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【暗君】一条兼定【暗君】

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/06/21(水) 17:34:36ID:twhAGXxP
彼と天下を目指したい。
0027名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 20:54:03ID:YpuCQ9V7
>>いっそ元親が十年早ければ良かったな。
三好家に滅ぼされるぞ。
0028名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 21:48:51ID:1+cck6eK
>>26
追放派の重臣を次々ヌッコロした奴だろ
0029名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/18(火) 16:37:32ID:Fio7aWUO
為松若狭守 安並和泉守らを攻め討ったんだっけ?
0030名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 00:43:55ID:spDMsuVy
   
0031信長の野望の列伝2006/07/30(日) 23:50:54ID:Uu+TzzUe
農民の娘、お雪にうつつをぬかすと書いてある…
0032名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 00:09:31ID:R8ykjuQR
あれは単なる逸話だしなぁ。
宇都宮氏の娘を離縁して大友宗麟の娘を娶った行動が一般の人間には不可解な
行動としてうつり、色好みが激しいという風聞が立ったりした結果じゃないかな?

そういえばキリシタン大名はいろいろいるがキリシタン公家(一応)は珍しいよな。
0033名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 13:49:36ID:xjLKT/Gk
つ 清原枝賢
参照:http://www.pauline.or.jp/monogatari/monogatari09.html
0034名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 13:58:36ID:dLAkCeci
お雪の話は、地元では結構有名なのかな

出展は、土佐物語、江戸期宝永年間に吉田孝世によって書かれた
史料としての価値はどうなんだろ?
0035名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/02(水) 16:53:34ID:CYl+4rJu
吉田孝世は長宗我部の臣、吉田備後守重俊の後裔
重俊は結構活躍してる
0036名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/15(火) 20:07:01ID:fBqPgZ9j
吉田東洋もおるでよ。
0037名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/18(金) 16:26:00ID:NpIkDzPc
その長宗我部重臣の吉田さんと、土佐藩の山内さんが
藤氏秀郷流 首藤系の同族だったとは、何かの縁だね
0038名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/19(土) 03:51:25ID:2m3gbni2
0039おじゃる2006/08/25(金) 11:56:41ID:Uqjg3Sb1
天翔記で全国制覇した。
0040名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/06(金) 18:10:26ID:+w8hjita
  ( ´∀` )<ほすほす!
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_ 
  \/    /
0041安東領民2006/10/09(月) 06:10:38ID:99/tFBXV
こういったマイナー地方大名スレは細かすぎるところまで解るので大好き
だからほっしゅ
0042名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/12(木) 00:35:48ID:q8lQXdlT
この人の生き様って氏真より凄いと思う。
0043名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/28(土) 14:47:57ID:ke2Z418q
今川より小大名だけど、家柄は良かったから
何しろ関白の玄孫で、本人も権中納言
それなのにそれなりに戦ってるから
0044名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/28(土) 22:47:49ID:6cPHsPTX
晩年は気の毒な人だよね
片腕を失っていたとか
0045名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/30(月) 10:21:36ID:F5YQ8O5P
それは初耳
もし良かったらくわしく教えてください
0046442006/10/30(月) 16:53:39ID:5Ij72irs
くわしくは講談社文庫から出ている『フロイス日本史』に書いてあるが

長宗我部元親に破れた兼定は瀬戸内海の戸島という島に逃れる
もはや土佐から追放された兼定に舅の大友宗麟も興味を失ったのか
ふたたび豊後に逃れることはできなかったらしい。
(ちなみに後妻であった宗麟の次女は、その後大友氏の家臣と再婚している)
この戸島で隠棲しているときに「ある刺客」が兼定を暗殺しようとした。
この後遺症で兼定は腕を失ったという。

