【暗君】一条兼定【暗君】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/21(水) 17:34:36ID:twhAGXxP0061名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 16:59:18ID:uY8aq0X70062名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/09(金) 19:00:34ID:m1P7r30E0063人間七七四年
2007/03/02(金) 14:26:20ID:O9un9dfl土佐時代はまだ洗礼を受けていない
0064人間七七四年
2007/03/30(金) 11:26:45ID:nKCR8KAa従三位なのに津野基高を屈服させたり、それなりに優れていたと思う
死因がよくわからない(自殺とも)のようですが
0065人間七七四年
2007/03/31(土) 00:00:49ID:8jktFuR2公家の方の源氏(清和源氏じゃなくて村上源氏とか)は
藤原北家(のちの五摂家)の腰巾着だったからな
源氏の末裔が五摂家の一つである一条の手下なのは当然かも
>>61
房家、房基はなかなかのやり手
房冬はすぐ死んだけど凡人かそれ以上
兼定はよくて凡人以上天才以下、風評は最低
0066人間七七四年
2007/04/05(木) 16:55:25ID:rwMEe8yEそれで殺された土居宗珊カワイソス。
0067人間七七四年
2007/04/07(土) 19:06:14ID:gGHnxhIx0068人間七七四年
2007/04/07(土) 22:10:28ID:SAE8Gorbその一因に一条家の下の陪臣という捉え方もあったらしいね。
秀吉は天下盗りの過程で自身の権威と正統性を関白の位に求めたので
皇族・公家を目に見えて解る形でぞんざいにはできなかったとか。
0069人間七七四年
2007/04/08(日) 19:20:34ID:4kvdsqMJ0071人間七七四年
2007/04/29(日) 18:56:40ID:Jq/UBPoE主従としてとらえる向きの学説のほうが最近では強くなっている。
両者の軍勢が対峙した四万十川の戦いが
以前の土佐領有を巡って衝突した2勢力という見方の根拠になっていた。
しかし、実際は土佐一条家は土佐7雄の上に君臨した権威で
別格の存在であったという視点がいくつもの史料から明らかになってきている。
0072人間七七四年
2007/04/29(日) 19:03:01ID:DBdXVMEX改易時のごたごたの時、一条政親が無視されてたのは何でだろう?
この時どちらかの陣営が自分達の行動の根拠として担ぎ出しても
おかしくなかったと思うんだが。
この時点ではもう神輿としても意味を失ってたってことかな?
0073人間七七四年
2007/04/29(日) 19:15:18ID:Jq/UBPoE戦国時代の室町将軍の極位極官が従四位から従三位。
最期の12代、13代、14代、15代が
将軍宣下を受けたときの自身の官位はだいたい従五位。
朝廷もしばらくしてから(つまり統治の実績を見定めてから)
従四位に引き上げているが、当時その程度の官位を持っている
国人や大名はざらにいた。
0074人間七七四年
2007/04/29(日) 19:19:37ID:Jq/UBPoE大宰大弐を拝命した従二位大内義隆。
このほかにも従四位の地方戦国大名はたくさんいる。
当時の西国でこれらの戦国大名が積極的に外交関係を結び
子女との通婚を求めた相手はもはや室町将軍ではなかった。
これらの西国有力大名らが仰ぎ見た対象は土佐一条氏。
0075人間七七四年
2007/04/29(日) 19:27:11ID:Jq/UBPoE太閤と地元国人加久見氏の娘との間に生まれた二代房家。
一条氏三代は津野氏を武力で敗死させ戦国大名としての実力も見せた。
第三者からみた客観的視野にたって当時の最高の武家貴族の教養、文化度、
政治力、財力を判断しうる材料が天正遣欧使節。
4人のうちの1人は伊東氏から選ばれているが、
彼は大友宗麟の甥、土佐一条氏の縁戚という血筋。
0076人間七七四年
2007/04/29(日) 19:34:26ID:Jq/UBPoEイエズス会は「語学力と容姿端麗度、社交界で恥じない身のこなし」を
