「若不生者」の「生」が「信楽に生まれる」という親鸞聖人の御言葉は?・・・まだのようです。

http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/2008_325_1349_159d.html

「真に知んぬ」と知らされたのは、※1不可思議の願力によってではありませんか。
これを弥陀の本願の現益というのでしょう。
「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、
「※2阿弥陀仏」の誓いではありませんか。

「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。
「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。

「※3阿弥陀仏のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。
信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。

■ここで「正定聚に生まれさせ」を「信楽に生まれる」に表現が変わる。

※1本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、
浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。

(言葉を誤魔化す前歴がありますので注意しましょう)
※1「若不生者不取正覚」の→省略
※2「若不生者」→「阿弥陀仏」
※3「若不生者のちかい」→「阿弥陀仏のちかい」