【暗君】一条兼定【暗君】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/21(水) 17:34:36ID:twhAGXxP0105人間七七四年
2007/11/21(水) 00:48:40ID:+GSWcD1L補足すると、
冬良は教房の弟、房通は房家の子で房冬の弟、兼冬は房通の子、内基は房通の子で兼冬の弟なので、
兼冬・内基兄弟と兼定は父方を通じての従兄弟同士。
今の我々が思う以上に当時としては近しい親戚関係だったのかもしれない。
0106人間七七四年
2007/11/25(日) 13:47:09ID:JasMg5nEノブヤボ版の曹豹キャラとして愛されてるんだw
宿毛市史に「兼定の最期」として結構くわしく書かれてるよ
ttp://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/014001.html
0107人間七七四年
2007/12/01(土) 09:59:35ID:E2fWckai西国の大大名大内義隆の妹を妻にしていた。
二人の間に生まれた子が大内性に復し晴持を名乗った。
大内晴持は大内家の嫡子として義隆に大切に扱われた。
張持の実家土佐一条家の申し入れもあったのかと思われるが
大内家中に藤原氏の氏寺東大寺の所領を横領した一族がいる。
それがほかならぬ大内氏親族で譜代筆頭の陶氏。
大内義隆は陶に命じて東大寺旧領を返還させた。
この頃の大内氏は貿易港博多を支配し、西国10カ国近くを領していた。
これにいずれ大内氏を継ぐ大内晴持の実家土佐一条氏の土佐を加えると
大内氏は丹波路、瀬戸内海、阿波・和泉・摂津路の3方面のどちらからでも
入京を果たせる勢いだった。土佐一条氏の阿波侵攻の動きも
そうしたことが背景にあったのかもしれない。
0108人間七七四年
2007/12/02(日) 04:44:50ID:8OuH9uYY晴持の父は、房家の息子で房基の父である房冬。
房冬の正妻は伏見宮玉姫であり、側室が大内義興の娘。
晴持は房基の異母弟。
晴持が死ぬことになる出雲遠征のときは、義母である玉姫も戦勝祈願のため厳島神社を訪ねていたが、
大内方の敗報を聞くと山口へ向かっており、かの地で晴持の死を聞いたものと思われる。
陶氏の東大寺押領は大内氏の政策。
大内氏と東大寺の間では数度の折衝が行われ、陶氏も寺領年貢を送ったり送らなかったりしている。
応仁の乱の上洛の際に、上方の寺社勢力を敵に回したくないときは年貢を送り、
応仁の乱が済んで撤兵すると再び年貢を送らなくなった。
細川氏に内乱が起こり上洛戦の可能性が高まると、再び東大寺と折衝を始めている。
そして上洛戦も終わり尼子氏の対立が激化するといつものように年貢不送。
隆房と義隆(及び相良武任)の対立は晴持の死後に台頭するため、一条氏との関係は不明。
応仁の乱では、一条氏は親細川派であったため、大内氏との関係は良好ではなかった。
一条氏出身の僧尋尊(房家の叔父であり、師匠でもある)は大内氏を憎悪して罵倒している。
土佐一条氏の拠点であった中村には貿易による舶来品(中国製陶器等)が多数出土している。
これらは大内氏と友好関係であった時代に持ち込まれたものと推測されている。
0109人間七七四年
2007/12/03(月) 10:00:54ID:WZ4OYzU6華々しく負けたらしいが…
波乱に満ちた人生で興味深い人物ではあるな。
0110人間七七四年
2007/12/08(土) 08:30:35ID:L45NnBgPそれ以前にも主従の対立関係があったかあるいは
陶隆房氏への何らかの処罰さえ下されていたとも考えられ得る。
理由は応仁の乱以降顕著となる傭兵を用いた戦が増えたことと
日本全体的に人材フローの流動性がさらに増したことだろう。
戦国大名は金銀鉱山の開発や港や主要河川の掌握に懸命になった。
それらの軍資金が有能な人材の確保に役立った。
応仁の乱後はご一門やご親族集がお殿様の藩屏として
評定の場でも戦陣でも主君を取り囲んで数の力で押し切るという時代では無くなっていた。
まったく主家とは縁もゆかりもない他家の出身者や場合によっては
どこの馬の骨と家中で揶揄中傷を浴びる者でさえ軍師の地位や評定衆の列に加わることを許された。
0111人間七七四年
2007/12/08(土) 09:02:13ID:L45NnBgP大内家時代当主として本気で据える意思があったのだろう。
明治の世になってから井上馨や桂太郎といった毛利家親族が
首相の座についたがそれは山口県出身者である総理大臣のリストの
ほんの一部に過ぎない。中世毛利家も飛躍のためには他家出身者をどんどん登用した。
摂関家の血筋を次期当主の座に据えた例としては美濃斉藤家などが知られている。
また日野家出身で八幡太郎義家の血を引く開祖親鸞以来
本願寺座主は代々日野家猶子であったが
戦国期にはとうとう摂関家とも直接結びつくようになった。
それほど一向宗の政治的権力は時代を経るごとに拡大していた。
0112人間七七四年
2007/12/08(土) 09:21:13ID:L45NnBgPそれらの市場で有能性を評価されたトルコ傭兵や東欧出身者や
欧州の皇帝家・国王家で常用されたドイツ傭兵等が代表的なものだった。
彼らの中には有能性を認められついには一方面の師団長的役割を任されたり
あるいは地方領主・君主の座にまで登りつめた者もいる。
本願寺最盛期を現出した顕如の場合、妻の三条氏を通じて
管領細川晴元、六角氏、武田信玄とも姻戚関係だった。
いざとなれば一向一揆の力を借りることも戦国大名は辞さなかったし、
三河一向一揆で名立たる徳川の重臣が一向一揆側に与したことを見ても
百、千単位で軍編成を組める傭兵のほうが逆に
土地と縛り付けられた国人衆、同朋衆、親族より使いやすかった。
大内義隆はそのような体制に家中の変質を進めていたのではないだろうか?
