トップページsengoku
1001コメント405KB

何故徳川家康は人気がないのか?

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/06/18(日) 12:33:49ID:PP+InWim
勝ち組に対する僻みか?

関連
【人生の】徳川家康が嫌いな人【負け組】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1088499646/
なぜ信長が戦国大名で一番人気なのか?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150507418/
0724名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:02:20ID:nKGp8vOI
>720
幕府を開く前から、天下の権を握る前から、しぶかったから、それだけで説明するのは
無理だとおもいますよ。
やはり、家康個人の性格、徳川の家風を考えるのが妥当です。

秀吉の元に走って大封を得た人間もいますしたね。
0725名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:02:43ID:nXsUomcx
正史三国志風に秀吉と家康の生活(晩年)を比べるとこんな感じ。
なんか秀吉がどうしようもないなあ。儒教的な生活態度から全く
外れているからな。

秀吉
「民の労苦をよそに一人栄華を極め、聚楽第や伏見城など無用の建築物を
立て、無名の師(大義名分のない戦のこと)を起こして隣国を攻め、
武を穢し(大義名分の無い侵略戦争をしかけること)、しかも負けた。
千利休のような茶坊主を召抱えて政治を任せ、美姫におぼれて
政治をなおざりにした暗君である。このような人物は滅んで当然」

家康
「若い頃から文武に優れ、陣中でも孫子や漢方医学書を手放さなかった。
天下を平定してからも儒教を奨励して学校を建て、民の労苦を考えて
質素な生活に甘んじた。(曹操と生活態度が同じ)
武を養うために老いても鷹狩りを好み、
鉄砲や剣術の訓練を止めなかった。また兵法の訓練のために囲碁将棋
を好み、本因坊算砂・大橋宗桂らを招いて自ら囲碁将棋を楽しみ武を
講じた。(基本的に曹操と同じなので、曹操を真似ていたのかもしれない)」

家康と曹操は似ているという話は吉川幸次郎も守屋洋も断言しているが、
やっぱりそうだったのかも。
0726名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:04:26ID:Ym9rP2lH
ここは戦国板です
0727名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:07:28ID:1W9XEiQg
>>723
使うところには金を使う。
諸大名を使役するにしても、無駄なことには使わない。
家康が諸大名に命じたのは、江戸城の建築や国内の要衝の城つくりで
あって、単に金出させて無駄なことをしていたわけではない。
為政者として必要なのは、そういう感覚だよ。
むしろ、秀吉のように個人的な感情と政治を直結させているようななの
は、どこの国でも暗君と呼ばれる存在だ。
0728凍傷大権現 (724も2006/07/30(日) 20:12:41ID:nKGp8vOI
その暗君より、人気がないのは何故だろう。というのがスレの趣旨だろ。
信長、秀吉を悪くいっても人気は上がらない。