この「ある刺客」について「一条家が土佐に落ち延びたときに付いてきた京の公家の末裔」とする考察がある。
詳しくは「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」野澤隆一(『國學院雑誌』87−4)を読んでみて。
0047名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/30(月) 16:57:03ID:F5YQ8O5P
>>46
ありがとうございます
ちょっと最後のには手が届きそうにないですが
学術文庫の『フロイス日本史』は本屋にあったので そのうち読んどきます
0048名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/31(火) 16:03:20ID:Eu+pWwvH
うん?
中公かもしれない
確認してきます
0049名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 07:53:54ID:fcpeec3f
一条家臣について、名前だけでもかまいません。情報教えてくだされ
0050名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 12:15:12ID:PUdCEST0
飛鳥井曽衣 あすかい・そい
土居宗珊 どい・そうさん
小島政章 おじま・まさあき
0051名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 15:21:13ID:T76aaWi1
佐竹義直なんかも譜代の家臣、長宗我部に降って臣従しちゅけど

津野定勝・・・兼定の娘を娶る、子の勝興は長宗我部に降り、自身は伊予に追放される
0052名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/10(金) 23:17:59ID:s/U+3bx8
ここなんかどう?
ttp://f2.aaa.livedoor.jp/~kshine/1ichijo%20clan.htm
0053名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/11(土) 10:03:03ID:rK7cnoWk
>>52
いいとこ紹介して頂き乙です
0054名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/12(日) 21:10:27ID:+w2eewil
地元では一条大祭ですね。けど兼定公の名前はあまり知られてないのかな。
0055名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/28(木) 21:35:49ID:JMWNCLyX
あげ
0056名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/29(金) 00:14:55ID:JON+wPeE
戦国屈指の暗君といえば、氏真や兼定が浮かぶ。
(実際どうだったかは別として)

が、蹴鞠やらのエピソードがあって、
全体としてほのぼのとした印象のある氏真に対して、
兼定はなんと言うか・・・宗柵の手打ちとか姦淫生活とか
負のイメージが強すぎて、擁護する気になれない。
それが俺の中での二人の差。
0057名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/29(金) 13:45:18ID:9YYUycUz
それらのエピソードは長宗我部のねつ造じゃないかという指摘がある件
0058名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/29(金) 21:12:27ID:sWUnCXd2
「実際どうだったかは別として」と断り書きしてる書き込みにするツッコミではないような。
0059名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/29(金) 21:23:50ID:lgw6duO2
>>56
牛裂きの刑をやった
三好実休さんのお子さんも忘れないで。
0060名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/31(日) 00:18:26ID:Nxyp0mBk
家臣に源なんたらがいたんだっけか
さすが公家だけあってモノホンの源氏まで手下にしてたんだよなw
0061名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/11(木) 16:59:18ID:uY8aq0X7
房基は武勇に優れていたと聞くが本当かな?
0062名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/09(金) 19:00:34ID:m1P7r30E
デウスに帰依していたと聞くが。
0063人間七七四年2007/03/02(金) 14:26:20ID:O9un9dfl
豊後に落ちてからだけどね
土佐時代はまだ洗礼を受けていない
0064人間七七四年2007/03/30(金) 11:26:45ID:nKCR8KAa
>>61
従三位なのに津野基高を屈服させたり、それなりに優れていたと思う
死因がよくわからない(自殺とも)のようですが
0065人間七七四年2007/03/31(土) 00:00:49ID:8jktFuR2
>>60
公家の方の源氏(清和源氏じゃなくて村上源氏とか)は
藤原北家(のちの五摂家)の腰巾着だったからな
源氏の末裔が五摂家の一つである一条の手下なのは当然かも

