヵ年は篭城可能な備蓄があったらしいし。
箱根を突破されたのは初めてのことだから動揺は大きかっただろうけど
豊臣配下大名も敵地での長期動員は兵糧の問題だけでなく難しいだろう。
まあ秀吉の方が戦・外交上手だってことなんだろうけど。
あっけなく滅びて戦国に幕を引いたことも魅力の一つだから何とも言えないが…
0224名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 14:12:21ID:PNkE8pnF
下野、常陸、下総あたりの諸勢力は北条支配下と見るのは無理があるだろ
上杉、北条、佐竹の間を行ったり来たり繰り返してて一環した統制はとれてない
要するに独立勢力と見るのが正しいかと
0225名有り2006/09/26(火) 15:50:34ID:dlQVXhtH
それでも秀吉来襲時には、そういった勢力からの離反は極めて少なかった。天正後期にはそれらの勢力も固めていたのでは?

佐野氏とかは離反しちまったけど。

ま、何より悲惨なのは筆頭家老が離反したからなあ……石垣山の絶好な場所まで教えやがるし。利敵行為までやるとはな。
0226名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 18:01:13ID:cy7tYkhQ
>>224
半分同意、半分反対。
確かに長期スパンで見れば背反著しいけれど、
こと最終段階、小田原征伐直前を見ればほぼ完璧に掌握していると見る。
下総は古河公方家内の反北条勢力を一掃し、北条政権に組み入れ、
千葉氏・佐野氏の乗っ取りも成功している。
上野の要衝も直接押さえているし。
それらを担保にした圧迫は相当なものだろう。

また北関東の反北条連合にしろ、本拠を放棄した宇都宮あたりは顕著だが、劣勢著しい。
今更上杉が介入しても戦況は変わらないだろうし。
その情勢下で日和るのはもはや得策ではないよ。
0227名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 19:52:17ID:TIwda2IK
神奈川合戦と徳川、伊達との同盟以降は完全に北条に屈伏したとみていい。
小田原征伐時に上野金山の由良、下野鹿沼の壬生、上総真理谷の武田・万喜の土岐などが
北条についたのがそれを証明している。
佐竹が劣勢になった以上秀吉を考慮しなければ、もはや北条に背く理由などない。
0228名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 22:54:25ID:WbvYGh/H
そもそも北に進出してる時点で時代錯誤も甚だしい
氏康の頃なら関東制覇でも良かったが既に天下の形勢が固まりつつあるのに
中央の動向に合わせた戦略を考慮するならば北関東なんかで死闘演じる事に何の意味がある
北条は戦国時代が永遠に続くとでも思っていたのだろうか
それとも関東のみが天下だと思っていたのだろうか
0229名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 23:03:31ID:xm1JvbDB
これぞ北条氏政の天下二分の計である
0230名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 23:11:19ID:vBDxdA56
戦国時代なんていう認識があったのかね
0231名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 23:18:10ID:ov76MQ1C
北条氏は氏照を介して伊達政宗と色々交渉していたようだな
0232名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 23:28:02ID:XLVUzgnw
北条にとっては関東だけが天下
そもそも天下一統を否定している
0233名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 23:47:39ID:4FxpxZOw
よりにもよって後釜に来た家康が関東を拠点に天下を取ってしまったのが北条にとって最大の不幸だろう
同じ領地で天下を取られてしまっては北条が築いた功績などすべて吹き飛ばされてしまう
そして家康によって関東は発展したという名目作りのため
北条は小田原以外を全く発展させていなかった無能大名と扱われてしまう
関東に来たのが家康以外だったらもっとマシな評価をしてもらえたのに
0234名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 23:48:49ID:vBDxdA56
でも勝海舟は北条を評価してたろ
0235名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/27(水) 00:04:05ID:ov76MQ1C
地元小田原での人気は今も高いみたいだな
小田原のおみやげには虎の印判モナカみたいな和菓子が定番みたいだし
0236名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/27(水) 00:19:40ID:kWczlQis
でも本能寺の変後の素早い動きは評価できると思う
滝川を駆逐して一気に信濃まで進出
なのに徳川の小勢相手に膠着状態の上、甲斐信濃を易々と手放すとは…orz
あそこで北条の運命が決したような気がする
0237名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/27(水) 00:58:46ID:dFIKeoy0
>>236
どうだろうか?
そうは言ってもあそこでちょっと進出できたところで、
家康を易々と駆逐できるとは思えんし、あそこでアレ以上グダグダになってたら、
本来の狙いの関東が不安定になってしまう、それじゃ意味無い。
あくまで関東を抑えたいと言う本筋だと言う前提なら、間違っては居ないのでは?