ケチといわれるのが嫌なら、倹約家でいいじゃない。東海一のな。
0729名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:13:45ID:1W9XEiQg
>>724
それは、単に家康の統治方法が関が原以前から確立していたと
見るべきだ。家康は、第二勢力を台頭させてしまえば、家が傾
くという考えが早くからあったのだろう。そして、これはべつ
に不思議でもなんでもなく、歴史の鉄則だから誰でも考えたこ
とだ。
幸い三河岡崎衆は、家康型の統治方法に従順だったから、家康
は天下を取る前からそういう型を作り上げていたといっていい。
でなきゃ、天下をとってから急にできるわけもない。
0730名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:15:49ID:1W9XEiQg
>>728
いままでの流れを読んでないだろ。
また書くのもめんどくさいから、1から読んでからレスつけろ。
0731凍傷大権現2006/07/30(日) 20:18:01ID:nKGp8vOI
おやおや、権現さまみたいに大人気ないな。
ネタすれだろ
0732名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:21:28ID:1W9XEiQg
>>731
ああ、単なる荒らしだったかw
0733名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:22:07ID:xJtJKNHF
そもそも秀吉もそんなに人気は無いんじゃない?
世間一般的には
信長>>>>越えられない壁>>>>>秀吉>家康
じゃないか?
0734凍傷大権現2006/07/30(日) 20:27:29ID:nKGp8vOI
反論者を、豊臣厨、荒らしと決めつけて、その先に何があるんだ?
>718のように人を煽る割には、耐性がないな。
0735名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:35:01ID:1W9XEiQg
>>734
お前のは、反論にすらなってないんだよ。
そもそも、反論されたからって、ネタスレだとか言い出したのは、
お前のほうでしょ。
0736名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:38:43ID:xJtJKNHF
>>734
そうだな。
それに
「家康は世間的にはケチと思われてることも人気の無さの一端」
というレスはスレタイに即してるが、
「いや家康はケチじゃないよ」
という反論はスレタイに即してない。
0737凍傷大権現2006/07/30(日) 20:42:47ID:nKGp8vOI
泣くなよ。それからsageろ。本当におかしな奴がくるだろw
嫁と息子を殺されても切れなかった公を、援護する人間らしくもない。
0738名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 20:46:20ID:nKGp8vOI
737は735あてね
0739名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 21:17:19ID:+8lA2uHJ
>>736
ケチと言う根拠に異論があるから異論を言っただけなのだが…。
認める部分は認めている。
0740名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 21:29:24ID:1W9XEiQg
>>737
おまいも、揶揄ってないでまともな議論しろやw
ageるのは、ageといた方が客がつくからだよ。
下げりゃいいってもんじゃないからな。
0741名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/30(日) 22:00:02ID:FuzZrovq
そろそろ喧嘩止めれ
0742凍傷大権現2006/07/30(日) 22:10:01ID:nKGp8vOI
( ´┏┓`) まったくだ。
0743名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 00:24:06ID:/tbeMWiK
伊達政宗ってなんで人気あるの?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149993674/

こんなスレがあった。
政宗は人気あるの?
家康は本当に人気ないのか?
人気の面では政宗>家康と言えるのか?
何をもって人気がある・ないを言ってるのか?
なんらかの客観的データがあるのか?
そもそも前提からして怪しくないか?
0744名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 00:50:40ID:UsfwHhgZ
・伏見城の屋敷が火事 家康「まだ使える材木はないか。あるなら流用せよ。」
・部下がろうそくを消し忘れれば怒る。
・穴を繕った足袋を履く。
>>709の鼻紙
・蒲生氏郷に「家康殿は名実共に供えたお人じゃが、天性のケチじゃから、天下人
 たる器じゃなかろう」と言われる。
氏郷の言うケチはセコイの意味が強いんじゃないかな。家康に人間味を持たせる、
ほほえましいエピソードであるが、大名、天下人であるという事も考え合わせると
ケチと言われても仕方が無い。
だから好き、だから嫌いで意見が分かれる所でもある。
0745名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 01:03:12ID:lB7il5BL
譜代の家臣には禄は少ないけどそのかわり老中とか重職につける権利を与えてる。
功あるものには禄を能あるものには権をってのが徳川の人事方針。
いちがいにケチとは言いがたいと思う。(外様は普請とかしょっちゅう押し付けられるは
家格とかもたまにかわってしまうと、江戸屋敷の門とかを変えなければならなかったらしいから
経済的にいっぱいいっぱいな状態になる)
権力と領主としての実力が大きくなりすぎないようにバランスをとってたようだ。
まあ結局は徳川家安泰しか考えてない部分もあるだろうけどね。
0746名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 01:24:08ID:UsfwHhgZ
>>743
天下人家康だから、秀吉信長と比べての意味だと思ってた。歴史上の人物の中では
かなりあると思うよ。
0747名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 01:38:49ID:lMyjfW9j
武士にとって倹約は美徳だと思うが、特に上の
者がそのように心掛けることは誉められこそす
れ非難されるものではない。
非難している人に聞くが、浪費をする領主がい
い領主とでも言うのですか?
0748名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 02:02:19ID:X0TBmxdz
>>706
>>707
すまん亀レスだが、数寄者ってのは芸術を好む者のことてことを言いたかった。
医学は芸術では無いし、料理を極めるならともかくグルメも別に芸術ではない。
古歌は芸術だが、家康がとくにいい歌を詠んだとも聞かない。
将棋は知的スポーツ。
馬術やら剣術もスポーツ。
趣味者ということには当たると思うが別に数寄とは思わない。

