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真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/06/11(日) 22:01:41ID:q8wDMrw0
願わくばSage進行でひっそりと語るべし

0134名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 01:56:53ID:slMJ3Kyd
>>133
宇喜多秀家奪還作戦とかどーだ?w
0135名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 09:39:38ID:NPBvhkux
それなんて新真田軍記?
0136名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 10:59:58ID:TzSd8HjO
真田信繁と真田幸村って同一人物ですか
0137名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/04(金) 11:21:26ID:EPr7+mWz
>>136
信繁はいたが、幸村は存在しない
又、幸村は江戸時代に名付けられた、信繁の異称

ここが面白いね
ttp://www.interq.or.jp/tokyo/sf46127/sub03/sub032/sub032.htm
0138名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/05(土) 06:32:36ID:QG20fd8C
司馬遼太郎、幻の長編歴史小説「泳ぐが如く」。
大坂の陣に向け、八丈島から脱出した宇喜多秀家の生涯を描く。
 第1巻 弧島:八丈島での流人の生活を描く。プライドと困窮と。
 第2巻 風雲:秀家の下に、大坂の陣の報告が届く。秀家の決意は。
 第3巻 黒潮:秀家に容赦なく襲い掛かる黒潮の流れ。立ち向かう秀家。
 第5巻 泳法:黒潮に対抗するため、秀家が編み出した新泳法とは?
 第6巻 西方:新泳法の元に、一路大坂を目指し東へと進む秀家。
 第7巻 補陀洛渡海:秀家が到達した運命の海は…

0139名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/05(土) 07:52:36ID:0fdVtEpL
>補陀洛渡海
・゚・(ノД`)ウワーン
0140名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/05(土) 08:00:27ID:nc1Y8Wi1
真田昌幸の架空名シーン

@1582年 勝頼を岩櫃に迎え織田の大軍と戦う
A1600年 石田三成らとともに関が原で戦う
A1614年 大阪城に息子とともに入城し、家康を大いに苦しめる

即興でいいから誰か書いて。
0141名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/05(土) 13:36:32ID:7p0abD3M
今月の歴史街道。 昌幸と幸村。

真田の勇名で口吻したい奴は、いますぐ買え!””””
0142名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/05(土) 22:29:22ID:0CNP/5sw
>>141
さっそく買った、今夜眠れないよ。
0143名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/16(水) 18:23:51ID:YhaElTH+
http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f49092853

↑幸村並に神格化されている落武者って他にいるの?ぶっちゃけたいしたことないだろw
0144名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/16(水) 18:28:02ID:fXzMgJlI
↑出品者m9(^Д^)プギャー
0145名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/16(水) 18:28:20ID:SLsJpJQC
大阪夏の陣で家康が討ち取られていたらどうする?
0146名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/17(木) 03:35:20ID:+LJu6eXu
大勢に変化はないけど、
家康が目標達成目前に死んだ悲劇のヒーロー扱いになってるのと
秀忠の自由がきくようになるので改易される大名が増えたかも
0147名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/20(日) 23:16:25ID:C/9wh//x
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]


【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0148名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/22(火) 21:52:32ID:OUxzHuzu
真田昌幸が生きていて大阪入城していたらどうなったか見てみたい
0149名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/22(火) 23:51:09ID:n1C3B57z
>>148どうせ意見聞き入れてもらえないかと・・・幸村よりマシかもしれないけど
0150名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 22:20:04ID:KrmA+N6s
昌幸は能力でなく身分・立場・地位の点で過大評価されてるよな。
0151名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/23(水) 23:29:09ID:xnElqMpW
「阿波守」とか「伊豆守」っていう小国の国主の官職は
他の普通の国の国主より官位が低いんだよ
0152名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/27(日) 00:27:20ID:RpwFFEor
>>150
そういう身分・立場・地位を築いて、危機を乗り越え
維持した能力が評価されてると思うのだが。
0153名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/30(水) 12:01:49ID:tFnnQq9w
主家が滅亡し、家康にも攻められてるのに、旧領維持したからね
0154名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/31(木) 04:05:22ID:QFAdphVh
昌幸と黒田如水が囲碁とポーカーやったらどっちが勝つやら
0155名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/31(木) 11:23:47ID:E9jlXtup
囲碁はともかく、勘兵衛はポーカーフェイス苦手そう。
0156名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/31(木) 11:24:58ID:E9jlXtup
おっと
×勘兵衛
○官兵衛
0157名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/02(土) 14:26:33ID:8lSj6CRe
>>148
大阪城内・軍議にて
昌幸「城を出て戦うべきです」
一同「昌幸殿がそう言うなら異論はありません」