秀吉に逆らう事が避けられないなら、秀吉の膨張を抑える手立てが無ければどのみち同じだろう。。
なんとか滝川・徳川・柴田などとつなぎをつけて、あの段階で秀吉を警戒することができなければ
結果は同じだと思う。
0238名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/27(水) 04:56:55ID:++sokwNc
>>228
むしろ、戦国の終わりを理解していたと思う。
だからこそ、織田信長と同盟を結んだわけで。
本能寺後は西上の野心を抱くけれど、天正壬午の乱で限界を迎えた。
あの辺は、とにかく家康が見事だった。
0239名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/28(木) 20:11:39ID:IDmbTPk3
どうせなら、秀吉と我慢比べをして引きこもりを続けて欲しかったな。
小田原落城があっさりすぎたから、いまいち人気がないと思う。
0240名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/29(金) 05:08:03ID:MTlv6TxI
>>239
>>223でも述べた小田原篭城は悪い選択肢ではなかったと思う。
もちろん後北条氏としては初めて箱根を突破されたわけだし忍城除いて支城も次々と陥落で動揺はある。
でも豊臣方もいくら篭城戦とはいえこれまで秀吉が得意とした別所、鳥取、高松と異なり
小田原は戦中にも城内で市が開かれ、かつ兵糧武器弾薬も豊富であったことを考えると
秀吉撤退の可能性は流石に低い(これも豊臣方大名の動員力と兵糧、士気、或いは長期戦における
大名の国元考えれば最悪の場合豊臣方の敗北もあり得たかも知れないが)だろうが条件の良い和睦に持込めた
可能性はあるだろうな、伊豆・相模二カ国+αの安堵くらいで。
北条の関東における支配体制は上記の通りだがこれは西関東はともかく東関東に限ればほぼ氏政の成果。
まったくなんでさっさと和睦を申し入れたのか不思議で仕方がない。氏直の判断ミスか士気の低下か?
それとも家康─氏直ラインを上手く利用した秀吉の外交的成果か?

しかし小田原決戦のとき成田を筆頭とする関東の北条方大名が北条を裏切らなかったのは氏康時代の動揺を
考えれば氏政時代ももう少し評価しても良いと思うがなあ。
0241名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/30(土) 18:02:59ID:7YKLjCz4
景勝、兼続もなぁ
北条や皆川の救援要請に応えて越山していれば、
時計の針を永禄四年頃まで戻すことが出来ただろうに
秀吉への対応や真田支援、それに国内に新発田問題を抱えている以上、難しかったのは分かるが
だが、もし越山して北関東情勢に積極的に関与していれば、小田原の陣の後、
旧北条領に封じられていたのは上杉だったろうに…
0242名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/30(土) 22:20:51ID:9uYQJpkD
断言する。上杉が介入してきても、もはや意味はない。

謙信の越山も大暴れしたのは一回のみで、その後は甲相同盟の前に劣勢の戦いを強いられているし、
越相同盟破棄後は良いとこなし。

徳川も北条よりだし、里見も従属に近い同盟を結んでいる。
北関東諸将は善戦はしているがそれだけで、宇都宮・結城などは風前の灯火。
上杉も最盛期ほどの国力はないしな。
北関東諸将と上杉だけでは、彼我の差がありすぎる。
0243名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 01:26:22ID:CTLHJjHZ
上杉憲政が謙信なんていう戦馬鹿を養子にしなくて、あっさり滅べば、関東制覇をもっと早くできた。
北条家の失敗は山内上杉家を早く滅ぼせなかったことだろう。

0244名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 06:01:36ID:6Ok3V5UE
でも長尾家の失敗も無闇に山内上杉家を取り込んだ事で、謙信が無駄にやる気になってしまい、
列島縦断して関東に無謀なケンカを売りに行くと言う戯けた事をやってしまった事にもある気がする。

関東の疫病神だなw
0245名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 22:44:13ID:5GC5s+l2
そうだな。
謙信の越山直前の上野情勢は、北条が上野を平定したと言っても過言ではないからね。

