稲作だけでの石高なら圧倒的に会津時代の方が多い。
けど、それ以外の産業も含めると越後時代の方が豊かなんだよ。
景勝の時代は全国の金産出量の6割を佐渡と越後から産出していたわけね。
更に直江津をはじめとした港からの税収に越後縮の売り上げが加算される。
儲かり過ぎて左団扇でウハウハ状態だったわけ。
それが会津に国替えになっちまって海に面する場所は庄内(現山形県)と佐渡だけになっちまって港からの税収が大きくダウンする。
長く長尾上杉家の財政の柱だった越後国内の金山と銀山も手放す事になってしまい、これまた業績面では大きく減益。
足軽等の身分の低い者の生活を支えていた産業であった越後縮もなくなって上杉家全体が表石高以上に苦しい生活を強いられた。
おまけに領地は会津・庄内・佐渡と飛地というハンデまで背負う。
長期展望なら新たな産業を興すなどして業績を立て直せるけど、短期で見るなら明らかに減封。
新たな城下町の整備にも莫大な金がかかる。
秀吉の上杉家の体力を削ぐ目的の移封だった可能性が高い。(家康の移封も同じ目的)