>>61
房家、房基はなかなかのやり手
房冬はすぐ死んだけど凡人かそれ以上
兼定はよくて凡人以上天才以下、風評は最低
0066人間七七四年2007/04/05(木) 16:55:25ID:rwMEe8yE
放蕩を諫めたら、刺客をよこしてくる兼定オソロシス。
それで殺された土居宗珊カワイソス。
0067人間七七四年2007/04/07(土) 19:06:14ID:gGHnxhIx
兼定は、中国に行っても立派に暗君がつとまりそうなスケールの大きさを感じさせる
0068人間七七四年2007/04/07(土) 22:10:28ID:SAE8Gorb
長宗我部は豊臣政権内で毛利や島津に比べるとかなり格下扱いだが
その一因に一条家の下の陪臣という捉え方もあったらしいね。
秀吉は天下盗りの過程で自身の権威と正統性を関白の位に求めたので
皇族・公家を目に見えて解る形でぞんざいにはできなかったとか。
0069人間七七四年2007/04/08(日) 19:20:34ID:4kvdsqMJ
いっそ内政が長宗我部内部を切り崩す位の器量があれば面白かったろうになぁ。
0070人間七七四年2007/04/26(木) 15:15:23ID:BtzlF0qJ
>>69
房家だったら可能かもね
0071人間七七四年2007/04/29(日) 18:56:40ID:Jq/UBPoE
土佐一条家と長曾我部家の関係は
主従としてとらえる向きの学説のほうが最近では強くなっている。

両者の軍勢が対峙した四万十川の戦いが
以前の土佐領有を巡って衝突した2勢力という見方の根拠になっていた。

しかし、実際は土佐一条家は土佐7雄の上に君臨した権威で
別格の存在であったという視点がいくつもの史料から明らかになってきている。
0072人間七七四年2007/04/29(日) 19:03:01ID:DBdXVMEX
ちょっと疑問なんだが、実際それだけ権威があったなら長宗我部家
改易時のごたごたの時、一条政親が無視されてたのは何でだろう?
この時どちらかの陣営が自分達の行動の根拠として担ぎ出しても
おかしくなかったと思うんだが。
この時点ではもう神輿としても意味を失ってたってことかな?
0073人間七七四年2007/04/29(日) 19:15:18ID:Jq/UBPoE
土佐一条家の潜在を際立たせる一例。

戦国時代の室町将軍の極位極官が従四位から従三位。
最期の12代、13代、14代、15代が
将軍宣下を受けたときの自身の官位はだいたい従五位。
朝廷もしばらくしてから(つまり統治の実績を見定めてから)
従四位に引き上げているが、当時その程度の官位を持っている
国人や大名はざらにいた。
0074人間七七四年2007/04/29(日) 19:19:37ID:Jq/UBPoE
そういった国人の極め付きは日向伊東家の三位入道と号した伊東義祐や
大宰大弐を拝命した従二位大内義隆。
このほかにも従四位の地方戦国大名はたくさんいる。

当時の西国でこれらの戦国大名が積極的に外交関係を結び
子女との通婚を求めた相手はもはや室町将軍ではなかった。
これらの西国有力大名らが仰ぎ見た対象は土佐一条氏。
0075人間七七四年2007/04/29(日) 19:27:11ID:Jq/UBPoE
太閤(前関白)として下向した初代教房。
太閤と地元国人加久見氏の娘との間に生まれた二代房家。
一条氏三代は津野氏を武力で敗死させ戦国大名としての実力も見せた。

第三者からみた客観的視野にたって当時の最高の武家貴族の教養、文化度、
政治力、財力を判断しうる材料が天正遣欧使節。
4人のうちの1人は伊東氏から選ばれているが、
彼は大友宗麟の甥、土佐一条氏の縁戚という血筋。
0076人間七七四年2007/04/29(日) 19:34:26ID:Jq/UBPoE
ハプスブルグ家などヨーロッパ皇帝・国王家の帝王教育で名を挙げる
イエズス会は「語学力と容姿端麗度、社交界で恥じない身のこなし」を
天正遣欧使節の選出帰順に挙げている。こうした歴史的史料から見ても
当時の西国の武家社会サロンの頂点に位置したのが
伊東、大友、大内、土佐一条らの諸氏だった。