0113人間七七四年
2007/12/08(土) 11:03:36ID:Q1NrDzzGこの人の場合は典型的な暗君だな
0114人間七七四年
2007/12/08(土) 21:45:40ID:ehMr4Yo+0115人間七七四年
2007/12/11(火) 14:51:45ID:D3Rn+jf40116人間七七四年
2007/12/11(火) 18:26:06ID:iTiWZveZ0117人間七七四年
2007/12/11(火) 18:30:47ID:inmXsOMyttp://www.nicovideo.jp/watch/sm1103049
でがまんしとけ
0118人間七七四年
2007/12/14(金) 08:06:31ID:dZDUB2DK0119人間七七四年
2007/12/21(金) 10:28:08ID:N+M4g0RJ0121人間七七四年
2008/01/03(木) 21:25:37ID:OVVwvSgp0122人間七七四年
2008/01/06(日) 17:33:05ID:JRGadKpd某ゲームの影響力はすごいわ。
0123人間七七四年
2008/01/06(日) 18:49:56ID:W4fydSBV0124人間七七四年
2008/01/13(日) 13:28:49ID:5SFQMCpJ吉良みたいなもんか
0125人間七七四年
2008/01/15(火) 13:38:43ID:RtnNsY7x0126人間七七四年
2008/01/15(火) 21:33:04ID:hhC0yKaC0127人間七七四年
2008/01/15(火) 21:46:46ID:aKpHeCwY元親にしてやられて、その元親も信長秀吉には小物扱いと
順繰りにスケールダウンしちゃったというか。
0128人間七七四年
2008/01/16(水) 00:38:07ID:ZyzqP+OE兼定はけっこう足掻いたと思うんだがな
0129人間七七四年
2008/01/16(水) 09:40:35ID:vUF005ZP0130人間七七四年
2008/01/16(水) 12:54:29ID:x8IVTQZ3でも実態より低評価なのは禿同意>土佐一条家
良質な史料がないのが拍車をかけているような気がする。
0131人間七七四年
2008/01/16(水) 13:54:23ID:otyaH3g6結局、公家なんです珍しいでしょ?が最初に来ちゃう辺り。
0132人間七七四年
2008/01/19(土) 14:20:19ID:/DZvaMxs0133人間七七四年
2008/01/19(土) 15:57:56ID:Vfa8xoXWしかし山内は持ち上げなかったんだね
0134人間七七四年
2008/01/19(土) 18:54:47ID:Wivv2mTa家格が違いすぎるから、自分の統治が面倒になるだけだったんじゃ?
