>>566

M野氏じゃないけど読んでるひとのために答えとくね。
前に決着ずみなんだけど。

>信後の報謝について述べられた「仏法の為には、身命をも捨て、財宝をも惜しむべからず」を、
確信犯的に信前の者に対して「どんな犠牲を払え」と「求道の心構え」に曲解、 ネジマゲ解釈した

頭○い上に勉強しないで書き込むからでたらめやなあ。
二十願が方便と言われるのは機が定散だからであって法は名号法の真実なんよ。
だから十九願が仮門とよばれるのに対するときは
真門とよばれて、より真実に近いのだよ。
仏恩報謝せよという教えがあるのは当然。
以下化土巻。

光明寺の和尚のいはく、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。
浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。
意専心にして回すると回せざるとにあり。あるいはいはく、今より仏果に至るまで、
長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘
誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でん、
いかんしてか今日宝国に至ることを期せん。まことにこれ娑婆本師の力なり。
もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん。浄土に生ずることを得て
慈恩を報ぜよ」と。