2台房家の子供は京一条本家を継いで関白に昇っているし、
京本家の下に位置したというより、京本家と土佐一条家は密接な結びつきを
保持したというほうが正確。
0077人間七七四年2007/04/29(日) 19:41:48ID:Jq/UBPoE
織田家の記録にも「一条殿の臣でちょうそかべとめずらしき苗字」と
出ているし、豊臣秀吉も一条家の家臣として長曾我部を遇している。

織田信長も右大臣を拝命し、豊臣秀吉も公卿官位に固執した。
豊臣家は明らかに公卿権威にこだわった改姓であるし、
秀吉が意図したところは、公卿権威を制すること。

御所に近隣近国の国人衆を参勤させ、
戦時には甲冑を身につけ、土佐や伊予の諸地域に出陣した
一方で領国経営を成功させと遣明貿易で巨額の財を築く。
こうした土佐の関白家の武名・声望は西国中に伝わった。
これこそが秀吉が求めて止まなかった権威であったといえる。
0078人間七七四年2007/04/29(日) 19:44:03ID:fl2acLlB
四国の暴君といえば、三好長治もなかなか凄い
0079人間七七四年2007/04/29(日) 22:13:23ID:y2iXLBSn
改易後に政親の消息不明というのが引っかかる
もし国主として改易されても公家身分までは剥奪できないし、京都に帰って
公家として暮らせたと思えるし、土佐に残って阿波公方みたいに過ごせた
かも
0080人間七七四年2007/04/30(月) 00:57:02ID:E5EdcwtT
>>79
江戸時代の阿波公方がどれほど冷遇されていたか知らないと見える。

それはさておき。
その当時、京の一条家が代替わりし、先代に男子がいなかったので
後陽成天皇の皇子が次の京一条家当主となり、土佐一条家とは血縁関係が切れてしまった。
このことと関係があるかも知れない。

もっとも政親に関しては史料自体が少ないので
その辺に関しても全く先行研究はない。
0081人間七七四年2007/05/12(土) 14:42:24ID:RYfloEu0
一条昭良が生まれるのは慶長十年(1605)、
内基の養子になるのは慶長十四年(1609)だから、若干時代がずれる気はしなくもないが
0082人間七七四年2007/05/17(木) 16:26:51ID:TWQi+DwI
age
0083人間七七四年2007/06/26(火) 21:49:00ID:yFMrQBud
0084人間七七四年2007/08/07(火) 15:27:07ID:qt7jlLDd
兼定は豊前じゃなくて、伊予で亡くなったんだね
0085人間七七四年2007/08/07(火) 16:36:18ID:oIzvOmaa
>>84
yes
0086人間七七四年2007/08/15(水) 19:00:28ID:7zQgMoqL
土佐の大名と言えばこの人で、長宗我部はかなり後まで家臣扱いだったぽいね。
0087人間七七四年2007/08/26(日) 16:16:04ID:e9LXkOxz
>>86
「一条殿の家人で長宗我部とかいう珍しい名字の奴がいるらしい」
という趣旨の記録があるらしいしな
0088人間七七四年2007/09/03(月) 19:18:46ID:3LDr1qfe
一条って、土佐の国司にはなったんかな?
北畠が伊勢の国司になったのは有名だが。
土佐の守護は細川って理解で良いのかな?
0089人間七七四年2007/09/03(月) 21:57:41ID:5rN6kzrg
土佐国司にはなってない、慣用的にそういう風に言われるようになっただけ
戦国三国司で正式に国司に任じられたのは北畠だけ
但し国司に任じたのは南朝なので、北朝を奉じた室町幕府体制下では僭称同様だったと思うのだが…