オワリ
0158無名武将@お腹せっぷく2006/09/02(土) 14:51:39ID:Wie1rmq/
>>157
昌幸「城を出て戦うべきです」
淀君「秀頼公は誰が守るのじゃ?戦線が伸びきっておる上に少なき守備兵の中で関東方に攻め込まれたら何とする!
その上大坂城は太閤殿下が築きし(ry」
0159名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/02(土) 15:26:05ID:1lG/llCo
昌幸も軍団長レベルでの活躍を見てみたかったな。
部隊長としては十分過ぎるくらい有能なのはわかるが。
ゲームだと政治力も高いけど、外交的な駆け引きは
政治なんだろうか?いや政治は政治だけど。
0160名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/02(土) 15:26:56ID:8lSj6CRe
>>158
昌幸の発言力と幸村の発言力の違いだろうね。
昌幸なんて、その武勇は天下に轟いていたわけだから、
まあ当時の無名の幸村のように意見を一蹴されるなんてことは
なかったと思うよ。まあ、タラレバだが。
0161名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/02(土) 15:56:09ID:pWnyL/S6
総合的に信繁より昌幸が優秀なのはわかるんだけど、昌幸は幸隆よりも優秀なの!?もちろん総合的にみて
0162名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/02(土) 16:24:59ID:1lG/llCo
2人とも与えられた状況下で最高の結果を残してるから
比較しようがなくね?
あえて実績で比較するなら攻め手に優れた幸隆だろうけど。
0163六紋銭2006/09/02(土) 18:09:14ID:L7jzVNNu
NHKで放送した真田太平記は!よかったなぁ
0164べんまる2006/09/02(土) 23:12:57ID:Op/ZnR/e
DVDが発売されているが、約3万×2集でとても買えない。最初のタイトル映像が
さすがNHKですばらしかった。
0165名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/03(日) 12:38:52ID:p9kjhgOY
謙信がワシに8000の軍勢を与えれば、この世のどんな軍でも打ち破ると言ってる
んだが、大阪の陣の幸村は、20万の軍に対して家康の目前までいってる。
急造の兵でなくて、越後兵クラスの洗練があれば家康を討ち取れていたのだろうか?
謙信いわく、手・足の如く動かせる兵はせいぜい7・8千くらいのもんだということ
なんだろうけど。幸村の鬼神の突撃で、この言葉にも信憑性があるんではと思ってしまう。
0166名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/03(日) 13:49:13ID:F30sHLdN
まあその前に毛利勝永あっての真田の活躍ですがね。
0167名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/03(日) 21:02:25ID:VpQc6qhz
信幸と幸村はどっちが器量上なんだろう?
0168名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/03(日) 21:04:06ID:P2sPYIRT
>>157
籠城は兵力で劣りながらも援軍が来るのを耐え、援軍が来たら挟撃に持ち込む戦術
更に当時の情勢を見ると、援軍に当たる勢力が無いのと、豊臣の勝利条件が、
家康を倒して権威が消えたときに、家康の権威で集まった兵力と同等の兵力(豊臣方)の存在に対し
外様勢が秀忠に絶対の忠義を尽くして消耗戦を繰り広げるよりも、一端終結して群雄割拠の再スタートに落ち着かせるものと思われる

昌幸が大阪に入城していたなら、全面的な野戦に持ち込むよりも
大阪+昌幸の難攻不落の威光を持って、戦わずして家康との和睦になった可能性もある
開戦しても、大砲を撃ち込まれたくらいでは、淀を叱責し降伏は起こらず
籠城しながら隙を突いての不意打ちが、幸村よりも上手く運んだと思う

和睦による不穏分子がのさばりながらも徳川の治世か
家康討ち死による数十年太平の世が遅れたか
どちらにしても冬の陣で結果が出て、夏の陣は起こらない
0169名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/03(日) 22:45:10ID:D9mgmQCy
幸村は家康の誘いにならなくて正解
どうせ福島正則みたく取り潰されてるだろうから
0170名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/04(月) 00:58:06ID:C1DLuO0U
というか兄がしっかり真田の家を継いでいる以上、誘いに乗る必要性がないんだが・・・・
0171名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/04(月) 01:46:09ID:ljyRLyI5
>>168
昌幸は軍団を率いた実績こそないが、たぶんまあ名将だろうけど
さすがに一人の人間に左右出来るような時点ではないとも思う。
時流が出来上がってたよ完全に。
0172名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/04(月) 11:17:29ID:Zio+U1h0
>>171
総大将・大将・軍師と分けて
昌幸は総大将や大将としては評価できるとは思えないけど、
総大将の元に立つ軍師としては十分評価できる
信玄(勝頼に非ず)の武将だった事、上田を護った実績で発言力と信頼も他の武将より抜きでてる
総大将は秀頼(秀吉の威光)、大将として幸村や又兵衛、行長等で軍団構成が十分