別に俺は家康がセコイとか思ってはいないし、まして大嫌いでもないので誤解無いように。
0749名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 03:25:05ID:4GweqWkW
>>747
消費社会の活性化を促すためにどっかの尾張徳川家の当主は自分から浪費してみせたけどな。

まあ、当時の社会のありようでは、大失敗したけど。
0750名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 05:13:42ID:lMyjfW9j
宗春を引き合いに出すのもこの場合ちょっと違わ
ないか?彼は、経済政策として行なっていた訳で
多くの場合は、なにも考えずにただ己の欲望を満
たすためだけのものだと思うが。
0751名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 08:23:56ID:PPHxx9As
 \\ 脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!//
   \\ 脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞!脱糞! 脱糞!//
       _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.  
     ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡 
     (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡  
    _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.     _  ∩.
  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡  ( ゚∀゚)彡
  (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡.   (  ⊂彡.
0752名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 08:36:02ID:p5Zqitom
ちょいと見なかったら大分進んでるな。

>>653
幕末になると不平等条約を飲まされるまでに海外と力の差が開いた事、
んで日本がそこまで発展したかは分からんが、徳川の鎖国政策は確実に進歩を停滞させた、
そういう徳川幕府が上手くやれなかった部分は存在してるって事だ。

>>652
半分ってのは年月じゃなくて250年間の功罪って事、
そんで吉宗は禁を解いてはいない、あくまで緩和しただけ。
そして青木昆陽とか幕府の要人だし、海外情報が盛んに民間に流出していた事にはならない上に、
オランダ風説書みたいな幕府にしか手に入らない情報も存在している。

>>673
比較対照の家康も全国統一時の時ですけど。
0753名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 09:45:08ID:9uBJVOTC
↑こういうレスの仕方するヤツってキモイな
どれかひとつに絞れよ
0754名無しの雑兵2006/07/31(月) 10:39:03ID:ornnGNaX
752
全国政権時での比較なら、秀吉は近畿限定、家康は関東、東海道、中仙道、奥州等と整備範囲が全く異なります。
0755名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 15:14:33ID:p5Zqitom
>>754
そういう分け方でいいなら秀吉も大坂〜名護屋間の山陽・山陰道、
紀州道・大和道と整備していますが?
0756名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 15:20:16ID:HoS0P7wS
>>752
リスクの違いだな。徳川幕府は外国からの干渉を受けることで一度
収まった乱世が再びおこり徳川の世が乱れることを恐れて鎖国した。

一方君はそういうリスクを承知の上で(だよね?)外交を続けて技術
格差をなくしておくべきだったと考える。明治維新とかの事を例に
して。

俺の意見としては、外交をしていても資源に乏しい日本は技術革新
を起こせなかったと思う。現代日本が資源に乏しいのに世界第二位
の経済力を誇ることから勘違いする人が多いんだけど、今のような
加工貿易をするには当時植民地が必要不可欠だった。そして、日本
の外征力は秀吉が示したとおり。

そういう日本の限界を考えると徳川幕府があの時鎖国したのはbest
ではないがbetterな選択だったと思う。
0757名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 15:22:37ID:ornnGNaX
それはどの程度の?
伝馬制や宿場町、一里塚が整備されているの?
0758名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 15:54:09ID:p5Zqitom
>>757
一塚塚は秀吉時代から全国的に配備され始めてる、
少なくとも大坂〜名護屋間では一里塚や駅伝制を施行してるね。
0759名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 17:56:15ID:UsfwHhgZ
>>756
>俺の意見としては、外交をしていても資源に乏しい日本は技術革新を起こせなかったと思う。
事の善悪は別として、戦国時代に発達した兵器、特に火器、傭兵、絹織物、陶磁器、茶、金銀の
産出量も多く、交易をしていれば新たな産業が起こる可能性もあるだろう。無理とは断定できない
と思うが。
07607592006/07/31(月) 18:03:51ID:UsfwHhgZ
あ、それに産業革命起こしたのは日本より人口少ないイギリスだしさ。
0761名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 18:32:59ID:ZJzS2slZ
>>759
そういう「可能性」を前提にして江戸時代の評価を下すなよ。
少なくとも、戦国や織豊時代の延長であれば、産業革命に匹敵するような
現象が起こるという蓋然性を証明してくれ。
0762名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 18:35:17ID:+toDuWyp
脱糞しすぎ。スレタイ百回読め。
0763名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 18:56:58ID:/xTqnEe6
>>760
英国は当時最強の海軍力を資本に海外植民地を持っていた。すなわち、
加工資源と加工品を売りさばく市場を持っていたということ。日本には
それがない。近隣は基本日本より格上の鎖国主義(東洋思想中のね)だし。