天正遣欧使節の選出帰順に挙げている。こうした歴史的史料から見ても
当時の西国の武家社会サロンの頂点に位置したのが
伊東、大友、大内、土佐一条らの諸氏だった。
2台房家の子供は京一条本家を継いで関白に昇っているし、
京本家の下に位置したというより、京本家と土佐一条家は密接な結びつきを
保持したというほうが正確。
0077人間七七四年
2007/04/29(日) 19:41:48ID:Jq/UBPoE出ているし、豊臣秀吉も一条家の家臣として長曾我部を遇している。
織田信長も右大臣を拝命し、豊臣秀吉も公卿官位に固執した。
豊臣家は明らかに公卿権威にこだわった改姓であるし、
秀吉が意図したところは、公卿権威を制すること。
御所に近隣近国の国人衆を参勤させ、
戦時には甲冑を身につけ、土佐や伊予の諸地域に出陣した
一方で領国経営を成功させと遣明貿易で巨額の財を築く。
こうした土佐の関白家の武名・声望は西国中に伝わった。
これこそが秀吉が求めて止まなかった権威であったといえる。
0078人間七七四年
2007/04/29(日) 19:44:03ID:fl2acLlB0079人間七七四年
2007/04/29(日) 22:13:23ID:y2iXLBSnもし国主として改易されても公家身分までは剥奪できないし、京都に帰って
公家として暮らせたと思えるし、土佐に残って阿波公方みたいに過ごせた
かも
0080人間七七四年
2007/04/30(月) 00:57:02ID:E5EdcwtT江戸時代の阿波公方がどれほど冷遇されていたか知らないと見える。
それはさておき。
その当時、京の一条家が代替わりし、先代に男子がいなかったので
後陽成天皇の皇子が次の京一条家当主となり、土佐一条家とは血縁関係が切れてしまった。
このことと関係があるかも知れない。
もっとも政親に関しては史料自体が少ないので
その辺に関しても全く先行研究はない。
0081人間七七四年
2007/05/12(土) 14:42:24ID:RYfloEu0内基の養子になるのは慶長十四年(1609)だから、若干時代がずれる気はしなくもないが
0082人間七七四年
2007/05/17(木) 16:26:51ID:TWQi+DwI0083人間七七四年
2007/06/26(火) 21:49:00ID:yFMrQBud0084人間七七四年
2007/08/07(火) 15:27:07ID:qt7jlLDd0086人間七七四年
2007/08/15(水) 19:00:28ID:7zQgMoqL0088人間七七四年
2007/09/03(月) 19:18:46ID:3LDr1qfe北畠が伊勢の国司になったのは有名だが。
土佐の守護は細川って理解で良いのかな?
0089人間七七四年
2007/09/03(月) 21:57:41ID:5rN6kzrg戦国三国司で正式に国司に任じられたのは北畠だけ
但し国司に任じたのは南朝なので、北朝を奉じた室町幕府体制下では僭称同様だったと思うのだが…
土佐の中村に昔から荘園を持っていたのは事実だが>一条
0090人間七七四年
2007/09/04(火) 11:21:20ID:PZutZU/V0092人間七七四年
2007/09/28(金) 15:27:31ID:u6OD5dkn0093人間七七四年
2007/10/11(木) 20:30:32ID:x8VrZVcU前関白が次は土佐国司ってのもある意味凄いけど
0094人間七七四年
2007/10/11(木) 20:34:46ID:x8VrZVcU0095人間七七四年
2007/10/11(木) 20:42:01ID:x8VrZVcU関東へ本格的に勢力を移植し始めた頃)から
次第に武家の間で官位官職が次第に復権し始める。
土佐守護家の没落と同時に畿内・西国では公家官位のほうが
ハイエンドなブランドとして流通し始める。
信長は部下に羽柴筑前守や維任日向守など
九州の名門旧家の姓や官職を名乗らせた。
徳川時代になって各国の国主は
鎌倉室町武家職制の守護・地頭職ではなく、
平安時代以来の受領国司名や朝廷官職を専ら用いた。
0096人間七七四年
2007/10/11(木) 21:50:14ID:HQj+EhU+「惟」任、だな。
0097人間七七四年
2007/10/12(金) 15:40:28ID:Rsuupf67室町幕府の守護で江戸時代の領地も、その国全域だったのって、島津ぐらいってのもあるんじゃないか?