土佐の中村に昔から荘園を持っていたのは事実だが>一条
0090人間七七四年2007/09/04(火) 11:21:20ID:PZutZU/V
房家、房冬、房基はなってない?土佐守
0091人間七七四年2007/09/07(金) 16:08:26ID:fao3uHnI
>>90
兼定も含めてなっているな。
まあ、実際にはもっと上の官位にまで上り詰めてもいるが。
0092人間七七四年2007/09/28(金) 15:27:31ID:u6OD5dkn
兼定は権中納言か、房家は大納言だし
0093人間七七四年2007/10/11(木) 20:30:32ID:x8VrZVcU
いや土佐国司になってるよ
前関白が次は土佐国司ってのもある意味凄いけど
0094人間七七四年2007/10/11(木) 20:34:46ID:x8VrZVcU
つまり初代教房自身も土佐国司をわざわざ朝廷から拝命している
0095人間七七四年2007/10/11(木) 20:42:01ID:x8VrZVcU
この初代教房の頃(東国では後北条氏が箱根を越えて駿東から
関東へ本格的に勢力を移植し始めた頃)から
次第に武家の間で官位官職が次第に復権し始める。

土佐守護家の没落と同時に畿内・西国では公家官位のほうが
ハイエンドなブランドとして流通し始める。

信長は部下に羽柴筑前守や維任日向守など
九州の名門旧家の姓や官職を名乗らせた。
徳川時代になって各国の国主は
鎌倉室町武家職制の守護・地頭職ではなく、
平安時代以来の受領国司名や朝廷官職を専ら用いた。
0096人間七七四年2007/10/11(木) 21:50:14ID:HQj+EhU+
>>95
「惟」任、だな。
0097人間七七四年2007/10/12(金) 15:40:28ID:Rsuupf67
>>95
室町幕府の守護で江戸時代の領地も、その国全域だったのって、島津ぐらいってのもあるんじゃないか?
今の領地と違う地域の守護なんて名乗ろうものなら、無駄な軋轢生むことになっただろうし。
0098人間七七四年2007/11/01(木) 14:40:54ID:j1E7J5mS
政元までの細川京兆は土佐守護兼ねているね。
0099人間七七四年2007/11/17(土) 20:27:37ID:9Xp1zl7q
一条家の通字って何になるの?
0100人間七七四年2007/11/17(土) 23:40:03ID:4BAqbdAH
「実」
戦国時代には守られてないけど
0101人間七七四年2007/11/19(月) 16:31:42ID:5fvLmJme
どちらかというと、しりとりに近いかな

実経ー(実家)ー家経ー(内家)ー内実ー内経ー経通ー房経ー経嗣ー兼良ー教房ー房家ー房冬ー房基ー兼定ー内政

もしくは教房以降は房とも言えるね
0102人間七七四年2007/11/19(月) 21:34:57ID:aTegSNxi
>>101
「内政」とか先祖帰りしたかのように、内の字が復活してるね。
0103人間七七四年2007/11/19(月) 21:59:40ID:KW73yu99
戦国大名化した土佐一条家を懸念した一条内基が土佐に下向、
介入して(恐らく長宗我部に内政預けて)偏諱を与えてる。
0104人間七七四年2007/11/20(火) 13:46:23ID:hUo8CT5l
なるほど、勉強になります

ちなみに同時代の京一条家
教房ー冬良ー房通ー兼冬ー内基
0105人間七七四年2007/11/21(水) 00:48:40ID:+GSWcD1L
>>104
補足すると、
冬良は教房の弟、房通は房家の子で房冬の弟、兼冬は房通の子、内基は房通の子で兼冬の弟なので、
兼冬・内基兄弟と兼定は父方を通じての従兄弟同士。
今の我々が思う以上に当時としては近しい親戚関係だったのかもしれない。
0106人間七七四年2007/11/25(日) 13:47:09ID:JasMg5nE
最近、中村に引っ越してきたから調べていれば兼定スレがあるとは・・・
ノブヤボ版の曹豹キャラとして愛されてるんだw