もし、憲政を拘束できていれば・・・
0246名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 23:46:04ID:HWloeyUG
あれはもう北条に非がある云々を通り越して憲政の行動自体が不可解。
戦国大名なんだか室町大名なんだかどっちでもないのだか分からんくらい節操がない。
普通最前線で有力家臣の信望も失って支えきれない平井に嫡男残して自分だけ逃げるかね。
それでもずっと山内家を支える家臣がいたのはさすがは関東管領だが。
もちろん憲政は己の保身が第一でそれを考えればあの時期の越後入りは危ない橋を渡って
上手く生き延びたとも言えるかも知れないが…
結果的には管領家を生かしておいたのは北条氏康の最大の失策だったかもな。
結果論で言えばこれは上杉を継承した謙信にとっても最大の失策かも。
こう考えるとさすがは管領家なんだろうか。憲政に振り回されて関東三国志序章なんだから。
0247名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/08(日) 11:54:28ID:nmyygun1
佐竹の台頭も管領家ががんばって関東を掻き乱したおかげだな。
0248名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/09(月) 01:48:33ID:FW0JfIpK
まあしかし憲政滅ぼしても北武蔵の覇権を確立し、上野でも平井など南部を
掌握するだけで時間を浪費しそうだな。上野全域の支配は長野ら上杉旧臣国人の
抵抗も考えられるから難しいだろう。西上野攻略は武田も手を焼いたからなあ。
まだ三国同盟も成立していないわけだし謙信越山がないからといって領土が急速に拡大したかは微妙。
それでも謙信越山がなければ太田氏の離反はないし里見も60年代前半には制圧できたわけか、
そして佐竹ら東関東の諸勢力の台頭はしばらくはないだろう。
東関東は伝統的に反管領・公方派が多いから(里見は公方派でもちょい異端だが)管領亡き後は
公方を擁する北条の拡大スピードは少しは速くなったかな。

ただ氏康も実際に管領家滅ぼすかなあ?
公方と同じで鎌倉にでも軟禁しておきそうな気がしないでもない。
で、さっさと幼少の嫡男か養子に家督譲らせて姻戚関係結んで体制強化。
もとから姻戚にあった公方と違うからといって拘束すればそうせざるを得ないだろう。
しかしそうすると公方派の諸勢力がうるさいかねえ。自害か戦死かが一番有難いな、憲政は。
それにしても里見・小弓御所の存在があったとはいえ氏綱の公方家との婚姻は見事な政略だなあ。
0249名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/09(月) 03:26:04ID:XOtZUJZ2
>>248
謙信の越山前までに長野をはじめとする上野衆を麾下に収めて、
沼田の跡目相続に介入して、後継者を送り込む所まではやっている。
武田に後詰めを要請されての越後侵攻もやっていたりする。
こと上野だけみれば、滅亡時と同等かそれ以上。

あと、伊勢氏が北条姓を名乗った時点で上杉を保管しておく必要はないと思うが。
0250名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/09(月) 23:59:35ID:Hp+APQt1
>>249
どうかねえ、越山前の上野攻略はこちらも認識不足の面は素直に肯定するけど
氏康の性格(謀略と大義が中途半端、よくも悪くも初代・二代の折衷)を考えれば
上杉管領家を滅ぼしたかどうかは分からん。山内は扇谷とは違うわけだから。
まあ西関東に強い影響を誇った管領家を存続させる意味はそこを掌握した以上
全くないわけだが一般に流布されるような「下克上」大名では北条はないわけだから
名跡は何らかの形で残したかも知れないなあ、と思う次第で。
北条家は基本的にかなり保守的だと考えているからそう思うだけかも知れないが。

ところで自分は早雲、氏康と同等に氏綱・氏政を評価しているが一般にはどうなのかなあ。
氏綱は堅実な二代目で氏康相続後の公方家婚姻、第一次国府台、武蔵攻略と着実に版図を
拡大しているし氏康への遺言「北条氏綱公御書置」も早雲のそれと並ぶ立派なもの。
氏政は最期は大チョンボだが最大版図を築いたこと、情に流されやすい氏康と違い実利的な外交、
そして北条家伝統の生前の円滑な嫡子への相続などこの二人はもっと評価されてもいいような。
氏直?どうも秀頼に近いイメージが強い…
0251名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/10(火) 00:32:13ID:311zXMFp
氏綱は5代の中でもっとも猛将だと俺は思うぞ、
後北条家の戦国時代での位置づけを最も明確にしたと共に、
関東に覇を唱えて、関東中を敵だらけにしてなお戦い続けた武将という感じ。
結果的に後を継いだ氏康は大変になってしまったが、飛躍するきっかけにもなった。
また氏康や綱成など人を見る目も確かだった。

