真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/11(日) 22:01:41ID:q8wDMrw00083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/06(木) 14:01:22ID:JJBkLOBN日本史全体の流れ変わりそうだからなぁ。
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/06(木) 14:39:12ID:KojK1AQ9信綱、昌輝ですね、戦死したのは
戦死しなけりゃ、昌幸は武藤家で活躍するのかな
武田がなくなるからなければね
0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/07(金) 09:45:52ID:0AbTjkJq0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/07(金) 23:47:56ID:LASdPvMs信繁を神格化して語られる昨今真田好きの癖に信綱や昌輝や幸隆の弟矢沢頼綱とか知らんやつが多くて困る
0087奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/07/08(土) 00:05:00ID:Qhu0vuuz0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/08(土) 00:40:36ID:xq/lO9hs小松>昌幸>幸隆>矢沢爺>信之>幸村=その他
0089奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/07/08(土) 00:41:38ID:u7iL2gN00090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/08(土) 09:37:38ID:UF4XLjIYお前みたいな親父ばかりと思うなよ
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/08(土) 11:59:43ID:0x4MNXHt全員わかるぜ。信尹とかまで知ってるぜ。
青江の太刀は一度見に行きたい。
信綱は実際、信濃衆の旗頭を務めてたんだよな、確か。一角どころか、信濃衆の中心だったはず。
0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/08(土) 15:51:57ID:2O52L71o0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/08(土) 16:25:46ID:fled7i4V正式にいつ継いだのかはわからんが、信玄が死んだ翌年に幸隆が死んだ。
それから長篠合戦までは間違いなく家督は継いでる。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/09(日) 00:08:00ID:wApbPb6t違ったっけ?
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/09(日) 00:20:01ID:wApbPb6t矢沢の爺がいなければ昌幸は沼田を取れなかっただろうし、
取れていたとしても第一次上田合戦で北条に取り返えされていたと思う。
一族の年長者として、当主である甥の昌幸を良く補佐し、
その子の信幸、信繁兄弟の後見として歴史に名を残す武将に育て上げた手腕は見事だと思う。
自らの子である頼康も、昌幸、信之の右腕として活躍したし。
矢沢の爺あってこその真田三代だと俺は思う。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/09(日) 10:31:18ID:htgcGQV0わずかな時間にも関わらず後世に名を残した珍しい武将のようです。
有名な戦国武将は数知れず多いですが、わずか一時の戦いで天下人
を恐怖させ追い込んだ武将として有名なんですよね。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/09(日) 18:53:04ID:ylM8VGpQ言い方を変えると「一発屋」。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/09(日) 19:10:07ID:8whNAq1h下手に以前から活躍してたら助命嘆願も聞き入れられなかったかもしれんし、
もっと僻地とか、監視の厳しい所で大坂に行けなかったかも知れない。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/10(月) 20:07:02ID:PO1TbmLd0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/10(月) 20:59:59ID:mgt3rDBl0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/10(月) 21:58:18ID:+M2yMVCrでも、勝頼を裏切るってんではなく、あらゆる可能性を想定して色々な策を打ってたんだろうけど。
勝頼を北条や織田へ差出すようなマネはしなかったと思うけどな。
主君を裏切るような不忠を働けば、自分もいずれ嵌められる事くらい、昌幸ならわかってただろうよ。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/10(月) 23:54:42ID:fGb5d0Rz援軍の見込みがない籠城戦は、勝てないっていうように。
勝頼が来る来ない、どちらにしても北条に使いをやることは必要。
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 17:08:01ID:qbmmhAek0104あぼーん
NGNG0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 15:45:54ID:9OYjOJEo0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 16:35:04ID:jYMM8RBV0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 20:59:11ID:djycgZPs北条は潰す
徳川対策かな?
おっとちょっと脱線かな
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/24(月) 11:28:17ID:NSd0pcp4家康が小田原城を欲しがっていたという話もあるが・・・
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/30(日) 00:44:25ID:spDMsuVy0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/31(月) 13:28:50ID:i8I50m4r身従する必要無しと判断したんじゃないか?