宿毛市史に「兼定の最期」として結構くわしく書かれてるよ
ttp://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/014001.html
0107人間七七四年2007/12/01(土) 09:59:35ID:E2fWckai
一条房家かその子房基かどちらかだが
西国の大大名大内義隆の妹を妻にしていた。
二人の間に生まれた子が大内性に復し晴持を名乗った。
大内晴持は大内家の嫡子として義隆に大切に扱われた。

張持の実家土佐一条家の申し入れもあったのかと思われるが
大内家中に藤原氏の氏寺東大寺の所領を横領した一族がいる。
それがほかならぬ大内氏親族で譜代筆頭の陶氏。
大内義隆は陶に命じて東大寺旧領を返還させた。

この頃の大内氏は貿易港博多を支配し、西国10カ国近くを領していた。
これにいずれ大内氏を継ぐ大内晴持の実家土佐一条氏の土佐を加えると
大内氏は丹波路、瀬戸内海、阿波・和泉・摂津路の3方面のどちらからでも
入京を果たせる勢いだった。土佐一条氏の阿波侵攻の動きも
そうしたことが背景にあったのかもしれない。
0108人間七七四年2007/12/02(日) 04:44:50ID:8OuH9uYY
>>107の補足。

晴持の父は、房家の息子で房基の父である房冬。
房冬の正妻は伏見宮玉姫であり、側室が大内義興の娘。
晴持は房基の異母弟。
晴持が死ぬことになる出雲遠征のときは、義母である玉姫も戦勝祈願のため厳島神社を訪ねていたが、
大内方の敗報を聞くと山口へ向かっており、かの地で晴持の死を聞いたものと思われる。

陶氏の東大寺押領は大内氏の政策。
大内氏と東大寺の間では数度の折衝が行われ、陶氏も寺領年貢を送ったり送らなかったりしている。
応仁の乱の上洛の際に、上方の寺社勢力を敵に回したくないときは年貢を送り、
応仁の乱が済んで撤兵すると再び年貢を送らなくなった。
細川氏に内乱が起こり上洛戦の可能性が高まると、再び東大寺と折衝を始めている。
そして上洛戦も終わり尼子氏の対立が激化するといつものように年貢不送。
隆房と義隆(及び相良武任)の対立は晴持の死後に台頭するため、一条氏との関係は不明。
応仁の乱では、一条氏は親細川派であったため、大内氏との関係は良好ではなかった。
一条氏出身の僧尋尊(房家の叔父であり、師匠でもある)は大内氏を憎悪して罵倒している。

土佐一条氏の拠点であった中村には貿易による舶来品(中国製陶器等)が多数出土している。
これらは大内氏と友好関係であった時代に持ち込まれたものと推測されている。
0109人間七七四年2007/12/03(月) 10:00:54ID:WZ4OYzU6
この人は鳥坂峠の戦いで河野の援軍として来た小早川隆景とも戦ってるんだな。
華々しく負けたらしいが…
波乱に満ちた人生で興味深い人物ではあるな。
0110人間七七四年2007/12/08(土) 08:30:35ID:L45NnBgP
大内義隆と陶隆房の対立については表面化したのが1541年の出雲遠征敗退だったが
それ以前にも主従の対立関係があったかあるいは
陶隆房氏への何らかの処罰さえ下されていたとも考えられ得る。

理由は応仁の乱以降顕著となる傭兵を用いた戦が増えたことと
日本全体的に人材フローの流動性がさらに増したことだろう。
戦国大名は金銀鉱山の開発や港や主要河川の掌握に懸命になった。
それらの軍資金が有能な人材の確保に役立った。

応仁の乱後はご一門やご親族集がお殿様の藩屏として
評定の場でも戦陣でも主君を取り囲んで数の力で押し切るという時代では無くなっていた。
まったく主家とは縁もゆかりもない他家の出身者や場合によっては
どこの馬の骨と家中で揶揄中傷を浴びる者でさえ軍師の地位や評定衆の列に加わることを許された。
0111人間七七四年2007/12/08(土) 09:02:13ID:L45NnBgP
おそらく晴持を嫡子として遇した大内義隆は摂関一条家の名流を
大内家時代当主として本気で据える意思があったのだろう。