豊臣の復権は無理だけど、豊臣の存続は起こりえたと思う
0173名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/04(月) 13:13:22ID:m1385xbP
行長って・・・・天より小西行長降臨?
0174名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/06(水) 09:09:27ID:GXAf8SFP
これは 「泳げ 宇喜多秀家」 に並ぶ名作の悪寒ですね
0175名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/08(金) 14:44:26ID:91Q6ejE/
>>172
真田昌幸の強さは遊撃軍を率いてのゲリラ戦法的な部将として
しか評価できんと思うのだが。大軍の統率に対する助言なんて
出来ないでしょ、元が地方の豪族なんだから。

あと、「信玄の部将だった」は評価にならない。「信玄公の旗下、
赫々の武功あり、感状○枚頂戴いたし候」とかなら別だが。

信玄最強説は江戸時代に徳川の軍学者が
「神君を打ち破った信玄最強じゃね?」
「オマエ頭いいな」
って流れで作ったもので、当時の信玄像は地方の有力大名の中で
強い方、ぐらいのものだったかと。
0176名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/08(金) 16:30:51ID:xYQSFyni
真田信繁と徳川家康の違いは、楠木正成と足利尊氏の違いと似たようなものだ。
ゲリラ隊長と軍司令官に必要な資質は必ずしも一緒ではない。
人の将たる者と、将の将たる者の違いではなかろうか。
0177名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/09(土) 14:14:19ID:0wDa9DoC
>楠木正成と足利尊氏の違い

なかなかいい例えですね
0178名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/10(日) 14:13:50ID:RevW2U+2
>>176
昼日中から寝言ですか?wwwww
0179名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/10(日) 14:29:44ID:PITr+iiF
>>175
地方豪族ってのは説得力に足らないぞ
松平家は豪族以下だったし、秀吉は農民、半兵衛・官兵衛なんか元農民に仕える程度の身分
逆に憲正は関東管領のくせにろくでもない

実際に生きていて大阪に入城したとしても、秀頼が受け入れた待遇で決まるわな
0180名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/11(月) 00:08:36ID:YYeaEbFg
>>179
それもどうかと思うけど。家康の場合徐々に自力を広げていった結果
大軍統御できるようになった履歴を持つし。秀吉は天才としか言いよう
がないけどそれでもステップアップタイプ。二大軍師はその功績自体
やや誇張の気があるので触れないが。

「昌幸にかかれば〜」とか言ってる奴は昨日まで千から二千の兵を
率いてた奴が十万単位の軍略をまっとうできると本気で考えてるの
かと問い詰めたい。

要するに経験の裏づけのない「実力」なんて妄想以下に過ぎん。
0181名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/12(火) 02:07:27ID:J/temAGM
>>180
別に昌幸が総大将になる必要はないんだよ。
軍師として発言権が高く
実戦部隊を戦術に長けた人間があと一人でも大阪方にいれば
かなり助かったと思うが。
大軍を相手に篭城するのには慣れきってる男だし
参謀にしたら経験から非常に重宝しただろう。
0182名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/12(火) 02:08:27ID:J/temAGM
×実戦部隊を戦術に
○実戦部隊を率いる戦術に
0183名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/12(火) 04:10:17ID:Jx3K973K
冬の陣での大阪方に足りなかったもの

淀への恫喝役
0184名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/12(火) 05:50:47ID:VEZEZdOv
>>181
安房守さん、まず淀の方と大野治長あたりを消してしまいそう (ノ∀`)
0185名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/12(火) 10:02:51ID:IyB1euSU
>>181
あのな、「自分の子飼いと篭城して大軍を撃退」と「自分の同僚と
篭城して大軍を撃退」だと状況が違う。

後者だと政治的な駆け引きが必要になってくるし、部署配置なんか
もあんだけの規模なら相当大変。なんでそんなに昌幸が政治・軍事
にたけ、かつ小規模から大規模までの軍略をマスターしている、
なんて考えられんの? 

