李如松(りじょしょう)

明代の武将。朝鮮援兵で明軍を率いて、日本軍と戦った。
遼東鉄嶺衛の出身で、字は子茂、諡は忠烈。遼東安定に多大な功のあった
李成梁の子で、万暦20年(1592年)のボバイの乱の鎮圧で認められ、その
直後に始まった朝鮮援兵で、防海禦倭総兵官として、朝鮮への援軍を率いた。
朝鮮に入ると、平壌に拠る小西行長の軍勢を追い散らして同地を回復したが、
更に漢城へ進撃する途上での碧蹄館の戦いでは小早川隆景らの軍勢に敗北を
喫し、平壌に撤退し、和議による事態収拾を図って帰国した。
万暦25年(1597年)に遼東総兵官とされて、太子太保を加えられたが、翌年4
月に土蛮鎮圧中に伏兵に遭って敗死した。

碧蹄館の戦い

文禄2年(1593年)1月26日に朝鮮半島の碧蹄館(現在の高陽市碧蹄洞一帯)周辺で
、宇喜多秀家、小早川隆景、立花宗茂らが率いる日本勢が、数で優る李如松率
いる明軍を迎撃し、打ち破った戦い。
明の軍勢による平壌陥落、大友吉統の逃亡などによって一時混乱状態にあった
日本勢だが、奉行となった石田三成は、朝鮮半島北部各地に展開していた小早
川隆景ら諸将を漢城(現在のソウル)に集め、戦力を立て直し碧蹄館の戦いに
のぞんだ。
明軍は左・右・中央の三隊の陣形で進軍したが、小早川隆景軍の偽りの退却に
つられ追撃したところを伏兵によって叩かれ、大混乱となった。立花勢の突擊
により、一時は総指揮官の李如松の命すら危ない状況であったが、部下の李有昇
が身代わりとなってこれを助け、李如柏らがなんとか救い出した。
この戦いの敗北によって明軍の勢いはそがれ、以降戦線は膠着状態となった。
この後、石田三成、小西行長らは明との講和交渉をはじめる事となる。

【活躍度】
李如松>>>>>>楊鎬>>>>>>董一元>>>>李舜臣


●実際に戦っていたのは明軍ばかりで朝鮮軍は明軍の補助ばかりしていた。
たまに戦ってもどうせ負けるので明軍からウザがられていた。