あと、欧州と日本、というか東洋では根底に流れる思想がぜんぜん違う
から。科学思想とか法制とか社会を形作るものが全く異なる以上、産業
の発達の可能性は肯定できてもヨーロッパ的な合理的で大規模なものに
なるとは思えない。

それこそ明治期のようにヨーロッパ思想を直輸入でもしない限りね。
0764名無しの雑兵2006/07/31(月) 18:58:34ID:CHHBM7iN
>>758
西国街道が整備されたのは寛永年間です
0765名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 19:17:05ID:5cBjtOBm
旧体制に風穴あけた側の家康が体制の象徴みたいに
言われてることに違和感を感じるんだが
0766名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 19:24:47ID:T54fvBAs
>>763
ポルトガルやオランダも日本に来てた訳だし逆も可能では、伊達の例もあるし。
アジアも完全に植民地化されていないでしょ。山田長正や日本人街があるなど。
確かにここまで来ると脱線かな。

http://www.m-network.com/sengoku/senrank.html
ここだとやっぱり家康の人気は低いね。でも秀吉よりは上だね。
0767名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 19:26:34ID:T54fvBAs
やべっ直リンしちゃった。別ルートでよろ。
0768名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 19:28:57ID:wfvJKr76
>>764 秀吉は朝鮮を攻める準備として名護屋〜大阪間を整備してますが。
0769名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 20:34:05ID:RCeMqxwj
>>766
得票数は2004年4月3日0時現在(笑)
0770名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 20:44:34ID:T54fvBAs
>>769
ランキングは投票数が重要だと思ったんでね。そんなに内容がおかしいか?
もっと良い所を教えてくださいな。
0771名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 20:50:29ID:8s5s4bvP
>>766
あのさ、>>761でも言われてるけど、「なかった」歴史を検証するなら
もうすこし「可能性」と「実現性」をしめしてよ。「逆もありうる」と
いうならそのビジョンを示して。
「どのようなことが」
「どのような事実から」
「どのようになると推察できるのか」
これがないと議論にならないしレスしようがないし話が発展しない。




0772名無しの雑兵2006/07/31(月) 21:01:07ID:CHHBM7iN
>>768
寛永年間の整備は寛永年間に道幅が二間半に統一され、三十六丁ごとに一里塚が道の両側に設けられた。
よって朝鮮出兵時の整備はそれ以前、恒久的な維持を考慮しないものであろう。
0773名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 21:12:19ID:T54fvBAs
>>771
流れを見ると分かると思うが、「可能性」の話を前提とすると荒れるんだよね。
俺は只の戦国バカで、議論はしたいが喧嘩はしたくない。スレの主旨からもずれる
と思われるし。
0774名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/31(月) 22:31:44ID:8s5s4bvP
>>773
え? え? 先に「可能性」で俺にレスしたのID見る限り君だよね?
「ポルトガルや〜逆も可能では」って。

んで、「中身のある発現してよ」って言ったら「可能性で話したくない」
って何よソレ。なんかナンパしてきた奴が「俺女に興味ないんだよねー」
とか言ってるような不条理を感じるんだけどwww

とりあえず会話する気ないならアンカーつけずに垂れ流してろといっておく。
0775名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 03:40:45ID:se+mZimj
>>774
>>774
意見は理に適っていて面白かったから、つい当時の日本にも産業革命は可能では?
と思って食いついた。話はしたかったが、>761> 762のレスが付いて過去を振り返り反省した。