今の領地と違う地域の守護なんて名乗ろうものなら、無駄な軋轢生むことになっただろうし。
0098人間七七四年
2007/11/01(木) 14:40:54ID:j1E7J5mS0099人間七七四年
2007/11/17(土) 20:27:37ID:9Xp1zl7q0100人間七七四年
2007/11/17(土) 23:40:03ID:4BAqbdAH戦国時代には守られてないけど
0101人間七七四年
2007/11/19(月) 16:31:42ID:5fvLmJme実経ー(実家)ー家経ー(内家)ー内実ー内経ー経通ー房経ー経嗣ー兼良ー教房ー房家ー房冬ー房基ー兼定ー内政
もしくは教房以降は房とも言えるね
0102人間七七四年
2007/11/19(月) 21:34:57ID:aTegSNxi「内政」とか先祖帰りしたかのように、内の字が復活してるね。
0103人間七七四年
2007/11/19(月) 21:59:40ID:KW73yu99介入して(恐らく長宗我部に内政預けて)偏諱を与えてる。
0104人間七七四年
2007/11/20(火) 13:46:23ID:hUo8CT5lちなみに同時代の京一条家
教房ー冬良ー房通ー兼冬ー内基
0105人間七七四年
2007/11/21(水) 00:48:40ID:+GSWcD1L補足すると、
冬良は教房の弟、房通は房家の子で房冬の弟、兼冬は房通の子、内基は房通の子で兼冬の弟なので、
兼冬・内基兄弟と兼定は父方を通じての従兄弟同士。
今の我々が思う以上に当時としては近しい親戚関係だったのかもしれない。
0106人間七七四年
2007/11/25(日) 13:47:09ID:JasMg5nEノブヤボ版の曹豹キャラとして愛されてるんだw
宿毛市史に「兼定の最期」として結構くわしく書かれてるよ
ttp://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/014001.html
0107人間七七四年
2007/12/01(土) 09:59:35ID:E2fWckai西国の大大名大内義隆の妹を妻にしていた。
二人の間に生まれた子が大内性に復し晴持を名乗った。
大内晴持は大内家の嫡子として義隆に大切に扱われた。
張持の実家土佐一条家の申し入れもあったのかと思われるが
大内家中に藤原氏の氏寺東大寺の所領を横領した一族がいる。
それがほかならぬ大内氏親族で譜代筆頭の陶氏。
大内義隆は陶に命じて東大寺旧領を返還させた。
この頃の大内氏は貿易港博多を支配し、西国10カ国近くを領していた。
これにいずれ大内氏を継ぐ大内晴持の実家土佐一条氏の土佐を加えると
大内氏は丹波路、瀬戸内海、阿波・和泉・摂津路の3方面のどちらからでも
入京を果たせる勢いだった。土佐一条氏の阿波侵攻の動きも
そうしたことが背景にあったのかもしれない。
0108人間七七四年
2007/12/02(日) 04:44:50ID:8OuH9uYY晴持の父は、房家の息子で房基の父である房冬。
房冬の正妻は伏見宮玉姫であり、側室が大内義興の娘。
晴持は房基の異母弟。
晴持が死ぬことになる出雲遠征のときは、義母である玉姫も戦勝祈願のため厳島神社を訪ねていたが、
大内方の敗報を聞くと山口へ向かっており、かの地で晴持の死を聞いたものと思われる。
陶氏の東大寺押領は大内氏の政策。
大内氏と東大寺の間では数度の折衝が行われ、陶氏も寺領年貢を送ったり送らなかったりしている。
応仁の乱の上洛の際に、上方の寺社勢力を敵に回したくないときは年貢を送り、
応仁の乱が済んで撤兵すると再び年貢を送らなくなった。
細川氏に内乱が起こり上洛戦の可能性が高まると、再び東大寺と折衝を始めている。
そして上洛戦も終わり尼子氏の対立が激化するといつものように年貢不送。
隆房と義隆(及び相良武任)の対立は晴持の死後に台頭するため、一条氏との関係は不明。
応仁の乱では、一条氏は親細川派であったため、大内氏との関係は良好ではなかった。
一条氏出身の僧尋尊(房家の叔父であり、師匠でもある)は大内氏を憎悪して罵倒している。
土佐一条氏の拠点であった中村には貿易による舶来品(中国製陶器等)が多数出土している。
これらは大内氏と友好関係であった時代に持ち込まれたものと推測されている。
0109人間七七四年
2007/12/03(月) 10:00:54ID:WZ4OYzU6華々しく負けたらしいが…
波乱に満ちた人生で興味深い人物ではあるな。
0110人間七七四年
2007/12/08(土) 08:30:35ID:L45NnBgPそれ以前にも主従の対立関係があったかあるいは
陶隆房氏への何らかの処罰さえ下されていたとも考えられ得る。
理由は応仁の乱以降顕著となる傭兵を用いた戦が増えたことと
日本全体的に人材フローの流動性がさらに増したことだろう。
戦国大名は金銀鉱山の開発や港や主要河川の掌握に懸命になった。