氏政に関しては、本人もそうだけど兄弟による団結力では
類を見ない。まぁ運が悪かった面も強いよ。
0252名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/10(火) 00:39:40ID:DX7w4YJ6
他国の凶徒ゆえに、正統性確保の為に北条改姓へ踏み切ったのだから、
上杉の正統性を認めてしまったらこの正統性が崩れてしまう。
謙信の越山で上野の旧山内衆が一斉に背反したのも関東諸将が謙信に靡いたのも、
北条憎しと同等以上に、彼こそが関東管領山内殿だから。
北条にとって、それほど危険で、これほど己を否定する物はないよ。
謙信との対応もそれを如実に表していて、
越相同盟まで互いに旧姓で呼び続け、同盟以後「山内殿」と敬称している。

後半は、ほぼ同意。
つか氏綱と氏政(+弟三人)はもっと評価されて然るべきだよ。
ただ氏直は、政略的には未知数だが、軍事面ではそれなりの将才はあったみたいだけど。
0253名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/10(火) 00:40:41ID:DX7w4YJ6
↑はアンカーつけておけば良かったな
>>250へのレスね
0254名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/10(火) 20:30:49ID:rZ85GpYF
氏繁が長生きしていたら面白かっただろうね
父綱成より先に死んじゃったんだよね
0255名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 22:13:16ID:bR1v0riV
>>252
どうも疑問なのは氏康が平井の自滅まで本格的な上野侵攻を行なわなかったこと。
負い目があるとは思わないが(何せ北条は公方を擁しているからね)まあ戦わずして勝つのは
兵法の基本と言えば基本なのかな。よりにもよって越後に逃がしたのは「結果として」まずかったけれど。

>>251
氏政は時代がちょっと北条には不運だったから何とも言えないが
氏綱の評価(というか知名度)が低いのは解せないよなあ。
もちろん早雲・氏康と比べてそれに勝るとは思わないが劣ることもない。
ちょっと誇張した表現だが「関八州」における北条五代の基礎を築いたのは
早雲ではなく間違いなく氏綱だからねえ、もちろん早雲も偉大だけど関東計略では氏綱の方が上だろう。
やはり目立った合戦(江戸城から南武蔵攻略、第一次国府台はあるけど)や皮肉なことだろうけど
いい意味で敵に恵まれなかったことが知名度の低さに繋がっているのかね。

>>254
一族と言えば幻庵なんて不憫だよなあ。
嫡男は武田との駿河での合戦で失うし養子の三郎(上杉景虎)はすぐに越後の人質に遣られるし。

どうでもいいが綱成―氏繋―氏勝が河越から玉縄に転じたのは何でなんだろうか?
河越が対上杉最前線でなく家臣団が充実したからかねえ?
0256名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 23:49:08ID:DaFCzKji
為昌の遺領を相続するのに、一族内でちょうど良い
ポジションにいただけでは?

資料価値が無いっていわれる東国闘戦見聞私記に、氏直の
弟の氏房が一時期北条家を出奔して佐竹氏に身を寄せる
エピソードがあるんだけど、これがなんか気になるんだよね。