>アンカーつけずに垂れ流してろといっておく。
そうする。
0776名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 14:16:24ID:TRmXKAxP
>>772
それは秀吉の後により整備されただけの話、秀吉の街道整備を否定できるもんじゃないし、
寛永年間に整備されたのは1630年頃だぞ、とっくの昔に滅んだ豊臣が恒久的に維持できる訳ない。
0777名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 14:19:47ID:Qho74w/C
ラッキーセブン
0778名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 14:21:46ID:ELeo6Yq3
(●ω・`)儂の777を…
0779名無しの雑兵2006/08/01(火) 18:41:04ID:0Df7STFJ
>>776
その秀吉の整備は「今度、軍隊が通るのでこれこれの月日までに補修する事」
という意味であくまで一時的なもの。

それに対し家康や幕府が整備させたのは「こういう整備をしそれを維持し続ける事」
という持続的なものである。

秀吉のはあくまで軍隊移動用に整備したというものであることを忘れてはならない。
0780名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 19:59:52ID:SfGy3I8E
>>752>>759
とりあえず交易という観点からいえば交易対象が
いずれも問題を抱えていたのだが・・。

 イスパニアポルトガルは衰退基調に入っておりカソリックの強引な布教
の齎したトラブルから日も浅い。
なにより秀吉の朝鮮出兵にイスパニアの果たした役割(当然ご存知だよね)
を知っておれば、こことの交易など問題外
 イングランドは史実で見られるように複合的要因によりインド経営に専念する
方向に向かいこれまた問題外
 明は秀吉の砲艦外交の失敗とその後の衰亡からして対象外だし
清朝については外交的に難しい問題を抱えており(当然ご存知だよね)
こことの積極交易も問題外
 他にもいろいろあろうが日本が国として積極交易を継続的に行なえる
国などオランダ以外に見受けられない。
 それと内政重視の幕府の施策とがあいまって
あのような外交方針になっているんだが、それを覆す要因が見当たらない。

 なんか決着ついたのかよー知らんが一言
>>ポルトガルやオランダも日本に来てたので逆も可能
ってのは不可能と断言しておく
彼らは独力で日本にたどり着いたわけではなくイスラム=華僑といった
海洋アジアの交易ルートと知識に頼っているところ大であり
彼らとの接触も頻繁であった。
そして積極的に交易ルートに介入したい切なる動機もあった。
(つまり香料ね。)
逆に日本の場合そういった切実な動機も無い。
せめて東南アジアへの日本人入植拠点作成を国策政治的意思で
行なう動機でもあれば話は別だが、そのようなものは存在しない。
0781名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 20:10:15ID:SfGy3I8E
>>交易をしていれば新たな産業が起こる可能性もあるだろう。
>>無理とは断定できないと思うが。
日本にとって不運なのかどうか知らんが、産業革命および技術革新が
日本では100%起こりえない。理由を述べろというと、
動機が無い。
イギリスの場合、欧州との交易圏と主食の小麦をやり取りするくらい
バックボーンとなる国外市場があった。
が日本の場合お隣の明(後の清も)海禁自足経営をメインとしており
日本の商業経済を成長させるバックボーン足るべき市場にならない。
日本は重農主義で国内の空き地を開拓して内需拡大して国内市場を
広げる以外の市場拡大手段が失われていた。
上記の消去法からしても交易国を増やすどころか減らす以外の
選択肢は無い。
 このような場合人手不足による効率アップなど不必要