島津とかと違って領国化も完成してたし。
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 00:15:04ID:ci8dMgVY堀を埋められ、全国の浪人たちは故郷に帰る中、真田幸村はあきらめなかった。
数少ないながらも精強な手勢で奮闘。伊達政宗の騎馬鉄砲隊を撃退し、松平忠直を撃破。
徳川本陣に突入し、家康を切腹寸前に追い詰める。 日本一の兵・真田幸村が伝説化された戦いであった。
家康本陣の旗印を倒し踏み躙ったのは、武田信玄と真田幸村だけである。
太閤秀吉「100万の人数を思いのままに指揮させてみたい」
将軍家康「100万石の大名に取り立てるから大坂城から出てくれ」
と戦国の雄に言わしめただけのことはあるのだ
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 01:51:03ID:Nlk7aigR釣りか?
0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 02:15:34ID:eM6HCkaL羽柴の名前貰ってたろ?
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 11:05:24ID:CYl+4rJu0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 14:24:23ID:czJkOvce信繁(幸村)も信玄の弟を尊敬してて名をつけたんだよね昌幸が
信玄・謙信に天才と言われた幸隆格好よすぎ
信玄に、我が眼と言われた昌幸も格好よすぎ
真田の旗の六紋銭はあの世の駄賃という意味と
生涯、信玄公の恩顧を忘れぬ為と言う意味もある
真田一族の仇敵であった武田家だが、若き日の信玄の才能を見抜き
真田家の復興をたくし、忠誠を誓い仕えた隆幸は真田家の名を残した中興の祖
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 15:33:46ID:iqJoipnD秀吉の言葉はそっくりそのまま業病持ちに言った言葉でなかったか?
島津の記録は伝聞なもんで誇張もあったりするだろきっと。
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 15:35:27ID:iqJoipnD100万石?信濃一国でなかったかな?
なんか、講釈そのまま信じている人みたいな・・・。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 20:38:37ID:fEmFvtnV確か
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 23:43:30ID:9/PxJaCqおまえが、確かな知識を持っていることは認めよう。
ただ「業病持ち」の表現だけはやめろ。
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 23:59:17ID:dWsyopW9ほんとに言ったのかな?
でももしそれで出ていたらあのどけち家康の事だから
100万はぜったいださない
0121sage
2006/08/03(木) 00:51:55ID:ts1O2u0G家康側からは70か75万石だったと思う
0122121
2006/08/03(木) 00:52:48ID:ts1O2u0Gスマソ
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 01:03:03ID:8cHb9Wgd感じだな。幸隆、信幸の方が器は上だろ。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 02:03:31ID:YBV98SBP0125名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 16:28:10ID:IFvohkTS0126名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 21:14:23ID:8cHb9Wgd直接命令を下せる人数なら実力を発揮するが、それ以上の数になると、
中間の将を動かさないといけないからな。
0127名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 21:36:02ID:IfzXQdFgあーそれ凄い分かるわ。なんかスッキリした
0128名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 21:48:50ID:chc5GL5p適正があるかどうかは別の問題だ。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 21:55:29ID:8cHb9Wgdやるチャンスはあったと思うけど、やらなかったからね。
やれないんだろうなと思うわけだ。
0130名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 21:56:58ID:vmsvIBLwたとえ大阪方の全軍指揮権を与えられても、オロオロして何も出来なかったと思う。
0131名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 22:37:52ID:xqoHisYGそういう連中は徳川につくか関ヶ原で没落しているし。
0132名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 22:40:45ID:3C3kLQPZしかし、かれを総大将とするのには反対する連中が多そうだな。
能力的なことでなくて、身分というか地位というか格というか豊臣政権との
かかわりにおいてというか。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 23:29:57ID:663Z10cL泳 げ よ 宇 喜 多 秀 家
が、大坂の陣の結論なんだな
0134名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/04(金) 01:56:53ID:slMJ3Kyd宇喜多秀家奪還作戦とかどーだ?w
0135名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/04(金) 09:39:38ID:NPBvhkux0136名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/04(金) 10:59:58ID:TzSd8HjO0137名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/04(金) 11:21:26ID:EPr7+mWz信繁はいたが、幸村は存在しない
又、幸村は江戸時代に名付けられた、信繁の異称
ここが面白いね
ttp://www.interq.or.jp/tokyo/sf46127/sub03/sub032/sub032.htm
0138名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/05(土) 06:32:36ID:QG20fd8C大坂の陣に向け、八丈島から脱出した宇喜多秀家の生涯を描く。
第1巻 弧島:八丈島での流人の生活を描く。プライドと困窮と。
第2巻 風雲:秀家の下に、大坂の陣の報告が届く。秀家の決意は。
第3巻 黒潮:秀家に容赦なく襲い掛かる黒潮の流れ。立ち向かう秀家。
第5巻 泳法:黒潮に対抗するため、秀家が編み出した新泳法とは?