実際岩槻領は、氏房の前に源五郎とだけ伝わる人物の存在があったり
氏政の直接支配の時期があったり、なんかゴタゴタしてる。

源五郎の離反が氏房に置き換えられて伝わったのかとか想像してしまう。
0257名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/12(木) 02:09:08ID:9q49+ayj
>>255
平井城侵攻時期については真実の所は推測に頼るしかないけれど、
1550年に伊豆・相模・武蔵で国中諸群退転という非常事態が起きているから、
翌年の北武蔵侵攻では平井まで攻めきるには、領国に不安があったのでは?
0258名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/16(月) 01:37:07ID:4Pm0T7hK
>>255
玉縄→対里見戦略では?
0259名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/16(月) 01:47:20ID:5o08sUUY
このスレそろそろ層価板に移した方が良いじゃないか(・∀・)
0260名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/16(月) 19:59:52ID:uCXhulO7
このスレの内容を読んでそう思うのならば、お前が行って出てこない方が皆の為だな。
0261名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/18(水) 01:34:58ID:ZWHrgR36
最近、北条早雲の本を読んだら、なんか久しぶりにハマった。
って事で北条ファンにもなりました。
0262名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/18(水) 15:08:59ID:ZGAsmU6r
末裔が創価って。。。
0263名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/18(水) 17:38:23ID:0gXtIqdz
血は繋がっていないので無問題
0264名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/18(水) 18:03:10ID:06ToQIsT
やはり後北条は早雲なのか。氏綱が最高だと思うんだがな・・
0265名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/18(水) 18:36:24ID:0gXtIqdz
氏政が最高だと思う俺は永遠の少数派
0266名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/18(水) 20:00:52ID:mQ3kevNp
弟三人も合わせてなら俺も氏政の代が一番好きだ。
0267名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/18(水) 20:28:04ID:iidfdqfV
歴代当主はいずれも立派な業績持っているからなあ。
それでもやはり初代と三代目が輝きすぎているせいで…

早雲:今川氏の関係を活かして台頭。公方・両上杉の対立から伊豆・相模を切り取る。
氏綱:公方家と婚姻。江戸・河越など南武蔵へ版図を拡大。第一次国府台合戦。
氏康:河越夜戦。北武蔵から東関東へと版図を拡大。義元、謙信、信玄相手に渡り合う。
氏政:宿敵里見を下す。上野含め最大版図を確立。最期の篭城もそこまで下策とは言えないような…
氏直:もうちょっと粘れ。いや、お前だけが悪いんじゃあないんだが。

早雲は伊豆攻略時の下克上のイメージと謀略まみれの小田原城奪取、
氏康は河越夜戦、第二次国府台合戦、謙信・信玄相手の二度の小田原篭城が派手で目立つのだろう。
氏綱や氏政が評価低いんじゃなくて早雲と氏康が評価され過ぎているとも言えるかなあ。
あと氏康と氏政、氏政と氏直は個々の事跡についてどちらを評価してよいか迷う部分もある。
江戸時代の軍記物でももう二人の評価が完成していたから評価はともかく評判はどうしようもないわな。
0268名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/18(水) 22:49:55ID:8nRC64rO
籠らなきゃいけないようにしたのは下策だろ。
0269名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/19(木) 08:03:22ID:fTpO22Sf
家、滅ぼしちゃったし
0270名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/19(木) 08:25:11ID:+Tv+9lCQ
どうしたら、きのこることができたのかなぁ
0271名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/19(木) 08:32:53ID:fScUvpkn
早期に篭城策ではなく臣従したほうが上策なのは言うまでも無し。
さっさと氏政・氏直が上洛しておいて頭下げるなりすれば良かった。
この場合伊豆・相模・武蔵安堵くらいで妥協しないと後々揉めそう、というか
奥州仕置参陣で玉突き式に移封になった可能性もある。