イフということで文句でるかもしれんが
一つだけ手段はあるがな・・

0782名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/01(火) 20:31:21ID:OYymDt1p
地勢的・文化的にイギリスの産業革命を取り入れることが容易だった
欧州ですら、イギリス流の産業国家になれたところは少ない。それが、
日本の場合は極東にあってすら、維新後半世紀たらずにまがりなりに
も産業国家を作りあげた。
これは、明治政府の功績もあるが、徳川幕府がそれを可能とする国民を
作り上げていたことの方がずっと大きい。
例えば、近代的な産業国家を作るには、基盤として国民意識が必要で、
日本人であるという意識が成長していないといけない。でないと、企業
とかですらまともに出来上がらない。維新後、封建体制から統一国家が
それこそ一瞬といってほどに出来上がった。こんなのは、奇跡に近いよ
うな現象だ。
もし、織豊時代が続いていた場合、この現象はなかったろう。海外に出
て行ったとしても、もっとも成功したとして、東洋のイスパニアになる
のがせいぜいだ。個人的な冒険心などで成功しても、それは大航海時代
に成功する属性であって、近代産業国家のものではない。職人の腕がよ
くてすごい工芸品ができても、その職人が機械力を使った大量生産を行
う企業における良質の従業員になれるというわけではなく、それができ
る国民を作ったのは江戸時代だった。
0783名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/02(水) 01:07:26ID:QbErPBB4
>>779
家康の政策が持続的なものなのは単に徳川幕府が続いたから、
秀吉の一里塚や関所撤廃は別に一定期間過ぎたからと言って消えるもんじゃない。
んで家康の五街道制定もあくまで幕府の公用路としての整備だぞ、
駅伝・飛脚が一般業者が営めるようになるのはもっと時代が下ってからだし、
幕府が用意させた宿泊施設もあくまで幕府要人用。
0784名無しの雑兵2006/08/02(水) 06:35:07ID:4kG9pYxx
>>783
宿場を定めたり、(後に)助郷制を定めたのは長期の維持のためです。
第一、秀吉のは戦争準備段階での整備ですが、家康は戦争を決断する前から整備をしています。
後、西国街道に一里塚を設置したのは幕府です。
0785名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/03(木) 10:34:38ID:sfN4+D2U
この前テレビでやってたのでは戦国時代で3位だったから人気はあるんだろ
0786名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/03(木) 10:39:07ID:v4F42vIM
>>785
しかしその上位2名が信長・秀吉だったなら、三英傑限定という条件付きではあるが、スレタイは正しいという結論になるな。
0787名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/03(木) 21:28:18ID:RyB/ELLH
>>784
>宿場を定めたり、(後に)助郷制を定めたのは長期の維持のためです。
助郷制が確立したのは1600年代後半、家康が設置したものではないし、
まさに>家康の政策が持続的なものなのは単に徳川幕府が続いたから
の証明のようなもんだよ、そして幕府が設置した宿場っていうのは
本陣・脇本陣・問屋場という幕府御用達のもので、秀吉の交通政策と大きな違いは無い。

>第一、秀吉のは戦争準備段階での整備ですが、家康は戦争を決断する前から整備をしています。
家康には西に豊臣家が存在したから、その違いでしょう。

>後、西国街道に一里塚を設置したのは幕府です。
西国街道には秀吉の設置した青木の一里塚とかが残っていますが?
0788名無しの雑兵2006/08/03(木) 22:17:57ID:KYITA7i7
>>787
だから助郷制には(後に)を付けたのだが

宿場は公的なものだけでなく一般用のものも同時に置かれ、宿場町として成長します。
これは公的な設備が設置されそれを中心に発展していったからこそのものです。

豊臣氏がいた為だけに五街道を整備・維持し続けたと言うのはどうかと

青木の一里塚が榎という点を見るとかなり胡散臭いですな
0789名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 00:35:25ID:M6qAiR4q
>>787
>だから助郷制には(後に)を付けたのだが
1690年代の事を繋げるように書いてたからね、もはや家康とは関係ない年代ですから。

>宿場は公的なものだけでなく一般用のものも同時に置かれ、宿場町として成長します。
それは幕府が任命したんじゃなくて、近辺の住人が勝手に営んでるだけの話、
幕府が任命したのはあくまで本陣・脇本陣・問屋場の3つの公用機関だけ、
それらが経済効果を近辺に与えるという点は秀吉の街道整備でも同じ。

>豊臣氏がいた為だけに五街道を整備・維持し続けたと言うのはどうかと
当初は中山道の整備は甲斐で止めているから豊臣を意識したのは間違い無いし、
その後は(家康が没してから大分後)には西国の街道整備を行ってはいるが、
大井川に橋を掛けるのを禁止してる事から西国自体を警戒してるんだろうね、
秀吉が関東に押し込めたように、徳川は西に胡散臭い大名を押し込めてる。

