愛知県部落9
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2009/01/02(金) 13:46:17ID:xcC3KLYH00565名無しさん@お腹いっぱい。
2009/02/23(月) 19:11:49ID:RJnAaQlw0皮革産業の現場基地は、百姓村の枝村として点在した。 農村部の皮革業者は、農業を兼業とするケースが多かったが、百姓ではなく、あくまでも皮革産業者であった。
農村部の皮革業者で特筆すべき点は、弊牛馬の取得権であろう。 逆に考えれば、百姓が勝手に牛馬の屍を処理する事が禁じられていたのだ。
行政上、皮革産業が保護されていたと考えるべきである。 因みに、江戸時代、皮屋は儲かる商売だった。 また百姓の監視役でもあった・
明治維新の立役者は、薩摩・長州を中心とした倒幕派と江戸幕府との武士階級の争いごとであったのは
史実のとうりである。
ここで、大政奉還・明治維新で、何とかしなければ封建制度の頂点であった武士階級に民衆の反撃が始まる。それは士農工商という身分制度であり、
このままで行くと、民衆をコントールし、百姓から過酷な年貢取り立ててた武士は、不利な立場となる。
そこで、百姓らを苦行の目にあわせてたのは、エタとの図式が完成する。そして、武士は華族としてまんまと生き残る。
(一説には、庄屋も同罪で、この図式を完成させ、大多数を占める小作人対策をしともいえる)
そして、片方では武士も下野し平等の社会が来たと、自らの身の保身を図ったといえる
農村部の皮革業者は、兼業で農業を営む事を禁じられなかった。
だが、本格的な農業進出は抑制される傾向があった。
行政上、皮革産業者として公認されていたのであり、百姓として公認されていた訳ではなかったから。
穢多は、公役として牢番役、刑吏役といった役人を務めた。
特に関東では、自らを長吏(役人)と呼んだ。
別に自称役人だった訳ではない。公認された役人だった。武士でないから、あくまでも下級役人であるが。
非人は、補助的なものであり、役人として公認される事がなかった。
非人は乞食身分であり、残念ながら身分内賤民であった。つまり帯刀など認められる訳もなかった。
穢多と非人は、刑務関係の公役業務として交わる。ただ格があまりにも違いすぎる。
穢多(下級役人)が、非人(身分内賤民)を公的に労使した、という関係だった。
0566名無しさん@お腹いっぱい。
2009/02/23(月) 19:13:54ID:RJnAaQlw0特に関東では、自らを長吏(役人)と呼んだ。
別に自称役人だった訳ではない。公認された役人だった。武士でないから、あくまでも下級役人であるが。
非人は、補助的なものであり、役人として公認される事がなかった。
非人は乞食身分であり、残念ながら身分内賤民であった。つまり帯刀など認められる訳もなかった。
穢多と非人は、刑務関係の公役業務として交わる。ただ格があまりにも違いすぎる。
穢多(下級役人)が、非人(身分内賤民)を公的に労使した、という関係だった。
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