第6巻 西方:新泳法の元に、一路大坂を目指し東へと進む秀家。
第7巻 補陀洛渡海:秀家が到達した運命の海は…
0139名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/05(土) 07:52:36ID:0fdVtEpL・゚・(ノД`)ウワーン
0140名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/05(土) 08:00:27ID:nc1Y8Wi1@1582年 勝頼を岩櫃に迎え織田の大軍と戦う
A1600年 石田三成らとともに関が原で戦う
A1614年 大阪城に息子とともに入城し、家康を大いに苦しめる
即興でいいから誰か書いて。
0141名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/05(土) 13:36:32ID:7p0abD3M真田の勇名で口吻したい奴は、いますぐ買え!””””
0142名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/05(土) 22:29:22ID:0CNP/5swさっそく買った、今夜眠れないよ。
0143名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/16(水) 18:23:51ID:YhaElTH+↑幸村並に神格化されている落武者って他にいるの?ぶっちゃけたいしたことないだろw
0144名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/16(水) 18:28:02ID:fXzMgJlI0145名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/16(水) 18:28:20ID:SLsJpJQC0146名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/17(木) 03:35:20ID:+LJu6eXu家康が目標達成目前に死んだ悲劇のヒーロー扱いになってるのと
秀忠の自由がきくようになるので改易される大名が増えたかも
0147名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 23:16:25ID:C/9wh//x謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0148名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 21:52:32ID:OUxzHuzu0149名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 23:51:09ID:n1C3B57z0150名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 22:20:04ID:KrmA+N6s0151名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/23(水) 23:29:09ID:xnElqMpW他の普通の国の国主より官位が低いんだよ
0152名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/27(日) 00:27:20ID:RpwFFEorそういう身分・立場・地位を築いて、危機を乗り越え
維持した能力が評価されてると思うのだが。
0153名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/30(水) 12:01:49ID:tFnnQq9w0154名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 04:05:22ID:QFAdphVh0155名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 11:23:47ID:E9jlXtup0156名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/31(木) 11:24:58ID:E9jlXtup×勘兵衛
○官兵衛
0157名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 14:26:33ID:8lSj6CRe大阪城内・軍議にて
昌幸「城を出て戦うべきです」
一同「昌幸殿がそう言うなら異論はありません」
オワリ
0158無名武将@お腹せっぷく
2006/09/02(土) 14:51:39ID:Wie1rmq/昌幸「城を出て戦うべきです」
淀君「秀頼公は誰が守るのじゃ?戦線が伸びきっておる上に少なき守備兵の中で関東方に攻め込まれたら何とする!
その上大坂城は太閤殿下が築きし(ry」
0159名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 15:26:05ID:1lG/llCo部隊長としては十分過ぎるくらい有能なのはわかるが。
ゲームだと政治力も高いけど、外交的な駆け引きは
政治なんだろうか?いや政治は政治だけど。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 15:26:56ID:8lSj6CRe昌幸の発言力と幸村の発言力の違いだろうね。
昌幸なんて、その武勇は天下に轟いていたわけだから、
まあ当時の無名の幸村のように意見を一蹴されるなんてことは
なかったと思うよ。まあ、タラレバだが。
0161名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 15:56:09ID:pWnyL/S60162名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 16:24:59ID:1lG/llCo比較しようがなくね?
あえて実績で比較するなら攻め手に優れた幸隆だろうけど。
0163六紋銭
2006/09/02(土) 18:09:14ID:L7jzVNNu0164べんまる
2006/09/02(土) 23:12:57ID:Op/ZnR/eさすがNHKですばらしかった。
0165名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 12:38:52ID:p9kjhgOYんだが、大阪の陣の幸村は、20万の軍に対して家康の目前までいってる。
急造の兵でなくて、越後兵クラスの洗練があれば家康を討ち取れていたのだろうか?