>青木の一里塚が榎という点を見るとかなり胡散臭いですな
胡散臭いってあんた、一里塚なんて大概は松や榎といった丈夫な木を目印に埋めるもんですが。
0790名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 01:41:32ID:e6/C2Nq2
>>1
家康は十分に人気あるだろ
0791名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 03:15:03ID:wSSpRvRf
3位で十分じゃん
信長・秀吉・家康の3人はずば抜けた人気だよ
4位以下に大差つけてる3位だ

武田だ上杉だ島津だ伊達だと
厨がギャーギャーうるさく騒いでも
一般的人気では家康に遠く及ばない
0792名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 03:45:54ID:OexdvXie
知名度と人気は別だとおもうけどな
0793名無しの雑兵2006/08/04(金) 20:03:19ID:5hTg28MA
>>789
助郷が制度化されたのは1619年と私は聞いてますが?
秀吉が宿場を定めているのは大津から柏原まですからやはり近畿限定かと
それから中山道は甲斐を通りませんよ。
0794名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 23:01:37ID:M6qAiR4q
>>793
>助郷が制度化されたのは1619年と私は聞いてますが?
臨時的に助郷が適用された時はあったが、制度として制定されたのは1690年代に入ってから。

>秀吉が宿場を定めているのは大津から柏原まですからやはり近畿限定かと
大坂〜名護屋間に駅伝制を敷いている、んでそもそも駅は宿舎と一体型なんで実態は
>本陣・脇本陣・問屋場
の機能と大差ない、本陣は御茶屋・御座所みたいなもんだしね。

>それから中山道は甲斐を通りませんよ。
ごめん、甲斐じゃなくて甲府だった。
0795名無しの雑兵2006/08/05(土) 09:14:36ID:XxXW6JOq
>>794
>臨時的に助郷が適用された時はあったが、制度として制定されたのは1690年代に入ってから。
制度化されていないとはいえこれは恒常的に整備維持が行わせていた説明になるのでは

伝馬制は既に戦国時代の中頃からすでに東国大名で広まっていました
注目すべき事は宿舎の恒常的な維持に注目すべきかと
・・・実はそういうものは東海道では「伝馬宿」として北条氏が行ってたようですが・・・

中山道は上野〜信濃を通るルートで甲斐を通るのは甲州街道です。
0796名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/05(土) 10:54:14ID:gPkM67h9
>>795
>制度化されていないとはいえこれは恒常的に整備維持が行わせていた説明になるのでは
ならんよ、それまでは不備が出た場合には臨時的に徴用していただけの話で
そこまで特筆すべき話ではない。

>注目すべき事は宿舎の恒常的な維持に注目すべきかと
その駅伝制を施行していた大名も宿舎を維持していたよ、
武田なんて宿駅のルートは江戸時代のそれとほぼ一致するし、
徳川が特別に宿舎の維持を目指した訳じゃ無い。
それに豊臣の伝馬も命令があって廃れた訳じゃなく、
豊臣に維持する力が無くなったから廃れた。

>中山道は上野〜信濃を通るルートで甲斐を通るのは甲州街道です。
うん、だから甲斐じゃなくて甲府までと訂正した。
0797名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/10(木) 13:55:18ID:NMPy8ISh
ですが?
かと。
ようですが・・・・
0798名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/13(日) 14:57:32ID:18AT48qQ
>>25じゃね?
0799名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/13(日) 19:07:46ID:r/jvnHQj
>>798
そのことは、秀吉厨と言う存在が証明している
ようなものだな。
0800名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/14(月) 01:15:47ID:5RSa8R3B
江戸時代の発展がすべて家康の貢献によると思ってる家康厨って面白いね。
0801名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/14(月) 07:25:39ID:Hs28zfof
自分が働いている会社の社長が誰がいいかなら、やっぱ家康かなぁ。
直接の上司なら秀吉の方がいいかも。
0802部下なら石田三成か?2006/08/16(水) 05:07:02ID:uHdNHuOk
89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 05:02:04 ID:uHdNHuOk
家康が本多正信に語る。
「豊臣家子飼の大名達、ああも無節操に裏切れるものか。喜ぶ反面、心が、冷えたわ・・・せめて三成のような家臣がいて、太閤殿も初めてうかばれたであろう・・・これからは我が徳川家、三成のような家臣に恵まれれば良いが。義、忠義の家臣にのう」
後世、徳川幕府は、朱子学を取りいれ、武家の倫理を厳しく見るようになる。