後、武家としては、一応守護の細川絡みでいろいろ難しいだろうし。
0135人間七七四年
2008/01/30(水) 10:15:50ID:iFhJgvwo0136人間七七四年
2008/02/10(日) 00:06:50ID:fvj/idrF0137人間七七四年
2008/02/10(日) 01:54:34ID:hq5R5giz0138人間七七四年
2008/02/10(日) 13:05:04ID:xCASxVlc素人でも読める程度でお願いします。
0139人間七七四年
2008/02/10(日) 13:21:11ID:5eiK8xjA『中村市史』 これも完売。図書館で借りましょう
後はいくつか論文があるが、イパーソ向けを書けと言うことなので割愛。
0140人間七七四年
2008/02/10(日) 13:55:44ID:xCASxVlc探してみます。
0141人間七七四年
2008/02/10(日) 15:05:17ID:hq5R5giz論文も気になるな。
そっちも紹介してもらえるとうれしい
>>140
『長我宗部元親のすべて』(新人物往来社)にも一条氏について独立して一章立てられている
分量は少ないけど・・・
0142人間七七四年
2008/02/10(日) 18:46:18ID:5eiK8xjA土佐一条氏に関する論文自体が非常に数が少ないと思うが
見たことがあるのは
・『土佐一条家年表』小松泰(朝倉慶景編)
・「天正初期の土佐一条家」上・中 朝倉慶景(『土佐史談』166,167号)
・「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」野澤隆一(『國學院雑誌』)
これだけ。
上二つは入手も難しいと思う。国立国会図書館からコピーするしかないかな。
>>141が高知なら地元図書館で持ってる可能性もあるが。
0144人間七七四年
2008/02/11(月) 12:38:10ID:du4b+/uF高知の県立図書館でもやってくれるかも知れないから取りあえず問い合わせて見なされ。
0145人間七七四年
2008/02/25(月) 10:57:53ID:BEfkS91K0146人間七七四年
2008/02/28(木) 21:51:37ID:YS8IA8yi0147人間七七四年
2008/02/29(金) 00:32:54ID:2hPFrhv/0148人間七七四年
2008/02/29(金) 04:19:44ID:bRgnAd7T俺は関東足利氏を将軍にしたことはあるが、
一条公で四国を併呑したことがない。
結局、足利晴氏の場合、
命令回数が1ターンの中で2回じゃん。
それに比べて、一条公運の場合、1回のみ。。。
守備よく西園寺や長曽我部を滅ぼしても、
大友や毛利など、九州、本州の沿岸部の大名が
巨大化し過ぎて、とてもではないが、戦えない。
一条公だけは将軍にするの、まず無理。
断言できるよ。
0149人間七七四年
2008/03/15(土) 11:25:28ID:9DPfkI3M0150人間七七四年
2008/03/15(土) 19:33:45ID:mSCpQ60i0151人間七七四年
2008/03/15(土) 19:38:04ID:7+pAUKME勝者側にいいよう改変されているんだ、悪い奴らだ!て言いたいだけちゃうんかと。
0152人間七七四年
2008/03/16(日) 00:28:53ID:+DktYbYk中村での権力確立がもっとはっきりすればなと思うが
逆説的に、なぜ権力が崩壊したかも分かるはず
0153人間七七四年
2008/03/27(木) 23:32:52ID:QvfsWK25いいところがあったとは記録に残せないでしょ。
もっとも、長宗我部が滅ぼせた理由はあるはずだけどな。
いくら元親が命じたところで、一条に非がなければ、武将が動いたとは思えない。
有力なところだと、一条本家から独立しようとしていたために、
一条本家からの要請で討伐しただけだから、大義名分がしっかりしていたとも言うようだが。
0154人間七七四年
2008/04/14(月) 16:32:33ID:OkGsaxo/0155人間七七四年
2008/04/14(月) 17:05:18ID:tSZpvqwAいろいろ要素はあれどまぁ兼定<元親<秀吉だったという。
0156人間七七四年
2008/04/30(水) 16:01:25ID:tocvD0PN0157人間七七四年
2008/05/08(木) 11:28:40ID:guNAUvIy0158人間七七四年
2008/05/08(木) 12:28:40ID:DLQ1ZVMY・・・ある意味悲劇の武将かも。
0159人間七七四年
2008/05/18(日) 18:28:32ID:1V2jQOFv鎌倉将軍として関東の諸将の上に君臨していたわけだから、
もともと一条家には武人の血が流れていたともいえる。
0160人間七七四年
2008/05/18(日) 19:30:28ID:CZr8LvsM初代一条家当主の弟。
血縁関係なし。
0162人間七七四年
2008/05/19(月) 01:56:23ID:tAZ6heZO九条頼経が将軍になったのも、ここらへんの血縁があって、頼朝の遠縁というのも
理由の一つだったような
0164人間七七四年
2008/05/19(月) 22:56:00ID:CVxvn5pOその辺の定義は結構曖昧。
この前、偉人の子孫紹介する番組があったが、結構兄弟の子孫が続出してた。
その中には、フランシスコ・ザビエルの兄の子孫なんてのもいたな。
でも、ザビエルを先祖扱いしていた。
0165人間七七四年
2008/05/21(水) 21:29:38ID:GhkH67Klゆえに守護といえども介入できない一種の不輸不入の権を有していた。
このように荘園としての特別の格式の高さと
交易の要衝という大きな利点を備えていたため、
幡多荘の存在は一条家からは特別に重要視されていた。
0166人間七七四年
2008/06/09(月) 15:51:16ID:6XgdX/Qx0167人間七七四年
2008/06/25(水) 13:43:18ID:WHv+6n9C0168人間七七四年
2008/07/10(木) 14:58:18ID:e7DqdKXG0169人間七七四年
2008/07/12(土) 02:37:25ID:a3CvZFpl海に出された時点でもうのたれじねってことで
本当に流されるがままに漂流してたんでしょうか?