謙信でさえ10万規模の軍を統率しそこなって空中瓦解してんだよ?
0186名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/12(火) 17:40:07ID:PyA5EzUW
謙信は献身的じゃないからな
0187名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/12(火) 21:13:27ID:kT1ia8mn
どの道大坂の陣で大坂側が勝つことなんて不可能
真田信繁あたりが奇跡のような善戦をしても家康を討ち取れなかったわけだし
昌幸が入ったからって勝てないもんは勝てない
基本的に篭城で後詰が無いようではいづれ陥落する
0188名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/21(木) 04:58:47ID:PSrIuytp
昌幸が幸隆程度にはやれたと考えても大阪落城を防ぐのは無理。
せいぜい積極策で徳川方の損害増やす程度。幸村とあんま変わらんよ。
将棋でいったら完全に詰みなんだからどうしようもない。
あの場に信長と信玄と秀吉と謙信がいても無理ぽ
0189名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/22(金) 08:53:05ID:bgzUFfFA
>>188
冬は全力での力責めが出来なかった状態に、
家康が昌幸を震えるほど恐れてたってのが影響すると
落城までもっと長期戦にはもつれ込む

家康以外が総大将なら昌幸効果は無いけど
0190名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/23(土) 22:56:47ID:Vms8vhRO
家康などという耄碌老人を討ち取ってもしょうがない。
秀忠を戦で討ち取ってこその大坂陣。
0191名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/24(日) 02:06:53ID:3KDfsTI7
秀忠では外様を押さえられないから
日本の半分くらいは徳川から離反
0192名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 20:55:01ID:wzyHPzO3
残念・・・
0193六紋銭2006/09/25(月) 20:59:25ID:wzyHPzO3
昌幸〓丹波哲郎・・合掌
0194奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/09/25(月) 21:25:36ID:HT5grWS4
去年の痩せ方は異常だったもんな。
昌幸はあの印象が強すぎる。合掌。
0195名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 21:39:25ID:W26Rjshm
>>188
秀吉いればほとんど寝返るだろ
0196名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/25(月) 21:40:02ID:X3Lj32Ix
>>193
(つД`)
0197名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 00:35:59ID:F6PJad1K
昌幸さんとこの三男と四男は大阪の陣どっちについたの?
0198名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 04:51:40ID:Mg5zf4+s
>>193
丹波昌幸様の御冥福を心からお祈り致します。

・゚・(ノД<)・゚・。        

本当に泣けてきた
0199名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/26(火) 11:20:49ID:gCHSq50P
真田丹波守昌幸合掌…。
迫力・風格よかったなあ。
あと、スレ違いだが、二百三高地の
児玉源太郎役もはまってたなあ。
0200名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/28(木) 22:00:47ID:EheWjw2Y
>>188
それはない
0201奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/09/28(木) 22:14:28ID:8vZOawV6
加藤嘉と丹波哲郎が叔父甥。

老優が好きな人にはたまらんわな。
0202名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/29(金) 21:25:44ID:f5F7rVkU
幸村と信玄は会った事があるのかな?
あったとしても幸村は覚えてないだろうけど。
0203名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/29(金) 21:38:24ID:W2MFoydh
信玄が没したとき幸村は6歳だから年齢的に微妙。
それに父が側近とはいえ、外様の三男の次男坊に目通りを許すかな。
0204昌幸2006/09/29(金) 22:29:48ID:Kg9Lmqig
さらば・・・丹波ありがとう!
0205名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/29(金) 23:32:15ID:5pY7EGux
大阪夏の陣で、幸村は家康の首を討ち取った(ちなみに、その後の1年間は家康は影武者)
というのは本当????
0206名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/30(土) 02:00:43ID:rG7a2+Ix
>>188は能力の問題だろ。
信長や秀吉があの場にいたら大阪の陣なんて起きもせん
0207名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/30(土) 03:59:32ID:xFdJZrZI
>>205
その後の一年「徳川家康が存在してる歴史」に対する知識が
がないなら何を言っても納得しないでしょう?