ただ篭城と決めたからには三の丸を含んだ総構えの城内に市が立ち並び
一、二ヵ年の兵糧、武器弾薬が備えられていたのだから篭城策自体はあの時点では悪くない。
後詰のない篭城戦は本来下策なんだがもともと小田原篭城は後詰を期待せずに
長期対陣する包囲網の疲弊と撤収が目的なんだからもう少し数ヶ月は粘りが欲しかったかな。
まあ追撃するための支城網が破綻していて士気が低下していたから止むを得ないのだが。
豊臣方も数的にはともかく兵站と包囲武将の国力考えれば圧倒的な優位を保てたわけではないし
粘れば伊豆・相模安堵以上のよい条件での講和の可能性もあったかも知れないね。
四国遠征や九州遠征は共に短期決戦だったから長期化すればどうなるかまだ分からんかったはずだ。
0272名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/19(木) 15:31:43ID:u4ylsubh
氏政・氏照は騙まし討ちで斬られたくさい。
好条件を提示されて、それならばとのこのこ出てきたところを即打ち首。
0273名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/19(木) 15:37:32ID:qg4ZzFWh
アテルイの昔からよくある話
0274名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/20(金) 00:31:50ID:BzE/v1nB
>>271
つまり下の下で身を滅ぼしたと言うことだな。
0275名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/20(金) 17:25:35ID:SDU7YMlJ
>>274
つまり、秀吉が一枚も二枚も上手、ということだね。
0276創価学会北条副会長2006/10/23(月) 03:39:19ID:X1uKnPhj
あっそう
0277名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/23(月) 22:14:09ID:/E2KV5Xl
>>274
まあそういうことになるかな。
実際問題として秀吉の城攻めでの降伏は城主切腹、城兵助命が多いから
あの時点での講和で氏政自身はともかく北条家が生き残れると思っていたのだろうか。
支城が早期に次々と陥落して小田原の士気も低下していたとはいえ
まだまだ衣食や武器弾薬に困っていたわけではないのだから持久戦で腹を括るべきだったな。
もっとも篭城戦で秀吉の権力基盤に動揺が起こらなければ撤兵しても再度の出陣で滅ぼされただろうが。
北条は主な支城も陥落しているから撤退に対する追撃も不可能だからね。
あるいは小牧長久手の家康のように泰平のために積極的な臣従を求められたか。
0278名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/24(火) 06:37:20ID:oMuIs052
最近判明したことだけど伊勢氏は幕府でも重要なポジションにいた名族。
伊勢盛時は幕府の東軍側に属し、今川家内紛のおりに派遣されて甥を当主にすえて全権を掌握、官職も駿河守護代だったらしい。
遠江、相模攻撃も西軍派を攻撃する為だった。
0279名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 01:07:48ID:QG0v9fsT
下克上の代表のように言われてたのにね。
0280名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 07:34:04ID:WDvRn1El
しかしいつのまにか幕府とかけ離れた存在になったよね。
氏綱の北条改姓あたりからかな?
0281名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 14:35:49ID:lj3zyztO
京との繋がりが薄れたのは氏綱時代だろうねえ。
将軍位をめぐる幕府・管領家の混乱による京の地位の低下もあるだろうけど
基本的に反中央である関東に基盤を移したこと、古河公方と結んだことは大きいと思われる。
0282名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 15:18:27ID:VkCDEabs
まあただの浪人が城を貰うまではいいとして、
その後好き勝手に他の豪族や公方滅ぼして領土増やして自分のものにしても
主家である今川から何にも言われないのは奇妙っちゃ奇妙なんだよな。
0283名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 19:54:17ID:bedxBG7e
そうか?北条と今川は一旦緊張状態にあったが?
0284名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/25(水) 21:37:21ID:6HZUqOO3
北条早雲こと伊勢新九郎盛時は幕府で政所執事(長官)を世襲する平家直系名門伊勢家の出身で将軍の側近。
そもそも名門今川家が浪人の妹を嫁に迎えるはずが無いし…
幕府東軍派の重鎮で甥を今川家当主にすえて駿河守護代として今川家を支配し、西軍派の遠江と相模を攻略したということが最近の研究でわかってきたみたいだよ。
特に堀越公方の足利茶茶丸を 討ったのは盟主である足利 義澄の母と兄の仇だったから直々に命令されたらしい。
また東軍派の同僚山内上杉家に名声と勢力を妬まれて讒言されて東軍派から追放されてしまうがすぐさま西軍派の重鎮大内家に接近してそのとりなしで西軍派に鞍替えに成功。
西軍派の扇谷上杉家と組んで山内上杉家を破って関東での地位を固めていったようだ。
息子が北条姓名乗ったのと、早雲庵という屋敷に住んでいたせいで北条早雲という謎の人物にされてしまったようだ。
0285名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/26(木) 00:58:13ID:P/nhAZhs
伊勢新九郎が政所執事を世襲する京の名門伊勢家の出身かどうかはまだ研究の余地があるにせよ
少なくとも幕府申次役である備中伊勢家の家格以上であったことは最近の研究から分かっているね。
でないと駿河の名門今川家に姉で北川殿として嫡子の母であったことの説明ができない。
今出川殿こと義視との関係も最近では目立っているね。
少なくともこのスレにいる人は早雲をただの素浪人とは思っていないだろう。
伊豆侵攻は細川政元の義材追放のクーデターと絡めて考察しても面白そうだ。
相模侵攻はなんでかなあ…だけど今川と両上杉の関係、両上杉の分裂に乗じた現実主義というところか。