90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 05:04:04 ID:uHdNHuOk
徳川幕府が朱子学を取り入れたのは、石田三成の義のおかげといっても
決して過言ではない。
0803名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/16(水) 05:21:55ID:uHdNHuOk
関ヶ原合戦後、石田三成に対して、忠義の男、我が陣営にも三成のような男が欲しいってきっぱり言った
家康は男前だと思う。
だがそれを言われた三成も立派だった。
0804名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/16(水) 13:21:26ID:hKbfrRyy
コピペしすぎで少々萎えた
0805名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/16(水) 17:31:41ID:uHdNHuOk
>>804

じゃあフェラしてやろうか??
0806名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/16(水) 20:04:53ID:sQWhB/SR
いかで死んだから
0807名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/20(日) 23:15:15ID:C/9wh//x
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]


【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0808名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 09:37:10ID:Sj3wx0YM
だって家康は小牧長久手で秀吉相手に良い勝負したけど
結局後はでかい戦と言っても格下相手に勝っただけだし
面白みがない
0809名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 10:08:50ID:NeQ/zp7g
>>803
そういうのを「男前」と言うのか?
0810名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 12:49:29ID:FGnucJ1l
大阪冬の陣で豊富に戦仕掛けたやり方がえげつない
大阪城の堀埋めた詭弁も狸爺そのまんま
0811名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 14:29:42ID:R9ZWc4fR
裏切り者が続出する中、天目山まで勝頼に付き従った土屋も武士の鑑ですよ。
0812名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/22(火) 02:10:12ID:hvLhB9kR
甲子園の再試合は関ヶ原を思い出させてくれた
ありがとう斎藤田中石田徳川!
0813名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/22(火) 10:16:01ID:mODQCBXE
金で関西から北海道に移った能無し純粋な道産子は皆無
0814名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/22(火) 10:22:09ID:OgWnvW3C
>>810 禿同
大阪人からみていいイメージはないけど
浜松や関東の人から見るとヒーローかも
0815名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/22(火) 14:50:38ID:Y0rVzfpB
>>810

つーかあれは、家康に大阪城をあなただったらどうやったら攻略する?
って言われて当時調子こいてた秀吉が言った事まんま実行してるだけだろ?w

0816名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 17:08:28ID:t3Cu5Mmn
大坂攻めは、所詮女子供(淀、秀頼)を、百戦錬磨の戦国武将家康が
全身全霊をかけて、謀略と武力で叩き潰したという印象が強いからな。
国松くらいは助命してもよかったのでは?
0817名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 17:25:02ID:6I2GH4dR
>>816
武門の男子は殺さないと禍根を残す。下手するとさらなる乱の核になるからな。
0818名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 18:45:22ID:Ot7o2jwv
大阪城攻め加藤清正の死を待って動いたような
せめて福島には入城してほしかったもんだ
0819名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 23:53:23ID:9GhozNPr
秀吉は頭いいが


秀吉厨はというと












猪武者タイプ
正則とか
0820名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/24(木) 00:53:00ID:tLuQH4M0
妙に利にかなってるな
0821名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/26(土) 12:50:08ID:ZlCdLokT
>818
>福島には入城してほしかったもんだ

念をいれて江戸で軟禁されてたw。人質ですな。
0822名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/27(日) 16:30:57ID:EkUgPgrJ
福島は部下の部将と米を大阪城に送るのが精一杯
狸爺とは格が違いすぎたな先が読めたらさっさと入城し歴史を飾ったろうに
0823名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/27(日) 17:54:39ID:jOX/gIfp
家も残せず、恥を残した福島は最悪のケースだね
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています