>>157
籠城は兵力で劣りながらも援軍が来るのを耐え、援軍が来たら挟撃に持ち込む戦術
更に当時の情勢を見ると、援軍に当たる勢力が無いのと、豊臣の勝利条件が、
家康を倒して権威が消えたときに、家康の権威で集まった兵力と同等の兵力(豊臣方)の存在に対し
外様勢が秀忠に絶対の忠義を尽くして消耗戦を繰り広げるよりも、一端終結して群雄割拠の再スタートに落ち着かせるものと思われる

昌幸が大阪に入城していたなら、全面的な野戦に持ち込むよりも
大阪+昌幸の難攻不落の威光を持って、戦わずして家康との和睦になった可能性もある
開戦しても、大砲を撃ち込まれたくらいでは、淀を叱責し降伏は起こらず
籠城しながら隙を突いての不意打ちが、幸村よりも上手く運んだと思う

和睦による不穏分子がのさばりながらも徳川の治世か
家康討ち死による数十年太平の世が遅れたか
どちらにしても冬の陣で結果が出て、夏の陣は起こらない