謙信いわく、手・足の如く動かせる兵はせいぜい7・8千くらいのもんだということ
なんだろうけど。幸村の鬼神の突撃で、この言葉にも信憑性があるんではと思ってしまう。
0166名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 13:49:13ID:F30sHLdN0167名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 21:02:25ID:VpQc6qhz0168名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 21:04:06ID:P2sPYIRT籠城は兵力で劣りながらも援軍が来るのを耐え、援軍が来たら挟撃に持ち込む戦術
更に当時の情勢を見ると、援軍に当たる勢力が無いのと、豊臣の勝利条件が、
家康を倒して権威が消えたときに、家康の権威で集まった兵力と同等の兵力(豊臣方)の存在に対し
外様勢が秀忠に絶対の忠義を尽くして消耗戦を繰り広げるよりも、一端終結して群雄割拠の再スタートに落ち着かせるものと思われる
昌幸が大阪に入城していたなら、全面的な野戦に持ち込むよりも
大阪+昌幸の難攻不落の威光を持って、戦わずして家康との和睦になった可能性もある
開戦しても、大砲を撃ち込まれたくらいでは、淀を叱責し降伏は起こらず
籠城しながら隙を突いての不意打ちが、幸村よりも上手く運んだと思う
和睦による不穏分子がのさばりながらも徳川の治世か
家康討ち死による数十年太平の世が遅れたか
どちらにしても冬の陣で結果が出て、夏の陣は起こらない
0169名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 22:45:10ID:D9mgmQCyどうせ福島正則みたく取り潰されてるだろうから
0170名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 00:58:06ID:C1DLuO0U0171名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 01:46:09ID:ljyRLyI5昌幸は軍団を率いた実績こそないが、たぶんまあ名将だろうけど
さすがに一人の人間に左右出来るような時点ではないとも思う。
時流が出来上がってたよ完全に。
0172名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 11:17:29ID:Zio+U1h0総大将・大将・軍師と分けて
昌幸は総大将や大将としては評価できるとは思えないけど、
総大将の元に立つ軍師としては十分評価できる
信玄(勝頼に非ず)の武将だった事、上田を護った実績で発言力と信頼も他の武将より抜きでてる
総大将は秀頼(秀吉の威光)、大将として幸村や又兵衛、行長等で軍団構成が十分
豊臣の復権は無理だけど、豊臣の存続は起こりえたと思う
0173名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 13:13:22ID:m1385xbP0174名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/06(水) 09:09:27ID:GXAf8SFP0175名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 14:44:26ID:91Q6ejE/真田昌幸の強さは遊撃軍を率いてのゲリラ戦法的な部将として
しか評価できんと思うのだが。大軍の統率に対する助言なんて
出来ないでしょ、元が地方の豪族なんだから。
あと、「信玄の部将だった」は評価にならない。「信玄公の旗下、
赫々の武功あり、感状○枚頂戴いたし候」とかなら別だが。
信玄最強説は江戸時代に徳川の軍学者が
「神君を打ち破った信玄最強じゃね?」
「オマエ頭いいな」
って流れで作ったもので、当時の信玄像は地方の有力大名の中で
強い方、ぐらいのものだったかと。
0176名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 16:30:51ID:xYQSFyniゲリラ隊長と軍司令官に必要な資質は必ずしも一緒ではない。
人の将たる者と、将の将たる者の違いではなかろうか。
0177名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 14:14:19ID:0wDa9DoCなかなかいい例えですね
0178名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 14:13:50ID:RevW2U+2昼日中から寝言ですか?wwwww
0179名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/10(日) 14:29:44ID:PITr+iiF地方豪族ってのは説得力に足らないぞ
松平家は豪族以下だったし、秀吉は農民、半兵衛・官兵衛なんか元農民に仕える程度の身分
逆に憲正は関東管領のくせにろくでもない
実際に生きていて大阪に入城したとしても、秀頼が受け入れた待遇で決まるわな
0180名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 00:08:36ID:YYeaEbFgそれもどうかと思うけど。家康の場合徐々に自力を広げていった結果
大軍統御できるようになった履歴を持つし。秀吉は天才としか言いよう
がないけどそれでもステップアップタイプ。二大軍師はその功績自体
やや誇張の気があるので触れないが。
「昌幸にかかれば〜」とか言ってる奴は昨日まで千から二千の兵を
率いてた奴が十万単位の軍略をまっとうできると本気で考えてるの
かと問い詰めたい。
要するに経験の裏づけのない「実力」なんて妄想以下に過ぎん。
0181名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 02:07:27ID:J/temAGM別に昌幸が総大将になる必要はないんだよ。
軍師として発言権が高く
実戦部隊を戦術に長けた人間があと一人でも大阪方にいれば
かなり助かったと思うが。
大軍を相手に篭城するのには慣れきってる男だし
参謀にしたら経験から非常に重宝しただろう。
0182名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 02:08:27ID:J/temAGM○実戦部隊を率いる戦術に
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