明治の世になってから井上馨や桂太郎といった毛利家親族が
首相の座についたがそれは山口県出身者である総理大臣のリストの
ほんの一部に過ぎない。中世毛利家も飛躍のためには他家出身者をどんどん登用した。

摂関家の血筋を次期当主の座に据えた例としては美濃斉藤家などが知られている。
また日野家出身で八幡太郎義家の血を引く開祖親鸞以来
本願寺座主は代々日野家猶子であったが
戦国期にはとうとう摂関家とも直接結びつくようになった。
それほど一向宗の政治的権力は時代を経るごとに拡大していた。
0112人間七七四年2007/12/08(土) 09:21:13ID:L45NnBgP
この当時世界的に有名だった奴隷市場といえばイスタンブールやエジプトの戦奴市場。
それらの市場で有能性を評価されたトルコ傭兵や東欧出身者や
欧州の皇帝家・国王家で常用されたドイツ傭兵等が代表的なものだった。
彼らの中には有能性を認められついには一方面の師団長的役割を任されたり
あるいは地方領主・君主の座にまで登りつめた者もいる。

本願寺最盛期を現出した顕如の場合、妻の三条氏を通じて
管領細川晴元、六角氏、武田信玄とも姻戚関係だった。

いざとなれば一向一揆の力を借りることも戦国大名は辞さなかったし、
三河一向一揆で名立たる徳川の重臣が一向一揆側に与したことを見ても
百、千単位で軍編成を組める傭兵のほうが逆に
土地と縛り付けられた国人衆、同朋衆、親族より使いやすかった。
大内義隆はそのような体制に家中の変質を進めていたのではないだろうか?
0113人間七七四年2007/12/08(土) 11:03:36ID:Q1NrDzzG
氏真公は治世の名君、乱世の凡君だが
この人の場合は典型的な暗君だな
0114人間七七四年2007/12/08(土) 21:45:40ID:ehMr4Yo+
数少ない補佐役・土居宗珊を手打ちにしてる所とかは救いがたい。
0115人間七七四年2007/12/11(火) 14:51:45ID:D3Rn+jf4
で、兼定様が主人公の「兼定の野望 四国風雲録」の発売マダー?
0116人間七七四年2007/12/11(火) 18:26:06ID:iTiWZveZ
あげまん
0117人間七七四年2007/12/11(火) 18:30:47ID:inmXsOMy
>>115
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm1103049
でがまんしとけ
0118人間七七四年2007/12/14(金) 08:06:31ID:dZDUB2DK
あげ
0119人間七七四年2007/12/21(金) 10:28:08ID:N+M4g0RJ
一条検定
0120人間七七四年2007/12/21(金) 11:18:58ID:sl37jLxC
>>119
不人気の伊予かん
0121人間七七四年2008/01/03(木) 21:25:37ID:OVVwvSgp
地元にこんなアホ大名がいたってマジ悲惨だね
0122人間七七四年2008/01/06(日) 17:33:05ID:JRGadKpd
兼定公は地元じゃ名君として神社にも祭られてるんだけどね。
某ゲームの影響力はすごいわ。
0123人間七七四年2008/01/06(日) 18:49:56ID:W4fydSBV
まぁ正直、町おこしの一環って感じでしかないけどね……。
0124人間七七四年2008/01/13(日) 13:28:49ID:5SFQMCpJ
いや、なんで一条が雑魚に思われてるのかわからん。
吉良みたいなもんか
0125人間七七四年2008/01/15(火) 13:38:43ID:RtnNsY7x
おらが国の殿様ならどんなクズでも美化されるからな
0126人間七七四年2008/01/15(火) 21:33:04ID:hhC0yKaC
それはあるが、そればかりじゃない。
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