0170人間七七四年
2008/07/12(土) 17:58:40ID:1LXiI71w二人目の正室が大伴宗麟の次女だったので
最初から豊後が逃亡先だった。
0171人間七七四年
2008/07/12(土) 17:59:30ID:1LXiI71w大伴じゃなくて大友 orz
0172人間七七四年
2008/07/13(日) 09:14:28ID:PZ1guLgP中村占領時に、荘園の強奪を行ったと言う記述も特にないから、
内政経由で、一条家に収益は渡るようになったんじゃないか?
もちろん、結構な部分を長宗我部が持って行きはしただろうが。
兼定のままならまったく来なくなったかもしれない収入が、少しでも入ってくるなら御の字だろう。
0173人間七七四年
2008/07/16(水) 23:30:25ID:YD1RF5mB土佐で長宗我部が台頭
0174人間七七四年
2008/07/22(火) 23:38:28ID:J9RGDF5R今でも地元で愛されているほどの名君だったんですね。
0175人間七七四年
2008/07/23(水) 02:09:10ID:WXjkF/T00176人間七七四年
2008/08/08(金) 15:03:52ID:orGxZg1g0177人間七七四年
2008/08/16(土) 06:30:39ID:dz7DV8/zttp://www.nicovideo.jp/watch/sm3912774
この一条たんと天下取れば良いと思うよ
0178人間七七四年
2008/08/18(月) 21:08:43ID:qIi6HfnIhttp://www.nicovideo.jp/watch/sm4258195
0180人間七七四年
2008/09/19(金) 14:15:33ID:iILJtECe0181人間七七四年
2008/10/03(金) 14:38:04ID:p8VSDVvp0182人間七七四年
2008/10/18(土) 14:24:52ID:s5z/JAhu0183人間七七四年
2008/11/04(火) 14:27:05ID:7fvnuZ/O0184人間七七四年
2008/11/14(金) 22:41:53ID:MiKNyB4F0185人間七七四年
2008/11/15(土) 00:06:27ID:/YtuQZoP0186人間七七四年
2008/11/23(日) 20:22:50ID:wa5UQRHi0187人間七七四年
2008/11/24(月) 17:46:38ID:C7TT9RR9そういうことではないと思うんだ
0188人間七七四年
2008/12/08(月) 15:26:34ID:q2ZBxYph0189人間七七四年
2008/12/24(水) 15:19:31ID:QY1CP5jn0190人間七七四年
2009/01/08(木) 15:03:25ID:3Tu2Yu6E0191人間七七四年
2009/01/24(土) 15:05:25ID:wqS1tIyr0192人間七七四年
2009/02/09(月) 16:02:45ID:Hw1U43zG0193人間七七四年
2009/02/21(土) 15:44:47ID:QOhRosMt0194人間七七四年
2009/02/23(月) 20:52:33ID:PXi83cBg血筋には申し分無く、兼定も関白になれる可能性を持っていた。
0195人間七七四年
2009/03/10(火) 15:40:42ID:ZXdRiKbF0196人間七七四年
2009/03/30(月) 15:34:40ID:sAVHDfA10197人間七七四年
2009/04/14(火) 14:45:41ID:x7TvULMJ0198人間七七四年
2009/04/28(火) 13:38:15ID:ANy+kRkQ0199人間七七四年
2009/05/14(木) 15:57:10ID:2xtTCKom0200人間七七四年
2009/05/30(土) 11:38:36ID:hTyjFiRW0201人間七七四年
2009/06/13(土) 14:31:37ID:4e5W0Coi0202人間七七四年
2009/06/25(木) 15:44:46ID:tZyHKSFC0203人間七七四年
2009/07/02(木) 03:08:55ID:yYwvaUDV中央では長宗我部=一条氏の家臣扱いだったらしいね
0204人間七七四年
2009/07/02(木) 03:26:10ID:38aE4AcM長宗我部が戸次川の戦いの敗戦の責任を問われなかったのも、
大阪の陣のとき大阪に入城した盛親の扱いが低かったのも、
豊臣家においては長宗我部は一条の家臣であり、豊臣家にとって陪臣である、
と言う認識があったせいだというね。
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