しかしこう考えると戦国北条氏の飛躍の基礎は早雲ではなく氏綱と考えてもいいような気もするな。
早雲は最後まで伊豆韮山を居城としていたわけだから今川と離れて関東を視野に入れた氏綱の再評価に繋がるか。
もちろん早雲の初代として、後北条家の基礎を築いたという事績は否定できないけれど
まだ氏綱以降と比べて旧体制的な思想が強かったようにも考えられなくもない。
氏綱の代になると今川を義元が相続した段階で駿東をめぐってその関係も悪化しているからねえ。
0286名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/26(木) 11:10:21ID:J6Uf3bkC
古河公方─関東公方の権威回復ってのが単なる大義名分とは思えない。
幕府の内々の意向があったのではないかと。
で、それがたまたま早雲自身の野心と一致したような感じ。
0287名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/26(木) 19:30:07ID:qVZ6Y2UP
堀越公方討伐のために甲斐まで攻め込んで守護の武田家とトラブルにならなかったのはやっぱり幕府の命令で動いていたからじゃないか?
伊勢盛時は関東で独立する気は無かったんじゃないかな?
有能だけど幕府に忠実な人間のようなきがする。
0288名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/27(金) 20:10:55ID:W/GaEBFp
北条家と江戸城について
氏政は、ずいぶんと江戸の発展に力を入れてたらしいが

中央勢力に潰されること無く、あのまま東に領国を広げた場合
小田原が本拠地としては、領国の南西に偏りすぎるよね
江戸あたりに本拠を移転する計画とかあったのかな?
0289名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/28(土) 01:05:32ID:WqQK6kPD
江戸が荒れてたっていうのは後世の捏造なんだっけ
0290名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/28(土) 02:06:59ID:GS0yfQdM
もっとずっと昔から港として作ってた記録があるのに、
善政で定評のある小田原北条氏が五代もかけてほったらかしたとは考えにくい。

ただ江戸に作ろうとしていたかどうかは良く判らない、
あそこらへんを中心にするには発展はしてたにしても手間はまだかかる。
家康が伊奈氏に命じて行わせた治水工事はやっぱり必要だと思うし。
そこまで考えていたかはわからない
0291名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/28(土) 13:03:10ID:ryTS9YUG
そもそもその善政とやらが眉唾くさいわけだが。
0292名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/28(土) 15:24:01ID:GS0yfQdM
眉唾とする根拠を聞こうか。
0293名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/28(土) 21:50:44ID:MPrduc6B
言いたいだけだろ。
0294名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/29(日) 02:44:04ID:OEUau46O
早雲以来の年貢率の相対的な低さや氏康の検地・税制改革なんかは善政とまでは
言いたくない人はそれでもいいけど北条氏が民政を重視していたのは否定できないかな。
農政だけでなく小田原においては東国では商工業も比較的発展していたしねえ。
まあ『北条五代記』の小田原繁盛は誇張もあるだろうけど他の文献や日記からも
小田原が関東ではかなり発展した都市であることは否定しにくいわな、唐人町があったともいうし。

と、考えると>>288氏のいうような江戸などへの移転は逆に難しかったのではないかとも思える。
別に小田原が関東の外れに位置するとしても韮山・玉縄・江戸・八王子・鉢形などの戦略拠点に
一門・譜代を配置する支城ネットワークを堅持できれば領国統治はそこまで難しくなかっただろうし。
0295名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/29(日) 03:57:41ID:74P/dEmQ
氏綱の頃から、江戸を別視していた形跡はあるけどね。
ただ里見が屈服するまでは常に前線だったから、安定した発展は望みにくいとは思われていただろうが。

結果を知っている身としては江戸に移す事はそこまで大それた事だとは思わないけれど、
小田原でも十分事足りていたとも思う。
0296名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/29(日) 11:11:49ID:9d7r+HI6
江戸も岩槻も太田氏の所領が大きかったからね。
故意か偶然か、国府台、三船台で北条家中の太田氏
が落伍したおかげで、直接支配が可能になった。
0297名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/29(日) 22:07:37ID:8625rVaW
>>294
自国民の拉致問題ヘの対処が社民党なみ。
0298名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/29(日) 23:04:19ID:T7W33Qvv
戦国時代に何言ってんだお前は。
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