勉強して出直してらっしゃい。
0208名無しさん@お腹いっぱい。2006/09/30(土) 13:03:59ID:zmDLl28q
>>207

ネタにマジレス、カコワルイ!!!!
0209名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 02:48:20ID:bzaFK80Y
>>203
重臣扱いなのは信綱だから
0210名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 05:23:33ID:0fYQ4nle
>>209
209じゃないけど、側近って書いてあるやん。
信綱は、重臣として信濃衆率いてたから、側仕えは昌幸であってない?
昌輝も百足衆かなんかで、近侍してたんだっけか。
0211名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 05:27:24ID:bzaFK80Y
父が側近と書いてたから、信綱もと言いたかっただけです

失礼
0212名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/01(日) 22:28:40ID:St8HSWGn
昌幸は小姓だね
弾正が居なかったら、ケツを掘られる役
0213名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/02(月) 03:07:11ID:qeQQjdzN
>>212
武藤喜兵衛
0214名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/02(月) 23:54:56ID:9DafGTaS
>>212

 なことはない。なぜなら昌幸が男役だから。
0215名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/10(火) 22:52:53ID:KbjV/7Eh
幸村は1570年生まれ説がある
理由は上杉に人質に出されるとき、元服前で
19歳で元服してないのはおかしいだろうということらしい
まだ弁丸を名乗ってたことを証明する書状があるそうな
0216名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 05:25:24ID:+d5xpkkf
お気に入りのお小姓は二十歳越えても元服させなかったりするらしいぞ
0217名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 05:40:18ID:INzbOg7T
うほっ
0218名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 09:02:48ID:OrUYGTiA
【家康を討ち取った男】本名「信繁」。後に真田十勇士と言われた者達を使い、大坂の陣前から徳川方を苦しめ、いよいよ冬の陣が始まると、彼らと共に大活躍をする。
夏の陣では、何と家康の首を討ち取り(それから一年間の家康は影武者である)、秀頼らと共に落城する大坂城から脱出し(夏の陣で死んだのは彼らの影武者である)、
薩摩に逃げ落ち島津家に匿われた
0219名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 14:10:03ID:Jl2KMeA4
昌幸が入城してたら、淀殿謀殺しそ
0220名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 19:21:09ID:TLT0gcBs
家康の首はともかくとして
真田の鉄砲隊が家康を撃ち殺したのは本当だ
0221名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 19:31:43ID:/3tnLlk6
信じるに足る証拠は?
0222名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/11(水) 19:43:44ID:jEP5KylN
>>220
本当に?
つまり大阪以降の家康=真田信繁なのでしょうか?
また、それが確認できる資料はどこでしょうか?
誰か教えて〜><;
0223名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/15(日) 10:54:11ID:dohADw7q
>>220
ぽかーん
0224名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/16(月) 01:27:35ID:rNUXXcUS?2BP(575)
堺市の南宗寺に家康の墓があるね
http://www.motoharusumi.com/pilgrimage/izumi_saikoku/kyakuban_nanshuji.html
0225名無しさん@お腹いっぱい。2006/10/21(土) 12:12:09ID:qkvTOcmd
大阪夏の陣以降の家康が
本物だったのか偽者だったのか
今となっては確認できない
0226名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/05(日) 22:27:33ID:AHBTya7G
795831264
猿霧真真穴三三望海
飛隠田田山好好月野
信信 清為
之繁
0227名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/06(月) 00:06:23ID:gIy0lFU9
そういや、昌輝もいたな。 どうして入ってないんだ?
0228名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/12(日) 11:15:06ID:Jj/9RcRr
真田氏は幸隆の代で滋野氏の嫡流となったという説があるけど
詳細分かる人います?
0229名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/12(日) 11:52:49ID:JMXZp9lA
信綱も昌輝も長篠で討死してなかったら昌幸並に活躍してそうだ
0230名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/12(日) 12:27:47ID:mxlxWG5S
実際、信濃衆束ねたり、百足衆に名を連ねたりで、すでに才を発揮してたからな。
0231名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/14(火) 00:27:53ID:L1n51Cmu
関ヶ原合戦のあと、小早川秀秋が佐和山城を攻めて功をあげたが、
上田城の真田親子は攻められても勝てそうな気がする
0232名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/14(火) 01:45:47ID:fj75Stto
城攻めって城側は救援か和義がまとまる以外に勝つ道は無いけどな
0233名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/14(火) 02:27:03ID:TCqlIFzs
実際は武勇ばかりの信繁より、
信之の方が苦労したんだろうなあ。

それでも憎みあってたわけじゃなく,
きちんと兄弟として情もあったようだし。
互いにやるべきことをやったんだろうなあ。

ただ、信之はもっと評価されてもいい存在だろうが。
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