それらの軍資金が有能な人材の確保に役立った。
応仁の乱後はご一門やご親族集がお殿様の藩屏として
評定の場でも戦陣でも主君を取り囲んで数の力で押し切るという時代では無くなっていた。
まったく主家とは縁もゆかりもない他家の出身者や場合によっては
どこの馬の骨と家中で揶揄中傷を浴びる者でさえ軍師の地位や評定衆の列に加わることを許された。
0111人間七七四年
2007/12/08(土) 09:02:13ID:L45NnBgP大内家時代当主として本気で据える意思があったのだろう。
明治の世になってから井上馨や桂太郎といった毛利家親族が
首相の座についたがそれは山口県出身者である総理大臣のリストの
ほんの一部に過ぎない。中世毛利家も飛躍のためには他家出身者をどんどん登用した。
摂関家の血筋を次期当主の座に据えた例としては美濃斉藤家などが知られている。
また日野家出身で八幡太郎義家の血を引く開祖親鸞以来
本願寺座主は代々日野家猶子であったが
戦国期にはとうとう摂関家とも直接結びつくようになった。
それほど一向宗の政治的権力は時代を経るごとに拡大していた。
0112人間七七四年
2007/12/08(土) 09:21:13ID:L45NnBgPそれらの市場で有能性を評価されたトルコ傭兵や東欧出身者や
欧州の皇帝家・国王家で常用されたドイツ傭兵等が代表的なものだった。
彼らの中には有能性を認められついには一方面の師団長的役割を任されたり
あるいは地方領主・君主の座にまで登りつめた者もいる。
本願寺最盛期を現出した顕如の場合、妻の三条氏を通じて
管領細川晴元、六角氏、武田信玄とも姻戚関係だった。
いざとなれば一向一揆の力を借りることも戦国大名は辞さなかったし、
三河一向一揆で名立たる徳川の重臣が一向一揆側に与したことを見ても
百、千単位で軍編成を組める傭兵のほうが逆に
土地と縛り付けられた国人衆、同朋衆、親族より使いやすかった。
大内義隆はそのような体制に家中の変質を進めていたのではないだろうか?
0113人間七七四年
2007/12/08(土) 11:03:36ID:Q1NrDzzGこの人の場合は典型的な暗君だな
0114人間七七四年
2007/12/08(土) 21:45:40ID:ehMr4Yo+0115人間七七四年
2007/12/11(火) 14:51:45ID:D3Rn+jf40116人間七七四年
2007/12/11(火) 18:26:06ID:iTiWZveZ0117人間七七四年
2007/12/11(火) 18:30:47ID:inmXsOMyttp://www.nicovideo.jp/watch/sm1103049
でがまんしとけ
0118人間七七四年
2007/12/14(金) 08:06:31ID:dZDUB2DK0119人間七七四年
2007/12/21(金) 10:28:08ID:N+M4g0RJ0121人間七七四年
2008/01/03(木) 21:25:37ID:OVVwvSgp0122人間七七四年
2008/01/06(日) 17:33:05ID:JRGadKpd某ゲームの影響力はすごいわ。
0123人間七七四年
2008/01/06(日) 18:49:56ID:W4fydSBV0124人間七七四年
2008/01/13(日) 13:28:49ID:5SFQMCpJ吉良みたいなもんか
0125人間七七四年
2008/01/15(火) 13:38:43ID:RtnNsY7x0126人間七七四年
2008/01/15(火) 21:33:04ID:hhC0yKaC0127人間七七四年
2008/01/15(火) 21:46:46ID:aKpHeCwY元親にしてやられて、その元親も信長秀吉には小物扱いと
順繰りにスケールダウンしちゃったというか。
0128人間七七四年
2008/01/16(水) 00:38:07ID:ZyzqP+OE兼定はけっこう足掻いたと思うんだがな
0129人間七七四年
2008/01/16(水) 09:40:35ID:vUF005ZP0130人間七七四年
2008/01/16(水) 12:54:29ID:x8IVTQZ3でも実態より低評価なのは禿同意>土佐一条家
良質な史料がないのが拍車をかけているような気がする。
0131人間七七四年
2008/01/16(水) 13:54:23ID:otyaH3g6結局、公家なんです珍しいでしょ?が最初に来ちゃう辺り。
0132人間七七四年
2008/01/19(土) 14:20:19ID:/DZvaMxs0133人間七七四年
2008/01/19(土) 15:57:56ID:Vfa8xoXWしかし山内は持ち上げなかったんだね
0134人間七七四年
2008/01/19(土) 18:54:47ID:Wivv2mTa家格が違いすぎるから、自分の統治が面倒になるだけだったんじゃ?
