時に西暦1868年(慶応4年)、「戊辰戦争」という国内を二分する大きな戦争がありました。
会津藩は、二代将軍徳川秀忠の流れをくむ松平家が治めており、徳川側につきましたが戦争に巻き込まれてしまいました。
薩摩、長州藩などの倒幕勢力と会津、長岡藩などの旧幕府勢力との戦いになりました。会津藩の軍隊は、当時交流のあったフランスに習い年齢別に構成され、
中国の故事で「方位の守護神」といわれていた空想上の動物の名前、玄武(北)、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)を隊名につけました。
(この「中国の四神」は奈良の高松塚、キトラ古墳の壁画に描かれていることでも有名です)
玄武隊(50歳以上)青龍隊(36歳から49歳)朱雀隊(18歳から35歳)白虎隊(16,17歳)に大きく分けられ、更に身分によって、士中、寄合、足軽隊に分けられていました。

「白虎隊」は全部で340名ほどおりましたが、この中の「士中二番隊」42名が、慶応4年8月23日(今の暦では10月8日)に猪苗代湖の近くの「戸ノ口原」で戦いましたが敗退し、
うち20名(人数には異説あり)が飯盛山に逃れてきましたが、城下で発生していた戦火に包まれた鶴ヶ城をみて落城したものと思い、惜しくも自刃したのです。
ただひとり、飯沼貞吉氏だけが通りかかった地元の人に救われたため、この話が世に知られることとなりました。
実際には城はおちておらず、籠城戦を約1ヶ月戦いましたが、最終的には会津藩は降伏しました。

全国的には、「白虎隊」は飯盛山で亡くなった少年達がすべてのようにとられているようですが、実は大部分の隊士は戦火をくぐり抜け、明治時代に活躍した方も大勢おられます。
飯盛山で自刃した「士中二番隊」の行動については以前より多くの人により研究がなされていますが、まだまだはっきりしない点が多いのが実状です。
酒井氏の手記のような、なにか新しい文献の発見が待たれています。