後、武家としては、一応守護の細川絡みでいろいろ難しいだろうし。
0135人間七七四年
2008/01/30(水) 10:15:50ID:iFhJgvwo0136人間七七四年
2008/02/10(日) 00:06:50ID:fvj/idrF0137人間七七四年
2008/02/10(日) 01:54:34ID:hq5R5giz0138人間七七四年
2008/02/10(日) 13:05:04ID:xCASxVlc素人でも読める程度でお願いします。
0139人間七七四年
2008/02/10(日) 13:21:11ID:5eiK8xjA『中村市史』 これも完売。図書館で借りましょう
後はいくつか論文があるが、イパーソ向けを書けと言うことなので割愛。
0140人間七七四年
2008/02/10(日) 13:55:44ID:xCASxVlc探してみます。
0141人間七七四年
2008/02/10(日) 15:05:17ID:hq5R5giz論文も気になるな。
そっちも紹介してもらえるとうれしい
>>140
『長我宗部元親のすべて』(新人物往来社)にも一条氏について独立して一章立てられている
分量は少ないけど・・・
0142人間七七四年
2008/02/10(日) 18:46:18ID:5eiK8xjA土佐一条氏に関する論文自体が非常に数が少ないと思うが
見たことがあるのは
・『土佐一条家年表』小松泰(朝倉慶景編)
・「天正初期の土佐一条家」上・中 朝倉慶景(『土佐史談』166,167号)
・「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」野澤隆一(『國學院雑誌』)
これだけ。
上二つは入手も難しいと思う。国立国会図書館からコピーするしかないかな。
>>141が高知なら地元図書館で持ってる可能性もあるが。
0144人間七七四年
2008/02/11(月) 12:38:10ID:du4b+/uF高知の県立図書館でもやってくれるかも知れないから取りあえず問い合わせて見なされ。
0145人間七七四年
2008/02/25(月) 10:57:53ID:BEfkS91K0146人間七七四年
2008/02/28(木) 21:51:37ID:YS8IA8yi0147人間七七四年
2008/02/29(金) 00:32:54ID:2hPFrhv/0148人間七七四年
2008/02/29(金) 04:19:44ID:bRgnAd7T俺は関東足利氏を将軍にしたことはあるが、
一条公で四国を併呑したことがない。
結局、足利晴氏の場合、
命令回数が1ターンの中で2回じゃん。
それに比べて、一条公運の場合、1回のみ。。。
守備よく西園寺や長曽我部を滅ぼしても、
大友や毛利など、九州、本州の沿岸部の大名が
巨大化し過ぎて、とてもではないが、戦えない。
一条公だけは将軍にするの、まず無理。
断言できるよ。
0149人間七七四年
2008/03/15(土) 11:25:28ID:9DPfkI3M0150人間七七四年
2008/03/15(土) 19:33:45ID:mSCpQ60i0151人間七七四年
2008/03/15(土) 19:38:04ID:7+pAUKME勝者側にいいよう改変されているんだ、悪い奴らだ!て言いたいだけちゃうんかと。
0152人間七七四年
2008/03/16(日) 00:28:53ID:+DktYbYk中村での権力確立がもっとはっきりすればなと思うが
逆説的に、なぜ権力が崩壊したかも分かるはず
0153人間七七四年
2008/03/27(木) 23:32:52ID:QvfsWK25いいところがあったとは記録に残せないでしょ。
もっとも、長宗我部が滅ぼせた理由はあるはずだけどな。
いくら元親が命じたところで、一条に非がなければ、武将が動いたとは思えない。
有力なところだと、一条本家から独立しようとしていたために、
一条本家からの要請で討伐しただけだから、大義名分がしっかりしていたとも言うようだが。
0154人間七七四年
2008/04/14(月) 16:32:33ID:OkGsaxo/0155人間七七四年
2008/04/14(月) 17:05:18ID:tSZpvqwAいろいろ要素はあれどまぁ兼定<元親<秀吉だったという。
0156人間七七四年
2008/04/30(水) 16:01:25ID:tocvD0PN0157人間七七四年
2008/05/08(木) 11:28:40ID:guNAUvIy0158人間七七四年
2008/05/08(木) 12:28:40ID:DLQ1ZVMY・・・ある意味悲劇の武将かも。
0159人間七七四年
2008/05/18(日) 18:28:32ID:1V2jQOFv鎌倉将軍として関東の諸将の上に君臨していたわけだから、
もともと一条家には武人の血が流れていたともいえる。
0160人間七七四年
2008/05/18(日) 19:30:28ID:CZr8LvsM初代一条家当主の弟。
血縁関係なし。
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